 | 農業技術者・政治家の「丹下乾三」とは別人です。 |
代々木第一体育館 1964丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 -2005年(平成17年)3月22日)は、日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。
日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。
1939年(昭和14年)、丹下は雑誌『現代建築』に論文「ミケランジェロ頌-ル・コルビュジエ論への序説として-」[注釈 2]を発表し、つづく1941年(昭和16年)に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館[注釈 3]の設計を担当したが、その名が一躍世に知られるようになったのは、1942年(昭和17年)の大東亜建設記念営造計画[注釈 4]コンペと、それに立て続いて1等入選を果たした、1943年(昭和18年)の在盤谷日本文化会館計画コンペによってである。
特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案、「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画-主として大東亜建設忠霊神域計画-」は、ヒューマンスケールを遥かに超えた壮大なプランと、横山大観風の日本画を想わせるそのパースペクティブ(透視図)によって、本来建築学会の若手を対象にした懸賞行事であり、それゆえ到底実施案となり得なかった地味なこのコンペをして、後世まで人々の記憶に留めさせることになった[5]。
同時期の大学院時代から第二次世界大戦後しばらくにかけては、主に都市計画の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を第二次世界大戦後に日本建築学会で発表し、後にそれをもとに1959年(昭和34年)に博士号学位論文「都市の地域構造と建築形態」としてまとめ上げる。また、1946年(昭和21年)8月に東京大学助教授に就任すると、福島市の依頼による福島地区都市計画(1947年)や立川基地跡地の文化都市計画、北海道稚内市の都市計画(1950年から1952年まで)などを手がけていった。その間の1948年(昭和23年)には「建築をめぐる諸問題」、また二年後の1950年(昭和25年)には経済安定本部資源調査会事務局地域計画班の依頼による「地域計画の理論」という2つの計画関連の研究小論文を執筆しているほか、戦災復興事業の一環で行われた東京都都市計画コンペや文教都市計画、1947年から戦災復興院(後の建設省。現・国土交通省)による各地の戦災復興都市計画に参加した。当初の担当は群馬県前橋市と伊勢崎市であった[6]。
広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、父危篤の知らせを受け帰郷の途にあって尾道にいたが、焼け野原となって跡形も無くなっていた実家に到着した翌7日、父はすでに2日に他界しており[注釈 5]、また広島市への原爆投下と同じ日に実施された今治への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた広島は、外国の雑誌でル・コルビュジエのソビエト・パレス[注釈 6]計画案と出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、残留放射能の危険性が心配されたにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た[7]。浅田孝・大谷幸夫ら東大の研究室のスタッフとともに1946年の夏に広島入りし、都市計画業務に従事した[8]。その成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、1位で入選という形で結実する。
他の設計案が、公園内のみを視野に入れた計画案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通り(幅員100m、長さ4kmにわたる通称100メートル道路)と直交する南北軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配し、その計画案の都市的スケールが、コンペで高く評価された理由である[9]。広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、第二次世界大戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える[1][10]。またこれにより、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームにスポットライトを当て、中心性を持った都市空間として広島を再建する上での、ランドマークとしての「原爆ドーム」を発見したのは、事実上、丹下であると言うことが出来る[11]。
実際、1966年(昭和41年)7月の広島市議会において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである[12][13]。しかしながら今日に至ってみれば、日清戦争当時大本営がおかれて臨時首都となり、明治以来、広島城を戴く広大な西練兵場を都心部に抱えた軍都として発展して来た廣島市[14]が、平和都市広島に生まれ変わるためには、広島城に代わる新たなシンボリックな遺構をそこに設定する必然性が確かにあり[15][16](原爆で倒壊焼失した広島城が再建されるのは1958年のことである[17])、それを見抜いた丹下の方に、都市計画家としての先見性があったと評価出来る[1][18]。
また実現はしなかったが丹下は、「平和の軸線」の北側の延長線上に2024年に開業したエディオンピースウイング広島とほぼ同じ位置にスポーツスタジアムの建設を構想していた[1]。これは広島という都市の復興を考えるうえで、スポーツの果たす役割を重視していたからではないかという説がある[1]。
同時期、第二次世界大戦後の日本建築界の幕開けを告げる、当時日本最大級のコンペであった世界平和記念聖堂の建築競技設計でも衆目を集めるが、施主であるカトリック教会が、丹下案と類似するオスカー・ニーマイヤー設計のブラジル・パンプーリャのサン・フランシスコ礼拝堂に見られる放物線状のシェル構造が持つ、その非宗教伝統的な形体と音響の悪さを嫌って、丹下案は不採用(1等なしの2等当選)となった。後にその実施は、コンペの審査委員の一人で、コルビュジエ派である丹下案を酷評した表現派の村野藤吾が担当することになり、日本建築界の一大スキャンダルとなる[注釈 7]。
そのような経緯もあり、資材の払底した第二次世界大戦時中ならびに第二次世界大戦終決直後に若年期を過ごさざるを得なかった丹下健三にとっては、広島平和記念資料館は事実上のデビュー作である。コンクリート打放しの端正なプロポーションを、都市的スケールのピロティで大地から軽々と持ち上げることによって、広島の焦土からの復興を力強く印象づけ、第二次世界大戦後の日本建築はここから始まったと言われるほどの記念碑的な作品ともなった。コルビュジエのスイス学生会館やソビエト・パレス計画、またユニテ・ダビタシオンの影響だけでなく、法隆寺や厳島神社の伽藍配置、また正倉院・伊勢神宮・桂離宮などの日本建築の精華にデザインソースを求めた[注釈 8]これら一連の広島ピースセンターの建築によって、西洋起源のモダニズムと日本建築の伝統様式は初めて記念碑的レヴェルで結晶し、丹下はこの広島計画[注釈 9]をもって、CIAM(シアム・ 近代建築国際会議)に参加し、その名を日本国外に知らしめた。
また、丹下はこの事業にイサム・ノグチを強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった岸田日出刀の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」という強い反対意見により、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった[19]。丹下は、岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさもあって[注釈 10]、ノグチのデザインをほぼそのまま流用しながら、自分自身の当初の構想に立ち返って埴輪の家の屋根形にデザインした[20]。しかし、結果的には、慰霊の際、ノグチの手によるモニュメンタル性の強いオブジェ[注釈 11]を拝む形になるのではなく、人々が慰霊碑に相対したときに視線の先に原爆ドームが自然に垣間見える様になって、平和公園は単なる慰霊施設ではなく平和を祈念し「平和を創り出すための工場」であるべきだという丹下の建設理念[注釈 12]がより明確となった。そこから、後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれることにもなる。
香川県庁舎その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、日本での伝統木造建築・木割り(日本の伝統的な木造建築において、各部分の大きさや寸法を規定する規範または原理。西洋建築におけるオーダーにあたる)をコンクリートで稠密に再現した香川県庁舎などの、いわゆる広島平和記念資料館と合わせて初期三部作と呼ばれる傑作を設計した。とりわけ香川県庁舎は第二次世界大戦後の日本全国の地方自治体庁舎のモデルともなり、数多い丹下建築の中でも唯一のビルディング・タイプ(形式がある特徴)を有する建築である[21]。1961年(昭和36年)に丹下健三・都市・建築設計研究所を設立した。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的にも評価が高い。丹下は生涯にわたって「建築家としてトータルに都市をデザインすること」に情熱を持ち続け、それにより都市的観点から構想された数々の総合的な建築計画が生み出され、その点が他の同世代の巨匠建築家と比較して違いが際立っているところである[22]。
壮年期の丹下は、日本国外からもたらされるシェル構造や折板構造などの様々な新技術や建築の新思潮を精力的に消化しながら、1964年(昭和39年)の東京カテドラル聖マリア大聖堂と東京オリンピック国立屋内総合競技場(正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに、当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂ではHPシェル構造を用い、国立屋内総合競技場では吊り構造を用いて、構造と形態を高度な次元で融合させながら、なおかつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。前者は現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者はコルビュジエのソビエト・パレス案からマシュー・ノヴィッキーのノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経て、エーロ・サーリネンのイェール大学アイスホッケーリンクに至る流れの中で、吊り構造の決定打にして完成作とも評され、世界に衝撃を与えた[23]。
特に東京オリンピックプールの評判[注釈 13]は素晴らしく、アメリカ水泳選手団の団長は感激のあまり、「将来自分の骨を飛び込み台の根元に埋めてくれ」と申し出たと伝えられる程であった[24]。大会後、国際オリンピック委員会は、東京都ならびに日本オリンピック組織委員会とともに、丹下健三を特別功労者として表彰した。ここにひとりの建築家[注釈 14]、その建築表現の持つ力によって、国際社会に与える影響力の大きさにおいても、主催者である行政や組織と比肩しうるものであることを全世界に実証したのである[24]。それ以降、丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることになった。
大阪万博・お祭り広場の大屋根1970年(昭和45年)の大阪万博では、京都大学教授の西山夘三と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。「大屋根」をジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で持ち上げ、それを太陽の塔が突き破ってそそり立つという岡本太郎とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。
建築のスタイルは本来モダニズム系統であり、当初はポストモダン建築を単なる意匠だと批判していたが、晩年にはポストモダンの傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品もある。最後の大作である東京都新庁舎は、ゴシック建築であるパリのノートルダム大聖堂の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁PC板に濃淡二種類の花崗岩を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割るデザイン処理によって重厚さ[注釈 15]を演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代をIC(集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている[25]。
日本の近代建築は、第二次世界大戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレベルに達していたが、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって初めて、明確に世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい[26]。それ以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超えて、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を、後進へと開いたと言える。第二次世界大戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以降、その活躍の場は必然的に中東やアフリカ、また東南アジアの発展途上国に移っていった。唯一とも言える例外はイタリアである。
自らがアイデアを出して、それを単にスタッフに図面化させるのではなく、建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、協同で設計する手法を確立した[27]。それにより後年、丹下の下からは大谷幸夫・浅田孝・沖種郎・槇文彦・神谷宏治・磯崎新・黒川紀章・谷口吉生ら多くの優れた人材が輩出されたが、反面、特に1980年(昭和55年)以降の作品において、独創性が犠牲にされたとの批判もある[28]。
東京都庁舎(新都庁舎、1991年竣工)では指名コンペが行われたが、大方の予想通りに、当時の都知事・鈴木俊一との強いつながりを持つ丹下の設計案が当選し、「出来レース」とも評された[29][30]。鈴木とのつながりは[注釈 16]、鈴木が1964年東京オリンピックの準備のために、地方自治庁(後の自治省。現・総務省)から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が大阪万博の事務局長に就任した経緯もあって、のちに鈴木が都知事選に初出馬した際には、丹下はその後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは、「自身のスタイル・信条であったはずのモダニズムを捨て、かつて出口なしとまで批判したポストモダニズムにすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか、「すでにある新宿の超高層ビル群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの意の厳しい批判を受けた[31][32][33]。
一方、出来レースとの批判が予想されるなかで、重鎮となっても尚、そのような批判をはね除けるに足る圧倒的なパフォーマンスでコンペを勝ち抜く図太さや老獪さ、また成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さや、記念碑性を含めたデザイン意図の的確さといった点を評価する者もある[34][35]。建築の専門家ほど酷評する傾向にあるが、一般には受けが良いようであり、完成以来観光名所となって、新宿副都心のランドマークとして認知されている[36][35]。
かつて、ソビエト・パレスとの出会いが、大学受験間際になって志望を建築学科に変えさせたように、丹下に対するル・コルビュジエの強い影響は、卒業設計においても鮮明に出ている。そのことは、後年自らの作品にコルビュジエ由来のデザインを数多く引用していることでも明らかであるが、そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスの圧倒的な影響のもとに、一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップ(視線がとまる対象物)を配置するというプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から広島平和記念公園、ナイジェリアの新首都新首都アブジャ都心計画に至るまで、たびたび用いられて丹下の十八番となった。
一方で、ランドスケープにおいて対称軸を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を持たせるということを、ミケランジェロのカンピドリオ広場からの影響と見て取ることも出来る。丹下自身は晩年に至って、古今東西の建築家のなかで誰が一番かと問われると、コルビュジエよりもミケランジェロの方が上だと言い[37]、そのことは出世論文のタイトル「MICHELANGERO頌」(頌とは誉め讃えるの意)においても明確に示されている。丹下はその論文の中でハイデガーのヘルダーリン論を援用し、グロピウス流の四角四面な建築幾何学から離れて、建築が自由な創造行為に昇華される過程で聖性(至高性・精神性)をも獲得し、社会的要請が建築を作るのではなく、建築家が建築行為を通じて世界を再創造していくという論旨を展開し、コペルニクス的転回によって建築と歴史との関係性を逆転させている[38]。
つまり、丹下はコルビュジエの近代建築の語法を用いながら、ミケランジェロの芸術の持つ宗教的な記念碑的超越性を、近代建築においても獲得させることをめざしているのである。そのことが個人生活においては、(ある意味、サグラダ・ファミリアにおけるアントニ・ガウディのような)建築するという行為への献身的な専心となって表れ、建築設計においては都市計画への強い関心となって現れた。かつてミケランジェロがルネサンスにおいて、サン・ピエトロ大聖堂大改築の主任設計士として中世を超克しようとしたように、あるいはマニエリスムの自由な芸術表現によってルネサンス様式そのものを超克しようとしたように、精神史の上で、コルビュジエがいうところの「建築をめざして」、近代を建築の力によって超克することを、丹下はめざしたのである[39]。
そしてそのことを、目論見の成否は別にして、若き頃傾倒したマルクス主義に対する挫折からの脱却をめざした「大東亜記念営造計画」から、第二次世界大戦での敗戦の挫折においては、焦土からの脱却を「広島ピースセンター」で、同じく名誉的には、三等国から一等国への国際的復帰を「代々木オリンピックプール」で、さらには実質的な面においては、経済大国への脱皮を「大阪万国博覧会」の総合プロデュースによって、また大阪万博以降、力の振るいどころがなくなった日本国内への帰還をめざした「新都庁」に至るまで、生涯一貫して追求し続けていたと総括することが出来る[40]。
建築史家の藤森照信によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという[41]。事実、これだけの巨匠でありながら、生前MoMA(ニューヨーク近代美術館)に請われながらでさえ、過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった[42]。なお、丹下自身は、東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている[43]。
2005年(平成17年)3月22日、心不全のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック関口教会)で葬儀が行われた。葬儀では、磯崎新が時折涙で声を詰まらせながら弔辞を読んだ[42]。生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は聖母マリアの夫であり大工でもあったヨセフであったことが、その時人々に知られた[42]。
2006年(平成18年)4月、広島平和記念資料館が、村野藤吾の世界平和記念聖堂(1953年、広島市中区幟町)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めての重要文化財(建造物)指定となっている。また、2021年5月には1964年東京五輪の競技会場となった国立代々木競技場が同じく重要文化財の指定を受けることとなった。
丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む
広島子供の家(1953年) | 愛媛県民館(1953年) | 丹下健三自邸(1953年) |
今治信用金庫本店(1960年)
戦没学徒記念館(1966年)
山梨文化会館(1966年)
静岡新聞・静岡放送東京支社ビル(1967年)
電通旧本社ビル(1967年)
静岡新聞放送会館(1970年)
駐日クウェート大使館(1970年)
今治市役所第1別館(1972年、左側)
草月会館(1977年)
東京大学本部棟(1979年)
赤坂プリンスホテル新館(1982年)
兵庫県立歴史博物館(1983年)
OUBセンター(1986年)
桐蔭学園幼稚園・小学校・中学校(1986年)
横浜美術館(1989年)
東京都庁第二本庁舎(1990年)
国際連合大学(1992年)
新宿パークタワー(1994年)
UOBプラザ(1995年)
フジテレビ本社ビル(1996年)
WHO神戸センター(1998年)
新香川県庁舎(2000年)
東京ドームホテル(2000年)
ルクセンブルク大使館(2003年)丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む
- ^先妻との間に2男1女があり、先妻の病没後に後添えとして入って2男2女をもうけたテイにとっては、第2子にして初めての男子にあたる。
- ^正確なタイトル名は「MICHELANGERO頌-Le Corbusier論への序説として-」である。
- ^1964年(昭和39年)に東京都渋谷区へ移転しており、現存しない。正確には、岸田日出刀設計顧問、前川國男建築設計事務所設計監理であるが、実際に設計を担当したのは丹下健三である。丹下健三・藤森照信 2002、67頁。事実、発表に当たって前川と共に丹下の名前も並記されている。Casa BRUTUS 2009、84頁。
- ^大東亜建設記念営造計画は誤って「造営」と表記される事も多いが、正しくは「営造」である。大東亜建設記念営造計画の画像→20世紀日本建築・美術の名品はどこにある?「第4回レクチャーレポート1」 2012年3月21日閲覧。なお、大東亜建設記念営造計画案と広島計画との比較はこちらを参照されたい。→空のたね「広島平和記念公園デザインの起源 〈その2・補足〉」 2012年3月21日閲覧。YuMoKu REPORT 「広島ピースセンター1」 2012年3月21日閲覧。
- ^丹下健三1997、41頁には「郷里から『チチシス』の電報が届いた」との記述があるが、丹下健三・藤森照信 2002、112頁の丹下のインタビューでの言葉「8月の2日かな、親父が今治で危篤だという知らせを受けまして」に従った。
- ^ソビエト・パレス(模型)の画像→Penn History of Art "Le Corbusier, project for the Palace of Soviets Competition, 1931." 2012年3月21日閲覧。
- ^日本的かつカトリック的な近代キリスト教会建築という建築設計競技のコンセプトに対する解答者としては、結果的に見て丹下より村野の方が適任であったと言える。また、村野本人は設計料を受け取ることを辞退した。
- ^広島ピースセンター設計にあたり、法隆寺や伊勢神宮や桂離宮を参照したとは丹下自身の言であるが、桂の影響は言わずもがな、伊勢の影響は平和記念資料館本館(コンペ時は原爆災害資料陳列館)のピロティ柱に見て取る事が出来る。資料館の原イメージとして当初意識していた正倉院の校倉造の高床建物では、原爆被災からの復興という「力強さ」に欠けると丹下が直感したからである。ヒューマンスケールと明確に隔絶する都市的スケールで持ち上げられたピロティの空隙を「中心性の空虚」と捉え直せば、左右非対称のマッス(量塊)を両翼に展開させたその構成を、法隆寺における日本独自の伽藍配置からの影響と見て取ることも可能である。現在のピースセンターは、一見オーソドックスなシンメトリーな配置に見えるが、コンペ段階で西ウィングに計画されていたのは、台形状のボリュームを持つ集会場(後の公会堂。現・国際会議場)であり、東ウィングの現・平和記念資料館東館(コンペ時は平和会館。後の平和記念館)と対になるようにそれを模して改装された今となっては、その横幅の違いに法隆寺のアシンメトリーな伽藍配置の影響の名残を見出すことが出来る。しかしながらランドスケープを素直に読み解けば、大鳥居をシンボライズした厳島神社の伽藍配置とコルビュジエのソビエト・パレス案からの影響とするのが妥当であろう。
- ^広島計画の詳細についてはこちらを参照されたい→arch-hiroshima「広島平和記念資料館 および平和記念公園」 2012年3月21日閲覧。
- ^検証ヒロシマ、36-37頁には「(委員の中に)『原爆を落とした国の人間がつくった慰霊碑なんて』という人がいたんです。丹下さんはその板挟みになり最後はイサムに『自分の力ではどうにも…』と手をついて兄イサムに謝った」という記述がある。また平松剛2008、263頁には「丹下は広島市長と問題解決のために奔走し、時にはノグチ本人も加わって建設大臣にまで訴えたけれど、決定はどうしても覆らなかった」という記述もある。
- ^オブジェ(模型)の画像→MONOMONO「モノから思い出」 "The Noguchi Museum. NY-12" 2012年3月21日閲覧。
- ^この丹下の考えのベースにあったのは1949年(昭和24年)8月6日に公布された広島平和記念都市建設法(法律第219号)である。この法律の目的は「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」であり、広島市を他の戦災都市と同じように単に復興するだけでなく、恒久平和を象徴する平和記念都市として建設しようということであった。丹下は広島市の復興都市計画策定の初期から関わっており、その理念を可視化することが彼に与えられた使命であった。
- ^幾度にも渡る改修を経てプール施設は半恒久的に体育フロアとして仮構され、汚れの目立ったコンクリート打ち放し面が塗装されたほか、特にインテリアにおいて内部空間を引き締めていた飛び込み台が撤去されるなど、往時の持っていた至高性が著しく失われたと評される向きがあり、建築界からも建設当時の趣きを保存し再現せよとの声がある。例えば、新建築2005-5「至高の空間」槙文彦、24頁。
- ^もちろん丹下ひとりの力ではなく、神谷宏治、構造担当の坪井善勝、川口衞、設備担当の井上宇市、尾島俊雄ほか、多くのスタッフの協同の賜物であることは言うまでもない。特に1953年の「広島子供の家」よりコンビを組んで来た構造家坪井善勝の力は大きく、構造設計のスタッフの中には「あれは、我々がデザインした」と言い切る者が何人もいるという。新建築2005-5、23頁。
- ^同時期の丹下設計による同形のデザインであるシンガポールOUBプラザの(主な作品・外観画像を参照のこと)間延びした感じと比較対照すると、公共建築でありながらコストが掛かり過ぎるとの批判にもかかわらず、記念碑性を欲した丹下が花崗岩打ち込みにこだわったデザイン意図が理解出来よう。
- ^鈴木自身の回想によれば、丹下とは東京オリンピック以前に既に知り合いであり、電力業界の大物・松永安左エ門が1956年(昭和31年)に組織した民間のシンクタンク「産業計画会議」で関わりがあったという。そこでの議題のひとつに東京臨海部の開発計画があり、丹下は当時住宅公団総裁だった加納久朗とともに、東京湾に巨大人工島を造る計画を提案しており、これが後に「東京計画1960」に繋がって行くことになる。平松剛2008、275-276頁。
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