| 「不知火諾右衛門」とは異なります。 |
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|---|---|---|---|---|
| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 不知火 光右衛門 | |||
| 本名 | 近久(旧姓:原野) 峰松 | |||
| 生年月日 | 1825年4月20日 | |||
| 没年月日 | (1879-02-24)1879年2月24日(53歳没) | |||
| 出身 | 肥後国合志郡陣内村 (現:熊本県菊池郡大津町) | |||
| 身長 | 177cm | |||
| 体重 | 120kg | |||
| BMI | 38.30 | |||
| 所属部屋 | 湊部屋(大坂)→境川部屋(東京) | |||
| 得意技 | 右四つ、寄り | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 第11代横綱 | |||
| 幕内戦歴 | 119勝35敗15分9預77休 | |||
| 優勝 | 優勝相当成績3回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1850年11月場所(二段目) | |||
| 入幕 | 1856年11月場所 | |||
| 引退 | 1869年11月場所 | |||
| 備考 | ||||
| 2013年6月9日現在 | ||||
不知火 光右衛門(しらぬい みつえもん(こうえもん)、1825年4月20日(文政8年3月3日) -1879年(明治12年)2月24日)は、肥後国合志郡陣内村(現:熊本県菊池郡大津町)出身で境川部屋(入門時は大坂の湊部屋)に所属した大相撲力士。本名は近久(旧姓:原野) 峰松(ちかひさ みねまつ)。
なお、光右衛門が生まれる約20年前に亡くなった大関力士(本姓:平野)も「不知火光右衛門」を名乗っていた(1775年(安永4年) -1804年8月19日(文化元年7月14日))。ここでは後に第11代横綱に昇進した不知火光右衛門について記述する。
1825年に肥後国菊池郡陣内村で農家を営む家に二男として生まれる。祖父の原野儀右衛門は土地相撲の大関を務め、峰松も16歳の時に祖父と同じ土地相撲に加入した。同郷の力士である不知火諾右衛門の弟子となり、大阪相撲での修行を経て江戸に出て、境川部屋門下となる。境川部屋から1850年11月場所に殿(しんがり) 峯五郎の四股名で初土俵を踏む。その後は熊本藩の抱え力士となり、1856年11月場所で新入幕を果たし、翌年に「不知火 光右衛門」と改名した。
1862年3月場所で大関に昇進すると、この場所に発生した「小柳殺し」(前頭小柳平助殺害事件)によって出場を辞退するが、翌年3月場所で吉田司家から横綱免許を授与された。1866年4月場所4日目に足取り名人として有名だった両國梶之助(伊勢ヶ濱)の足を取って勝利した際は、花柳界で「足を取る相撲上手の両國関も足を取られてすってんころりん」と唄われた。
1869年11月場所(全休)を最後に現役を引退した。引退後は古巣・大阪相撲へ戻って下の名を「諾右衛門」と改名、1870年から3年に渡って横綱土俵入りのみを披露した。現役中から行っていた横綱土俵入りが「白鶴の翼を張れる如し」と形容される程に見事だったためと伝わる。また、年寄・不知火(初代)を襲名した。1879年2月24日に死去、53歳没。
江戸相撲の本場所のみを示す。
| 春場所 | 冬場所 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1850年 | x | 西幕下36枚目 –[2] | ||||
| 1851年 | 西幕下37枚目 –[2] | 西幕下39枚目 –[2] | ||||
| 1852年 | 西幕下39枚目 –[2] | 西幕下34枚目 –[2] | ||||
| 1853年 | 西幕下31枚目 –[2] | 西幕下28枚目 –[2] | ||||
| 1854年 | 西幕下18枚目 –[2] | 東幕下9枚目 7–1–1 1預[2] | ||||
| 1855年 | 東幕下8枚目 – 興行中止[2] | x | ||||
| 1856年 | 東幕下8枚目 5–2–2 1預[2] | 西前頭7枚目 5–0–4 1預 | ||||
| 1857年 | 西前頭6枚目 2–2–2 2預 | 西前頭4枚目 4–2–1 1分2預 | ||||
| 1858年 | 西前頭3枚目 5–2–2 1分 | 西前頭筆頭 – 興行中止 | ||||
| 1859年 | 西関脇 4–2–1 2分1預 | 西小結 6–1–2 1分 | ||||
| 1860年 | 西小結 8–0–1 1分[3] | 西関脇 3–3–1 | ||||
| 1861年 | 西関脇 4–2–4 | 西関脇 6–1–2 1分 | ||||
| 1862年 | 西大関 4–1–4 1分 | 西大関 5–3–1 1分 | ||||
| 1863年 | 西大関 4–2–3 1預[4] | 西大関 0–0–9 | ||||
| 1864年 | 西大関 7–1–2[3] | 西大関 7–0–1 1分1預[3] | ||||
| 1865年 | 西大関 1–0–8 1分 | 西大関 6–1–1 2分 | ||||
| 1866年 | 東大関 6–2–2 | 東大関 6–1–3 | ||||
| 1867年 | 東大関 7–1–2 | 東大関 2–2–5 1分 | ||||
| 1868年 (明治元年) | 東大関 6–1–3 | 東大関 5–3–2 | ||||
| 1869年 (明治2年) | 東大関 6–2–2 | 東大関 引退 0–0–10 | ||||
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 -十両 -幕下 -三段目 -序二段 -序ノ口 幕内序列:横綱 -大関 -関脇 -小結 -前頭(「#数字」は各位内の序列) | ||||||
第11代横綱(在位:1863年10月 - 1869年11月) | |
|---|---|
| 初代 - 10代 | |
| 11代 - 20代 |
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| 21代 - 30代 |
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| 31代 - 40代 | |
| 41代 - 50代 | |
| 51代 - 60代 | |
| 61代 - 70代 | |
| 71代 - 80代 | |
| 無類力士 | |
この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。 |