ローマ (伊: Roma 、英: Rome )は、イタリア の首都 。欧州 有数の世界都市 であり、ラツィオ州 の州都 。周囲を七つの丘 に囲まれていることから、「七つの丘の都市」と呼ばれることもある。その歴史的重要性により、ローマは一般に西洋文明 の最も代表的な都市の一つであり、西洋キリスト教文化 の発祥の地であるとともに、カトリック教会 とローマ教皇庁 の中心地であると考えられている。
ローマの歴史は28世紀に及ぶ。ローマ神話ではローマの建国 を紀元前753年としているが、実際にはそれよりも古くから人が住んでおり、3000年以上にわたって人類が定住してきたヨーロッパ最古の都市の1つである[ 4] 。初期の住民はラテン人 、エトルリア人 、サビニ人 の混血であった。ローマはローマ王国 の首都となり、その後のローマ共和国 やローマ帝国 の時代を通じてその地位を占め続けた最初のメトロポリス であった[ 5] 。紀元前1世紀に詩人アルビウス・ティブッルス が初めてローマを「永遠の都市 (ラテン語 : Urbs Aeterna、イタリア語: La Città Eterna)」と呼び、後にオウィディウス やウェルギリウス 、ティトゥス・リウィウス も同様に表現している[ 6] [ 7] 。ローマは「カプート・ムンディ (ラテン語: Caput Mundi(世界の首都)」とも呼ばれた。
イタリアの首都 で政治、経済、文化、宗教の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇 の居住するバチカン市国 があり、そこは全世界のカトリック 教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず 」という諺もある。また、領土を持たないマルタ騎士団 の本部、マルタ宮殿 がコンドッティ通り68番地にあり、治外法権 が認められている。
2023年 現在の人口は約275万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。2010年 の都市的地域の人口 では271万人であり、世界128位である[ 8] 。ローマは最も重要な古代文明 の中心であり、その後の数世紀の社会 、文化 、言語 、文学 、芸術 、建築 、都市計画 、土木工学 、哲学 、宗教 、法律 、習慣に影響を与えた。ラテン語 の発祥の地であるこの街は、地中海 盆地全体とヨーロッパ の大部分に支配を広げた古代ローマ国家の首都でもあった。カトリック教会 の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都 』と称される。
2014年 、アメリカのシンクタンク が公表したビジネス 、人材 、文化 、政治 などを対象とした総合的な世界都市ランキング において、世界第32位の都市と評価されており、イタリアの都市では第1位であった[ 9] 。
観光都市としての側面もあり、2012年には780万人の観光客が訪れた[ 10] 。後述の「観光 」、「聖地として 」も参照。
ラツィオ州 政府(Via Rosa Raimondi Garibaldi, 7)
ローマ市の盾形の紋章 に書いてある「SPQR 」の文字は、ラテン語 で「元老院とローマの市民」の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地で公共物に刻んだ。
今でも、ローマ市内に残るローマ帝国 時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走るバス やタクシー 、マンホール の蓋にも紋章が入れられている。
ティレニア海 にそそぐテヴェレ川 河口から25kmほどさかのぼった位置にあるイタリア の首都で、ラツィオ州 の州都でありローマ県 の県都。伝説によれば、ローマは紀元前753年 、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘 」のひとつ、パラティーノの丘 に建設されたという。七丘とは、パラティーノ 、アヴェンティーノ 、カピトリーノ 、クイリナーレ 、ヴィミナーレ 、エスクイリーノ 、チェリオ の丘をさしていた。しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川 東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。
ローマのムニチーピオ ローマのリオーネ(黄色) ローマのクアルティエーレ(黄色の外側) アウグストゥス帝によるローマの14行政区 (赤文字)とアウレリアヌス城壁(赤色線)ローマはイタリア全土にあるコムーネ のうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオ に市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、通例ローマ市政は「カンピドリオ」と呼ばれる。
行政区分では19のムニチーピオ という地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーネ は22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアヌス城壁 内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。
歴史 ローマに初めて行政区を創設したのはローマ帝国 初代皇帝アウグストゥス で、紀元前7年 のことである。それまで首都の境界線(ポメリウム )の内外程度しか区分けがなかったものを、14の行政区 に分割し行政上の責任を明確にしようとした[ 11] 。それぞれの区には任期1年の政務官(護民官、法務官と造営官)が選出された。各区はウィクス(町)に分割され、それぞれのウィクスには解放奴隷階級の中より4名の町役人(ウィコマギステル)が選出され、主に治安と防火の責任を負った。記録によれば74年 時点ではローマ全市で265ウィクスあり、帝政末期のディオクレティアヌス 帝の時代には304ないし306ウィクスに増えていた[ 11] 。
ローマのムニチーピオ ムニチーピオ (it )は、19の行政区に分けられる。
ローマのリオーネ リオーネ (it )は、以下の22の行政区に分けられる。
ローマのクアルティエーレ(近隣住区) クアルティエーレ (it )は、以下の35に分けられる。
ボルゲーゼ公園 : 19 世紀の「アスクレピオス神殿」。シークレット ガーデン、ヴィラ ドリア パンフィーリ サラリア街道 からヴィラ アルバーニへの入り口ローマの中心部は、教皇の街を囲んでいたヴィラの頂上部分の遺跡である、いくつかの大きな緑地と豪華な古代のヴィラ に囲まれており、そのほとんどは19世紀末の不動産投機によって破壊された。残っているものの中で最も重要なものは次のとおりである。
«ボルゲーゼ公園 »。19 世紀イギリス風の自然主義的な大規模な景観庭園があり、多数の建物、博物館 (ボルゲーゼ美術館 を参照)、アトラクションがある。 «ジャニコロ »ジャニコロの丘はローマの西部にある丘で、ここは記念碑的な公園でもある。市内で最も高い丘の1つであり、ローマでも指折りの絶景を楽しめる。 «アダ公園»。ローマ最大の公共の景観公園。 «ドーリア パンフィーリ公園»。ローマで2番目に大きな公園で、その面積は1.8km2 に及ぶ。 «ヴィラ トルロニア» は、ベニート・ムッソリーニ のローマ時代の邸宅であったアール・ヌーヴォー の素晴らしい別荘。 «ヴィラ アルバーニ» は、アレッサンドロ・アルバーニ枢機卿が蒐集した古美術やローマ彫刻が収蔵されている。 «ヴィラ セリモンタナ»はローマのカエリウスの丘 にある別荘で、庭園で有名。敷地はアヴェンティーノの丘 とカエリウスの丘 の間の谷のほとんどを占める。 隣接するコムーネおよびそれに相当する区域は以下の通り。
ケッペンの気候区分 によると、ローマの気候 は地中海性気候 (Csa)に属する。
北緯41度 に位置するにもかかわらず、冬季の気温が高く、低緯度である北緯32度 に位置する熊本市 よりも、冬季の日平均気温と平均最低気温が高い。
ローマ(1991~2020)の気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年 最高気温記録°C (°F ) 22.1 (71.8) 22.1 (71.8) 25.0 (77) 29.8 (85.6) 33.1 (91.6) 36.6 (97.9) 38.1 (100.6) 39.0 (102.2) 37.0 (98.6) 31.0 (87.8) 26.5 (79.7) 22.3 (72.1) 39 (102.2) 平均最高気温°C (°F ) 13.1 (55.6) 13.6 (56.5) 16.0 (60.8) 18.7 (65.7) 22.9 (73.2) 26.8 (80.2) 29.4 (84.9) 30.0 (86) 26.2 (79.2) 22.4 (72.3) 17.8 (64) 14.0 (57.2) 20.91 (69.63) 日平均気温°C (°F ) 8.4 (47.1) 8.8 (47.8) 11.1 (52) 13.8 (56.8) 17.8 (64) 21.9 (71.4) 24.5 (76.1) 24.9 (76.8) 21.2 (70.2) 17.4 (63.3) 13.2 (55.8) 9.4 (48.9) 16.03 (60.85) 平均最低気温°C (°F ) 4.4 (39.9) 4.4 (39.9) 6.3 (43.3) 8.7 (47.7) 12.5 (54.5) 16.3 (61.3) 18.7 (65.7) 19.4 (66.9) 16.4 (61.5) 13.0 (55.4) 9.3 (48.7) 5.7 (42.3) 11.26 (52.26) 最低気温記録°C (°F ) −7.4 (18.7) −6.9 (19.6) −6.5 (20.3) −2.4 (27.7) 1.8 (35.2) 5.6 (42.1) 9.9 (49.8) 9.3 (48.7) 4.0 (39.2) 0.0 (32) −4.8 (23.4) −5.6 (21.9) −7.4 (18.7) 降水量 mm (inch)64.3 (2.531) 65.6 (2.583) 56.5 (2.224) 59.6 (2.346) 47.3 (1.862) 23.5 (0.925) 14.1 (0.555) 25.9 (1.02) 69.3 (2.728) 90.2 (3.551) 120.9 (4.76) 84.1 (3.311) 721.3 (28.396) [要出典 ]
ローマにおけるイタリアの気候分類 (it ) および度日は、zona D, 1415 GGである[ 12] 。また、イタリアの地震リスク階級 (it ) では、zona 2A, 3A, 3B (sismicità bassa) に分類される[ 13] 。
国別の海外出身者の人口 [ 14] 出身国 人口 (2022) ルーマニア 74,930 フィリピン 38,484 バングラデシュ 32,963 中国 17,244 ウクライナ 13,533 ペルー 11,344 インド 10,653 エジプト 10,359 ポーランド 8,771 スリランカ 8,719 アルバニア 6,858 モルドバ 6,739 エクアドル 5,884 ナイジェリア 4,819 モロッコ 4,797 スペイン 4,154 ブラジル 3,493 フランス 3,434 パキスタン 2,554 セネガル 2,409 イギリス 2,324 コロンビア 2,233 チュニジア 2,156 ボスニア・ヘルツェゴビナ 2,125 イラン 2,105 ロシア 2,050
現在ローマの人口はおよそ280万人で[ 15] 、イタリア最大の都市であり、ベルリン とマドリード に続く欧州連合 で第3の都市。ローマには7万を超える大きななルーマニア人 コミュニティがあり、ルーマニア外で一番最大のルーマニア人になる。その他にもアジア系 (おもにフィリピン人 、バングラデシュ人 、中国人 )が多い。ローマの人口は1907年 に50万を超え、1934年 に100万、1957年 に200万を超えた。
主要記事:Storia di Roma (伊語)History of Rome (英語) 狼の乳を吸うロームルスとレムス の像 伝説によれば、ローマは紀元前753年 4月21日にギリシャ神話 の英雄アイネイアス の子孫である、双子のロームルス とレムス により建てられた。ロームルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロームルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる[ 16] 。
考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川 河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘 で発見された[ 16] 。
他にもエスクイリーノ の丘やクイリナーレ の丘にも集落があったものと思われる[ 17] 。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた[ 17] 。
紀元前7世紀頃には都市国家 としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘 の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノ が作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿 が建設された[ 18] 。これら土木・建築様式はエトルリア やギリシア の影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる[ 18] 。
王政ローマ 期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウス の頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁 がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人 がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である[ 19] 。
共和政ローマ 期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ )が建設されたのもこの頃と言われる[ 20] 。紀元前312年からはローマ街道 の敷設が[ 21] 、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道 の建設が始まった[ 22] 。
フォロ・ロマーノ は、古代ローマ の中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡である。ローマ帝国 の首都となり、皇帝アウグストゥス の時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した[ 23] 。しかし皇帝ネロ 統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火 が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた[ 24] 。
そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス 在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオ は石灰石 を用いた化粧が施され、剣闘士 の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰 を混ぜたローマン・コンクリート が発明され、パンテオン など様々な建物が次々と建設され[ 25] 、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった[ 26] 。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している[ 26] 。この栄華は皇帝ディオクレティアヌス が拠点をニコメディア に移すまで続いた。
286年にディオクレティアヌスによってローマ帝国の行政区画が東西に分けられた後は西ローマ帝国 に属したが、西ローマ皇帝は拠点をミラノ やラヴェンナ に置いたため、ローマの政治的重要性は大きく低下した。5世紀 には西ゴート人 やヴァンダル人 の掠奪を受けて衰微し、476年 に西ローマ皇帝の地位が消滅した後は東ローマ皇帝によってイタリア領主に任命されたオドアケル や東ゴート王 の支配下に入った。
6世紀 中頃、イタリアを統治していた東ゴート王が東ローマ帝国 に滅ぼされ、ローマは再びローマ皇帝の支配下となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の東ローマ皇帝は663年のコンスタンス2世 であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府 の影響下にあった。
しかし、751年にランゴバルド族 の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス2世 は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世 ではなく、フランク族 のピピン3世 に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。
バチカン サン・ピエトロ広場 とサンピエトロ大聖堂 。この巨大な複合施設は、数人のルネサンス 芸術家の貢献によって建設された。元のプロジェクトはドナト・ブラマンテ によるものであった。この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年 にカールによりローマ教皇 に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書 とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領 の首都として栄え、ローマはルネサンス 文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世 の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェ にかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロ 、ブラマンテ 、ラファエロ などの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家 の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠 」によって、この都の盛期ルネサンス は終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世 の時代で、ポポロ広場 から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリクス水道 を修復した。サン・ピエトロ大聖堂 の丸屋根が完成したのもこの時代である。対抗改革 期のローマを特徴づけるバロック様式 は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニ やボロミーニ のような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段 などにみられる18世紀前半のロココ様式 の建物は、やがて新古典主義 の建物にかわった。1797年ナポレオン1世 はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議 の後、ローマはふたたび教皇領となった。
ウィーン会議後のオーストリア帝国 によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだナポレオン3世 によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分はサヴォイア家 のもとで統一をはたした(リソルジメント )。教皇の本拠地だったローマは1870年、フランス 軍の撤退後、1871年 にイタリア王国 にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマはフィレンツェ に代わって統一イタリアの首都となった。
その後1930年代 にはファシスト 党の独裁者、ベニート・ムッソリーニ がローマ郊外にローマ万国博覧会 のための新都市、EUR (エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による第二次世界大戦 へのイタリアの枢軸国 としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。
1943年 6月5日 、ローマに戦火が及ぶことを避けるため首都防衛を担ってきたドイツ軍がローマ郊外へ撤収[ 27] 。同年7月、ムッソリーニ政権が倒れてバドリオ 政権が誕生すると、秘密裏に連合国軍との間で停戦協定の交渉が始まった。その中でローマは無防備地域 を宣言するものの連合国側には無視され、ローマは空爆 された(ローマ爆撃 )。同年9月8日、連合国軍側がイタリアとの休戦を発表。ローマはファシスト が徹底抗戦を図るために建国したイタリア社会共和国 の首都となった。
ローマの休日 にてローマ市内をベスパ で走るシーン(ヴェネツィア広場 前のvia del plebiscitoを走行中)。現在のローマ 第二次世界大戦後には、航空機 の発達により、日本 をはじめとするアジア やアメリカ などのヨーロッパ圏外からも多数の観光客が訪れるようになった。1970年代初期に文化の中心都市がミラノ へ移るまではイタリアにおいてファッションの中心地であった。
現在はパリ やアテネ などと並び、ヨーロッパを代表する観光都市として親しまれている。また、イタリアの首都で政治 や経済 、文化 の中心地的存在であるとともにカトリック教会 の中枢でもあるほか、市内には国際機関や多国籍企業の本拠があり、イタリアを代表する大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。一方で公共サービスの停滞やインフラの老朽化が深刻になっている[ 28] [ 29] 。
「ローマのみがパリにふさわしく、パリのみがローマにふさわしい」[ 30] [ 31]
イタリア銀行 本店エウローパ ビジネス地区にあるPalazzo Eniは、世界の石油とガスの「スーパーメジャー 」の1つと考えられているEni の本社である。2008年におけるローマの都市GDP は1440億ドルであり、世界第43位である。アメリカのダウ・ジョーンズ らの2017年の調査によると、世界74位の金融センター と評価されており、イタリアではミラノ に次ぐ2位である[ 32] 。
イタリアの首都であることから政治 の中心地で、ローマの経済は基本的に行政 と観光 で成り立っている。労働者の大半はこの分野と卸売、小売業などのサービス 業(第三次産業 )に従事している。ローマには、イタリアの大企業 本社や多国籍企業 の本拠地、国営放送局 (RAI)、Eni (エニ)、エネル 、ポステ・イタリアーネ 、テレコム・イタリア 、レオナルド S.p.A 、 アトランティア 、フェッロヴィーエ・デッロ・スタート 、大手新聞社などのマスコミ の本社、在外公館 が集中し、また国際連合食糧農業機関 (FAO)、国際農業開発基金 (IFAD)、国際連合世界食糧計画 (WFP) の本部が置かれている。またアパレル産業 では、ブルガリ 、フェンディ 、ブリオーニ 、ヴァレンティノ 等の創業地である。ヴァレンティノは1971年 にミラノ に本店及び本社機能を移転した。コンドッティ通りはヨーロッパで最も高価なショッピング街の1つであり、スペイン広場 とともにローマの主要な高級地区である。
大型店舗 市内には古代遺跡や美術館 などが多く残り、世界各国から観光客が集まることから観光業界が重要な産業となっており、特にヴェネト通り やスペイン広場 周辺には高級ホテル やレストラン 、ブティック が立ち並び一年中賑わいを見せている。
郊外には独裁者ベニート・ムッソリーニ が作った世界的に著名な映画 撮影所「チネチッタ 」があり、フェデリコ・フェリーニ 監督の『甘い生活 』や『インテルビスタ 』など多数の名作が撮影された。イタリアの映画産業 のみならずイタリアの近代文化にとっても重要な場所である。なお、フェリーニ監督は1971年に映画「Roma」(邦題は『フェリーニのローマ 』)を撮っている。都市名だけがそのまま題となっている映画は珍しいが(他には『カサブランカ 』『シカゴ』など)、内容的にも特にストーリーの無い幻想的なローマ論で埋め尽くされており、キネマ旬報 ベストテン2位など名作映画として評価されている。
他都市へのアクセス GRA 路線図(2015年完成予定) 市内・郊外 イタリア鉄道 (トレニタリア Trenitalia)が市内と郊外を結ぶローマ近郊鉄道 (FL線)を8路線運行している。イタリア鉄道の路線網は市内中心部のローマ・テルミニ駅 やローマ・ティブルティーナ駅 と旧市街外周部のローマ・オスティエンセ駅 など複数駅の分散ターミナル 方式である。また、ATAC も都市鉄道を3路線運行し、オスティア などの郊外との間を結んでいる。市内の交通はATAC が運営するローマ地下鉄 、トラム 、バス 網が中心である。他にもタクシー が安価な交通手段として多用されている[ 33] 。なお、バスやトラムは信用乗車方式 であるため、駅の券売機やキオスク等で事前に切符を購入しておく必要がある。
長距離 長距離交通は、ローマ・テルミニ駅 を発着する長距離列車のほか、時速300キロで運行されているユーロスター・イタリア (ES*)やItalo などの高速鉄道、航空便や高速道路を使用する長距離バス などで結ばれている。
日本を含む長距離国際線とEU 内国際線、国内線はフィウミチーノ空港 (レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)を使用するほか、EU内国際線と国内線はチャンピーノ空港 (ジョヴァン・バッティスタ・パスティーネ空港)も使われる。フィウミチーノ空港まではテルミニ駅から直通列車「レオナルド・エクスプレス 」が運航され、所要時間は30分ほどである。
日本への就航都市
古代ローマ遺跡 広場・公園 ローマのオベリスク 教会 宮殿 美術館・博物館 その他の建造物 市内の他の場所 ローマの七丘 ローマの七丘 とは、ローマ の市街中心部からテヴェレ川 東に位置する古代ローマ 時代の七つの丘のこと。
バチカン市国内の観光名所 ローマ郊外の観光名所 ローマ・ラ・サピエンツァ大学 ローマ国立中央図書館 市内初の大学、ローマ・ラ・サピエンツァ大学 は1303年に設立された、学生数12万人を超えるヨーロッパ最大の大学である。20世紀後半には、さらに2つの大きな公立大学が設立された。1982年にローマ大学トル ヴェルガータが、そしてローマ・トレ大学 が1992年に設立され、現在ではそれぞれ約38,000人の生徒が在籍している。また、国の支援を受けているのは、IUSMで、フォロ・イタリコ 地区に位置し、スポーツと運動科学に特化した2000人の学生を擁する職業大学である。
多数のローマには、教皇庁立大学 や研究所があり、その中には1551年に設立され、世界最古のイエズス会 大学であるグレゴリアン大学 や教皇庁立聖トマス・アクィナス大学 などがある。「アンジェリクム」は、聖ドミニコ とトマス・アクィナス によって確立された、現在も続くドミニコ会 のスコラ哲学の伝統を表している。
ローマ市内にはキリスト教の聖地のひとつであるバチカン市国 があり、毎年多くの観光客や巡礼者が訪れる。特にサン・ピエトロ広場 は大規模なイベント時にも多くの信者を収容できるよう、最大で約30万人が一度に入れる敷地を持っている[ 38] 。
ローマは、北イタリアの諸都市に比べると意外なほどオペラ は盛んではなく、ローマ歌劇場 は2014年 にいったん全従業員解雇が発表されたことがある(その後労使の妥協により撤回)。むしろイタリアには数少ないコンサート オーケストラ の名門として、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団 が特筆すべき存在である。また、イ・ムジチ合奏団 も同地が拠点である。
ローマは1960年 のローマオリンピック 開催地であり、同年には第1回パラリンピック が開催された。また、2009年 の世界水泳選手権 もローマで開催された。さらに1987年 の世界陸上 の開催地であり、スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ が会場として使用された。イタリア陸上競技連盟会長のプリモ・ネビオロ により1980年 に創設され、2010年 以降はIAAFダイヤモンドリーグ の1大会に加わった陸上競技会、ゴールデンガラ もオリンピコを会場として行われている[ 39] 。
ASローマ 時代のフランチェスコ・トッティ ローマで圧倒的に人気のあるスポーツ はサッカー である。スタディオ・オリンピコ では1990 FIFAワールドカップ 決勝戦が行われ、現在はセリエA 屈指の強豪ASローマ およびSSラツィオ のホームスタジアム として使用されている。ローマとラツィオ間には猛烈なライバル 意識が存在しており、地元民からはローマ・ダービー は「試合以上の存在」と言われている[ 40] 。
また、ローマのみならずイタリアを代表するサッカー選手として、フランチェスコ・トッティ 、アレッサンドロ・ネスタ 、ダニエレ・デ・ロッシ 、アレッサンドロ・フロレンツィ などの有名な選手を輩出している。その中でもトッティは、およそ25年間にもわたってASローマ 一筋でプレーしたワン・クラブ・マン であり、同クラブの歴代最多得点(316得点)および歴代最多出場(786試合)の記録をもつ。
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