この項目では、大陸統治時代の中華民国について説明しています。現在台湾地区 を統治している国家については「中華民国 」をご覧ください。
中華民国 中華民國 (国旗 上:1912年-1928年 下:1928年-1949年 ) (国章 上:1912年-1928年 下:1928年-1949年 )
国の標語:民族、民権、民生 国歌 : 《五族共和歌 》(五族共和歌) (1912年-1913年)《卿雲歌 》(卿雲歌) (1913年-1915年) 《中華雄立宇宙間 》(中華雄立宇宙間) (1915年-1921年)《卿雲歌 》(卿雲歌) (1921年-1928年)《三民主義歌 》(三民主義歌) [ 1] [ 2] (1930年-1949年)国旗歌 :《青天白日満地紅 》(青天白日満地紅) [ 3] [ 4] (1937年–1949年)
1945年の中華民国 中華民国の実効支配地域
独立状態で中華民国の実効支配が及ばない地域
中華民国 (ちゅうかみんこく、繁 :中華民國 ; 英 :Republic of China )は、1912年 から1949年 まで中国大陸 に拠点を置いた、東アジア の共和制 国家である。現在は、国共内戦 の結果台湾 と周辺の島々のみ(通称「台湾地区 」)を統治している[ 5] [ 6] [ 7] [ 8] 。
中華民国は1912年 1月1日 に正式に建国された。辛亥革命 は1911年 10月10日 の武昌起義 から始まり、清 を倒し、中国で2000年以上続いていた帝政を終わらせた。建国から1949年まで、中華民国は中国本土を拠点としていた[ 9] [ 10] 。
1945年 に第二次世界大戦 で敗北 した大日本帝国 は台湾 とその島嶼部の支配権を連合国 に委ね、台湾は中華民国の行政管理下に置かれた(台湾光復 )。国共内戦 後の1949年、中国共産党 は中国大陸全土を掌握し[ 11] [ 12] 、北京 で中華人民共和国 の建国を宣言した。本土の喪失に伴って中国国民党 と中華民国政府 は台湾に撤退 し、台湾とそれに連なる小さな島々の支配権のみを維持し、国民党は台北 を臨時首都 と宣言した[ 13] 。
中国の最後の王朝である清を打倒する辛亥革命 中の1912年 1月1日 に中華民国(臨時政府) の建国が宣言された。1912年2月12日 、摂政 孝定景皇后 は、宣統帝(愛新覚羅溥儀 )に代わって退位令 (宣統帝退位詔書 )に署名し、数千年にわたる中国の君主制を終わらせた[ 14] 。現在国父 とされている孫文 は、北洋軍の指導者である袁世凱 に引き継ぐ前に、臨時大総統 職を短期間務めた。袁世凱が臨時大総統に就任して北京 に移転した後に正式に大総統 に就任して成立政府は「北京政府 」と呼ばれる。宋教仁 率いる国民党 [ 注釈 1] が1912年12月 の議会選挙で勝利した。しかし、宋教仁はその直後に袁世凱の命令で暗殺され、袁世凱が率いる北洋軍は北京政府の完全な支配を維持した。その後、1915年に中華帝国 を宣言したが、短命に終わった。1916年の袁世凱の死後、清王朝の一時的な回復(張勲復辟 )により、北京政府の権威はさらに弱体化した。 北洋軍の派閥が個人の自治権を主張し、互いに衝突したため、ほとんど無力な政府が国の崩壊をもたらした。こうして10年にわたる地方分権化された権力闘争 と長引く武力紛争である軍閥時代 が始まった。
孫文は1919年に中国国民党 を設立し、孫文の指導の下広州 に国民政府 を樹立することを何度も試みた。国民党は1923年 に3度目の広州占領後、中国を統一するため、広東大元帥府 を樹立することに成功した。1924年 、国民党はソビエト連邦 の支援を受ける条件として、中国共産党と同盟を結ぶことになった(第一次国共合作 )。蔣介石 は、1925年 の孫文の死とその後の権力闘争を経て国民党主席に就任し、1926年 に北京政府を倒して中国を統一するために北伐 を開始した。1927年、蔣介石は新たな国民政府を南京に樹立し、上海クーデター を皮切りに中国共産党を一掃して国共合作を崩壊させた。この事件をきっかけに国共内戦 が開始し、国民政府は汪兆銘 の武漢国民政府 と蔣介石の南京国民政府に分裂した(寧漢分裂 )。しかし、武漢政府も南京政府に同調して共産党員を排除して和解し、統一された。1928年 に国民党の北伐が完了して蔣介石の下での名目上の中国統一をもたらした後、不満を抱いた軍閥は反蔣介石連合を結成した。これらの軍閥は、1929年 から1930年 にかけての中原大戦 で蔣介石と戦い、最終的に蔣介石が勝利した。
中国は1930年代に工業化を目指したが、満洲事変 、国共内戦、日中戦争 などの影響で挫折し、1937年の日中戦争 開始後は徹底的に戦時体制が敷かれた。国共内戦は、日本の侵略に抵抗するため第二次国共合作を行ったことにより停戦した。日中戦争は1945年まで続き、日本の降伏 後、国民政府は台湾島 ・澎湖諸島 を接収して台湾省 を設置した。
終戦後第二次国共内戦が勃発した。内戦中の1947年 に中華民国憲法 が施行され、1928年 の中華民国訓政時期約法 [ 15] に取って代わった。1948年には憲法に従って国民政府は「中華民国政府 」に改組された。1949年、共産党の毛沢東 は北京で中華人民共和国 の建国を宣言し、中華民国政府は首都を南京から広州、重慶、成都と各地に避難した後、最終的に台北 へ遷都した。共産党は勝利を収め、国民党と中華民国政府を中国本土から台湾に追放 した。その後、中華民国 は1950年 に海南島 (海南特別行政区 )を、1955年 には浙江省 の大陳列島を失い 、その後は台湾と一部の島嶼部のみを実効支配している。
中華民国は国際連盟 と、後の国際連合 (安全保障理事会 の常任理事国 であった)の原加盟国であり、1971年 に中華人民共和国がアルバニア決議 によってその議席を引き継ぐまでその地位を維持してきた。また、万国郵便連合 と国際オリンピック委員会 のメンバーでもあった。
最初の中華民国政府(臨時政府) は1912年1月1日に南京 に樹立され、孫文 が臨時大総統 に就任した。三民主義 に基づいた政府であった[ 16] 。
この臨時政府の権限が及ぶ領域は限られており、中部・北部は依然として清朝の支配下にあった。 臨時政府によって可決された行為の数は少なく、宣統帝の退位による清朝の滅亡といくつかの経済的政策が行われたのみであった。皇帝の退位と引き換えに大総統 の地位を得た袁世凱 の元で議会の存在はすぐに形骸化し、臨時約法 に違反する政治を行っていた袁世凱は、不信任決議に直面した。袁世凱は国民党 議員に対する買収工作を行い、将軍を州知事に派遣するか、地方の実力者の忠誠を獲得することによって、地元で権力を維持した。
袁世凱が亡くなると、1913年の議会が再召集され、新政府に正当性が与えられた。しかし、政府の実権は軍の指導者達が持っており、彼らが権力をめぐって争う軍閥時代 に入った。第一次世界大戦 が始まると、日本などの諸国は、中国がドイツ に宣戦布告し、中国でのドイツの勢力を清算することを望んでいた。
国民政府 は、1930年代に名目上中国全土を統治していた。1928年 2月 、南京で開催された第2回中国国民党 国民会議の第4回総会は、国民政府法の再編を可決した。この法律は、国民政府が国民党の中央執行委員会によって指導され、国民政府の委員会は国民党中央委員会 によって選出されることを規定した。
1928年10月の国民政府の基本法の公布により、政府は行政院 、立法院 、司法院 、考試院 、監察院 の5つの組織に編成された。国家元首 である国民政府主席 は、国民革命軍 の最高司令官の権限も兼ねた。蔣介石 は同年に主席に任命され、1931年までその地位を維持した。また、国民党は党中央執行委員会を通じて、「訓政期」の間は国民党が政府に対する指導権を行使し続けることを規定した。国民党の政治評議会は、重要な国政の執行において国民政府を指導および監督すること、そして政治評議会は法を改正する権限を持っていることが規定された[ 17] 。
日中戦争 後の1946年 5月 に南京で、戦争のため長らく延期されていた憲法制定会議が召集された。「中華民国憲法 」は1946年12月25日に公布され、1947年 12月25日 に施行された。憲法に従って国民政府は「中華民国政府」に改組され、国民政府主席に代わって中華民国総統 が元首とされた。総統が行政院長 を任命するなどの特定の儀礼的な義務を除き、政治的な権限は持っていなかった。
新憲法の下での初の国民大会 選挙は1948年 1月に行われた。議会は1948年3月に召集され、1948年3月21日に総統を選出した。これらの選挙は、少なくとも1人の米国のオブザーバーによって賞賛されたものの、共産党にはあまり受け入れられず、まもなく第二次国共合戦 に入った。
五四運動 中の北京 1911年の辛亥革命 で清 が打倒されて以来、中国は地方の独立勢力との間で内戦に巻き込まれていった。 1915年、大総統 の袁世凱 は、北京政府 の援助・承認と引き換えに、外蒙古 を中国領と認めるキャフタ条約 を、ロシア帝国 との間で締結した。しかしその後も、ロシアは外蒙古での勢力を保った[ 18] 。1914年、政府は財力不足の解決のためにイギリス 、フランス 、ドイツ 、ロシア、日本 の銀行団から2500万ポンドを借り入れ、塩税、関税を抵当に入れた。[ 19] 。1914年5月29日、日本は袁世凱に「中日朝鮮南満往来運貨減税試行弁法」に署名させ、満洲の商業は日本が独占するようになった。第二革命 後、日本が孫文 を支援することを恐れた袁世凱は、孫宝琦と李盛鐸を日本に派遣した。7月、第一次世界大戦 が勃発した。9月、日本は戦争への参加を口実にドイツに宣戦布告した。当初、袁世凱は中国の中立を宣言し、ドイツと日本が中国領内で交戦することを禁じたが、日本の脅威を受けて山東省 東部を戦地として認めた。山東省に上陸した日本軍は、ドイツ軍に対する攻撃に集中することなく、青島 から西の済南 までの山東鉄道全域を占領した。この行為をイギリスとロシアは黙認し、中国に同情的だったアメリカ も日本との対立を恐れて黙認した。このため、この時期中国は国際的に孤立した。[ 20] 。 1915年1月7日、政府は日本軍に対し中国からの撤退、または「膠州湾租借条約」に従って青島のみにしばらく駐留することを要求し、日本軍は1922年まで青島に駐留し続けた。日本は、欧米諸国が極東の事情を気にしている暇はないと考え、袁世凱の帝政復古の様子を窺った。1月18日、駐華日本公使 の日置益 は袁世凱に対華21カ条要求 を提出した。1917年 3月14日 、中国はドイツと断交した。同年8月14日、代理大総統の馮国璋 は大総統布告を発表し、ドイツとオーストリア に対する宣戦布告を行った。1919年 9月15日 、中国は戦勝国としてドイツとの戦争の終結を発表したが、パリ講和会議 において国益を守ることができなかった。中国はドイツが占領していた山東半島の権益を返還することを要求したが、イギリス、フランス、イタリアはドイツの権益を日本に移譲し、これに対して中国国内では五四運動 が起こった。中国の代表団は、抗議として講和条約への署名を拒否することしかできなかった[ 21] 。
1929年、満洲へのソ連の侵攻(中ソ紛争 ) 1928年 5月 、済南事件 が起こった。日本は中国兵と民間人の虐殺を否定し、代わりに当時北伐 中だった国民政府 に対して謝罪、賠償、処罰を要求した。5月10日、国民政府は伍朝枢 をアメリカに派遣して救援を求めたが、5月11日には日本は済南を占領した[ 22] 。5月15日、アメリカは日本に対する不満を公に表明した。しかし、日本軍が済南から撤退したのは、翌年3月に双方の合意が成立してからであった。1928年6月、外交部長 の王正廷 は、関税自主権の回復、治外法権の廃止、租界・租借地の返還、鉄道の営利権、内陸水路の航行権、沿海貿易権の再開など、不平等条約 の改正を中心とする「革命外交」を開始した。1929年 7月 、満洲 を掌握していた張学良 はこれに前向きに反応し、ソビエト連邦 の影響下にあった中東鉄道 の権益奪還を決意した。中東鉄道からソ連人職員を追放し始め[ 23] 、ハルビン ではソ連の商業施設を差し押さえた。これによりソ連政府は国民政府との断交を表明した。8月14日、赤軍 は中東鉄道に沿って中国を攻撃し始め、中国軍は大きな被害を被った(中ソ紛争 )。張学良 は11月26日には休戦を呼びかけざるを得なくなり、12月20日にハバロフスク議定書に調印し、7月10日以前の中東鉄道におけるソ連の全ての権益を回復した。
1931年 、満洲事変 が発生し、日本軍 (関東軍 )は満洲に侵攻した。国民政府は日本に対し強く抗議し、国際連盟 に訴えた[ 24] 。 9月23日、国民政府はこの件についてアメリカ政府に書簡を送り、「深い懸念」を期待した。1932年 1月2日 、蔣介石 は日本に宣戦布告をすることによる不利益についての演説を行った[ 25] 。同年3月、満洲国 が建国された。1937年 7月、盧溝橋事件 が発生し、日本は全面的に中国への侵攻(日中戦争 )を開始した。1941年 12月8日 、日本は真珠湾を攻撃 し、アメリカが日本に宣戦布告して太平洋戦争 が勃発した。12月9日、国民政府はドイツ 、イタリア 、日本に宣戦布告し、連合国 に加わった[ 26] 。1943年、アメリカのルーズベルト 、イギリスのチャーチル 、中国の蔣介石の3カ国首脳は共同でカイロ宣言 を発表し、「満洲、台湾 、澎湖島 のごとき日本国が中国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還する」ことを要求した。第二次世界大戦 が終結し、中華民国は戦勝国になった。中華民国は国際連合 の原加盟国となり、対日戦争に貢献したことにより、安全保障理事会常任理事国 になった[ 27] 。1945年 8月14日 、中華民国とソ連は中ソ友好同盟条約 に署名し、「ソ連が日本討伐のために軍隊を派遣した後、ソ連が東北地方 の主権と領土保全を尊重し、新疆 の内政に干渉しないことを条件に、正当かつ有利な条件に従って中華民国の承認を認める」と合意した。1945年10月20日 、外モンゴル で国民投票(外モンゴル独立公民投票 )が行われ、その結果、国民の97%が外モンゴルの独立を支持した。1946年1月5日 、中華民国はモンゴル人民共和国 の独立を正式に認めた[ 28] 。
北洋軍 北洋政府の軍事力は新軍 、主に北洋軍 (中国語版 ) から受け継がれ、後に多くの軍閥に分裂して内戦を起こした[ 29] 。国民革命軍 は、中国国民党・国民政府の下に中国を統一することを目的として、1925年に孫文 によって広東省 で設立された。国民革命軍は事実上の中華民国軍として機能し、北伐 、日中戦争 、国共内戦 など、多くの戦争に関わった。
日中戦争での国民革命軍 第二次国共合作 中、中国共産党 の軍隊は独立勢力だったが、名目上は国民革命軍の指揮下にあった。終戦直後に中国人民解放軍 を結成するために離脱した。1947年 の中華民国憲法 の施行に伴って翌年に国民政府が中華民国政府へ、国民革命軍は中華民国国軍 に改組された[ 30] 。
1933年、国民政府は「兵役法」を公布して兵役義務の基本原則を定めたが、法に従って徴兵を厳格に実施することはなかった[ 31] 。日中戦争が勃発するまでは、中国軍の最高レベルの兵器はドイツ訓練師団 によって提供されており、兵士は標準化されたヘルメット、中国製の国産ライフル銃またはドイツ製の1924標準式モーゼル ライフル、チェコ 製ZB26軽機関銃の国産コピー、24式重機関銃 、標準化された連装弾薬を装備していた。ドイツ製のクルーバー75ミリ野砲またはボフォースM1930山砲、PaK36対戦車砲、88ミリ高射砲を装備し、師団および連隊レベルの無線通信システムを備えていた。ドイツ訓練師団も、対日参戦のために上海 に赴いた際にはドイツ製のSFH 18榴弾や戦車などの装甲車両を装備していたが、上海戦 と南京戦 によってほぼ失われた[ 32] 。
保定陸軍軍官学校 は、中国の近代軍事教育史上、最古で最大規模の軍事学校である。1912年から1923年までの9期間に6300人以上の卒業生がおり、その多くは後に同校の教官となり、1700人以上の卒業生は将官となった。中華民国陸軍士官学校 は1924年に設立された。これは第一次国共合作 時にソ連からの援助で設立された学校である。北伐完了後に南京に移転、日中戦争勃発後は成都 に移転し、大陸統治時代の卒業生のほとんどは北伐、日中戦争、国共内戦に参加していた[ 33] 。一方、中国共産党は1933年10月17日に江西省 (中華民国) 瑞金市 に中国工農紅軍大学を設立した。長征 後に陝北紅軍軍事政治学校と合併して西北工農紅軍学校となった[ 34] 。1937年4月には中国人民抗日軍政大学に改称された[ 35] 。
中華民国の建国初期には、清朝からのいくつかの海軍訓練学校が継承されていたが、各軍閥がそれぞれ独自の軍艦を持ち、それぞれバラバラのやり方であったため、北伐が完了したころには派閥間や地方間で深刻な内部抗争が起きていた。日中戦争の勃発は国民政府の統制を強化する契機となった。主要な軍艦が日本軍によって破壊され、沿海部の領土を日本軍に占領されると、全ての海軍は四川省 に移り、残された唯一の海軍訓練部隊は福建派閥の支配下にあった馬尾海軍学校だけであった。1937年から1945年までの間に航海士5期、機関士2期、造船士1期の合計133人の学生が学んだ。[ 36] 。
中華民国の空軍訓練機関は、1913年に北京政府によって設立された南苑航空学校に端を発している。運営されていた15年の間に4期で158人のパイロットを養成した[ 37] 。1924年、孫文は広州 の東山に軍事飛機学校を設立し、黄埔軍官学校 の卒業生8人を選抜して飛行を学ばせた。1932年に中央政府航空学校に改称し、浙江省 杭州市 に移転した。日中戦争勃発後は雲南省 昆明市 に移転し、終戦後は元の場所に戻った。国共内戦後は台湾省 高雄県 岡山鎮(現:高雄市 岡山区 )に移転して授業を再開した[ 38] 。
呉淞江 を通行する船と上海 の街並み(1920年)海関金単位兌換券(1930年) 中華民国初期は、軍閥間の内戦が続いたため、経済は不安定だった。北京政府 の指導者は絶え間なく変化した。この政情不安は1928年 の中国国民党による全国統一まで続き、経済発展の停滞に繋がった[ 39] 。1930年代 、日本との戦争や国共内戦は続いていたものの、「黄金の十年」として知られる比較的安定した時期に入った。
中国の産業は1928年から1931年 にかけて大幅に成長した。1931年の満洲事変 と1931年から1935年 の世界恐慌 では経済が打撃を受けた一方で、産業生産高は1936年 までにピークに回復した。これは中国のGDPの傾向に反映されている。1932年 、中国のGDPは288億でピークに達し、1934年 までに213億に減少し、1935年 までに237億に回復した[ 40] 。1930年 までに、中国への外国投資は合計35億ドルに達した。日本が14億ドルで首位に立ち、イギリスの10億ドルがそれに続いた。しかし、1948年 までに設備投資は停止し、わずか30億にまで減少した[ 41] 。
しかし、1930年代の世界恐慌により、農村経済は大きな打撃を受けた。農産物の過剰生産は、国産商品の価格の下落と外国からの輸入の増加に繋がった。1931年の中国の米輸入量は1928年の1200万ブッシェルに対し、2100万ブッシェルだった。その他の輸入はさらに増加した。1932年 には、1928年 の90万ブッシェルと比較して、1500万ブッシェルの穀物が輸入された。この競争の激化により、中国の農業価格が大幅に下落し、農村部の農家の収入が大幅に減少した。1932年の農業価格は1921年の水準の41%だった[ 42] 。1934年 までに、農村部の収入は一部の地域で1931年の57%まで低下した[ 42] 。
1937年、日中戦争が勃発した。戦争は中国経済に打撃を与えた。産業の中心の沿海部は日本によって占領されていた。1942年 の1回の反ゲリラ掃討で、日本人 は1か月に最大20万人の民間人を殺害した。戦争は2000万から2500万人の中国人を殺害し、国民政府が過去10年間に築き上げてきたものを完全に破壊したと推定された[ 43] 。戦後、内戦と安価なアメリカ製品の流入により、産業の発展は著しく妨げられた。1946年までに、中国の産業は20%の生産能力で操業し、戦前の中国の生産量の25%であった[ 44] 。
日中戦争による影響の1つは、政府による産業の統制が大幅に強化されたことである。1936年 、国有の産業はGDPのわずか15%だった。しかし、国民政府は戦争と戦うために多くの産業を統制した1938年 、国民政府は、企業を監督および管理し、価格統制を浸透させるために、産業および鉱山のための委員会を設立した。1942年 までに、中国の産業の70%が国有になっていた[ 45] 。
日本の降伏 により、台湾 は中華民国の統治下に入った(台湾光復 )が、ほぼ同時期に国共内戦 が再発した。内戦の影響によるハイパーインフレーション は国全体に大規模な不況をもたらし[ 46] 、国民党への批判と共産党への支持を生み出した。さらに、土地を再分配するという共産党の公約は、多くの農民の支持を得た。1949年 10月1日 に中華人民共和国 が建国され、同年12月7日 に中華民国政府は台湾へ移転 した[ 47] 。
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