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中尾碩志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中尾 碩志
基本情報
国籍日本の旗日本
出身地三重県伊勢市
生年月日1919年12月1日
没年月日 (1977-12-09)1977年12月9日(58歳没)
身長
体重
176 cm
71 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1939年
初出場1939年3月31日
最終出場1957年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1958 - 1974)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年1998年
選出方法特別表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手  テンプレート

中尾 碩志(なかお ひろし、1919年12月1日 -1977年12月9日)は、三重県伊勢市出身のプロ野球選手投手)。旧名は中尾 輝三(なかお てるぞう)。

経歴

[編集]

宇治山田出身で旧制京都商業学校(現・京都先端科学大学附属高等学校)を経て、1939年東京巨人軍に入団。沢村栄治と出身中学も含めて同じ経歴であったことから巨人入団時も「沢村二世」との触れ込みであったという[1]

1年目から39試合に登板し12勝を記録。なお5月9日と7月15日の試合でも先発登板して、5回以降までリードしたまま降板しチームはそのままリードを守ったまま巨人が勝利したが、試合当時の公式記録員は中尾の後を受けてリリーフで投げたヴィクトル・スタルヒンを勝利投手とした。この勝利投手の記録を巡っては、二度に渡ってスタルヒンとの間で修正される事となり、1953年に中尾が勝利投手として修正され、この年の勝ち星を14勝としているが、1962年にコミッショナー裁定で再度スタルヒンの勝ち星に戻され、12勝で確定している。

→詳細は「ヴィクトル・スタルヒン § 1939年の勝利数について」を参照

11月3日の対東京セネタース戦では、ルーキーにしてノーヒットノーランを達成している。この試合の4回には、無死一塁から野口二郎にライト前に落ちる打球を打たれるが、右翼手・中島治康の好返球で、一塁走者尾茂田叶が二塁封殺され、ライトゴロになる幸運もあった。NPBで11月にノーヒットノーランを達成した投手は中尾ただ一人である。

1940年から2年連続で26勝を記録。1941年には病気のスタルヒン代わってエースとなり、26勝(リーグ2位)、防御率1.54(リーグ7位)の好成績を挙げ、179奪三振はリーグトップであった。この年の7月16日の対名古屋軍戦で2度目のノーヒットノーランを達成。この時も8回に連続四球で無死一・二塁の場面を作り、牧常一にライト前に落ちる打球を打たれたが、右翼・中島の好返球で一塁走者木村進一を二塁で封殺、さらに続く桝嘉一の右飛を捕球した中島が一塁走者の牧が飛び出しているのを見て素早く一塁へ送球して併殺にして切り抜けた。1942年13勝を挙げるも、同年9月に入営のため退団。

1946年巨人に復帰。戦後は制球力とドロップを駆使した技巧派に転向し、1948年には27勝で最多勝防御率1.84で最優秀防御率、奪三振187で最多奪三振。1リーグ制最後の投手三冠王を達成するとともに、ベストナイン沢村賞にも選出された。その後、故障とスランプにより1951年、1952年は一桁勝利に留まるが[2]1953年から主戦投手として復活し3年連続で15勝前後を記録するなど、別所毅彦藤本英雄大友工らと巨人の第二期黄金時代の投手陣を支えた[2]1955年に通算200勝を達成。未勝利に終わった1957年限りで引退。通算記録の投球回3057と与四球1436は、今なお巨人の球団最多記録である。

引退後は巨人投手コーチ(58年 - 61年、74年)・二軍監督(62年 - 70年、72年 - 73年)・ヘッドコーチ(71年)を歴任し、V9を支えた。黒メガネの二軍監督として『巨人の星』『侍ジャイアンツ』などの漫画アニメに登場した。また、一軍投手陣が不調に陥ると、中尾が一軍に呼び戻されて投手陣の整備に努めるなど、監督であった川上哲治の信頼が厚かった[2]。その間の1973年には湯口事件の当事者として、川上とともにバッシングにさらされている。

1974年オフの川上の勇退に伴って、中尾はフロント入りしてスカウト部長に就任する。1977年12月9日午前7時28分に急性胆嚢炎のため川崎市内にある聖マリアンナ医科大学病院で急逝した[3]。58歳没。1998年野球殿堂入り。墓所は川崎市春秋苑

選手としての特徴

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剛速球であったが制球が悪かった[4]。1度目のノーヒットノーランの際は四球10個、2度目も四球7個に死球1個を出しながら安打を許さずシャットアウトしている。特に1度目の時は初回から5回まで毎回先頭打者を四球で歩かせ、4回(上述のライトゴロの後)と9回のいずれも二死後に連続四球を記録している。NPBで二桁四球を出しながらノーヒットノーランを達成したのも中尾ただ一人である[5]

戦後は制球力を重視する技巧派に転身。徐々に腕の位置が下がるとともに、落ちる球も覚えて、長きに亘って主戦投手として活躍した[6]投球回9イニングスあたりの与四球数は、戦前の1939~1942年は5.68個であったが、両リーグ分立後の1953年~1955年は2.09個と大幅に改善されている。

人物

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投手は先発完投こそが華と強く自負しており、投手分業制を掲げるかつての同僚であった近藤貞雄との論争の数々は多くの人に知られている。

しらふの時には堅物で「俺は聖人君子だ」というような顔をしていた。一方で、一升瓶をすぐに空けてしまうほどの酒好きで、酔いが回ると顔色が真っ青になり、先輩後輩誰彼構わず大きな手で襟首を捕まえて引きずり倒し、押さえつけてから説教をするようなところがあったという[7]

1950年ごろの巨人の若手グループ「トンコ節集団」のリーダー格であった。メンバーは中尾のほか、多田文久三小松原博喜藤原鉄之助武宮敏明内藤博文大友工松田清・市川マネージャーの8人組で、中尾はよくメンバーを引き連れて夜の町へ繰り出していた。メンバーの大友は「飲んで騒いで、さっと引き揚げ、あれでわれわれ若手は救われたし、中堅クラスが一つにまとまった」と語っていた[8]

真面目過ぎる性格で、二軍の監督・コーチ時代は、若い選手が中尾の厳しさに音を上げていたほどだった[6]。律儀な性格で、スカウト部長時代に甲子園大会に偵察に行った際、ネット裏からプレーする選手を張り付くようにして眺め、食事もわざわざ運ばせて食べながら選手を注視していたという[8]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1939巨人39321250125----.706971224.01534174--31376082652.611.46
1940484130512611----.7031443347.02234212--42254193681.761.25
1941413423100269----.7431212299.01603181--11793063511.541.14
194232251730138----.619951230.21484128--21146063481.871.20
1946342912201110----.524917207.12034120--39941100763.291.56
194728261411914----.391762182.013710110--1743076592.921.36
1948473925822712----.6921347343.02458116--31870193701.841.05
1949322414001310----.565883204.21921199--311611100833.641.42
195038278211211----.522838194.11932676--111230105843.881.38
1951291640196----.600541130.1124837--0600256443.021.24
195214410012----.33319342.142127--2230126193.971.63
19533420620148----.636734181.2157540--2680076552.721.08
19543724841155----.750743187.21611244--5762063542.591.09
19553123713169----.640722183.0149114415810054432.111.05
1956291632057----.41740093.29242823411029212.011.28
19573100000--------266.171000500222.571.11
通算:16年5163811844510209127----.622126833057.023861161436338159733710818422.481.25
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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背番号

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  • 18 (1939年 - 1942年、1946年 - 1957年)
  • 33 (1958年 - 1961年)
  • 70 (1962年 - 1974年)

登録名

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  • 中尾 輝三 (なかお てるぞう、1939年 - 1947年)
  • 中尾 碩志 (なかお ひろし、1948年 - 1974年)

脚注

[編集]
[脚注の使い方]
  1. ^『巨人軍の男たち』74頁
  2. ^abc『ジャイアンツ栄光の70年』43頁
  3. ^西日本新聞 1977年12月9日金曜日付 夕刊15面
  4. ^巨人生え抜き最多の209勝 中尾碩志 3057登板回も球団最多記録
  5. ^巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.17 「彼を有名にしたのは2度にわたるノーヒットノーラン、そして大量のフォアボールだった」と評されている。
  6. ^ab『剛球唸る!』119頁
  7. ^『巨人軍の男たち』77頁
  8. ^ab『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』24頁
  9. ^『プロ野球記録大鑑』896頁

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

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業績
競技者表彰
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
プレーヤー
2000年代
2010年代
2020年代
エキスパート
2000年代
2010年代
2020年代
特別表彰
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
新世紀
2000年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1947年制定。記述のない年は該当者なし。
1940年
1947年
1948年
1949年
上記以外の年は表彰なし
1リーグ時代は連盟表彰タイトルではない。1945年は太平洋戦争のため中断。
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
脚注

ノーヒットノーラン達成投手のみ記載。
完全試合達成投手についてはTemplate:日本プロ野球完全試合達成者を参照。

全般
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