| 元サッカー選手の「井筒和之」とは別人です。 |
| いづつ かずゆき 井筒 和幸 | |||||||||||
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| 本名 | 同じ[1] | ||||||||||
| 生年月日 | (1952-12-13)1952年12月13日(72歳) | ||||||||||
| 出生地 | |||||||||||
| 血液型 | A型 | ||||||||||
| 職業 | 映画監督 映画評論家 | ||||||||||
| ジャンル | 一般映画 ピンク映画 | ||||||||||
| 活動期間 | 1975年 - | ||||||||||
| 事務所 | 井筒プロダクション | ||||||||||
| 公式サイト | 井筒和幸監督 OFFICIAL WEB SITE | ||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||
| 映画 『ガキ帝国』/『岸和田少年愚連隊』 『ゲロッパ!』/『パッチギ!』 『ヒーローショー』 | |||||||||||
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井筒 和幸(いづつ かずゆき、1952年12月13日 - )は、日本の映画監督、映画評論家。井筒プロダクション所属。代表作は『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『のど自慢』『パッチギ!』など[2]。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活動し、映画評論家としては映画監督や製作者、スタッフ、キャストの視点に立った辛辣な映画批評でも知られる[2]。奈良県出身[2]。
アメリカン・ニューシネマに傾倒し、奈良県立奈良高等学校[3] 時代から8ミリと16ミリ映画の製作を行っており、1975年に友人と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立する。
1975年にピンク映画『行く行くマイトガイ 性春の悶々』を初監督(「ゆけゆけマイトガイ性春の悶々」に後に改題。「井筒和生」名義)。なかでも「ゆけゆけマイトガイ性春の悶々」は当時特にヒットしなかったがフィルムの原本が東京国立近代美術館のフィルムセンターに収蔵されており、井筒本人が有名になった後にソフト化されている。上京後もピンク映画を撮り続け、そのうちのひとつである『色情女狩り』から「井筒和幸」名義となる。並行して関西の情報誌「プレイガイドジャーナル」にコラムを執筆。
1981年、初の一般映画『ガキ帝国』(「プレイガイドジャーナル」がプロデュースしたATG映画)がヒットし、日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。その後『赤い復讐 暴姦』を最後にピンク映画から遠ざかる。
『ガキ帝国』のヒットを受け、同1981年のうちに続編『ガキ帝国 悪たれ戦争』を制作。公開終了後にモスバーガー側から映画のモスバーガー店舗や店員の描写が、同社のイメージを著しく損ねていると抗議。以後、一度だけの例外を除いて劇場で上映をされることはなく、テレビ放送、ソフト化も行われていない[4]。作中で「この店のハンバーガーは猫の肉や」と馬鹿にするシーンがあるため、モスバーガー側が抗議したと巷間では言われた。ただし実際の映画にはそのセリフはない[5]。
1983年には、あだち充原作の漫画『みゆき』の監督を打診され引き受けるが「電車内で初めて読んだ原作の内容の無さに呆れて本を放置した」と述べている。仕事を続けるものの撮影前のカット割をしているうちに鬱状態となる。精神科医から「仕事のストレスでの離人症のため、最低2ヶ月の療養が必要」と診断されるが、撮影は3日延期したのみで開始。抗鬱剤を大量に飲みながら監督をつとめ作品を完成させた。その後病気は嘘のように治ったという[6]。
1991年9月、大作『東方見聞録』の撮影中にエキストラの俳優を死亡させる事故を起こす(詳細は下記#映画撮影中の死亡事故を参照)。
1996年公開『岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS』では、関西出身の監督らしく大阪の土着的な風景をフィルムに定着することに成功し、ブルーリボン賞作品賞を受賞した。その後1999年『のど自慢』や2003年『ゲロッパ!』などを制作。
2005年『パッチギ!』はザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」をテーマに、在日朝鮮人と日本人の高校生どうしの抗争と恋愛を描いたもの。2度目のブルーリボン賞作品賞のほか、多くの映画賞を受賞した。
2008年『TO THE FUTURE』は、朝日放送新社屋完成記念 Theショートフィルムズと題して、7月12日から21日まで新社屋の新・ABCホールにてオムニバス形式で上映された短編映画。近年こどもを取り巻く環境下においてクローズアップされているモンスターペアレントをテーマに、現代社会に蔓延する問題を描いた作品。タイトルはターミナルで偶然見かけた自衛隊のポスターからヒントを得たという。
2010年『ヒーローショー』では、第25回高崎映画祭最優秀監督賞を受賞(『ゲゲゲの女房』鈴木卓爾監督と同時受賞)[7]。
2012年『黄金を抱いて翔べ』を監督。原作は高村薫のデビュー作であるサスペンス小説。舞台となった大阪の各所でロケを行った[8]。同作品は第27回高崎映画祭最優秀監督賞を受賞(『夢売るふたり』西川美和監督と同時受賞)。
1991年9月22日、監督を務める映画『東方見聞録』の撮影中にロケ現場である静岡県駿東郡小山町上野でエキストラとして出演していた当時21歳の俳優・林健太郎[49]が溺死する事故が発生した。この現場には滝つぼに落ちるシーンの撮影のため、川の流れを利用した水深2メートルの大がかりなセットが組まれていた。林は総重量約8kgの鎧を着用し「若武者が殺され死体となって滝つぼに浮く」というシーンのリハーサル中、増水していた流れにのまれ水中に沈み意識不明の重体となり病院へ運ばれたが翌日死亡した。滝つぼにはダイバーが1人待機していたが水の濁りがひどく気付くのが遅れ、助け上げるまでに3分から5分ほどかかったという[50]。同年11月、遺族が業務上過失致死罪で告訴。演技上の安全を確保する義務を怠ったとして井筒と助監督が書類送検された[51]。
事故後も撮影は続行されたが、事故が報じられて社会問題となり1992年5月18日に予定されていた公開は中止された[52]。この影響が大きく製作会社であるディレクターズ・カンパニーは1992年に倒産。事故死したエキストラの遺族が起こした裁判で井筒側は敗訴、遺族への補償金3000万円以上は井筒が支払うこととした[52][53]。
1993年に仙頭武則の依頼により『突然炎のごとく』で監督業に復帰[52]。『東方見聞録』は1993年8月1日にビデオ発売された。
映画監督のほか、自らの映画作品を原作とした舞台の演出も手がけている。
井筒和幸監督作品 | |
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| 1980年代 |
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| 1990年代 |
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| 2000年代 |
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| 2010年代 | |
| 2020年代 |
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キネマ旬報ベスト・テン 日本映画監督賞 | |
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| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 | |
| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 |
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| 1960年代 | |
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| 1970年代 | |
| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
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| 2020年代 | |
| 受賞年は表示年の翌年。「※」は奨励賞。 | |
| (※括弧内は監督名) | |||||||||||
| シーズン |
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| シリーズプロデューサー:仙頭武則、シリーズ監修:石井聰亙、製作:WOWOW | |||||||||||