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三宅大輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三宅 大輔
1955年撮影
基本情報
国籍日本の旗日本
出身地東京都
生年月日 (1893-04-16)1893年4月16日
没年月日 (1978-01-03)1978年1月3日(84歳没)
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年1969年
選出方法特別表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手  テンプレート

三宅 大輔(みやけ だいすけ、1893年4月16日 -1978年1月3日)は、東京都出身の野球選手プロ野球監督大日本東京野球倶楽部及び阪急軍初代監督。

来歴・人物

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慶應普通部慶應義塾大学で名捕手として鳴らし、卒業後は三田クラブ、東京倶楽部でプレー。復活早慶戦時には慶大監督として関わり[1]、東京倶楽部時代の1927年第1回全日本都市対抗野球大会に出場し大会第1号本塁打を放つ。

1934年のアメリカ遠征で、市岡忠男総監督の下、浅沼誉夫とともに全日本の監督を務める。沢村栄治スタルヒン三原脩などプロ野球草創期に活躍した選手が当時の全日本選抜に名を連ねていた。
同年12月26日に日米親善野球の日本選抜チームの選手を中心に大日本東京野球倶楽部を結成し、浅沼誉夫総監督の下、初代監督に就任する。翌1935年の第1回アメリカ遠征で指揮を執る。帰国後、球団の内紛により監督を辞任。リーグ戦で采配を振っていないが球団として初めての試合を指揮したことより巨人の初代監督として扱っている文献もある[2]

巨人退団直後の1936年には阪急軍の初代監督に就き[1]1944年には産業軍1947年には国民野球連盟大塚アスレチックス監督を歴任した。

1954年水原茂監督の下でコーチとして、翌1955年は技術顧問として巨人の首脳陣に加わっていた。

詳細情報

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年度別監督成績

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年度球団順位試合勝利敗戦引分勝率
1936阪急--4828191.596
19374位5628262.519
19377位32011.000
1944産業4位3513211.382
通算14271665.518

表彰

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背番号

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  • 20(1936年)
  • 31(1954年)

脚注

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  1. ^ab三宅大輔(みやけ だいすけ)野球殿堂博物館
  2. ^ただし、巨人軍の球団史では、リーグ公式戦開始時の藤本定義を初代監督としている(巨人軍5000勝の記憶 p.14ほか)。

関連項目

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外部リンク

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競技者表彰
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
プレーヤー
2000年代
2010年代
2020年代
エキスパート
2000年代
2010年代
2020年代
特別表彰
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
新世紀
2000年代
 
監督歴
阪急軍監督 1936 - 1937.9.2
1947年に球団解散
産業軍監督 1944
全般
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