| 一柳 慧 | |
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| 基本情報 | |
| 生誕 | (1933-02-04)1933年2月4日 |
| 出身地 | |
| 死没 | (2022-10-07)2022年10月7日(89歳没) |
| ジャンル | 現代音楽 |
| 職業 | 作曲家 |
| 担当楽器 | ピアノ |
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一柳 慧(いちやなぎ とし、1933年2月4日 -2022年10月7日)は、日本の作曲家、ピアニスト。兵庫県神戸市生まれ[1]。
父はチェリストの一柳信二。母は自宅でピアノを教えていた[1]。2歳で東京に転居し[1]初等部から青山学院で学ぶ[2]。若い時から才能を発揮し、ピアノを原智恵子、作曲を平尾貴四男、池内友次郎らに師事[3]。青山学院高等部在学中、1949年から1951年にかけて、毎日音楽コンクール作曲部門で3年連続入賞(うち2回は1位)する[4]。1954年、19歳で渡米し、1957年までニューヨークのジュリアード音楽院で学ぶ[4]。1956年にオノ・ヨーコと結婚(1962年に離婚)。1959年、同地のニュー・スクールでジョン・ケージの講座に参加し、彼の思想に大きく影響を受けたことがきっかけで、図形楽譜や不確定性の音楽を取り入れ、フルクサスなどの前衛芸術活動に参加する。
1961年に帰国[3]。同年8月に大阪で行われた「二十世紀音楽研究所第4回現代音楽祭」を皮切りに、さまざまな演奏会でケージを代表とするアメリカの前衛音楽および自己の作品を紹介し、音楽評論家吉田秀和をして「ケージ・ショック」と言わしめるほどの衝撃を日本の音楽界に与えた。やがて、アメリカの実験音楽のもう一つの流れであるミニマル・ミュージックにも触発され、1968年にスティーヴ・ライヒの「ピアノ・フェーズ」を日本初演した。1972年には「ピアノ・メディア」を発表している。この作品は五線譜で書かれ、不確定性は排除されており、それまでの作風からの転換を示したものである。この頃から、音楽における空間の要素に関心を示すようになった。80年代に入ると尾高賞を4度受賞するなど高い評価を受け、以後、日本を代表する作曲家の一人として活動を続けている。
80年代からは邦楽器のための作品を毎年のように発表し、1990年には東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブルを設立するなど、日本の伝統音楽の発信にも力を注いでいる。また、ピアニストとしても精力的に活動し、「危険な夜」をはじめとするケージのプリペアド・ピアノ曲の紹介や自作自演をするほか、ジャズピアニストである山下洋輔とのコラボレーションも行った。
1985年フランス芸術文化勲章受章、1989年毎日芸術賞受賞、1989年京都音楽賞大賞受賞、1999年紫綬褒章受章、2002年サントリー音楽賞受賞、2005年旭日小綬章受章[5]、2006年神奈川文化賞受賞、2008年文化功労者、2017年日本芸術院賞・恩賜賞受賞、2018年文化勲章受章[6]。
2022年10月7日、東京都内の病院で死去[7][8]。89歳没。叙従三位[9]。
11作の交響曲と3作の室内交響曲を作曲した。ただし、作曲年代と交響曲のナンバリングはばらばらであることに注意する必要がある。
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| 太字は恩賜賞受賞者。雅号、筆名、芸名等は受賞時のものによる。表記揺れによる混乱を避けるため、漢字は便宜上新字体に統一する。 | |||||||||
毎日芸術賞受賞者 | |
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