ロシア革命(ペトログラード) 場所 ロシア 結果 ボリシェヴィキの勝利。ソビエト連邦の成立
ロシア革命 (ロシアかくめい、露 :Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤ 、英 :Russian Revolution )は、ロシア帝国 で起きた革命 であり、広義には1905年の「第一革命 」と、1917年の二月革命 および十月革命 (十月クーデター [ 1] [ 2] [ 3] [ 4] )の「第二革命」を指す[ 5] 。狭義ではレーニン らボリシェヴィキ が権力を奪取した十月革命 (ボリシェヴィキ革命)を指す[ 5] 。
二月革命 後の1917年3月にロシア皇帝ニコライ2世 が退位してロマノフ朝 が終焉し、立憲民主党 (カデット) 主導の臨時政府 が成立した。その後、十月革命でボリシェヴィキが権力を奪取した後、ロシア内戦 を経て、1922年 に史上初の社会主義国家 (ソビエト社会主義共和国連邦 )が樹立した。
歴史学 では、1899年 のロシア学生運動に革命の開始をみたり[ 6] 、1917年以降の「レーニンの革命」から「スターリン の革命」への移行を重視して1929年 までを扱う研究もあり[ 7] 、広い視野でロシア革命の期間を見ている。
「二月革命 」「十月革命 」は当時、ロシア地域で用いられていたユリウス暦 における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦 ではそれぞれ「三月革命」「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年 2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できる。
ロシア革命は、広義には1905年革命の「第一革命」と、1917年の二月革命および十月革命の「第二革命」 を指し、狭義では十月革命を指す[ 5] 。
歴史学者はさらに広い視野でロシア革命の期間を見ている。E・H・カー は『ボリシェヴィキ革命』 (1950)で、1917年から権力が安定する1923年までを扱い[ 8] 、『ロシア革命――レーニンからスターリンへ』(1979)においては、1920年代の「レーニンの革命」から「スターリンの革命」への移行を重視し、スターリンが権力の絶頂に達した1929年までを扱った[ 7] 。またカーは『ロシア革命の考察』(1969)において、1917年の10日間(10月革命)でなく、それが表現し、あるいはそれを出発点として、世界をゆるがした過程としてロシア革命を解釈したいとも述べている[ 9] 。
リチャード・パイプス 『ロシア革命』(1991)では、1899年のロシア学生運動から、1905年革命を経て、1917年の2月革命と10月のクーデタ以降の一党独裁国家の成立、戦時共産主義、農村との戦争、赤色テロまでを期間とし[ 10] 、『ロシア革命史』(1995)では、ロシア内戦 でボリシェヴィキが勝利したことで動乱が終了したわけではなく、革命を国外へ輸出しようとしたことを踏まえて、1924年までを扱った[ 6] 。またパイプスは、ロシア革命のはじまりをデカブリストの乱 や、1870年代の学生の「人民の中へ(ナロードニキ) 」運動、人民の意思の1879-81年の政治テロまでたどることも可能とも述べている[ 11] 。
ロバート・サーヴィス は『ロシア革命』(1986,1999)で1900年から1927年までを扱った[ 12] 。
シェイラ・フィッツパトリック は『ロシア革命 第4版』(2017年)において、1905年革命から1917年革命、ロシア内戦を経て、スターリンの革命(上からの革命)までをロシア革命の期間とした[ 13] 。スターリンの革命には、反右派闘争、農業集団化、文化革命が含まれ、そして1930年代の大粛清(大テロル) までを含み[ 13] 、大粛清をもってロシア革命の終結とみている[ 14] 。
マーク・D・スタインバーグ は『ロシア革命 第4版』(2017年)において1905年革命から1921年までを扱った[ 15] 。
ブリタニカ百科事典 (2025年)では、1917年からレーニン死後のスターリンへの権力移行までを概観している[ 16] [ 17] 。
1825年12月には、貴族出身の青年将校たちによって、デカブリストの乱 が起きた[ 18] 。彼らはナポレオン戦争 に出征しており、西ヨーロッパ の自由主義 思想や近代生活を知り、また農奴出身の兵士からロシア農村の状態を聞いたことから、農奴制と専制政治を廃止してロシアの近代化を目ざした[ 18] 。デカブリストの乱はロシア革命の先駆とされる[ 18] 。
人口の80%を占める農民は髭をはやし、方言で話し、彼ら自身の論理と利害を追求していた[ 19] 。農民から税や地代をとりたて、新兵を徴収しながら、見返りを与えない髭をそった官僚や土地貴族に共感できることはなにもなかった[ 20] 。1861年の解放まで、農民の半分は農奴 で、残り半分は国有地農民と御料地農民だった[ 20] 。
1856年のクリミア戦争 での敗北によってロシアの近代化の必要を痛感した帝政政府と皇帝アレクサンドル2世 は、1861年農奴解放令 を出して約2300万人の農奴を解放した[ 21] 。しかし、農民は条件の悪い土地を分与され、しかも地代の16.67倍の支払い義務を負った[ 21] 。農民は発布直後の1861年3月から4月にかけて、各地で暴動を起こした[ 21] 。
1863年、ポーランド・リトアニア共和国 でロシア帝国への反乱である1月蜂起 が発生した[ 22] 。ロシア帝国は反乱を鎮圧したが、ポーランドとの連帯を訴える声がロシア内外の革命的グループからあがった[ 22] 。
1864年には、政府は、地方自治会ゼムストボ を設立し、農民にも代表選出権を認め、法の前の平等 、公開裁判、弁護士、陪審員制度などを取り入れたが、不平農民の騒乱が続いた[ 22] 。
農民の真の解放をめざした思想家ニコライ・チェルヌイシェフスキー は、民衆蜂起のための革命的秘密結社を創設しようとしたが1862年に逮捕され、シベリア流刑を言い渡された[ 23] 。チェルヌイシェフスキーが獄中で書いた小説『何をなすべきか? 』(1863)はロシアの革命運動に大きな影響を与えた[ 24] 。レーニンは「私の一生を変えた本だ」と述べ[ 24] 、同名のパンフレット『なにをなすべきか? 』を公表し、ソビエト連邦 では公式に革命文学の古典とされた[ 25] [ 26] 。文学史研究者のジョセフ・フランク は「チェルヌイシェフスキーの小説は、マルクスの『資本論』よりもロシア革命を引き起こす感情的な原動力を後世に提供したと述べている[ 24] 。
チェルニシェフスキーの著書を「運動の福音」と呼んで信奉した評論家・革命理論家ピョートル・トカチョフ の革命的前衛 という概念はレーニンに大きな影響を与えた.[ 27] 。トカチョフは、農民を基盤とした人民革命がない場合、革命家たちが立ち上がり、専制的な政府を打倒すべきだと主張した[ 27] [ 28] 。レーニン主義 は、マルクス主義だけでなく、チェルヌイシェフスキー、トカチョフ、ピョートル・ザイチネフスキー 、セルゲイ・ネチャーエフ 、そしてレーニンの兄アレクサンドル もいた『人民の意志 』などのロシア革命思想と運動に根ざしており、「ロシア流の陰謀政治」と政治行動によって革命運動を行なっていった[ 29] 。メリグーノフは、ロシア・ジャコバン主義 ともよばれたトカチョフがボリシェヴィズムの起源であり、その特徴は人民蔑視にあると指摘する[ 30] 。
新しい大学規則の撤回を要求する学生の紛争が生じ、退学させられた学生たちは、「人民のなかへ」をスローガンにナロードニキ 運動を行い、農村に入って秘密結社を作り、社会主義を説いた[ 22] 。農村に入ったナロードニキの学生は2000-3000人にのぼった[ 31] 。1860年代から農村革命を目指す土地と自由 が活動し、解散と再生を繰り返した。1870年代にはナロードニキ運動が農村で広がった。
1876年にはゲオルギー・プレハーノフ らによって土地と自由が再建されたが、1879年にはテロリズムを重視する人民の意志 と、農村での活動を重視するプレハーノフ、パーヴェル・アクセリロード らの土地総割替 へと分裂した。プレハーノフ、アクセリロードらは1898年にロシア社会民主労働党 を結成した。
しかし、農民はナロードニキの学生活動家を、自分たちとは無関係の都市エリートとみなして軽んじた[ 32] 。1880年代、農民から拒絶されたことへの落胆は、革命運動におけるマルクス主義 の勢力拡大への道を開いた。マルクス主義は革命の「必然性」は厳然としており、産業プロレタリアートが歴史に選ばれた革命のエージェントであって、農民は無関係ということになった[ 32] 。マルクス主義者は自分たちをプロレタリアートと重ねあわせて考えたが、かれらの大半は貴族またはインテリゲンチャの子弟だった。急進派は「インテリゲンチャ 」という言葉を自分たちのために専有し、国家に勤務する公務員 を軽蔑し排除した[ 33] 。急進派の学生の一部は、職業革命家 となり、逮捕され流刑になったが、流刑地からの逃亡は難しくなく、親に経済的余裕があれば亡命できた[ 33] 。
アレクサンドル3世暗殺を試みたアレクサンドル・ウリヤノフ 。レーニンの兄である。 1866年には過激派の青年ドミトリー・カラコーゾフ による最初の皇帝暗殺未遂事件が起こった[ 22] 。
アレクサンドル2世 は自由主義改革を続け、憲法の作成を命じるなどしたが、1881年3月1日、人民の意志 のアンドレイ・ジェリャーボフ 、ニコライ・リサコフ 、ポーランド人イグナツィ・フリニェヴィエツキ 、ティモフェイ・ミハイロフ 、ヴェーラ・フィグネル 、ソフィア・ペロフスカヤ 、ニコライ・キバリチチ らによって暗殺された(アレクサンドル2世暗殺事件 )。
皇帝暗殺に成功した秘密組織の「人民の意志」は、皇帝殺害を目的とした政治テロルに専念する歴史上初めての組織であり、20世紀のヨーロッパ、中東、他の地域にも芽を出すテロリスト党の原型だった[ 34] 。
1887年、レーニン(ウラジーミル・・ウリヤノフ) の兄で、人民の意志一員のアレクサンドル・ウリヤノフ がアレクサンドル3世 暗殺を試みたが失敗し、21歳で処刑された。
1894年から第一次世界大戦がはじめる1914年までに何千人もの政府役人の命が政治テロルによって奪われていった[ 35] 。
1892年に露仏同盟 を締結するなど、列強の一国ロシアはフランスの盟友であったが、住民に統治への発言を認めず、不満の表明は厳しく処罰され、大国のなかではロシアだけが憲法 も議会 もなかった[ 36] 。また、地方行政は人員不足で、官僚の職員数は、同時代のフランスやドイツよりも大きく少なく、ロシアの国庫には広大な領域を収める財源も不足していたため、地方知事に独断的権力を付与し、農民共同体の自治を制度化した[ 37] 。皇帝の権力の及ぶ範囲は地方知事のいる89の県市にとどまり、県の下位区分には常駐の吏員 もおらず、統治の空白があった[ 37] 。
1891-92年のロシア大飢饉 では、375,000人から40万人の犠牲が出た[ 38] [ 39] 。政府の災害への対応に対する不満は、ロシアのマルクス主義 とポピュリズム を再燃させた[ 40] 。
1897年ロシアの人口は1億2600万人で、そのうち9200万人がヨーロッパ・ロシア(現在のウクライナとポーランド東部含む)、残りのポーランド諸県は900万人、カフカースは900万人、それにシベリア、中央アジアが続いた[ 41] 。
文字が読める のは10-59歳の人口の三分の一以下で、20代では男性の45%、女性は12%で、50代では男性の26%、女性はわずか1%だった[ 42] 。ロシアの身分制は、貴族、聖職者、町人、農民からなり、うち農民は77%、町人と都市の諸身分は11%で、インテリゲンチャあるいは教育を受けた階層は近代の例外現象であり、身分制の枠組みにあてはまらなかった[ 43] 。
1899年2月からの大学騒擾は憲法を認める1905-6年まで続いた[ 11] 。2月8日のサンクトペテルブルク大学 創立記念日では例年、学生は市の中心部へ大挙して歌い、カフェやレストランに闖入するお祭り騒ぎをやってきた[ 11] 。1899年、警察は騒ぎを規制し、違反した学生は罰金、拘禁にも処するという警告が告示されると、学生は抗議して、学生は雪だまと氷をなげ、警官は鞭で応える乱闘になった[ 44] 。急進派の学生が、警察の暴力は専制ロシアの無法性の現れであり、体制は打倒しなければならないとして国内の大学に運動への支持とストライキを呼びかけると、国内の35000人の学生のうち25000人が授業を放棄した[ 45] 。当局は急進派の学生指導者を逮捕し、急進派の知識人は、学生の不平を、体制への全面的拒否へと高じさせた[ 45] 。歴史学者リチャード・パイプス は、このような特殊な不平を一般的な政治的要求へと移し替えるやりかたは馬鹿げた論理だったが、ロシアの急進派と自由主義者の標準的な行動戦略となり、革命が不可欠であり、現体制がつづく限り何も改良されることはないという思想は、妥協と改革を妨げるものであったと指摘している[ 45] 。
1900年12月のキエフの大学騒擾で、文相は183人の学生を逮捕し、軍隊へ送った[ 46] 。学生テロリストは文相を暗殺し、ストライキが多くの大学で続いた。以降、大学は反政府活動の拠点になった[ 46] 。1902年4月、エスエルは内務大臣ドミトリー・シピャーギン を暗殺した。後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ は、警察の密偵をエスエル戦闘団に潜入させ、多くの暗殺計画を失敗させた。ズバトフ はオフラナ の有能な密偵で、労働組合を警察が乗っ取り、中立化することを思いつき、警察の後援をうけた労働組合を組織した[ 46] 。
皇帝暗殺未遂事件をうけて1880年に設立された警保局は政治的忠誠を強いることにのみ関わり、監視、捜索、逮捕、収監を行い、裁判なしで5年までの追放ができた[ 37] 。しかし、1881年に皇帝アレクサンドル2世 は暗殺されてしまったため、警察は強化されていった。
さらに1898年 以降、ロシアで社会的騒擾が高まったため、帝政ロシア政府は警察機構をより強化したが、次の三つの要因で弱体化した[ 47] 。
私有財産が尊重されていたため、投獄や流刑によって国家が個人から財産を剥奪できず、そのため、革命運動家の財産は手をつけられず、外国への送金も合法的だった[ 47] 。 当局は危険分子が外国へ行くのをよしとしていたため、知識人はロンドン、チューリッヒ、パリ、ベルリンなどで活動できた。 帝政ロシア指導層は、諸外国から近代エリート層とみられたかったために、抑圧的体制の必要性を感じながらも、矛盾した行動をとっていた[ 48] 帝政ロシアは原則として警察国家 だったが、実際はあまり抑圧的でなく、警察機構に依拠しながらも脆弱で無能だった[ 49] 。ニコライ2世が政権につく十年間に政治犯への死刑執行は17件にすぎず、死刑判決をうけたものの大部分が実際に暗殺を実行した[ 49] 。アレクサンドル2世の時代には4000人は政治的理由で逮捕拘禁されたが、ソ連時代のように体制の政治的敵対者が普通犯に仕立て上げられることはなかったことは強調しておくべきだろうとダンコースはいう[ 49] 。ニコライ2世の時代には犯罪者名簿はこれよりすくなく、高官暗殺が頻発した時代背景などを考慮すれば、この時代のロシアを「警察国家」と規定できないほどであったとダンコースはいう[ 49] 。
ユダヤ人の被害(ポグロム )は、警察の監視によるのでなく、加害者に対して警察がかなり「寛容」だったためだった[ 49] 。帝国内の600万のユダヤ人の悲劇に帝政は目を閉じたが、そのことが大きな損失となった。ロシアのユダヤ人は欧米に脱出していった[ 50] 。
1895年の日清戦争 で日本に敗れた清国 に対してロシアは三国干渉 等で清を援助し、その見返りとして露清密約 をむすんだ。ロシアはこの密約においてシベリア横断鉄道 が満洲 を横断する許可を清国 政府から得た[ 51] 。清は現地の主権をロシアが遵守すべきと考えていたが、ロシアは密約の条項を侵犯し、満州併合をめざして満州に大量の軍と警察を駐留させた[ 51] 。さらに1900年の義和団の乱 に乗じてロシアは江東六十四屯 などを攻撃した(zh:庚子俄难 )。ロシアの満州侵略 によって、清は日露戦争で中立の立場をとることとなった[ 52] 。
1903年1月、皇帝は満州併合を迫る助言者にしたがった[ 51] 。日本は、朝鮮での日本の権益をロシアが認めるかわりに、満州をロシアに譲り、同地を勢力圏へと分割することを提案したが、ロシアは拒否し、日露戦争 へと至った[ 51] 。ロシアは日本を「帽子をかぶった小猿」とよんで軽蔑していたが、1904年2月8日、日本は旅順を奇襲攻撃 し、仁川沖海戦 ではロシア軍艦 ヴァリャーグ とコレーエツ が沈められた[ 51] 。これによりロシア帝国の威信は動揺した。
日露戦開戦後の1904年7月28日、エスエルは内相ヴャチェスラフ・プレーヴェ を暗殺した。プレーヴェの後任の内相ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー は警察的な方法だけでなく、臣民からの信任が必要だと考え、地方自治機関ゼムストヴォ の自由主義者はミルスキーの方針を歓迎した[ 53] 。1904年11月のサンクトペテルブルクのゼムストヴォ大会で、保守派リベラルは議会はロシアの伝統に相いれないので皇帝に助言を行う機関に限定されるべきと主張する一方、リベラルは立法権をもつ議会を主張、投票でリベラルが勝利した[ 54] 。これはフランス革命での全国三部会 に比肩しうるもので、国制変更や皇帝の権限の制限を議論した集会はロシア史上初だった[ 55] 。続けて数週間、憲法と議会を呼びかける集会が開かれていった。
1904年12月、旅順攻囲戦 で旅順要塞 のロシア軍が降伏、ロシア太平洋艦艇 旅順艦隊もほぼ全滅し、さらに1905年5月に日本海海戦 で、残りのロシア太平洋艦隊 も敗北した[ 56] 。これによりロシア帝国の威信は決定的に失墜した。
ゲオルギー・ガポン神父 1905年1月9日、労働組合員の解雇を発端として、ゲオルギー・ガポン 神父が、労働者の権利、憲法制定会議の招集、政治的自由、日本との戦争の中止などを皇帝に請願して10万人が行進した[ 57] 。デモ隊は請願を受け取られたと思い込んでいたために警察の警告を無視して前進していたが、警備部隊はデモ隊が警告を無視したために発砲し、死傷者は数百人にのぼった[ 58] 。
この血の日曜日事件 の翌日からストライキは全国に拡大し、民衆の間にあったツァーリ 信仰も崩れた[ 57] 。皇帝は治安を強化する一方で、首都から地方の農村まで騒擾がひろがった[ 58] 。ストライキ運動は、ポーランド 、バルト三国 、ジョージア などにも広がった。ガポン神父は亡命したが、翌1906年4月に社会革命党 によって暗殺 された。
スイス で血の日曜日事件を知ったレーニンは、パリ・コミューン のように武装した革命軍 を編成し、警察や銀行を襲撃せよとロシアの同志に命じたものの、当時のロシア国内のボリシェヴィキ党員は215人、うち109人は学生という規模にすぎず、非現実的な指示であった[ 59] 。
しかし、社会革命党 はテロリズム を実行していった。1905年2月4日にはアレクサンドル2世 の五男セルゲイ・アレクサンドロヴィチ ロシア大公が社会革命党の学生によって暗殺された[ 58] 。
グリゴリー・ヴァクレンチュク 1905年6月14日、黒海艦隊 の戦艦ポチョムキン の水兵でボリシェヴィキのグリゴリー・ヴァクレンチュク が指導した反乱が起きたが、鎮圧された。
1905年8月末、政府は懐柔策として、大学管理を緩和し、学内での集会が可能になり、警察の学内侵入を禁じた[ 60] 。これを急進派は利用し、工場労働者を大学の集会に参加させ、大学は政治アジテーションの場になっていき、研究を行う教授や学生は嫌がらせをうけ、脅迫された[ 61] 。
1905年9月には日本との講和条約ポーツマス条約 が締結され、ロシアは満州から撤退し、日本に朝鮮半島 での優越権、南樺太 、大連 や旅順 など関東州 の租借権 などを譲った。セルゲイ・ウィッテ が日本との講和交渉から帰国すると、全国規模でストライキが発生した[ 60] 。
1905年9月末、モスクワ、サンクトペテルブルクの植字工がストライキを起こし、鉄道員のストライキ、そしてゼネストを目指して大学で集会が開かれた[ 62] 。1905年10月、公共サービス部門労働者がストライキを行った[ 63] 。10月13日、サンクトペテルブルク工科大学で急進派知識人に指導されたストライキ委員会が招集され、4日後にそれは労働者代表ソヴィエト を名乗った[ 63] 。これは、1917年のペトログラード・ソビエト の先例となった[ 63] 。皇帝ら政府は、立憲君主体制への改革か、軍事独裁かの選択を迫られていた。ニコライ2世が従兄弟のニコライ・ニコラエヴィッチ大公 に独裁的権限の掌握を依頼すると、大公は「軍事独裁のために利用できる軍隊は存在しない」「もしツァーリが国内に政治的な諸自由を下賜しないなら銃で自殺する」と脅した[ 63] 。
1905年10月26日には、クロンシュタット水兵の反乱 が発生し、13,000人の水兵と船員が参加したが鎮圧され、17人が死亡した。1905年11月11日には、黒海艦隊のオチャーコフ 艦上でピョートル・シュミット と兵士ソビエト8000人が反乱するセヴァストポリ蜂起 が起きたが、鎮圧された。
10月17日に十月詔書 が公布され、言論の自由、集会の自由などの市民的自由、普通選挙権、国会(ドゥーマ)の承認なしの法の無効が宣言された[ 63] 。これはロシア専制政治の終焉だったが、皇帝は、ウィッテら助言者から、皇帝が譲歩したものはいつでも撤回できると聞かされており、これがのちにさらなる難事をもたらした[ 64] 。モスクワでは10月23日までに鉄道職員のストライキによって鉄道が運転されなくなり、物資が届かず、物価は暴騰した[ 65] 。
都市では、歓喜する群衆がデモ行進をし、また、皇帝に専制を放棄させたとしてユダヤ人へのポグロム がおきたが、政府は対策しなかった[ 64] 。農民は、警察がユダヤ人を保護しないということは、地主貴族の領地に対してポグロムを行うことを許していると解釈し、農村で騒擾が発生し、農民による土地の略取が続いた[ 64] 。
1905年はロシア自由主義の絶頂であり、社会主義者の役割は補助的なものだった[ 66] 。1905年は政治制度を実質的に変えたが、帝政派は何の変化もなかったかのように装い、皇帝は議会を助言機関にすぎないとみなし、社会主義者は急進化した[ 66] 。
1905年12月6日、ボリシェヴィキが支配するモスクワ・ソビエトはツァーリ政府を打倒し、憲法制定会議の召集をめざしての武装蜂起をよびかけた[ 64] 。この背後にはパルヴスの永続革命論による行動戦略があった[ 64] 。12月7日から18日にかけて武装労働者がモスクワで蜂起した が鎮圧され、数百人の死者がでた[ 67] 。同時期にロストフ蜂起 、ニジニ・ノヴゴロド蜂起 、モトビリハ蜂起 が起きたがいずれも鎮圧された。こうして1905年の革命の鎮圧には一年以上を要した[ 68] 。
1905年革命によって急進派は英雄伝説と革命機関ソヴィエトを得た。メンシェヴィキのトロツキー はペテルブルク・ソヴィエトのカリスマ的リーダーとして名声を得た[ 68] 。レーニンは、この時は目立たない役割しか務めなかった[ 68] 。
1905年11月には検閲が廃止され、1906年3月には集会の自由が保障され、ロシア史上はじめて政党と労働組合の結成が可能になった[ 69] 。1906年4月に定められたロシア帝国国家基本法 で、二院制議会のドゥーマ が成立した[ 69] 。しかし、皇帝は閣僚任命権、議会解散権、勅令で統治する権限も保持しており、自由主義者はこれに失望した[ 69] 。一方、基本法では議員免責が定められ、急進派議員はこれを利用して、度を越した体制批判を行った[ 70] 。
1906年4月の第一国会(ドゥマ) のための選挙に際してエス・エルとロシア社会民主労働党 (メンシェヴィキとボリシェヴィキ)はボイコットし、総議席476のうち、カデットが179議席を占めた[ 70] 。カデットは教会や貴族の議員がいる上院の廃止、大臣の指名権、大土地所領の収用、政治囚の恩赦をもとめたが、皇帝はこれを非妥協的とみなして、1906年7月8日に議会を解散した[ 70] 。カデットはロシアの警察権が及ばないフィンランドのヴィボルグ へ撤退し、そこから納税と徴兵の拒否を人々に訴えた(ヴィボルグ宣言 )[ 70] 。
1906年から1907年にかけて、 テロによって4500人の官吏が殺されたか、不具にされ、民間人を含めると、左翼テロリズムの犠牲者は9000人にのぼった[ 71] 。
ピョートル・ストルイピン 1906年7月に首相に就任したピョートル・ストルイピン は農民騒擾とエスエルのテロリズムの鎮圧を実施した[ 71] 。
1905年以来の農村蜂起 に対して、ストルイピンは農村制度を改革し、農民に移動の自由をみとめ、農奴制の遺物を廃止し、1906年11月には農民はミール (農村共同体) から脱退しての私的な農業経営が可能になった[ 71] 。
1907年2月から始まった第二国会 では、社会革命党(エスエル) も議員免責を使って議会を掘り崩しすために議会に参加し、社会民主主義者も革命運動をめざして参加し、その結果、222議席を急進派が獲得した[ 72] 。皇帝らは、急進派を減らすために1907年6月2日、第2国会を解散させ、選挙法を改正して有産階級の代表を増やした[ 73] 。しかし、これは基本法で選挙権変更のための87条利用を禁じていたため違憲だった[ 73] 。反政府派はこれをストルイピン首相らによる「6月クーデタ 」と呼んだが、それが議会の基本的な権限を損ねることはなかったことから考えると、この表現は不適切だと歴史学者パイプスはいう[ 73] 。
1907年11月の第三国会で422議席のうち、自由主義的保守派の10月17日同盟(オクチャブリスト) が最多の154議席を獲得、カデットは54議席、社会民主主義者は32議席だった[ 73] 。第3国会はオクチャブリストとストルイピンが提携して政治が安定し、1908-9年は平穏で、暴力が低調となり、工業が発展した[ 74] 。しかし、ストルイピンはユダヤ人に市民権を与えたことで右派の反発を招き、弾圧された自由主義者と社会主義者もストルイピンを嫌悪していたために、孤立した[ 74] 。
この頃、ボリシェヴィキとメンシェヴィキのいるロシア社会民主労働党 の資金源には上流階級を嫌う資産家カルムイコワからの3600ルーブル、実業家サーヴァ・モロゾフ からの毎月2000ルーブルの献金があった[ 75] 。当時リベラル 層にとって革命政党への献金は良い趣味とされており、弁護士、技術者、医師、銀行の重役、ツァーリ政府の当局者さえも献金した[ 76] 。
しかし、こうした献金では活動資金が足りなくなったと感じたレーニンはレオニード・クラーシン とヨシフ・スターリン に命じて強盗集団を組織し、「エクスプロ(強制収奪)」と称して、銀行、蒸気船 ニコライ一世号の金庫、郵便局、鉄道の駅を襲い、金品を奪っていった[ 77] 。この「収奪 (expropriation)」とはマルクス『資本論』の「収奪者が収奪される」にちなんだものだった[ 78] 。クラーシンは偽札 印刷を計画したが、これは実現しなかった[ 77] 。1907年春のロンドンでの第五回党大会では、レーニンらの「強制収奪」が争点となり、マルトフはこれはボリシェヴィキのための資金集めであり、(党にとっては)泥棒行為だと非難した[ 79] 。レーニンはあざけりながら、戦闘集団による革命のための用意だと強盗を正当化した[ 79] 。しかし、大会では収奪は禁止された[ 80] 。
しかし、その数週間後の1907年7月、ボリシェヴィキ強盗団はグルジアの首都で現金輸送馬車を襲撃した(1907年チフリス銀行強盗事件 )。ボリシェヴィキは、25万[ 81] -34万1000ルーブリ [ 82] (現在では400万米ドル以上)を持ち去り、15人の通行人が巻き添えで死亡し、50人が重傷をおった[ 80] 。これはヨーロッパの革命政党も動揺した[ 80] 。レーニンは表向きは距離をとっていたが計画の詳細を承知し、承認していた[ 83] 。盗んだ紙幣はヨーロッパ各地で両替されたが、紙幣の番号を追跡され、十数人の党員が逮捕された[ 83] 。
同年のシュミット遺産横領事件 では10万ルーブリを得た[ 81] 。さらに資金を欲したレーニンは二人の十代の少女が相続した遺産を詐取する計画をたてた[ 83] 。サーヴァ・モロゾフ は1905年5月に自殺すると財産の一部をロシア社会民主労働党に遺贈したが、レーニンは残りの遺産を欲しがった[ 83] 。モロゾフは甥のニコライ・パヴロヴィッチ・シュミット にも財産を残した。シュミットもロシア社会民主労働党支持者だったが、ボリシェヴィキの支持者ではなかった[ 83] 。シュミットは警察に暴徒を支援したかどで逮捕され、1907年2月に獄中で死亡した[ 84] 。レーニンはこの知らせを聞くと、シュミットの二人の妹に、ハンサムな若い活動家を派遣し、ロマンス詐欺 のような手口で資産獲得を計画し、実行した[ 84] 。レーニンは「プロレタリアの大義のために行われることはすべて誠実だ」と語り、平気で嘘をつき、盗み、人を騙し、殺すことをいとわなかった[ 83] 。計画は成功し、二組は結婚した[ 84] 。しかし、19歳の姉のエカチェリーナと結婚した党員は少額を党に渡しあとはフランスに出奔したため、レーニンは裏切りに激怒した[ 85] 。17歳で未成年だった妹エリザヴェータは、27万984フランの財産(現在の価値で200万米ドル)をロシア社会民主労働党に遺贈した[ 85] 。レーニンの妻ナージャはこの事件に愕然とし、身の毛がよだつ思いがしたとのべた。レーニンは、個人的にはこの計画に吐き気をおぼえるが、エリザヴェータと結婚した活動家タラトゥタについて「われわれに必要なのは悪党なのかもしれない」と語った[ 85] 。シュミットの遺産について、メンシェヴィキはこれは社会民主労働党に遺贈されたもので、ボリシェヴィキに対して遺贈されたのではないと主張したが、レーニンはボリシェヴィキのために確保しようとした[ 86] 。調停を委ねられたカウツキーはレーニンからの資金要求にうんざりして、資産管理を退任した[ 86] 。
レーニンはスイスで党員十数人に200-600フランの月給を払い、自分は350フランをうけとった[ 87] 。このほか、母親から送金をうけた。ナージャは晩年、スイスでの生活は質素ではあったが、極貧でなく、飢えてもいなかったと述べている[ 87] 。正規の社会民主党の党費による収入は毎月100ルーブル程度にすぎなかったが、こうした「収奪(収用)」によってボリシェヴィキは首都とモスクワの組織に毎月1000〜5000ルーブルを渡すことができ、勢力を伸ばしていった[ 88] 。
1911年3月、西部ゼムストヴォ拡大法案で、国家評議会が皇帝から許可をえたうえで代理投票して法案を無効にした[ 89] 。ストルイピンはこれに反発して辞任を申し出るが、皇帝にとめられた[ 89] 。結局、西部ゼムストヴォ法案が公布されるが、オクチャブリストは離反し、宮廷でストルイピンはさらに孤立した[ 89] 。9月、ストルイピンは、テロリスト集団に所属しながら警察にも協力していたドミトリー・ボグロフ に暗殺された[ 89] 。
ストルイピン暗殺から第一次世界大戦までの3年間は、経済的には活況で、製鉄生産も輸出輸入量も1900年の二倍になり、農村は平穏で、社会主義は退潮した[ 90] 。一方で憎悪が蔓延し、急進派は体制への憎悪をつのらせ、農民はミール脱退者を嫌悪し、ウクライナ人はユダヤ人を憎み、ムスリムはアルメニア人を憎んだ[ 90] 。
1912年4月、バイカル湖 北方のレナ金鉱 でストライキ 中の労働者に対して軍隊が発砲し、多数の死者が出た(レナ金鉱事件 )。全国に抗議ストが広がり、労働運動は再活性化へと向かった。ストライキは1914年には第一革命期に匹敵するレベルに達した。
1914年のサラエボ事件 でセルビア人によるオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント が暗殺された[ 91] 。ロシアは正教徒の保護者を自認しており、バルカン半島での威信を失うことをおそて、セルビアを保護するために動員した[ 91] 。ドイツは国境に沿って軍隊を集結させるなとロシアに最後通牒したが、返答はなく、ドイツはロシアに宣戦布告した[ 91] 。ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国 を中心とする中央同盟国 に対して、ロシア、イギリス、フランスの三国協商 を中心とする連合国 との間で第一次世界大戦 が始まった。
ロシアは準備不足で、陸軍では召集に必要な銃が足りなかった[ 92] 。ロシア軍は、ハプスブルク軍 を破ったものの、ドイツ軍には敗北続きで、ポーランドやバルト諸国からは退却した[ 93] 。1915年までに東部戦線 でドイツがロシア西部諸県を占領し、ロシア軍は大撤退 を行った[ 94] 。
全ロシア・ゼムストヴォ連合は武器生産を増やしたものの、市民の資源を使い果たし、行政の無能さを明るみに出した[ 93] 。減耗分を埋め合わせるために急いで召集された新兵は、十分な訓練を受けられず、装備も貧弱で、おびただしい被害を出し、兵士の士気 が低いことが伝わると、上層部への怒りが強まった[ 93] 。
ロシアの敗北は国民にとって衝撃だった[ 94] 。ロシア兵捕虜は250万にのぼり、負傷者と民間人の損害を除外してロシア兵は200万が犠牲になった[ 94] 。1917年2月までに総計1500万を徴兵し、西部諸県を占領されたロシアは25万のロシア系ドイツ人、100万のユダヤ人を国の内奥部に強制移送した[ 94] 。さらに600万の避難民がロシアの内奥部に入っていった[ 94] 。
1914年に皇帝が伝統的に兵士にふるまっていったウォッカ の配給をやめ、一般人にもウォッカが禁止されると、人々は陰鬱になっただけでなく、不法の自家醸造 に穀物が振り向けられることになり、パン が不足していった[ 95] 。
第一次世界大戦によって愛国主義 が高まり、弾圧も強まって労働運動 はいったん脇に押しやられたが、戦争が生活条件の悪化をもたらすと労働運動は復活した。1915年6月にコストロマー 、8月にイヴァノヴォ=ヴォズネセンスク で労働者が警官と軍隊に射殺される事件が起き、抗議のストを呼び起こした[ 96] 。
グリゴリー・ラスプーチン アレクサンドラ皇后 は、ドイツ帝国 のヘッセン大公 ルートヴィヒ4世 の4女であり、ドイツとイギリスで育った。第一次世界大戦でドイツは敵国であったため、ロシア国民の一部から「ドイツ女」として嫌われた[ 97] 。1915年7月にロシア軍がワルシャワで敗北すると、ニコライ2世は前線に向かって軍を自ら指揮すると決定し[ 93] 、モギリョフ の本営に移った[ 98] 。しかし皇帝が戦地に赴いたことで政治的真空状態が生まれ、さらに敗北の責任を皇帝が負うことになったため、致命的な誤りとなった[ 93] 。
国内の政治の指導権はアレクサンドラ皇后 にうつったが、皇后は宗教家グリゴリー・ラスプーチン に頼った[ 98] [ 99] 。ラスプーチンはアレクセイ皇太子 の治療を行い、皇帝夫妻の絶大な信頼を得ていた。
アレクサンドラ皇后はドイツ出身であり、敵国に機密を渡しているのではないかという疑いが国内に行き渡っていた[ 100] 。また、「ドイツ女」とよばれた皇后とラスプーチンとの性的なうわさ話が街では蔓延しており、政府にとって危険だと報告もされていた[ 101] 。ラスプーチンは権勢を揮い、1915年8月からは彼の同意なくして官職への就職もできなくなった[ 102] 。ラスプーチンを排除すべきとの助言に対して、皇帝はラスプーチンを擁護したが、帝政派はラスプーチンを帝室の恥辱だと考え、宮廷から遠ざかった[ 102] 。
自由主義 者は1915年に国会でカデット を中心として「進歩ブロック」をつくり、戦勝をもたらしうる「信任内閣」の実現をめざして政府批判を強めた。自由主義陣営内の急進派は労働者代表も含む工業動員のための組織として戦時工業委員会を主要都市に設立した[ 103] 。
1916年6月、政府は従来兵役を免除してきた中央アジア 諸民族やザカフカーズ の回教徒 住民を後方勤務に動員することを発表した。中央アジア、カザフスタン の住民は7月に反乱を起こした。10月にはペトログラードの労働者がストライキを行い、軍隊の一部も加わった[ 104] 。
1916年11月1日の国会でケレンスキーは、敵は前線でなく国内にいると主張し、政府が国益を損ねているとその打倒を主張し、立憲民主党(カデット) のパーヴェル・ミリュコーフ は、ドイツ系の首相ボリス・シュトゥルメル が国家反逆罪にあたる証拠がいくつもあると告発した[ 105] 。ミリュコーフの演説は何十万部もコピーされ、国と前線に配布され、革命の気運を高めた[ 105] 。しかし、シュトゥルメルを告発する証拠がなかったことは、亡命後ミリュコーフ本人が認めた[ 105] 。
帝政を打倒しなければならないという確信は、革命家だけでなく、保守派にも広まり、帝政派は帝政を救うために、皇后とラスプーチンの排除を画策した[ 106] 。
1916年12月17日、貴族のフェリックス・ユスポフ 、ニコライ2世 の従弟ドミトリー・パヴロヴィチ らによってラスプーチンは暗殺された[ 107] [ 108] 。この結果、皇帝と皇后は逆に親密になり、皇帝夫妻は宮廷で孤立し、皇帝一家はツァールスコエ・セロー に引きこもった[ 107] 。
生前、ラスプーチンは自分に何らかの危害が降りかかるようなことがあれば、国は血のなかに沈むと予言していた[ 109] 。皇帝は1917年1月7日、ロジャンコ 議員が皇帝と国益のどちらを選ぶかと聞かれると、皇帝は「22年間最善を尽くしてきたが、それが全て誤りだったのか」と平静さを失って言った[ 109] 。ミハイル・アレクセーエフ 参謀長を含む保守派は、ラスプーチン暗殺によっても皇帝が改心しなかったため、もはや帝政を救うためには皇帝を排除しなければならないと決意し、アレクセイ 皇太子にニコライ・ニコラエヴィチ大公 を摂政としてつけて、皇帝に退位をせまる策謀をはじめた[ 109] 。
第一次世界大戦の戦況悪化により、軍隊の士気は落ちており、1916年末までに500万人が戦死か戦傷、捕虜になり、また、脱走兵も多かった[ 110] 。ホテルには前線にいるはずの将校が群れる一方で、厭戦的な兵士たちはボリシェヴィキにとっては党員獲得のチャンス だった[ 111] 。
帝国の秘密警察オフラーナ は、革命がおきれば兵士の三分の二が支持するだろうと報告し、また皇族と中道右派による皇帝打倒の陰謀があるとも報告した[ 101] 。イギリスの駐露大使らも革命が差し迫っているが、危機を回避する対策がとられていないと見ていた[ 111] 。
1917年1月、中央戦時工業委員会労働者グループは「国の完全な民主化 」「人民に依拠する臨時政府 」をスローガン として掲げて国会デモを呼びかけた。政府は労働者グループのメンバーや協力者を逮捕し、中央戦時工業委員会は抗議声明を発表した[ 112] 。
1917年2月、抗議デモ 1917年のペトログラード・ソヴィエト会議 1917年 初頭の冬は過酷なほどに寒く、1月末から2月のペトログラードの平均気温はマイナス15度だった[ 113] 。都市への輸送網がほぼ停止し、ペトログラード やモスクワへ穀物は供給されず、食料供給が止まっていた[ 113] [ 99] 。また、政府は1905年のロシア第一革命 を教訓とし、首都は16万人の守備隊に護られていた[ 114] 。
2月22日、皇帝はツァールスコエ・セローから前線に戻った[ 115] 。同時に、天気が好転し、寒気から解放された群衆は太陽の光を浴びるために戸外へ出た。労働運動家も活動を再開した。
2月23日 、金属労働者のストライキをきっかけに、主婦、繊維労働者も加わり、一部の女性はパン屋を襲撃した[ 99] 。ペトログラードで国際婦人デー にあわせてヴィボルグ 地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした「パン をよこせ」という要求が中心となっていた[ 116] 。デモ隊は23日には13万が参加した[ 117] 。この2月23日のデモは比較的穏やかで、デモ参加者は政府の弾圧を覚悟していたが、権力は反撃しなかった[ 118] 。警備するコサック兵もデモに同情していた[ 115] 。
2月24日 、群衆は安全を確信し、より攻撃的にデモを行った[ 118] 。群衆は15万人[ 99] から18万[ 117] または20万[ 115] に膨れ上がり、ストライキやロックアウトで仕事のない暴徒は食料品店を略奪した[ 115] 。デモ隊の一部は銃撃された[ 99] 。民衆は「パンをよこせ」でなく、「皇帝を倒せ」「平和を寄こせ」「くたばれドイツ女(皇后のこと」と叫んだ[ 97] 。群衆はペトログラード本部長を投石で殺害し、政府庁舎を占拠した[ 117] 。
2月25日、政府からの反撃をうけなかった群衆はさらに攻撃的になり、赤旗を掲げるものもおり、憲兵が攻撃された[ 119] 。プチブルジョワや学生も参加し、首都全体がこの運動に飲み込まれようとなったとき、政府が軍隊の出動を決定した[ 118] 。しかし、群衆と軍はこの日は衝突することはなかった[ 118] 。2月25日夜、皇帝ニコライ2世は武力での鎮圧を電報で命じた[ 120] 。
2月26日朝、部隊が首都を占拠し、秩序が回復するかにみえた[ 120] 。しかし、ズナメンスキー広場で、パヴロフスキー近衛連隊が群衆に発砲し、40人の死傷者がでた[ 120] 。これがペトログラード守備隊の抗命 をもたらし、それがただちに労働者に伝わり、爆発した[ 120] 。ペトログラード守備隊は30-40代で、彼らは徴兵を免れていると考えていた。しかしペトログラード守備隊の兵舎は二万人収容のところ16万が押し込められており、不満をつのらせていた[ 120] 。ズナメンスキー広場での虐殺をきいたペトログラード守備隊の何人かの兵士は怒って、広場へ向かい、途中、騎馬警察と銃撃戦を交わした[ 121] 。他方、パヴロフスキー近衛連隊はその夜、民間人への発砲命令には服さないと決定した[ 121] 。
軍ではデモの解散命令が射撃命令に変わっていたが、群衆が軍にデモに参加するようよびかけると、複数の連隊が蜂起側に寝返り、デモ隊は武器を獲得、監獄を解放し、逮捕されていたデモ指導者を解放していった[ 118] 。
2月27日朝、三つの連隊が抗命し、将校が殺される部隊もあった[ 121] 。反乱兵士は装甲車を徴発し、武器をもって、暴れた。暴徒は警官を殺し、内務省を略奪した[ 121] 。2月27日午後遅く、群衆は保安部の本署を襲撃し、焼き、兵器庫に乱入し、何千挺のライフルが盗まれた。商店、レストラン、私邸が略奪された[ 121] 。
16万の守備隊のうち半分が反乱し、残りは中立をとった[ 122] 。軍司令部は無力で、その支配下にあったのは2000人の部隊と3500人の警官とわずかなコサック騎兵だけだった。皇帝はイヴァノフ将軍の前線部隊、機関銃部隊八個連帯の首都への急派を命じた[ 122] 。
他の労働者もデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。労働組合 がゼネスト を宣言すると、首都機能は停止した[ 99] 。
前線で軍を指揮していた皇帝ニコライ2世は、セルゲイ・ハバロフ将軍にデモやストの鎮圧を命じたが、ハバロフは狼狽した[ 123] 。兵士が命令に従わないことはあきらかだった[ 123] 。皇帝は、ドゥーマにも停会命令を出した。
兵士のなかには、警察や軍が銃撃したのに衝撃をうけ、寝返って将校を撃ち始めるものもいた[ 99] 。守備隊の下士官が続々と上官を殺害し、反乱兵士は兵器庫の占領に成功し、群衆は監獄を解放した[ 124] 。警察は暴徒にのっとられ、平服に着替えられなかった警官はずたずたに殺された[ 124] 。フランス大使モーリス・パレオローグは、「軍規は失われ、将校ははずかしめられ、文句をいえば殺され、脱走兵がまちをうろつき、鉄道の客車を襲撃し、列車を乗っ取ると、駅長に行き先を変えるよう強制した」と報告している[ 125] 。
参謀総長ミハイル・アレクセーエフ はペトログラードへ進軍しようとしたが、不穏な動きがあり、軍隊の維持のためには皇帝を切り捨てるほかなかった[ 126] 。軍が命令に服従しなくなったことで、ツァーリの権力は消え失せた[ 99] 。
兵士たちは帝政を打倒したのは自分たちだと考えていた[ 127] 。兵士たちの多くはボリシェヴィキに入党したが、彼らはボリシェヴィキの公約を、故郷へ戻り、土地所有者から強奪し、税金を払わず、権威を認めず、平和に暮らすことと捉え、法も地主もいない、無政府主義的な「自由」こそ、かれらがボリシェヴィズムと呼んだものだったと、アレクセイ・ブルシーロフ 元帥はのちに語った[ 128] 。
二月革命は、自然発生的で、怒りの発作だった。無能で破綻した体制への大衆的蜂起の見本である[ 129] 。記者アーサー・ランサム は「これは組織的な革命ではなかった」と報じた[ 130] 。
二月革命について西側の共産主義者が書いた歴史書では、反乱部隊や戦争との関連が過小評価され、二月革命は工業労働者によって導かれ、戦争継続に反対した社会的な動乱として描いてきた[ 131] 。しかし、当時の資料には、そのような解釈の根拠となるような記述はなく、皇帝退位という革命の頂点をなす出来事へと導いた究極の判断は、戦争を効果的に遂行しようとする希望からなされたことを示しているとパイプスは指摘する[ 131] 。
二月革命は当初、その後100年たってもロシアが持てなかった政治的自由をもたらし、革命を祝うお祝い騒ぎが続いた[ 132] 。しかし、やがて復讐が追求され、陰惨なものになっていった。歴代皇帝の像が引き倒され、帝室の紋章が破壊され、旧体制のあらゆる機関が攻撃された[ 132] 。私刑 (リンチ)による裁き、家屋や商店の破壊、役人や外国人への中傷、非公認の逮捕、理由なき拘束や暴行が毎日繰り返された[ 132] 。
歴史家セベスチェンは、二月革命は平和的な蜂起だとの説明は通俗的な神話であり、その実態は暴力的で、武装ギャングが街頭をうろつき、ペトログラードで1433人、モスクワで3000人が犠牲になっており、十月革命よりはるかに多くの人が死んでいると指摘している[ 124] 。パイプスによれば、二月革命の犠牲者は1300-1450人、うち死者は169人で、4000人の公務員が勾留された[ 133] 。内務大臣だったプロトポーポフ は収監後、チェーカーによって処刑された[ 133] 。
革命家たち、急進グループは二月革命で何に役割も果たさなかった[ 129] 。社会革命党は「眠っていた」し、ロシア国内のボリシェヴィキもデモに参加したものの、デモを指導できなかった[ 129] 。当時ペトログラードでのボリシェヴィキ最高指導者シュリャプニコフは、二月時点でボリシェヴィキは3000人ほどで、ほぼ完全に無一文だったと認めている[ 129] 。
ゴーリキーは帝政打倒を支持したが、暴力と復讐のアナーキーな波が、ロシアを野蛮な混沌の新たな暗黒時代にしてしまった、と述べて、群衆の破壊を嫌悪した[ 134] 。ゴーリキーは首都はもはや汚水溜めであり、誰も働かず、街路は不潔で、中庭は悪臭をはなつゴミの山、人々のなかに怠惰と臆病が成長し、卑劣で犯罪的な本能がロシアを壊していると語った[ 134] 。
トロツキーは暴動の無政府状態のなかに、破壊行為のなかに、そのもっとも否定的な側面のなかにさえ、人格の目覚めは表現されていると暴力を正当化した[ 134] 。
レーニンは、二月革命の勃発をスイスで知った[ 135] 。連合国が通行を拒否すること、また、中立のスウェーデン経由で帰国しても、親ドイツ的で反ロシア的なレーニンの態度がロシアで非難されることをおそれ、レーニンは帰国しなかった[ 135] 。レーニンは檻の中の獣のように怒りながら、ロシアの部下たちがメンシェヴィキの方針に従うことを極度におそれた[ 136] 。レーニンは暴力によって自分がすばやく権力の座につけると確信して、復讐と破壊を煽った[ 137] 。3月6日から19日にかけて首都のボリシェヴィキ党員にレーニンは臨時政府とケレンスキーを支持しないと電報を打ち、「プロレタリアを武装させよ」と軍事的蜂起をよびかけ、「他党とはいかなる接近和解もしない」と他党との協力を拒否した[ 138] 。これは、クーデタがボリシェヴィキによってのみ行われることを意味した[ 138] 。しかし、ボリシェヴィキ党は当時、人気がなく、反乱兵士のなかにボリシェヴィキに従うものはほとんどいなかったし、首都の労働者もボリシェヴィキよりメンシェヴィキやエスエルを支持していたありさまで、野望にみちた国家転覆の計画を実現できる立場にはなかった[ 138] 。[ 138] 。
ペトログラード・ソビエトとドゥーマ臨時委員会による臨時政府[ 編集 ] 2月27日、労働者の代議員や兵士はメンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード労働者・兵士代表ソビエト(ペトログラード・ソビエト) を結成した。メンシェヴィキのチヘイゼ が議長に選ばれ[ 139] 、ケレンスキー 、ボグダーノフも入った[ 140] 。ペトログラード・ソビエトはドゥーマのあるタヴリーダ宮殿 に設置された[ 140] 。
一方、同じ日にドゥーマの議員は国会議長である十月党 (オクチャブリスト )のミハイル・ロジャンコ のもとで臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。
2月28日、皇帝は家族のいるツァールスコエ・セローに向かったが、線路は敵対部隊の手に落ちており、列車は首都近郊で停止した[ 141] 。皇帝はプスコフ の北部戦線司令部に向かったが、司令官ルスキーは反帝政派だった[ 141] 。
皇帝は国会解散を命じていたが、同2月28日、進歩ブロックと会派代表が私的な会合をひらいた[ 141] 。かれらは宮殿前の群衆をおそれ、12人の議員からなる執行機関ドゥーマ臨時委員会 をたちあげると決定、このドゥーマ臨時委員会は事実上、ロシアの政府となった[ 141] 。
同2月28日、ペトログラードソビエトの機関紙「イズヴェスチヤ」でモロトフとシリャーブニコフは、革命臨時政府の創設、普通選挙、憲法制定会議の開催、労働者同士の平和、大地主の所有地の没収などを宣言した[ 142] 。レーニンはこのときまだスイスにいた[ 142] 。
ペトログラード・ソビエトでの総会は、議事日程も投票手続きもなく、参加者全員に発言権利を認めたために果てしない演説の場となったために、ソビエトの決定権限を執行委員会(イスポルコム )へと移すことになった[ 143] 。この執行委員会はソビエトから選出されたのでなく、社会主義各党から三議席が割り当てられていた。この結果、当時、労働者のなかでもわずかな支持者しかおらず、兵士では誰も支持していなかったボリシェヴィキ党の代表が不自然に拡大された[ 144] 。また、ソビエト総会の決定は事前に社会主義者の幹事会で決められるようになり、執行委員会は官僚制化した[ 144] 。ロシアがブルジョワ革命を迎える間に、次の社会主義の局面に備えるまでは政府には加わらないというボリシェヴィキの教義を採用したソビエトは、ドゥーマ委員会への不参加を決定。こうして二重権力とよばれる状態が十月まで続いた[ 144] 。
3月1日、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会はペトログラード守備軍に対して「指令第一号(命令第一号[ 127] )」を出した[ 145] 。これは社会主義者の将校と民間人グループによって発案され、反革命の温床とされた将校団の破壊を目的としていた[ 145] 。命令第一号はやがて軍全てに適用された[ 145] 。この指令では、軍の部隊ごとに委員会を結成し、ペトログラード・ソヴィエトに代表を送ること、軍のソビエトへの服従(3条)、指令を取り消す権限はソビエトにあること(4条)、軍の装備に責任をもつのは中隊と大隊の委員会であり、将校がその装備に接近することは許されない(5条)などが定められ、これは徹底的に軍を破壊した[ 145] 。「命令第一号」では、軍の権限を臨時政府でなく、ペトログラード・ソビエトに与えており、兵士は「市民」であり、軍法には縛られないとされ、将校と兵士の上下関係や指揮系統が崩壊した[ 127] [ 146] 。
また、兵士委員会は、メンシェヴィキ、ボリシェヴィキ、エスエルの知識人からなる下級将校が掌握し、ソビエトが軍を支配した[ 147] 。
また、「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」などとし、国家権力を臨時政府 と分かちあう姿勢を示した。
3月1日から2日夜にかけて執行委員会はドゥーマ代表と会合し、政治犯への恩赦、憲法制定会議の準備、警察の解体、自治機関を刷新するための選挙、革命に参加した軍隊が武器を保持し、前線に送られないことを保証することなど8項目の政綱をつくり、これによりロシアの行政と保安 の全機構が一挙に廃絶された[ 148] 。
3月2日、ドゥーマ臨時委員会はゼムストヴォの指導者ゲオルギー・リヴォフ 公爵を首相とする臨時政府(第一次臨時政府 )を設立した[ 126] 。外相 にはカデットのパーヴェル・ミリュコーフ 、陸海軍相には十月党 のアレクサンドル・グチコフ などからなる自由主義者中心の内閣であった[ 140] 。社会革命党から法相として入閣したアレクサンドル・ケレンスキー は穏健派社会主義者とみられ、民衆に人気があった[ 146] 。決定的に勝利するまで戦争を継続しようとする臨時政府に対して、ソビエトは負け戦に反対していたが、この対立は一時的にケレンスキーらエスエルとメンシェヴィキの入閣で解消された[ 149] 。
ペトログラード・ソヴィエトを指導するメンシェヴィキ は、ロシアが当面する革命はブルジョワ革命 であり、権力はブルジョワジー が握るべきであるという認識から、臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する方針を示した。
一方、3月2日にチューリヒで革命のニュースを知ったレーニンは、数時間後、ノルウェーのアレクサンドラ・コロンタイ に以下の電報をうった[ 150] 。
臨時政府を支持しない ケレンスキーは信用できない プロレタリアを武装させよ、 ペトログラード市議会選挙の即時実施 他党とはいかなる和解もしない という内容で、妥協せず、メンシェビキとは交渉しないという方針にレーニンの政治の本質がここに現れている[ 150] 。
ドゥーマ臨時委員会はニコライ2世 に自由に行動させてくれるよう訴えたが、革命の規模に気づいていなかった皇帝は訴えを無視し、武力を行使しようとして孤立した[ 140] 。
3月1日、軍最高司令官ミハイル・アレクセーエフ 将軍は皇帝に、革命が起きれば戦争の不名誉な終結を意味する、後方で革命が起きているときに軍に冷静に戦争を遂行するのは不可能であると進言し、皇帝はこれにより、電報でロジャンコには国会組閣の承諾を、イヴァノフ将軍には首都への進軍中止を命じた[ 151] 。
立憲君主制によって体制を救おうとしていた臨時委員会委員長ミハイル・ロジャンコ [ 140] 、ルスキー将軍、アレクセーエフ将軍らは退位以外に反乱兵士を鎮圧するのは不可能だと結論し、皇帝に伝えると、3月2日午前10時45分、皇帝は自分がロシアに不幸をもたらしたと述べ、退位を考えてみるとのべた[ 152] 。さらにカフカース戦線のニコライ・ニコラエヴィッチ大公 も退位に同意し、3月2日午後2時、皇帝も退位に応じた[ 153] 。皇帝は戦争での勝利のために愛国心から退位を承認したのであり、もし権力保持が皇帝の最大の関心であったならばドイツと講和し、ペトログラードとモスクワの反乱に前線の軍を派遣しただろうとパイプスは指摘している[ 154] 。
ニコライ2世は医者と相談し、アレクセイ 皇太子の血友病 が完治することはないと聞かされ、弟ミハイル に皇位を譲るとした[ 155] 。
3月3日、内閣はミハイルと協議した。ミハイルは、兄が断りなく皇位継承者に指名したことに当惑していたが、憲法制定会議が皇位授与が適切だと判断するまで、また憲法制定会議がそうしないならば皇位を辞退するとする詔書に署名した[ 156] 。
イスポルコムは3月3日、ニコライ・ニコラエヴィッチ大公 を含めた皇族の逮捕を命じた[ 157] 。
3月4日、政府は警保局、保安課、憲兵部を解散した。警察は選出された公吏によって指揮され、ゼムストヴォと市会に責任を負う市民警に移った[ 157] 。
3月5日、イスポルコムは「反動的」新聞を閉鎖させた。二日後、イスポルコムの許可なしの新聞と定期刊行物の発行を禁止した[ 158] 。これは抗議をうけて撤回したが、社会主義知識人が崇高な民主的理念を公言しながら言論の自由を侵害しがちであることを示すものだった[ 158] 。
後継のないまま3月15日にニコライ2世は退位を表明し、ロマノフ朝 は終焉した[ 159] 。ニコライは家族とツァールスコエ・セロー に向かい、五ヶ月過ごした。この間、イギリスへの移住を画策したが、英国は一度は招致に同意したものの、労働党の反対をおそれて招致を撤回した[ 156] 。
イスポルコムは、政府はイスポルコムの承認なしに重要な決定を行えないと主張し、連絡委員会を設置した。政府はこの連絡委員会の要求に全て応じた[ 160] 。3月19日、イスポルコムは、陸軍省、軍司令部にコミッサールを任命し、司令官の命令はコミッサールの承認なしに遂行されないとした[ 160] 。
ペトログラード・ソヴィエトは一ヶ月後には首都だけでなく全土に権能を及ぼすようになった[ 160] 。ペトログラード・ソヴィエトは地方都市のソビエトと前線部隊の代表を受け入れ、全ロシア労兵ソビエトとなり、イスポルコムは、全ロシア中央執行委員会 と改称した[ 160] 。全ロシア中央委員は72人まで増やされ、メンシェヴィキ23人,エスエル22人,ボリシェビキ12人という結果になった[ 160] 。しかし農民は農民同盟を組織してソビエトとは距離をとっており、農民代表はいなかった。したがって、全ロシア労兵ソビエトは、農民とブルジョワをのぞいた国民の10-15%を代表していたにすぎなかった[ 160] 。
この時点ではボリシェビキはいまだ少数であった。ボリシェビキを除いて全ての政党が勝利するまでの戦争継続に賛同していた[ 161] 。広く行き渡った誤解に反して1917年2月にもそして夏の初めまでも、人々は戦争に反対していなかった[ 161] 。兵士の間でもボリシェビキは人気がなく、4月8日のソビエト兵士部会での選挙でボリシェビキは1議席も獲得できなかった[ 161] 。
臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した[ 162] 。この声明は連合国側から歓迎された。一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と題して発表した声明は、「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」「ロシア人民がツァーリ の専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」とし、臨時政府の姿勢との食い違いをみせた[ 163] 。
ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて以下の内容の「戦争目的についての声明」(3.27声明)を発表した[ 164] 。「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決 を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」[ 164] 。
ソヴィエトはこの臨時政府の声明を歓迎し、さらにこの声明を連合国政府に正式に通知するよう圧力をかけた[ 165] 。ミリュコフ 外相は4月18日にこの声明を発送した[ 165] 。しかし彼は声明に「ミリュコフ覚書 」を付し、その中で「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである」と解説した[ 165] 。
この「ミリュコフ覚書」は3.27声明の主旨とは明らかに異なっていたため、新聞で報じられるとともに労働者や兵士の激しい抗議デモ(四月危機)を呼び起こした。ミリュコフ外相とグチコフ 陸海相は辞任を余儀なくされた[ 166] 。ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。
5月5日に成立した第一次連立政府 は、もともと法相として入閣していたケレンスキー のほかに、ソヴィエト内のメンシェヴィキと社会革命党から入閣があり、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった[ 159] 。
ボリシェヴィキは弾圧によって弱体化していたため、二月革命の過程で指導力を発揮することはできず、ソヴィエトにおいても少数派にとどまった。臨時政府やソヴィエトに対する姿勢に関しても革命当初は方針を明確に定めることができなかった。
3月12日(3月13日[ 167] )に中央委員のカーメネフ 、スターリン 、ムラノフが流刑地からペトログラードに帰還すると、ボリシェヴィキ の政策は臨時政府に対する条件付き支持・戦争継続の容認へと変化した[ 168] 。機関紙『プラウダ 』には「臨時政府が旧体制の残滓と実際に闘う限り、それに対して革命的プロレタリアートの断乎たる支持が保証される」「軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。……われわれは、銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって、自己の持場を固守するであろう」などといった論説が掲載された[ 168] 。
「革命の商人」とよばれたアレクサンドル・パルヴス はドイツ帝国にロシア帝国を混乱させるための工作を提案し、これに賛同したドイツ帝国は、パルヴスに200万マルクを提供した[ 169] 。さらに亡命していたレーニンらを封印列車 に乗せて帰国させ、敗北主義の宣伝を行わせた[ 149] 。封印列車には、イネッサ・アルマンド 、ジノーヴィエフ 一家、ラデック、数人のブントがのった[ 170] 。チューリヒの駅で見送りにきた支持者がインターナショナルを歌いだし、反対するデモ隊はレーニンらをスパイと呼んで非難した[ 170] 。これに続いて、二番列車にはマルトフ、アクセリロード、バラバーノヴァ、ルナチャルスキー、グリム、ソコーリニコフがのった[ 170] 。
4月3日(新暦4月16日)[ 171] 午後11時10分、亡命地スイス からドイツ政府の用意した封印列車で帰国したレーニンがペトログラードのフィンランド駅 に到着した[ 172] 。事前に動員されていた[ 173] 群衆は、革命歌 「ラ・マルセイエーズ 」を歌って歓迎した[ 172] 。レーニンは、駅の外に準備してあった装甲車 の上に登り、投光器 でライトアップ された短い演説を行った[ 172] 。群衆の拍手喝采をうけながら、レーニンは「帝国主義の略奪戦争はヨーロッパ全土の内戦の始まりだ」「今にも帝国主義全体が崩壊することを予期できる」と演説した[ 173] 。
その後、レーニンはクシェシンスカ 邸にあるボリシェヴィキ司令部へ急行し、2時間演説した[ 174] 。レーニンは、ツェレツェーリとチヘイゼ のペトログラードソビエトは、日和見主義者、社会愛国主義者によるもので、ブルジョワの道具にすぎず、革命にいたらない。したがって、ペトログラードソビエトをプロレタリアの手に奪還しなければならない[ 175] 、したがって、革命のブルジョワ段階から社会主義段階への移行は、数年でなく、数週間で達成せなばならないと演説した[ 176] 。演説を聞いていた党員はこのような演説を予想しておらず、困惑し、茫然とした[ 175] [ 176] 。革命による社会主義の統一が目標であって、分裂などおもいもよらなかった[ 175] 。妻のクルプスカヤ も「イリイチは頭がおかしくなった」と古参同志につぶやいた[ 177] 。
当時、レーニンはスターリン、カーメネフとも乖離があった。カーメネフは「プラウダ」で、戦争中に軍隊に武器を置けと要求はできないとして臨時政府に対して穏健な態度をとり、スターリンもキーンタール・ツィンメルヴァルトの原則に賛同するものには和解可能性があるとして運動の統一を要求していた[ 167] 。さらにチューリヒにいたレーニンが3月におくった「遠方よりの書簡」のなかの「臨時政府を攻撃せよ」という文をカーメネフとスターリンは削除して発表していた[ 178] 。
レーニンの過激な立場は、ボリシェヴィキなど周囲の思惑とかなり違っていた[ 179] 。4月4日の議会で、レーニンはあらゆる戦争努力の即時停止、臨時政府への拒絶、すべての権力をソビエトへ移転し、正規軍を廃して民兵団を創設すること、土地の国有化、ソビエトによる生産と分配の管理などを激しく主張した[ 179] 。レーニンの破壊的な主張に、大部分の出席者は憤激した[ 179] 。ボグダーノフは「狂人のたわごとだ」と叫び、古参のゴルデンベルグもレーニンの「分裂」の標語と、自ら社会民主主義の外に身を置こうとする態度を批判した[ 179] 。メンシェヴィキのツェレツェーリも批判したが、レーニンの提案は、非現実的で奇妙にすぎたため、反論が空回りした[ 180] 。臨時政府の多数は、レーニンはおしまいだとみなした[ 180] 。のちに「4月テーゼ」とよばれる文書も、現実と没交渉の者によって書かれたものという印象をあたえたにすぎなかった[ 176] 。
レーニンは『四月テーゼ 』とのちに呼ばれる文書「現下の革命におけるプロレタリアートの任務について」を「プラウダ」に持ち込んだが、編集部は掲載を躊躇した[ 180] 。怒ったレーニンはジノヴィエフを引き連れて編集部のある建物の門をこじあけ、脅迫もまじえて4月7日に掲載させた[ 181] 。カーメネフはこの論文は文責はレーニンにあると冒頭に注をつけ、さらに「われわれ編集部にはこの文書は受け入れ難い」としるした[ 181] 。
レーニンはこの文書において、ブルジョワ政府である臨時政府をいっさい支持しない、「祖国防衛」の拒否、全権力のソヴィエトへの移行を主張した[ 159] 。また、プロレタリアートと貧農の手に権力を渡す第二段階への前進、さらに、警察・軍隊・官僚の廃止、土地の国有化、労働者による工業生産管理を約束するボリシェヴィキこそプロレタリアの利益を代表する唯一の党であると主張した[ 182] 。レーニンの構想の特徴として以下が挙げられる[ 183] [ 184] 。
a)権力の源泉は、議会によって承認された法律ではなく、「人民大衆の、下からの、それぞれの地域での直接的イニシャティヴ (発案) 」にある。 b)人民代表機関の代議員は、人民によって選挙され、いつでもリコールされる(命令委員制)。代表制機関は「おしゃべり小屋」でなく、同時に立法府でもあり執行府でもある行動的団体となる。 c)人民の上の立つ古い官僚制を廃止する。 d)人民から切り離され、人民に対立する警察、軍隊を廃止し、全人民の直接の武装によって置き換える。 4月テーゼで「労働者代表ソビエト」は「革命政府のただ一つの可能な形態」であり、これは「議会制共和国」に後退するのではなく、「全国的な、下から上までの労働者・雇農・農民代表ソビエトの共和国」に前進すべきであるとされた[ 185] [ 186] 。レーニンによれば、ソビエト共和国とは、パリ・コミューン を原型とする国家、それと同型の権力である[ 187] 。マルクスはパリ・コミューン分析において「フランスでは議会制度(der Parlamentarismus)は死んだ」とし、議会式ではないコミューン、諸コミューンから選出される全国代議員による政治的統合こそ「労働の経済的解放をなしとげるためのついに発見された政治形態」とした[ 188] 。レーニンはこれを念頭におき、これこそが「真の民主主義」の最終的実現、「あらゆる国家の完全な死滅 」を歴史的任務と考えた[ 189] [ 190] 。
翌4月8日の首都の党委員会では、地方からも反対意見が多数でて、4月テーゼの採択を問う投票の結果は反対13、賛成2、棄権1で棄却された[ 181] 。レーニンは挫けず、10日後の全ロシア党会議では149人の代表者があつまるなか、レーニンの提議にカーメネフ、ルイコフは反対したが、ジノーヴィエフ、ブハーリン、スターリンが支持した[ 191] 。ここには、既存指導部の躊躇に対して不満をもっていた下部党員が、レーニンの決断力と力と意志でこころを奪う断固たるリーダーシップにひかれたこと、ミリュコーフの覚書では講和が遠くなっていくことに群衆がデモをして辞職を要求していたことなどが背景にあった[ 191] 。全ロシア党会議では戦争に関する決議についてはほぼ全員が賛成し、ソビエトへの権力移転の決議案は122票を獲得した[ 191] 。社会主義革命への即時前進への賛同は71人にとどまった[ 192] 。
また、このとき、レーニンは「社会民主主義」という語は裏切りの同義語だとして、「共産主義」を採用している[ 192] 。
四月テーゼは4月24日から29日にかけて開かれたボリシェヴィキの党全国協議会で受け入れられ、党の公式見解となった[ 193] 。
レーニンは四月テーゼでパリコミューンを持ち出してソビエトと同一視し、自身の主張に歴史的根拠をあたえたものの、党は何を政治的に代表するのかについては首尾一貫した観念をもっておらず、ソビエトと憲法制定会議も同一視していた[ 194] 。4月テーゼ時点では政治体制を決定するための憲法制定会議の選挙を予定していた[ 184] 。しかし権力掌握後、レーニンは憲法制定会議を強行的に解散することになる。10月のクーデター以降、レーニンと党全体との不一致がさらに顕在化していく[ 194] 。
自力で帰国したチェルノーフ 、マルトフ、トロツキーや、シベリアからカーメネフやスターリンが戻り、戦争継続を弾劾すると、戦争に倦み疲れた大衆はこれを支持した[ 149] 。トロツキーは帰国後、レーニンのテーゼを自分のものとし「すべての権力をソビエトへ」とよびかける[ 195] 。レーニンはトロツキーと和解しようとしたが、トロツキーはボリシェヴィズムは過去のもので、新しい党が必要だと考えており、この時は合流しなかった[ 196] 。
「ミリュコフ 覚書」が引き起こした四月危機の影響のなかでゲオルギー・リヴォフ 政権が倒れ、5月はじめ連立内閣が組閣され、リヴォフは首相に残留したが、ソビエトを代表する6人が入閣した[ 195] 。
二月革命後、農村でも法と秩序が崩壊し、ロシアの多くの所領が農民に占拠され、地主は追い出され、暴行を受け、殺害された[ 197] 。革命前は地主は軍隊に守られていたが、いまや兵士は暴力の煽動者になっており、警察も存在しなかった[ 198] 。1917年夏の初めには、農民集会が開かれ、所領没収の投票が行われ、銃や鍬で武装した集団が荘園 に向かい、しばしば家族に残忍な暴行を加えた[ 198] 。これはストルイピン がサラトフ県 知事だった1905年に、数千人の農民が地主を警護する兵士によって殺されたことへの報復だと正当化された[ 198] 。
1917年5月末、「全ロシア農民会議」を自称するグループが樹立し、財産没収は合法であると宣言した[ 199] 。レーニンは農民を野蛮、封建的とみなして軽蔑していたが、歩調をあわせこれを支持した[ 199] 。
1917年6月、サラトフ近郊のポル・ポリャンシチナの荘園では、脱走兵に率られた暴徒が、ウラジミール・サブロフ公を斧でめったうちにした。これは1906年に12人の農民が吊るされたことへの報復だった[ 198] 。暴徒は、農民を理想化した作家トルストイ のヤースナヤ・ポリャーナ の家にもおしかけたが、家の明かりが消えていたので、すでに略奪をうけたと思い、別の荘園に向かった[ 199] 。
1917年夏、農民たちは、ボリス・ヴャゼムスキー公を捕まえ、私的裁判をひらいて前線送りを命じた[ 200] 。ヴャゼムスキー公は輸送中に暴徒から銃剣で刺され、首をはねられた[ 200] 。ヴャゼムスキー公は1906年の騒動のさい、数百人の農民を絞首刑にしたことへの報復だった[ 200] 。
このように農民は独自の革命をおこなっていた[ 200] 。
6月には、ヴォボルク地区の元内務大臣ピョートル・ドゥルノヴォ邸をアナキストが占拠、要塞化する[ 201] 。首都でもボリシェヴィキが兵士の不満を掻き立て続けた[ 202] 。
1917年6月の第一回全ロシアソビエト大会、822人の参加者うち、社会革命党285、メンシェヴィキ248、ボリシェヴィキは105人、ほか無所属の代議員も多数いた[ 203] 。メンシェヴィキのツェレツェーリが「現在、政権を自身に委ねてくれといえる政党はいない」と発言すると、レーニンはたちあがり、「その党は存在する。われわれは直ちに政権を掌握する準備ができている!」と発言した[ 204] 。敵意のこもった罵声 と嘲笑によって彼の演説は中断したが、議論をきいていた水兵たちは拍手した[ 205] 。ケレンスキーは「レーニンはフランス革命を真似るようすすめる。ロシア国家を完全な崩壊にひきずりこもうとしている。もし反動勢力の支持をえて、われわれを殲滅することに成功すれば、あなたは独裁者のために席を用意することになるだろう」と批判した[ 205] 。会議では、レーニンの案は否決された[ 205] 。
6月9日にボリシェヴィキと工場委員会は翌日のデモのビラを撒いたが、そのスローガンは「ツァーリのドゥーマ打倒!」「内閣打倒!」「全権をソビエトへ!」「パンと講和と自由を!」といった攻撃的なものだった[ 206] 。首都の軍隊は、長年の工作ですでにボリシェヴィキに服従していた[ 206] 。チヘイゼはレーニンらはクーデタを扇動していると非難したが、ボリシェヴィキは、政府が労働者を武装解除し、軍の力を弱体化させるために陰謀をでっちあげたと反論した[ 206] 。しかし、ボリシェヴィキはデモがクーデタにいたることを当てにしていたのは明らかだったと歴史学者カレール・ダンコースは指摘する[ 206] 。
6月11日、ソビエトで、メンシェヴィキのダンとマルトフらは、デモの条件について、武装したデモ活動 はソビエトの許可なしにはできないようにするべきだと要求し、ツェレツエーリがボリシェヴィキとその操縦下にある集団の武装解除を要求した[ 207] 。しかし、マルトフは「労働者階級の武装解除はできない」と反対したため、ボリシェヴィキはマルトフの弁護によって抗弁する必要がなくなった[ 207] 。半年後にメンシェヴィキは、ツェレツエーリの警告が現実に即したものであったことを確認することになる[ 207] 。
七月蜂起 (1917)。ユリウス暦7月4日のペトログラード 第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、6月18日から、前線において大攻勢(ケレンスキー攻勢 )を仕掛けた。
将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。当初コルニーロフ麾下の第八軍は目覚ましい働きをみせたが、ドイツ軍がオーストリア軍救援に向かうとロシア軍はパニックに陥り、壊滅した[ 208] 。攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。
攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。さらにペトログラード守備隊のいくつかの部隊を前線に派遣するという政府の決定は、7月事件(七月蜂起)の引き金となった[ 208] 。これはソビエトとの協定を侵害する命令であり、ボリシェヴィキは猛烈なプロパガンダ活動を展開し、暴動を煽った[ 208] 。
ペトログラード機関銃連隊が6月30日に解体され、前線に送られることが通達された[ 209] 。ボリシェヴィキとアナキストは兵士を煽り、抗議集会を開いたが、ボリシェヴィキは時期尚早の蜂起が失敗することをおそれてもいた[ 209] 。
7月3日にペトログラード機関銃連隊がデモを行った[ 209] 。同7月3日遅く、カーメネフ、トロツキー、ジノヴィエフらは労働者部会を支配し、ソビエトへの権力移譲を宣言するという計画をたてた[ 209] 。労働者部会でジノヴィエフがソビエトの権力掌握を表明すると、メンシェヴィキとエスエルが退場し、残ったものですべての権力をソビエトへ移すことを決議した[ 210] 。
翌7月4日朝、ボリシェヴィキ中央委員会は反乱兵士を完全に武装させたうえでのデモを指令した[ 210] 。デモ隊はクシェシンスカヤ邸でのボリシェヴィキによる部隊の観閲をもってはじまり、早朝にフィンランドから戻ったレーニンは短い演説を行った[ 210] 。ボリシェヴィキの軍事組織に指揮された武装デモ隊は、タヴリーダ宮に向かい、部隊は首都の戦略的な地点を制圧した[ 210] 。デモ部隊は「すべての権力をソヴィエトへ!」をスローガンに行進を開始、タヴリーダ宮を包囲して数人の政治家を捕捉して、権力移転を要求した[ 211] 。
7月4日午後、武装デモ隊がタヴリーダ宮前に集まり、ボリシェヴィキ部隊が宮殿を接収し、権力奪取を発表しようと待ち構えていたとき、レーニンは臆し怯み、言葉を濁してしまい、これにより蜂起は失敗した[ 212] 。
一方の政府はボリシェヴィキのドイツとの取引(後述する資金提供疑惑)を報道機関に流した[ 213] 。その情報が急速に守備隊に伝わり、さらに午後遅く、政府軍の部隊が宮殿前に到着すると、反乱者は逃げ去り、こうして蜂起は終わった[ 213] 。
その後、数日間、政府に忠実な前線部隊によって市は占拠され、警察はボリシェヴィキ党員を国家叛逆罪および武装蜂起の廉で逮捕していった[ 213] 。政府はレーニンらの逮捕も命じた[ 211] 。
レーニンは潜伏先から「クーデタを企てる意図はなかった」と否認し、数日後、レーニンはジノヴィエフとともに変装して、フィンランドに逃げた[ 213] 。
事件は7月6日には終了した[ 211] 。
すでに6月19日にレーニンはフィンランド国境近くのボンチェ・ブルーエヴィチの別荘に避難していた[ 214] が、レーニンが隠れ家から出てくるのは7月4日で、七月蜂起ではトロツキーが権力変更を要求し続けた[ 211] 。
七月蜂起についてボリシェヴィキは自然発生的な蜂起だと主張したが、ボリシェヴィキが数週間にわたって念入りに煽り立てたものだった[ 215] 。デモ部隊はボリシェヴィキの指令を待ったが、ボリシェヴィキは矛盾した指令を出し続け、混乱していた[ 215] 。
ボリシェヴィキは結局、武力行使の時はいまだいたらずと決定した[ 216] 。レーニン自身の行動もそうだが、優柔不断であった[ 216] 。
政府も、ソビエトから反対され、ボリシェヴィキへの法的な訴訟手続きをはじめなかった[ 213] 。ソビエトはボリシェヴィキへの対策が他の社会主義政党に及ぶことを危惧したのであった[ 217] 。
ボリシェヴィキが七月蜂起で優柔不断であったのは、レーニンらが敵国ドイツからの資金提供を受けているという疑惑に関する事実の公表に関するのではないかとダンコースは述べている[ 216] 。敵国からの資金提供は国家反逆罪にあたるとされていた。レーニンらがドイツから支援を受けていたことは、その政策を推進したドイツの外相リヒャルト・フォン・キュールマン自身がのちに明らかにしている[ 218] 。その支援額は、5000万ドイツ金マルク(600-1000万ドル)を超え、これは9トンの金塊を購入できる額だった[ 218] 。臨時政府はフランスの諜報機関からこの取引について報告を受けていた[ 218] 。
7月4日、臨時政府は事実の公表を報道しようとしていたが、発表の緊急性があるか躊躇していた[ 219] 。ボリシェヴィキを非合法化する訴訟の計画もあったが、法相ペレヴェルゼフとソビエト多数派が対立していた[ 219] 。法相は公表しようとしていた。ほとんどの新聞は政府の求めに応じて沈黙していたが、「ジヴォーエ・スローヴォ」が「スパイ団、レーニン、ハネツキとその一味」記事でレーニンたちは敵国から資金をもらっていると報道し、これはレーニンらにとって打撃だった[ 219] 。
ジノヴィエフは即座に、これは中傷であり、ヨーロッパ全域の労働者運動への攻撃であるとし、レーニンの名誉回復をおこなうと、ソビエトで演説した[ 220] 。反ボリシェヴィキ集団が「プラウダ」印刷所を攻撃、ボリシェヴィキ司令部を包囲した[ 220] 。政府は反乱兵を武装解除し、同時にボリシェヴィキ逮捕の命令を下し、レーニンとジノヴィエフはフィンランドへ逃亡、トロツキーらは逮捕された[ 220] 。メンシェビキのスハーノフ は、レーニンの逃亡は共闘者を見捨てたことになり、汚点となったという[ 221] 。(のちスハーノフはスターリン政権で処刑された)
ケレンスキーは、レーニンのドイツ資金の件を発表しようとしたが、マルトフはレーニンは良心の呵責を感じない策謀家だが、国家反逆の徒ではないと弁護して、結局、臨時政府はレーニンへの調査を放棄した[ 222] 。
デモが失敗に終わるとボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、トロツキー やカーメネフ は逮捕され、レーニン やジノヴィエフ は地下に潜った。デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。
レーニンは、七月蜂起により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行した、と評価し、四月テーゼの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけた。このスローガンは権力の平和的移行を意味するものだったため、その放棄とは実質的には武装蜂起による権力奪取を意味した。ボリシェヴィキは7月末から8月はじめにかけて開かれた第六回党大会でレーニンの呼びかけに基づく決議を採択した。
7月蜂起で明らかになったのは、ボリシェヴィキと大衆の優柔不断ぶりであり、この事件以後、政府は優位にたつこととなり、レーニンらは破綻にひんした[ 223] 。
ケレンスキー はレーニンと同じシンビルスク 出身で、レーニンより11歳年下だった。レーニンの兄が皇帝暗殺未遂で処刑されて地域から排斥されていた時、レーニンが通う学校の校長だったケレンスキーの父はレーニンを擁護して大学へ推薦した[ 224] 。1917年8月にモスクワに到着した臨時政府軍最高総司令官ラーヴル・コルニーロフ 第一次連立内閣は7月8日 にリヴォフ首相が辞任したことで終わり、同月24日にアレクサンドル・ケレンスキー を首相とする第二次連立内閣 が成立した。この連立内閣は社会革命党とメンシェヴィキから多くの閣僚が選出され、カデットからの閣僚は4名にすぎないなど、社会主義者が主導権を握る構成となった[ 225] 。しかしケレンスキー内閣の政策はリヴォフ内閣とほとんど変わったところのないものだった。攻勢の失敗により保守派の支持を失い、七月蜂起後の弾圧により革命派からも支持されなくなったため、臨時政府 の支持基盤はきわめて弱いものとなった。
7月18日 に軍の最高総司令官に任命されたラーヴル・コルニーロフ は、二月革命以後に獲得された兵士の権利を制限し、「有害分子」を追放することなどを政府に要求して保守派の支持を集めた。保守派の支持を得ようとしていたケレンスキーもコルニーロフの要求をすべて受け入れることはできず、両者は対立することになった。もともとケレンスキーは、右翼からの武力攻撃をおそれてコルニーロフに助けを求めたが、コルニーロフもクーデタを企てるのではないかとおそれていた[ 226] 。
臨時政府は憲法制定会議の開催を引き延ばしたあげく、8月9日にようやくその選挙を11月12日に、開会を11月28日に決めた[ 227] 。
コルニーロフが8月14日に国家会議に到着したとき、彼を救国者とみていた自由主義と保守派の政治家は熱狂的に歓迎した[ 228] 。
8月22日朝、ケレンスキーと面談したドゥーマ議員のウラジーミル・リヴォフ (ロシア語版 、英語版 ) は、自分は軍部に近い公人を加えて政府を強化すべきと考えている有力な党を代表していると仄めかした[ 229] 。そのあと、モギリョフへ赴き、自分は政府の密使であるとのべ、コルニーロフに三つの選択肢をせまった[ 229] 。1.ケレンスキーが独裁的権限を掌握すること、2.コルニーロフを含む5人執政府、3.コルニーロフが独裁者になること。コルニーロフは、この選択はケレンスキーの提案だと思い込み3を承諾した[ 229] 。
8月24日 、コルニーロフはアレクサンドル・クルイモフ (ロシア語版 ) 将軍に対し、ペトログラードへ進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた。翌日には政府に対して全権力の移譲を要求した。コルニーロフは、軍への革命勢力の圧力とドイツ軍に対処するために、内閣辞職と自分への全権移譲を求めた[ 230] 。
首都に戻ったリヴォフは、8月26日午後6時にケレンスキーに会い、今度は自分は最高司令官の使者であると装い、自分が作成した最後通牒(全権を最高司令官に委任することなどが書かれた)をみせた[ 229] 。驚いたケレンスキーはテレタイプ で、リヴォフのふりをしてコルニーロフと会話し、コルニーロフが最後通牒を確認したため、ケレンスキーはコルニーロフの処分を決定した[ 231] 。ケレンスキーは閣議を招集して、反革命クーデターを粉砕するために独裁権限を要求し、早8月27日朝、コルニーロフに最高司令官解任を伝えた[ 231] 。
同じ頃、8月27日午前2:40の打電でコルニーロフはサヴィンコフに8月28日の夕方に向けペトログラードを包囲すべき集結しているとして、首都に戒厳令を出すよう求めた[ 231] 。コルニーロフは予期されるボリシェビキの蜂起を政府が鎮圧するのを助けるために動いていた[ 231] 。
サヴィンコフは両者を仲裁したが、ケレンスキーは聞き入れず、コルニーロフを非難する声明を報道した[ 232] 。コルニーロフはこれに怒り、ケレンスキーはボリシェヴィキに捕らえられているのでなく、軍の信望を貶める卑劣な策士であるとみなして、コルニーロフは軍に、ケレンスキーは嘘つきであると述べ、自分のもとに結集し、ドイツ軍を撃退し、憲法制定会議の召集を誓った[ 232] 。
8月27日、コルニーロフは首都へ進軍を開始した[ 230] 。
8月27日午後7時、最高司令官解任の電報を受け取った軍司令部は困惑し、偽物かどうか疑ったが、すでに政府はボリシェヴィキの手に落ちたと結論した[ 231] 。
カデットの閣僚はコルニーロフに連帯して辞任し、軍の各方面軍の総司令官もコルニーロフを支持した。ケレンスキーはソヴィエトに対して無条件支持を要請した。8月28日、ソヴィエトはこれに応じて対反革命人民闘争委員会をつくった。弾圧を受けてきたボリシェヴィキも委員会に参加してコルニーロフと闘う姿勢を示した。左派政党、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルは総動員体制に入り、コルニーロフの陰謀を打ち砕くと宣言した[ 230] 。
ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、将校の命令に従わなくなった。反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、コルニーロフの反乱 (ロシア語版 、英語版 ) は失敗に終わった[ 230] 。クルイモフは自殺し、コルニーロフは9月1日(9月12日[ 230] )に逮捕された[ 233] 。
カデット の閣僚が辞任して第二次連立内閣が崩壊したため、ケレンスキー は9月1日に5人からなる執政府を暫定的に作り、正式な連立内閣の成立を目指した。ソヴィエトは9月14日から22日にかけて「民主主義会議」を開いて権力の問題を討議し、有産階級代表との連立政府をつくること、コルニーロフ反乱 に加担した分子を排除すること、カデットを排除すること、という三点を決議した。しかし有産階級代表との連立政府とは実質的にはカデットとの連立政府だったため、この三つの決議は互いに矛盾していた。9月25日に成立した第三次連立政府 (第4次連立政府[ 234] )はカデットも含むものになったが、連立政府の権威はもはやなかった[ 234] 。
コルニーロフの反乱によって、政府が国をまとめる力をもたず、革命権力を保持する力がないことを明らかにした[ 230] 。コルニーロフの陰謀については、クーデタに至るような証拠も共謀者もおらず、むしろ、コルニーロフの信用を失墜させるためのケレンスキーの陰謀があった[ 232] 。しかし、ケレンスキーは結果として、保守派からも社会主義側からも疎んじられることとなり、この事件の受益者はボリシェヴィキだった[ 235] 。コルニーロフ事件はボリシェヴィキにとっては奇跡的な効果があり、政治の舞台に再登場することになった[ 234] 。ソビエト指導部と軍は、レーニン支持へまわり、これに応じてメンシェヴィキとエスエルも急進化した[ 234] 。
8月、政府はイスポルコムの圧力に応じて投獄されていたボリシェヴィキを釈放した[ 235] [ 236] 。しかも、ケレンスキーはコルニーロフ軍との応戦のため、ボリシェヴィキに協力を求め、赤衛隊に4万挺の銃がわたった[ 235] 。軍に対してケレンスキーは有能な指揮官を解任したり、逮捕したこと、左翼に迎合することなどが理由となり、軍はケレンスキーを軽蔑した[ 235] 。ボリシェヴィキの10月クーデタの時も、軍はケレンスキーの救援要請に応えなかった[ 235] 。
フィンランドから事態を観察していたレーニンはこれを機会にケレンスキーの力を決定的に弱体化させようとした[ 236] 。レーニンは、ミリュコーフの逮捕、労働者への武器の分配、ドゥーマ解散、労働者による工場管理、土地の即時分配、ブルジョワ新聞の即時発行停止を、「プラウダ」を引き継いだ「ラボーチイ・プーチ」で繰り返し論じた[ 237]
十月革命 (ボリシェヴィキの十月クーデター)[ 編集 ] 9月1日、ケレンスキーはロシア共和国 を宣言した[ 238] 。ロシア共和国評議会 (ロシア語版 ) では、議員308のうち、エスエル120議席、カデット75議席、メンシェヴィキ60議席、ボリシェヴィキ60議席で、左傾化がきわだった[ 238] 。プレハーノフは年齢と病気であまり関与できず、レーニンはまだ慎重に隠れていた[ 238] 。議員だったトロツキーは「すべての権力をソビエトへ」と宣言し、レーニンの国家反逆と封印列車などのドイツとの関係が蒸し返され、罵詈雑言が飛び交い、ボリシェヴィキは議場から退場した[ 239] 。
憲法制定議会の選挙は11月12日に開催すると決定された[ 240] 。
ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後ボリシェヴィキ への支持が急速に高まった。1917年6月の第一回全ロシアソビエト大会 では、エスエル285議席、メンシェヴィキ 248議席、ボリシェヴィキ は105議席だったが、夏頃にはボリシェヴィキの党員は25万人にもなり、9月のソビエトでは半分の議席を獲得した[ 241] 。1917年8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。
レーニン は、憲法制定会議が開かれることでケレンスキーによる正統政府が樹立することを危惧し、議会制打倒のための武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提案した[ 242] 。憲法制定会議のための民主的選挙を行うと、国民の大半である農民から支持されている社会革命党の勝利は明らかであった[ 227] 。レーニンは、選挙でボリシェヴィキが負ければ権力奪取は難しくなるので、もはや武力行使しか道はない[ 243] 、それも憲法制定会議の開会前に武装蜂起しなければならないと考えた[ 227] 。
9月14日、フィンランドにいたレーニンは「ラボーチイ・プーチ」で「すべての権力をソビエトへ」と主張した[ 244] 。9月12日と14日の中央委員会への密書でレーニンは、ボリシェヴィキによる権力奪取と迅速な武装蜂起を指示した[ 245] [ 244] 。しかし、カーメネフとジノヴィエフは第二回ソビエト大会まで待つべきだと答えた[ 245] 。それに対してレーニンは「ナイーヴだ」「それを待つ革命などない」と退けたが、中央委員会の誰も即時蜂起に賛成しなかったため、レーニンは怒り狂った[ 245] 。
9月25日のペトログラード執行委員会の選挙で44議席のうち3分の2をボリシェヴィキが占め、メンシェヴィキは5議席、かつて多数派だった国際派メンシェヴィキは無議席で、9月21日のモスクワでの選挙でもボリシェヴィキが多数となった[ 246] 。レーニンはメンシェヴィキとエスエルの影響力に配慮して、ペトログラードソビエトがブルジョワと絶縁し、扇動の自由を制限なく受け入れられるならば支持してもよいと妥協案を論文で発表するが、すぐに「革命の平和的展開が可能であった時はすでに過ぎ去った」とものべた[ 246]
憲法制定会議の議員選出のための11月の選挙に向けたつなぎとしての会議において、ボリシェヴィキ内部で意見がわかれた[ 244] 。スターリンとトロツキーは選挙のボイコットを、カーメネフとルイコフら多数派は選挙への参加を主張した[ 244] 。フィンランドでそれを聞いたレーニンは激怒し、そのような会議は即時包囲し、悪党どもを全員逮捕して、監獄にぶちこまなければならないと手紙で伝えた[ 244] 。のちにブハーリンは、レーニンの手紙に委員たちは唖然としたと回想している[ 247] 。結局、委員はレーニンの手紙を破棄した[ 247] 。
レーニンはクーデターがソビエトの名のもとに遂行されることを望んでいた[ 248] 。しかし、ソビエト大会で通常の民主的な選挙を行えばボリシェヴィキが少数になるのは確実だったため、トロツキーらは、ボリシェヴィキが支配できるようになるためにエスエル左派と「北部地方委員会」を結成した[ 248] 。ボリシェヴィキ11人、エスエル左派6人で組織された北部地方委員会は、イスポルコムの権威を横奪して、ソビエトと軍委員会に対して代表を送るよう要請した[ 248] 。しかしこれはソビエト政府に対するクーデターであり、イスポルコムは、専横にでたらめに選出された北部地方委員会の権限を認めないと非難した[ 248] 。しかし、9月26日、ボリシェヴィキの認可のもとで選出される第二回大会を10月20日に招集することにイスポルコムは賛同した[ 248] 。予定は地方議員が首都に到着する時間を考慮して10月25日に延期された[ 248] 。結果としてイスポルコムは、ボリシェヴィキが望むものを与え、クーデターの合法化を許すことになった[ 248] 。
レーニンはこれ以上待てない、待つことは犯罪で危険だと急かし、9月中に各都市のソビエトがボリシェヴィキの手にうつった[ 249] 。もはや「すべての権力をソビエトへ」は実現され、党が行動するときだった[ 249] 。
フィンランドのレーニンは9月末には、ソビエトで過半数をえた今、ボリシェヴィキによって権力奪取をしなければならないと同志に伝え、司令部をただちに組織し、連隊を重要地点へ派遣し、電信電話局を占拠、すべての工場とすべての司令部をつなげるよう指示した[ 250] 。レーニンは9月29日の「危機は熟した」という中央委員会への手紙で「待つことは、白痴であるか裏切りだ」と武装蜂起をあらためて主張した[ 227] 。ボリシェヴィキはレーニンにフィンランドにとどまるよう説得したが、レーニンは聞かず、秘密裏にヴィボルク へいき、そこから指示をだした[ 251] 。
ボリシェヴィキは表向きは議会へ参加すると発表した。10月4日「ラボーチイ・プーチ」で、「ボリシェヴィキは、これまで一度も憲法制定会議に反対したことはない」とするおそらくジノーヴィエフによる無署名の記事が掲載された[ 252] 。
レーニンは10月7日には憲法制定会議を信じるのは罠であり、プロレタリアの大義への裏切りだとした[ 251] 。
首都に迫るドイツ軍に対して、ケレンスキーはいざとなれば首都をモスクワに移転する計画をたて、首都守備隊を前線におくると指令したが、ペトログラード・ソビエト執行委員会(イスポルコム)は異議をとなえた[ 253] 。レーニンは、ケレンスキーがドイツ軍を利用してボリシェヴィキを弱体化させることをおそれていた[ 252] 。
また、ケレンスキーはボリシェヴィキによる武装蜂起の可能性の報告も受けていたが、レーニンにそれを実現する力はないと過小評価しており、また右派の武力行使をおそれてもいた[ 254] 。
10月9日、メンシェヴィキがソビエトに革命防衛委員会 の設立を提案した[ 255] 。ボリシェヴィキは、革命防衛委員会を、政府の統御外にある武装勢力として編成させることで、武装蜂起をソビエトの名のもとで実行できると考え、ドイツ軍だけでなく国内の反革命分子に対しても市民の安全を守るための革命防衛委員会を提議した[ 255] 。スターリンは、「革命(ボリシェヴィキ党)はその軌道に、不確かで躊躇する分子を引き入れることをより容易にするために、その攻撃的な行動を<防衛>という煙幕で覆った。」とのちに述べている[ 256] 。革命防衛委員会設立案をソビエト総会は是認した[ 255] 。
革命防衛委員会は軍事革命委員会に改称され[ 255] 、10月12日[ 257] 、ペトログラード・ソヴィエトに軍事革命委員会 (ロシア語版 ) が設立された[ 注 1] 。軍事革命委員会は元々はドイツ軍からの首都防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起を画策していたボリシェヴィキはその利用価値を見出した[ 258] 。ボリシェヴィキは、この委員会は、外敵だけでなく「内部の敵」への防衛も含むとし、政権の諸機関はこの委員会に対してなんの権限ももたず、ソビエトだけが権限を持ち、イスポルコムが軍事全権を集中すると提案した[ 258] 。これに対してメンシェヴィキ議員が「権力奪取のための司令部」ではないかと疑念を出すと、トロツキーはそれはケレンスキーの名における意見か、それともオフラーナの名における表明かと尋ね返し、議場は熱狂し、圧倒的多数で法案は可決した[ 259] 。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた[ 257] 。
メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党 左派14名、アナーキスト4名となった。前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの指示に従うことを決めた。
こうしてボリシェヴィキは政府を軍単位で切り離す手段を保有することになり、合法的に軍単位に指令を出すことが可能になった[ 259] 。
業を煮やしたレーニンは、10月10日、変装してペトログラードの中央委員会に登場して、武装蜂起を主張した[ 260] 。この10月10日のスハーノフ宅での会議でのレーニンによるクーデターの即時実行という主張に対して、カーメネフとジノヴィエフは、クーデタに失敗すればわれわれは殺されるとし、合法的に多数を獲得する憲法制定会議を数週間待つべきだと反対した[ 261] 。武力蜂起が必要と考えていたトロツキーは10月25日の第二回ソビエト大会以降でよいとのべたが、レーニンはそれ以前の蜂起を主張した[ 260] 。レーニンに対しては、カーメネフ、ノギーン、ウリツキー、ルイコフ、ジノーヴォエフさえも反対したが、中央委員会は10対2でレーニンの武装蜂起案を可決した[ 262] [ 263] 。この日、レーニンは学習ノートに「武装蜂起は不可避であり、その機は熟している」と書き、中央委員会はしかるべき行動すると走り書きした[ 263] 。
即時武装蜂起に同意できなかったカーメネフは委員を辞職し、10月11日、カーメネフとジノーヴォエフはボリシェヴィキの諸機関に決定への異議を申し立てる手紙をおくったが、これは党規律への違反だった[ 264] 。さらに二人は10月18日にゴーリキーの新聞に、現時点の武装蜂起は絶望的であり[ 264] 、自暴自棄で、革命に破滅をもたらすという書簡を掲載した[ 265] 。これにより、武装蜂起計画が公表されることとなったが、それがいつなのか、本気でするのか、といったことは不明であった。レーニンは激怒し、二人の「スト破り」を党から追放せよと中央委員会にもとめ、10月19-21日に「同志への手紙」を掲載した[ 264] 。レーニンは計画を漏洩した彼らは裏切り者で、もはや同志ではないと述べたが、党からの除籍ではなく、処罰は叱責にとどめた[ 265] 。
10月16日の拡大中央委員会会議でも武装蜂起の方針が再確認された。臨時政府は、ボリシェヴィキの武装蜂起計画を耳にすると、軍事革命委員の指導者の逮捕を考えた[ 242] 。
ドイツ軍の西エストニア諸島占領(10月11日〜20日)[ 編集 ] 10月11日から20日にかけて、ドイツ軍はアルビオン作戦 でロシア臨時政府 の統治下にあったバルト海 とリガ湾 の間にある西エストニア諸島 のうちサーレマー島 、ヒーウマー島 、ムフ島 を占領した[ 255] 。
これに対して、ロシア軍参謀本部は、首都をモスクワへ疎開することを提案した[ 255] 。
その後、ドイツは1918年にイギリス・フランス・ロシア・日本などの連合国 に敗北した。
1917年10月21日、レーニンは、ヘルシンキの労働者兵士水兵委員会議長スミルガに、フィンランド軍とバルチック艦隊の確保を指示した[ 266] 。
10月21日から22日にかけて、軍事革命委員会は首都守備隊を支配下におくと通達した[ 267] [ 266] 。首都守備隊の24万のうちボリシェヴィキ支持者は1万ほどだったが、政府が擁する部隊はそれよりさらに少なかった[ 256] 。この通達は、クーデターの帰趨を決定した最初の、そして最も決定的な処置であった[ 267] 。
軍事革命委員会は、首都守備隊委員会の集会を召集し、そこでトロツキーは反革命の脅威をのべ、守備隊委員会は軍事革命委員会を支持するよう促し、集会では、前線と後方が密接に連携するという無害な決議が採択された[ 267] 。
次いで軍事革命委員会は、参謀本部に赴き、「守備隊の決定により、参謀本部の命令は今後、軍事革命委員会の連署をもってのみ効力を有する」と通告した[ 267] 。司令官がボリシェヴィキを逮捕するぞと脅すと、ボリシェヴィキは緊急集会で、参謀本部は反革命勢力だと決議し、守備隊は、参謀本部の命令に、軍事革命委員会によって確証されなければ従わないことになった[ 267] 。トロツキーは「参謀本部は反革命勢力の道具となった。兵士諸君、革命の防衛は、唯一、軍事革命委員会のみの権威の下にある諸君の肩にかかっている」とソビエト臨時会議において演説し、これが政府と参謀本部への宣戦布告となった[ 268] 。
ボリシェヴィキの軍事組織の司令官ポドヴォイスキーは、これらの措置が、武装蜂起の始まりだったとする。クーデターを知った参謀長は、ソビエトに抗議した[ 266] 。
一方、ケレンスキーは軍事革命委員会の逮捕を命じたが、閣僚は交渉による解決を求めており、逮捕は行わなかった[ 267] 。また、ケレンスキーは、7月事件のときにボリシェヴィキを鎮圧した軍を思い出し、軍と右翼の反革命をおそれてもいた[ 267] 。当時、首都には15000人の将校がいたが、部隊動員の措置はとられなかった[ 267] 。
ケレンスキーはコサックに助けを求めたが、ボリシェビキによってコサックの動きは麻痺した[ 268] 。10月22日夕刻、ケレンスキーは士官学校の学生を用いようとしたが、すでにボリシェビキによって宣伝工作がすんでおり、政府の命令にしたがうのをためらった[ 268] 。10月24日になって、ようやく士官候補生は警備のため配置されたが、分散しており、援軍としてよばれた部隊は政府命令をソビエトに確認するよう求めた[ 268] 。
10月23日、軍事革命委員会は各守備隊に「すべての権力は軍事革命委員会にある。各守備隊は軍事革命委員会の命令に従わなければならない」と通達し、命令をうけた部隊が、政府によって閉鎖されていた「プラウダ」を再開させた[ 269] 。ケレンスキーはこれを禁止するが、同時に、右派の新聞も禁止した[ 269] 。これにより、ボリシェヴィキの動きについて報道がされることはなくなった。さらにケレンスキーは軍事革命委員の逮捕を命じたが、法相は挑発になると反対した[ 269] 。
他方、コミッサールにより指導された水兵は電信局を占拠した[ 270] 。ケレンスキーは士官学校生を派遣し、水兵を追い出して奪還し、ボリシェビキ司令部のスモーリヌイ学院の回線も切られた[ 270] 。
10月24日 (グレゴリオ暦 11月6日)、レーニンは「政府をたたきのめさなければならない。行動を遅らせることは死に等しい」と号令をかけ、トロツキー ら軍事革命委員会は、赤衛隊に、鉄道、電力会社、郵便、電信、銀行、街路と橋梁の掌握を命じた[ 242] 。
他方、ケレンスキー政府の方では、10月24日朝、軍士官学校生(ユンケル)が要衝守備の任務につき、政府の予防措置を受けて、婦人決死隊140人、多少のコサック兵、自転車部隊、40人の傷痍軍人ら2,3個部隊が冬宮へむかい、ボリシェヴィキのコミッサールへの逮捕命令が政府から出された[ 271] 。ネヴァ川にかかる橋はボリシェヴィキ党の兵士と労働者が引き上げていた[ 271] 。危機的な状況になることを察知した人々は帰宅していき、10月24日午後2時半には周囲の街路から人はいなくなった[ 271] 。
逮捕状が出ていたため、党員マルガリータ・フォファノワの家に隠れていたレーニンは、軍事委員会が蜂起に失敗するのではないかとおそれていた[ 272] 。首都に潜伏していたレーニンは10月24日夕方、中央委員会への手紙で「蜂起を遅らすことは破滅だ。すべてが危機一髪である」と不安まじりに命じた[ 271] 。
10月24日夜9時、レーニンは労働者服を着て、眼鏡をかけ、鬘をつけて変装して、軍事委員会とボリシェヴィキ本部のあるスモーリヌイ学院に向かった[ 273] 。陸軍士官候補生から身分証提示を求められたが、レーニンの護衛エイノ・ラーヒアが酔っ払いのふりをしてごまかした[ 274] 。夜のあいだ、レーニンは伝令をどなりつけ、側近を派遣し、発表する声明を急いでつくっていた[ 275] 。
10月24日~25日にかけての夜のうちに、ボリシェヴィキは前哨隊を配備するだけで要衝を掌握した[ 276] 。夜のうちに、赤衛兵の小集団が市内の要衝を制圧していき、夜明け前には、冬宮近くのニコライ橋以外のネヴァ川にかかる橋、冬宮の対岸にあり、冬宮を射程におさめる砲台のあるペトロパヴロフスク要塞 を戦闘なしにボリシェヴィキは掌握した[ 277] 。
10月25日午前6時に国営銀行が陥落し、続いて中央電話局、中央郵便局、電信ビルが陥落し、午前8時までにすべての鉄道駅をボリシェヴィキは奪取した[ 277] 。軍事革命委員会が参謀本部に入ると、そこにいた職員に退却を命じると職員たちは立ち去り、こうして参謀本部の奪取も完了した[ 276] 。
臨時政府には35000人の守備隊がいたが、彼らはボリシェヴィキと戦う気がなかった[ 278] 。宮殿を守備していたのはコサック兵二個中隊の馬数百頭、オラニエンバウム士官学校の士官候補生220人、自転車部隊40人、田舎からやってきた少女で構成された女性兵士200人だけだった[ 279] 。士官学校生の警備隊は、共産主義者分遣隊が退去を勧告すると、抵抗することなく従い、銃撃戦もなかった[ 280] 。
こうして武装蜂起はおどろくべき平穏さで展開した[ 280] 。
10月25日 (グレゴリオ暦 11月7日)朝、レーニンはスモーリヌイのボリシェヴィキ本部で軍事委員会の名での宣言文を起草した。それは「臨時政府は打倒された。政府の権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている軍事革命委員会に移った。人民がそのために闘ってきた諸課題-民主的講和の即刻の提案、地主的土地所有の廃止、生産への労働者の統制、ソビエト政府の形成ーこれらの課題は確保された。労働者、兵士、そして農民の革命、万歳!」といった内容だった[ 276] [ 281] [ 2] 。レーニンにとってクーデタの完全な成功を示すことが死活問題だった[ 279] 。パイプスは、この文書はボリシェヴィキの布告のなかで最高位を占めるものであるが、ボリシェヴィキ中央委員会をのぞいて、誰も正当とみとめていなかった一機関(軍事革命委員会)が、最高権力を掌握したと宣言したもので、ペトログラードソビエトは、ドイツ軍からの防衛のために軍事革命委員会を設立したのであり、臨時政府を倒すためではなかったと指摘している[ 282] 。
10月25日午前9時、レーニンは臨時政府に降伏を要求したが、返答はなかった[ 283] 。ボリシェヴィキはケレンスキー首相を拘束しようとはしなかったが、宮殿の周囲の車は使えず、士官が用意した車はピアース・アロー のオープンカーだったが、ケレンスキーはそれに乗り脱出した[ 283] 。
10月25日午前10時、鐘をならし、声明が全都市で読み上げられ、無線 で地方まで伝達された[ 280] 。
10月25日正午頃、臨時政府閣僚は冬宮で会議をひらき、降伏拒否を決めた[ 283] 。レーニンはソビエト大会を予定の正午から午後3時に延期させた[ 283] 。
クーデターは誰からも承認されていたわけではなく、また、暴力的衝突もこの時点ではとくに発生しておらず、市民は心に留めることさえなかった[ 284] 。10月25日、市民の生活は正常どおりで、一握りの関係者をのぞいて、首都が武装したボリシェヴィキによって掌握されたことを知っているものはいなかった[ 284] 。首都の証券取引所 の株価 は安定しており、富裕層にもパニックはなかった[ 285] 。
第2回全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト大会[ 編集 ] ボリシェヴィキが支配するイスポルコムは10月25日に第二回ソビエト大会を開催すると発表した[ 250] 。
10月25日午後3時から第2回全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト大会 が開催され、最高幹部会議選挙では25人のうち14人がボリシェヴィキとなり、議長にはカーメネフが就任した[ 286] 。
ソビエト大会でレーニンは勝利宣言をした[ 287] 。しかし、まだ臨時政府は打倒されていなかったし、冬宮も陥落していなかったので、これがソビエト政権がついた最初の大嘘であるとセベスチェンは指摘する[ 287] 。
レーニン不在時には議長を任じていたカーメネフがクーデタあとの午後、ケレンスキー政府が導入した前線兵士に対する死刑制度の停止を指令した[ 288] 。するとレーニンは「これは重大な過ちだ。許し難い軟弱さだ。銃殺隊なしに革命はなしとげえない」と激怒した[ 288] 。レーニンは、権力が自分の指から滑り落ちるのをおそれ、情けをみせすぎまいと決意していた[ 288] 。しかし、革命の初日から指令を撤回するのは悪印象だという意見があり、レーニンは、他に方法がない場合、黙って銃殺隊を使おう、それを大声でいうことなしに、と答えた[ 288] 。こうしてレーニンは指導者としてまだ数時間たってないうちから、テロルによる支配の基礎を敷いた[ 289] 。
ボリシェヴィキは代表の割り当てを無視し、勝手に選挙区をたてた[ 250] 。他党はそれを告発したが、ボリシェヴィキの権勢を抑えるには遅すぎた[ 250] 。
ペトログラード市民は革命が起きていることを知らず、銀行、店舗、劇場、ナイトクラブ、コンサートホールは営業していたし、工場も操業し、路面電車も走っていた[ 290] 。
防護巡洋艦 アヴローラ 十月革命に際して冬宮 を砲撃(空砲)し、革命の成功に貢献したとされる。プロパガンダ映画『十月 』ではその場面も描かれる。日露戦争 における日本海海戦 にも参加しており、撃沈 または鹵獲を免れた数少ない艦の一つであった。現在はサンクトペテルブルク のネヴァ川 に保存されている。10月25日午後6時半、ボリシェヴィキは巡洋艦アヴローラ とアムールに冬宮の対岸に停泊を命じた[ 290] 。それに先立ち、レーニンはペトロパヴロフスク要塞に宮殿砲撃を命じたが、重砲は手入れもされておらず、砲弾も見つからなかった[ 291] 。また、要塞の旗竿に掲げるという赤いランタンも見つからず、要塞司令官ブラゴンラヴォフが街に買いに出たが、紫のランタンしかみつからず、さらにそれを旗竿に取り付けることもできなかった[ 291] 。
午後6時40分、ボリシェヴィキは最後通告を発したが、臨時政府はそれを拒否し、ボルシチ、蒸し魚、アーティチョークなどの夕食を食べるために食卓についた[ 290] 。兵士たちはタバコを吸い、酒で酔っ払っていたし、多くの兵士が離脱し、どこかへ去っており、宮殿を守備するために残ったのは250人ほどだった[ 290] 。臨時政府はもし自分たちが武力で打倒されればボリシェヴィキは非難されるだろうと想定し、楽観していた[ 290] 。レーニンは閣僚たちが逮捕されるまでソビエト大会を開こうとしなかったので、議員たちはあてもなくうろうろ動き回っていた[ 284] 。
午後9時40分、アヴローラが空砲 を撃つと、閣僚らは床に伏せた[ 292] 。アヴローラの空砲は、十月革命の神話において際立つ役割をつとめるのにそれで十分だった[ 284] 。
午後10時、ペトロパヴロフスク要塞からの砲撃で35発が発射されたが、宮殿に命中したのは2発だけだった[ 284] [ 292] 。冬宮の防衛部隊は、救援隊が到着しないので、退散しはじめた[ 284] 。軍士官学校生(ユンケル)たちは抵抗しようとしたが、流血を好まなかった閣僚たちは降伏を命じた[ 293] 。
10月25日午後10時半、蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会がスモーリヌイ講堂で再開された[ 294] 。
10月26日(新暦 11月8日)午前1時、ソヴィエト大会でメンシェヴィキとエスエルはクーデターを非難し、臨時政府と交渉すべきだと主張した[ 293] 。
10月26日午前2時、オフセーエンコ が冬宮 に入り、閣僚たちに逮捕を通告した[ 295] [ 296] 。午前2時10分、閣僚たちは逮捕され、ペトロパヴフスク要塞へ護送された[ 293] 。冬宮 からケレンスキーが逃れたため、蜂起は流血なしで成功した。臨時政府は、軍のどの部隊をも動かすことはできなかった[ 242] 。この時点での死傷者数は5,6人、負傷者20人弱で、いずれも双方の砲火に巻き込まれた犠牲者だった[ 295] 。
10月26日午前3時10分、議長カーメネフが政府閣僚の逮捕を発表した[ 293] 。ソビエト大会でレーニンは武力攻撃を非難され、ほかの社会主義集団は「犯罪的な権力奪取」に自分たちは無関係だと主張し、議場を去った[ 294] 。
10月26日午前5時頃、大会でトロツキーは「諸君は無惨な破産者であり、君たちの役割は終った。君たちが行くべきところに行きたまえ、歴史の屑かごの中へ(歴史のゴミの山に[ 2] )」とメンシェヴィキに対して侮辱しつつ演説した[ 294] [ 2] 。
10月26日の第二回全ロシアソヴィエト大会でボリシェヴィキは739議席中、338議席しか占めなかったが[ 2] 、社会革命党右派やメンシェヴィキが蜂起に反対し退席したため、残った社会革命党中央派・左派に対してボリシェヴィキは多数派を占めることになった。セベスチェンは、もしほかの社会主義集団が強い反対勢力として団結を保っていれば、レーニンの独裁体制を阻止できたかもしれなかったし、彼らが議場を去ったのは致命的な過ちだったと述べる[ 294] 。
10月26日午前7時頃、レーニンが大会に現れ、「平和に関する布告 」「土地についての布告」を発表した[ 294] 。「平和に関する布告」では「無賠償、無併合」というメンシェヴィキの案を採用し、「民族自決」に基づく講和を提案した[ 297] 。これは帝政ロシアが締結した条約の履行を無効化するものだった[ 297] 。
10月26日、軍事革命委員会は反革命的な新聞の印刷所に水兵を急行させ、印刷物を押収し、焼き払えと命令した[ 298] 。なお、帝政はこうした焚書はしなかったと歴史学者カレール・ダンコースは指摘する[ 298] 。「ブルジョワ新聞」が数時間で消え、軍事革命委員会は「反革命分子」の多数を逮捕していった[ 298] 。マルトフは合法性に立ち戻れと抗議したが、ボリシェヴィキから回答はなかった[ 298] 。
冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。10月27日(新暦 11月9日)、大会は新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議 」(ソヴナルコム)を設立し、各地のソビエトを代表すると主張した[ 297] 。人民委員は全員がボリシェヴィキで、議長にはレーニンが就任し、人民委員会議は事実上の内閣 となり、こうして権力が掌握された[ 299] 。
人民委員会議は連日続き、レーニンによって秩序だてられていった[ 300] 。レーニンは遅刻 を嫌い、半時間おくれると5ルーブル、1時間遅れると10ルーブルの罰金制度を導入し、これをすべての政府機関に導入した[ 300] 。さらに、正当な理由なく10分遅刻すると譴責 処分、2度目は減給1日、3度目は新聞上での公開譴責。15分以上の遅刻は新聞上での公開譴責、非番日の強制労働処分、という規則を導入した[ 301] 。レーニンはまた会議での演説時間を厳しく制限した[ 301] 。会議中の私語、集中していない委員がいると、レーニンは演説者に怒りのメモを渡した[ 301] 。速記者に話しかけた秘書リディヤに「追い出すぞ」とメッセージをわたすほど厳格だった[ 302] 。
人民委員の大部分は作家、煽動家、労働組合活動家、陰謀家で、専門的な行政の知識をもつものはいなかった[ 301] 。人事はいきあたりばったりだった[ 303] 。ミハイル・ペスコフスキーが、ロンドンに留学したとき金融学の授業を受けたことがあると財政人民委員のメンジンスキー に話すと、その後、国立銀行総裁に任命された。ペスコフスキーは任命の撤回を頼んだが、メンジンスキーは拒絶した[ 303] 。その後メンジンスキーはチェーカー の幹部になっている。
10月27日には出版に関する布告(新聞に関する布告[ 304] )が出され、労農政府(ボリシェヴィキ政府)に対する公然たる反抗または不服従を呼びかける新聞等の発行を禁止した[ 305] 。レーニンは武装蜂起の数週間前の9月15日には党機関紙で、新聞の自由 を称賛し、ボリシェヴィキが政権獲得後は大幅な新聞の自由を保証すると約束していたが、この布告で「いかなる新聞も、人民委員会議指令に対する反対をそそのかすか、事実への中傷的な歪曲で混乱の種をまいた場合、閉鎖される可能性がある」と告示し、出版物の検閲をはじめ、野党の新聞の閉鎖を命じた[ 304] 。これは緊急措置であり、新秩序が強固に確立され次第、措置は解除され、新聞には全面的自由が認められる」と約束されたものの、言論統制は続き、それどころか対立勢力との内戦が開始してからはそれが徹底された[ 304] 。こうして、国家が新聞のすべての所有権を獲得するとともに、党官僚による検閲制度が確立した[ 304] 。
反革命的な出版機関の閉鎖を命じたこの布告はアナトリー・ルナチャルスキー が書き、レーニンが署名したもので、この布告によりボリシェヴィキとエスエル左派の機関紙以外のすべての出版が禁止された[ 306] 。しかし、この布告は中央委員会の承認をえていなかった[ 306] 。
10月28日、立憲民主党の新聞が閉鎖された[ 307] 。赤衛兵が印刷機をつぶし、あるいは没収した。著名な編集者や記者は逮捕された。社会革命党の「人民の意思」は停刊。反対派の新聞は地下に追われた。とはいえ、新聞による多少の批判は短期間だけゆるされた[ 307] 。
こうした言論の自由の縮小に対して、党員から批判されると、レーニンは「ブルジョワ新聞は、爆弾や銃のように危険な武器だ」と答えた[ 307] 。
出版に関する布告は、旧支配階級からはもちろん、内外の社会主義諸派からも批判された[ 305] 。
左翼社会革命党 (エスエル左派) のプロッシャンは、出版の自由のための闘争はすべての社会主義政党の綱領の戦闘的項目であり、ボリシェヴィキはここから逸脱していると抗議した[ 308] 。左翼社会革命党のマルキンは、我々の勝利は、ブルジョワ新聞の閉鎖ではなく、我々の綱領と戦術が勤労大衆の利益を表現し、兵士、労働者、農民の強固な連合をつくりだすがゆえである。われわれは社会主義運動の内面的道徳的力を信じるべきであり、言論に行政的規制を行うべきでなく、批判の武器は自由なロシア共和国のすべての者に与えるべきであると批判した[ 308] 。左翼社会革命党のカレーリンは、言論の自由の制限は人民大衆の運動に直接害を及ぼすおそれがある[ 309] 。
一部のボリシェヴィキ党員も、出版の自由の制限は、政治生活の指導から大衆的プロレタリア諸組織を排除し、無責任レジームの確立とわが国の崩壊をもたらすとして布告を批判した[ 309] 。
これに対してボリシェヴィキは、「出版の自由」は、有産階級が知性を毒し、大衆を惑乱に陥れるもので、ブルジョア新聞はブルジョワの武器であり、したがって、労農権力が確立されはじめたばかりの危機的時期において、この武器を敵の手中に残すことは不可能であるとした[ 310] 。これは非常措置であり、新秩序が確立すれば出版の完全な自由が打ち立てられるとして、ブルジョワ新聞の閉鎖は、資本家が世論の専制的製造者となりえないような体制が確立するために必要な過渡的措置であるとした[ 311] 。したがって印刷所や用紙を資本家の手に戻してやることは、敵への降伏であり、革命の重要な陣地を明け渡すことであり、無条件に反革命的な措置である[ 312] 。
しかし、1919年の党綱領では、搾取者に対する政治的権利の剥奪や自由の制限は一時的措置であるとしながら、それは「人間による人間の搾取の客観的可能性が消滅するまで」とされた[ 313] 。「国家と革命」での「人類を賃金奴隷から解放するためには、われわれは抑圧者、搾取者、資本家を抑圧しなければならない。彼らの反抗を力で打ち砕かねばならない。」に戻り、階級闘争が激化して内戦にまでなったプロレタリア革命の時期に、自由、平等、勤労者民主派の統一という空文句でお茶をにごすのは馬鹿者と裏切り者だけであるとレーニンは言明した[ 314] [ 313] 。レーニンはプロレタリア独裁の不可欠の標識は、搾取者階級への暴力的抑圧であり、彼らに対して「純粋民主主義」、すなわち自由と平等を破壊することであるとも正当化した[ 315] [ 316] 。
トロツキーも1917年11月4日に内戦下で他方の新聞を禁止するのは当然とした[ 317] 。さらに「テロリズムと共産主義」(1920)では「戦時中は、政治権力と世論のすべての制度は戦争遂行の手段となる。これは何よりも出版にあてはまる。戦時中のどの政府も、その領土に敵を支持する出版物が存在することを許さないだろう。ましてや内戦では。」「反革命の出版を破壊するのは、反革命の強化陣地、集積所や連絡網やそのスパイ組織を破壊するのと同じことである」とし、我々はいま血を流しているのであり、したがって書物の上の論争をやる理由も可能性もない。我々の任務は、ブルジョアジーの階級的虚偽を圧殺し、プロレタリアの階級的真実の勝利を確保することだと主張した[ 318] 。
ブハーリンも1917年11月の会議で、出版の布告に反対して辞任した人民委員に対して「革命の脱走者」として糾弾、出版は銃や監獄と同じ闘争の用具であり、メンシェヴィキ新聞や知識人の悲鳴を考慮する必要はないといった[ 319] 。1918年には、内戦においてすべての国民的制度が崩壊するのは当然であり、プロレタリアはブルジョアジーにいかなる自由も与えず、その新聞の閉鎖、その結社の解体、そのサボタージュの粉砕など最も峻厳な措置をとると主張した[ 319] 。
しかし、ボリシェヴィキは新聞に関する布告が反発をよぶことを了解していたため、ロシア帝国国家基本法 87条を雛形とした「法令の裁可と公布の手続きに関して」を出して、人民委員会議に布告による立法行為を認定させた[ 306] 。
11月4日の中央執行委員会(CEC)で、エスエル左派は布告による統治をやめるよう提議したが、レーニンはそのような批判は「ブルジョワ的な形式主義」にすぎないと斥け、トロツキーももはや敵対する階級は存在しないのだから「紋切り型の議会機構は不要」と断言した[ 320] 。エスエル左派の動議 は25対22で敗れた[ 320] 。これに対して、レーニンは「人民委員会議が、中央執行委員会で事前に議論することなく、全ロシアソビエト大会の全体的な政綱の枠内で緊急の布告を発行する権利を、ソビエト会議は拒絶することはできない」という対抗動議を出し、レーニンとトロツキーも投票に参加したうえで、25対23で通過した[ 320] 。この単純な手続きにより、ボリシェヴィキは立法権 をほしいままにし、中央執行委員会とソビエト大会を、立法機関から審議機関へと変容させた[ 320] 。その日遅く、人民委員会議は、布告が「臨時労農政府通報」に公表されれば即時に法としての効力をもつと表明した[ 320] 。
以降、1918年夏に非ボリシェヴィキ政党が放逐されるまでに中央執行委員会はオウム返しに繰り返す議場となり、ボリシェヴィキの議員が人民委員会議の決定を機械的に裁可する機関となり、帝政ロシアが皇帝の勅令によって統治されたように、革命ロシアは共産党の布告によって統治されていった[ 321] 。ボリシェヴィキが即席で作った立法システムはその革命的修辞にもかかわらず、1905年以前のツァーリ専制的な慣行へと回帰したもので、ここに1905年以来の11年間の立憲主義の試みは終焉を迎えた[ 321] 。
ゲオルギー・プレハーノフ は、数年前にレーニンと絶縁していたが、かつての同志が他の社会主義者を追放したことに恐怖を感じ、クーデターの翌日、公開書簡で「ボリシェヴィキの革命は最大の歴史的不幸であり、二月以降得られたすべての成果の時計の針を元に戻すだろう」と批判した[ 322] 。翌日、プレハーノフの自宅に兵士が突入し、銃を胸につきつけ、もし武器を持っていたら銃殺すると迫った。武器は見つからなかったため、兵士たちは帰ったが、プレハーノフは身を隠した[ 322] 。
革命の一週間後、ヴェーラ・ザスーリチ は「わたしがそのために戦ってきたすべてのこと、わたしにとって生涯あれほど大切だったすべてのことが、粉々に砕けてしまった」と述べた[ 322] 。
マクシム・ゴーリキー は、彼の新聞が翌年夏に廃刊されるまで、批判した。ゴーリキーは、レーニンとトロツキーは自由と人権の意味を毫も理解していないし、「邪悪な権力の中毒」になっている、レーニンは「血も涙もない詐欺師」だと非難し、また、「自分たち自身が奴隷だった彼らは、隣人の主人になる機会をつかむやいなや、気ままな暴君になるだろう」と非難した[ 323] 。
エマ・ゴールドマン にレーニンは「言論の自由はブルジョワの偏見であり、労働者の共和国では言論より経済的安然の方がものをいう」と語り、ゴールドマンを呆れさせた[ 307] 。
冬宮から逃亡したケレンスキーは、軍を集めようとするが、召集できたのは、第三騎兵隊司令官ピョートル・クラスノフ 麾下のコサック部隊数百人だけだった[ 324] 。10月28日(新暦 11月10日)、クラスノフ軍はペトログラード南方45kmのガートチナを占領した[ 324] 。
レーニンはこれを恐れ、ペトログラード軍司令部へ行き、自ら指揮をとった[ 324] 。レーニンはヒューズ電信機 で名前も肩書きも伝えないまま、ヘルシングフォルス・ソビエト議長のアレクサンドル・シェインマンに増援部隊を送るよう依頼し、5000人を派遣するとの回答をえた[ 325] 。さらにバルチック艦隊 代表ニコライ・イズマイロフが戦艦共和国と二隻の駆逐艦を急派すると回答した[ 326] 。レーニンは増援部隊の到着に確信をもてず、ペトログラード守備隊にもケレンスキー軍への攻撃を指示した[ 327] 。しかし、元陸軍士官ニコライ・ポドヴォイスキーから、連隊は出兵を拒否しているとの回答しかえられなかった[ 327] 。レーニンは激怒したが、数人の兵士しか集められなかったため、トロツキーが労働者に武装をよびかける演説をおこなった[ 327] 。
10月29日、ウラジミール陸軍士官学校 などのユンカー 士官学校生らはニコラエフ工科大学があったミハイロフスキー城 に集結し、祖国・革命救済委員会 の指導の下、ケレンスキーの蜂起を支持して、市内の電話交換機、ペトロパヴロフスク要塞 、 ボリシェヴィキ本部のあるスモーリヌイ聖堂を占領し、赤衛兵の武装解除を開始し、軍事革命委員の逮捕をはじめた。ユンカーは軍へ叛乱の支持を呼びかけたが、ペトログラードの革命守備隊は反乱を支持しなかった。赤衛兵は電話交換機を奪取し、要塞を包囲し、鎮圧した。メンシェヴィキの新聞によると、包囲中に約200人の士官候補生が負傷・死亡し、71人が私刑 の犠牲となり[ 328] 、ボリシェヴィキの軍事革命委員会は46人が死亡した[ 329] 。ソ連の歴史学は、死者71名、負傷者130名と報告している[ 330] 。
10月30日(新暦 11月12日)、ケレンスキー軍はペトログラード郊外25kmのプルコヴォ高地に到達したが、小規模な衝突があっただけだった[ 331] 。その日の夜、革命政府の元海軍士官パーヴェル・ドゥイベンコ がコサックの野営地に潜入し、ドン川 地方への安全な通行と平原での自治を約束するので降伏しないかと交渉、コサック兵はケレンスキーのために戦う理由はなく、降伏した[ 331] 。クラスノフの兵が速やかに首都に侵攻していればケレンスキーは権力を奪還できた可能性はあったが、かれらもまた、戦闘意欲がなかった[ 327] 。
モスクワでは、赤衛兵とケレンスキー派の部隊が6日間の戦闘を行った[ 332] 。モスクワの士官学校生と学生からなる臨時政府支持の部隊がクレムリンを制圧し、モスクワ市長はボリシェヴィキとの交渉にはいった[ 333] 。
10月29日、モスクワのユンカー 士官学校生の抵抗によって、赤衛兵238人が死亡し、ボリシェヴィキを支持したクレムリン衛兵第56連隊は300人以上が死亡した[ 334] 。ボリシェヴィキの軍事革命委員会は増援部隊を集め、10月30日の真夜中に攻撃を開始し、11月2日朝、抵抗勢力は降伏した[ 333] 。ケレンスキー派が降伏するまでに両陣営の戦闘員1000人が死亡、巻き込まれた市民も死亡した[ 332] 。
10月クーデターに抵抗したのは、旧秩序の崩壊に大きな貢献をしたインテリゲンツィア (知識人 )だった[ 335] 。政府官吏、ホワイトカラー労働者、著述家、芸術家、学者、ジャーナリスト、法律家らは、ボリシェヴィキが権力を握る限りは職務を拒否すると宣言した[ 335] 。祖国と革命の救済委員会が生まれ、政府機関のゼネストを行い、省庁、郵便、電信業務、銀行員なども参加した[ 335] 。ホワイトカラー職員のストライキは翌1918年1月まで続いた[ 335] 。
11月10日にレーニンはストライキを行った国立銀行へ武装した衛兵隊を派遣し、500万ルーブルの国庫 を押収した(#国立銀行の接収 )[ 335] 。
続いて、11月後半にはレーニンはストライキを続ける政府役人への反撃を開始した[ 335] 。武装兵士が公的機関をひとつひとつ制圧していき、厳罰の脅しのもと、職務に戻ることを強制し、拒絶したものは退職させられ、下位の役人にとって替えられた[ 335] 。
10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧された。
モスクワ では10月25日に臨時労農政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日に臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられた。10月27日に武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。
10月28日(新暦 11月10日)、公共機関と銀行はストライキに突入した[ 336] 。帝政に仕えてきた公務員全体が、ボリシェヴィキ政府への抗議を示すためゼネラル・ストライキ をおこなった[ 337] 。省の金庫は空で、立憲民主党の公爵夫人ソフィヤ・パーニナが省の金を持ち出しており、憲法制定会議から指示があるまで払い戻しはしないとした[ 337] 。レーニンは公務員のストライキを「妨害行為」で「脅迫」だと非難し、公務員に復職するよう何度も命令した[ 338] 。
レーニンは革命後の第一日目に、ロシア国立銀行 に1000万ルーブルを政府に放出するよう命じた[ 338] 。ボリシェヴィキは資金が必要で、支持者に給与をはらったために資金が底をつき、食料を徴発しなければ、革命政府は崩壊するおそれがあった[ 338] 。しかし国立銀行総裁イワン・シーポフ はそれは違法だと拒否し、銀行職員もストライキに参加していた[ 339] 。まもなく人民委員会議は資金不足に陥る。ボリシェヴィキに国立銀行の技術的な運用手順を知るものはいなかった[ 339] 。
11月7日(新暦 11月20日)、財務人民委員メンジンスキー は赤衛兵一分隊を率いて銀行に現れ、20分以内に金を用意しなければ、職員は職と年金を失い、軍に召集され前線に送られると通告した[ 339] 。しかしそれでも銀行職員は譲らなかったため、レーニンは激怒し、シーポフは監禁された[ 339] 。
11月10日(新暦 11月23日)、副人民委員ニコライ・ゴルブノフと国立銀行人民委員ニコライ・オシンスキーは、赤衛兵に銀行を包囲させたうえで、行員に銃口をつきつけて命令し、500万ルーブルを「接収」すると称して強奪し[ 335] 、レーニンはこれに喜んだ[ 340] 。これは強盗 といっていい行為であった[ 335] 。
10月26日(新暦11月8日)の土地についての布告 によって、貴族、教会、皇室の土地を農民ソビエトに引き渡した[ 341] 。これはエスエルの綱領を掠め取ったものであったが、この土地の分配によって、保有地は細分化され、都市向けの食料供給よりも自給自足を特権化してしまった[ 341] 。労働者統制令では、工業の労働者管理を樹立するもので、大企業の所有権は自治体と国に移管された[ 341] 。
土地に関する布告は、一時的に農民を味方につけることになったが、社会主義を標榜しながら、農村における所有の原則を認めたこの布告は矛盾する状況をうみだした[ 342] 。農民たちはこの布告を後ろ盾にして、土地や用具、家畜、荷車を横領した[ 343] 。レーニンの過渡的社会主義では農民の所有権も前提としていたが、実際に農民たちが横領を行うと、ボリシェヴィキは軍を用いて農民の行動を鎮圧した。機関紙イズベスチヤ は1917年12月9日に「なにも理解していない農民たちの略奪をやめさせ、秩序を回復するために軍を派遣した」と報じている[ 344] 。
レーニンは、農民に取り入り、エスエルに不意打ちをくわわせようとしていたが、農民たちは翌年の憲法制定会議ではエスエルを支持し、レーニンは農民たちへの不信感を強めた[ 345] 。ここから「農村に対する戦い 」が展開されていった。
ボリシェヴィキが、土地に関する布告に遅れて、労働者による企業管理を布告すると、労働者たちは「管理」ではなく、みずから企業の所有者になることを欲し、経営者を追放し、その財産を独断で「収用 」と称して強奪 した[ 346] 。大企業の多くは外国人が所有していたため、すでに世界大戦の開戦時に経営者は国外に退去していたし、残留した者も容易に退陣させることができた[ 347] 。
1917年12月に設置された反革命・投機・怠業と戦うための非常委員会(チェカー) は、社会正義の名の下にブルジョワと貴族の財産を強制的に「収用」した[ 347] 。接収部隊の志願者は不足することはなかった。[ 347] 。一部では犯罪者が勝手に接収をした。ボリシェヴィキはそうした自称接収者を「ルンペンプロレタリアート 」と非難したが、当時のボリシェヴィキにとって小さな問題だった[ 348] 。
1918年1月5日の勤労・被搾取人民の権利宣言には、労働者たちの「収用」を抑え込む意思があった[ 349] 。1918年6月28日に重工業の収用に関する布告がだされた時にはすでに元々の所有者は追放されていたか、逃げ出していた[ 349] 。
もともとレーニンは、国有化と私有財産の没収とは明瞭に異なると主張していた。革命直前に書かれた「差し迫った破局、これとどう闘うか」でレーニンは、銀行、カルテル(石油、石炭、製鉄)の国有化、工業商業総体の強制的カルテル化、生産消費の循環を統制する消費者組織の再編などを提案していたが、国有化と私有財産の没収とは明瞭に異なり、銀行にある資本の所有権は破棄されることはないと述べていた[ 344] 。レーニンは、国有化の利点として小経営者と農民への貸付を促進すると述べており、私有財産の廃止を提示しておらず、革命政府に資本家が協力することをのぞんでおり、社会主義への移行段階をなす「国家資本主義」の創出をめざしていた[ 344] 。しかし、実際に革命が現実のものになると、資本の所有権は認められないまま、多くの人々が財産を奪われていった。
他の社会主義政党の排除とエスエル左派との連立政権[ 編集 ] ボリシェヴィキ内部からもレーニンの行動に反撃とはいわないまでも、抵抗するものがいた。革命から一週間後、カーメネフ とジノヴィエフ が、メンシェヴィキと社会革命党との連立政権をレーニンに提起したが、レーニンは嘲笑した[ 350] 。
ソビエト大会でマルトフは、レーニンによって予告された政府がほかの社会主義政党にも開かれるべきだと要求し、ルナチャルスキー も賛同した[ 351] 。レーニンの独占主義的な考えに対しては、ボリシェヴィキ内部でも懐疑的な意見が多く、カーメネフ、ジノーヴィエフ、ルイコフ、シリャープニコフ、リャザーノフ、ボグダーノフ、クラーシン、ゴーリキーらは、革命政権を守るにはすべての社会主義者を参加させるべきだと考えた[ 351] 。鉄道員組合も連立を要求し、ただちに他党との交渉をはじめなければ鉄道をストップさせると告げた[ 352] 。
強引で性急なレーニンを支持したのは、トロツキー、スターリン、オルジョニキゼにとどまったため、10月29日にレーニンは形式的な譲歩を行うことにし、会議にはレーニン、トロツキー、スターリンは参加せず、カーメネフは連立に向けて議論した[ 336] 。連立への同意は頑迷なレーニンとトロツキーの排除を前提としており、そうでなければ他党への開放は失敗するからだった[ 336] 。
レーニンはこれを察し、自分の権威を高めるために、11月1日、ペトログラード委員会に「社会主義者たちと交渉するなど問題にならない。われわれのスローガンは、妥協の排除、ボリシェヴィキの単独政府の貫徹」であり、「唾棄すべきペテン師」のカーメネフらによる譲歩は一切排除すると宣言した[ 353] 。レーニンはフォロダルスキー を派遣し、中央執行委員会を組合と農民ソビエトと軍の代表に拡大し、政府が中央委員会に従属するという原則に同意する、と伝えさせた[ 353] 。これが、中央執行委員会に党の影響を強めていくためのレーニンの妥協案だった[ 353] 。中央執行委員会はそうしたレーニンの下心を見抜くことができず、可決した[ 354] 。ヴィクジェーリはボリシェヴィキの政府からの撤退を要求し、カーメネフがレーニンの辞職を提案すると、レーニンは激怒し、連立政府の交渉を中止するとしたが、反対10人、賛成3人で却下された[ 354] 。トロツキーは折衷案として、エスエル左派のみと交渉を続け、これ以上譲歩できないと提案し、中央委員会はこれを受け入れた[ 354] 。レーニンは、最終提案への10人の署名にあたって、執務室に一人づつ呼び入れて署名させた[ 354] 。
さらに同時に、レーニンは、「反革命的報道」の自由を制限する命令を出した[ 355] 。革命前、レーニンとボリシェヴィキは報道の自由を訴えていた[ 355] 。ボリシェヴィキのユーリ・ラリーンはこの措置への告発動議をだしたが、レーニンはラリーンを「党規律に反対する者」と反論し、2票差で否決された[ 355] 。
11月4日、レーニンの横暴さに嫌気がさしたカーメネフとジノヴィエフは、ミリューチン 、ルイコフ 、ヴィクトル・ノギーンとともに人民委員会議と党中央委員会を辞職した[ 355] [ 350] 。レーニンはカーメネフの後任にスヴェルドローフを任命した[ 355] 。
その後、カーメネフとジノヴィエフは、ソビエトが管理する機関紙「イズヴェスチヤ」で、ソビエトの全政党が参加しなければ革命の成果を固めることはできないし、政治テロの手段によって運営されることになるが、それは「労働者・兵士の多数の意志に反して追求される致命的政策」であり、「無責任な体制」であり、これは革命と国家の破壊へ行き着くと警告し[ 350] 、中央委員会を支配するレーニンの権威主義を批判した[ 355] 。
レーニンは分裂を容認せず、彼らを除名し、粛清 によって危機を脱出しようとした[ 355] 。レーニンは彼らを「裏切り者」「脱党者」と呼んだ[ 350] 。結局、彼らは重大な勢力ではないと判断し、そのままにしておくと、数週間後、彼らは戻ってきた[ 350] 。
ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党 左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立し、ボリシェヴィキからの入閣要請に応じた。
11月15日、エスエル左派のみを残し、残りのエスエルとメンシェヴィキを排除したうえで、数人のエスエル左派が政府に加わった[ 356] 。鉄道組合をなだめるためにエスエル左派で組合員のクルチンスキーに運輸人民委員のポストを用意した[ 356] 。しかし、レーニンにとって連立は一時的な譲歩で、その後もソヴナルコムのなかの非ボリシェヴィキをいかに排除するかを画策した[ 357] 。その結果、レーニンは中央委員会に農民代表、兵士代表、組合代表を受け入れつつ、委員数を108人から366人に拡大させた[ 358] 。この増員によって、棄権と饒舌がその特徴となり、真剣に議論できなくなり、やがて会合開催は稀になり、結果として権力の中央集中の強化となった[ 358] 。こうして権力はボリシェヴィキ12議席、エスエル左派7議席の中央委員会最高幹部会が掌握することになった[ 358] 。
エスエル左派はレーニンの政治的いかさまに気づき、憤激したが、武装蜂起を支持した自分たちも共犯者となっており、なんの反響ももたらさなかった[ 358] 。
二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきた。代表民主制の導入は、臨時政府の唯一の公約だったが、選挙は最初9月、その後、10月、11月と延期され、延期のたびにボリシェヴィキは政府が「民主主義を殺す」、自由議会をだまし奪おうとしていると非難した[ 359] 。
しかし、権力を掌握するとレーニンは自由議会を認めなかった[ 359] 。彼にとってプロレタリア独裁とソビエト権力が唯一の民主主義の形態だったからである[ 359] 。クーデターの初日、レーニンは、選挙を無期限に延期したいと考えた[ 359] 。「選挙は革命の首を取るかもしれない」、労働者と農民が必要なのに、候補者リストには偶然のった知識人がいるとして、立憲民主党を非合法化しなければならないと言った[ 360] 。しかしこれにはジェルジンスキーでさえも反対した[ 360] 。レーニンは制定会議がメンシェヴィキらの会議になれば、また軍事的手段をつかって勝ち取らなければならなくなると語った[ 360] 。結局、レーニンは選挙を認めた[ 360] 。ボリシェヴィキは10月27日に憲法制定議会開催についての選挙を実施することを決めた。
11月12日から14日[ 注 2] にかけて実施された全ロシア憲法制定議会 のための選挙で、社会革命党 (エスエル)が約1800万票で得票率40パーセント、ボリシェヴィキ1000万で得票率は24パーセントにとどまった[ 361] 。さらにエスエルは、ウクライナ社会革命党 500万票が加わり、得票率50パーセントとなった[ 362] 。メンシェヴィキは130万票、政治から排除されていたカデットは300万票を獲得した[ 362] 。全703議席のうち、エスエルは419議席(410議席[ 363] [ 360] )で第一党となり、ボリシェヴィキは168議席(175議席[ 363] [ 360] )にとどまり、その他、エスエル左派40議席、カデット17議席、メンシェヴィキ16議席、90議席は少数民族の党となった[ 364] 。
政党 票数[ 365] % 社会革命党 (エス・エル)17,943,000 40.4% ボリシェビキ 10,661,000 24.0% ウクライナエス・エル 3,433,000 7.7% 立憲民主党 (カデット)2,088,000 4.7% メンシェビキ 1,144.000 2.6% その他のロシアのリベラル政党 1,261,000 2.8% グルジアメンシェビキ党 (英語版 ) 662,000 1.5% ミュサヴァト党 (アゼルバイジャン)616,000 1.4% アルメニア革命連盟 (アルメニア)560,000 1.3% 左翼エス・エル (英語版 ) 451,000 1.0% その他の社会主義政党 401,000 0.9% アラシュ党 (カザフスタン)407,000 0.9% その他の少数民族政党 407,000 0.9% 合計(集計された票数) 40,034,000 90% 未確認分 4,543,000 10% 合計 44,577,000 100%
選挙で敗北したレーニンは、憲法制定議会の開始を遅らせ、いかに会議を廃止するかの方法を練った[ 366] 。十月クーデターを正当化する論拠の一つは、ボリシェヴィキの権力掌握のみが憲法制定会議の召集を保障するというものだったが、レーニンは憲法制定会議での敗北を怖れ、憲法制定会議を無力化する方策を探った[ 1] 。
レーニンはまず、憲法制定議会の運営を差配する選挙委員を解任し、ボリシェヴィキのウリツキーを据える布告をだした[ 366] 。さらにレーニンの腹心スヴェルドローフをカーメネフの後任として中央執行委員会議長とし、中央委員会書記局長も兼ねさせた[ 367] 。スヴェルドローフはボリシェヴィキ議員を組織し、議会への批判に専念させるために企業に送り込んだ[ 368] 。ついで議会内のボリシェヴィキ会派を監督する事務局が中央委員会に設置され、ブハーリンとソコーリニコフが責任者となった[ 368] 。
憲法制定議会に向けた選挙結果を受け入れることができなかったレーニンは反撃し、11月28日に立憲民主党(カデット)を政府に対する陰謀を計画した「反革命党」として活動を禁止し、指導者たちを「人民の敵」として逮捕を命じた[ 369] [ 370] 。憲法制定議会が初召集されるはずだった11月27日、レーニンは立憲民主党を非合法化する布告をだし、立憲民主党を「人民の敵」と断じ、赤衛兵が著名な立憲民主党党員を逮捕していき、逮捕者は数十人にのぼった[ 366] 。立憲民主党はボリシェヴィキにより弾圧された最初のリベラル政党となった[ 369] 。
反対派が立憲民主党の非合法化を違法な弾圧だと批判すると、レーニンは立憲民主党は内戦の参謀部を形成してるので、「合法性の問題は議論するのも無意味だ」と答え、トロツキーも「われわれは誰とも権力を分かち合うことはない。革命を流産させるわけにはいかない」と答えた[ 366] 。
レーニンは憲法制定議会を弾圧していく渦中の1917年12月7日(新暦12月20日)、反革命・破壊活動・投機と闘うための全ロシア臨時委員会(チェーカー) を極秘で設置した[ 371] [ 372] 。長官フェリックス・ジェルジンスキー は残忍で裏工作の才能があり、自らテロリズム的作業に身を投じており、左派社会主義者は嫌悪していたが、レーニンはジェルジンスキーの非人間的なまでに峻厳で、チェルヌシシェフスキー の「何をなすべきか」の「新しい人」を思わせるところに魅了されていた[ 372] 。チェーカーは公表されずに設置され、職務は曖昧に定義されていた[ 372] 。チェーカーは破壊活動や反革命と投機を未然に防ぐことを職務としていたが、実際には無制限の調査と抑圧の権限を有していた[ 373] 。
1917年10月27日の第2回ソビエト大会では死刑を廃止したが、チェーカーは報告することもなく死刑を活用した[ 374] 。フランス革命時の恐怖政治で知られるフーキエ=タンヴィル のような人物を探していたレーニンは、「銃殺せずにどうやって革命できるのだ」と死刑を正当化した[ 374] 。
レーニンは1917年12月24日から27日(新暦1918年1月6-9)に書かれた「競争をどう組織するか」でもテロルを奨励した[ 375] 。
人民の敵、社会主義の敵、労働者階級の敵に容赦はいらない!金持ちとその腰巾着であるブルジョア知識人に死をもたらす戦争を!ならず者、怠け者、暴徒との戦争を!(…)金持ちと悪党は同じコインの表と裏であり、資本主義が育てた2つの主要な寄生虫のカテゴリーであり、社会主義の第一の敵である。これらの敵は、全人民の特別な監視下に置かなければならない。社会主義社会の法と規則を少しでも破った敵は、容赦なく処罰されなければならない。この点において、弱さ、ためらい、あるいは感傷的な態度を示すことは、社会主義に対する重大な犯罪となるだろう。
続けてレーニンは、金持ち、ならず者、暴徒、仕事をサボる労働者は投獄され、刑期を終えても更生するまで有害者としてみんなで監視し、あるいは、怠け者の10人に1人はその場で即座に銃殺されると主張した[ 375] 。
レーニンは1918年1月14日会議「飢饉との戦いについて」でも「テロリズムに頼らない限り、われわれは何も達成できない。投機家はその場で撃ち殺さなければならない。略奪者(盗人)にも断固たる対処をしなければならない。彼らはその場で銃殺されなければならない」と主張し、投機するために食料を隠したり、盗んだりする者への処刑を主張した[ 376] [ 377] 。
チェーカーの職員は最初120人であったが、一年後には3万人と膨れ上がった[ 374] 。
ボリシェヴィキは左派エスエルと事前に相談し、憲法制定会議は召集するが、立法権を奪い、ただちに解散すると決定した[ 369] 。
12月1日にレーニンは憲法制定会議は人民の意志を完全に表現するものと言明していたが[ 369] 、12月12日に「憲法制定議会についてのテーゼ」をプラウダに発表し、「議会は、議会制的段階がすでに終わっているのだから、存在理由はない。憲法制定議会ではブルジョワ政党が選出されるなど社会の意識と異なる段階になっている。革命ロシアの後退などありえない。憲法制定議会は歴史的後退になるだろう」として憲法制定議会の存在理由を否定した[ 368] 。1レーニンは「すべての権力を憲法制定会議へ」というスローガンはすでに反革命的になったと主張したうえで、憲法制定会議は第二回ソビエト大会の決議とソブナルコムの布告を承認するか、それとも「ソビエト権力の側からの最も強力で、迅速で断固たる決定的な処置」に直面すると告げたが、これは議会への死刑宣告であった[ 369] 。レーニンは、憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現しており、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求した。
一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、対決姿勢を示した。社会主義者たちは対抗宣伝のキャンペーンをもって応じ、アジテーターを工場や兵営に送り、署名をあつめた[ 369] 。エスエルとメンシェヴィキは自分たちに大規模な支持があることを誇示すれば、ボリシェヴィキによる武力行使を阻止できるかもしれないと期待し、エスエルの一部の集団は、1月5日に武装デモを行おうとしたが、エスエル中央委員会は危険な冒険だとして拒絶した[ 378] 。
すでにレーニンは7月末の「立憲制の幻想について」で、革命期には多数派の意思は重要ではない、「重要なのはよりよく組織された少数派である。それはより意識的で、よりよく武装され、その意思を多数派に押し付け、打ち負かす術を心得ている」と述べていた[ 379] 。
レーニンは、12月12日から数日後、アフクセンチエフらエスエル右派、ヴィクトル・チェルノフ、ツエレツエーリの逮捕命令をだした[ 379] 。憲法制定議会は翌1918年1月5日に開催予定だったが、党に戻ってきてレーニンに服従していたジノーヴィエフ、カーメネフたちに、議会の存続は議会の従順さにかかっているとレーニンは警告した[ 380] 。議会は政府の正統性をみとめ、政府が議会に付議するものを可決しなければならないと告げた[ 380] 。
このようななか、1918年1月1日、レーニンは銃撃されたが、これはレーニンにとって宣戦布告を意味した[ 381] 。
憲法制定議会開催の二日前、レーニンはあらかじめ「勤労・被搾取人民の権利宣言」を中央執行委員会に承認させた[ 382] 。この綱領には「憲法制定会議は、政府の計画を採択しなければ解散される」と明記されていたが、これはあきらかに恐喝だったと歴史学者カレール・ダンコースは指摘する[ 382] 。この権利宣言はのちの1月25日に全ロシア・ソビエト会議 で採択された[ 383] 。
レーニンは議会の解散を決意し、議会を支援する民衆運動を阻止するために警察的措置の強化を指示した[ 382] 。
1918年1月4日、レーニンは十月クーデタを遂行したボリシェヴィキ軍事組織の議長ポドヴォイスキーを緊急軍事部長に任命し、戒厳令 を発布し、集会を禁止した[ 378] 。ペトログラードチェーカー長官ウリツキーは戒厳令に基づき、会場のタヴリーダ宮を水兵に包囲させ、そこにいた官吏に対して、ウリツキー指揮下にある宮殿守備隊司令官のみに従うよう指令した[ 382] 。こうして、議会開会までに憲法制定会議を無力化するための態勢が完全に整えられた[ 382] 。その夜、宮殿守備隊と議員が衝突しないためにデモ隊が宮殿に陣取ろうとしていたが、夜明け前に銃撃があり、犠牲者数名が出た[ 382] 。
1月5日、戒厳令によって市内に兵士と赤衛兵が投入され、厳重警戒態勢のなか憲法制定議会が召集された[ 384] [ 366] 。ボリシェヴィキ機関紙「プラウダ 」はタヴリーダ宮殿近くでの集会は力によって解散されると警告し、1月5日には「資本のハイエナとその雇われ人どもは、ソビエトの手から権力を奪おうと望んでいる」と見出しをつけ、憲法制定会議の開催を要求する勢力を「資本のハイエナとその雇われ人ども」であり、彼らはソビエトの手から権力を奪取することを望んでいる反革命勢力であると報じた[ 378] 。
デモは禁止されていたが、1月5日午前10時、憲法制定会議を支持する4万人の労働者、学生、公務員がマルス広場からタヴリーダ宮殿 まで非武装のデモ行進した[ 378] [ 366] 。デモ隊がリチェイヌイ大通りまで来た時、赤衛兵が発砲し、参加者は散り散りになった[ 366] [ 378] 。「すべての権力を制憲会議へ!」と書かれた二つの旗は踏みつけられ、少なくとも10人が死亡、70人が重傷をおった[ 385] 。
レーニンは1月5日午後1時、宮殿に到着したが、顔は青ざめていた[ 378] 。入場する非レーニン派の議員に対して、警備する水兵らは罵ったり、拳をあげてインターナショナル を歌うなどして威嚇した[ 384] 。周囲は混乱しているとして、開会を正午から4時に延期すると述べた[ 386] 。
1月5日午後4時、議事が開始されたが、ホール内では武装衛兵が監視し、数人の議員も武器をもっていた[ 387] 。ボリシェヴィキ議員と武装衛兵は野次り、嘲り、銃を向け、水兵らは宮殿のビュッフェから施与されたウォッカで酔っていた[ 386] 。会議では、スヴェルドローフが前日レーニンが書いた宣言をよみあげた[ 388] 。議長選挙では非ボリシェヴィキで社会革命党のヴィクトル・チェルノフ が就任したが、宮殿の外では守備隊がデモ隊に殴打したり、発砲するような緊迫した状況のなか、共同で仕事をしようというのんきな発言をした[ 388] 。チェルノフが10月革命を演説で批判すると、ボリシェヴィキは野次り、あざけった[ 387] 。レーニン派が叫び声や罵詈雑言をなげつけるなか、チェルノフはボリシェヴィキが民主主義を脅かしていることを直接告発しなかった[ 389] 。
ボリシェヴィキは憲法制定会議に立法権を放棄させ、ボリシェヴィキの布告を承認することを求める動議を出した[ 386] 。スヴェルドロフ が「労働者の権利に関する布告」「銀行国有化に関する布告」「寄生虫階級を絶滅する」ための「強制労働に関する布告」などの布告を審議なしで承認するという動議を出した[ 390] 。しかし、動議は大差で否決され、ボリシェヴィキは退出した[ 390] 。
休会中、レーニンは宮殿を閉鎖し、翌日は誰も入れてはいけないと命じ、制憲会議の解散命令を出した[ 391] 。
1月5日午後11時半、会議が再開された[ 391] 。ボリシェヴィキの水兵がにやにや笑いながら、メンシェヴィキのツェレテリ や社会革命党 チェルノフ に銃を向けた[ 391] 。しかし、ボリシェヴィキの威嚇に屈することなく、ツエレツエーリは野次のとびかうなか、ボリシェヴィキの暴力を告発した[ 389] 。これにより、エスエル、メンシェビキ、カデット陣営は再び勢いをえて、「勤労・被搾取人民の権利宣言」を237票で否決した[ 389] 。議会も議会外の大衆も、あきらかにボリシェヴィキに敵対していたが、ボリシェヴィキは政府、軍など権力機関を掌握していた[ 389] 。レーニンは議会は無意味であるとして審議開始直後に退出し、ボリシェヴィキもエスエル左派も退出した[ 389] 。ウリツキーが議会内に配備した警備隊と傍聴人の圧力をうけながらも、チェルノフは、土地の国有化、ロシア民主主義連邦共和国の設立、連合国との全面講和を採択させた[ 389] 。警備隊は会議中止を叫び、電気を消したり、退去させるぞと脅した[ 392] 。
1月6日午前4時頃、赤衛兵指揮官アナトリー・ジェレズニャコフ は、壇上のチェルノフに「衛兵が疲れている」と退場を促した[ 391] 。チェルノフは拒否したが、酔った衛兵たちは武器をいじりはじめ、電灯を一個ずつ消していった[ 391] 。1月6日午前4時40分、全議員が退出した[ 391] 。衛兵の疲労を理由に1月6日午後5時まで休会とした[ 386] 。
会議は数時間後に再開すると取り決められていたので、1月6日午後、議員たちが宮殿に戻ってきた[ 392] 。しかし、道はボリシェヴィキの兵士によって遮断され、兵士たちが議員の入場を禁止し、「憲法制定会議の解散を命じる布告」が宮殿に貼られていた[ 392] [ 391] 。憲法制定議会の審議を報告していた新聞社はおさえられ、新聞は破棄された[ 393] 。その日、プラウダ は「銀行家、資本家、地主のお雇い、アメリカドルの奴隷、卑劣な中傷者である右派エスエルは、憲法制定会議で、全権力を人民の敵に渡すよう求めた」とし、「労働者、農民、兵士は、社会主義の最悪の敵の嘘のえさに騙されることはないであろう。社会主義革命と社会主義ソヴィエト共和国の名において、彼らは、その公然かつ隠然たつ殺害者どもを一掃するであろう」と報じた[ 386] 。こうしてレーニンは武力を用いて憲法制定会議を破壊した[ 393] 。
その晩、レーニンは、憲法制定議会は資本主義とブルジョワの機関、かつ死に絶えた過去の遺物であり、「憲法制定議会万歳」というスローガンは「ソビエト政権打倒」を意味するとし、革命の未来と人民の意思は憲法制定議会の解散にかかっていると中央委員会執行部につたえた[ 392] 。レーニンは「会議の解散は、革命的独裁の名において、因習的な民主主義を完全かつ公然と解体することを意味する。それはいい教訓となった。(…)我々は人民の意思を実行した」と正当化した[ 394] 。レーニンはトロツキーに「憲法制定議会の解散は、民主主義の観念が清算され、独裁の観念に席を譲ることを意味する」と語った[ 395] 。
こうして憲法制定議会は社会革命党が主導し、ボリシェヴィキが提出した決議案を否決したが、翌日、ボリシェヴィキは憲法制定議会を強制的に解散させたのであった。ロシア初の自由選挙で選ばれた議会だった憲法制定会議は、わずか12時間しかもたなった[ 359] 。ボリシェヴィキは、ボリシェヴィキそのものが「人民」なのだから、ボリシェヴィキは「人民の声」をきく必要はないと宣言し、レーニンは憲法制定会議の解散は「革命独裁の名のもとでの形式民主主義の完全かつ率直な清算」であるとして正当化した[ 396] 。
1月6日朝には暗殺事件も発生している。ボリシェヴィキの水兵がマリインスキー病院に押し入り、眠っている立憲民主党党員のアンドレイ・シンガリョフと、ペトログラード大学憲法学教授フュードル・ココシュキン を絞殺した[ 394] [ 395] 。
左翼社会革命党員で法務人民委員イサアク・シュテインベルクは捜査をすすめたが、海軍人民委員ドゥイベンコは「しかし、これは政治的テロルだ」と述べ、シュテインベルクはボリシェヴィキの用語での「政治的テロル」は犯罪を正当化する言い回しであることに気づいた[ 397] 。シュテインベルクはレーニンに捜査続行を主張し、逮捕しなければ、暴力を制御し、血への飢えを鎮めることが難しくなると訴えた[ 397] 。しかし、レーニンは「人民がそうした問題に関心があるとは思わない。どの労働者も農民もシンガリョフなんて聞いたことがない」と答えるにとどまり、結局犯人は逮捕されなかった[ 398] 。こうした弾圧は行き過ぎだという批判に対してレーニンは「いくらでも叫ぶがよい。彼らができるのはそれだけだ」と嘲笑った[ 395] 。
第3回ソビエト大会がひらかれる予定の1月9日の前日、市民は犠牲者の追悼、ゴーリキーも新聞で哀悼の意を評し、死に瀕していたプレハーノフも「民衆の意に反して権力にとどまるために恐怖政治にたよらざるをえなくなった」とレーニンを批判した[ 399] 。大会は19日に延期された。
憲法制定会議の解散は、政府職員とホワイトカラーのボイコットの挫折をもたらし、彼らは次々に仕事に戻っていった[ 396] 。
ボリシェヴィキ以外の社会主義知識人は、ボリシェヴィキを簒奪者と非難はしたものの、反革命をおそれており、ボリシェヴィキと目的を同じにしていたため、いまだボリシェヴィキを同志として扱い、憲法制定会議の解散の際、兵士の一団が武力で会議を再興しようと提案したが拒絶した[ 400] 。彼らはボリシェヴィキと戦うことよりも、憲法制定会議の死を選んだ[ 396] 。メンシェヴィキは、ここでボリシェヴィキのクーデタを打破すれば、ロシア革命のあらゆる成果を一掃することになるとし、なにもしないことを正当化した[ 401] 。ボリシェヴィキのライバルは、住民の4分の3に支持されていたが、指導者を欠き、決起して戦おうとしなかった[ 401] 。
こうした非ボリシェヴィキ勢力の対応の結果、ボリシェヴィキは挑戦を受けたときは常に暴力に訴え、問題をおこした人を肉体的に一掃することによって解決することが習慣となり、ボリシェヴィキの抑制を欠いた残忍さは、彼らが残忍な態度をとっても罰せられることがないという1918年1月5日の憲法制定会議の解散に得られた認識に由来するところが大きく、以降、1918年春までには彼らは一層暴力に頼っていったとパイプスは指摘する[ 401] 。パイプスは、ボリシェヴィキによる憲法制定会議の解散は、「蛮行と国民の意思を露骨に無視することが、あたかも新しい専制を正当化したかのごとくであった」として、「十月のクーデターは詐欺行為のもとに遂行された」と評する[ 396] 。
カレール・ダンコースも、レーニンが武力で勝利したのは、彼の敵対者である非ボリシェヴィキの社会主義者たちが手段をもたず、公然と民衆の支持に訴えようとしなかったからでもあり、気力の薄弱さの結果でもあったと指摘する[ 395] 。
第3回全ロシア労働者・兵士・農民代表ソビエト会議:「ロシア・ソビエト共和国労農政府」樹立[ 編集 ] 1918年1月10日-18日(新暦23-31日)[ 注 3] 、第3回全ロシア・ソビエト会議 (全ロシア労働者・兵士代表ソビエト会議)が開催された[ 403] 。この第3回労働者兵士ソビエト大会では、2000人近くの参加者がいたが、代表の選択はボリシェヴィキによって細心に管理されており、レーニン、スヴェルドロフ、トロツキーの演説には聴衆は感嘆を込めてききいる一方、マルトフが現在テロリズムに陥りつつあるという演説に対しては会場は無関心だった[ 402] 。この大会ではボリシェヴィキと左派エスエルで94%の議席を保持した[ 386] 。
社会革命党(エスエル)は、農民会議を労働者兵士会議から分離することを望んでいたが、全ロシア中央執行委員会議長であるボリシェヴィキのヤコフ・スヴェルドロフは、農民会議を第三回全ロシア労働者兵士代表ソビエト会議へと統合する動議を提出した。SRとメンシェヴィキは反対したが、この動議はボリシェヴィキとエスエル左派によって可決され、農民会議は消滅した[ 404] [ 405] 。会議名も、「全ロシア労働者・兵士代表ソビエト会議」から、「全ロシア労働者・兵士・農民代表ソビエト会議」へと変更された。
全面的にボリシェヴィキに支配されていたこの大会では、ボリシェヴィキの布告と決議をすべて承認し、新政府から「臨時」をはずし、政府としての地位を確立すると宣言した[ 386] 。また、新たな中央執行委員会を選出し、ソブナルコムの名称に付されていた「臨時」もはずし、また憲法制定議会にはいかなる準拠もしないと決定し、レーニンの勝利が仕上げられた[ 402] 。
1月18日(31日)、土地の私的所有を廃止する(土地の社会化に関する布告)、憲法制定議会の解散が宣告され、ソビエト政府の新名称を「ロシア・ソビエト共和国の労働者と農民の政府[ 406] 」とすることを承認した[ 407] 。民族問題担当人民委員スターリンがロシア諸民族(人民)の自発的な(自由な)連合を基礎として、ロシア社会主義共和国をソビエト共和国の連邦として構成すると報告した[ 408] [ 409] 。こうしてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 [ 410] が建国された。憲法制定議会の解散の宣告にともない、1月5日の憲法制定議会でチェルノフが提案した「ロシア民主主義連邦共和国」の建国宣言[ 389] も取り消された。
また、この会議では「勤労し搾取されている人民の権利宣言」を採択し、人間による人間の搾取の廃止、階級の廃絶、搾取者に対する容赦のない抑圧が宣言された[ 411] 。
レーニンは10月クーデター以前は国民全員が選挙権 を行使できる普通選挙制 を主張していた。しかし、権力掌握後は、「ブルジョワジー」などの「反革命分子」に属する個人には選挙権を認めず、「収奪者が収奪されるまで[ 78] 」は権利を与えないとされた。
4月テーゼ時点 でレーニンは、政治体制を決定するための憲法制定会議の選挙を予定していた[ 184] 。また、4月テーゼ直後の党綱領改訂草案では、「ロシア民主主義共和国憲法」において「人民の専制、国家の全最高権力は、人民によって選挙され、人民がいつでも解任できる、一院制の単一の人民議会を構成する人民代表に属さなければならない」、「立法議会、および一切の地方自治機関の選挙における、20歳以上のすべての男女の普通・平等・直接の選挙権。選挙における秘密投票」が保障すべきことと書かれていた[ 412] [ 413] 。
しかし「革命の利益は憲法制定議会の形式的権利に優越する」[ 414] として1918年1月に憲法制定会議を強行的に解散したあとの3月の第7回党大会の綱領草案下書きでは、「資本主義のために抑圧されている勤労被搾取大衆だけを統合し組織」し、「搾取階級や、小ブルジョワジーの富裕な分子を自動的に排除」[ 415] すると強調した[ 416] 。また、ソビエト権力は「労働者と半プロレタリアの大衆組織」を国家機構の唯一の基礎とし[ 417] 、国家機構が先進的プロレタリアとむすびついている[ 418] がゆえに、「搾取者を完全な権利をもつ社会成員から除外する」[ 419] とされ、これが階級代表制の構造的論理となった[ 420] 。
さらにソビエト制では「被抑圧階級の最も活動的・積極的な、自覚した部分、すなわち彼らの前衛を統合すること」が謳われ、この前衛は、勤労住民を国家統治に自主的に参加させるために彼らを「教育」するものとされた[ 421] [ 422] 。ここにおいて前衛党は、一般大衆を教育する政治的な教師の立場をとるとされた。十月革命以前のソビエト権力規定では、「党」の位置づけはなかったが、十月革命後は前衛党が権力規定に登場する[ 423] 。
レーニンは、革命以前は普通選挙制を謳っていたが、「搾取者の反抗が中止されるに応じて、ソビエト憲法を全住民に拡張する」[ 424] 、「外部からの侵入がやみ、収奪者の収奪[ 78] がなしとげられれば、…なんの制限もない普通選挙制を実施するような情勢がつくりだされうる」と言明し、そうなるまでは選挙権を付与しないとした[ 425] [ 426] 。
1918年3月には、パリ・コミューン原則からの一歩後退を認めなければならず、4月テーゼに即し、常備軍としての労農赤軍、そして常設警察(労農民警、非常政治警察)の組織を余儀なくされた。官僚制の除去も重視されていたがこれは将来の可能性とされ、やがて深刻なソビエト官僚制が構築されていく[ 426] 。
第一次世界大戦 の全交戦国に対してボリシェヴィキが無併合・無賠償の講和を提案した10月26日の平和に関する布告 は、フランスやイギリスなどの同盟諸国から無視されたため、ソヴィエト政府はドイツやオーストリア・ハンガリーとの単独講和へ向けてブレスト=リトフスクで交渉を開始した。交渉は外務人民委員となっていたトロツキーが担当した。この交渉に関してボリシェヴィキの内部に三つのグループが形成された。講和に反対し、革命戦争によってロシア革命をヨーロッパへ波及させようとするブハーリン のグループ(共産党左派)、ただちにドイツ側の条件を受け入れて「息継ぎ」の時間を得ようとするレーニンのグループ、そしてドイツでの革命勃発に期待しつつ交渉を引き延ばそうとするトロツキーのグループである。
ドイツはソヴィエト政府の提案を受け入れ、11月19日に交渉の席についた[ 297] 。最初の段階ではトロツキーの中間的な見解が支持を得たため、ソヴィエト政府はドイツ側が1月27日に突きつけた最後通牒を拒否した。ドイツは、ソビエトが他国の革命を待望して時間稼ぎをしていることがわかると、1918年2月8日にウクライナ と個別の講和条約をむすんだ[ 297] 。トロツキーは激怒して席を立ったが、ドイツは彼のはったりを見抜いて攻撃を再開した[ 297] 。
1918年2月23日、党中央委員会でレーニンはドイツの最後通告を即時受諾することを提案したが、ブハーリン、ウリツキー 、ロモフ、ブブノフら共産党左派らは異議をとなえた。共産党左派はモスクワ地方ビューローにおいて、講和締結後は外形だけのものになるソビエト権力を放棄する場合もあることを認めることが国際革命のためになると決議した[ 427] 。レーニンらは、これは党と国家を撹乱し、党を分裂させる方針であると批判した[ 427] 。
ドイツ軍の攻撃でロシア軍が潰走すると、ボリシェヴィキの中でようやくレーニンの見解が多数派を占めた。1918年3月3日、ソヴィエト政府は当初よりさらに厳しい条件での講和条約ブレスト=リトフスク条約 に調印した。左翼社会革命党は講和条約に反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した[ 428] 。エスエル左派は、ブハーリンら共産党左派との会談において、レーニンを人民委員会議議長から更迭し、エスエル左派と共産党左派からなる新しい政府を樹立することを提案したが、ブハーリンは提案を受け入れなかった[ 427] 。レーニンは共産党左派をドイツ帝国主義とロシアのブルジョワとの共謀者だと批判した[ 427] 。
このブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはフィンランド 、エストニア 、ラトビア 、リトアニア 、ポーランド 、ウクライナ 、さらにカフカス のいくつかの地域を失い、巨額の賠償金を課せられることとなった。のちに、同年11月にドイツ革命 が起き、ドイツが敗北するとボリシェヴィキはこの条約を破棄したが、ウクライナを除く上記の割譲地域は取り戻せず、独立を認めることとなった。戦争を離脱して革命を拡大させようとして時間稼ぎをしたロシアは、フィンランド、バルト諸国、ポーランド、ウクライナの独立という代償をはらうことになった[ 297] 。1917年12月6日にフィンランドは独立 し、1918年1月にフィンランド社会主義労働者共和国 が成立するも、フィンランド内戦 で白軍に敗北した。ウクライナはソビエト・ウクライナ戦争 で敗北し、ソ連の一部となった。同1918年2月16日にリトアニアは独立 、2月24日にエストニア も独立、11月18日にはラトビア も独立した。
帝政ロシアは世界大戦で541ルーブルの戦費を支出し、これは1913年の経常歳出の17.6年分に相当した。戦費調達は政府短期証券、国債 、外債 の発行などだった[ 429] 。
1918年1月、ボリシェヴィキ政府はツァーリ政府 の債務を破棄すると宣言し、外国政府と債券 保有者は65億9000万ドル(約1兆円)を失った[ 430] 。のちにボリシェヴィキは、西側の内戦への干渉によるロシアの損失を、ポグロムによる損失、ロシア人への侮辱などを合計して、929億ドルと主張した[ 430] 。
その後、ソ連は20世紀を通じて、債務不履行を続けた[ 429] 。ある程度の規模の国家の20世紀における完全なソブリンデフォルト(国家債務不履行) は、ソビエトロシアが唯一の例である[ 429] 。歴史上は、1797年 にブルボン朝 の国債をデフォルトしたフランス革命 政府が同様の例であり、完全なソブリンデフォルトはこの2例のみである[ 429] 。
ドイツとの講和締結から三日後の1918年3月6日から8日まで開かれた第7回臨時党大会でレーニンは、「共産」党は唯一の正しい名称であるとし、ロシア共産党(ボリシェヴィキ) [ 431] と改名した[ 432] [ 427] 。また、レーニンは、「ボリシェヴィキ革命はこの地上の最初の一億人を、帝国主義戦争から、帝国主義世界から救い出した」という[ 427] [ 433] 。
この第7回臨時党大会では、クイプィシェフ、コシオル、ヤロスラフスキー「共産党左派」とトロツキーを、党の統一を破り、「プロレタリア独裁を破壊しようとした党撹乱者」であるとし、これを粉砕したと公式のソ連共産党史には書かれている[ 427] 。
ロシアにおける第一次世界大戦の講和は、内戦、外国の干渉、民族独立という三つの戦争によって特徴づけられる新たな時代の幕開けとなった[ 434] 。
レーニンは平和と土地とパンを約束していたが、1918年以降のロシアの社会状況は、世界大戦時よりも悪化し、大災厄に立ち至った[ 435] 。ブレスト=リトフスク条約 によってウクライナを失い、ドン・コサック はやがてボリシェヴィキに反乱した[ 435] 。ボリシェヴィキは、制圧した地域では恐怖政治 をしき、徴発、逮捕、銃殺の限りをつくした[ 435] 。
戦時中から食糧や物資が不足し、各地で危機的な状況になっていた。十月革命が発生した理由もそうした食糧危機にあった。ボリシェヴィキの恐怖政治によっても飢えは解決されず。混沌とした状況のなかで鉄道網も一部破壊され、1913年に18000台あった蒸気機関車は、1918年には7000-8000台となり、輸送能力は三分の一になっていた[ 436] 。運搬されなかった生産物は倉庫で腐り、運搬されたとしても運送速度が遅く、生産物は使い物にならなかった。また列車は略奪も受けた[ 436] 。
ボリシェビキがすすめた農村における階級間戦争によって、農民は絶望し、都市は飢えた[ 437] 。資源や原料が調達できず、おおくの工場が閉鎖し、失業者はふえ、物価は急激に上昇した[ 437] 。障害をかかえたり、重傷者となった帰還兵150万と捕虜300万が都市にきたが、仕事も食料もなく、1918年春の首都の失業率は70%となった[ 437] 。
ロシアの混沌には、民族の離脱もあった[ 438] 。革命においてレーニンは帝国内の民族へも対処し、「ロシアの諸民族の権利宣言」では、民族の平等と主権、自決権、分離と独立国家の創設、民族の自由な発展を約束した[ 439] 。しかし、これはやがてすさまじい武力闘争をもたらすことになった[ 439] 。
ドイツは単独講和でロシアからウクライナを離し、パヴロ・スコロパツキー 将軍を支持し、反ボリシェヴィキの基地とした[ 438] 。
中央アジア でも1917年に反ボリシェヴィキのコーカンド自治政府 (コーカンド 共和国)が独立した(1918年2月に崩壊)[ 440] 。フェルガーナでは農民ゲリラのバスマチ(乞食)運動 が数年続き、赤軍に鎮圧された[ 440] 。また農民パルチザンの緑軍 も活動した[ 440] 。
1918年正月午後、レーニンが車に乗っていることは極秘だったにもかかわらず、銃撃をうけた[ 398] 。
レーニンは「何世紀にもわたる不公平」への報復、「搾取者への革命的裁き」として暴力を奨励した[ 398] 。レーニンによるテロルはチェカーが一手に握る以前からはじまっていた[ 398] 。レーニンは次のように宣言した[ 441] 。
より低い階級を抑圧し、搾取するためにブルジョワジーによって考案された倫理観と『人間性』の旧制度は、我々にとって存在しないし、できないのだ。
我々の倫理観は新しく、我々の人間性は絶対的である。
我々には、すべてが許されている。なぜなら、我々は世界で初めて、だれかを隷属化ないし抑圧するためではなく、万人をくびきから解放するために剣をとるからである。
血を流そうではないか。もしそれのみが海賊的旧世界の灰・白・黒の旗を深紅に変えることができるなら。
旧世界の完全かつ最終的な破壊のみが、古い卑劣感の復活から我々を救う。
— ウラジーミル・イリイチ・レーニン 1917年12月なかば、レーニンは、食料と富をためこんだ金持ちと怠け者と寄生虫に対する撲滅戦争をよびかけた[ 442] 。レーニンは、「実践のみが闘争の最善の方法を考案できる」とし、「ロシアの大地からすべての害虫、ろくでなしのノミ、ナンキンムシを除去しなければならない」と指令を出し、金持ち、仕事を怠ける労働者を投獄し、みせしめのために怠け者10人のうち1人を銃殺し、刑期をつとめた者には識別できるように黄色のチケットをわたした[ 442] 。「ブルジョワ」から奪った財産をプロレタリアに渡し、元ブルジョワを彼ら自身の食い扶持のために働かせるとエカチェリンブルク のボリシェヴィキ党員は煽り、帝政時代に資産を築いた「ブルジョワ」「金もち」は「旧人間」という烙印を押された[ 442] 。「旧人間」には、食料配給も少なく、パンの行列の最後尾に並ばされ、貴族の子孫のなかには餓死するのもいた[ 442] 。金持ちの住居は略奪され、彼らは街頭で襲撃され、日常的に暴行をうけた[ 442] 。
「人民法廷」の設置:テロルの代用機関としての司法制度[ 編集 ] 1918年2月21日、レーニンは「危機に立つ社会主義の祖国」という布告で反革命アジテーター、スパイ、投機人(不当利得者)、強盗(収奪者)、無頼の徒(ごろつき)の即決処刑を命じた[ 443] [ 444] [ 445] 。エスエル左派で、法務コミッサールであったアイザック・シュタインベルグがそうした苛酷なやり方は革命を破壊すると抗議すると、レーニンは嘲笑しながら、「ここに真の革命的な情念がある」「残虐な革命的テロルなくして勝利はない」と答えた[ 446] [ 445] 。シュテインベルクが「社会皆殺し委員部」を設立すればいい」と述べると、レーニンは「そうあるべきだが、そうはいえない」と答えた[ 447] 。
レーニンによる大テロルの第一歩は、「ブルジョワ法」を廃止して、既存の法を「革命的良心」に置き換えたことだった[ 447] 。革命ロシアは、法を法の外においた歴史上初の国家だったとパイプスはいう[ 447] 。こうしてボリシェヴィキ政府は、党の方針に背く個人は誰であれ処理できるようになり、「法に拘束されない統治」というレーニンのプロレタリア独裁 の定義が実行されていった[ 447] 。
すでに十月クーデター直後の1917年11月22日の布告でレーニンは、ほとんどの裁判所を解散させ、司法制度に関する職業を廃止していた[ 447] 。1918年3月、犯罪に対処するために地方の裁判所を人民法廷 に取って代えた[ 371] 。1918年11月には人民法廷の判事は、ロシア帝国法の参照を禁じられ、唯一の判断基準は「社会主義の正義」となり、判事になるための正規の法学履修も不要とされ、ロシアの国民は専門資格を持たない判事によってどこにも定められていない犯罪で裁かれていった[ 371] 。レーニンが一般犯罪に対して設置した「人民法廷」では、即興の裁判で、読み書きのできない者を含む12人の「選挙された」判事が、「革命的良心」を用いて裁かれた[ 448] 。訴訟は証拠主義ではなく、その進行具合に応じてでっちあげられ、判決は、自由に発言する群衆の雰囲気に迎合した[ 448] 。
国家犯罪に対しては「革命法廷」を設置したが、これはやがて消え、公開裁判は、チェカーが操る党員の三人体制(トロイカ) による非公開の10分の事情聴取にかわった[ 448] 。
レーニンは、人民法廷、公開裁判、即決処刑などの制度は搾取された階級のためのものゆえに実際的かつ道徳的に優れていると正当化した[ 448] 。レーニンは1922年にソビエトロシアの法務委員が刑法典を編纂したときに「法廷は、テロルを排除するのではなく、テロルを実体化し、合法化しなければならない」と指示しており、司法組織をテロルの代用機関にすることを意図していた[ 371] 。また、レーニンは判事が死刑判決を下すのをためらっていることにうんざりしていると記しており、秘密警察チェーカーに頼っていった[ 371] 。
こうしたボリシェヴィキの司法制度は、1922年から模範裁判(見せ物裁判)を聖職者や社会革命党員に対して実際に適用されていった。これはスターリンによってモスクワ裁判 でも大規模に展開されていった。
1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団 [ 449] がシベリア鉄道 で本国へ送還中反乱を起こした[ 450] 。
経緯は次のようなものだった。5-6万の捕虜であったチェコスロバキア軍団は反ドイツで反ハンガリーで社会主義であり、その時までチェコスロバキア軍団はロシア革命に共感していた[ 451] 。しかし、1918年5月14日、チェリャビンスク駅に到着したチェコスロバキア軍団が、オーストリア=ハンガリー軍の捕虜と口論の末、ハンガリー人を一人殺害した[ 452] 。ソビエトはチェコスロバキア人を逮捕したが、チェコスロバキア軍団の仲間が兵器庫を占拠して犯人の釈放を要求した[ 452] 。当時ソビエト・ロシアの陸海軍人民委員(軍部大臣に相当)に就任したばかりで権威を示そうとしたトロツキーはチェコスロバキア軍団に武器の引き渡しと撤退の中止を命じ、赤軍に入るか「労働大衆」のどちらかを選べ、さもないと強制収容所に入れるという最後通牒を発した[ 453] 。チェコスロバキア軍団はボリシェヴィキはドイツの圧力下で行動していると確信し、これを拒否し、フランスへ撤退できるようシベリア横断鉄道を支配した[ 453] 。
5月から6月にかけてチェコスロバキア軍団は鉄道沿いの都市を占領していった[ 453] 。東部で反乱したチェコスロバキア兵はウラル地方 のクルガン、ノヴォニコライエフスク、オムスク、サマーラを奪取し、ヴォルガの農民兵と合流した[ 454] 。中流ヴォルガ沿いの都市でチェコスロバキア軍団がボリシェヴィキを駆逐すると、ここを拠点としていたエスエルがサマラで、憲法制定会議委員会(コムーチェ)を結成し、ロシア唯一の政府を宣言した[ 453] 。5万人のチェコ部隊はフランス軍将校に指揮されていた[ 455] 。
チェコスロバキア軍団の反乱に先立つ1918年1月に英仏は日米にシベリア出兵 を要請していた[ 450] 。1918年3月以来、フランス・イギリス軍はムルマンスクに上陸、ついでアルハンゲリスク、夏にはウラジオストクに上陸した[ 455] 。
チェコスロバキア軍団の反乱が起こると7月にアメリカもチェコ軍救出として日本に共同出兵を提案、日本は8月2日に出兵を宣言した[ 450] 。アメリカ軍は7000、イギリス・フランス連合軍は5800、日本軍は協定を上回る7万2000の軍隊を派遣した[ 450] 。
日本軍はホルバート、グリゴリー・セミョーノフ らの反革命軍を援助し、東部シベリアを日本の勢力範囲にしようと企て、また西シベリアのオムスク に成立したアレクサンドル・コルチャーク 政権を支持した[ 450] 。セミョーノフはザバイカル共和国 を建国した。
その後、1919年末にコルチャーク政権も崩壊し、ソビエト政府は1920年初めまでに反革命軍の鎮圧に成功した[ 450] 。アメリカは1920年1月に、英仏軍は同年6月までに退去した[ 450] 。
しかし、日本は朝鮮 ・満州 (中国東北)への革命波及の防止とシベリア居留民の保護として東部シベリアの出兵を継続し、沿海州 のソビエト軍を武装解除して各都市を占領した[ 450] 。1920年2月から5月の尼港事件 で赤軍パルチザンは日本の軍人・民間人731人を含む4000人の住民を虐殺した[ 456] 。日本はアムール州からの撤兵を中止、この事件が解決するまで北樺太を保障占領すると声明した[ 450] 。1922年のワシントン会議 を経て、日本は1922年10月に撤兵した[ 450] 。日本は戦費約10億円を費やし、死者は3500人の死傷者を出した[ 450] 。
ボリシェビキの招集を拒否した軍の将校らは自前の軍事組織をつくっていく[ 455] 。50万の旧軍の残存兵は政治的に敵対する白軍 を結成した[ 455] 。
イギリス軍は白海 沿岸の都市を占領した。さらに旧軍の将校が各地で軍事行動を開始した。こうした反革命軍は、総称して白軍 と呼ばれたが、緑軍 のようにボリシェヴィキにも白軍にも与しない軍も存在した。白軍の有力な将帥としては、アントーン・デニーキン 、アレクサンドル・コルチャーク 、グリゴリー・セミョーノフ などが知られる。
チェコスロバキア軍団がサマーラ を占領した後、同地で社会革命党 員らが1918年6月に憲法制定議会議員委員会 (Комуч 、コムーチ)を樹立した。また、トムスク ではシベリア自治が模索され、1918年1月29日に社会革命党のジェルベル がシベリア共和国 を樹立したが、分裂した。1918年9月に、オムスクで憲法制定議会議員委員会とシベリア共和国が統合して、臨時全ロシア政府 となった。11月には陸軍・海軍相アレクサンドル・コルチャーク がクーデタを起こし、権力を掌握した。
1918年11月のオムスク事件が発生すると、エスエル左派とマルトフらメンシェヴィキ国際派はボリシェヴィキを支持するようになった[ 457] 。1919年2月、エスエルはボリシェヴィキと協定をむすび、ボリシェヴィキ体制への暴力による転覆をしないと約束し、1919年6月にデニーキンとコルチャーク政権に対するテロルを決意した[ 457] 。メンシェヴィキもボリシェヴィキと和睦し、エスエルとメンシェヴィキは追放されていたソビエトへの参加を許された[ 457] 。しかし、内戦が終わると、再び両党はボリシェヴィキから追放されることになる[ 457] 。
1918年10月1日、レーニンは国際的な労働者革命のために300万の軍隊編成を命じた[ 457] 。これは帝政時代の軍の二倍の規模だった[ 457] 。内戦終了時までに赤軍は兵士500万人を誇った[ 458] 。地方で赤軍は、名前だけの文民機関よりも実効的な行政機関となった。世界大戦での戦争と違って、小規模で単発的な交戦となる内戦において、赤軍での戦死率は、旧帝国軍よりはるかに低かった[ 458] 。
他方で白軍は分裂しており、指導者たちは互いに嫌いあい、戦略戦術にも大きな不一致があり、新兵をあつめる人口母集団も小さかっただけでなく、なによりも白軍は過去にとらわれていた[ 459] 。連合国からの支援は、民衆にとっては「外国からの介入」に見え、反感を感じさせ、白軍は兵卒を集めることに苦労した[ 458] 。また、また国内の非ロシア人も白軍の「一体不可分のロシア」という主張に魅力を感じなかった[ 458] 。農民たちは白軍が地主を復活させるのではないかとおそれ、赤軍を支持した[ 458] 。ロシア人の多くは、ボリシェヴィキを嫌ってはいたが、過去に戻ることをのぞんでいなかった[ 460] 。
二年半後、戦争と病気で飢餓で300万人の死者がでた[ 460] 。
なお、レーニンは、内戦は1917年10月25日(武装蜂起の日)にはじまったともと述べた[ 461] 。
ボリシェヴィキ政府はブレスト=リトフスク条約締結後に軍事人民委員となっていたトロツキーの下で赤軍 を創設して戦った。革命直後、50人の将軍をあつめ、さらに8000人以上の職業軍人が志願し、内戦では5万人以上が赤軍に参加した[ 462] 。
古典的マルクス主義では軍隊は労働者を抑圧し、革命を妨害するものと考えられてきたが、トロツキーは、訓練不足の労働者に頼ることはできないとして、帝政時代の将校によって訓練され指揮される新軍の創設を提案した[ 462] 。革命政権の軍について当初トロツキーは民兵や、人民の軍隊を考えていたが、結局は、世界の通常軍と同様の、正確な序列と指揮系統の規則に従う常備軍となった[ 463] 。多くの党員は赤軍の編成に反対したが、レーニンはこれを支持し、帝政時代の将校によって赤軍を設立した[ 462] 。レーニンにとって組織のモデルは軍隊であり、その語彙は軍隊用語から想を得て、党は軍を参考にして、中央集権、序列、規律を原則とした[ 464] 。トロツキーも軍の道徳の大原則を、勤労、規律、秩序の三つに要約した[ 465] 。
1918年5月のチェコスロバキア軍団の反乱、ウクライナの状況悪化に対して、トロツキーは、フランスに40人の軍事専門家派遣を依頼した[ 466] 。軍事人民委員部には軍事について素人のボリシェヴィキばかりだったが、やがて本職の人間が集まってきた[ 466] 。帝政軍は選挙の原則が導入されたことで解体させられたが、革命後もはや選挙の原則は忘れられ、将校の任命は権限体系に沿って上意下達の形で行われた[ 467] 。規律も革命の際には有罪とされたが、復活し、その峻厳な地位について議論されることは2度となかった[ 467] 。
1918年5月29日、ボリシェヴィキは労働者と鉱夫に総動員を公布した[ 453] 。トロツキーは大都市の21歳の労働者を招集し、兵役義務を復活させた[ 468] 。
1918年6月には、旧軍の全将校に対して強制的に赤軍への志願を義務づけた[ 468] 。皇帝軍は革命時には兵士から侮辱され、階級を剥奪されていたが、ふたたび新設の軍に加わるよう求められた[ 467] 。
1918年7月までに18歳から40歳の男子に兵役義務を課し、旧軍の26-31歳の将校はすべて赤軍への登録が義務づけられた[ 453] 。防衛参加の義務に従わないものには見せしめの処罰が行われ、脅迫と強制を用いていった[ 468] 。トロツキーは、兵士の家族を人質 にし、疑わしいことがあれば銃殺あるいは家族が逮捕されることになると脅し、テロルによって忠誠の維持をはかるとともに、「正当な理由のない退却」や「パニックの喚起」に対しても死刑を宣告し、レーニンもこれを支持した[ 469] 。のちに督戦隊 が編成された。トロツキーは1918年7月29日に、旧軍の将校に対して、裏切りを企てるものは即座に銃殺すると宣言した[ 470] 。1918年8月にもトロツキーは、不当な後退を行なった前線のコミッサールと指揮官や、脱走兵、命令の遂行を怠ったり、不満をのべた兵士などは、即座に処刑せよと命じた[ 471] 。トロツキーは、信頼できる共産主義者による「遮断分遣隊」を編成し、戦闘地域の後方で道路を遮断し、監視させた。こうした規律は白軍にはなかった[ 471] 。
こうして1918年夏までにソビエト国家は軍と警察の2本柱を復活させた[ 468] 。
赤軍には、帝政ロシア軍の将校75000人が編入され、前線指揮官の85%、軍指揮官の82%、師団指揮官の70%が帝政ロシア軍人だった[ 472] 。赤軍を創設したトロツキーは実際の軍事的な経験はなく、トロツキーの軍への貢献は、政治と軍との連係、政治的な監視、厳格な規律の導入にあった[ 473] 。内戦における赤軍の勝利は旧軍の将校たちの力によるものだった[ 472] 。
トロツキーと同じく実際の軍事的経験のないレーニンの軍事的貢献も、テロルによる脅迫だった[ 474] 。レーニンは、いかなる犠牲を払っても前線を維持するか、突撃して敵を壊滅するか、それとも革命を敗北させるのか迫り、民間人に対しても倦むことなくテロルで脅迫した[ 474] 。内戦で敗北をおそれたレーニンは、ますますテロルを要求した[ 475] 。1918年夏、レーニンはタタールスタンにいるトロツキーに、勇気を欠いた兵士には、裁判にかけ、銃殺される「極限の措置」をとることを承知させるべきだと伝えた[ 476] 。自分が狙撃された1918年8月30日の数時間前には、戦果が乏しい東部司令官のヴァツェーチスを処刑するのも悪くないとトロツキーに伝えた[ 477] 。1918年9月にレーニンはサラトフの指導者に「陰謀をたくらむ連中とぐらつく連中」を「ばかげた面倒な手続きなしに銃殺せよ」と命じ、数日後には石油精製所のあるバクー で、もし敵の攻勢があればバクーを完全に焼き払えと命じた[ 475] 。一ヶ月後カザン が包囲されるとレーニンは「無慈悲な壊滅が不可欠だ」と命じた[ 475] 。またレーニンは、叛逆の事例が増加しているので、「ブルジョワジーと将校の家族からの人質確保を加速せよ」と命じ、数日後には、職務の欠勤や動員逃れは銃殺せよと命じた[ 475] 。レーニンは、ラトビア やエストニア への軍事的制裁では、官僚や富裕層を百人から千人吊るせと命じ、1920年2月のマイコプ とグロズヌイの油田のサボタージュに対しては「全住民を殺戮する」と脅した[ 477] 。
トロツキーは赤軍 に、敵を容赦無く鎮圧し、見せしめのための処刑をどんどんやれと指令し、捕虜となった白軍兵士、将校、農民は銃殺され、軍は残忍な行為を続けた[ 436] 。1918年秋には赤軍は100万を擁した[ 436] 。しかし、赤軍兵士には労働者より高い報酬と口糧が支払われため、やがて新体制の財政を圧迫していった[ 470] 。
他方、1918年10月から1919年4月のあいだに100万人が徴兵に応召せず、1919年6月から1920年6月までの赤軍の脱走兵は260万人いた[ 477] 。脱走兵の大半はもとに戻されたが、1919年後半には612人の軍人が処刑された[ 477] 。1921年に内戦が終わり、農民ゲリラとの戦いの際も、4337人が処刑された[ 477] 。トロツキーは「抑圧なしに軍は作れない。将校に死刑を課す裁量なくして、人間を死に赴かせることはできない」とのべ、将校の家族を人質にとり、疑わしい行動があれば即座に処刑した[ 477] 。
チェコ軍団の叛乱と赤軍編成の際にトロツキーは強制収容所 の設置を提案した[ 478] 。1918年8月にレーニンとトロツキーは強制収容所の恒常的設置を布告した[ 478] 。1918年9月5日の赤色テロル布告では「階級の敵を強制収容所に隔離させることにより、彼らからソヴェト共和国を守る」と規定した[ 478] 。
1919年にはすべての県市に300人以上を収容できる施設の設置が命じられ、収容されたものには施設の運営費をまかなうために強制労働 が課せられた[ 478] 。収容所からの逃亡は厳しく処罰され、そのために「集団責任」制度が導入され、囚人は互いに生活を監視しあった[ 479] 。
スターリン時代の1926年 には刑法58条で「反革命罪 」が規定され、「反革命分子」「敵階級 」(クラーク 、資本家 、貴族 など)とされた人々がラーゲリ へ連行された。1920年末にはソビエトロシアには84の強制収容所があり、5万人の囚人があり、3年後には315の強制収容所の7万人が収容された[ 480] 。パイプスによれば、強制収容所はソビエトロシアの全体主義 体制の中枢をなした[ 480] 。
第二次世界大戦 中には戦争捕虜 や、敵対民族(フィンランド人 、ポーランド人 、ドイツ人 、エストニア人 、ラトビア人 、リトアニア人 、ウクライナ人 、モルダビア人 、ユダヤ人 、テュルク系民族 など)を収容し強制労働 に従事させた。第二次世界大戦後には、独ソ戦 で獲得したドイツ 及び周辺枢軸国 の捕虜(ドイツ人追放 )や、対日参戦 で獲得した日本人捕虜がシベリア の収容所に収容された(シベリア抑留 )。1930年代から1950年代にかけての強制移送 では全体で少なくとも600万人[ 481] [ 482] [ 483] から2500万人[ 484] 、または3675万人[ 485] が収容され、約100〜150万人が殺害されたとされる[ 486] 。なかでもクリミア・タタール人追放 、チェチェン人 、イングーシ人 の強制収容は、欧州議会 [ 487] [ 488] や、多くの研究者によって[ 489] [ 490] [ 491] [ 492] [ 493] [ 494] [ 495] [ 496] ジェノサイド に該当するとみなされている。ジェノサイド条約 の発起人であるポーランド系ユダヤ人弁護士ラファエル・レムキン は、ソビエト共産党によるチェチェン人、イングーシ人、ヴォルガ・ドイツ人 、クリミア・タタール人、カルムイク人 、カラチャイ人 の大量追放をジェノサイドとみなした[ 497] 。
強制収容所は19世紀から20世紀にかけての植民地戦争において出現しており、キューバ ではスペイン人、フィリピン ではアメリカ人、南アフリカ ではイギリス人らが設置した[ 478] 。これらの強制収容所の設置の目的は住民をゲリラ兵から隔離することで、これは緊急措置として構想されており、軍事作戦の終了とともに閉鎖された[ 478] 。しかし、ソビエト・ロシア の強制収容所は次のような異なる性格をもっていた。
外国の敵に対してでなく、国内の敵(反対者)を対象とし、 恒常的に設置され、 ソビエト体制に奴隷労働を供給し、重要な経済機能を果たした[ 478] 。 アンジェイ・カミンスキーとパイプスは、このような強制収容所の新しい形式を創設したのはレーニンとトロツキーであり、スターリンはこれを技術的に組織化したにすぎないと指摘する[ 480] 。また、ナチスもボリシェヴィキの強制収容所に雛形を見出しており、1921年3月にヒトラーは「ユダヤ人によるドイツ国民の頽廃を、その煽動者を強制収容所に閉じ込めることによって阻止する」と書き[ 498] 、1921年12月8日にヒトラーが党内で権力を掌握すると、強制収容所を設置すると表明した[ 480] 。その後、ナチス・ドイツ は1933年のドイツ国民と国家を保護するための大統領令 で「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」と宣告し、ドイツ共産党員をはじめとする「危険分子」の収容を開始し、1938年の水晶の夜 事件以後はユダヤ人 の収容を開始し、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 などにおいて第二次世界大戦 中にユダヤ人ら数百万人が殺害された[ 499] 。
食料危機と「穀物のための戦争」・クラーク(富農)との戦争[ 編集 ] ロシアでは、工業労働者は全人口の2%なのに対して、農民は75-82%を占めていた[ 500] 。しかし、革命で農民が得たものは取るに足らないものだった。農民は農地の再分配で5-15ヘクタールを獲得できると予想していたが、実際には平均0.4ヘクタール、つまり一人あたり耕地1エーカー程度で、土地は不均等に分配された[ 501] 。また、農村共同体 では、革命で得るところがあったミールもあったが、ミールの53%は革命で何も得るものはなかった[ 501] [ 注 4] 。農民の貯蓄は革命前には120-130ルーブルに及んだが、ボリシェヴィキのインフレ政策によって事実上なくなり、農民はボリシェヴィキ革命によって土地も現金も失うことになった[ 502] 。
さらに、マルクス主義では、農民はプロレタリアに敵対する小ブルジョア [ 500] 、社会主義を妨害する半封建的な「遅れた階級」とみなしてきた[ 503] 。レーニンは農民が保守的な勢力になり、反革命の防波堤になることを恐れて、画策した[ 504] 。都市インテリの集団だったボリシェヴィキは、農民は、迷信深く無教育であり、自分たちを支持することはなく[ 503] 、土地所有の本能をもっており、資本主義的傾向に支配されていると敵視した[ 505] 。
ボリシェヴィキによる強制徴発と富農撲滅運動[ 編集 ] 大戦中から食糧不足が続き、はやくも10月革命直後から、レーニンはクロンシュタットの水兵と労働者からなる分遣隊を農村に派遣し、「鉄拳」徴発 を繰り広げた[ 506] 。
ボリシェヴィキによる強制徴発に対して農民は憤激し、農民代議員全ロシア大会(1917年5月に設置)とエスエル党を当てにした[ 507] 。しかし、エスエルを支持する農民層が農民代表大会で10月クーデターを非難することは容易に予想できたので、ボリシェヴィキは機先を制して左派エスエルと交渉した[ 321] 。1917年11月10日の臨時大会で農民代議員会議は、エスエル左派に支配され、議長はマリア・スピリドーノワ となり、ボリシェヴィキとの連立政府案を支持し、中央執行委員会へ108人の農村代表者を送り込んだ[ 507] 。その後、1918年1月13日の第3回農民代議員会議[ 508] でスピリドーノワは、憲法制定会議に執着していたのは誤りだったとのべ、憲法制定議会を新体制の最高立法機関とする決議を無効とし、さらに、農民ソビエトと労働者兵士ソビエトの合同を可決、ボリシェヴィキの土地の社会化にも賛同した[ 509] [ 321] 。ボリシェヴィキの策謀による農民ソビエトと労兵ソビエトとの合同は、全国の農民を代表する機関の消滅を意味した[ 510] 。ボリシェヴィキと左派エスエルは自分たちの代表を唯一の農民の代弁者と宣言した[ 321] 。ボリシェヴィキは左派エスエルに保安警察の副議長を割り当てるなどし、感謝を示した[ 335] 。
ボリシェヴィキ政権は、「アジテーター」「コミッサール」「インストラクター」といった名前で農村での徴発や指導のために労働者と兵士が農村に行くことを奨励した[ 511] 。農民たちはすでに「サボタージュ分子」「投機家」といったレッテルを貼られており、「監察官」たちは、農民を調査し、監視するさいに、「使命をおびたプロレタリア」という自己の権威を濫用し、宣伝と収奪をおこなった[ 512] 。これにより農村ではボリシェヴィキ政権への深い不信が作り出された[ 513] 。
食糧危機は戦争の影響による輸送システムの崩壊と凶作によっておこったが、強制と残忍なテロルというレーニンの懲罰的な政策が事態を悪化させた[ 514] 。レーニンは、クラーク (富裕農民) が穀物を貯め込み、わざと都市を飢えさせていると主張し、食糧危機は農民の責任であると責めを負わせた[ 514] 。しかし、レーニンのいう「富裕農民」は実際にはほとんどおらず、相当な土地所有者も少数で、金を貸したり、家畜や鍬を所有する農民さえも少数だった[ 514] 。
食料不足とインフレーション は1918年に深刻化した[ 503] 。田舎には食料があると考えた数百万の都市民が都市を離れ、ペトログラードは18か月間で人口が三分の一に減少した[ 515] 。労働者は、レーニンの制限つき国有化に従わず、企業を乗っ取ったが、労働者が経営者となっても、失業は増加し、物価も一ヶ月で30%上昇した[ 516] 。ブハーリンは貨幣経済の時代は終わったと宣言した[ 516] 。ボリシェヴィキは帝政時代の外国負債を無化したために、海外の投資家に助けを求めることもできなかった[ 516] 。帰国していた亡命ロシア人のエマ・ゴールドマン は、ペトログラードが瓦礫ばかりで墓地のようで、市民たちが一切れのパンを探し求め、生きた屍のようにうろついていたのを目撃している[ 517] 。
レーニンは、農業集団化によって農民を国家から雇用された階級にすること、また、農産物の強制徴発 と取引の独占による穀物供給の国家統制、そして農村での共産主義権力の浸透を目標とした[ 501] 。これは農村への宣戦布告を意味した[ 501] 。
レーニンは強制とテロルによる解答を決断した[ 518] 。残された道は暴力による解決のみで、その標的は農村とされ、都市に食料を提供するためにすべての収穫物の供出を農民に強制した[ 516] 。
1918年、ボリシェヴィキは穀物の強制徴発 を開始し、武装した食料部隊が「余剰である」とみなすものはすべて取り上げていった[ 519] 。この1918年からの「農村に対する戦い」は、ボリシェヴィキによるロシア全土の征服において決定的な局面となった[ 501] 。
レーニンは1918年1月14日会議で、10-15人の分遣隊を数千組つくり、農村部に投入し、要求に従わない農民を銃殺する権限を与えると演説した[ 520] 。この演説を聞いた党員は、ここまでの組織的テロリズムは想定しておらず、戦慄した[ 520] 。1月10-18日の第3回全ロシアソビエト大会では、レーニン案よりも幾分穏やかなものとなり、食料調達関連労働者ソビエト大会に35人の委員のうち21人をボリシェヴィキとする執行部をおき、ソヴナルコムに対して直接責任を負うとされた[ 520] 。2月15日にトロツキーが食料調達部長に任命されたがこの機関は実際には機能しなかった[ 520] 。
1918年1月23日に、レーニンは地方派遣プロパガンダ部隊にクラーク (富裕農民) と貪欲な「サメ」が隠し持っている穀物を吐き出させなければならないと以下のように指令した[ 521] 。
プロパガンダ部隊は、地方の勤労農民を村のクラーク(富農)から解放しなければならない。(略)自分の利益のために混乱を繰り広げる犯罪分子と闘わなければならない。(略)
ロシアは穀物を十分に生産している。それを公平に分配しなければならない。しかし、ブルジョアジー、官僚、破壊工作員はプロパガンダ部隊に敵対している。資本家と富農の手に握られていた国富を共有することになれば、自分たちが一掃されることを知っているからだ。彼らは、無知な兵士を買収しワインや酒類の倉庫を襲撃させ、鉄道職員に貨物を止めさせ、首都へ向かう穀物船を止めさせている。(略) 地方では、ソビエト政権を覆そうとするブルジョア農民、富農に出くわすだろう。しかし、大衆はプロパガンダ部隊に味方する。(略) 私たちは、裕福な農民に土地を持たせるために、土地所有者から土地を奪ったのではない。それは貧しい人々のためである。また、農具や機械は、裕福な農民の手に残してはならず、ソビエト権力によって勤労農民に割り当てられる。(略) この困難な課題には、すべての農民が協力するだろう。村民に、貪欲なクラークとサメどもを締め上げなければならないことを説明しなければならない。労働者が労働の成果を享受できるよう、生産物の公平な分配が必要だ。公共財に貪欲な手を伸ばしてくる富豪1人に労働者10人が立ち向かわなければならない。(略)
対外戦争は終わった。今、私たちの前にあるのは内戦だ。ブルジョアジーは、略奪品を懐にしまっている。人民はサメを探し出し、吐き出させなければならない。これが地方における諸君の任務だ。奴らの隠れ家を攻撃しなければならない。警察は既に死んでいる。人民自身が行わなければならない。彼らと戦うには、他に方法はない。
— レーニン「地方派遣プロパガンダ部隊への演説(抄訳)」1918年1月23日[ 521] こうして、土地のない貧農と都市の労働者からなる武装部隊が、結成され、農村の「ブルジョワ」である「クラーク」への攻撃が宣言された[ 522] 。レーニンは、貧農(貧しい農民)のカテゴリーを1500万人(75%)、中農(中位の農民)のカテゴリーを300万人(15%)、富農(富裕の農民)のカテゴリーを200万人(10%)と設定した[ 522] 。しかし実際の統計では、貧農は4%以下、富農は2%で、のこり94%が自営農民の中農であった[ 522] 。この結果、徴発に抵抗するものや、敵意をみせた農民は誰であれ「クラーク」へ分類された[ 522] 。
ヤーコフ・スヴェルドロフ 中央執行委員ヤーコフ・スヴェルドロフ は農村に二つの陣営をつくり、クラーク (裕福な農家) に対して農民を立ち上がらせ、内戦をおこせば革命に成功すると宣言した[ 516] [ 注 5] 。しかし、現実には、ロシアの農民の大部分は、富農でも貧農でもなく中農であり、したがって農民の大部分は「クラーク」とされた[ 524] 。
1918年3月に国家経済最高評議会(VSNKh) に就任したアレクセイ・ルイコフ は、農民出身であり、農村部への戦争を敢行する気にはなれなかった[ 525] 。そこで中央集権化と計画化の熱烈な賛同者だったニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ミリューチン とユーリー・ラリーン が責任者になった[ 526] 。ラリーンは工業の集中やドイツの戦時経済を賛美しており、狂信的な「左旋回」の考えを主張し、「ロシアのサン・ジュスト」とよばれた[ 526] 。
1918年初夏、「穀物のための戦い」を発動し、「富農は、ソビエト政府の凶暴な敵である。これらの吸血鬼は人民の飢餓によって裕福になった。これらの蜘蛛は労働者によって肥え太った。これらのヒルは労働者の血を吸い、都市労働者が飢える一方で、いっそう豊かになった。クラークに無慈悲な戦争を!彼ら全員に死を!」と、飢饉の責めを負わせた[ 518] 。
革命で貯蓄も土地も失った農民は生活のために農産物を自分で販売していた[ 502] 。都市で消費される食料の大部分は、不法な自由市場(闇市) で供給されたが、これは生産物を直接、消費者に販売する農民の「担ぎ屋」によって供給された[ 527] 。政府が私的商業を厳格に規制すれば都市住民が飢え死にするような状況であったため、当初政府は闇市を黙認した[ 527] 。レーニンは穀物の固定相場を1916年の価格に決定したが、インフレーションで価格は7倍に上昇していた[ 518] 。1918年8月の穀物の公定価格が1ルーブル/kgだったのに対して、ペトログラードの自由市場 では26ルーブル/kgと26倍になった[ 502] 。これは肉など他の品目も同様であったため、政府は1919年1月にこれらを統制品 にした[ 519] 。農民が固定価格(公定価格)で売るのを拒否したり、備蓄や種子を隠したりして抵抗すると、レーニンは武力を用いた[ 518] 。
1918年5月13日の布告で、食料人民委員を設置し、労働者武装部隊と赤衛兵を投入し、「無慈悲な戦争を遂行する」と宣言した[ 518] 。その布告では「農民ブルジョワジー」は国から奪った莫大な金を貯め込みながら、政府には価格上乗せを威嚇して要求し、投機屋に途方も無い価格で農作物を売却しているとし、「村の富農と豊かな農民の貪欲な頑迷さに決着をつけなければならない。残る道はただ一つ。貧者に対する穀物所有者の暴力に対し、穀物退蔵者に対する暴力で応えることである。次の収穫まで、農地への播種と家族の養育に必要な量を超える穀物と、1プードも農民の手に残してはならない」、また、要求された量が出せなければ現行犯で逮捕され、投機屋はその場で処刑されると命じられた[ 528] 。ボリシェヴィキの農村に関する布告は、エスエルを支持する農民の壊滅、共産主義者による農民ソビエトの形成、都市と軍隊のための穀物の徴発を目的としていた[ 522] 。当時、農村は共産党の影響外にあり、党の支部である細胞も農村ソビエトもなかったため、ボリシェヴィキは徴発による農村征服を見込んだ[ 519] 。
1918年6月11日、農村での階級闘争を実行する機関として貧農委員会(コムペド) が設立され、クラークの決定的服従をめざした[ 524] 。やがて貧農委員会は、農民ジェノサイド をもたらす恐怖政治の代理機関となった[ 524] 。貧農委員会は、報奨として穀物を配給されたが、はばかることなくそれを売りさばいた[ 529] 。自分より裕福な者から略奪せよと命じられた貧農は、暴力的な徴発を行い、それに抵抗する中農との大乱闘をもたらした[ 529] 。農村部に到着した労働者分遣隊は、反抗する農民はだれであれ射殺し続けた[ 529] 。1918年には食料調達委員会(ナルコムプロード) 、食料調達軍(プロダルーミヤ)、労働者の食料調達旅団も編成された[ 505] 。
布告が出てから二ヶ月間で、徴発隊が2万村落以上に派遣され、部隊は二、三丁の機関銃で武装した75人の隊員でなっており、彼らは村を包囲し、穀物の引き渡しを命じた[ 530] 。徴発隊は、「しかるべき」量の穀物が見つかるまで、「容疑者」を拷問した。南部の黒土地帯での徴発を目撃したボリシェヴィキの当局者は、収奪の様子は中世の審判のようであり、農民を裸にし、地面にひずまかせて、鞭を打ったり、殴ったり、殺したと記している[ 530] 。レーニンは穀物を引き渡さない農民の銃殺を主張していたが、食料人民委員のアレクサンドル・ツュルパとトロツキーはもっと和らげるべきだと忠告し、ジェルジンスキーでさえも「穀物のための戦争」は苛酷すぎると警告した[ 531] 。
しかしレーニンはこうした忠告を意に介さず、ペンザ蜂起におけるクラーク処刑命令を8月23日に出した[ 532] 。レーニンは1918年8月11日、ペンザでの農民の反抗に対して、躊躇なく、クラークを100人以上誰からも見えるように縛り首にせよと命じ、その名前を晒し、彼らの小麦をすべて押収し、人質を取れと命じた[ 533] [ 534] 。同様の命令はいくつも出された[ 535] 。8月29日、クラーク処刑の報告を受けていないレーニンは激怒し、「諸君の無為は犯罪的である」と告げた[ 532] 。
抵抗する農民に逆上し、農民射殺を部隊に命じたレーニンは1918年8月、農民への「最後の決定的な戦い」として次のように宣言した[ 536] 。
クラークは、狂ったようにソヴェト権力を毛嫌いし、何十万という労働者の息を止め、切り刻もうとしている。クラークは、最も汚らしい、最も粗野な、最も野蛮な搾取者である。これらの生き血をすする奴は戦争のなかで富裕になった。これらの蜘蛛は、戦争によって窮乏した農民、飢えた労働者を犠牲にして肥え太ってきた。これらの蛭は、勤労者の血を吸ってきたが、彼らが富裕になればばるだけ、都市と工場で労働者はそれだけ一層、飢えることになった。これらの吸血鬼は、何度も貧しい農民を奴隷の状態におきながら、地主の土地を自らの手中に集めてきたし、集め続けている。これらのクラークに対して容赦のない戦いを!彼らの死を!
— レーニン,1918年8月[ 536] 3週間後、レーニンはクレスチンスキーにテロルを準備するための緊急委員会の設立の意思を語り、こうしてロシアでは前例のない国家テロルが展開した[ 535] 。
レーニンは「穀物のための戦争」は農村ロシアを平定するがゆえに正当化されるとし、これがプロレタリア独裁の意味だとのべた[ 537] 。さらにレーニンは農村の金持ちから20-30人の人質をとることを宣言する布告を出そうとしたが、食料人民委員のアレクサンドル・ツュルパが反対した[ 537] 。しかし、レーニンは「わたしが提案しているのは、人質を「とる」ことではなく、「指名する」ことだとして、彼らは裕福なのだから命をかける責任があると反論した[ 537] 。
スターリンは1918年6月、ツァリーツィン(のちのスターリングラード)へ派遣され、反革命派の疑いがあるものを追放した。レーニンは「無慈悲であれ」とスターリンに打電し、スターリンは「我々の手が震えることはないと信頼されたい」と返電した[ 537] 。
1918年10月、現物課税が布告され、1919年1月には代償なき徴発が布告され、農民はこれに抵抗した[ 535] 。1919年2月国が所有する土地の利用は集団的なものに限定され、農民は共同体(コルホーズ)や国営農場(ソホーズ)に入らせられたが、これに抵抗する農民もおおくいた[ 535] 。
75000人の兵士と、5万人の武装市民(民兵 )によって編成された徴発部隊が、食料生産者と戦った[ 536] 。農奴制 においてさえ農民が生産したものはその人の所有物であったので、こうした徴発=収奪はロシア史上初のことだった[ 536] 。歴史家ウラジーミル・ブローフキンは、この「農村に対する戦い」は白軍との戦闘をはるかに凌ぐものであったとする[ 536] 。1918年だけで少なくとも3700人の村人が殺害され、まるごと焼き払われた村落もあった[ 532] 。パイプスによれば、1918年の245件の暴動で、1821人の農民と875人のボリシェヴィキ党員が戦闘で死亡し、さらに2431人の農民が処刑された[ 536] 。この資料によれば、1918年で5252人の農民が犠牲になった。
しかし、こうした農村への「無慈悲な戦争」には効果がないことがやがてわかってきた。徴発では追加的な穀物が得られなかった[ 537] 。貧農委員会は農民に近すぎるとして1918年末には廃止され、農民との戦争は、労働者分遣隊、軍の分遣隊、最終的には軍に委ねられた[ 538] 。軍は徴発したものを自分の懐にいれ、暴動が頻発し、赤軍の脱走兵と飢えた労働者の一部は農民の味方につき、戦闘となった[ 538] 。
また、ボリシェヴィキの農村分裂作戦は効果がなかった[ 539] 。農民は農村ソビエトの設立にも抵抗し、行政上のポストにはエスエル支持者を選出した[ 539] 。また、農民は徴発を嫌がり、あるいは敵(富農)として扱われないように、農耕面積(小麦の種まき面積)を縮少していった[ 539] [ 540] 。1913年の作付け面積を100とすると、1919年には85%、1920年末には60%になり、また1913年の物価指数を100とすると、1918年には1285に、1919年7月には10000になった[ 540] 。1913年と比較して、面積あたりの収穫は30%減少し、穀物生産も全体で戦前の60%に減った[ 539] 。ここに悪天候が加われば、飢饉になるのは当然であった[ 539] 。
ブハーリンは貨幣を放棄したほうがいいと狂乱物価と物々交換を歓迎したが、工場も閉鎖し、労働者も逃亡し、1917年には300万いた労働者は、1920年はじめには半減した[ 540] 。1918年4月には、商工業の企業の商取引が禁止され、ついで遺産相続も禁止され、私有地は消滅した[ 540] 。
1920年、トロツキーは、農民は工業製品を買えないなら生産してもなんの得にもならないと考えるので、徴発には効果がなく、現物納入税に代えることを提案したが、レーニンは徴発を継続した[ 538] 。さらにトロツキーは1920年下半期、暴力と徴発の停止、農民との協調をもとめた[ 538] 。しかし食料調達委員会は、農民の反抗には報復して反撃せよ、村を焼き、反抗する農民を処刑し、その他のものに抵抗を思いとどまらせるために家族を人質にとり処刑せよと決定し、トロツキーもこれに同調した[ 541] 。
飢饉は、ボリシェヴィキが、シベリア、北カフカース、ウクライナでの内戦で勝利し、そこから大量の穀物を獲得できたことでなんとかしのぐことができた[ 539] 。
レーニンは1918年12月、「社会主義の最大の障害」となってきた「ブルジョワ」農民問題は解決できたと宣言し、これは十月革命以上に大きな意義を持つと述べたが、これは誇張であった[ 542] 。農民の抵抗は続き、農村への戦いはスターリンによって引き継がれていった[ 542] 。スターリンは農業集団化 と富農撲滅運動を継承し、1929年には「富農の絶滅 」を宣言した。1932年にはウクライナ でホロドモール と呼ばれる人為的な飢饉を起こし、少なくとも400万から600万人が死亡した[ 543] 。
1920年5月頃、イギリスの哲学者で労働党員 だったバートランド・ラッセル が訪露し、レーニンと会見した。農村政策に話題がおよぶと、レーニンは「貧しい農民を富裕農民と敵対させたら、彼らは富裕農民を木に吊るしましたよ、ハッハッハッ!」と哄笑 し、ラッセルを戦慄させた[ 544] 。ラッセルは帰国後、レーニンらを理論的に徹底的に批判する著書『ボリシェビキの実践と理論』を刊行した[ 545] 。
1920年8月から大規模なタンボフの農民反乱 が起き、1922年まで続いた。
農業の専門家は野蛮な没収よりも、税制で効果的に穀物を獲得する方法があると提言し、これは1921年3月現物農業税金の導入によって実現されたが、レーニンは頑なに拒み続けた[ 542] 。レーニンは政治的な理由から、どんな犠牲を払っても農村を制圧し、都市に対するボリシェヴィキの支配を農村から掘り崩されることを極力防ごうとしていたためであった[ 542] 。
農村のボリシェヴィキ化は、十年後にスターリンの集団化 によって成し遂げられる[ 542] 。海図 にスターリンの航路 を記したのはレーニンだった[ 542] 。
社会革命党(エスエル) は憲法制定会議をよびかけてきたが、レーニンによって暴力的に崩壊させられて以来、テロリズムによる戦いを志向していた[ 546] 。
社会革命党左派(エスエル左派、左翼社会革命党) の指導者マリア・スピリドーノワ は、レーニン政権の連立与党になっていたが、誤りにきづき、1918年3月以降、連立から離反しはじめた[ 547] 。スピリドーノワはこれまで獄中で衛兵に数回レイプされ、恐れを知らない、知的な弁士であるだけでなく、21歳の時には警官を一人殺害してもいる[ 548] 。スピリドーノワは、レーニンによるブレスト=リトフスク条約の締結をロシアへの屈辱だと反対し、さらに、ボリシェヴィキによる農民との戦争に怒り、レーニンは1906年1月のタンボフで農民を殺害したガヴリール・ルジェノフスキーと変わらない悪人であると批判し、農民を守ると宣言した[ 549] 。1918年6月、エスエル左派は、赤軍とチェカーの即時解体と農村における徴発部隊の廃止を要求したが、レーニンは尊大に無視した[ 546] 。
1918年6月20日、エスエルのテロリストグリゴリー・イヴァーノヴィチ・セミョーノフ が、連立政府に断固反対していたペトログラード市プロパガンダ部門長フォロダルスキー(ヴォロダルスキー) を殺害した[ 550] [ 549] 。レーニンは怒り、社会革命党は襲撃された[ 549] 。
エスエル左派はボリシェヴィキがケレンスキーのように革命を裏切ったとみて、革命を再生させるためにロシアとドイツとの戦争を再び引き起こす画策をはじめた[ 551] 。1918年7月6日から7日にかけてエスエル左派の蜂起 が起きた。7月6日、スピリドーノワの指揮で、チェーカー分遣隊のヤーコフ・ブリュムキンによって、ドイツ大使ヴィルヘルム・ミルバッハ が殺害された[ 550] [ 549] 。殺害現場には偽造したチェカーの文書を残した[ 551] 。これはエスエル左派を支持する部隊への合図であり、これに呼応した部隊は市の要衝を占拠した[ 552] 。レーニンははじめチェカーに裏切られたと考え、チェカーの解散を命じたがすぐに撤回した[ 552] 。エスエル左派は、ジェルジンスキーも拉致し、社会革命党本部に監禁した[ 549] 。さらにモスクワ中央郵便局を占拠し、政府は奪取されたとして、レーニン、トロツキー、スヴェルドロフの電報送信停止を命じた[ 549] 。ボリシェヴィキはモスクワに赤衛兵も配備していなかった。蜂起には赤軍司令官だったミハイル・ムラヴィヨフ も合流した[ 549] 。
翌日、トロツキーが700人のラトヴィア兵をあつめ、スピリドーノワ本部を急襲し、郵便局を奪還し人質を解放し、何百人のエスエル左派をモスクワなどで逮捕していった[ 553] [ 552] 。社会革命党は降伏し、その後数週間で、200人が処刑され[ 552] 、600人が投獄された[ 553] 。スピリドーノワは一年投獄され、その後精神病院に送られ、再び政治に関わらないという条件で1921年に釈放された[ 553] 。
1918年8月30日、憲法会議で他党議員を追放し、チェカーとして恐怖政治を組織したペトログラード・チェーカー議長モイセイ・ウリツキー が暗殺された[ 550] 。人民社会党(NSP) 党員でケレンスキー支持者の詩人レオニード・カンネギセル による犯行だった。
フォロダルスキーとウリツキーは社会から憎まれており、二人の死に憤激したのはボリシェヴィキだけだった[ 550] 。エスエルはさらに電信局を奪取し、首藤の住民に蜂起をよびかける[ 550] 。
ボリス・サヴィンコフ 元社会革命党戦闘団団長として要人 の暗殺計画を計画し、臨時政府で陸軍次官を務めたボリス・サヴィンコフ は1917年末から1918年3月にかけて、祖国と自由の防衛連合 を設立した。サヴィンコフは白軍のミハイル・アレクセーエフ 将軍と交渉し、5000人の将校からなる部隊をつくった[ 552] 。1918年5月には将校に捨てられた情婦がチェカーに密告し、100人のメンバーが逮捕され処刑されてもいる[ 554] 。
祖国と自由の防衛連合は、エスエル左派の蜂起と同日の1918年7月6日から21日にかけて、ヤロスラヴリ で蜂起した[ 552] 。この蜂起には聖職者も協力した。白軍は工場や教会、修道院を拠点とし、赤衛軍に向けて機関銃射撃が行われた[ 555] 。聖職者たちも白軍を支援し、修道士が機関銃手を務めたともされる[ 555] 。ヤロスラヴリ では蜂起以前より、聖職者がボリシェヴィキ権力への反抗を開始していた。1918年1月17日には聖職者と信徒たちがデモを行い、1月22日には、デモ隊がボリシェヴィキの労働者を殴打しようとしたため、ボリシェヴィキの分遣隊によって解散させられた[ 555] 。
1918年7月14日付プラウダ は、ヤロスラヴリでは白軍によってプロレタリア軍の勇敢な3人の戦士たちの尊い命が奪われた。我々は報復として、司祭、将校、銀行家、製造業者、修道士、商人といった白軍の「爬虫類や寄生虫」を何百匹も無慈悲に駆除していくとのべ、1918年7月4日-10日の第五回全ロシア・ソビエト会議 での決議「ソビエト・ロシア は、人民の敵のあらゆる犯罪に対し、ブルジョアジーに対する大量テロで対抗しなければならない」を引用して報じた[ 556] 。北部鉄道委員長I・ミロノフは、教会は「反革命の要塞」であり破壊しなければならないと述べ、多くの歴史ある教会が破壊された[ 555] 。
7月8日、祖国と自由の防衛連合は、ルイビンスク やムーロム でも叛乱を起こした。ムーロムの聖職者、地元の商人、知識人らは白軍を支援した[ 555] 。
しかし、いずれも赤軍に鎮圧された。祖国と自由の防衛連合は約600人が死亡した。350人の将校が処刑され、赤軍によって鎮圧された[ 554] 。サヴィンコフは逃亡するが、1924年にチェーカーに逮捕された。サヴィンコフは獄中で自殺したと発表されたが、歴史学者パイプスはおそらく国家政治保安部GPU によって殺害されたとする[ 554] 。
この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁 を強めた。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化された。レーニンは権力掌握後の1917年10月末に秘密警察のチェーカー を創設した[ 557] 。チェーカーは裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられた。チェーカーは、白軍よりも、ボリシェヴィキ独裁に不満を持つ他の社会主義政党を撃退することが目的であり、メンシェビキ と社会革命党 がソヴィエトで多数を占めるようになると、レーニンはチェーカーを使って「プチブル侵入者」としてこれらを一掃し、信頼できるボリシェヴィキをその後釜に据えた[ 558] 。
1904年の皇帝一家。左から第二皇女タチアナ 、皇后アレクサンドラ 、皇太子アレクセイ 、皇帝ニコライ2世、第一皇女オリガ 、下段左から第三皇女マリア 、第四皇女アナスタシア 。全員がボリシェヴィキによって殺害された。 ロマノフ一家が殺された イパチェフ館 の地下室アラパエフスク 近郊の鉱山で殺害されたエリザヴェータ・フョードロヴナ 一方、退位後監禁されていたニコライ2世 とその家族は、1918年 7月17日 、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺された。裁判もなく、公開処刑でもなく、ロマノフ一家は密室で秘密裏に殺害された[ 559] 。チェカーのメンバーでウラル地区中央委員会委員ヤーコフ・イウロフスキー が皇帝一家を殺害 し、ペルミ、アラパイエフスク にいた皇族も殺害した[ 560] 。皇帝らの遺体は硫酸 をかけられ、灯油 で焼かれた[ 561] 。皇帝一家とともに主治医のボトキン 、メイド のデミドヴァ 、従僕 のトルップ 、シェフ のハリトーノフ らも殺害された。
レーニンは処刑実行の1週間前の7月12日に極秘で皇帝殺害をスヴェルドロフに指示し、他の幹部にさえも知らせなかった[ 559] 。レーニンははやくから「ロマノフ家の人間を一人残らず、つまり優に百人余りを皆殺しにする」と、すべての皇族を殺害する意思を持っていた[ 560] 。またレーニンは、チェコ軍団の叛乱によってドイツ系の皇后とその子供らを名目にしてドイツが再び介入することをおそれており、また、皇帝が反ボリシェヴィキの抵抗のシンボルになることもおそれ、皇帝一家の殺害を決意した[ 562] 。レーニンは経験を積んだ陰謀家であり、皇帝一家の殺害を示す直接の証拠は残されていないが、トロツキーがレーニンが決定したと証言している[ 562] 。誰が皇帝一家の殺害を決めたのかというトロツキーの質問に対してスヴェルドロフは「我々が、ここで決定した。イリイチ(レーニン)は、白軍に生きた旗印を現在の困難な状況では残しておくべきではないと考えていた」と答えたと日記に残している[ 563] 。
レーニンは、皇帝の子供たちを殺害したことをしばらく公表しなかった[ 560] 。7月18日の人民委員会議では「元皇帝ニコライが殺害され、他の家族は避難した」と報告されたが、議事録ではその後の質疑は記録されていない[ 559] 。歴史学者エレーヌ・カレール・ダンコース は、レーニンは殺害命令や流刑命令はつねに秘密裏にだし、公には他人に配慮する人間であるというイメージを保持し、「善良なレーニン」の神話を作っていったと指摘している[ 564] 。
ニコライ2世一家の一ヶ月前に殺害されたミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918) 皇帝一家殺害の一ヶ月前には、皇族 で帝位継承権を持つミハイル・アレクサンドロヴィチ (ミハイル大公) が殺害されている。これは皇帝一家の殺害のリハーサルであった[ 562] 。ミハイル大公は2月革命でニコライ2世から皇帝位を譲られたが、憲法制定会議による平等な選挙によって国民の意思を問うとして即位を拒否した人物だった。1918年6月12日から13日にかけて、チェカーは、ペルミに監禁されていたミハイル大公が帝政派によって誘拐されたと偽装したうえで、大公とイギリス人秘書を森で殺害した[ 562] 。ボリシェヴィキの新聞は、赤軍兵士が勝手に皇族を殺害したと報道したが、これは外国の反応を試すためだった[ 562] 。外国の政府も新聞も反応がすくなかったことは、皇帝一家の運命を決めた[ 562] 。ミハイル大公殺害の一週間後、皇帝一家は帝政派将校からの密書をうけとったが、これはチェカーが偽造したもので、拙いフランス語で書かれており、皇帝らは疑い、計画は失敗した[ 562] 。
皇帝一家が殺害された翌日の7月18日にはアラパエフスク 近郊の鉱山で、アレクサンドラの姉でセルゲイ・アレクサンドロヴィチ 大公の妃エリザヴェータ 、セルゲイ・ミハイロヴィチ 大公、イオアン・コンスタンチノヴィチ 公とその弟イーゴリ公 ・コンスタンチン 公、ウラジーミル・パーリィ 公爵ら皇族、および修道女バルバラ らも殺害された。
皇帝殺害が実行されたのは、ボリシェヴィキが多方面から攻撃をうけており、支持者から見捨てられていた時でもあった[ 565] 。トロツキーは、皇帝一家の殺害は、人々に恐怖と絶望を与えるためだけでなく、自分たちを奮い立たせ、もはやどんな後退もなく、勝前途は勝利するか破滅するかのどちらかしかないということを示威するためであったと証言している[ 565] 。こうした論理は、このロマノフ一家殺害事件以後、ロシアをはじめとする共産主義国家で新秩序の邪魔になる莫大な人間に適用されていった[ 565] 。
1918年8月30日に左翼社会革命党の党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こすと、これをきっかけにレーニンは「赤色テロル 」を宣言し、チェーカー人民の敵、反革命、反党活動者を摘発していった[ 558] 。こうして1918年夏の終わりまでに、各地のソビエトは党の支配下に置かれ、「ソヴィエト(評議会)」は形式的な組織となり、レーニンが「国家と革命 」で賞賛し、1917年には姿を現しかけたコミューン 国家は、完全に党の国家にとって代わられた[ 558] 。
テロは日常化していった[ 566] 。1918年9月5日の布告でレーニンは「白軍組織、陰謀、治安を乱す活動」に関わる者はすべて即決で処刑されると命じた[ 567] 。ペトログラードではただちにジノヴィエフが512人の人質の処刑を命じたが、その人質の多くは帝政時代の体制に関係していたが、何ヶ月も拘置所に収容されており、レーニン暗殺未遂とは関係をもちえなかった[ 567] 。モスクワでは1918年10月27日、ジェルジンスキーが元内務大臣アレクサンドル・プロトポポフ らを処刑。しかし、カプランと関係のあったエスエルに対しては、ボリシェヴィキは報復をおそれて告発しなかった[ 567] 。
1918年9月中旬にグリゴリー・ジノヴィエフ は「残りの1千万人については何も言うことはない。 彼らは絶滅されねばならない。」と宣言し、これは国家の最高位にある公人 による1000万人の国民に対する死の宣告であった[ 568] 。
古参ボリシェヴィキで全ロシア中央執行委員会の革命法廷議長・検察官だったN.V.クルィレンコ は「我々が処刑せねばならないのは、単に罪のある人々のみではない。無実の人を処刑することは、大衆にさらに一層大きな印象を与えることになろう」と公言した[ 568] 。クルィレンコは1930年代には法務委員長となったが、スターリンによって1938年に粛清された。
1919年10月の会議中、レーニンがジェルジンスキーに「獄中に危険な反革命家はいるのか」とメモをわたし、ジェルジンスキーが「約1500」とメモを返すと、レーニンは「×」と回答した[ 566] 。その夜、数百人の囚人が処刑された[ 569] 。秘書によればレーニンは処刑を命じたわけでなく、留意したとのことであるが、それほど革命的裁きの執行はいい加減なものになっていた[ 569] 。
レーニン暗殺未遂事件後、レーニンの神格化、レーニン崇拝が進んだ[ 570] 。ジノヴィエフはレーニンを「神の恩寵による指導者」と称えた。レーニンを新しいキリストとして讃える書籍があふれた。レーニンの回復は奇跡とされ、人類に自由と平等をもたらす歴史の裁定であるとされた[ 570] 。
1920年までにソビエトロシアは、保安警察が、国家のなかの国家として、巨大な機構を備え、いたるところに触手をのばし、真の警察国家となった[ 571] 。チェカーは多様な行動の監視を担うようになり、「投機」や私的な商業行為の取締のために鉄道や輸送機関を監督するようになり、1921年4月にはジェルジンスキーが交通人民委員に任命された[ 478] 。
チェカーは行政機構のあらゆる分野に配置され、1920年代半ばには赤軍とは別に25万人の職員を数えた[ 478] 。
赤色テロルには、コサック殲滅もふくまれ、これは1919年1月に決定され、コサックのすべての権利の剥奪、財産没収、肉体的抹殺が命令された[ 564] 。歴史学者ピーター・ホルキスト もカレール・ダンコース もこれは、まぎれもないコサックへのジェノサイド だったとする[ 572] [ 564] 。さらに赤色テロルには、農民の圧殺、反対政党とその機関紙の廃止、プロレタリアート的ではないすべての者の殺害と流刑がふくまれる[ 564] 。厳格なレーニンは娼婦までに粛清への欲求を向けた[ 564] 。
干渉した列強の利害は共通していなかった。内戦2年目には西部での戦闘は収束しつつあり、干渉の目標が失われた[ 573] 。アメリカとフランスは撤退し、日本は残ったものの、その目的は赤軍との戦闘というよりも、ロシア沿海州 の併合だった[ 573] 。残留したイギリスは1919年秋まで白軍を支援した。ロシアは数百万の軍人、民間人を死傷者として失った。イギリスは死者400人ほどだった[ 573] 。
一時期白軍はロシアやウクライナのかなりの部分を支配下においたものの、内紛などによって急速に勢力を失っていき、次々とソヴィエト政府側によって鎮圧されていった。白軍は調整を欠き、巨大な国の周辺部に散らばっていったことも不利だった[ 574] 。デニーキンの敗残兵をまとめ上げ、白軍で最後まで残ってクリミア半島 に立てこもっていたピョートル・ヴラーンゲリ 将軍率いるロシア軍 も、1920年 11月のペレコープ=チョーンガル作戦 で破れて制圧され[ 575] 、内戦はこれをもって収束し、ソヴィエト政府側の勝利に終わった。
内戦での人的損失の多くは、疫病と飢餓によるものであった。疫病で200万以上が犠牲になった[ 576] 。内戦での戦闘、病気や飢えで総計1500万人が死亡したともいう[ 577] 。赤軍の戦闘での死者は、100万人と推定されるが、これは主に農民との戦いで被ったものだった[ 576] 。白軍の死者は12万7000と推計される[ 576] 。ここには捕虜になったのち処刑された者や、収容所での死亡などは含まれない[ 576] 。
旧体制の上流階級や教育あるエリートなど150万人-200万人が国外に脱出した[ 576] [ 577] 。南部国境からはユーゴスラヴィア 、チェコスロヴァキア、ブルガリア へ、東部国境からは中国や、満州 における事実上のロシア都市ハルビン などに脱出した[ 574] 。白軍に参加した、あるいは赤軍やソヴィエトに反対した人々が国外に大量に亡命しこうした亡命者は白系ロシア人 と呼ばれるようになった。この流出は、ロシアにとって計り知れない損失となった[ 576] 。
この内戦を戦い抜くため、ボリシェヴィキは戦時共産主義 と呼ばれる極端な統制経済 策を取った。戦時共産主義においては、すべての生産手段とすべての商取引を国有化し、計画経済、貨幣経済を提唱した[ 578] 。これはまた、あらゆる企業の国営化、私企業の禁止、強力な経済の中央統制と配給制、そして農民から必要最小限のものを除くすべての穀物 を徴発する穀物割当徴発制度などからなっていた。この政策は戦時の混乱もあって失敗に終わり、ロシア経済は壊滅的な打撃を受けた。農民は穀物徴発に反発して穀物を秘匿し、しばしば反乱を起こした。また都市の労働者もこの農民の反乱によって食糧を確保することができなくなり、深刻な食糧不足に見舞われるようになった。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も3分の1にまで落ち込んでいた[ 579] 。
人間の社会活動も厳格に統制されていった。1918年初頭、革命政府は、都市の住民を4つのカテゴリー、ついで8つのカテゴリーに分類し、食料を配給していった[ 580] 。活動的な労働者は上位で、旧エリート層は消極分子とされ、低いカテゴリーとされた[ 580] 。労働者も過酷だった。労働時間は一日10時間から11時間になり、1919年1月には離職が禁止された[ 580] 。1920年には欠勤に重い処罰が課され、労働法によって労働者は奴隷化した[ 580] 。失業者は強制的に軍隊に編入された[ 580] 。
内戦が終わっても戦時共産主義体制はしばらく継続しており、これに反発して起きる反乱もやむことがなかった。1921年には軍港都市クロンシュタット で海軍兵士によるクロンシュタットの反乱 が起き、ボリシェヴィキによって鎮圧されたものの、同年3月21日に経済統制をやや緩めたネップ (新経済政策)が採択され、軌道修正が図られるようになった。このネップ体制下で、農業・工業生産は回復にむかった。最後までシベリアに残っていた日本軍も1922年 に撤退した。
また、政府は1920年10月、ソビエト機関の電信、電話、郵便の使用料を免除する布告を出し、翌1921年には市民に無料のこれらの公共サービスを無料で利用できるようにした[ 527] 。
1921年1月から国有アパートは家賃を免除され、1920-21年冬にかけてコムプロードが無料または名目的な価格で3800万人の必需品を供給すると宣言された[ 527] 。これは、皇帝から引き継いだロシア国の資産を獲得したためにできることだったが、ボリシェヴィキ政府は、住居の補修もせず、ましてや新築もなかったので、このような賃貸料免除が可能であった[ 527] 。
食料の配給も、生産者からただ同然で「収用」したからであったが、農民は余剰食料の生産を拒んだため、ボリシェヴィキは「農民との戦争 」を仕掛け、虐殺を含む残虐な収奪を行なっていった[ 527] 。
戦時共産主義はロシアの経済を破壊したが、内戦が終了しても経済の破壊は続いた[ 581] 。
1920年には、政府は農民の「余剰」作物の没収を厳しく実施した。しかし、それは「余剰」ではなく、必要な食料と翌年の種まきのためのものだった[ 582] 。1920年には地方ですでに飢饉の兆候があらわれた[ 583] 。
内戦時には、ボリシェヴィキは困窮の原因は白軍と外国の干渉のせいであると説明してきた[ 583] 。しかし、白軍が敗北し、内戦が終了していくにつれ、大衆はそうした説明の嘘に気づき、共産主義者の労働者の一部には党員証を返すものもいた[ 583] 。ボリシェヴィキの党勢は拡大していたものの、1920-21年にはまだ共産党員の工業労働者は全体の2-3%しかいなかった[ 583] 。動員解除された赤軍兵士が農民にもどると、彼らは武器をとり、1920年から21年はじめに農村地方で全国規模の反乱がおこった[ 583] 。ボリシェヴィキはこの反乱を残虐な仕方で鎮圧し、農民反乱の犠牲者数は、白軍との戦争での数を上回った[ 583] 。
タンボフ (タムボフ)は革命前には年間100万トンの穀物を生産していたが、戦時共産主義で余剰がなくなるほど没収がすすんだ[ 584] 。革命前にタムボフの住民は一人あたり年間293kgの穀物を消費し、家畜飼料には121kgを用いていた[ 584] 。しかし、1920年-21年には種子用を除き、飼料分の割り当てなしで一人あたり年間69kgの穀物となり、さらに強制徴発のあとでは年間25kgとなり、これは生存に必要な量の8分の1にすぎず、1921年1月には農民の半分が飢えていた[ 584] 。
アレクサンドル・アントーノフ 1920年1月から、アレクサンドル・アントーノフ らによるタンボフの反乱 が起き、ヴォルガ、ウラル、西シベリアへと反乱がひろがっていった[ 541] 。アントーノフのパルチザン 部隊には2万-5万の兵士がゲリラ戦を展開した[ 584] 。農民はモスクワ行きの小麦輸送隊を略奪した[ 541] 。
ボリシェヴィキは、ゲリラ戦 に対して型通りの軍事手段では鎮圧できないと考え、再びテロルを用いた[ 585] 。レーニンは、10万人の兵士を擁したトゥハチェフスキーと指揮官官ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ にあらゆる手段を用いる権限を与えた[ 585] 。通報者や密告者には報酬を払い、チェカーはパルチザンの家族を人質として監禁した[ 585] 。アントーノフ=オフセーエンコは、村では、男性住民全員が革命軍事法廷で裁かれ、降伏しなければ、収容所にうつされた家族を追放し、財産を没収したと報告している[ 585] 。しかし、これでも住民の口は堅かったため、
自分の名前を告げない者は即座に処刑される 匪賊を匿った家族は逮捕され、県から追放される。財産は没収され、その家族の最年長者は即座に処刑される という、さらに厳しい指令が出された[ 585] 。
トゥハチェフスキーは森に隠れたパルチザンを窒息性ガス でいぶす大規模な作戦を実行した[ 586] [ 587] 。また、捕虜と敗者を収容所へ送った[ 587] 。タンボフの農民反乱は1920年8月から1922年まで続いた。
やがて徴発隊は解散するが、農民を武力で脅迫して生産を強制する手法はこの先数十年間ソ連で実行され続けた[ 588] 。
内戦の混乱を経て、ボリシェヴィキ 党員は増大していった。1917年2月に23600人だった党員数は[ 432] 、1918年1月に11万5000人、1921年3月には57万6000人[ 577] 、資料によっては73万人[ 432] または77万5000人になった[ 577] 。
内戦のさなか、党は「本物のボリシェヴィキとは革ジャンパー を着て腰には「同志モーゼル銃」をつるした、屈強で決断力のある戦士」というイメージを打ち出し、極端な義侠心と暴力による支配 を教えていった[ 577] 。
1921年の党員構成比は、労働者41%、農民28.2%、「雇用者その他」の小インテリゲンチャが30.8%で、なかには、理想主義者、狂信者、復讐を企む人、ゴロツキ、便宜主義者がいたほか、旧体制の下士官もおり、党は就職先にもなっていた[ 577] 。
1918年7月4日から7月10日にかけて開かれた第5回全ロシア・ソヴィエト大会は最初の1918年ソヴィエト憲法 (英語版 ) を採択した。憲法の基本的任務は「ブルジョワジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすために、強力な全ロシア・ソヴィエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立すること」とされた(第9条)。また、ソヴィエト大会で選ばれる全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会を最高の権力機関とする一方、ソヴィエト大会および中央執行委員会に対して責任を負う人民委員会議 にも立法権を認めた。言論・出版・集会・結社の自由は「すべての市民」にではなく「勤労者」に限定して保障するとされた(14-16条)[ 589] 。
この大会の会期中の7月6日、ブレスト=リトフスク条約に反対する左翼社会革命党は戦争の再開を狙ってドイツ大使のミルバッハを暗殺し、軍の一部を巻き込んで政府に対する反乱を起こした。反乱は鎮圧され、左翼社会革命党は弾圧を受けることになった。ソヴィエト政府はボリシェヴィキの単独政権となり、野党は存在しなくなった。
すでに革命直後にレーニンは、出版物の検閲をはじめ、野党の新聞を閉鎖していた[ 304] 。レーニンは新聞に比べ、書籍に対して当初寛大だったが、1918年12月には国立図書出版所(ゴスイズダート)を設立し、出版の独占権をにぎり、翌1919年、紙生産の独占権を、三年後にはすべての書籍販売の独占権をにぎり、すべての原稿は事前検閲に回された[ 590] 。
1920年初めには図書館から「容認できない」書籍が排除された[ 591] 。哲学者カント 、デカルト 、ショーペンハウエル 、アナキズム のクロポトキン 、物理学者マッハ など94人の著作が撤去された[ 591] 。ゴーリキーはこれを「知的吸血鬼の所業」とよんだ[ 591] 。
1920年4月20日の布告では、私人・協同組合その他すべての組織・施設に属する、また諸ソビエトにより市有化された一切の書籍、出版物のストックは国家が所有すると出版物の国有化を宣言し、出版物の自由販売は禁止され、出版物は全ロシア中央執行委員会出版物配分事務所と地方機関が無料配布するとされた[ 592] 。
レーニンは1920年冬でも批判を聞き入れることがあった。批判した上級幹部が処刑されるようになるのはスターリン時代であるしかし、レーニンを批判したコロンタイ などは人民委員 から降格され、干された[ 593] 。
ゴーリキーはレーニン批判をゆるされた数少ない一人だった[ 569] 。1919年6月、知識人の逮捕に抗議してゴーリキーは「彼らはあなたを個人的に助け、自宅にかくまったではないか」とレーニンに言うと、レーニンは「彼らは優秀で立派だが、だからこそ捜索しなければならない。」「彼らは虐げられた人々に共感するが、いまや迫害しているのはチェカーで、虐げられた人々は立憲民主党党員、社会革命党党員と考えている。そうやって彼らはわれわれに対抗する」と正当化した[ 569] 。レーニンは「どの革命階級もその勝利を確かにする必要があることを理解しない者は、だれであれ革命の歴史を何も理解していない」「独裁とは、無制限の権力と、法ではなく力の使用を意味する」とのべた[ 594] [ 595] 。ゴーリキーは数十人を処刑から救出したが、裁きは恣意的で、権力者に接近できない民衆はチェカーから逃れる術はなく、多数が殺害されていった[ 596] 。レーニンのロシアは事実上、無法国家だった[ 596] 。
1921年11月28日、人民委員会議は書籍販売権を認可、販売原則を定め、12月12日には私営出版所の設立と出版物の自由販売権を認めた。ただし、原稿印刷以前に国営出版所やその地方機関の許可が必要とされ、無許可のものは没収され、責任者は処罰されるとして、言論統制 が意図された[ 597] 。教科書は国営出版所が出版した。1922年にはマルトフやチェルノフの出版もされたが、ソビエト政権批判の著作は多くは亡命者によって国外出版され、国内に持ち込まれた[ 597] 。
ネップ期には相対的に多様な状況が容認されたものの、政治イデオロギーでの規制は厳しく、より包括的な検閲制度が構築された[ 598] 。
1922年6月6日の文献・出版事業総管理局(グラヴリト) に関する規定で、統一的な事前検閲制度が導入された[ 599] 。これにより1)ソビエト権力に反対する扇動を含むもの、2)軍事機密の漏洩、3)虚報の流布によって世論を挑発するもの、4)民族的宗教的狂信を煽るもの、5)猥褻 などが発禁となり、統合国家政治管理局が管轄。グラヴリトはソ連崩壊まで続いた[ 599] 。
1922年から1923年にかけての出版演劇などの検閲法(1931-34年改正、36年憲法でも確認)では「ソビエト権力およびプロレタリア独裁に反対する扇動・宣伝」「国家機密の漏洩」などに抵触する出版演劇が禁止された[ 600] 。
1925年の検閲基準は次のようなものだった[ 601] 。
芸術文献;ソビエト建設に反対するもの、低級文学は認めない 哲学社会学:観念論的傾向をもち、広い読者を予定したものは認めない。古典学術研究はよい 自然科学:非唯物論的な傾向をもつものは認めない 経済学:反マルクス主義的な内容は認めない 児童青年向け:共産主義教育を促進しないものは認めない グラヴリトの活動は、出版の責任者を裁判に回したり、人事干渉を含む出版機関への圧力を含み、そのほか、反革命宣伝・扇動の罪などによる規制もあった[ 602] 。
1922年ロシア共和国刑法典では反革命罪 が規定された。政府転覆・破壊または弱体化に向けられた行為、国際ブルジョワの干渉、スパイ、出版融資などによって政府転覆を志向した幇助に向けられた行為、プロレタリア革命の基本的な獲得物に対する侵害(57条、1923年追加)、武装蜂起、権力奪取の試みへの参加(58条)、反革命宣伝・扇動(69,72条)、反革命の目的で権力への不信を喚起し、権力を中傷するような流言飛語もしくは未検証情報の捏造および伝搬(73条)、反革命的目的によるテロリズム(64条)が反革命罪とされた[ 602] 。
レーニンは、刑法典成立直前の5月17日、反革命罪への刑罰は最高刑もしくは軽減事由あるときは自由剥奪か国外追放の追加を要請し[ 603] 、翌々日、ジェルジンスキーに反革命を幇助している知識人の追放を指示した[ 604] 。
多くの作家がロシアを去った。ブーニン 、ツヴェターエワ 、アレクセイ・トルストイ 、ボリス・ザイツェフ、ヴァチェスラフ・イワーノフ 、ザミャーチン 、そしてゴーリキーさえも、ロシアを去った[ 591] 。
1918年から21年までに、大学の自治 、教授の終身制は廃止され、大学には入学資格のない、政治的に「有望な」学生が入学を許可された[ 605] 。1918年10月1日には博士号 と修士号 も廃止され、同一機関で10年-15年以上教授職にあったものは免職 された[ 605] 。1918-19年の冬には最も抵抗していた法学部と史学科は閉鎖され、マルクス-レーニン主義を教える「社会科学部 」に改編された[ 605] 。
1919年党の綱領では、学校は社会を共産主義へ変換するための道具と定義され、ブルジョワ思考や宗教的な信念を「浄化」することを伴った[ 606] 。
1921年、高等教育の学生は、史的唯物論とボリシェヴィキ党史の履修が義務づけられた[ 605] 。1921年9月、大学の学部は学長と教授を選出する権利を失い、教育人民委員部に権限がうつされた[ 607] 。ボリシェヴィキに反抗した教授は解雇され、あるいは国外追放された[ 607] 。
1938年11月14日には、党が編集した『全連邦共産党(ボルシェヴィキ)史小教程』とマルクス=レーニン主義哲学がすべての大学の必須科目となった[ 608] 。
こうした制度改革は、東側諸国 においても引き継がれ、たとえばチェコスロバキア社会主義共和国 の学校でもマルクス・レーニン主義の履修が義務化され、入学試験ではマルクス・レーニン主義科目が口述で行われた[ 609] 。必須文献にはマルクスやレーニンの著作のほか、マレンコフ 、チェコスロバキア共産党 指導者でスターリン主義者 であったゴットワルト の報告なども含まれた[ 609] 。大学には「基礎マルクス・レーニン主義学科」「弁証法的・史的唯物論学科」などが設置され、教員はすべて共産党員だった[ 609] 。フランスのマルクス主義哲学者のアルチュセール は1970年に資本主義体制の学校を「国家のイデオロギー装置 」と論じたが、ボリシェヴィキによる教育政策は文字通りイデオロギー教育機関であった。
白軍敗北のあと、反対派は弾圧され、そのなかにクロンシュタットの水兵たちも含まれていた[ 593] 。クロンシュタットの水兵たちは「革命の誇りと華」とよばれるほどボリシェヴィキ革命に貢献した[ 610] 。
1921年2月、ペトログラードの労働者が食料を入手する権利、ソビエトの公正な選挙、言論の自由、チェーカーによるテロルの廃止を求めた[ 610] 。この動きを知ったクロンシュタットの水兵たちは、これに同調して、臨時革命委員会を形成した[ 610] 。1921年2月28日から3月16日にかけてクロンシュタットの水兵たちは自由選挙、党から独立した自由労働組合、新聞・出版の自由、赤色テロルを実行していたチェーカーの廃止などの民主的改革を要求した[ 611] 。3月1日ペトロパウロフスク 決議で「労働者と農民に、アナキストと左派社会主義政党に、言論・出版の自由を」「労働組合にも農民団体にも集会の自由を」というスローガンが掲げられた[ 612] 。
これに対して、ボリシェヴィキは赤軍を派遣し、武力で鎮圧し、水兵たちは処刑された[ 611] 。レーニンは水兵の反乱を、社会革命党員とフランスに支持された白軍によるものと非難した[ 610] 。トロツキーは直ちに降伏するよう命じ、水兵のペトログラードにいる妻子を人質にすると告げた[ 613] 。3月7日、トゥハチェフスキーの前線部隊の背後にチェカーの機関銃分隊が配備された[ 613] 。反乱軍に同情した赤軍の兵士1000人が反乱軍に寝返った[ 613] 。トロツキーは命令に服従しない兵士を5人に1人づつ処刑するよう命じた[ 613]
3月8日、水兵の臨時革命委員会は、ボリシェヴィキは革命を裏切り、ツァーリより悪質な圧政をしいており、「共産党による専制政治」を打倒し、公正な選挙による民主的ソビエトの体制を国民に訴えた[ 613] 。共産党政権打倒のアピールに国内は応えなかったため、水兵は落胆した[ 613] 。
トゥハチェフスキーは毎晩急襲を続け、3月16日夜から17日にかけて決定的攻撃を開始し、白兵戦 で激しい戦闘が起きたあと、3月18日朝まで反乱は鎮圧された[ 614] 。
クロンシュタットの反乱 は、労働者階級までが革命政府の政策に反対を表明する機会となった[ 615] 。
ボリシェヴィキは、1918年秋には労働者と兵士の支持も失い、選挙でもメンシェヴィキとエスエルに敗北を続けたため、ボリシェヴィキは、メンシェヴィキとエスエルから選挙に参加する資格をとりあげた[ 401] 。労働者は自分たちの組織である労働者全権代表組織を作って対抗しようとしたが、弾圧され、指導者は逮捕された[ 401] 。こうして革命ロシアは、ソビエト(評議会)の自立性、労働者の代表制機関への権利、多党制などをは失っていった[ 616] 。
1921年4月、ボリシェヴィキのヴァルデインは、すくなくとも、メンシェヴィキ、エスエル、アナキストなどの左派グループには合法的政治活動を許可すべきだと提案し、ミャスニコフも5月に、国の復興に大衆を参加させるには、言論・出版の自由が必要と主張した[ 612] 。これに対してレーニンは、ロシアのブルジョワは「絶滅」していないどころか、彼らは世界のブルジョワと結託しており、メンシェヴィキとエスエルはブルジョワの最も忠実な下僕であり、ブルジョワは我々より何倍も強力だ。したがって、政治的組織の自由(=出版の自由)という武器を彼らに与えることは、敵を援助することになるとし、出版の自由は、共産党の弱点、誤り、不幸、病弊を除去するのに役に立たない、それは世界のブルジョワに握られた武器となるだろう[ 617] と回答した[ 592] 。
メンシェヴィキは1921年春に完全に非合法化された。最初は処刑されなかったが、数千人が逮捕され、国外に逃亡するのをみてレーニンは満足し、必要なら交通費を渡してよいとも告げた[ 618] 。
メンシェビキのニコライ・スハノフ は、『ロシア革命回顧録』を1922年にドイツで出版したが、1930年に逮捕され、1931年のメンシェビキ裁判 で有罪となり、シベリアに追放された。さらに1937年にスパイ容疑で再逮捕され、1940年に処刑された[ 619] 。
アレクサンドル・シュリャープニコフ セルゲイ・メドベージェフ 著名な労働者反対派アレクサンドラ・コロンタイ [ 620] 。処刑は免れたが、中央からは疎外され、外交官となった。 金属工労働者は、クロンシュタットの反乱 で鎮圧に志願するほどボリシェヴィキに忠実だったが、彼らでさえもボリシェヴィキの「プロレタリア独裁」には、プロレタリアの発言権がなく、権力がインテリゲンツィアに集中し、労働者が疎外されていることに不満を持つようになった[ 621] 。アレクサンドル・シュリャープニコフ に率られた金属工労働者組織に対して、党官僚 (アパラートチキ)は「労働者反対派 」と呼んだ[ 621] 。
シュリャープニコフは1920年3月の会議で、労働組合、ソビエト、ボルシェビキ党の機能の分離、すなわちソビエト・ロシアの権力分立 を提案した[ 622] 。しかし、1920年3月の第9回党大会の決議で、効率化のために「労働者による統制」が廃止され、管理責任が専門家に委ねられるようになり、以降、労働組合は介入も権利主張もできなくなり、労働規律の維持に専念せねばならなくなった[ 621] 。第9回党大会ではユーリー・ルトヴィノフ は労働民主主義の即時実施を主張した[ 622] 。ボルシェビキはこの提案を支持しないどころか、党内の分派結成を防ぐための統制委員会の設立が決定された[ 622] 。労働者反対派の主張は多くの党員から支持され、1920年11月の選挙では半数を得た[ 622] 。
労働者反対派は第10回党大会で、党機構への労働者の参加拡大、共産主義者は一年のうち三ヶ月は肉体労働に従事すること、経済監督を徐々に労働組合に移すことなどを提案した[ 621] 。しかしレーニンはこれを「サンディカリスト 的偏向」として、「プチブル的な自然発生性」は危険であると斥けた[ 621] 。レーニンは、真の労働者の多くは内戦で命を落としており、現在の労働者には「兵役逃れ」が多数おり、労働者反対派は「真のプロレタリア」ではなく、農民を代表していると主張した[ 621] 。シュリャープニコフは、労働者反対派の全員が1914年以前に入党していると反論したが、トロツキーもたとえ「労働者民主主義」と衝突したとしても党独裁は擁護しうると述べて訴えを斥けた[ 623] 。共産党は「プロレタリア」を代表すると称していたが、その「プロレタリア」は国の人口の1%で、さらにそのなかの2-3%のみが党員だった[ 624] 。そのわずかなうちの「労働者反対派」の提案に対し、共産党はソビエトロシアに現実の労働者階級がいることさえ否定したのであった[ 624] 。いまや「プロレタリア」はボリシェヴィキの心のなかの抽象的な理念 としてのみ存在するにすぎなかった[ 624] 。
労働者反対派は投票で敗れ、解散を命じられ、メンバーは追放された[ 624] 。その後、ユーリー・ルトヴィノフ は共産党に幻滅し、1924年に自殺した。シュリャープニコフとセルゲイ・メドベージェフ は、他の多くの人々とともに、1937年9月に処刑された[ 625] 。シュリャープニコフらはスターリンのでっちあげの陰謀論を承諾せず、脅迫に屈することもなく、自白もしなかったため、見せしめ裁判は行われなかった[ 626] 。
労働者反対派事件の結果、次節で述べる第10回党大会の秘密決議で、組織による異論と分派活動は禁止された。個人の異論は許されたものの、代表された意見ではないとして排除された[ 624] 。この分派活動の禁止決議は、スターリンが権力掌握する際に決定的な役割を果たした[ 624] 。
1921年3月8日から16日にかけての第10回ロシア共産党大会 で、レーニンは、あらゆる反対意見を禁止し、党の一枚岩の団結を目指した[ 627] 。はやくも1902年の『なにをなすべきか? 』では題辞に「党は自らを浄化することで強くなる」と掲げていたが[ 628] 、この萌芽が国家レベルで体現されることとなった[ 627] 。
党の統一に関する決議では、多数派によって断罪された思想の流布を禁じるものだった[ 629] 。そして、いかなる分派活動(分派主義 ・派閥主義 )も有害性であると禁止された[ 630] [ 631] 。
党員においては、団結と結束、完全な信頼、プロレタリア的前衛の意志の統一 を体現する友好的な活動が求められる。しかしながら、党内には派閥主義(分派主義)の兆候、すなわち独自の綱領と団結力を持ち、独自の集団規律を築こうとする意志を持つ集団が出現しつつある。 階級意識のある労働者は、いかなる派閥主義も有害であり、容認できない ことであることを明確に認識しなければならない。派閥主義は、必然的に非友好的な仕事につながり、敵が偽りの口実で共産党に加わり、分裂を深めて反革命に利用しようとする度重なる激しい試みにつながるからである。 プロレタリアの敵が、共産主義路線からの逸脱を利用するという事実は、クロンシュタット蜂起の例に最も明確に表れている。この蜂起において、世界各国のブルジョア反革命勢力と白軍は、ロシアにおけるプロレタリア独裁が打倒されさえすれば、ソビエト体制を支持するスローガンでさえも即座に受け入れる用意があると表明した。すなわち、社会革命党とブルジョア反革命勢力は、ソビエト体制を支持する水兵の蜂起を支持するが、ボリシェヴィキのソビエト政府には反対すると表明した。これは、白軍が、ロシアにおけるプロレタリア革命を打倒するためには、共産主義者の仮面を被り、さらには共産主義よりも「左派」の立場を取ることさえも行うことを証明した。クロンシュタット蜂起前夜にペトログラードで配布されたメンシェヴィキのビラは、メンシェヴィキが共産党内部の意見の相違を利用して、クロンシュタットの反乱、社会革命党、白隊を支援していたことを示している。(略) 党組織は、党の欠点に対する批判、党の路線に関する分析、実践の成果の総括、党の決定の履行状況の検証、誤りの是正策の検討などが、何らかの綱領に基づいて形成されたグループによってではなく、全党員によって討論されるよう厳格に管理することが不可欠である。(略)批判を表明する者は皆、敵の包囲下にある党の状況を自覚し、ソビエトと党の活動への直接的な参加を通じて、党の誤りを正すべく実践しなければならない。 党大会は、中央委員会に対し、あらゆる種類の分派主義の完全な破壊 を指示する。また、非プロレタリア的かつ信頼できない分子の党内からの排除(粛清 purging) 、官僚主義との闘い、労働者階級における民主主義とイニシアティブの発展などに関しては、いかなる実務的な提案も最大限の注意を払って検討し、検証しなければならない。(略)党は、実務的でない分派的な批判を断固として拒否する。党は、官僚主義と闘い、民主主義とイニシアティブを拡大し、そして偽りの口実で党に忠誠を誓う者たちの摘発と追放のために、たゆむことなく、絶えず新たな方法を試しながら、あらゆる手段を講じていく 。 大会は、何らかの綱領に基づいて結成されたすべてのグループの例外なき即時解散を命じ、すべての組織に対し、いかなる派閥主義の兆候も容認しないよう厳格に監視するよう命じる。この決議に従わない場合は、無条件かつ即時の除名 となる。党内およびソビエト活動全体において厳格な規律を確保し、あらゆる派閥主義を根絶しながら最大限の団結を達成するために、大会は、規律違反、派閥主義の復活もしくは容認があった場合、除名を含むあらゆる懲罰措置 を適用する権限を中央委員会に与える。中央委員が関与している場合は、候補委員に格下げし、極端な場合には除名も可能である。(略) — 「党の統一について(抄訳)」1921年3月16日[ 632] 決議案第7条は、党の規律の違反した場合は除名、そしてあらゆる懲罰を中央委員会に委ねるとされたが、レーニンはこれを分裂の危機にさらされた例外の場合のみに適用されるとして極秘条項にした[ 630] 。
こうしてそれまで慣行でしかなかったものを大会で公認させ、不可侵の原則にした[ 633] 。このような絶対主義は、党内民主主義のために必要だとレーニンは正当化した[ 633] 。ラデックは分派の禁止と除名措置は、やがて例外ではなくなるといいながらも、党の統一のための唯一の方策だと考え、賛成した[ 630] 。除名措置に関して議論すべきだと主張したクレスチンスキーとプレオブラジェンスキーとセレブリャコフは再選されず、かわって、スターリン、モロトフ、オルジョニキゼ、フルンゼ、フォロシロフ、クイビシェフらスターリンに近いものが昇進した[ 633] 。
レーニンが参加した最後の党大会となった[ 634] 1922年3月27日-4月2日の第11回ロシア共産党(ボルシェビキ)大会 でスターリンはそれまで党内になかった「書記長」に就任するが、これはレーニンの決定によるものだった[ 635] 。
11回党大会では、様々な報告がなされるなか、党の粛清とそれに伴う党の階級の強化の結果も報告された[ 634] 。同時期、広範な粛清 がはじまり、党員総数の20%にのぼる13万6800人の党員が除名された[ 636] 。
第11回党大会では、党機関とソビエト機関との厳格な区別なしには無責任体制と党組織での官僚主義の増大をもたらすと憂慮する意見が出された[ 637] 。これに対してジノヴィエフは、党の独裁は強化しなけらばならないと報告し、党独裁に反対することは敵の扇動の武器であると決議された[ 638] 。
1924年5月の第13回党大会でスターリンは、レーニンは「独裁を実現するのはソビエトであり、党はソビエトを指導する」といっており、したがって「党の独裁」というのは誤りであるとした[ 638] 。これはボリシェヴィキ党=ロシア共産党による一党独裁への批判に対して回答されたもので、「ボリシェヴィキ党による独裁」ではなく、「プロレタリアと農民の代議員によって構成されたソビエトによる独裁」すなわちプロレタリア独裁 であるとの抗弁であったが、詭弁 といっていいもので、ソビエト・ロシアはまさに一党独裁制 を構築したのであった。なお、レーニンは1919年7月に非ボリシェヴィキ諸政党との統一社会主義路線を支持する者が「一党独裁」だと非難したのに対して、「その通り、一党の独裁だ!」と断言している[ 637] 。
1922年3月、レーニンはブルジョワイデオロギーへの戦いを宣言し、チェカーの後継国家政治保安部(GPU) に、反革命分子のインテリを無害なものにせよと命令した[ 639] 。最初の脳卒中 発作の直前、同年5月19日にレーニンは国家政治保安部 (GPU) (22年にチェカーから変更)長官のジェルジンスキーに、反革命の疑いのある知識人、作家、教師のリスト作成を命じた[ 640] 。ジェルジンスキーはあまり熱意をみせなかったため、療養中のレーニンは7月に督促をスターリンに依頼、エスエル、メンシェビキ、作家の名前をあげ、このような連中を数百人逮捕し、放逐せよと命じた[ 640] 。
ゴーリキーが手紙で知識人の追放に抗議すると、レーニンは1922年9月15日の手紙で知識人らは「ブルジョワジーの共犯者」「ブルジョワジーの従僕」であり、「現実には彼らは国の頭脳ではなく、国の糞尿にすぎない」と回答した[ 641] 。レーニンは9月17日、ジェルジンスキーの補佐官ウンシリヒトに、誰が追放され、誰が追放されなかったかの報告をもとめた[ 640] 。レーニンの命令はジェルジンスキーとスターリンによって実行された[ 641] 。
1922年9月29日から11月17日まで5回にわたって、反ボリシェヴィキ的であるとされた知識人たちは客船に乗せられ、ドイツのシュチェチン (現在ポーランド)へ追放された[ 642] [ 643] 。
国外追放された知識人は120人[ 639] から、228人〜272人[ 644] 、あるいは300-400人[ 645] にのぼった。12月13日から脳の発作がはじまるが、その日のスターリン宛手紙でレーニンは、メンシェビキの歴史家N.A.ロジャコフがまだ追放されていないと憤り、大至急実行せよと命じている[ 640] 。
この知識人追放に用いられた船を、哲学者で数学者のセルゲイ・セルゲイヴィチ・ホルジー は「哲学者の船」と呼んだ[ 646] 。
知識人の追放政策は、レーニンが批判勢力とみなすもの一切を受け入れることができないことを証明していると歴史学者カレール・ダンコースは指摘する[ 641] 。
社会革命党裁判 ボリシェヴィキは、犯罪の要件は、法の侵犯行為ではなく、それを破るとみなされた「意図」のみを要件とした。すなわち、ある行為が社会へ有害な結果をもたらしたならば、法を侵犯したかにかかわらず、犯罪であると確定された[ 647] 。被告の弁護人は党員でなければならず、依頼人は有罪であることを認めたうえで情状酌量を求める程度にとどめなければならなかった[ 647] 。のちの1929年のソビエト法学では、たとえ犯罪がなくとも、人に有罪を宣告することができると明言されているが、これは実際に、僧侶に対する裁判、そして同時期の社会革命党への見せ物裁判でも適用されている[ 647] 。レーニンは司法局に「模範的で、教育的な裁判」を要求し、トロツキーも「洗練された政治的演出」となる裁判を要求した[ 648] 。1922年2月11日、レーニンは司法人民委員クールスキー宛書簡で「ブルジョアジーの手先であるメンシェヴィキとエスエルへの弾圧強化を、革命法廷、人民裁判所で迅速で革命的=合目的的なやり方で行うこと。モスクワ、ペテログラード、ハリコフ他で模範的な裁判を行うこと」を指示した[ 649] 。
1922年3月末からの第11回党大会では、プロレタリアに敵対するすべての政治グループの組織的自由を奪わなければならない、ロシア共産党は唯一の合法政党であると宣言された[ 645] 。また、「社会民主主義または小ブルジョワ的社会主義分子」は自分を共産主義者と称して、小ブルジョワ的心理と思考を持ち込み、唯一の合法政党に向かってくるのが不可避となったと決議で述べられた[ 650] 。
1922年4月、聖職者54人への模範裁判が行われ、11人に死刑が宣告され、5人が処刑された。
1922年の6月から8月まで行われた社会革命党裁判 (エスエル裁判)では、二つの被告グループがあり、意図的に仕組まれた犠牲者グループと、国に進んで証言しようとする「好意的(友好的)」な「犯罪者」グループがあった[ 651] 。そのような証言をし、裁判に協力すれば、刑を猶予され、報酬が得られるという手本を示した。エスエルの被告は、本来の意味での弁護士をつけることを許されず、多くの侮蔑的言動を受けた[ 651] 。弁護人の一人はブハーリンで、被告のエスエル指導者の死を求めて騒ぐデモにも加わるほどで、弁護人とはいえなかった[ 651] 。
エスエル裁判が進行していた1922年8月4日-7日、第12回共産党協議会は、「反ソビエト的政党・諸潮流に関する決議」を採択し、メンシェヴィキとエスエルなどの反ソビエト的政党は、ソビエト権力を批判する扇動を試み、協同組合、大学、文化活動、出版事業などを利用しており、革命はなお危険な状態にあるとし、イデオロギー活動を強化し、弾圧手段の適用の必要を説いた[ 652] 。そこには、「仮象無党派のブルジョワ民主主義知識人の政治陰謀家的上層」も含まれた[ 652] 。
8月7日全ロシア中央執行委員会最高法廷は、32人を反革命罪で有罪とした[ 649] 。被告11人は死刑を宣告されたが、トロツキーによって減刑された[ 651] 。トロツキーはエスエル残党のテロの標的になることを恐れ、レーニンを説得し、エスエルが体制へのテロルをやめるならば刑の執行は行われないと発表された[ 651] 。
8月10日、反革命行動への関与者を裁判ぬきで内務人民委員部特別委員会が行政手続きにより追放処分可能とする布告が出された[ 649] 。
このエスエル裁判によって、ロシア共産党の一党制が事実上確定した[ 649] 。1922-23年までにメンシェヴィキ、エスエル右派、エスエル左派、マクシマリスト、アナキストなど反対派諸政党は解体された[ 645] 。体制にとってエスエル党が脅威でなくなった1930年代から40年代にかけて彼らは系統的に根絶されていき、生き残ったのは女性党員2人だけであった[ 651] 。
モスクワ裁判 で知られる連邦検事総長アンドレイ・ヴィシンスキー レーニンは1921年4月、反革命取締非常委員会(チェカ ЧК)へボリシェヴィキ打倒を目指すメンシェヴィキとエスエルなどの政党を「根絶」する作戦の策定を命じた[ 604] 。これが1922年刑法典起草への指示につながった[ 604] 。
1922年2月6日全ロシア中央委員会布告でチェカーは廃止され、GPU に改組され、裁判によらず行政手続きだけで反革命組織を処罰するシステムは存続した[ 653] 。
社会革命党裁判の審理中の1922年5月26日に成立したロシア共和国刑法典では、「プロレタリア農民政府(労農政府)」つまりボリシェヴィキ政府への武装蜂起、権力奪取、転覆の試み、反革命宣伝・扇動、権力を中傷するようなデマの捏造および伝搬などが反革命罪 とされた[ 602] 。革命的合目的性(革命という目的に適合するかしないか)の観点から、罪刑法定主義 は否認された[ 602] 。
全ロシア中央執行委員会最高法廷は、エスエル党事件で32人を反革命罪で有罪とした[ 649] 。
1926年の改正でソビエトロシア刑法第58条 に反革命罪関連条文は集約された。1936年ソビエト連邦憲法 (スターリン憲法) でも125条で「勤労者の利益に従い、社会主義体制を強化するために」、市民には言論の自由 、出版の自由、集会の自由 等が保障されるとされた。したがって、「勤労者の利益に従い、社会主義体制を強化するため」の目的に適合しない表現の自由 は保障されないとされた[ 654] 。スターリン憲法起草に関わった連邦検事総長アンドレイ・ヴィシンスキー は憲法教科書で「わが国には、当然のことながら社会主義の敵にとっての言論、出版等の自由は存在しないし、また存在しえない。」とし、社会主義国家の害になるように利用しようとする敵の試みには反革命罪(刑法58-10条:反ソビエト扇動宣伝の罪)が適用されると説明した[ 654] 。
スターリン憲法が制定された時、ロシア内戦が終結して15年が経過していた。ボリシェヴィキは、社会主義が勝利した社会では、もはや敵対的階級は存在しないと宣伝してきた[ 655] 。しかし、ここでは「人民の敵」「社会主義体制の敵」の存在が予定されており、その場合、本来自由な討論を通じるべきところ、政策上の対立が敵味方にふるい分けられ、人民のなかに「人民の敵」を摘発する状況を推進していった[ 655] 。
1918年1月23日、教会と国家の分離、および学校と教会の分離に関する布告 が布告され、学校における宗教教育の禁止、教会の所有権および法的人格の剥奪、教会資産の国有化が命じられた[ 656] [ 657] 。これにより、教会設立の学校は廃校または公立学校へ移管され、学校での宗教教育だけでなく、学外の宗教教育も個人を除いて禁止され、教会は、婚姻、出生登録などの権限も剥奪された[ 658] 。「政教分離」布告が発布されると、たちまち聖職者と修道女に暴力が行使され、逮捕されたり公然と辱めをうけ、教会は略奪され、閉鎖された[ 656] 。1920年までに670の修道院が閉鎖された[ 659] 。
聖職者は、資本家階級や犯罪者とともに最下等身分とされ、公民権も剥奪されたうえに食料配給券 も支給されず、また、就労資格を得るのに必要な労働組合への加入も許されなかったために、働くことさえも許されなかった[ 659] 。さらに高率の税金と高額の家賃を課せられ、聖職者の子供は、中等以上の教育を受ける権利も剥奪された[ 659] 。
レーニンにとって聖職者は「反革命分子」であり、レーニンは総主教ティホーン との交渉をいっさい拒絶した[ 656] 。ロシア全土の総人口の70%、ロシア人のほぼ100%を占めていたロシア正教徒をボリシェヴィキは最大の敵対勢力の一つとみなし[ 660] 、飢饉を背景に、宗教への戦争がはじまった[ 656] 。
1918-20年までに28人の主教が処刑され、数千人の聖職者が殺害または投獄され、1万2000人の信徒が処刑され、数千人が強制収容所に送られた[ 661] 。
オムスク 大主教シリヴェストルの記録では、ボリシェヴィキは、聖職者たちの手足を切り刻んで殺し、生きながら焼くことも行った[ 661] 。また、ボリシェヴィキは、ペトログラード、トゥーラ、ハリコフなどで、市民のデモ隊に銃撃し、尼僧は暴行され、女性は共有 財産として性的搾取を受けた[ 662] 。
シベリアのトボリスク 主教ゲルモゲンは、当時トボリスクにいた廃帝ニコライ2世 一家の家の前で祝福したために逮捕され、ソビエト政府は10万ルーブル保釈金を要求した[ 663] 。1918年6月16日、赤軍は、反革命軍が接近しているので疎開するという口実でゲルモゲン、募金活動によって保釈金を用意した信徒たち、政治囚を、川船に乗せたあと、彼らの首の周りに石を詰め込み、デッキから突き落として溺死 させた[ 663] 。
オリョル主教マカーリーは、1918年夏、地方革命委員会に逮捕され、監獄で繰り返し拷問を受けた後、他の14人とともに処刑された[ 664] 。
キエフおよびガリツィヤの府主教ウラジーミルは1918年1月25日、酔っ払った赤軍兵士に殴られ、引き摺り出され、射殺された[ 665] 。ウラジーミルの遺体は切り刻まれ、血の海のなかに放置された[ 666] 。
1918年2月、ドン川流域の町から一人の赤軍兵士は、家族への手紙で、聖職者という「悪魔を追い回し、犬のように殺害しました」と誇らしげに書き送った[ 666] 。司祭ディミトリーは、裸にされて処刑直前、十字を切ろうとしたら、兵士に右腕を切断され、救世主ハリストス大聖堂 の修道院長は頭皮を剥がされたあと、頭部を切り刻まれた[ 666] 。
1918年2月から5月までで687人が教会の財産没収や政府への抵抗で命を落とした[ 667] 。1918年6月から1919年1月までに、府主教1人、主教18人、司祭102人、輔祭154人、修道士と修道女94人が処刑され、主教4人、司祭211人が投獄されたが、これは一部地域の数字である[ 668] 。
いくらかの抵抗もあった。ウクライナのルガンスク近郊のアヴデーエフカ村の住民は司祭と教会を献金で維持し、グリシノ村ではソビエトの命令を無視して司祭を守り抜いた[ 668] 。ドネツクでは炭鉱労働者と工場労働者が司祭を守った[ 669] 。
1918年1月、社会福祉人民委員コロンタイ は、アレクサンドル・ネフスキー大修道院 を接収するために兵士を派遣し、司祭を殺害したが、教会を守ろうとした群衆を追い払うことはできなかった[ 669] 。さらにペトログラード府主教ヴェニアミンがデモ行進すると、デモ参加者は数十万人に膨れ上がり、ネフスキー大通りを進んだ。これを契機に、各地で信徒同盟が結成され、ペトログラード、モスクワでも6万人の信徒が参加した[ 669] 。1918年2月-5月までに当局との衝突で687人の犠牲者が出た[ 670] 。
チーホン総主教 は1918年の革命一周年記念を準備しているボリシェヴィキに対して弾劾メッセージを送った[ 671] 。チーホン総主教は、ボリシェヴィキによって、毎日数百人もの無力な市民が逮捕され、裁判なしに処刑され、聖職者たちが反革命という大雑把で曖昧な罪名で無慈悲に射殺されている、「あなたがたは自由を約束した。だが、人が自分のために食料を確保することも、住居を変え、他の町へ旅することも許されないのに、それが自由なのか。」「反革命の罪を着せられることを恐れて、公然と自分の意見を述べる者がいないのに、それが自由であるというのか。」とのべ、迫害の中止を求めた[ 671] 。またチーホン総主教は赤色テロルを聖書 の「剣を取るものは剣によって滅ぶ 」を引いて批判した[ 667] 。これに対してボリシェヴィキはチーホン総主教と補佐役を逮捕し、軟禁 した[ 672] 。
グラスノスチ を推進し、ロシア連邦大統領付属政治抑圧者名誉回復委員会議長を務めたアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフ が引用した公文書によれば、1918年だけでも3,000人の聖職者が処刑された[ 673] 。しかも、聖職者たちは残虐な仕方で殺害された。司祭、修道士、修道女たちは磔刑に処され、煮えたぎるタール の釜に投げ込まれ、頭皮を剥がされ、絞殺され、溶けた鉛で聖体拝領を施され、氷に掘られた穴に溺死させられ、殺害された[ 673] 。
1919年、ボリシェヴィキは、聖者の墓をあばき、遺骸をさらすことを命じた[ 674] 。政府は、遺骸が骸骨にすぎないと示すことで教会の信仰心を攻撃しようとしたが、ある信者は、「不信心者による墓暴きに対し神は遺骸をぼろと藁に代えた。これは奇跡だ」と語った[ 674] 。
1921年夏のロシア大飢饉 は、旱魃だけが原因でなく、徴発などのテロリズムが農村を破壊、農民を植えさせた[ 675] 。ヴォルガ川中下流域、カフカス北部、ウクライナで飢饉は顕著で、3000万[ 676] から4000万人がうえ、ロシアの耕作地60%が被害を受け、死者500万、孤児数百万にのぼり[ 677] 、人肉食 さえ発生した[ 675] 。トロツキーは、飢饉は教会を壊滅させる口実になるとレーニンに進言した[ 676] 。1921年7月30日、レーニンは、徴発部隊を立て直し、動員を指示した[ 678] [ 679] 。カレール・ダンコースは、これこそ、レーニンがいかなる場合にも暴力による解決に訴える性向を持つことを証明するものだと指摘する[ 679] 。
数百万人が死んだロシア飢饉 (1921年-1922年) に対してチーホン総主教は1921年8月、飢餓救済委員会を設立し、世界の宗教の指導者にアピールした[ 680] 。ボリシェヴィキは飢餓救済委員会をただちに解散させ、教会財産の没収を通告した[ 681] 。総主教が飢饉犠牲者救援のために全国聖職者評議会を創設すると、これもただちに禁止した[ 656] 。レーニンは教会財産の略奪の理由について、経済再建、ジェノバ会議のためなどと列挙したが、飢饉対策とは一言もいわなかった[ 682] 。
1922年2月19日、チーホン総主教は飢饉の犠牲者のために、礼拝用を除いて貴重品をすべて供出すると申し出、2月23日、レーニンによって布告として出された[ 656] 。しかし、政府はすべての教会財産の没収を開始した[ 681] 。これに抵抗した信者と聖職者への虐殺と抑圧がはじまった[ 656] 。押収に抵抗した信徒ら群衆による騒動は何百件と記録されたが、これらは帝政ロシアの亡命者からの指示で動く反革命勢力の組織的運動だと決めつけられた[ 676] 。
1922年3月11日、レーニンはトロツキーに教会の「清掃」つまり「略奪」がどれだけ進行しているか報告することを命じた[ 683] 。3月19日のモロトフ宛文書でレーニンは「無数の暗黒の聖職者」がソビエト権力に対して戦いを計画しているとし、「飢えた地域で人々が人肉で飢えをしのぎ、数百数千の死体が路上で腐敗していく今この時においてのみ、われわれはもっとも粗暴にしてもっとも情け容赦ない活動によって、教会の宝物の没収を実現できる、そしてそうしなければいけない。何が起ころうとも、われわれはできるだけ速やかに決定的な形で教会の財を没収しなければならない。」「処刑数が多ければ多いほど、うまく行くだろう」と、「できるだけ多くの反動的聖職者と反動ブルジョワジーの処刑」を命じた[ 684] 。この文書は1960年代末まで極秘だったが、フランスに流出し、1990年にソ連が公式に認めるまで偽造文書とされてきた[ 685] 。
また、レーニンは1922年2月の手紙でモスクワ、ペトログラード、ハリコフ他の重要な地で、迅速かつ強力な弾圧を実行するための見せ物裁判 (показательный процесс、model trials、模範裁判)を推奨した[ 686] 。その二ヶ月後、1922年4月から5月にかけて、聖器物徴発に抗議した聖職者への「54人裁判」が、みせしめで行われ、11人に死刑宣告、5人が処刑された[ 687] 。1923年3月にも、ボリシェヴィキ政府は16人のカトリック聖職者の見せ物裁判を行い、死刑が宣告された[ 688] 。外国からの圧力で執行猶予となったが、一人の司祭が銃殺された[ 688] 。レーニンがはじめた見せ物裁判は、スターリンによって大規模に発展し、モスクワ裁判 で同志たち(共産党員)が裁かれ、処刑されていった。
54人裁判で、反総主教の聖職者集団の存在が判明し、彼らがボリシェヴィキに協力していたことがわかった。彼らは正教会を批判し、「生ける教会ー革新教会」を結成し、教会指導権を掌握しようとした[ 687] 。「生ける教会」は、1922年3月に国家政治保安部(GPU) が正教会内部から攻撃するために改革派を動かして設立した[ 689] 。革新教会派は、ソビエトに対する完全な忠誠を表明、マルクス主義を受け入れ、財産没収を支持し、ボリシェヴィキからの資金援助を受けた[ 690] 。
1922年5月、共産党政権を支持する司祭たちがチーホンに教会の全ての業務を辞するよう要求すると、チーホンはこれに屈した[ 691] 。以後、宗務院 のような、高等宗務部が設立され、総主教座の廃止をよびかけ、1922年8月までに143の主教のうち37人の司祭が「生ける教会」に合流した[ 691] 。チーホンは高等宗務部の関係者を破門したが、意に介されることもなく、地下に潜行せざるをえなかった[ 691] 。
ペトログラード府主教ヴェニアミン・カザンスキーは1922年6月10日に逮捕され、ヴェニアミンを含む10人が死刑宣告をうけた[ 692] 。
1922年半ばまでに教会財産押収をめぐって1414件におよぶ流血の衝突が各地で発生した[ 681] 。シューヤ事件では、群衆が騎馬警官に罵声を浴びせたり、石や薪を投げるなど抗議すると、数十人の兵士が機関銃で一斉射撃し、4人が死亡、10人が重傷した[ 681] 。
1922年には約8000人の聖職者が粛清 されており、この年だけで司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人が殺害され[ 693] 、司教の多くは逮捕され収容所へ送られ、さらにこれに多数の信者が殺害された[ 694] 。ヨーロッパの宗教界から抗議をうけたため、総主教だけは自宅軟禁となった[ 694] 。レーニンは総主教に「私はソビエト権力に敵対した…これらの過ちを遺憾に思う」と「自分の罪」を認め署名させることを条件とした[ 694] 。これが、のちにスターリンが強要していった「自己批判 」がソビエト政治に登場した初の例で、粛清の対象となった者に自説を捨てさせ、粛清の正当性を強要するやりかたを考案したのはレーニンだった[ 694] 。
1922年5月4日には司祭の死刑を新たに制定する布告を出した[ 683] 。
ボリシェヴィキは青年団 コムソモール を用いて、1922年末に反クリスマス活動を行なった[ 689] 。コムソモールは、司祭やラビの格好をして、モスクワの街路で「ラビはいらない!司祭はいらない!ブルジョワを打ちのめせ!クラークを締め殺せ!」とデモ行進した[ 689] 。白ロシア のゴーメリ では、キリスト教やユダヤ教の神に対する裁判を描いた演劇がクリスマスに上演され、劇中で神々は裁判官から死刑を宣告され、広場で焼かれた[ 689] 。サンタクロース は「子供の心を奴隷にする」と告発された[ 689] 。劇場では、ケレンスキー政府やブルジョワ生活への風刺を描いた演劇が上演された。しかし、こうしたキャンペーンはむしろ宗教的信仰心を強めたと1923年の共産党の決議で確認され、以降は縮小された[ 689] 。無神論協会は、宗教を嘲笑し、攻撃した。ユダヤ教に対してはナチスのような反ユダヤ主義 で攻撃した[ 689] 。
1921年から23年までに正教会の8100人の聖職者、2691人の妻帯司祭、1962人の修道士、3447人の尼僧、そしておびたただしい数の信徒が殺害された[ 690] 。1923年4月、ティーホン総主教は今後ソビエト政府に敵対しないと裁判で誓言し、釈放された[ 695] 。他方、革新教会は支持者をほとんど獲得できなかった[ 695] 。
多くのキリスト教徒は、迫害をボリシェヴィキを主導するユダヤ人の仕業であるとみなしていたが、ユダヤ教も迫害された[ 691] 。ユダヤ教迫害は、1921年に共産党に合同したブント(リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟) が担当した[ 696] 。ブント党員は、宗教とシオニズム を嫌っており、シナゴーグ をクラブや倉庫に転用した[ 696] 。
反宗教劇「ケーデル」では、四つん這いにさせた俳優の尻にユダヤ教の清浄な食物を意味する「コシェル 」と書いて嘲笑した[ 696] 。
ボリシェヴィキ政府は、ユダヤ自治機関や、ヘブライ語 も「ブルジョワの言葉」であるとして禁止した[ 688] 。
無神論雑誌「スタンカのベズボジニク 」の表紙(1929年)。宗教との戦い五カ年計画 。ユダヤ教 の神 エホバ(ヤハウェ) 、キリスト教 の神 (God)、イスラム教 の神アッラー が潰されている。 レーニンは宗教との戦争に勝利し、ソビエトは無神論 を国家イデオロギーとした[ 682] 。無神論雑誌「スタンカのベズボジニク 」では、ユダヤ教 、キリスト教 、イスラム教 、仏教 との戦いが宣伝された。
1923年4月、共産党が指揮した第二回教会会議では、共産主義者による教会の迫害を否定し、「社会正義の護衛官」であるレーニンによる十月革命は「キリストの功業」であり、ソビエト政府は世界で唯一の「神の王国 」の理想を体現しようとしていると宣言し、それとともに総主教座の廃止が宣言された[ 691] 。これにチーホンは再び屈し、1923年6月に自らの「反ソビエト的な」過去をあらため、「生ける教会」への破門を撤回した[ 691] 。
レーニンは1924年に死去したが、遺体は防腐処理され、レーニン廟 に展示された。レーニンは現世の聖人であると宣言され、レーニン崇拝は人民の義務となった[ 697] 。ティーホン総主教は翌1925年に死去した。
のちにスターリンが権力を掌握すると、同様にスターリン崇拝が発展した。スターリン没後の1956年 、ソビエト連邦共産党書記長 ニキータ・フルシチョフ が「個人崇拝とその諸結果について」を秘密演説し、スターリンへの個人崇拝 、そして大粛清 をはじめとする弾圧政策を批判した。これは「スターリン批判 」として世界中の共産主義運動に衝撃を与えた。
爆破される前の救世主ハリストス大聖堂 1931年12月5日、爆破される救世主ハリストス大聖堂 。スターリンの命令によって爆破された[ 698] 。 弾圧があっても、信徒が1925年には9%増加したため、党イデオローグのエメリヤン・ヤロスラフスキーが「戦闘的無神論者同盟」を結成し、活動した[ 690] 。
ティーホン総主教没後、主教たちは新総主教を選出しようとして、信徒のクフシノフ親子、修道士タヴリオンを各主教へ派遣。しかし、クフシノフ親子は逮捕後、処刑され、修道士タヴリオンは以後27年間、監獄、強制収容所、流刑血ですごした。ソビエトは投票権をもつ主教の名簿を入手し、1927年までに117人の主教を逮捕した[ 699] 。
スターリンはレーニンの宗教弾圧を継承した。1932年にはほとんどすべての修道院が破壊された[ 700] 。レニングラードでは2月18日、318人の修道士が強制収容所に送られ、22の聖堂が閉鎖され、モスクワでは400以上の聖堂と修道院が爆破された[ 700] 。スターリンは利用価値のなくなった革新教会も含めて弾圧した。
1930年に正教会はまだ3万の教会、163人の主教、6万人の司祭、数千万の信徒がいたが、1931年には2万に激減した[ 701] 。1930年のモスクワの教会数は1917年から半減し、1933年には教会は革命前の15-25%にまで減少した[ 701] 。1939年には活動している教会は100ほどに減少した[ 702] 。
1936年には主教20人が逮捕され、1937年には主教50人が逮捕された[ 702] 。1930年にいた163人の主教のうち、86人が1937年には収容所へ送られ、29人の主教が死亡し、27人が「引退」させられた[ 702] 。1930-40年代に600人の主教が殉教し、教区司祭も犠牲になった[ 702] 。1935年に100人いた教区司祭は1940年までに7人に減った[ 702] 。革新教会も1935年に50人いたが1941年には8人に減った[ 702] 。1930年代だけで3万人から4万人の聖職者が処刑されるか、収監された[ 702]
1941年6月に独ソ戦 が開始すると、総主教代理セルギー府主教は、祖国防衛をスターリンにも先んじて訴えた。スターリンはこれを高く評価し、1943年に宗教弾圧を撤回した[ 703] 。1945年には神学校設立も許可され、1950年には3万人の司祭が活動を許され、教会も再開されたり、新設された。とはいえ、聖職者の逮捕、強制的引退は続いた[ 704] 。
革命によって、帝政時代の司法制度や警察制度が崩壊し、犯罪が多発し、社会の混乱が極度に進んだ[ 705] 。かつて安全であった都市ペトログラード も、急速に危険な都市となった[ 705] 。
まず、二月革命が勃発すると、大量の武器が、蜂起した民衆や解放された囚人にわたり、また警察が破壊され、代わって民警が登場した[ 705] 。しかし、命令書の偽造は簡単で、民警の制服や腕章だけで市民は沈黙し、民警や軍事委員を偽装して財産を押収する犯罪が頻発し、ほぼ無政府状態となった[ 705] 。
さらに七月事件 で政情不安が増すと、7月には冷凍会社から23万ルーブリ、8月には博物館から800万ルーブリの貴重品が盗まれ、1日で30件の強盗事件が発生し、10月になると二日間で800件、一週間で1360件発生した[ 705] 。1915年には3件しか発生しなかった武装強盗事件も、1917年3月から10月までに87件発生した[ 705] 。アナーキスト集団が、4月にはリヒテンベルグ侯邸を、5月にはルーゲ伯邸を襲撃して強盗し、K.K.グリゴリエフ伯爵は殺害された[ 705] 。6月には元内務大臣ドゥルノヴォ 邸が「搾取者を搾取する」と称して襲われ、7月には種々の工場で爆発や放火事件が発生、オフタ工場火災では20人が焼死し、避難民の自宅も襲われた[ 705] 。七月事件以降は、政治的意見の違いで殺人にまで発展した事件が頻発し、政治的意見の違いを意見交換や相互の譲歩ではなく、暴力で解決しようとするような社会の暴力化が進行した[ 705] 。また、第一次大戦中に移入した中国人労働者も殺人事件の加害者とも被害者ともなった[ 705] 。
3月12日に死刑が廃止され、3月17日には囚人には刑期縮小と大赦が与えられたが、犯罪者が一夜にして模範的な市民に転ずることはなかったし、脱走兵にとっても犯罪は生活の手段であった[ 705] 。民警も摘発をおこなったものの、犯罪者による武装抵抗や暴動・蜂起などで反撃された。司法制度が崩壊すると、守衛もストライキを開始し、民警総督の命令を無視し、人間の善意を前提して出発した新しい司法制度は犯罪者に利用された[ 705] 。また、私刑 (サモスード)が横行し、泥棒がその場で群衆に殴り殺される事件も多発し、「人民裁判が最も公正で、最も迅速」であるとして、その場で満場一致で死刑判決を下し、殺害する事件も発生した[ 705] 。
革命の過程において公共の秩序と市民の安全を保障すべき公的な暴力機関は崩壊し、暴力が野放しになり、公的暴力と私的暴力との差異が消滅した[ 705] 。究極的制裁手段 (ultima ratio) を欠く政治体制には、法統治は不可能であり,社会の紛争解決の唯一の手段が暴力になることは必然的で、このような社会の暴力化は、市民を残忍にしていった[ 705] 。旧世界の価値観が排除され、急激な社会的政治的変動の中で善悪の観念が混乱し、合法性と犯罪性の違いがあいまいになった。 階級対立が激化すると共に個人財産と生命の不可侵性が攻撃された。マルクス主義の政治的イデオロギーは、階級憎悪と復讐心を煽り立て、社会の犯罪化に拍車をかけた[ 705] 。
ボリシェヴィキ党員家族が居住したメトロポール・ホテル の大ホール ボリシェヴィキ党員家族が居住したナツィオナーリ・ホテル の内観 ボリシェヴィキ革命後、大方の党員重鎮は、贅沢なくらしをした。ソビエトロシアは、市民からあらゆる権利を奪っていたが、党員は権威を享受し、これは汚職や権力濫用につながり、官僚制も堕落した[ 706] 。党員は公的な資格において法的訴追から事実上免除されており、彼らは威張り散らし、一般市民に貢がせた[ 706] 。党の上級職員は、超過の食料供給をうけ、特別の住居や衣服も支給され、医療ケアも受け、家具備え付けの列車で旅をした[ 706] 。アドリフ・ヨッフェ がいうように、「前衛」はたちまち特権カースト になり、共産主義者は人民から遊離していった[ 707] 。
エリート共産党員の特権は、年功、党員歴、忠誠度にもとづく広範な役得に拡大したが、それはマルクス主義とは無縁だった[ 708] 。革命後二年で、ボリシェヴィキとその家族4000人は、モスクワでは、クレムリン と、赤の広場 にちかいメトロポール・ホテル 、ナツィオナーリ・ホテル に暮らしていた[ 708] 。モスクワでは当局に雇われた家事労働者は2000人いて、特別の商店、温泉、美容院、党員専用のレストランの複合施設があった[ 708] 。ペトログラードでは当局者はホテル・アストリア にすんだ[ 708] 。
ジノヴィエフは広いアパートに住み、常時、ホテルのスイートルーム スがさまざまな情婦 とともに用意された[ 709] 。ゴーリキーは「人民委員だけが快適な生活をしている。彼らは情婦と反社会的奢侈に支出するために、一般人からできるかぎり盗んでいる」と妻にかたった[ 709] 。
古参党員はトゥーラ から「党員が大衆から遊離し、彼らを惹きつけることを難しくしている。党内の伝統の同志精神は完全に死んだ。それは党のボスがすべてを仕切るワンマン支配にとってかわり、収賄 が一般的になった。収賄なしには同志は生き延びられない」と報告したが、レーニンは無視した[ 710] 。
ヨッフェもベルリンから帰任すると腐敗ぶりに衝撃をうけ、とてつもない不平等があり、これは危険な状況だ、革命的無私と同志的献身という伝統的な党精神は消滅してしまったとトロツキーに語った[ 711] 。
レーニンは自分の生活スタイルが反対勢力に知れ渡ることを自覚しており、贅沢な生活は控え、禁欲的で質素な暮らしをしていた[ 712] 。しかし、一部の当局者が党員は人民と同じ配給量を守るべきだと進言すると、レーニンは革命家がいなければ革命の前衛を行進できない、活動家は大事にされるべきだと党員の特権を擁護した[ 708] 。
革命後の混乱のなか、食糧や物資の不足で犯罪が増えても、また、飢饉が発生しても、ボリシェヴィキ党員エリートは自らの裕福な生活スタイルを変えることはなかった。ロシア大飢饉 の最中の1921年6月、党中央委員総務部は、党中央の最高位の活動家のために食料を確保するとして、月に砂糖4フント(ロシアポンド) (1フント=400g)、茶半フント、ライ麦粉20フント,バター3フント,チーズ・ハム4フント,乾燥野菜5フント,塩1フント,普通石鹸2,化粧石鹸2個、タバコ500本、マッチ10箱、ワイン、ブランデー、茹で豚などのデリカテッセン 、これに小麦粉と肉を加えた量を、三ヶ月間100人分を党中央書記局幹部のために食料人民委員部から放出するように命令する文書が残されている[ 713] 。同時期、サマラ県では、備蓄はまったくなく、病院、孤児院、赤軍兵士家族への供給は停止され、農民が完全に飢えて、飢えた市民は物乞いをして生活をしていた[ 714] 。このような飢えた民衆と飽食の権力者との間の生活格差は、軋轢を生み出したため、それを抑圧する軍事力が不可避であった[ 714] 。レーニン体制とは、特権的党エリートを擁護するための赤色テロル に基づく弾圧独裁体制であった[ 714] 。
ゴールキ に保存されたレーニンの別荘。現在は博物館。スターリンが愛用したユスポフ宮殿 高位の党員は、国外の保養地で政府費用で長期滞在でき、党の指導者らは別荘(ダーチャ) を持った[ 715] 。レーニンも質素な暮らしをしていたといっても、ゴールキ のツァーリ将軍の地所を接収して別荘とし、トロツキーはユスポフ家 の豪勢な地所を専有し、スターリンは元石油王の田舎の邸宅でくつろいだ[ 715] 。
レーニンが1921年に「我が党は政府与党」であるとのべたときでさえ、その公的な権力にも関わらず、共産党は以前と同じく、私的な団体だった[ 432] 。1918年憲法でも、1924年憲法でも、党には言及していない[ 432] 。ようやく1936年のスターリン憲法 で、共産党は自らを強制によってではなく、実例によって国を導く精神的な力と規定されたが、依然として共産党は私的な組織であり、外からの監督(国民による権力の監視)に服すことはなく、あらゆることを支配する一方で、党自体はどのような支配からも自由だった[ 432] 。これは、法によって権力を制限する法の支配 ではなく、権力者による恣意的な統治(人の支配)というべきものであった[ 716] 。
マルクス主義 法学では、共産主義社会において諸個人の利害対立は消滅するので、法や国家は不要とされており(法の死滅 ・国家死滅 )[ 717] 、ボリシェヴィキはこのような「無法・無国家共同体」の実現を目指した[ 718] 。こうしてソ連では、「法治主義 」が欠如し、権力および権力者に対する法的チェックのない「人治国家」となった[ 718] 。ソ連では、党と国家の最高指導部は論理的に法よりも上位にあるため、法に拘束されないとされ、1956年にスターリン批判 を行ったソ連共産党 第一書記 ニキータ・フルシチョフ は「我々が法の主人であり、法が我々の主人なのではない」と述べた[ 719] 。
内戦終結までに共産党ではかなりの専従職員を抱えた。彼らは労働者大衆とは接触を失ったホワイトカラー のエリートで、1922年夏にはこれら党官僚は15000人にのぼった[ 706] 。党の専従職員は、官僚主義を指導と監督の中枢にすえ、党のヒエラルヒーにおいて、大会から協議会、そこから委員会、ついで党書記へと権力は移っていった[ 706] 。中央集権化は、はじめは共産党がロシアの組織的活動の全てを引き受け、ついで中央委員会、ついでスターリン、カーメネフ、ジノヴィエフの三人が政治局を担当するようになり、最終的にスターリン一人が決定権を掌握した[ 706] 。
党官僚制だけでなく、国家の官僚制も構築された。以前は私的業者が果たしていた責務を政府が負うようになり、無法状態と欠乏が補助金を増大させた[ 715] 。教育人民委員部 は拡張され、文化活動の検閲だけでなく、私立学校や教会運営校をふくめてすべての学校の監督を行なうようになり、その結果、1919年5月までに帝政時代よりも十倍多い職員を抱えた[ 715] 。
政府の支払い名簿になった人は優遇され、普通の市民が入手できない物資を得たり、賄賂と心付けを着服した[ 715] 。革命前の1913年よりもブルーカラーに対するホワイトカラーの比率は3分の1高くなった[ 715] 。鉄道輸送が5分の1に減少し、鉄道労働者の数は据え置かれたままだったが、鉄道官僚の人員は75%も増えた[ 715] 。政府が雇用する官僚・公務員の数は1917年には57万6000人だったのが1921年には240万人と5倍になり、これは工場労働者の二倍だった[ 715] 。ボリシェヴィキ党員のなかには教育と管理経験をもつ人がほとんどいなかったため、政府は帝政時代の官吏を省庁で雇い、人民委員部 の中央部局でも半数以上が革命前に行政職 に就いていた[ 715] 。レーニンはこれに苛立ったが、変えることはできなかった[ 715] 。
マルクス主義は階級廃絶を主張していたが、レーニンらが築いたソヴィエト・ロシアでは、エリート共産党が特権を掌握していった。これはやがて党官僚 という偽善的な新階級「ノーメンクラトゥーラ 」「赤い貴族 」を生み出し、富は公平に分配されるどころか、ますます特権階級に集中していった[ 720] [ 721] [ 722] 。
東側諸国 でも労働者は、「解放」というスローガンとは裏腹に、労働組合、党、官僚による統制下に置かれた[ 723] 。共産党は平等を語ったものの、頂点には党エリートのノーメンクラトゥーラ、中間に労働者と農民、底辺にキリスト教徒と元ブルジョワジーといった階層社会を生み出した[ 724] 。
ミハイル・S.ヴォスレンスキーは、ソ連の「現存社会主義社会には、生産手段の『国有』ないし『社会有』以外に法的な所有形態は存在しないから、生産手段の所有を通じての支配・被支配の関係は生まれない」という主張はフィクション にすぎず、実際のソ連ではソビエト共産党 の党員1,700万人中4パーセントの70万人が、指導者層のノーメンクラトゥーラを形成し、それが生産手段を超独占的に管理することによって、労働者階級を支配し搾取していると論じた[ 725] 。ソ連崩壊後もノーメンクラトゥーラは、新たに大富裕層 オリガルヒ を生み出した[ 726] 。
1919年ベルリンとミュンヘン、ハンガリーでレーニン政権をモデルにした革命が発生した。
1918年9月にドイツ帝国 が連合国 に降伏すると、11月3日に赤旗 を掲げた労働者・兵士レーテ (ソビエトのドイツ語訳)がキールの反乱 を起こし、ドイツ革命 が始まった。続いてレーテは、リューベック 、ハンブルク 、ブレーメン 、ヴィルヘルムスハーフェン 、ハノーファー 、オルデンブルク 、ケルン を、11月8日には西部ドイツすべての都市がレーテの支配下となった[ 727] 。
11月8日、バイエルン王国 で革命が起きて、クルト・アイスナー らによってバイエルン人民国 が成立した。
11月9日 にベルリンでゼネストが起きると、マクシミリアン・フォン・バーデン が皇帝ヴィルヘルム2世 の退位を宣言し、ドイツ社会民主党 フィリップ・シャイデマン がドイツ共和国宣言 を出した。11月10日、社会民主党らによって臨時政府人民代表委員会 が樹立した。ドイツ人民代表委員会の設立にレーニンは敬意を表し、ロシアが飢えで苦しんでいるときに、ドイツ革命政府のために貨車二両の小麦を送ることを申し出たが、ドイツ人民代表委員会はアメリカからすでに援助があるので十分だと回答し、レーニンは激怒した[ 728] 。
レーニンは世界労働者革命として、ドイツの革命支援のために300万人の軍を動員すると宣言し、スパルタクス団 とカール・リープクネヒト を祝福した[ 729] 。リープクネヒトは1918年12月30日から1919年1月1日にかけての大会でドイツ共産党・スパルタクス団 を結成し、レーニンの指示に従ってレーテによるプロレタリア独裁を目指し[ 730] 、1月5日にはヴァイマル共和政 に対して武装蜂起を起こした(スパルタクス団蜂起 )。社民党はドイツ義勇軍 に鎮圧を頼み、リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク は殺害された。
1919年1月の国民議会選挙 では社会民主党 が第一党となった。共産党 は選挙をボイコット した。その後国民憲法議会 で社会民主党、中央党 、民主党 の連立政権のヴァイマル共和国 が成立し、ヴァイマル憲法 が発布された。
バイエルン人民国では1919年2月にアイスナーが暗殺され、4月にはエルンスト・トラー がバイエルン・レーテ共和国 を樹立させたが、ロシア出身の共産党員オイゲン・レヴィーネ によって打倒され、新たにレーテ共和国を樹立させた。5月、レーテ共和国は社民党政府によって鎮圧され、崩壊した。
ヴァイマル・ドイツとソビエト・ロシアの軍事協力[ 編集 ] ヴァイマル共和国は戦後処理、経済の混乱、各種の政治闘争などで混乱を極めたが、同じく混乱を極めたロシアと関係を構築していく。1922年4月、ヴァイマル・ドイツとソビエト・ロシアはラパロ条約 で相互に債務を放棄した。ドイツはヴェルサイユ条約 で軍隊維持を禁じられ、最下等国(パーリア国家) の地位に落とされており、同じパーリア国家のロシアと同盟することで打開を試みた[ 731] 。ソビエトロシアはポーランド・ソビエト戦争 (1919-21年)で敗北したことで軍事の遅れを痛感し、ドイツの軍事技術と資本を求めていた[ 732] 。これに先立ち、ジェノヴァ会議 が開かれていたが、交渉は行き詰まっていた[ 733] 。1922年2月にレーニンはジェノヴァ会議を「破産させる」ことを外務人民委員チチェーリンに指示していた[ 732] 。
ラパロ条約によってロシアとドイツの貿易は急速に増大するとともに秘密裡に軍事協力関係を築いた[ 734] [ 735] 。ドイツはロシア内部に、ヴェルサイユ条約で禁止されていた武器製造工場を設立した[ 732] 。また、ドイツ空軍は秘密裡にリペツク空軍学校 を設立し、パイロットを訓練し、見返りに赤軍も研修を受けた[ 736] 。ロシアとドイツの軍事協力はヒトラー登場後の1933年9月まで続いた[ 732] 。
1919年3月、ボリシェヴィキのクン・ベーラ はハンガリー革命 を起こし、ハンガリー評議会共和国 を樹立させた。
レーニンは世界革命は近いと考え、世界革命のための共産主義インターナショナル(コミンテルン) を構想した[ 737] 。コミンテルンはやがてモスクワから管理され、ソビエト外交政策の一部門となり、統制され、中央集権化された組織となった[ 738] 。コミンテルン創設規定では、ロシアからの支援をのぞむなら、ボリシェヴィキのように管理されるレーニン主義 型組織でなければならないと明記され、加盟政党から穏健派と中道主義者を追放し、モスクワの路線に従うべきとされた[ 738] 。これは、世界革命の理念にはかりしれない害毒を及ぼし、社会主義者の夢を妨げたとハンガリーの歴史家セベスチェンはいう[ 738] 。
1920年のコミンテルンの21項の条件 では、外国の共産党はモスクワに服従しなければならなかった[ 739] 。1922年12月の第4回コミンテルン大会では、各国党の間で衝突が生じた場合、ソビエト国家の利害が加盟党の祖国よりも優先されると決議され、外国の共産党は独立した見解をもつ権利もなくなった[ 739] 。ブハーリンは、外国の共産党員はソビエト政府の外交政策をいかなる場合でも支持する義務があるとした[ 740] 。つまり、世界の共産主義者は、ソビエト・ロシアを唯一の祖国とし、ソビエト政府を唯一の政府としなければならなかった[ 740] 。また、外国の共産党がコミンテルン大会の決議に異議を唱えたり、干渉するのを防ぐために、コミンテルン大会がその会合を開いた後にのみ、諸党は会を招集すると定められ、これにより、外国の代表者が自らの国民組織を代表して独立した決議の提出が不可能になり、拘束力のある委任状を持ち込むことを禁止され、各国の共産党は、代表をコミンテルン執行部に派遣する権限さえも失った[ 740] 。歴史家ジュリアス・ブラウンタール は「コミンテルンは厳格に中央集権化され、軍事的な規律を備えたボリシェヴィキの世界党となった。(…)世界中の共産党は事実上、ロシア共産党の支部となった。ロシア共産党はロシア国家を統治する政治局によって統治されており、海外の支部はロシア政府の出先機関となった」と指摘している[ 740] 。海外の党員で同調を拒んだ人々は一掃された[ 740] 。
ヨーロッパの社会主義諸政党や第二インターナショナル は、ボリシェヴィキの暴力による自由の破壊を非難したが、ボリシェヴィズムは一時的な逸脱であり、いずれ民主主義へ不可避的に進化するとみなし、1923年5月のハンブルグ決議では、ソビエトロシアへの干渉は反革命政府の樹立につながるとして不干渉政策をとった[ 741] 。
レーニンは英領インド、中国など各国の共産党に支援金を供出するかわりに、運営の詳細にまで口出しした[ 742] 。1919年暮れ、アフガニスタン共産党 の創設を命じ、ベンガル共産主義者には500万ルーブルまで供出可能、フィンランド共産党 のエイノ・ラーヒアには1000万ルーブル、『世界を揺るがした10日間 』を書いた米国ジョン・リード には100万米ドル、中国南部の活動家には2万ルーブル、朝鮮の活動家には1万ルーブル提供を承認した[ 743] 。レーニンが出席した予算会議の明細書では、ドイツ共産党 には44万6592金ルーブル (約572億円[ 744] )、イタリア共産党 に36万842金ルーブル(約462億円)、チェコスロヴァキアに25万、イギリス共産党 に20万金ルーブル、フランス共産党 に10万金ルーブル、その他、米国、オーストリア、オランダ、ギリシアへも支援し、締めて500万ルーブル(約6400億円)にのぼった[ 745] 。これはロシア飢饉への救済額をはるかに上回っていた[ 745] 。レーニンによって行われた各国の共産党への支援金供出は、後継者によって1980年代までつづいた[ 745] 。
1922年 12月30日にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国 、ウクライナ社会主義ソビエト共和国 、白ロシア・ソビエト社会主義共和国 の4つを統合し、ソビエト社会主義共和国連邦 が成立した。
ボリシェヴィキは「プロレタリア」の名の下に権力を掌握したが、実際には労働者から労働組合 役員を選出する権利を奪い、ストライキ権 など帝政政府が認めた権利も奪った[ 527] 。また、ボリシェヴィキ政府は、労働組合を、組合員を代表する機関(労働者が労働者の環境や条件の改善を要求する組織)としては消滅させ、国家機関として編成していった[ 500] 。
革命前にボリシェヴィキは労働者を倫理的な資質を持つという幻想を持っていたが、労働者が個人の幸福にだけ関心があることがわかると、レーニンは工場労働者は兵役回避のために働いているにすぎないとし、1922年3月の第11回党大会で「ロシアには真の意味でのプロレタリアートは存在しない」と断言した[ 746] 。こうした労働者観から、ボリシェヴィキ体制は、すべての人々に強制労働 を課した[ 746] 。ブルジョアには不愉快で危険な仕事を課し、忌避すれば処罰した[ 746] 。トロツキーも、人間の本性は怠け者なので、労働力を引き寄せるには強制的な労働義務の導入が唯一の方法であると述べた[ 746] 。
1918年12月10日の労働法では「全般的労働義務制」が規定され、16-50歳のすべての市民は社会的有用な労働に従事する義務を負うとされた[ 747] 。
1919年5月には任意就業制から強制就業制に移行した[ 747] 。
1920年1月には勤労動員体制が敷かれ、労働忌避者は革命法廷で裁かれることになった[ 747] 。
1922年、労働人民委員部は、労働者の個々の特性や希望を考慮するこなく、計画にもとづいて労働力を供給すると宣言した[ 746] 。すなわち、労働者は、個人的な意向は関係なく、政府が必要とみなしたところに派遣された[ 746] 。
こうした路線は「労働の軍事化」路線で最も尖鋭な表現をとった。1919年12月16日にトロツキーは軍を「労働軍」として利用するだけでなく、全般的兵役義務制のもとでの軍の動員システムと全般的労働義務制での市民の労働動員システムを結合するテーゼを提唱した[ 747] 。1920年1月、全ロシア労働組合中央評議会共産党フラクション会議で、レーニンとトロツキーは労働の軍事化方針を説いた[ 747] 。これは否決されたが、国防のための資源動員全権を掌握していた労農国防会議は1920年1月30日に第一労働軍の活動区域を指定した[ 747] 。続けて2月3日に全ロシア中央執行委員会・人民委員会は、全市民の労働義務制(徴用 制)の実施を労農国防会議に委ね、登録・出頭忌避、労働忌避などの違反行為の処罰規定を設けた[ 747]
1920年4月の第3回全ロシア労働組合大会でレーニンは「いっそう厳格な規律(労働規律)、いっそう厳格な単独責任制、いっそう厳格な独裁」を要求した[ 748] [ 749] 。トロツキーも「国家の指図の遂行を拒否し、自己の意志を労働者階級の意思およびその経済的課題に従わせない者を罰する労働者国家の権利」が必要だとし、「労働の軍事化」は「労働力の組織、その強制的な編成の不可避の基本的な方法」であると主張した[ 749]
1918年6月、大中企業が全面的に国有化された[ 750] 。1920年11月には小企業も国有化された[ 750] 。ネップで小企業も国有化が解除されたが、工業企業の基本は国有企業だった[ 750] 。国有企業の管理について、労働者の自主管理と国家管理構想とが対抗した。企業管理部は合議制をとっていたが、内戦の動員体制のもと、権限を集中する単独責任制が強調された[ 751] 。
これに対して1918年4月20日の「左派共産主義者」テーゼでは、国家管理は官僚主義的集産主義となり、下から統治するコミューン国家の否定になると批判した[ 752] 。レーニンは、「ソビエト的民主主義と、個々人が独裁的権力を行使することとの間には、どのような原則的矛盾も決してない」[ 753] と反論、小ブルジョワ的放恣と無政府性を批判[ 752] 。
1920年3-4月の9回党大会では、職場では完全かつ無条件の単独責任制を確立し、工場管理部においても単独責任制をとり、行政=生産装置の中・上級環においては縮小された合議制をとるとされた[ 754] 。レーニンは、工業管理においては「数百、数千、数万の共同作業を方向づける意志の、無条件的な、最も厳格な統一」が求められると述べた[ 754] 。これにより、企業管理部では、選挙制から選任制に移り、組合工場委員会の介入は排除された[ 754] 。
1918年1月全ロシア労働組合大会でのボリシェヴィキ決議では、労働組合は「社会主義権力の機関とならなければならない」とされていた[ 755] 。1919年1月の第二回全ロシア労働組合大会では、労働組合は、国家権力機関と融合し、ソビエトの活動の各分野に直接参加し、自らのなかに国家機関を分出・形成しながら、労働者大衆を教育し、準備しなければならないとされた[ 756] 。1919年3月の8回党大会での党綱領では、労働組合は「すべての者を包括する大生産統合体」に転化しなければならないとされ、労働組合の国家化が目指された[ 757] 。
1920年3月の9回党大会では、労働組合を、党やソビエトと区別された、「国民経済の唯一の責任ある組織者」とする「労働者反対派 」が提起した[ 757] 。しかし、大会決議では、労働組合を「共産党に指導されるソビエト国家の基本的装置」として、労働組合は「共産主義の学校」であるとし、遅れたプロレタリアをプロレタリ前衛すなわち共産党に結びつける環であるとした[ 757] 。またレーニンは、労働者反対派が提唱した「生産者」構想に対して、「生産者」とはプロレタリア・半プロレタリア・小生産者を一緒にしたもので、「党外大衆(党員でない大衆)をあてにすること、彼らに媚びを呈することは、根本的にマルクス主義に反する」とし、共産党だけがプロレタリアと勤労大衆の前衛を統合し、組織することができると反論した[ 758] 。
1922年1月22日、党中央委員会は「ネップの条件下での労働組合の役割と任務について」で、労働組合は勤労者の利益を守り、国家装置の官僚主義的歪曲をたえず是正する義務が課せられるとしたが、現状況下では全権力を工場管理部に集中することは無条件に必要とし、労働組合が企業の管理に直接干渉することは無条件に有害で許されないとした[ 759] 。
労働組合 の役員は、他の行政と同様に党によって任命された[ 500] 。すなわち、労働者は役員選出権を奪われ、また、ストライキも「労働者が自分自身に対して敵対することは無意味である」という理由で不要とされた[ 500] 。トロツキーは、建設途上の社会主義国家における労働組合はよりよい労働条件を求めて戦うために必要なのではなく、生産のために労働者を組織するために必要なのだとし、したがって労働者を単一の経済計画のなかに引き込み、彼らを教育し、規律を与え、就職させることが必要だと論じた[ 746] 。
1922年ロシア共和国新労働法典で、全ロシア労働組合大会の定める手続きで各連合組織に登録された組合以外は認めないとされた[ 760] 。
ソビエト法 では、労働者を、国営企業の労働者、集団農場の農民、労働収容所の受刑者の3つのカテゴリーに分けた[ 761] 。国営企業の労働者は懲戒や解雇から一定の保護を受けたが、居住許可は制限され、就職のために都市に移住することは困難だった[ 761] 。また、共産党が支配する「疑似組合(pseudounions)」に代表され、ストライキ権はなかった[ 761] 。集団農場の農民は、都市への移住に必要な身分証明書の発行を長期間拒否され、1965年まで疑似組合への参加さえ認められなかった[ 761] 。数百万人の労働収容所の受刑者は、通常の意味での法的権利を剥奪されていた[ 761] 。
ソビエト法では、財産や収入ではなく、地位が生活水準を決定した。ソビエト市民の所得の多くは、国家によって割り当てられた給付金で構成されていた。共産党員の支配エリートであるノーメンクラトゥラは、高級住宅、休暇施設、運転手付きの車、高級病院での医療、子弟の大学入学への優先権、一般的に入手困難な高級食品と消費財を低価格で入手し、海外旅行もでき、退職年金を受け取った[ 761] 。しかし、政権に党への忠誠を疑われれば、これらの特権を失った[ 761] 。一般住民は、住宅も医療の質も低く、年金は最低限の水準で、子弟は良い成績を収めるか、試験官に賄賂を贈らなければ高等学校に入学できなかった[ 761] 。集団農場労働者は国家年金を受ける権利がなかった[ 761] 。労働収容所の受刑者は労働ノルマを満たすために最低限必要な食料や住居は与えられたものの、環境は劣悪で多数が飢餓や病気で死亡した[ 761] 。
1922年11回党大会でストライキ闘争の行使は正当化されうるとされ、労働組合は紛争の迅速かつ円満な調整を促すべきだとされた[ 762] 。1925年14回党大会では、ストライキは調停仲裁手続きなど平和的方法で解決することが不可能であるところの結果としてのみ生じるとされ、ここにストライキ抑制の志向が現れた[ 762] 。
十月革命直後の1918年10月27日に出した新聞に関する布告による言論統制 以来、ボルシェビキ(共産党)はすべてのメディアを完全に統制した。共産党の機関紙 以外の新聞の発行を禁止した。新聞やメディアの役割を把握していたレーニンはすでに1902年の『なにをなすべきか? 』で、新聞はプロパガンダや扇動機関であるだけでなく、集団的な組織者でもあり、強力な政治組織を育成するためには、全ロシア新聞(All-Russian newspaper)を作る以外に方法はないと主張していた[ 763] 。
共産党機関紙には、政府見解が発表されるイズベスチヤ (政府の声)と、共産党の機関紙プラウダ (党の声)があり[ 764] 、『プラウダ』は最新の印刷設備を導入し、イラストも用いた[ 765] 。コジェフニコフによって1912年1月に創刊された『プラウダ 』は争いでメンシェヴィキへ主導権が移り、ついでメンシェヴィキが追放されてからレーニン率いるボルシェビキが編集権を掌握した。1914年に帝政政府によって弾圧されたが、同紙はボルシェビキがペテルスブルクの労働運動を主導し、組織の大衆基盤を築くことを可能にした、効果的な宣伝・教育手段であった[ 766] 。
このほか、1923年11月にソ連国防省の機関紙『クラスナヤ・ズヴェズダ 』、1925年に共産主義青年同盟(コムソモール) の機関紙『コムソモリスカヤ・プラウダ 』など下部組織の機関紙があり、地方ソビエトの機関紙もあった。1930年にはソ連を支持するアメリカ人ジャーナリストアンナ・ルイーズ・ストロング によって英字新聞『モスクワ・ニュース 』が創刊された。ストロングはソ連を称賛する著作や記事を多数発表したが、後にソ連から「アメリカのスパイ」とされ追放されてからは、中国共産党 を支持する著作を発表し、北京 で没した[ 767] [ 768] 。
これらの新聞・機関紙は、ソビエトロシアの全体主義的構造を強化するために設計された専門用語とレトリックを駆使し、「完全な真実」が政府トップから発信され、国内の下級官僚の不手際による誤りや、西側資本主義を手助けする裏切り者やスパイにいたるまで、あらゆる「有害な誤り」を指摘していった[ 769] 。
ソビエトロシアでは、意見の厳格な統一が規範だった。しかし、党幹部による高レベルの論争は例外で、1936年のソビエト憲法草案については、プラウダと労働者向けの新聞「トゥルド 」は憲法草案を称賛したが、ニコライ・ブハーリン が編集権を持っていた「イズベスチヤ」は草案を批判した。ブハーリンが勝利すると党の路線は転換し、「トロツキスト」の反対派を攻撃し始めた。しかし、ブハーリンも1937年に逮捕され、見せしめ裁判にかけられた後、処刑された[ 770] 。
共産党の権力は印刷されたプロパガンダに支えられた。国民の90%が読み書きができない国を支配するため、学校教育と識字率の向上を優先するとともに、機関紙(新聞)、雑誌、ポスターを通してプロパガンダを最大限に活用した[ 771] [ 772] 。
ラジオ も演説などで用いられたが、アマチュア無線家など個人が自由に使えることを防ぐために、ハブ・アンド・スポーク を用いて、工場など限定された場所での聴取しか許可されなかった[ 773] 。ソ連のラジオ放送では、ジャーナリストが解説することも、討論番組もなかった。記者会見も行われることはなく、党指導部に記者が疑問を呈したり、異議を唱えたりすることはできなかった[ 774] 。
さらにソビエトロシアは海外メディアに対しても報道の自由 を認めず、検閲 し、言論統制 を行なった。ソビエトロシアは海外の新聞に対して、共産党に協力的な報道のみ許可した[ 775] 。通信員は本国へ記事を送るまえに検閲 をうけ、外務人民委員部報道局の認可をとらねばならなかった[ 775] 。これにより、検閲を受けた海外メディアはソビエトロシアの政策に協力的な立場をとり、さらには、実質的にソビエトのプロパガンダ 機関となっていった[ 775] 。ロンドンタイムズ はそのような検閲を拒否したため、報道許可はおりなかった[ 775] 。
ソ連を支持した外国人ジャーナリストで最も有名な例はニューヨーク・タイムズ のウォルター・デュランティ である[ 776] [ 777] [ 778] 。デュランティは、ロシアから愛人 も用意され、ホロドモール を否定したり、ソ連の完全な擁護者になった[ 775] 。1930年代にガレス・ジョーンズ が匿名でソビエト大飢饉 (ホロドモール )を報道すると、デュランティーは「ロシア人は飢えているが、餓死はない。疾病による死者はいるが、ソビエト体制は依然として強固だ」と反論した[ 779] [ 780] [ 781] 。ガレス・ジョーンズはその後ソ連の内務人民委員部エージェントによって殺害されたとみられる[ 782] 。
イギリス労働党 の新聞「デイリーヘラルド 」は1920年に資金難となったため、編集者ジョージ・ランズベリー はモスクワに支援を依頼、クラーシンとカーメネフは4万ポンドの宝石とプラチナ、さらに35000ポンドを提供した[ 775] 。しかし、ロンドン警視庁が監視しており、ランズベリーは返却した[ 775] 。
外国特派員が公式報道官以外からの情報アクセスを厳しく禁じられた結果、フルシチョフがスターリン批判 を行う1956年まで、西側メディアはソ連の生活を楽観的に描写していた[ 783] 。
レフ・カーメネフ 、第一回モスクワ裁判 で死刑宣告を受け、1936年8月25日処刑。レーニンの側近だったグリゴリー・ジノヴィエフ 、カーメネフとともに同日処刑。 1920年代からのスターリンによる「上からの革命」では、第一次五カ年計画 による工業化推進、農業の集団化 、そして主に旧知識層を対象とした文化革命 が含まれ、これらがロシア社会にもたらした影響は、1917年の二月革命と十月革命およびその後の内戦よりもさらに大きかった[ 13] 。
スターリンの「上からの革命」をロシア革命に含めるかどうかについては、歴史家の間で意見が分かれるが、シェイラ・フィッツパトリック は、レーニンの革命とスターリンの革命の連続性を辿る[ 13] 。フィッツパトリックは、1792年から1815年までのナポレオン・ボナパルト による革命戦争(フランス革命戦争 、ナポレオン戦争 )は、たとえ1789年のフランス革命 精神の具現化とは見なさなくても、フランス革命という一般的な概念に含めることができるが、ロシア革命にも同様のアプローチが妥当であり、レーニンの革命とスターリンの革命も同じ革命の過程の一部であったとする[ 13] 。
1930年代に入ると、革命的熱意と好戦性が衰え、秩序の回復と安定を目指す新たな制度が確立し、伝統的価値観と文化が復興していくといった、典型的なテルミドール反動 の兆しが見られるようになった[ 13] 。しかし、スターリンの革命的激動は、レーニン時代の革命的テロリズムよりもさらに決定的に壊滅的で、内に向かった[ 13] 。
トロツキーを支持したゲオルギー・ピャタコフ 、第二回モスクワ裁判 で死刑宣告、1937年1月30日処刑。 赤軍元帥ミハイル・トゥハチェフスキー 、1937年6月11日処刑 ボリシェヴィキ有数の理論家だったニコライ・ブハーリン 。第三回モスクワ裁判 で死刑宣告、1938年3月15日処刑 ブハーリンと党内右派を形成したアレクセイ・ルイコフ 、第三回モスクワ裁判で死刑宣告、1938年3月15日処刑 1922年4月にヨシフ・スターリン が書記長 に就任し、カーメネフ 、ジノヴィエフ とトロイカ体制 を組んだ。しかし、トロツキーら左翼反対派 は、ネップ (新経済政策) を推進するスターリンを資本主義におもねる「右翼」として批判した。カーメネフとジノヴィエフもスターリンを批判したが、カーメネフは1926年に政治局員を解任され、翌1927年には共産党を除名され、その後復党するも、1936年の第一回モスクワ裁判 でジノヴィエフとともに有罪となり、処刑された。トロツキーは、1928年に除名され国外追放されたあと、1940年メキシコで暗殺された。
1921年に初めて全国規模で実施された粛清(chistki チシュキ)とは、党員資格審査であり、忠誠心、能力、経歴、人脈について公開審査を受け、不適格と判断された者は党から除名されるか、降格された[ 13] 。1929年、そして1933年から1936年にかけて党員粛清が行われ、粛清が強迫観念 的な活動となっていくと、テロと党粛清は1937年から38年にかけての大粛清 で大規模に融合した[ 13] 。これは党員資格審査を伴わなかったため、通常の意味での粛清ではなかった。最初の標的は党員、特に幹部党員だったが、非党員知識人層、一般大衆も標的にされた[ 13] 。大粛清においては、疑惑はしばしば有罪判決と同義であり、犯罪の証拠は不要であり、反革命罪に対する刑罰は死刑または労働収容所への収監であった[ 13] 。
1934年7月、内務人民委員部 特別会議(オソ)による刑事抑圧システムが設置された[ 784] 。
1934年12月1日、キーロフ暗殺事件 が発生した。事件直後、スターリンは暗殺にジノヴィエフとカーメネフが関与しているとして捜査を指示した。党中央委員会は、ジノヴィエフ、カーメネフ、トロツキー支持者の即時根絶を指示した[ 785] 。同日、スターリンの指示で異常な刑事手続き特例法がつくられ、これは1937年9月14日の反革命破壊活動・妨害工作事件にも適用された[ 784] 。
1934年12月、政治局は「反ソビエト分子」「社会的異質分子」の追放を開始し、それから二ヶ月半でレニングラードで「ジノーヴィエフ派」とされた843人が逮捕され、大部分が矯正労働収容所拘禁刑になった[ 786] 。
1934年12月28日から12月29日にかけてレニングラード最高裁判所軍事部出張法廷でジノーヴィエフ派14人は「レニングラードセンター」を頭部とする「反革命地下テロリスト集団」とされた[ 784] 。1935年1月9日、オソが事件を審理、77人が流刑または矯正労働収容所 拘禁刑とされた[ 784] 。1月16日、レニングラード最高裁判所軍事部出張法廷はモスクワセンター事件を審理、ジノーヴィエフ、カーメネフら19人を矯正労働収容所拘禁刑に処した[ 784] 。
1935年3-4月オソが過去の労働者反対派を有罪にし、5月からの党員証典型カンパニアでは彼らは粛清 のターゲットにされた[ 787] 。すでに1933年6月から開始されていた粛清カンパニアによって、35年春までに191万6500人の党員が粛清され、18.3%が除名された[ 785] 。党組織の怠慢に愕然とした党中央は、35年5月から本格的に粛清を開始、「敵性分子」の徹底的に追求した[ 785] 。1935年5月以降、オソの権限が拡大し、1936年憲法下でも存続した[ 784] 。さらに1935年12月時点で17万7000人が除名され、うち1万5218人が逮捕された[ 787] 。
1936年ソ連憲法(スターリン憲法) が制定された時点で、スターリン崇拝(スターリンへの個人崇拝 )はかなりの段階に高められていた[ 608] 。同憲法は「市民は人身の不可侵を保障され、何人も裁判所の決定または検事の裁可による以外には逮捕 されない」とされた(127条)[ 788] 。だがこれと並行して大テロルが進行した[ 789] 。
1936年には、トロツキスト=ジノビエフ派反革命テロリストセンターの陰謀の解明が進められ、8月にはトロツキスト=ジノビエフ派反ソ合同センター事件(トロツキー=ジノーヴィエフ派テロリスト合同本部事件[ 785] )の公開裁判「第一回モスクワ裁判 」が行われ、全員銃殺となった[ 790] 。反革命陰謀事件では、自白 が証拠となるという「理論」が前提とされた[ 791] 。この事件での取り調べから、旧右派の「共謀」がうかびあがったとされ、1936年12月、1937年2-3月の中央委員会総会でブハーリンらが追求された[ 791] 。
1937年1月23-30日、ピャタコフ、ラデックら17名が「反ソ・トロツキストセンター事件(反ソ・トロツキスト並行本部事件[ 785] )の審理(「第二回モスクワ裁判 )で多くが死刑となった[ 791] 。1937年2月、ブハーリンとルイコフが逮捕された。1937年2月23日から3月5日の中央委員会総会でブハーリンとルイコフの除名が決定され、スターリンは社会主義の建設が成功すればするほど、階級闘争は激化し、トロツキズムは「無原則、無思想な妨害者、謀略者、スパイ、殺人者の徒党」に転落したと語った[ 785] 。以降、内務人民委員部は赤軍における「反革命軍事ファシスト組織」という架空の組織の摘発にとりくむ[ 785] 。
1937年6月12日、赤軍最高幹部トハチェフスキー 、イオナ・ヤキール 一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)、イエロニム・ウボレヴィッチ 一等軍司令官(白ロシア軍管区司令官)ら8人が祖国反逆罪、スパイ罪で死刑を宣告され、その後10日間で赤軍上級指揮官980人が逮捕され、以降1938年にかけて9941人が逮捕された[ 791] 。「赤軍大粛清」の犠牲者35000人のうち、元帥5人のうち3名、軍司令官級15人のうち13人、軍団長級85人のうち57人、師団長級195人中110人、旅団長級406人中220人、将官級の90%、大佐級の80%が処刑された[ 785] 。
1937年7月31日、政治局は「旧クラーク、犯罪者およびその他の反ソビエト分子の弾圧作戦」を承認した[ 791] 。刑罰区分は、第一カテゴリーは銃殺、第2カテゴリーは矯正労働収容所拘禁刑とされ、48地域別に第一、第2カテゴリー適用者数はそれぞれ22万2650人とされた[ 792] 。さらに積極的反ソ活動家の家族も矯正労働収容所拘禁刑、労働移住区追放、都市からの放逐とされた[ 792] 。作戦開始は1937年8月5日、作戦全体は4ヶ月間とされた。この大テロル作戦は予定の4ヶ月をこえて1938年11月17日まで継続し、逮捕予定者も割増しされた[ 792] 。
1938年1月、中央委員会総会は、「ファシズムのトロツキスト=右派」粛清活動において、昇進などを図っての「大量の、十把一絡げの除名」の打ち切りを通告したが、それでも大テロルは終息しなかった[ 793] 。1938年3月2-12日にブハーリン、ルイコフら21名の「右派=トロツキスト・ブロック事件」で18人が死刑になった[ 792] 。
1939年3月のジダーノフ報告で「大量粛清の廃止」を提案、これにより1920年代からの党の定期的粛清も廃止された[ 794] 。
大粛清の第一段階を担当した内務人民委員部 長官ゲンリフ・ヤゴーダ も第三回モスクワ裁判で死刑宣告、1938年3月15日処刑 大テロルの犠牲者数について、1937-38年に内務人民委員部諸機関によって157万5259人が逮捕され、うち有罪宣告されたのは134万4923人、うち銃殺刑は68万1692人にのぼった[ 795] [ 794] 。ここには、取り調べ中、ラーゲリ、労働移住区などでの死亡者、強制移住の被害者は含まれておらず、フレヴニュークは直接の犠牲者を200万とみるが、250万とする説もある[ 794] 。
フレヴニュークは、大テロルに自然発生的な過程があったとする説を批判し、大テロルは「国家的規模で計画化された目的指向的作戦」だったとする[ 796] 。ゲッティは、警察暴力がカオス的になり、無計画な、恐怖と猜疑のなかでの旋回であったとする[ 797] 。しかし、「無計画」といっても1937年7月には作戦計画があったことは資料で確認できる[ 798] 。フレヴニュークは、新しい状況に適さない旧世代の党員を排除し、現指導部に完全に忠実な党員へ置き換えることによりスターリンの権力を強化する目的、また、予想される戦争の準備として潜在的な第五列 の絶滅、動揺分子、信頼できない分子の一掃、すなわち予防措置があったとする[ 798] 。フレヴニュークは、大テロルは「行き過ぎ」を計算しており、指導部は大テロルの独自の発展の論理と過程を理解しており、ある時点までは完全に準備していたという[ 799] 。実際、大テロルによって政治、行政、軍事の指導部の人事が一新された[ 13] 。
なお、ドイツの侵攻とソ連の第二次世界大戦 への介入は、更なる革命をもたらしたわけではなく、ソ連におけるポスト革命期の始まりであった[ 13] 。
ストライキの参加者が1897年から1900年にかけて減少していったのは経済危機の影響とカレール・ダンコースは指摘している[ 800] 。
革命前のストライキ件数[ 801] 年次 ストライキ件数 参加労働者数 絶対数 /全工場数(%) 絶対数 /全労働者(%) 1897 - - 60,000[ 800] - 1898 - - 43,000[ 800] - 1900 - - 29,000[ 800] - 1905 13,995 93.2 2,863,173 163.6 1906 6,114 42.2 1,108,406 65.6 1907 3,573 23.8 740,074 41.9 1908 892 5.9 176,101 9.7 1909 340 2.3 64,166 3.5 1910 222 1.4 46,623 2.4 1911 466 2.8 105,110 5.1 1912 2,032 11.7 725,491 33⁰⁹⁰ 1913 2,404 13.4 887,096 38.3 1914 3,534 25.2 1,337,458 68.2 1915 928 7.3 539,528 28.1 1916 1,410 11.3 1,086,364 51.9
革命後のストライキ件数[ 762] 年次 国営企業 協組・社会・私営企業 ストライキ件数 参加人員 ストライキ件数 参加人員 1922 362 175,609 69 3,606 1923 357 161,284 87 3,562 1924 134 34,872 89 6,151 1925 99 34,037 97 3,563 1926 202 32,900,000 135 10,300,000 1927 238 20,100,000 158 5,300,000 1928 70 8,900,000 20 800,000
1926-7年にはストライキ件数が増大したが、それは工業化路線にともなう、合理化スローガン、労働生産性の向上路線、労働規律強化路線によって対抗関係が厳しくなったためであった[ 802] 。
十月革命によって成立したボリシェヴィキ主導政権は世界初の社会主義国家であり、全世界に大きな影響を及ぼした。ボリシェヴィキは世界革命論 によってロシアの革命を世界へと輸出することを望んでおり、1919年3月2日にボリシェヴィキ主導のもとで結成されたコミンテルン もヨーロッパ諸国へ革命を波及させることを主目的の一つとしていた。しかしこうした試みは成功せず、一国社会主義論 の登場とともにコミンテルンの役割は変容していった。
ロシア革命の評価については、暴力革命 の是非をはじめ、革命の性格、革命後の混乱と諸政策についてなど、様々な論点から、様々な見解がこれまでになされてきた。1991年のソ連崩壊 後に公開されたマルクス・レーニン主義研究所中央文書館 やKGB 中央文書館の極秘文書の研究が進展し、それまでロマンとプロパガンダ で塗り固められてきたロシア革命像の実態が明らかになってきた[ 803] 。
ロシアの1913年の人口は1億6900万人で、1917年の工業労働者は340万人で人口の2%を占めるほどで、首都ペトログラードの労働者も都市出身者は2割ほどで、あとは農民出身であった[ 804] 。つまり「労働者」がほとんどいないところで「プロレタリア(労働者) 権力」が生まれたのであり、ジノビエフ はボルシェビキを「存在しない階級の前衛党」と称した[ 804] 。下斗米伸夫 は「ロシア革命が労働者 革命というのは神話に等しい」と述べる[ 804] 。
ソ連崩壊後に公開された極秘資料によれば、レーニンをはじめとしたボリシェヴィキの指導者たちの多くは、生活のために働いた経験もなく、党の資金に寄生 して暮らしており、いわゆる「労働者階級 」とは無縁の存在であった[ 803] 。しかもその資金のほとんどは、銀行強盗 や詐欺 などで略奪したもので、ボリシェヴィキ強盗団の頭目がスターリンだった[ 803] 。こうした手法は1906年にロシア社会民主労働党 第四回党大会でメンシェヴィキ から批判されたが、その後もレーニンの指示で続けられた[ 803] 。
スターリン時代に編纂されたソ連共産党史では、10月革命は、人類の歴史の新しい時代、すなわちプロレタリア革命の時代を切り拓いたと称した[ 805] 。しかし、10月革命でのボリシェヴィキの権力掌握は現在も論争の的である。ボリシェヴィキにはレーニンの指導力と大衆による支持があったとする見方がある一方で、ボリシェヴィキの権力奪取はクーデタ であり、これは独裁につながったとする見方がある[ 806] 。
ロシア革命は、少なくとも最初に勃発した二月革命の時点においては自然発生的な革命であり、どの政治勢力も革命の展開をリードしているわけではなく、むしろ急展開を急ぎ追いかける形となっていた。しかし成立した臨時政府が情勢をコントロールできない中、レーニン指導下のボリシェヴィキが情勢を先導して行くようになり、十月革命 ではボリシェヴィキ党の武装組織がケレンスキーら臨時政府の閣僚を逮捕し、権力掌握を強行した[ 3] 。
この武力による権力奪取について、革命というよりはむしろクーデター というべきではないかとロシア・マルクス主義の父と称されるゲオルギー・プレハーノフ は批判し、ゴーリキー は民主主義に対する恥ずべき行為だと非難した[ 3] 。ボリシェヴィキ指導部のグリゴリー・ジノヴィエフ やルイコフなども力による権力奪取を批判した[ 3] 。
メンシェビキのアレクサンドル・ポトレソフ は、十月革命を「民主主義の殺害」と評し、その後の政治情勢を「愚者の社会主義」と評した。その後、1925年に、ポトレソフは自身が持っていたレーニン関係文書をレーニン研究所 に提供すると引き換えに海外渡航を許可され、そのまま亡命した。ポトレソフはパリで出版した『幻想の虜囚』(1927年)において、十月革命は反動的なクーデターであり、ボリシェヴィキ政権はオリガーキー(寡頭制) による専制政治 であり、新たな搾取階級であると批判した。ポトレソフは、いずれ労働者階級はボリシェヴィキに幻滅するだろうと述べ、あらゆる民主化 運動家にボリシェヴィキの支配に対抗して団結するよう呼びかけた[ 807] 。
社会革命党 の指導者ヴィクトル・チェルノフ は、第一次世界大戦と内戦で人々は残忍さになれていったが、政権についたボリシェヴィキはサディスト であると評した[ 577] 。
歴史学者マーティン・メイリア によれば、これまでヨーロッパの革命では旧体制が打倒されると、ある社会集団 が没落する一方で、ほかの社会集団が浮上した。フランス革命 では、貴族 や僧侶 の地位は没落する一方で、中流階級 や農民 の地位が高くなり、そこでは集団の地位が変化することはあっても、いずれかが徹底的に排除されることはなかった[ 808] 。しかしロシア革命では、「普通の人々」「勤労大衆」より上の社会階級はすべて威圧的な社会集団であるとして除去された[ 808] 。貴族、僧侶、自由主義的な専門職、中流階級などは、社会集団としては消滅した。財産や地位を剥奪された個人の大半は、社会集団としてのつながりは分断され、打ち砕かれ、新制度のもとで法的にも差別され、参政権も剥奪され、食料配給も減らされた[ 808] 。こうしてソビエト・ロシアでは市民社会 が消滅し、画一的な「勤労大衆」だけが残された[ 808] 。
歴史学者リチャード・パイプス は、1917年2月革命は、自然発生的に勃発し、臨時政府は全国的な承認を得て、皇帝も退位して300年間続いたロマノフ朝 政権が終焉を迎えており、革命とよべる出来事であったのに対して、十月革命において臨時政府の打倒は、自然発生的なものでなく、組織された謀議のうえで念入りに策略をめぐらして実行され、陰謀家たちが国民の大多数を制圧するのに、三年間の内戦を要した[ 135] 。したがって、いわゆる「十月革命」とよばれる出来事は、革命というよりも、典型的なクーデタ 、少数の徒党による権力奪取であり、彼らは大衆が参加したとみせかけたが、実際には大衆はほとんどなんら関わることなく遂行されたものだと評価する[ 135] 。2月革命以後、レーニンは街頭デモで政府を打倒すると宣言したが失敗しフィンランドに潜伏した[ 135] 。1917年9月に任務を引き受けたトロツキーは、騒動を編成するのでなく、不法に招集された第二回ソビエト大会という外見の陰で、クーデタの準備を隠蔽したうえで、政府の中枢を掌握する任務を特別の突撃隊に委ねたことで権力を掌握した[ 135] 。この権力掌握はソビエトのためとされたが、実際は、ボリシェヴィキ党のために実行されたものだったとパイプスは評価する[ 135] 。
パイプスによれば、ボリシェヴィキは、クーデターをソビエトの名のもとで遂行するように見せかけた[ 285] 。ソビエトを代表しているようにみせかければ、2月革命以降の二重権力のパートナーであったソビエトが全責任を負うことなり、なにも体制が変化していないことなるという策略によって、クーデターの権力奪取の実態がほとんどすべての人から覆い隠された[ 285] 。レーニンは「ソビエト民主主義」の名の下で権力を掌握しなければ、ボリシェヴィキ党が権力を奪取したことが露見することを分かっており、事実、ボリシェヴィキの名は、クーデター直後の軍事革命委員会のどの布告にも現れることはなく、ボリシェヴィキがソビエトのためにクーデタを遂行したという外見上の口実を維持した[ 809] 。また、レーニンは、「社会主義」を表明することもクーデタ直後は避けていた。ケレンスキー内閣の消滅を宣言した10月25日の声明の草稿では「社会主義万歳」と書いていたが、レーニンはこれを消している[ 285] 。クーデタ後、レーニンが「社会主義」という用語を用いたのはようやく11月2日の文書においてあった[ 285] 。とはいえ、国民が突然の一党独裁体制を黙認することはありえないと予想できたために、ボリシェヴィキが開いた第二回ソビエト大会でも、ボリシェヴィキに独裁的権限を付与する企図はなかったし、ボリシェヴィキの党員もそう考えていた[ 810] 。しかし、レーニンは当初から他党と連立するつもりはなく、民主的な制度で表面的な体系をつくり、それをボリシェヴィキを通じて鉄の手で統制することで解決すると決心していたとパイプスは指摘する[ 810] 。
歴史学者オーランドー・ファイジズ も、10月革命はロシア革命の華々しい象徴として従来語られてきたが、住民の多くも気付かぬままに行われた小規模な軍事クーデターが実態だったと1996年の著書で判定している[ 4] [ 803] 。
ハンガリーの歴史家ヴィクター・セベスチェンは、10月革命は高度に統制された陰謀集団の組織的行動だという神話が長年信じられてきたが、これはボルシェヴィキと反対派双方にとって都合の良い解釈であるという[ 811] 。ソ連当局は見事に指導された大衆蜂起と語り、白軍は悪魔的天才によって計算しつくされた軍事クーデタだと解釈してきたが、実際は、ちょっとした抵抗でもあればボルシェヴィキは敗北してもおかしくなかった[ 812] 。「陰謀」は右派左派の新聞でも報道されており、公然の秘密だったし、実際の蜂起の計画表は漠然としたものだった[ 813] 。ボリシェヴィキには軍事経験はほとんどなかったし、「将軍」に任命されたアレクサンドル・ジェネフスキーはロシア帝国軍の臨時雇いの中尉にすぎず、ボリシェヴィキは電話システムもうまく支配していなかった[ 813] 。セベスチェンによれば、ボリシェヴィキの勝利は、敵対する中道右派、自由主義者、穏健派の連合体であった臨時政府とその支持者がボリシェヴィキよりも無能で、手遅れになるまでボリシェヴィキを相手にしなかったこと、そして、どちらが勝つか誰も気にしていなかったことが最大の理由だった[ 814] 。実際、すべてが終わるまで、重要なことが起きていることに気づいた人は少なかったのである[ 814] 。ソビエト神話では10月革命は一般大衆による蜂起だとしてきたが、史実からはほど遠く、200万人の人口をかかえる首都で蜂起に加わったのは最大1万人程度だった[ 292] 。
モスクワ国立研究大学高等経済学院のマリーナ・グレイザーとイヴァン・クリヴシンは2021年の著書でボリシェヴィキは1917年10月25日に武装クーデタを実行したと述べている[ 815] 。
歴史学者コンラート・H・ヤーラオシュによれば、十月革命は、「下からの民衆革命を騙った少数派によるクーデタ」だった[ 2] 。1905年や1917年2月の革命とは異なり、ボリシェヴィキによる権力掌握は、草の根からの自然発生的な蜂起ではなく、急進派が計画して実行した反乱だった[ 2] 。レーニンたちは民主主義の形式的な手続きを重視せず、自分たちの善を確信しており、人々を自分達の指導に従わせることに躊躇はなかった[ 2] 。読み書き ができない農民と工場労働者はマルクス主義を支持するよう迫られ、ボリシェヴィキ党員は、革命権力を振り回し、革命への覚悟もなく気乗りもしない住民に、力ずくで理論を押し付けた[ 816] 。また、ボリシェヴィキは、革命的階級闘争という独裁的手法に訴え、自分たちの政策を批判する機関紙や雑誌の発行を禁止した[ 817] 。12月にはカデットやエスエルとメンシェヴィキを「反革命」として検挙しはじめ、秘密警察チェカーによって警察国家が樹立された。レーニンは著作において議会主義を否定してきたが、憲法制定会議の707議席中、エスエル が370議席を獲得し、175議席しかとれなかったボリシェヴィキは初日が終わると代議員を閉め出し、ロシアの議会制を終わらせた。その後の内戦は、人々に筆舌に尽くし難いテロルを加えて、独裁体制を加速させた[ 817] 。ボリシェヴィキによる暴力はヨーロッパを驚かせたが、十月革命は平和と平等への標識ともみなされた[ 2] 。しかし、ボリシェヴィキによるマルクス主義的近代化は、多大な強制と暴力、そして莫大な人的被害をもたらしたとヤーラオシュは指摘している[ 182] 。
バラバーノヴァ は、レーニンに愛着をもっていたが、そのテロリズムを知れば知るほど衝撃をうけたとし、革命が流血を伴うことは承知していたが、しかしテロルはその範囲を超えていたと述べている[ 557] 。バラバーノヴァは「数千人」の陰謀者や反動分子の殺戮といっているが、実際には当時チェカーの犠牲者は数万人、数十万人にのぼった[ 557] 。
歴史学者リチャード・パイプス は赤色テロの犠牲者は5万-14万のあいだと推定する[ 480] 。スターリンの大テロルの犠牲者は何百万にのぼった。ジェルジンスキーとレーニンはチェカーによるテロルが「革命を救った」と正当化した[ 480] 。パイプスによれば、ボリシェヴィキが体系的なテロを開始した1918年夏までにボリシェヴィキは自分たちの組織以外のあらゆる人々から拒否されており、無慈悲なテロルが体制護持の唯一の方法であった[ 818] 。ボリシェヴィキへの敵対者が少数派であればそれらを外科的に除去すれば解決できたが、当時のロシア国全体からすればボリシェヴィキが少数派であった[ 819] 。そのため、権力を維持するためにボリシェヴィキは、社会を原子 化し、独立して行動する意志そのものを破壊しなければならなかった[ 819] 。無実の人の処刑に良心の呵責を感じないボリシェヴィキの赤色テロル体制下では、罪を犯していないことは生存の保障とならないことを国民に思い知らしめた。政府が公的活動の全域を独占するがゆえに、人々は状況を宿命論的に受け入れ、自己を消去するようになり、こうしてボリシェヴィキは人々を服従させていった[ 819] 。しかし、テロルによって「救われた」共産主義は、その魂を腐食させていったとパイプスは指摘している[ 820] 。また、パイプスは、皇帝一家の殺害について、1649年に処刑されたチャールズ1世 は裁判で自分を弁護する機会もあったし、1793年に処刑されたルイ16世 も国民公会 の投票が行われた[ 561] 。しかしニコライ2世は告発も裁判もなく、家族や召使も一緒に殺害された。これは法的な意味での「処刑」というよりも、反社会的勢力 による虐殺 という方が正確であるとパイプスはいう[ 561] 。
歴史学者エレーヌ・カレール・ダンコース は、ソ連とレーニンの支持者は赤色テロルを知らなかったと長くいい続けてきたが、それはあえて知ろうとしなかったのだ、なぜならセルゲイ・メリグーノフ の記録『赤色テロル』[ 821] はすでに1927年[ 822] に出版されており、これを読みさえすれば、真相を知ることはできたのだから、という[ 564] 。カレール・ダンコースはこの期間についての決算は明明白白たる事実であり、暴力に押さえのきかなくなったボリシェヴィキの権力は、国全体を敵として扱い、それに自己の意思をおしつけたのだと指摘した[ 557] 。
歴史学者シェイラ・フィッツパトリック によれば、フランス革命など近代革命の特徴として、革命集団や政権による組織的な暴力行為、一般大衆を威嚇して恐怖に陥れる行為としての革命的暴力とテロがある[ 13] 。マルクス主義に従い、ボルシェビキは革命の敵を階級から概念化し、貴族、資本家、クラークであることは反革命の証拠とみなされた[ 13] 。ボルシェビキはさらにひねりを加え、革命に本質的に敵対する階級はその階級全体で陰謀を図っているとみなされ得るのであって、階級の個々の構成員は、たとえ主観的には陰謀について何も知らず、自らを革命の支持者だと考えていたとしても、「客観的に」反革命の陰謀家である可能性があるとされた[ 13] 。ボルシェビキは、党外の敵に対するテロと、党内の敵に対するテロの二種類のテロを用いた[ 13] 。
スターリンの大テロル(大粛清) とフランス革命の粛清 との類似性は多くの歴史家に認識されてきたが、大粛清の実行者もそれを意識していた[ 13] 。大粛清において反革命分子とされた人々に適用された「人民の敵」という用語は、ジャコバン派 のテロリストから借用された[ 13] 。大粛清は、革命の用語を用いて反革命分子を標的として、進展していくその仕方においては革命的なテロであったし、構造ではなく個人を破壊し、指導者の人格を脅かさなかったという点では、全体主義的なテロであった[ 13] 。ジャコバン派の恐怖政治 もフランス革命の一部であったように、スターリンが開始した国家もロシア革命の一部であり、どちらの場合も革命初期には同志であった革命家が主要な殲滅対象であったとフィッツパトリックは指摘する[ 13] 。
ドイツ社会民主党 のカール・カウツキー は、議会制民主主義 を擁護しながらソビエト権力を批判した。『プロレタリアートの独裁』(1918年)でソヴィエト社会主義政権 を一党独裁であると非難し、民主主義 による社会主義の実現を主張した。カウツキーによれば、ボリシェヴィキは普通選挙で選ばれた国民代表機関すなわち憲法制定会議を解散させたが、これは二月革命で獲得した民主主義の廃棄であった[ 823] 。ボリシェヴィキは、不平等選挙・間接選挙、公開投票 制で選出される「階級の闘争組織」である労働者兵士農民ソビエトを「国家組織」としたが、これにより、ソビエトに代表されない国民が政治的に無権利とされ、ボリシェヴィキ以外の社会主義政党を含むすべての反対派の批判は排除され、反対派のプロレタリアも選挙権を剥奪された[ 823] 。これはプロレタリアの一部による他への独裁であり、ボリシェヴィキは社会主義革命の物質的知的条件の欠如を「裸の暴力」の行使で埋めた[ 823] 。
カウツキーは、マルクスのいうプロレタリア独裁 は、プロレタリアが勝利した場合に純粋な民主主義から必然的に生じる状態であり、特定の統治形態 を指すものではないとする[ 824] 。プロレタリアの利益を代表するといっても、同一の階級的利益の実現の戦術的方法は同一ではなく、それに応じてその代表者は相異なる政党に分岐するのであり、民主主義のもとでは、同一の階級がその多数の選択によって統治政党の交替を生ぜしめる[ 824] 。これに対して、独裁を特定の統治形態と解すれば、その主体は個々人かまたは特定の組織となり、これは多数者支配としての民主主義の廃棄であるほかない。この組織がプロレタリア政党だとしても、統治形態としての少数者の独裁はプロレタリアの一部による他の部分に対する独裁である[ 824] 。平等な政治的自由と権利を有するすべての市民が普通選挙によって構成する国民代表議会で、政治的に訓練されたプロレタリアの代表が多数を占めることによってのみ、政治革命が可能となり、社会主義への苦痛なき移行が可能になる。しかし、少数者(プロレタリア政党)の独裁の場合、人民に完全な組織の自由を保障することは自己の権力の崩壊に導くゆえ、反対派の政治的権利を剥奪し、その自由を拘束せざるをえなくなり、反対派の抵抗をよび、内戦を必然化し、社会主義の発展を阻害する[ 824] 。
カウツキーは「テロリズムと共産主義」(1919年)で、民主主義の排除はボリシェヴィキの原罪で、ロシアの共産主義は兵営社会主義となったと批判した[ 825] 。また「民主主義から国家奴隷制へ」(1921年)では、ボリシェヴィキの特徴は人格の蔑視であり、国家奴隷制がボリシェヴィキ的共産主義の頂点であると批判した[ 825] 。社会との強い協力や、自由な批判なしに、現代国家の多面的かつ巨大な課題は果たされえず、民主主義なしには官僚の腐敗と狭量は増大し、国家の権力手段は腐朽する。これはブルジョワ国家よりもボリシェヴィキ国家にあてはまると指摘した[ 825] 。
カウツキーに対してレーニンは『プロレタリア革命と背教者カウツキー 』(1918年)で批判した。プロレタリアの階級闘争の任務において、搾取者の反乱の鎮圧と内戦は不可欠であり、階級としての搾取者を暴力的に抑圧し[ 826] 、この階級に対して「純粋民主主義」すなわち平等と自由を破壊すること[ 827] は、プロレタリア独裁の必須の条件であり、歴史がプロレタリア独裁を日程にのぼらしめているときには、すべて真剣な政治問題は、一般に投票ではなく、内乱によって解決されるとし[ 828] [ 829] 、「民主主義の廃棄」とは、独裁を行使されているブルジョワ階級にとってのみであり[ 830] 、ブルジョワ民主主義の破壊とは、プロレタリア民主主義の創造であると反論した[ 831] [ 832] 。
ブハーリンは「プロレタリア独裁の理論」(1919)で、トロツキーは「テロリズムと共産主義」(1920)で、ボリシェヴィキによる政治的抑圧を正当化した[ 829] 。
ローザ・ルクセンブルク は、ロシア革命に期待したが、憲法制定議会の解散や選挙権および政治的自由権の制限については深い危惧を表明した[ 833] 。ルクセンブルクによれば、レーニンは「独裁を民主主義に対置」させるが、社会主義を実践するには大衆の全面的な精神的変革が必要で、そのためには無制限の広範な民主主義が不可欠であるとする[ 833] 。公的生活という学校や世論、出版の自由、自由な意見の闘いなしには、いかなる公的制度においても生命は死滅し、恐怖政治はモラルの解体をもたらし、そこに残るのは官僚制のみであると批判した[ 309] 。革命は国民世論の波、国民生活の躍動が顕著に作用するような、感受性の高い政治的雰囲気をつくりだすのであり、制度が民主的であればあるほど大衆の政治生活の脈拍は生き生きとした力強いものになる[ 833] 。ボリシェヴィキによる、社会の広範な層からの選挙権の剥奪、全般的な労働強制を前提とする政治的選挙権は、プロレタリア独裁の必要によるものではなく、「生存能力のない即興的作品」と批判した[ 833] 。
しかしルクセンブルクも1918年11月のドイツ革命 開始後は、「一切の権力を労働者大衆へ、労働者・兵士レーテへ」と述べ、革命を敵から守るとして、プロレタリア赤衛軍を創設し、絶対主義的軍事警察国家の行政司法軍事機関の排除を主張、また憲法制定会議を「革命的社会主義の目標を打ち消す」として批判するなど、ボリシェヴィキと同様の立場になる[ 834] 。
オーストリア・マルクス主義 のマックス・アドラー は、階級闘争によって民主主義的自由が制限されるのは、プロレタリア独裁が「住民の多数者の独裁」である限りにおいてであり、一部の「前衛部隊」「労働者エリート」の独裁を肯定するボリシェヴィキは、プロレタリア独裁の意味を誤用したものであると批判[ 835] [ 836] 。
イワン・ウラジミーロフ (ロシア語版 ) による、レーニン統治下でのロシアの世相を描いた一連の水彩画が現存しており、レーニンの政策の負の側面を窺い知ることができる。
ボリシェヴィキによる農民からの穀物の徴発。
ボリシェヴィキにより強制労働をさせられる人々。
ニコライ2世の肖像の焼却。
赤軍による冬宮の破壊。
革命派によるワインショップの襲撃。
革命派によって死刑を宣告される聖職者と地主。
ボリシェヴィキの命令で強制労働に従事する聖職者。
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第二次世界大戦以前、ロシア革命に関する著作は少なかった[ 13] 。ジョン・リード の記録『世界を揺るがした10日間 』は基本的にはボリシェヴィキの観点から書かれており、レーニンが序文を書いている。リードはレーニンから100万米ドルの資金を受け取っている[ 743] 。ジャーナリスト・歴史家のW・H・チェンバレン やルイス・フィッシャー といったジャーナリストによる歴史書があった[ 13] 。フィッシャーは1932-33年のソビエト飢饉について、1933年2月までソビエト政府の公式見解を採用し、ウクライナの反革命的ナショナリストの「破壊者」のせいにしたが、のちにThe God that Failed (1949)でソ連を批判した。また、ソ連のスパイであったウィテカー・チェンバース はソ連に幻滅し、1948年に下院非米活動委員会 でスパイ活動を証言した。
最も長期的な影響を与えた解釈書は、トロツキー の『ロシア革命史』と『裏切られた革命 』(1936年執筆)である[ 13] 。前者は当事者の視点から鮮やかに描写し、マルクス主義的な分析を行っており、後者はスターリン体制をテルミドール 的なもので、本質的にブルジョア的価値観を反映するものとして告発した[ 13] 。
スターリンの指導の下で1938年に出版された悪名高い『ソビエト共産党史小講座』[ 837] は、ソビエト史について、正しい「党の路線」、すなわちすべての共産主義者とすべての学校の生徒に教えるべき正統教義 として書かれた[ 13] 。ソビエトの歴史学界では、厳しい検閲と自己検閲が常態化しており、創造的な学術研究の余地をほとんど残さなかった[ 13] 。1950年代半ばまでその地位を維持したボルシェヴィキ革命の公式解釈では、十月革命は真のプロレタリア革命であり、その発生は歴史法則に規定されていたとされ、歴史法則は明確に定義されていないが、ソビエト史のすべてを決定づけ、共産党のあらゆる決定が正しかったということを意味した[ 13] 。レーニンとスターリンを除くほぼすべての革命指導者(古参ボリシェヴィキ)が革命の裏切り者であり、存在しない人間とされ、印刷物で言及できない存在となったため、真の政治史は書かれることはなかった[ 13] 。
西側諸国 では第二次世界大戦後、冷戦 における敵を知るという文脈においてアーサー・ケストラー の『真昼の暗黒 』(1940年)とジョージ・オーウェル の『1984年 』(1949年)の二冊の政治小説が決定的であった[ 13] 。
アメリカなどの政治学では、ナチス・ドイツとスターリンのロシアを融合させた全体主義 モデルが主流の解釈の枠組みとなったが、イデオロギーとプロパガンダに注意を払い、社会領域を軽視したものだった[ 13] 。西側の学者の多くは、ボルシェビキ革命は少数派政党によるクーデターであり、民衆の支持や正当性などなかったという点で一致しており、ボルシェビキ革命前のロシア史は、ソビエト全体主義の起源を解明するために研究された[ 13] 。
父親を大粛清でなくしたロイ・メドヴェージェフ はスターリンを批判したため、ソ連国内で出版することはできなかった。反体制派作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン の『収容所群島 』は1973年に英語で出版された[ 13] 。当時はサミズダート (ソ連国内における著作物の非公式流通)とタミズダート(国外での著作の違法出版)が隆盛を極めていた[ 13] 。ソ連では西側の学術研究は「ブルジョア的捏造」とみなされ、事実上ソ連から禁じられていたが、ロバート・コンクエスト やソルジェニーツィンの著作は秘密裏に流通していた[ 13] 。
E.H.カーの『ボリシェヴィキ革命』[ 838] は西欧のロシア革命研究において古典としての位置を占める。
以前は、西側のソ連学者はスパイとして即座に追放されたり、嫌がらせを受けたが、1970年代後半から1980年代にかけて、ソ連におけるアーカイブや一次資料へのアクセスが改善され、西側のソビエト学において、歴史学、特に社会史が政治学に代わり、主要な学問分野となった[ 13] 。
ソ連崩壊後は、さらにアーカイブへのアクセス制限の大半が撤廃され、以前は機密扱いされていたソ連の文書が利用できるようになった[ 13] 。モスクワを拠点とするオレグ・フレヴニューク や1980年代から米国に居住し、革命とソ連知識人におけるユダヤ人の立場について再解釈を提示したユーリ・スレズキン らがいる[ 13] 。レーニンとスターリンに関する新たな伝記が登場し、これまで資料にアクセスできなかったグラーグ や民衆抵抗といったテーマが多くの歴史家の関心を集めた[ 13] 。アルメニア系のロナルド・スニー やテリー・マーティン(Terry Martin)によるソ連邦の諸民族と国境地帯の研究や、スティーヴン・コトキン の地域研究もある[ 839] [ 13] 。
日本の研究では、二月革命に関しては江口朴郎 編『ロシア革命の研究』(1968年)に収められている和田春樹 の論文「二月革命」[ 840] 、およびそれを元に書かれた和田著『ロシア革命―ペトログラード 1917年2月』(作品社 2018)がある。十月革命に関しては長尾久の論文『ロシヤ十月革命の研究』[ 841] が詳しい。そのほかの文献については菊地昌典編『ソビエト史研究入門』[ 842] や望田幸男・野村達朗ほか編『西洋近現代史研究入門』[ 843] で知ることができる。
^ カレール・ダンコースは10月9日に軍事革命委員会設立としたが[ 258] 、ここではパイプスに従い、10月9日には革命防衛委員会が設立されたとする[ 255] 。 ^ カレール・ダンコースは新暦11月26日(旧暦11月13日)とする[ 361] が、ここではパイプスに従う[ 1] 。 ^ パイプス1月8日とし[ 386] 、カレール・ダンコースは延期されて1月19日1になったとする[ 402] 。 ^ のちにソビエト体制は、農民には無償で2300万ヘクタールを分配したと称したが、実際にはそれほど大きくもなく、無償でもなかった[ 502] ^ 1918年5月の中央執行委員会でスヴェルドロフ は「農村でのソビエト権力は都市に比べて強力ではない。…そのため、農村にふたつの敵対勢力を作り出すことに本気で取り組まねばならない。農村を二つの陣営に分裂させ、内戦に持ち込むことができれば、都市に対し可能なことを農村に対しても行うと言える立場に立つことになる」と、内戦を起こして農村を支配するという戦略を表明し、この提案は実行された[ 523] ^a b c パイプス 2000 , p. 168. ^a b c d e f g h i ヤーラオシュ 2022 , p. 上125. ^a b c d 下斗米伸夫 『ソ連=党が所有した国家』(講談社選書メチエ , 2002年)p22 ^a b Orlando Figes, A people's tragedy: the Russian Revolution : 1891-1924, 1996, pp.484-500. ^a b c 『ロシア革命 』 -コトバンク ^a b パイプス 2000 , p. 5. ^a b The Russian Revolution: from Lenin to Stalin (1917-1929) (Macmillan, 1979).塩川伸明訳『ロシア革命――レーニンからスターリンへ 1917-1929年』岩波現代文庫, 2000年,p.iii-iv,246. ^ Edward Hallett Carr, A History of Soviet Russia: The Bolshevik Revolution, 1917-1923, 3 vols. 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This integument is burst asunder. The knell of capitalist private property sounds. The expropriators are expropriated.;生産手段の集中化と労働の社会化は、ついに資本主義の殻と相容れない地点に到達する。この殻は破れる。資本主義的私有財産を弔うための鐘が鳴る。収奪者は収奪される。」[2] .日本語訳『資本論』第1巻 第7篇 第24章「いわゆる本源的蓄積」。章節番号等は版によって異なる。 ^a b セベスチェン 2017 , p. 上252. ^a b c セベスチェン 2017 , p. 上255. ^a b パイプス 2000 , p. 119. ^ Brackman, Roman (2001),The Secret File of Joseph Stalin: a Hidden Life, “Chapter 7 – The Great Tiflis Bank Robbery ”. 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