伊東 深水 | |
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| 生誕 | 伊東 一(いとう はじめ) 1898年2月4日 東京府東京市深川区(現東京都江東区) |
| 死没 | (1972-05-08)1972年5月8日(74歳没) |
| 国籍 | |
| 著名な実績 | [木版画] |
| 代表作 | 美人画 |
| 受賞 | 日本芸術院賞 1948年 鏡 |
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伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 -1972年(昭和47年)5月8日)は、大正昭和期の浮世絵師・日本画家[1]・版画家。本名伊東
歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特の柔らかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあった。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。
1898年、東京府東京市深川区深川西森下町(現東京都江東区森下一丁目)に伊東半三郎とまさ子の長男として生まれる[1]。父は質屋を経営し、深川佐賀町屈指の素封家であった。1905年、東川国民学校(現在の江東区立東川小学校)に入学。同級生に伊東の友人となった関根正二がいた。

1907年、家が没落したため小学校3年で中退、一家離散し以後は看板屋に奉公し住み込みで働く。1908年、深川猿江町の裏長屋に一家で住み、職工となり深川区深川東大工町(現江東区白河四丁目)の東京印刷株式会社の活字工になる。父は没落しても相変わらず遊んで暮らしたが、母は古着や布を夜店商いを行なって生活を支えた[4]。日本画家の中山秋湖に日本画を習う。1911年、鏑木清方へ入門し深川の水にちなむ「深水」の号を与えられる[5]。この頃から実業補習学校に入学し、昼の勤務後、夜学に通い、夜中に絵を描くという生活が続いた[6]。
1912年(大正元年)、第12回巽画会展に『のどか』が初入選。1913年(大正2年)、巽画会1等褒状。1914年、再興第1回院展に『桟敷の女』が入選、東京印刷を退社する。1915年(大正4年)、第9回文展に『十六の女』が初入選。1916年(大正5年)、版元渡辺庄三郎と出会い、渡辺版画店(現 ㈱渡邊木版美術画舗)から第1作『対鏡』を発表、伝統的技法による新版画運動に参加、以後、昭和35年迄木版画の制作を続け、渡邊版新版画は135点、伊勢辰版5点、勝村版2点、堀田時計店で4点制作。また[7]、東京日日新聞などに挿絵を描く。1919年(大正8年)、好子と結婚し長男と次男をもうける。
1922年(大正11年)、平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌、同年中国大陸へ旅行。1927年(昭和2年)、大井町に深水画塾を設立。1932年、人物画の再興を目指し「青々会」を設立。1933年(昭和8年)、帝展第一部(日本画)の審査員に就任[8]。1935年(昭和10年)、料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうけた。1939年(昭和14年)、再び中国大陸へ旅行。1943年(昭和18年)、召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする。
太平洋戦争のさなか、東京が空襲に見舞われると1945年(昭和20年)3月から1949年(昭和24年)8月まで長野県小諸市に疎開する。1948年、『鏡』で第4回日本芸術院賞受賞[9]。1949年(昭和24年)、鎌倉に転居。1950年(昭和25年)、白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたる。1958年(昭和33年)、日本芸術院会員に推挙。1972年(昭和47年)、癌により5月8日没。享年75。墓所は品川区上大崎の隆崇院にある。法名は画光院一誉明澄深水大居士といった。
幼くして鏑木清方の門に入り、15歳の時に巽画会に入選[1]。文展、帝展に出品し悉く入選した[1]。浮世絵系統に於ける有数の作家であった[1]。師の清方と同年に没した。趣味は釣魚、清元、小唄、古器愛玩[1][10]。
歌川国芳から月岡芳年、水野年方、鏑木清方、伊東深水と続く流れを「玄冶店派」という。深水の門人には、徳永春穂、志村立美、白鳥映雪、岩田専太郎、立石春美、浜田台児、八幡白帆、朝倉摂、高木義夫、水戸童、大竹五洋がいる。
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| 太字は恩賜賞受賞者。雅号、筆名、芸名等は受賞時のものによる。表記揺れによる混乱を避けるため、漢字は便宜上新字体に統一する。 | |||||||||