| この項目では、プロデューサー・演出家について説明しています。『ウルトラマンA』の登場人物については「ウルトラマンA#TACメンバー」をご覧ください。 |
| こんの つとむ 今野 勉 | |||||
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![]() 文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |||||
| 本名 | 今野 勉 (こんの つとむ) | ||||
| 別名義 | グループ創造 (ぐるーぷそうぞう) | ||||
| 生年月日 | (1936-04-02)1936年4月2日(89歳) | ||||
| 出生地 | |||||
| 国籍 | |||||
| 民族 | 大和民族 | ||||
| 職業 | 演出家 プロデューサー 脚本家 実業家 | ||||
| ジャンル | テレビドラマ | ||||
| 事務所 | (東京放送→) テレビマンユニオン | ||||
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今野 勉(こんの つとむ、1936年(昭和11年)4月2日 - )は、日本の演出家、プロデューサー、脚本家、実業家。文化功労者。
株式会社東京放送での勤務を経て、株式会社テレビマンユニオン取締役、武蔵野美術大学造形学部教授などを歴任した。
秋田県河辺郡仁井田村(のちの秋田市)出身[1]。4歳から高校卒業まで北海道夕張市で育つ。今野の小学生時代は終戦直後の混乱期で、教育も大きな変遷の時を迎えていた。特にレコードを使用した国語の授業や、誰かが読んだ詩を皆んなでリフレインしたりする全く新しい形式による教育を自著、今野勉のテレビズム宣言においてこう回想している。『ア、人生っていうのは、相当自由にやって許されるんだなっていうのが突然わかった。』[2]。父は鉱夫であったが、病気がちだったため家は貧しかった。北海道夕張南高等学校在学中は進学せずに鉱山で働くつもりだったが、修学旅行の積立金を受験料にあてることで受験を許され、学費の安かった東北大学に進学[3]。1959年(昭和34年)に東北大学文学部を卒業して東京放送に入社[1]。
テレビ草創期の名ディレクターとして数多くのドラマやドキュメンタリーの制作に携わる。日本人で初めてテレビドラマ(「土曜と月曜の間」)でイタリア賞を受賞[1]。1970年(昭和45年)にTBSの仲間25人と共に同社を退社[1]。日本初の独立系テレビ番組制作会社・テレビマンユニオンを創立[1]。また、1998年(平成10年)の長野オリンピックの開会式・閉会式のプロデューサーとしても知られている[1]。1964年(昭和39年)には国映でピンク映画の『裸虫』を変名で監督した。
現在、テレビマンユニオン取締役を務めつつ、多くの演出作品を輩出している[1]。また、武蔵野美術大学映像学科教授もつとめた[1]。株式会社BSフジ番組審議会委員。東京夕張会会長。
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毎日芸術賞受賞者 | |
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