 | この項目では、初代三遊亭圓朝について説明しています。2代目としての活動前に死去した落語家については「三遊亭圓右」をご覧ください。 |
三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)は、江戸・東京の落語・三遊派の大名跡。円朝とも表記。
- 初代三遊亭圓朝 -本項にて記述
- 2代目三遊亭圓朝 -初代三遊亭圓右が改名
初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう、天保10年4月1日(1839年5月13日) -明治33年(1900年)8月11日)は、幕末‐明治に活躍した落語家。本名∶出淵 次郎吉。三遊派の総帥、宗家。「三遊派中興の祖」また「近代落語の祖」[1]として有名。
敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に坪内逍遥の勧めで圓朝の落語口演筆記を参考にして文体を創り、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした[2]。
前述の通り、初代の死後に2代目を襲名した人物がいるが、「2代目三遊亭圓朝」として高座に上がったことはないため、単に「三遊亭圓朝」というと、この初代を指すことがほとんどである。
三遊亭圓朝
三遊亭圓朝定紋「高崎扇」落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。
「お笑い」の分野である滑稽噺より、人情噺や怪談噺など、笑いのない真面目な、いわば講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派の人情噺というスタイルを決定づけた。
あまりの巧さに嫉妬され、師匠の2代目三遊亭圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝はこれなら他人が演ずることはできないだろうという自作の演目を口演するようになり、多数の新作落語を創作した。
初代談洲楼燕枝とは年齢が1歳下のライバルであった。
鳴物や大道具を用いた噺の祖[要出典]としても知られ、その技法は代表作の一つである『真景累ヶ淵』にて完成を見せたのみならず、今日でも怪談噺の定番演出であるライティングやBGM等として受け継がれている。
また怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られ、遺されたコレクションは全生庵蔵として圓朝まつりで毎年公開されているほか、2015年には東京芸術大学大学美術館でも展覧会が行われた。
| 伝記の記載を年譜形式のみとすることは 推奨されていません。 人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2025年5月) |
※日付は明治5年までは旧暦
圓朝による新作落語には名作佳作とされる作品も多く、多数が現代まで継承されている。特に『死神』は尺が短いこともあって、多くの演者が演じている。圓朝は江戸時代以来の落語を大成したとされ、彼の作による落語は「古典落語」の代表とされる(現在では大正以降の作品が「新作落語」に分類される)。
人情噺では、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、『文七元結』、『芝浜(異説あり)』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案には『死神』『名人長二(発表:1887年。原作:モーパッサン「親殺し」)』『錦の舞衣(発表:1891年。原作:ヴィクトリアン・サルドゥ「トスカ」。後にプッチーニにより1900年にオペラ化される『トスカ』の原作)』がある。奇談としては『鰍沢』(三題話)などもあり、非常にレパートリーが広い。
- 『圓朝全集』全13巻(鈴木行三 校訂)春陽堂。復刻版:世界文庫、1963年 ※ほぼ電子書籍化され無料公開
- 『三遊亭円朝全集』全7巻・別巻1角川書店、1975年 - 1976年 ※別巻は大判で、図録・資料集
- 『円朝全集』全13巻・別巻2岩波書店[注釈 2]、2012年 - 2016年
- 「怪談牡丹燈籠」「圓朝叢談鹽原多助一代記」「英國孝子之傳」「眞景累ヶ淵」「名人長二」を収む。
- 『三遊亭円朝』 <明治の文学 第3巻>(森まゆみ 編・解説、坪内祐三編集代表)筑摩書房、2001年
- 「業平文治漂流奇談」(抄)、「闇夜の梅」、「真景累ヶ淵」(抄)、「梅若七兵衛」、「文七元結」、「指物師名人長二」、「落語及一席物」、「小咄」、「和洋小噺」、「三題噺」を収む。
- 業平文辞松達摂:明治12年(1879年)4月。東京・春木座。
- 内容は「業平文治もの」。円朝物の劇化作品の嚆矢とされる。三代目片岡我當が三遊亭圓朝を演じた。評判は不詳だが入りは好調だったと記録されている。
- 『粟田口霑一節裁』:明治22年(1889念)11月。東京・春木座。
- 『塩原多助一代記』:明治25年(1892年)1月。東京・歌舞伎座。
- 五代目 尾上菊五郎の主演で、宣伝の効果もあり大評判となり、『塩原多助』が修身国定教科書に登場するきっかけとなった。実在の人物は「塩原太助」であるが、修身教科書で「塩原多助」となっているのは円朝作品の影響の証左とされる。
- 『怪異談牡丹燈籠』:明治25年(1892年)7月。東京・歌舞伎座。
- 同じく五代目 菊五郎の主演で、これも奇抜な宣伝が奏功し大当たりとなり、「夏は怪談物」ということのきっかけとなった。
- 昭和20年(1945年)以降で見ると、『文七元結』と『芝浜』を別にすれば(この2作品は円朝の代表的作品とは言えないようだから)、演じられるのは『真景累ヶ淵』『牡丹燈籠』『怪談乳房榎』のみと言ってよい。しかも前2作品は特定の場面のみである[9]。
牡丹灯籠#映像化、怪談乳房榎#関連作品、怪談累ヶ淵を参照。
「えんちょうまつり」と称するイベントが毎年開かれている。それぞれ「圓朝祭」と「圓朝まつり」であるが、両者は無関係である。
ホール落語の興行である。有楽町で開催される(過去には渋谷・霞が関にて開催)
- 東横落語会
- ホール落語の代表である東横落語会は、毎年8月、圓朝にちなんだ落語興行を「圓朝祭」と題して開催した。会場は、東横落語会の他の回と同じく東横ホール(歌舞伎興行でも知られる。現在は消滅)。東横落語会の終結(1985年)とともに終了した。現在、他の会社(株式会社ロット)が独自に「渋谷東横落語会」を開催しているが、同社は特に同名のイベントを開催していない。
- ジュゲムスマイルズ[10]
- 東横落語会の圓朝祭が終了したのち、有限会社ジュゲムスマイルズが「圓朝祭」という落語会を開いている[11]。同社代表の大野善弘は中央大学落語研究会OBで、柳家小さん(5代目)のマネージャーとして落語に関わってきた。会場は2008年からよみうりホール。2007年まではイイノホールであった。2008年からは「お笑い夢のエンチョウ戦」と題する色物のイベントもともに開催する。
圓朝の墓所である谷中・全生庵で開催される落語会。
- 谷中圓朝まつり
- 毎年8月に圓朝の命日8月11日を含む、1ヶ月間にわたり開かれる。怪談噺創作の元になった幽霊画を一般に公開する。拝観料が必要である。下谷観光連盟と圓朝まつり実行委員会の共催。
- 圓朝寄席
- 円楽一門会の落語家による落語会。5代目三遊亭圓楽(前名三遊亭全生)所縁の全生庵にて行われる。後述の落語協会の奉納落語会とは全く無関係で、必ず別の日にずらして行われる(圓朝命日の8月11日近辺であることは間違いない)。
- 圓朝忌(圓朝まつり)
- 平成13年(2001年)までは、圓朝忌という名前で、命日(8月11日)当日に法要を行っていた。この日に現役落語家による落語の奉納も行われた(前述の「圓朝寄席」とは別)。法要であるから、落語家自身(と寺)によるごく内輪の小規模なイベントであり、開催日も8月11日から動かなかった。平成12年(2000年)までは、落語協会と落語芸術協会が隔年交替で主催していたが、落語芸術協会は財政事情の逼迫により撤退。平成13年からは落語協会の単独開催となった[注釈 3]。
- 基本的に協会関係者の参列になるが、一般参列者も受け入れは可能(後述)。法要では当該近1年の落語協会所属物故者の法要も併せて行われ、毎年落語家による「奉納落語披露」(圓朝と法要対象者へ向けての奉納なので、祭壇へ向けて口演する)と「扇子供養」も行われる[13]。
- 平成14年(2002年)以降、落語協会は圓朝忌を企画替えし、大勢の人が集まるイベントと変えた。サービスする相手を、仏様(大圓朝)から、大勢のファンに変えたのである。この方針変更には、前年の古今亭志ん朝の死去で落語ファンが減ることへの危機を抱いた当時の若手落語家が動いたことによる。新しいイベントは(日本俳優協会の俳優祭のような)落語協会のファン感謝イベントである。俳優祭のように、協会所属落語家が屋台の模擬店を出す。そこで落語家自身が客と直接接して、わたあめを作ったり、ビールを注いだりする。もちろんCD・本・手ぬぐいなどグッズも落語家自身が客に直接手売りする。イベント名も圓朝忌から「圓朝まつり」と変えた。一般に「圓朝まつり」とは、特にこの一日のみを指す。平成17年(2005年)には約1万人が訪れる大イベントに成長した。開催日は命日8月11日を中心とする特定の日曜日一日とした。
- 来場者の増加に加え、猛暑によるトラブル防止の観点から2012年で「圓朝まつり」としては終了、2013年からは法要中心の「圓朝忌」に戻している。なお集客イベントは2015年に「謝楽祭(しゃらくさい)」として「圓朝忌」と分離し、毎年9月に湯島天満宮を利用する形で再開した。
- 平成19年(2007年)のみ「圓朝記念・落語協会感謝祭」という名となった。当時の寄席演芸情報誌『東京かわら版』には、この年の実行委員長である春風亭正朝のコメントが掲載されており、地元で1か月間開催されている「谷中圓朝まつり」との混同を避けるために名称を変えたというが[14]、なぜこの年だけ名を変えたかはよくわからないという。
- 令和に入った2020年以降、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行により、「圓朝忌」は2022年までは落語協会幹部が出席し法要のみ行っていたが、2023年より一般客の受け入れや「奉納落語披露」「扇子供養」も再開されている[13]。
初代三遊亭圓朝は、三遊派の中興の祖である。そのため三遊派の宗家といわれる。圓朝の名跡は1900年以降、藤浦家が預かる名跡となっている。この名跡が藤浦家のものになったのは、先々代の当主である藤浦周吉(三周)が圓朝の名跡を借金の担保にして、圓朝を経済的に支援した縁によるもの。先代の藤浦富太郎は円朝顕彰会長として関連著作を刊行し「円朝全集」顧問だった。
藤浦三周から2代目襲名を許された初代三遊亭圓右は、襲名実現直前に死去したため“幻の2代目”といわれた。その後、藤浦家はこの名をどの落語家にも名乗らせていない。
かつての藤浦家当主は映画プロデューサーの藤浦敦だった。藤浦敦は、1996年に出した『三遊亭円朝の遺言』で春風亭小朝と対談し、あなたがこれからの落語界のリーダーになりなさいよ、と小朝に勧めていた[15]。小朝の元妻・泰葉は、離婚時に『週刊文春]』2008年5月22日号で、藤浦から小朝に圓朝襲名の話が実際にあったが、小朝本人は固辞したと公表した[16]。
- 小説作品
- テレビアニメ
- 圓朝を演じた俳優
- ^落語家なのに矛盾した名だが、禅の師匠でもある山岡鉄舟の教え「舌で話すな。心で話せ」に由来するのだという。円朝は教えに従って「無舌」と号した[5]。
- ^編集委員は倉田喜弘・清水康行・十川信介・延広真治。
- ^一方落語芸術協会は、それに代わる行事として「はなし塚」(本法寺)での供養を2001年に実施し[12]、翌年からは「はなし塚まつり」として定例化されている。
- ^加藤武の急死のため代演。
- 円朝全集の青空文庫化が可能か著作権を検討した経過。