| この項目では、俳優について説明しています。体育学者については「中山仁 (体育学者)」をご覧ください。 |
| なかやま じん 中山 仁 | |||||
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| 本名 | 中山 仁平 | ||||
| 別名義 | 梶原 仁(旧芸名) | ||||
| 生年月日 | (1942-09-25)1942年9月25日 | ||||
| 没年月日 | (2019-10-12)2019年10月12日(77歳没) | ||||
| 出生地 | |||||
| 出身地 | |||||
| 身長 | 176cm[1] | ||||
| 血液型 | A型[1] | ||||
| 職業 | 俳優、歌手 | ||||
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||
| 活動期間 | 1965年 -2019年 | ||||
| 活動内容 | 1965年:劇団NLT入団 1968年:浪曼劇場創立に参加 1972年:浪曼劇場解散 | ||||
| 配偶者 | 寺田史[2] | ||||
| 著名な家族 | 中山玲(娘) ari(娘) | ||||
| 主な作品 | |||||
| 映画 『宴』『愛の讃歌』『智恵子抄』 『囁きのジョー』『伊豆の踊子』 『スペーストラベラーズ』 テレビドラマ 『サインはV』『七人の刑事』 『草燃える』『ウルトラマン80』 『付き馬屋おえん事件帳』 舞台 『鹿鳴館』『双頭の鷲』 『黒蜥蜴』『女の一生』 | |||||
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中山 仁(なかやま じん、1942年9月25日[1] -2019年10月12日[3])は、日本の俳優。本名:中山 仁平[4][5]。
中華民国・北京生まれ[4]、東京都出身[1]。東京都立雪谷高等学校卒業[4]、早稲田大学第一政治経済学部政治学科中退[4][5]。事務所はオフィスのいりに所属していた。
早稲田大学を2年で中退後、1964年、文学座付属演劇研究所に第4期生として入る[4]。翌年(1965年)、「劇団NLT」に入団。同年、テレビドラマ『乱れる』(フジテレビ系)に南田洋子の相手役に抜擢され、梶原 仁の芸名でデビュー[4]。1966年に同番組が終了と同時に、芸名を「中山 仁」に改め、化粧品会社のポスターに起用され、売り出しのきっかけをつかむ[4]。同年4月には『ひき逃げ』で映画初出演し、『リュイ・ブラス』で舞台にもデビューを果たす[4]。
1967年、五所平之助により松竹映画『宴』の主役に抜擢されたことで注目を集め、以降は重要な役が増えていく[4]。同年には『囁きのジョー』、『花の宴』などの映画で活躍し、日本映画製作者協会(エランドール賞)新人賞を受賞する[4]。1968年、三島由紀夫主宰の劇団「浪曼劇場」創立に参加し、1972年の解散まで所属[4]。
1970年代以降は、主な活躍の場をテレビに移し、テレビドラマ『サインはV』(1969年、TBS)でお茶の間でもおなじみの顔となる[4]。翌年(1970年)に同作は映画化もされ、中山は鬼コーチの代名詞となった[4]。『サインはV』の撮影は体育館ばかりだったため、大ヒットドラマという実感を味わうことはなかったが、1973年に続編が制作され、前作と同じ牧コーチ役で出演した時、初めて1作目の熱量に気づいたという[6]。
そのほか、『七人の刑事』『ウルトラマン80』『付き馬屋おえん事件帳』といった、さまざまなジャンルのドラマに出演した。『80』にはUGMのオオヤマ一樹キャップ役で出演し、オファーを承諾した理由について、『サインはV』でメディアの力の凄さを知ったことが大きかったと語っている[7]。
コンタックのCMではコミカルな役柄で注目され[5]、2000年以降もバイプレーヤーとして単発ドラマや舞台を主な活動の場としている。
1968年に映画『激流』で共演した女優・寺田史(俳優・寺田農の実妹[2])と結婚し、二子あり[4]。娘の中山玲は女優として活動しており[4][5]、もう一人の娘はピアニスト・歌手のari[8]。
趣味は釣り[4]。特技は歌唱で、テイチクと専属契約を結び数枚のシングルレコードをリリースしていた[9]。
2019年10月12日午後5時25分に肺腺癌によって東京都内の自宅で死去していたことが、同年11月11日に発表された。享年77[3]。