| 中島 源太郎 なかじま げんたろう | |
|---|---|
![]() 中島源太郎(1987年頃) | |
| 生年月日 | (1929-02-11)1929年2月11日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1992-02-07)1992年2月7日(62歳没) |
| 死没地 | 東京都新宿区 (慶應義塾大学病院) |
| 出身校 | 慶應義塾大学経済学部 |
| 前職 | 大映社員 映画プロデューサー 富士重工業監査役 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 | 従三位 勲一等瑞宝章 |
| 子女 | 二男・中島洋次郎 |
| 親族 | 父・中島知久平 |
| 内閣 | 竹下内閣 |
| 在任期間 | 1987年11月6日 -1988年12月27日 |
| 選挙区 | 群馬県第2区 |
| 当選回数 | 7回 |
| 在任期間 | 1969年12月29日 -1972年 1976年 -1992年2月7日 |
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中島 源太郎(なかじま げんたろう、1929年〈昭和4年〉2月11日[1][2][3] -1992年〈平成4年〉2月7日[3])は、日本の映画プロデューサー、政治家。位階は従三位。第109代文部大臣[4]、衆議院議員(7期)。中島飛行機創業者・中島知久平の長男。

1929年(昭和4年)群馬県新田郡尾島町押切(現・太田市押切町)に、中島知久平の長男として生まれる[1][2]。父・知久平は生涯結婚することはなかったため婚外子であった[5]。1930年(昭和5年)父が衆議院議員に当選したため、東京に移り住む[2]。1941年(昭和16年)慶応義塾普通部に入学、馬術部に所属し、ボクシングジムにも通った[1][2]。大学時代はアメリカンフットボール部に在籍[1][2]。敗戦国である日本が国際的交流を図っていくにはディズニーのようなアニメーション映画の活用が最適だと考え、中村研一にデッサンを学ぶ[1][2]。
1951年(昭和26年)に慶應義塾大学経済学部を卒業した後、大映に入社した[2][6][7]。大映時代には永田雅一社長のもとで産業スパイ映画「黒の試走車」などの作品をプロデュースしている[1][2]。
1954年(昭和29年)富士重工業監査役となり、のち常任顧問[2]。
1962年(昭和37年)にアニメ制作に専念するため大映を退職[1][2]。日本動画製作会社を設立[7]。栃木の民話を題材にしたアニメ映画「九尾の狐と飛丸(殺生石)」を制作、文部省選定となる[1][2][7]。国会での試写会で同作を観た船田中が、源太郎が中島知久平の息子であることを知り政界進出を勧めた[2][7]。
1969年(昭和44年)、第32回衆議院議員総選挙に群馬2区から立候補し当選[1][2]。1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙では落選[1][2]。1976年(昭和51年)第34回衆議院議員総選挙で返り咲き[1][2]、以後第39回まで連続6期。
通商産業、経済企画の両政務次官を経て[1][2]、1987年(昭和62年)11月6日から1988年(昭和63年)12月27日まで竹下内閣の文部大臣を勤め、文部省に生涯学習局を設置、現代舞台芸術のセンターとなる第二国立劇場の設立促進などに努めた[7]。文相時代に学習指導要領の改訂案で小学6年生の社会科教科書に取り上げる人物として東郷平八郎が出た際、反対した。
また東京駅丸の内駅舎保存問題について「重要な歴史的記念建造物として創建当時の姿に復元して永遠にその保存活用を図っていくべきではないか」と国会で質問された際には「できれば大正三年の元の、これが東京駅という威容に戻して、そして親しまれる東京駅、首都の顔として保存されることがあれば好ましいことだ」と答弁している[8][注釈 1]。
任期途中の1992年(平成4年)2月7日、劇症肝炎のため慶應義塾大学病院で死去した[9]。62歳没。同年2月12日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって正三位勲一等に叙され、瑞宝章を追贈された[10][9]。追悼演説は同年4月17日の衆議院本会議で同郷の山口鶴男により行われた。墓所は多磨霊園[11]。
同社は、中島源太郎がアニメ映画『九尾の狐と飛丸』(1968)を制作するために大映を辞めて1966年に設立したアニメ制作会社[12]。同作は大映時代に何度も企画しては却下された岡本綺堂原作の「玉藻前」の話をもとにアニメ化したもので、興行的にはふるわなかったものの、のちに幻の傑作としてカルト的な評判を得た作品である。監督八木晋一(共同ペンネーム)のほか、池野成、波多正美、彦根範夫、吉川惣司、長田千鶴子、永沢詢、東恵美子らが制作に参加した。日本動画は同作の後、『白蛇伝』で知られる藪下泰司を監督に迎えて、『日本漫画映画発達史 漫画誕生』(1971)、『日本漫画映画発達史 アニメ新画帖』(1973)の二部作を製作し、わずか数年で解散した[12]。東映アニメーションの前身となった「日本動画株式会社」とは異なる。
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 片岡清一 | 1984年 - 1986年 | 次代 志賀節 |
| 先代 竹内黎一 | 1983年 - 1984年 | 次代 愛野興一郎 |
| 公職 | ||
| 先代 塩川正十郎 | 第109代:1987年 - 1988年 | 次代 西岡武夫 |