| 但馬国 | |
|---|---|
■-但馬国 ■-山陰道 | |
| 別称 | 但州(たんしゅう) |
| 所属 | 山陰道 |
| 相当領域 | 兵庫県北部 |
| 諸元 | |
| 国力 | 上国 |
| 距離 | 近国 |
| 郡・郷数 | 8郡59郷 |
| 国内主要施設 | |
| 但馬国府 | 1. 未詳 2. 兵庫県豊岡市 |
| 但馬国分寺 | 兵庫県豊岡市(但馬国分寺跡) |
| 但馬国分尼寺 | 兵庫県豊岡市 |
| 一宮 | 出石神社(兵庫県豊岡市) |
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但馬国(たじまのくに、古文書では「儋馬國」と表記)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
『古事記』には「多遅摩国」と記載される。但馬の歴史的仮名遣いは「たぢま」。
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
当該地域の2010年国勢調査による人口は17万9530人(男8万5568人/女9万3962人)、世帯数は6万1880世帯、面積は2099.01km2、人口密度は85.5人/km2[1]。
のちに但馬国となる地域には以下の2つの国造が置かれていた。
こののち、のちの丹波国・丹後国・但馬国の3国にあたる地域は丹波国造の支配地域である丹波国となった。但馬国は7世紀後半に丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。
| 全ての座標を示した地図 -OSM |
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初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡とする説、気多郡(現在の豊岡市日高町)内とする説があるが、明らかでない。『日本後紀』によると、延暦23年(804年)に気多郡高田郷に国府が移されたという[注釈 2]。豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布)がこれに比定される(北緯35度28分11.02秒東経134度46分14.78秒 / 北緯35.4697278度 東経134.7707722度 /35.4697278; 134.7707722 (但馬国府(後期):祢布ヶ森遺跡))。

※郡名は『延喜式』による。
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但馬は、現代でも兵庫県北部を指す地域名として用いられ、但馬地域とは、具体的には豊岡市・養父市・朝来市・香美町・新温泉町の3市2町で構成される地域を表す意味で用いられるのが一般的である[5][6]。
また、そのうち北部を北但(ほくたん)、南部を南但(なんたん)として二分することがある。(北但を、北但東部〈豊岡市〉、北但西部〈香美町・新温泉町〉と二分して、但馬全体を三分することもある。)北但を兵庫県北部として、南但を播磨北西部・北播磨・丹波地域と合わせて「中部」に分類する考え方もある。
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