| 中尾 都山 (初代) | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生名 | 中尾 琳三 |
| 生誕 | 1876年10月5日 |
| 出身地 | |
| 死没 | (1956-10-10)1956年10月10日(80歳没) |
| 職業 | 尺八奏者、作曲家、都山流流祖 |
| 担当楽器 | 尺八 |
| テンプレートを表示 | |
中尾 都山(なかお とざん)は都山流尺八の名跡、一般には初代中尾都山(本項で記述)を指す。
1876年(明治9年)10月5日、大阪府茨田郡(現・枚方市)にて父中尾治郎平、母み津の次男として誕生。本名は中尾琳三。虚無僧として修業ののち、1896年(明治29年)2月15日に都山流を創始。[1]尺八は江戸時代には虚無僧が独占し、演奏する曲も宗教的なものがほとんどであったが、1903年(明治36年)の「慷月調」を始めとして、従来の古典尺八曲にはない新しい「都山流本曲」を次々と作曲。また古典尺八曲がほとんど独奏曲だったのに対し、都山は合奏曲の本曲という新しい分野を開拓した。大正時代に入り新進箏曲家・宮城道雄らと共に巡回演奏を行うなど、その頃急速に広がりを見せていた新箏曲や新日本音楽の普及に貢献した。都山流は評議員制度の導入など当時としては画期的な運営もあり大組織の樹立に成功、琴古流と並ぶ勢力を一代で築いた。[2]
これらの功績により、1953年(昭和28年)に日本芸術院賞を受賞。[3]
流祖中尾都山の作曲による主な都山流本曲 (カッコ内は作曲年)
初代都山の子、1944年1月9日生れ、本名・稀一。1956年に12歳で二代目を襲名。武蔵野音楽大学卒[6]。1974年10月12日に30歳で早世[7]。
二代目都山の実母、本名・中尾れん(1905年4月22日 - 1990年1月6日)[8]。二代目の急逝を受け、三代目を襲名し都山流を引き継いだ。
(一方で、二代目都山の長女中尾美都子(1969年3月7日生れ)が、流の幹部島原帆山らの後援により家元権を主張。最終的に新都山流初代宗家を名乗ることとなり、またその島原帆山も後に新都山流を離れ日本尺八連盟を設立するなど、都山流は分裂した。[9][7])
初代都山の孫(初代の長男治正の子)、1948年生れ、本名・正幸。1990年に四代目を襲名。
| |||||||||
| |||||||||
| 太字は恩賜賞受賞者。雅号、筆名、芸名等は受賞時のものによる。表記揺れによる混乱を避けるため、漢字は便宜上新字体に統一する。 | |||||||||