この項目では、西洋史における文化復興運動について説明しています。その他の用法については「ルネサンス (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
ルネサンス (英: The Renaissance)は、15世紀 および16世紀 にわたる歴史上の時期であり、ヨーロッパ における文化運動 (英語版 ) である。中世 から近代性 (英語版 ) への移行を画し、古典古代 の思想と成果を復興し、これを凌駕しようとする志向を特徴とした。芸術 、建築 、政治 、文学 、探検 、科学 など、ほとんどあらゆる分野における大きな社会的変化を伴い、当初はフィレンツェ共和国 を中心として、その後イタリア 各地へ、さらにヨーロッパ全域へと広がった。「再生」を意味する用語リナスキタ は、ジョルジョ・ヴァザーリ による『画家・彫刻家・建築家列伝 』(1550年頃)に初めて現れ、これに対応するフランス語 ルネサンス は1830年代に英語 へ取り入れられて、この時代を指す術語となった[ 1] 。
日本では長らく文芸復興 と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが[ 2] 、文芸に限らず広義に使われるため、現在では訳語として文芸復興という言葉はあまり使われない。ルネッサンス とも表記されるが[ 3] 、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。
ルネサンスの知的基盤は、その独自の人文主義 にあり、これはローマのフマニタス (英語版 ) の概念および古代ギリシア哲学 (「人間は万物の尺度である」と述べたプロタゴラス の思想など)の再発見に由来する。活字 の発明は15世紀後半以降の思想の流布を加速させたが、ルネサンスの変化はヨーロッパ全域で一様ではなかった。その最初の兆候はイタリアにおいて早くも13世紀末に見られ、特にダンテ の著述やジョット の絵画に顕著である。
文化運動としてのルネサンスは、ルネサンス・ラテン語 文学の革新的な開花と、諸国語文学の爆発的な展開を包含した。これは古典資料にもとづく学問の14世紀的復興(同時代人はその功をペトラルカ に帰した)に始まり、絵画における線遠近法 など、より自然な現実を描出するための諸技法の発達、そして漸進的ながら広範囲に及ぶ教育改革を伴った。レオナルド・ダ・ヴィンチ やミケランジェロ といった博学多才の人物による数多の芸術的展開は、「ルネサンス・マン(万能人)」という語の由来ともなった[ 4] [ 5] 。政治においては外交 の慣行と規範の発展に寄与し、科学においては観察 および帰納 的推論への依拠の増大をもたらした。さらに、その他の知的・社会科学的営為における革新とともに、近代的銀行 制度および会計学 の導入も見られた[ 6] 。
ルネサンス期は中世後期の危機 (英語版 ) のさなかに始まり、慣例的には、人文主義の衰退、宗教改革 と対抗宗教改革 の到来、そして美術におけるバロック 期の出現とともに終わるとされる。その時期区分や性格は地域によって異なり、イタリア・ルネサンス (英語版 ) 、北方ルネサンス 、スペイン・ルネサンス (英語版 ) などが挙げられる。
標準的な時代区分に加えて、「長いルネサンス」を唱える立場は、その始まりを14世紀 、終わりを17世紀 に置くことがある。
伝統的な見解はルネサンスの近世的側面を重視し、過去からの断絶を強調するが、今日では多くの歴史家が中世的側面に注目し、中世の延長として捉える傾向にある[ 7] [ 8] 。
ルネサンスの始まり、すなわち15世紀の初期ルネサンスおよび1250年または1300年頃にまでさかのぼるイタリアのプロト・ルネサンスは、中世後期 (慣例的には1350年頃から1500年頃)と大いに重なり合う。中世自体が近代と同様に漸進的変化に満ちた長期の時代であったため、その両者の移行期たるルネサンスは、双方と近しい性質を有し、特にそれぞれの後期・前期との類似が顕著である。
ルネサンスは、イタリアの諸都市国家 の一つであるフィレンツェにおいて始まった。イタリア・ルネサンスは、コニャック同盟戦争 のさなかに神聖ローマ皇帝カール5世 が1527年にローマへの攻撃を開始 した時に終結したとされる。しかし、イタリア・ルネサンスの影響はティントレット 、ソフォニスバ・アングイッソラ 、パオロ・ヴェロネーゼ といった著名なイタリア人画家の作品に持続しており、彼らは16世紀中後期にも活動を続けた[ 9] 。
その起源と特質を説明する理論としては、当時のフィレンツェに固有の社会的・市民的特性、すなわち政治構造、支配的家門であるメディチ家 の庇護[ 10] 、およびコンスタンティノープル がオスマン帝国 に陥落 したのちにギリシア系学者とその文献がイタリアへ移入したことに注目するものがある[ 11] [ 12] [ 13] 。
ほかの主要中心地としては、ヴェネツィア 、ジェノヴァ 、ミラノ 、ルネサンス期の教皇 庁下のローマ 、ナポリ が挙げられる。イタリアから出たルネサンスはヨーロッパ全域に広がり、さらに当時のヨーロッパ植民諸国の支配下にあった、あるいはキリスト教宣教師 が活動したアメリカ大陸 ・アフリカ ・アジア の地域にも及んだ。
ルネサンスの史学史 は長く複雑であり、明確な時代区分に対する一般的な懐疑と歩調を合わせて、19世紀的な「ルネサンス」の礼賛や、個々の文化的英雄を「ルネサンス・マン」と称揚する見方に対して、多くの歴史家が異議を唱え、この術語および歴史区分としての有用性に疑義を呈してきた[ 14] 。
中には、ルネサンスが中世からの文化的「前進」であったかを疑い、むしろ古典古代への郷愁と悲観が支配する時代であったと見る論者もいる[ 15] 。これに対し、とりわけ長期持続 (longue durée)の視座をとる社会経済史家は、両時代の連続性に注目しており[ 16] 、パノフスキー が述べたように、両者は「千の絆によって」結びついているとする[ 17] 。
なお、ルネサンスの語は他の歴史的・文化的運動にも拡張されて用いられ、カロリング朝ルネサンス (8–9世紀)、オットー朝ルネサンス (英語版 ) (10–11世紀)、12世紀ルネサンス などが挙げられる[ 18] 。
ルネサンスは、近世におけるヨーロッパの知的生活に甚大な影響を及ぼした文化運動である。イタリアに始まり、16世紀 までにヨーロッパ全域へと広がり、その影響は美術、建築、哲学、文学、音楽、科学、技術、政治、宗教、その他の知的探究の諸領域に及んだ。ルネサンスの学者は研究において人文主義的方法を採用し、美術においては写実 性と人間的感情の表現を追求した[ 19] 。
ポッジョ・ブラッチョリーニ のようなルネサンス人文主義 (英語版 ) 者は、ヨーロッパ各地の修道院 図書館に保存されたラテン語 の文学 ・歴史 ・修辞学 の文献を探索した。一方で、コンスタンティノープルの陥落(1453年)は、古代ギリシア語 で書かれた貴重な写本 の多く(西欧では忘却されていたものも多い)を携えたギリシア人学者の亡命 の波を生じさせた。こうした文学・歴史文献への新たな焦点において、ルネサンスの学者は、自然科学 ・哲学 ・数学 に関するギリシア語・アラビア語 文献の研究に注力した12世紀ルネサンス期の中世の学者と著しく異なっていた[要出典 ] 。
サンドロ・ボッティチェリ 『若い女性の肖像 』(1480–1485年頃)(シモネッタ・ヴェスプッチ )新プラトン主義 の復興に際して、ルネサンスの人文主義者はキリスト教 を否定したわけではない。むしろ、ルネサンスの著名作の多くはキリスト教に捧げられ、教会 はルネサンス美術 の多くの作品を保護・後援した[ 20] 。ただし、知識人 が宗教 に接近する態度には微妙な転換が生じ、それは文化生活の他の多くの領域にも反映された[ 21] 。さらに、ギリシア語新約聖書 (英語版 ) を含む多くのギリシア語のキリスト教文献がビザンツ帝国 から西ヨーロッパ にもたらされ、古代末期 以来初めて西欧の学者を本格的に惹きつけた。ロレンツォ・ヴァッラ やエラスムス といった人文主義者が推進した新約聖書のギリシア語原典への回帰は、宗教改革 への道を開く一助となった[要出典 ] 。
古典主義 への最初の芸術的回帰がニコラ・ピサーノ の彫刻 に典型を見せたのち、マザッチョ に率いられたフィレンツェの画家たちは人体 を写実的に描こうと努め、遠近法と光をより自然に表現する技法を発展させた。政治哲学 者、なかでも著名なニッコロ・マキアヴェッリ は、政治生活を実際に即して記述し、すなわち理性的に理解しようとした。
イタリア・ルネサンス人文主義における重要な貢献として、ピコ・デラ・ミランドラ は『人間の尊厳について (英語版 ) (1486年)』を著し、哲学 ・自然哲学 ・信仰 ・魔術 に関する一連の命題を、理性に基づいていかなる反対者に対しても弁護した。古典ラテン語とギリシア語の研究に加え、ルネサンスの著述家は現地語の使用を次第に拡大し、印刷機 (活版印刷 )の導入と相まって、とりわけ聖書 を含む書物 へのアクセスをはるかに多くの人々に開いた[ 22] 。
総じて、ルネサンスは、古代の理念の復興と新たな思考方法の双方を通じて、知識人が世俗的・現世的領域を研究し改善しようとする試みとみなしうる。政治思想家ハンス・コーン (英語版 ) はこれを「人々が新たな基盤を求めた時代」と描写し、エラスムスやトマス・モア のように新たに改革された精神的基盤を構想した者がある一方で、マキアヴェッリの言葉を借りれば、「現代生活に関する長い経験と古代からの不断の学習」を重んじた者もいた[ 23] 。
社会学者ロドニー・スターク (英語版 ) は、ルネサンスよりもむしろ中世盛期 のイタリア都市国家 (英語版 ) における先駆的革新(応答性の高い政府・キリスト教・資本主義の誕生の結合)を重視してルネサンスの位置づけを相対化する[ 24] 。この分析によれば、フランス やスペイン といった大国が絶対君主制 で、他の地域が教会の直接的支配下にあったのに対し、イタリアの独立した都市共和国 は修道院領で生み出された資本主義の原理を継承し、ルネサンスに先行し、かつその資金的基盤ともなった空前の商業革命 を引き起こしたとされる[要出典 ] 。
歴史家レオン・ポリアコフ (英語版 ) は、ヨーロッパにおける人種主義 思想の古典的研究『アーリア神話』において批判的見解を提示している。ポリアコフによれば、民族起源神話の利用は、ルネサンスの人文主義者によって「生まれつつあったショーヴィニズム への奉仕のために」初めて用いられたという[ 25] [ 26] 。
フィレンツェの景観—ルネサンス発祥の地 ルネサンスを特徴づける諸観念は、13世紀末から14世紀初頭にかけてフィレンツェにおいて、ことにダンテ・アリギエーリ(1265–1321)およびペトラルカ(1304–1374)の著述、ならびにジョット・ディ・ボンドーネ(1267–1337)の絵画にその起源をもつと論じられてきた。
ルネサンスの開始時点を精確に画定しようとする著述家もあり、その一つは1401年、ライバルたる天才ロレンツォ・ギベルティ とフィリッポ・ブルネレスキ がフィレンツェ大聖堂 の洗礼堂 青銅扉(サン・ジョヴァンニ洗礼堂の青銅扉 (英語版 ) )の制作契約を争った年(最終的にギベルティが受注)を起点とするものである[ 27] 。他方では、ブルネレスキ、ギベルティ、ドナテッロ 、マザッチョといった芸術家・博学者が、作品委嘱をめぐって競い合ったこと自体が、ルネサンスの創造性に火をつけたとみる見解もある。
とはいえ、なぜルネサンスがイタリアで、かつその時期に始まったのかについては議論が続いている。したがって、その起源を説明するためにいくつかの理論が提起されてきた。ペーター・リエトベルヘンは、おおむね1300年以降、ヨーロッパ各地で種々の影響力あるプロト・ルネサンス的運動が始動したと主張する[ 28] 。
ルネサンス人文主義のラテン語期とギリシア語期[ 編集 ] コルッチョ・サルターティ 中世盛期においてラテン学者がほぼ専ら、自然科学・哲学・数学に関するギリシア語およびアラビア語の著作の研究に集中していたのとは著しく対照的に、ルネサンスの学者は、古代のラテン語およびギリシア語による文学・歴史・弁論の文献の収集と研究に最大の関心を寄せた。
概括的にいえば、これは14世紀の「ラテン語期」に始まり、ペトラルカ 、コルッチョ・サルターティ (1331–1406)、ニッコロ・ニッコリ (1364–1437)、ポッジョ・ブラッチョリーニ (1380–1459)らが、キケロ 、ルクレティウス 、リウィウス 、セネカ といったラテン著作者の作品を求めてヨーロッパの図書館 を渉猟した[ 29] 。15世紀初頭までには、その種のラテン文学の大半が再発見され、学界の関心は「ギリシア語期」へと移行し、西欧の学者は古代ギリシアの文学・歴史・雄弁・神学の文献の回収に取り組むようになった[ 30] 。
ラテン文献が後期古代 以来西ヨーロッパで保存・研究されてきたのとは異なり、古代ギリシア文献の研究は中世西欧ではきわめて限定的であった。自然科学・数学・哲学に関するギリシアの著作は、中世盛期の西欧およびイスラーム黄金期 に(通常は翻訳を介して)研究されたものの、ホメロス 、ギリシア悲劇 作家、デモステネス 、トゥキュディデス といった文学・雄弁・歴史の諸作品は、ラテン世界にも中世イスラーム世界にも研究対象として広く受け入れられず、中世においてはビザンツの学者のみが継続的に扱っていたのである。
サマルカンド とヘラート のティムール朝ルネサンス (英語版 ) の壮麗さが、文化的復興の中心としてのフィレンツェに比肩しうるものであったと論じる者もおり[ 31] [ 32] 、これらはオスマン帝国と結びつき、同帝国の征服がギリシア人学者のイタリア諸都市への移住を促したとされる[ 11] [ 33] 。ルネサンスの学者の最大の成果の一つは、後期古代以来初めて、この種のギリシア文化の諸作品を西欧にもたらしたことであった。
イスラム勢力がエジプト およびレヴァント を侵攻・征服したのち、ムスリムの論理学者、なかでもイブン・スィーナー (アヴィセンナ)およびイブン・ルシュド (アヴェロエス)はギリシアの思想を継承した。彼らによる翻訳と註解は、アラブ西方世界を経てイベリア およびシチリア へともたらされ、これらの地域はイスラム世界から西欧への思想伝播の重要な拠点となった。11世紀から13世紀にかけて、古典アラビア語 から中世ラテン語 への哲学・科学文献の翻訳に特化した学校がイベリアに多数設立され、とりわけトレド翻訳学派 が著名である。このイスラーム文化からの翻訳活動は、多くが計画性や組織性に欠けていたにもかかわらず、歴史上最大級の知の伝播を構成した[ 34] 。
古代ギリシアの文学・歴史・弁論・神学文献の研究を西欧の教授カリキュラムに再統合しようとする運動は、通常、1396年にコルッチョ・サルターティがビザンツの外交官・学者マヌエル・クリソロラス (英語版 ) (c.1355–1415)をフィレンツェに招聘してギリシア語を教授させたことに始まるとされる[ 35] 。この遺産は、ヨハンネス・ベッサリオン からレオ・アラティウス (英語版 ) に至るまで、亡命ギリシア人学者の手で継承された。
1494年頃のイタリア半島 の政治地図 中世末のイタリアに固有の政治構造は、稀有な文化的開花を可能にした特異な社会環境をもたらしたとするいくつかの説を生んだ。近世初期のイタリアは一つの政治体としては存在せず、小規模な都市国家と領域に分かれていた。南部はナポリ王国 が、中央はフィレンツェ共和国およびローマ教皇領 が、北部と西部はそれぞれミラノ公国 およびジェノヴァ共和国 が、北東部はヴェネツィア共和国 が支配した。15世紀 のイタリアは、ヨーロッパでもっとも都市化 の進んだ地域の一つであった[ 36] 。諸都市の多くは古代ローマ建築 の遺構の中に立地しており、ルネサンスの古典主義的性格が、ローマ帝国 の中心地に起源をもつことと結びついていた可能性は高い[ 37] 。
歴史家・政治思想家クェンティン・スキナー は、12世紀に北イタリア を訪れたドイツ の司教フライジングのオットー (c.1114–1158)が、イタリア社会が封建制 から脱却し、商人 と商業 に基盤を置く、新しい広範な政治・社会組織を見出したと記していることを指摘する。これと結びついて、アンブロージョ・ロレンツェッティ による初期ルネサンスの著名なフレスコ連作『善政と悪政の寓意 (英語版 ) 』(1338–1340年制作)に代表される反君主主義 的思考が見られ、その強いメッセージは、公平 ・正義 ・共和主義 ・良き統治の美徳を称揚するものであった。教会と帝国の双方に距離を置きつつ、これらの都市共和国は自由 の理念に奉仕していた。スキナーは、マッテオ・パルミエーリ (英語版 ) (1406–1475)が、美術・彫刻・建築のみならず、「同時代のフィレンツェにおける倫理・社会・政治哲学の著しい開花」を称えたように、自由を擁護する論考が多数存在したと報告している[ 38] 。
また、この時期の中部以外の諸都市・諸国家もヴェネツィア共和国を筆頭に海洋共和国 (英語版 ) として知られ、実際には寡頭制 的であり現代の民主制 とは大きく異なっていたものの、様々な統治への参加と自由への信念といった、一定の民主的特徴と応答性を備えた国家であった[ 38] [ 39] [ 40] 。彼らが享受した相対的な政治的自由は、学問と芸術の進展を促した[ 41] 。同様に、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの諸都市が大交易拠点として占めた地位は、そこを知的交差点たらしめた。商人たちは、ことにレヴァント から、世界の隅々の思想を持ち込んだ。ヴェネツィアは東方交易へのヨーロッパの玄関口であり、精巧なガラス製品 の生産地でもあった。他方、フィレンツェは織物 の中心地であった。こうした交易がもたらした富は、公共・私的双方の大規模な美術プロジェクトを可能にし、個人にも学究のための余暇を与えた[ 41] 。
ピーテル・ブリューゲル 『死の勝利 』(1562年頃)は、中世ヨーロッパを壊滅させたペスト に続く社会的不安と恐怖を反映している。1348年から1350年にかけてヨーロッパを襲った黒死病 によってフィレンツェが被った壊滅が、14世紀イタリアの人々の世界観の転換をもたらしたとする説がある。イタリアはとりわけ深刻な打撃を受け、死への慣れが、人々に精神性や来世よりも地上での生活に思いを致させたと推測されている[ 42] 。他方で、黒死病が宗教芸術の後援という形で新たな敬虔の波を引き起こしたとも論じられている[ 43] 。しかし、こうした説明だけでは、なぜ14世紀のイタリアにおいて特にルネサンスが生じたのかを十分に説明しえない。黒死病の流行はイタリアに限らずヨーロッパ全域に同様の影響を及ぼしたパンデミック であったからである。ルネサンスの勃興は、上述の諸要因の複雑な相互作用の結果であった可能性が高い[ 14] 。
疫病は、アジア の港から帰航する船舶に寄生したノミ によって運ばれ、衛生状態の不備から急速に拡大した。人口約420万人であった当時のイングランド は、腺ペスト によって140万人を失った。フィレンツェの人口は1348年の一年でほぼ半減した。住民の激減により労働力 の価値が上昇し、平民はより大きな自由を享受するようになった。労働需要の増大に応えるため、労働者はより有利な経済的条件を求めて各地を移動するようになった[ 44] 。
人口減少は経済にも影響を及ぼし、1350年から1400年にかけて、ヨーロッパの多くの地域で食料価格は下落し、地価は30~40%低下した[ 45] 。土地所有者は大きな損失を被ったが、一般の男女にとっては思わぬ利得となった。生き残った人々は、食料価格が安く、土地がより豊富である環境を見出し、多くが死亡した親族から財産を相続したのである。
疾病の蔓延は貧困地域で著しく激しかった。流行病は都市部を荒廃させ、特に子どもたちが打撃を受けた。シラミ 、不衛生な飲料水、軍隊などの集団、そして不良な衛生環境 によって、疫病は容易に拡散した。発疹チフス や先天梅毒 など多くの疾病は免疫系 を損なうため、幼い子どもたちは抗しがたかった。都市 の住居に暮らす子どもは、富裕層の子どもよりも疾病の影響を受けやすかった[ 46] 。
黒死病は、後の疫病よりもフィレンツェの社会・政治構造に大きな動揺をもたらした。支配階層の間でも多数の死者が出たにもかかわらず、フィレンツェの統治はこの時期を通じて機能し続けた。市内の混乱のため、流行の最盛期には選挙で選ばれた代表者による正式会合は停止されたが、市政を執行する少数の官吏が任命され、統治の連続性が確保された[ 47] 。
ロレンツォ・デ・メディチ 。フィレンツェの統治者にして芸術のパトロン(ヴァザーリによる肖像)ルネサンスがなぜフィレンツェで始まり、他のイタリア諸都市ではなかったのかは、長らく議論の的である。フィレンツェの文化生活に固有のいくつかの特質が、この種の文化運動を生じさせた可能性があると指摘されてきた。銀行家一族にして後には公爵家ともなったメディチ家が、芸術の保護と振興に果たした役割を強調する見解は多い。他方で、フィレンツェがルネサンスの発祥地となったのは偶然、すなわち「偉人」たちがそこにたまたま生まれたためだとする歴史家もいる[ 48] 。レオナルド 、ボッティチェリ 、ミケランジェロ はいずれもトスカーナ の出身である。こうした偶然性は考えにくいとする立場からは、当時の支配的な文化状況があったからこそ、これらの「偉人」たちが頭角を現しえたのだと論じられる[ 49] 。
ロレンツォ・デ・メディチ (1449–1492)は膨大な芸術パトロネージの触媒となり、同国人に対して、レオナルド・ダ・ヴィンチ、サンドロ・ボッティチェリ、ミケランジェロ・ブオナローティをはじめとするフィレンツェの第一線の芸術家に作品を委嘱するよう奨励した[ 10] 。また、ネーリ・ディ・ビッチ (英語版 ) 、ボッティチェリ、レオナルド、フィリッピーノ・リッピ の作品が、フィレンツェのスコペートのサン・ドナート修道院によって委嘱されている[ 50] 。
ただしルネサンスは、ロレンツォ・デ・メディチが権力を掌握する以前、さらにはメディチ家がフィレンツェ社会において覇権を確立する以前からすでに進行していた。
ある観点からすれば、ルネサンス人文主義は哲学というよりも学習の方法であった。著者間の矛盾の調停に主眼を置いた中世スコラ学的手法とは対照的に、ルネサンスの人文主義者は古典文献を原典言語で読解し、理性と経験的証拠の組み合わせによってそれらを評価した。人文主義教育は人文学の課程に基づき、詩・文法・歴史・道徳哲学・修辞学の五科の学習から成った。人文主義の厳密な定義づけはしばしば歴史家を悩ませてきたが、多くは「中道的な定義—すなわち、古代ギリシアとローマの言語・文学・学芸・価値の回収・解釈・吸収を目指す運動」へと収斂している[ 51] 。何よりも、人文主義者は「人間の天才—人間精神の唯一無二にして非凡なる能力」を主張した[ 52] 。
ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ —『人間の尊厳について (英語版 ) 』の著者(しばしば「ルネサンスの宣言」と称される)[ 53] 人文主義の学者たちは近世を通じて知的地平を形作った。ニッコロ・マキアヴェッリやトマス・モアといった政治思想家は、ギリシア・ローマの思想を再興し、イブン・ハルドゥーンのイスラーム世界における先例に続いて、それらを同時代の統治批判に応用した[ 54] [ 55] 。ピコ・デッラ・ミランドラは、思考の価値を力強く擁護する『人間の尊厳について』を著し、これがルネサンスの「宣言」に当たるとされる[要出典 ] 。
別の人文主義者マッテオ・パルミエーリ(1406–1475)は、市民的人文主義(古典的共和主義 (英語版 ) )を唱える著作『市民生活について(1528年)』で知られるとともに、イタリア語トスカーナ方言 (俗語)をラテン語と同等の水準へ洗練するうえで影響力を及ぼした。彼はローマの哲学者・理論家、とりわけ、自身と同様に市民 ・官人としての公的活動を理論・哲学の営みと併せもったキケロおよびクインティリアヌス に範をとった。彼の人文主義観をもっとも簡潔に示すのは1465年の詩作『La città di vita』とされるが、内容の広がりにおいては先行作『Della vita civile』がより包括的である。同書は1430年の疫病流行期に、フィレンツェ郊外ムジェッロ (英語版 ) 地方の田園邸宅を舞台とする一連の対話篇として構成され、理想的市民の資質を説く。そこでは、子ども の精神的・身体的発達、市民の道徳的行状、公的生活における市民と国家 の廉直確保の方途、さらに実利的有用性と誠実(正直)との相違に関する重要な討論などが扱われる[要出典 ] 。
人文主義者は、教育によって完全な精神と身体を備え、来世 へと至ることが重要であると信じた。人文主義の目的は、知的・身体的卓越を併せ備え、ほとんどあらゆる状況で高潔にふるまい得る普遍的人間 の形成にあった[ 56] 。この理念は古代ギリシア・ローマの理想に淵源をもつ。ルネサンス期の教育は古典文学と歴史を中心に構成され、古典が道徳的訓示と人間行動への深い理解を与えると考えられていた。
ルネサンス期のいくつかの図書館には、一般に開放されていたという独自の特色が見られる。これらの図書館は、思想が交換され、学問 と読書 が精神と魂の双方にとって愉楽であり益となると考えられた場であった。自由思想 が時代の標識であったため、多くの図書館は幅広い著述家の作品を収蔵し、古典文献と人文主義の著作が並置された。
かかる知識人の非公式な結社は、ルネサンス文化に深甚な影響を及ぼした。図書館学上の不可欠の道具は、蔵書を列挙・記述・分類する目録であった[ 57] 。もっとも裕福な書物愛好家 の中には、書物と知識の神殿として図書館を築く者もいた。莫大な富と書物愛が結びついた所産として多くの図書館が出現し、教養ある蔵書家の中には、自らのコレクション の利用機会を他者に提供することに意を用いた者もいた。著名な貴族や教会の高位聖職者は、宮廷の用に供する大図書館、いわゆる宮廷図書館を創設し、それらは華麗に設計された記念碑的建築に収められ、精緻な木工装飾とフレスコ画 で壁面が飾られた(Murray, Stuart A.P.)。
ルネサンス美術 は、中世の終焉と近代世界の勃興に際する文化的再生を画するものである。ルネサンス美術の顕著な特徴の一つは、高度に写実的な線遠近法の発展であった。ジョット・ディ・ボンドーネ (1267–1337)は、絵画 を空間 への「窓」として最初に扱った功績を認められるが、遠近法が一つの技法として理論化・体系化されたのは、建築家フィリッポ・ブルネレスキ (1377–1446)の実演と、それに続くレオン・バッティスタ・アルベルティ (1404–1472)の著述によってであった[ 58] 。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『ウィトルウィウス的人体図 』(1490年頃)は、古代著作家がルネサンスの思索者に及ぼした影響を示す。ウィトルウィウス 『デ・アーキテクチュラ (紀元前1世紀)』の規定にもとづき、レオナルドは完全比例の人体を描こうとした。(ヴェネツィア、アカデミア美術館 ) 遠近法の発展は、美術におけるより広範な写実主義 への潮流の一部であった[ 59] 。画家たちは光や陰影、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチに特に著しいように人体解剖 の研究など、他の技法も発達させた。これらの方法上の変化の根底には、自然の美を描出し、美学 の公準を解き明かそうとする欲求の再燃があり、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの作品は他の多くの芸術家に模倣される到達点となった[ 60] 。他の著名な作家としては、フィレンツェでメディチ家に仕えたサンドロ・ボッティチェリ、同じくフィレンツェのドナテッロ、ヴェネツィアのティツィアーノなどが挙げられる。
ネーデルラント では、とりわけ活気ある美術文化が形成された。フーゴー・ファン・デル・グース やヤン・ファン・エイク の作品は、油彩 やカンヴァス の導入といった技術的側面、ならびに表現の自然主義といった様式面において、イタリア絵画の展開に大きな影響を及ぼした。のちには老ピーテル・ブリューゲル の作品が、日常生活の主題を描く動機づけとなった[ 61] 。
建築においては、ブルネレスキ が古代古典建築の遺構の研究で第一人者であった。紀元前1世紀の著述家ウィトルウィウス に関する再発見の知識と、数学 の学問的隆盛を背景に、彼は古典の形態を踏まえつつそれを改良するルネサンス様式 を構想した。彼の工学 上の偉業は、フィレンツェ大聖堂 の大円蓋の建設である[ 62] 。この様式を示す別の建築としては、アルベルティによるマントヴァ のサンタンドレア教会 (英語版 ) がある。盛期ルネサンス 建築の白眉は、ブラマンテ 、ミケランジェロ、ラファエロ、サンガッロ 、マデルノ らの技を結集したサン・ピエトロ大聖堂 の再建であった。
ルネサンスの建築家は、柱・付け柱 ・エンタブラチュア を統合的な体系として用いることを目指した。用いられたローマ式柱頭 秩序には、トスカナ式オーダー およびコンポジット式オーダー (英語版 ) がある(オーダー (建築) も参照)。これらはアーケード やアーキトレーヴ を支持する構造材として、あるいは壁面に付け柱として配される純装飾要素として用いられた。付け柱を統合体系として用いた初期の建築の一つは、ブルネレスキによる旧聖具室(1421–1440年)である[ 63] 。アーチは半円アーチ (英語版 ) 、あるいは(マニエリスム 様式では)セグメンタルアーチ (英語版 ) がしばしばアーケードに用いられ、柱頭をもつ柱や壁柱に載せられる。柱頭とアーチの起拱点のあいだにエンタブラチュアの区間が設けられる場合もある。アルベルティは、モニュメンタルな用途におけるアーチ使用の先駆者の一人であった。ルネサンスのヴォールト はリブを持たず、半円形またはセグメンタルで、しばしば正方形平面上に載る点で、矩形平面が多いゴシック ・ヴォールトと異なる。
ルネサンスの芸術家は古代を敬慕し、中世からの若干の観念や象徴を保持したとはいえ、異教徒ではなかった。ニコラ・ピサーノ (c.1220–c.1278)は、聖書 場面を古典的様式で表すことにより古典形態を模倣した。ピサ洗礼堂 (英語版 ) の《受胎告知》は、ルネサンスが文芸運動として根づく以前から、古典的範型がイタリア美術に影響していたことを示している[ 64] 。
カンティーノ世界図 (英語版 ) (1502年)—ポルトガルの海上探検 (英語版 ) を詳細に描いた最古の世界図。ルネサンス期(1450年から1650年に及ぶ)[ 65] には、南極大陸 を除くあらゆる大陸 がヨーロッパ人により訪問され、おおむね地図化された。この進展は、1648年にウェストファリア条約 を記念してオランダ の地図製作者ヨアン・ブラウ が制作した大型世界図『Nova Totius Terrarum Orbis Tabula 』に表象されている。
1492年、クリストファー・コロンブス はデリー・スルターン朝 領のインドへの直航路を求めてスペイン から大西洋 を横断した。彼は偶然アメリカ大陸 に到達したが、当初は東インド諸島 に至ったと信じた。科学史家デイヴィッド・ウートン (英語版 ) は、古代人に全く知られていなかった大陸が発見されたことが16世紀のヨーロッパ知的生活に深甚な影響を与え、(印刷術と並んで)科学革命 の二大触媒の一つであったと論じている[ 66] 。
1519年から1522年にかけて、マゼラン=エルカーノ遠征隊(マゼランの探検 (英語版 ) )は史上初の世界周航を達成し[ 67] 、ヨーロッパの遠征として初めて太平洋横断 も成し遂げ、その広大さを明らかにした[ 68] 。
1577年から1580年には、フランシス・ドレーク の掠奪遠征が二度目の世界周航を達成した(単一の遠征として完遂)。ドレークは航程全体を通じて遠征を率いた艦長として、はじめて世界周航を成し遂げた人物でもある。(フランシス・ドレークの世界周航 (英語版 ) )
1606年、オランダ の航海者ウィレム・ヤンスゾーン (英語版 ) は、オランダ東インド会社 船デュイフケン (英語版 ) で東インドから航行し、オーストラリア に上陸した。彼はクイーンズランド のヨーク岬半島 西岸のおよそ300キロメートルを測図した。続く30回以上のオランダ遠征が、北・西・南岸の各部を地図化した。1642–1643年にはアベル・タスマン がこの大陸を周航し、想像上の南極大陸と地続きではないことを示した。
1650年までに、オランダの地図製作者たちはこの大陸の海岸線の大部分を測図し、これをニューホラント と命名した(東岸のみは1770年にジェームズ・クック が測図)。
長らく想像されてきた南極の大陸は、やがて1820年に視認された。ルネサンス期を通じてそれはテラ・アウストラリス (略して「オーストラリア」)と呼ばれていたが、19世紀にこの名称がニューホラントに転用されると、南極の大陸には新たに「アンタークティカ」の名が与えられた[ 69] 。
『ニコラウス・コペルニクス の匿名肖像』(c.1580) 『ルカ・パチョーリの肖像 (英語版 ) 』—ヤコポ・デ・バルバリ 作、1495年(カポディモンテ美術館 ) 実用的革新は商業にも及んだ。15世紀末、ルカ・パチョーリ は簿記 に関する最初の著作を刊行し、会計学 の創始者とされる[ 6] 。
古典文献の再発見と、1440年頃の活版印刷 の発明は学習の民主化を促し、広範な領域にわたる思想の迅速な伝播を可能にした。イタリア・ルネサンス初期には、人文主義者は自然哲学や応用数学 よりも人文学の研究を重視し、古典資料への敬意は、宇宙についてのアリストテレス的およびプトレマイオス 的見解をいっそう定着させる結果となった。1450年頃にニコラウス・クザーヌス は、哲学的な仕方で、後のコペルニクス の地動説的世界観を先取りした。
初期ルネサンスにおいては、科学 と芸術が混然一体であった。レオナルド・ダ・ヴィンチのような博学の芸術家は、解剖学 や自然に関する観察図を制作した。レオナルドは水流、医学的解剖、運動 および空力 の体系的研究において制御実験を設け、研究方法の原理を案出した。このためフリッチョフ・カプラ は彼を「近代科学の父」と位置づけている。同時期のレオナルドの貢献には、大理石 切断機や巨石揚重機の設計、音響学 ・植物学 ・地質学 ・解剖学・力学 における新知見などが数えられる[ 70] 。
古典的科学学説を問い直す環境も整った。1492年のコロンブスによる「新世界 」の発見は、古典的世界観に挑戦を突きつけた。プトレマイオス(地理学)やガレノス (医学)の著作が日常の観察と一致しない場合があることも明らかになった。宗教改革と対抗宗教改革が衝突する中で、北方ルネサンスではアリストテレス的自然哲学から化学 や生物学 的諸科学(植物学・解剖学・医学)への焦点移動が決定的となった[ 71] 。既成の真理を問い、新たな解答を探究する姿勢は、科学上の大きな進歩をもたらした。
これを「科学革命 」と見て近代の開幕を告げるとする見解もあれば[ 72] 、古代から現代に至る連続的過程の加速とみなす見解もある[ 73] 。コペルニクスは『天球の回転について 』において、地球 が太陽 の周囲を運動することを主張した。アンドレアス・ヴェサリウス の『人体の構造について 』は、解剖や観察、機械論 的解剖観の役割に新たな確信を与えた[ 74] 。
もう一つの重要な展開は、発見の手続きとしての科学的方法 である[ 74] 。これは経験的証拠と数学 の重要性に焦点を合わせ、アリストテレス科学の多くを捨象した。これらの理念の初期の有力な提唱者には、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ 、フランシス・ベーコン が含まれる[ 75] [ 76] 。新たな科学的方法は、天文学 ・物理学 ・生物学・解剖学の分野に大きな貢献をもたらした[ 77] 。
社会の変容から、共通かつ統一的な音楽 言語が生まれ、とりわけフランコ=フランドル楽派 の多声音楽様式 が確立した。印刷技術の発達は、音楽の広域的な頒布を可能にした。市民階級 の成立に伴い、娯楽 として、また教養 あるアマチュア の実践としての音楽需要が増大した。シャンソン 、モテット 、ミサ曲 の流布は、16世紀後半にジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ 、オルランド・ディ・ラッソ 、トマス・ルイス・デ・ビクトリア 、ウィリアム・バード といった作曲家の作品に結実する、流麗な多声音楽様式の統一と歩調を合わせた。
アレクサンデル6世 。腐敗で悪名高いボルジア家 の教皇人文主義の新たな理念は、いくつかの点でより世俗的であったとはいえ、北方ルネサンス においてとりわけ、キリスト教的背景のもとで発展した。新しい美術の多く、あるいはその大半は、ローマ・カトリック教会 により委嘱され、または献呈された[ 21] 。しかし、ルネサンスは同時代の神学 にも深い影響を与え、特に人間と神との関係の理解において大きな変化をもたらした[ 21] 。この時代の主要な神学者の多くは人文主義的方法の追随者であり、エラスムス 、フルドリッヒ・ツヴィングリ 、トマス・モア 、マルティン・ルター 、ジャン・カルヴァン が含まれる。
『ファルネーゼ時祷書 (英語版 ) 』(1546年)より「東方三博士の礼拝 」と「ソロモン王 を礼拝するシバの女王 」—ジュリオ・クローヴィオ 作。禁書目録 の制定とともに、イタリアにおける装飾写本 ルネサンスの終焉を画する ルネサンスは、宗教的動揺の時代に始まった。中世末には教皇庁 をめぐる政治的陰謀が渦巻き、その頂点に、同時に三人がローマ司教位の正統性を主張した教会大分裂 (いわゆる西方教会大分裂)があった[ 78] 。分裂はコンスタンツ公会議 (1414年)で収束へ向かったが、その後発した公会議主義 は教皇権 の制限を求めた。第5ラテラン公会議 (1511年)によって最終的に教皇庁は教会問題において至上の地位を回復したものの、腐敗の非難は続いた。とりわけアレクサンデル6世 は、枢機卿 時代にまで遡る聖職売買 、縁故主義 、子の認知 (英語版 ) (多くは権力固めのために縁組されたとされる)などで批判の的となった[ 79] 。
エラスムスやルターらの聖職者は、頻繁に新約聖書 の人文主義的文献批判にもとづく教会改革を提唱した[ 21] 。1517年10月、ルターは『95か条の論題 』を公にし、教皇権に異議を唱えるとともに、その腐敗とみなされた点、特に贖宥状 の販売を批判した。この「95か条」は宗教改革 へとつながり、先に西欧で覇権を主張していたローマ・カトリック教会との断絶を生じさせた。したがって、人文主義とルネサンスは宗教改革を直接に誘発したのみならず、同時代の諸宗教的論争や紛争においても重要な役割を果たした。
パウルス3世 (在位1534–1549)は、1527年のローマ劫掠 後、宗教改革を受けて不確実性が漂うカトリック教会を率いるために教皇座に就いた。ニコラウス・コペルニクスは『天球の回転について』をパウルス3世に献呈した。パウルス3世はのちにアレッサンドロ・ファルネーゼ の祖父となり、ファルネーゼはティツィアーノ、ミケランジェロ、ラファエロの絵画や重要なコレクションを擁し、またジュリオ・クローヴィオ に『ファルネーゼ時祷書 (英語版 ) 』というおそらく最後の大規模な彩飾写本の傑作を制作させた。
レオナルド・ブルーニ 15世紀までには、イタリアの著述家・芸術家・建築家は、自らの営為に生じつつある変容を十分に自覚しており、自作を形容するのに「古式の様式」や「ローマ人および古代人の様式で」といった語を用いていた。ペトラルカ は1330年代、キリスト教以前の時代を「古代」、キリスト教の時代を「新時代」と呼んだ[ 80] 。ペトラルカのイタリア的視座からすると、この新時代(自身の同時代を含む)は「国民的暗転の時代」であった[ 80] 。レオナルド・ブルーニ は『フィレンツェ人民史』(1442年)において、三分法的な時代区分 を初めて用いた[ 81] 。ブルーニの最初の二時期はペトラルカの区分に基づくが、彼はイタリアがもはや後退期にないと考え、第三の時期を付加した。フラヴィオ・ビオンド (英語版 ) も『ローマ帝国衰微以後の歴史の十書』(1439–1453年)で類似の枠組みを用いた。
人文主義の歴史家は、同時代の学問が古典期への直接的連関を回復し、したがって中世 を迂回したと論じ、この時期を初めて「中世」と命名した。ラテン語での初出は1469年の「中間の時代」である[ 82] 。「再生(後に仏語ルネサンス)」という語は、広義にはジョルジョ・ヴァザーリ の『画家・彫刻家・建築家列伝 』(初版1550年、改訂版1568年)に初めて現れる[ 83] [ 84] 。ヴァザーリはこの時代を三段階に分け、第一段階にチマブーエ 、ジョット 、アルノルフォ・ディ・カンビオ 、第二段階にマザッチョ 、ブルネレスキ 、ドナテッロ 、第三段階の中心にレオナルド・ダ・ヴィンチ を置き、ミケランジェロ に至って頂点に達するとした。ヴァザーリによれば、この発展を駆動したのは古典古代への自覚の高まりだけではなく、自然を研究し模倣しようとする欲求の増大でもあった[ 85] 。
15世紀には、ルネサンスはその発祥地フィレンツェ からイタリア 全土へ、さらにほどなくヨーロッパ各地へと急速に広がった。ドイツ の印刷業者ヨハネス・グーテンベルク による印刷機 の発明は、これら新思想の迅速な伝播を可能にした。普及の過程で、その理念は各地の文化に適応され、多様化・変容した。20世紀には、研究者がルネサンスを地域的・国民的運動へと細分化する試みを進めた。
「人間とは何と見事な作品であろう。理性においていかに高貴、能力においていかに無限、姿と動きはいかに明晰にして賞讃すべきか。行為においては天使のごとく、理解においては神のごとし!」—ウィリアム・シェイクスピア 『ハムレット 』より 16世紀後半のエリザベス朝 は、イングランド・ルネサンス (英語版 ) の最盛期と一般にみなされる。その淵源はしばしば、ヘンリー8世 治下の16世紀 初頭に求められる[ 86] 。イングランド・ルネサンスは、諸点においてイタリア・ルネサンス (英語版 ) と異なる。支配的な芸術形態は文学 と音楽 であり、これらが豊かに開花した。視覚芸術の重要性はイタリアに比してはるかに小さく、美術上のルネサンスはイタリアより遅れて始まり、イタリアは1530年代にはすでにマニエリスム へ移行していた[ 87] 。
文学においては、16世紀後半にエリザベス朝文学 (英語版 ) が開花し、詩はイタリア・ルネサンス文学の影響を強く受けた一方、演劇は独自の国民的様式を示した。著述家としては、ウィリアム・シェイクスピア (1564–1616)、クリストファー・マーロウ (1564–1593)、エドマンド・スペンサー (1552–1599)、トマス・モア (1478–1535)、フィリップ・シドニー (1554–1586)が挙げられる。音楽では、トマス・タリス (1505–1585)、ジョン・タヴァナー (1490–1545)、ウィリアム・バード (1540–1623)らの作曲家が欧州と肩を並べた。建築では、廷臣たちのための壮大なプロディジー・ハウス (英語版 ) が築かれ、次世紀にはイニゴー・ジョーンズ (1573–1652)がパッラーディオ建築 をイングランドに導入した[ 88] 。
また、フランシス・ベーコン (1561–1626)は近代的科学思想の先駆者であり、科学革命 の創始者の一人と広くみなされている[ 89] [ 90] 。
シャンボール城 (1519–1547年)—ルネサンス建築 を代表する著名な一例「ルネサンス」という語はフランス語に由来し、「再生」を意味する。18世紀に初めて用いられ、のちにフランスの歴史家ジュール・ミシュレ (1798–1874)が『フランス史』(1855年)で普及させた[ 91] [ 92] 。
1495年、シャルル8世 のイタリア侵攻に伴い、イタリア・ルネサンスがフランスにもたらされた。世俗主義の拡大を促した要因として、黒死病 に対して教会が有効な救済を提供できなかったことも挙げられる。フランソワ1世 はレオナルド・ダ・ヴィンチ 、プリマティッチオ 、ロッソ・フィオレンティーノ 、ニコロ・デッラバーテ 、ベンヴェヌート・チェッリーニ らのイタリア美術と芸術家を招聘し、フォンテーヌブロー宮殿 やシャンボール城 といった壮麗な宮殿建設に巨費を投じた。
文学ではフランソワ・ラブレー 、ピエール・ド・ロンサール 、ジョアシャン・デュ・ベレー 、ミシェル・ド・モンテーニュ 、絵画ではジャン・クルーエ (英語版 ) 、フランソワ・クルーエ 、音楽ではジャン・ムートン が、いずれもこの精神を摂取した。彫刻ではミシェル・コロンブ (英語版 ) 、ジャン・グージョン 、ピエール・ボントン (英語版 ) 、リジェ・リシエ 、ジェルマン・ピロン (英語版 ) 、建築ではピエール・レスコー (英語版 ) (ルーヴル宮 のレスコー翼 (英語版 ) の設計者)、フィリベール・ドロルム (英語版 ) 、ジャック1世・アンドルエ・デュ・セルソー (英語版 ) らが重要である。
1533年、フィレンツェ出身のカトリーヌ・ド・メディシス (1519–1589)は、フランソワ1世の次男アンリ2世 (のちのフランス王 )と結婚した。彼女はユグノー戦争 における役割で名高くも悪名高くもあるが、故郷フィレンツェから芸術・科学・音楽(バレエ の萌芽を含む)をフランス宮廷 (英語版 ) にもたらすうえで直接的な貢献をした。
皇帝マクシミリアン1世 の肖像(アルブレヒト・デューラー 作、1519年) 15世紀後半、ルネサンスの精神はドイツおよび低地地方(ネーデルラント)へ広がった。ここでは印刷術(約1450年)の発達や、アルブレヒト・デューラー (1471–1528)といったルネサンス美術家の活動が、イタリアからの影響に先行した。
国内の初期プロテスタント 地域では、人文主義が宗教改革の動乱と密接に結びつき、ドイツ・ルネサンス (英語版 ) の美術や著述はしばしばこの対立を反映した[ 93] 。とはいえ、ゴシック 様式と中世スコラ哲学は16世紀転換期まで支配的であり続けた。ハプスブルク家 の皇帝マクシミリアン1世 (在位1493–1519)は、神聖ローマ帝国 における最初の真正の「ルネサンス的君主」であった。
イタリアに次いで、ハンガリー はルネサンスが出現した最初のヨーロッパ諸国の一つである[ 94] 。クワトロチェント (1400年代)にイタリアから直接もたらされたこの様式は、14世紀 以降に強まったハンガリーとイタリアの初期関係(王朝的結びつきだけでなく、文化・人文主義・商業の諸関係)によって中欧地域で最初に根づいた。さらに、ハンガリーとイタリアのゴシック様式の関係性、すなわち過度な壁面解放を避け、簡明で軽快な構造を好む傾向も一因であった。大規模建設計画は芸術家に豊富な長期の仕事を提供し、たとえばブダ城 、ヴィシェグラード 、タタ 、ヴァールパロタ (英語版 ) の諸城の建設が挙げられる。ルクセンブルク家 のジギスムント帝 の宮廷には、フィレンツェのスコラーリ家の後裔であるピッポ・スパーノ (英語版 ) などのパトロンがいて、マネット・アンマナティーニやマゾリーノ・ダ・パニカーレをハンガリーに招いた[ 95] 。
ハンガリーにもたらされた新しいイタリアの潮流は、土着の伝統と結びついて、独自のローカルなルネサンス美術を生み出した。人文主義思想が継続的にもたらされたことも、受容を促した。イタリアの大学で学んだ多くの若いハンガリー人がフィレンツェの人文主義の中心に接近し、フィレンツェとの直接的な関係が形成された。とりわけブダ に移住したイタリア商人の増加も、この過程を助長した。エステルゴム 大司教ヴィテーズ・ヤーノシュ (英語版 ) (ハンガリー人文主義の創始者の一人)を筆頭に、人文主義の高位聖職者らも新思想の担い手であった[ 96] 。ルクセンブルク家のジギスムント帝の長い治世の間、ブダ王宮は中世末最大級のゴシック宮殿へと発展し、マーチャーシュ1世 (在位1458–1490)はこれを初期ルネサンス様式で改築し、さらに拡張した[ 97] [ 98] 。
1476年にマーチャーシュ1世がナポリのベアトリーチェ と結婚すると、ブダはアルプス以北におけるルネサンスの最重要な芸術中心の一つとなった[ 99] 。宮廷に仕えた主要な人文主義者には、アントニオ・ボンフィーニ (英語版 ) やハンガリーの著名詩人ヤーノシュ・パノニウス (英語版 ) がいる[ 99] 。1472年、アンドラーシュ・ヘシュ (英語版 ) がブダに印刷所を開設した。マーチャーシュ1世の図書館「コルヴィナ文庫 」は、15世紀ヨーロッパ最大の世俗書籍コレクション(歴史編年、哲学・科学書)であり、その規模はヴァチカン図書館 に次いだ(ただしヴァチカンは主として聖書や宗教資料を収蔵)[ 100] 。1489年、フィレンツェのバルトロメオ・デッラ・フォンテは、ロレンツォ・デ・メディチがハンガリー王の先例に鼓舞されてギリシア・ラテン図書館を創設したと記している。コルヴィナ文庫はユネスコ世界遺産 の一部である[ 101] 。
マーチャーシュ1世は少なくとも二つの大規模建設計画を開始した[ 102] 。ブダとヴィシェグラードでの工事はおよそ1479年に始まり[ 103] 、ブダ王宮では新館二棟と空中庭園が建設され、ヴィシェグラードの宮殿はルネサンス様式で再建された[ 103] [ 104] 。彼はイタリア人のキメンティ・カミーチャ (英語版 ) とダルマチア人のジョヴァンニ・ダルマタ (英語版 ) を総監に任じ[ 103] 、時代の第一線のイタリア人芸術家である彫刻家ベネデット・ダ・マイアーノ 、画家フィリッピーノ・リッピ やアンドレア・マンテーニャ に宮殿の装飾を委嘱した[ 105] 。マンテーニャによるマーチャーシュ1世像の写しが現存する[ 106] 。また、イタリア人軍事技術者アリストテレ・フィオラヴァンティ (英語版 ) を雇い、南部国境沿いの要塞再建を指揮させた[ 107] 。さらに、コロジュヴァール 、セゲド 、フニャド (英語版 ) のフランシスコ会 修道院や、フェイェーレギハーザのパウロ会 (英語版 ) 修道院など、後期ゴシック様式の新修道院 を建立した[ 108] [ 109] 。1485年春には、レオナルド・ダ・ヴィンチがスフォルツァ家 の名代としてハンガリーを訪れ、マーチャーシュ王に謁して聖母子像の制作を委嘱された[ 110] 。
マーチャーシュ1世は人文主義者の友を好み、彼らと多様な主題について活発な議論を行った[ 111] 。その寛大さの名声に鼓舞されて、とくにイタリア人の学者が多数ブダに定住し[ 112] 、アントニオ・ボンフィーニ (英語版 ) 、ピエトロ・ランツァーノ (英語版 ) 、バルトロメオ・フォンツィオ、フランチェスコ・バンディーニ (英語版 ) らが長年にわたり宮廷に滞在した[ 113] [ 111] 。彼らの知的サークルはハンガリーに新プラトン主義 をもたらした[ 114] [ 115] 。同時代の知識人一般と同様、マーチャーシュ1世は星辰の運行や惑星の組み合わせが個人の生活や諸国民の歴史に影響するとの確信を抱いていた[ 116] 。マルティウス・ガレオッティ (英語版 ) は彼を「王にして占星家」と描写し、ボンフィーニは「彼は事を運ぶにあたり、つねに星の助言を仰いだ」と記した[ 117] 。彼の求めにより、当時の著名な天文学者レギオモンタヌス とマルチン・ビィリツァ (英語版 ) がブダに天文台 を設け、アストロラーベ や天球儀 を備えた[ 118] 。レーギオモンタヌスは、後にコロンブスが用いた航海書をマーチャーシュ1世に献呈している[ 112] 。
ハンガリー・ルネサンスの他の重要人物には、詩人バラッシ・バーリント 、詩人ティノーディ・ラントシュ・セベシュティエン (英語版 ) 、作曲家・リュート奏者バクファルク・バーリント (英語版 ) 、壁画画家マイスターMS (英語版 ) がいる。
ロッテルダムのエラスムスの肖像 (1523年)—ハンス・ホルバイン(子) 作15世紀末のネーデルラント の文化は、フランドル を富ませたブルージュ 経由の交易を通じてイタリア・ルネサンスの影響を受けた。当地の貴族は芸術家に制作を委嘱し、彼らはヨーロッパ各地に名を知られるようになった[ 119] 。科学分野では、解剖学者アンドレアス・ヴェサリウス が先導し、地図学 ではゲラルドゥス・メルカトル の地図が探検家・航海者を助けた。美術では、オランダ・フランドルのルネサンス絵画は、ヒエロニムス・ボス の奇想的作風から[ 120] 、老ピーテル・ブリューゲル の市井の日常生活の描写に至るまで幅広い展開を示した[ 119] 。
エラスムス は、ルネサンス期のネーデルラントにおける、最もよく知られた人文主義者かつカトリック知識人と評される[ 28] 。
ルネサンスの北ヨーロッパにおける展開は、しばしば「北方ルネサンス」と総称される。イタリアから北方へ思想が伝播する一方で、音楽など一部の革新分野では同時に南方への逆流もみられた[ 121] 。15世紀のブルゴーニュ楽派 は音楽におけるルネサンスの端緒を画し、ネーデルラントの作曲家たちのポリフォニー は演奏家の移動とともにイタリアへ波及し、9世紀のグレゴリオ聖歌 の標準化以来となる最初の真正の国際様式の中核を形成した[ 121] 。フランドル楽派 の到達点は、イタリアの作曲家ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ の音楽に見出される。16世紀末には、イタリアがふたたび音楽革新の中心となり、ヴェネツィア楽派 の多合唱様式が発達して、1600年頃にはドイツへ北上した。デンマーク では、サクソ・グラマティクス の著作がデンマーク語 に翻訳されるとともに、フレデリク2世 とクリスチャン4世 がクロンボー城 、ローゼンボー城 、ボーセン (英語版 ) (取引所)などの重要建築の改修・新築を命じた[ 122] 。天文学者ティコ・ブラーエ は、天文学 を「最初の近代科学」へと転換させ、科学革命 の端緒を開くうえで大きく寄与した[ 123] [ 124] 。
絵画においては、イタリア・ルネサンスと北方ルネサンスの差異が際立つ。イタリアの画家は中世の純然たる宗教画 から離脱し、世俗的主題を描いた先駆者であったのに対し、北方の画家は当初、宗教的主題(アルブレヒト・デューラー が表した同時代の宗教的動揺など)に焦点を留めた。のちに老ピーテル・ブリューゲルの作例が、宗教的・古典的主題よりも日常生活の場面を描く方向へと影響を与えた。また北方ルネサンス期には、フランドルのフーベルト およびヤン・ファン・エイク 兄弟が油彩 技法を完成させ、硬い支持体上で強い発色を実現し、数世紀に耐える作品制作を可能にした[ 125] 。
北方ルネサンスの特色には、ラテン語やギリシア語に代わって諸国語を用いたことも含まれる。これは表現の自由を拡大し、運動はイタリアにおけるダンテ・アリギエーリ の決定的影響から始まったが、イタリア語 による著述への注目の高まりは、一方でラテン語で表現されていた、フィレンツェ的観念の重要な源泉らを等閑視する結果にもなった[ 126] 。印刷術の普及は北ヨーロッパにおけるルネサンスを他地域と同様に促進し、ヴェネツィアは世界的な印刷の中心地となった。
ポーランド・ルネサンス は15世紀末から16世紀末まで続き、ポーランド文化 の黄金時代 をなした。ヤギェウォ朝 のもと、ポーランド王国 (1569年以降はポーランド・リトアニア共和国 )は汎ヨーロッパ的なルネサンスに積極的に参与した。15世紀半ばにイタリアの人文主義者フィリッポ・ボナッコルシ (英語版 ) が来訪して王の顧問に任ぜられ、1505年にフランチェスコ・フィオレンティーノ (英語版 ) が完成させたヤン1世 の墓碑は、国内最初のルネサンス様式の構成例とされる[ 127] [ 128] 。その後、多くのイタリア人芸術家が、ミラノ 出身のボナ・スフォルツァ が1518年にジグムント1世 と結婚したのに伴ってポーランド に渡来した[ 129] 。この動向は、一時的に強化された両地域の君主制に支えられ、また新設の大学 群によって後押しされた[ 130] 。
多民族から成るポーランド国家は、この時期、東部・南部の人口希薄な辺境での紛争を除けば一世紀にわたる大規模戦争の不在にも支えられて、顕著な文化的成長を遂げた。建築はより洗練され装飾的となり、マニエリスム はコーニス 上部の高い屋根裏部(アティック (英語版 ) )と小尖塔 や付け柱 を伴う意匠など、今日「真正にポーランド的」とみなされる様式形成に重要な役割を果たした[ 131] 。ポーランド文学 (英語版 ) は、ミコワイ・レイ やヤン・コハノフスキ といった著者の主要作品が刊行され、ポーランド語 は東中欧のリンガ・フランカ となった[ 132] 。ヤギェウォ大学 は地域の一大高等教育機関へと発展し、ニコラウス・コペルニクス やコンラート・ツェルティス ら著名な学者を擁した。さらに、ケーニヒスベルク (1544年)、ヴィリニュス (1579年)、ザモシチ(1594年)(ザモシチ・アカデミー (英語版 ) )に3つの学院が創設された。宗教改革 は国内に平和裏に浸透し、三位一体を否認する(非三位一体主義 (英語版 ) )「ポーランド兄弟団 (英語版 ) 」を生み出した[ 133] 。生活水準は向上し、都市は成長し、農産物の輸出が住民、とりわけ貴族(シュラフタ )や大貴族を富ませた。貴族は「黄金の自由 」と呼ばれる新たな政治体制において優勢となり、これは君主専制への牽制として機能した[ 134] 。
ルイス・デ・カモンイス とその主著『ウズ・ルジアダス 』は、それぞれポルトガル語 最大の詩人、ポルトガル文学 の頂点とみなされるイタリア・ルネサンスがポルトガル美術に及ぼした直接的影響は比較的限定的であったが、ポルトガルはヨーロッパの世界観の拡張に大きく寄与し[ 135] 、人文主義的探究を刺激した。ルネサンスは、海外交易に投資した富裕なイタリアおよびフランドルの商人の影響を通じて到来した。
ヨーロッパ探検の拠点として先駆的役割を果たしたリスボンは15世紀末に繁栄し、数学・天文学・造船航海技術で多くの革新をもたらした専門家(ペドロ・ヌネス 、ジョアン・デ・カストロ (英語版 ) 、アブラハム・ザクート (英語版 ) 、マルティン・ベハイム など)を惹きつけた。地図製作ではペドロ・レイネル (英語版 ) 、ロポ・オメン (英語版 ) 、エステバン・ゴメス 、ディオゴ・リベイロ (英語版 ) らが世界測図の画期をなした。薬種商トメ・ピレス (英語版 ) や医師ガルシア・デ・オルタ (英語版 ) 、クリストヴァン・ダ・コスタは植物と薬に関する著作を収集・刊行し、ほどなくフランドルの植物学先駆者カロルス・クルシウス により翻訳された。
建築では、香辛料交易 の巨利によって、16世紀初頭に海洋的モチーフを取り込んだ華麗な折衷様式、マヌエル様式 が成立した[ 136] 。主要画家にはヌーノ・ゴンサルヴェス 、グレゴリオ・ロペス (英語版 ) 、ヴァスコ・フェルナンデス がいる。音楽ではペドロ・デ・エスコバル (英語版 ) とドゥアルテ・ロボ が『エルヴァス歌謡集 (英語版 ) 』を含む四つの歌集を生んだ。
トマールのキリスト教修道院 。ルネサンス様式の回廊文学では、ルイス・デ・カモンイス が叙事詩ウズ・ルジアダス において海外におけるポルトガルの偉業を歌い上げた。サ・デ・ミランダ (英語版 ) はイタリア詩形を導入し、ベルナルディン・リベイロ (英語版 ) は牧歌 小説を展開、ジル・ヴィセンテ の戯曲はそれを民衆文化と融合させて時代の変化を映し出した。旅行記文学はとりわけ隆盛し、ジョアン・デ・バロス 、フェルナン・ロペス・デ・カスタニェーダ (英語版 ) 、アントニオ・ガルヴァン (英語版 ) 、ガスパル・コレイア (英語版 ) 、ドゥアルテ・バルボーザ (英語版 ) 、フェルナン・メンデス・ピント らが新世界を記述し、新しい印刷術とともに翻訳・流布された[ 135] 。1500年にブラジル探検に加わったアメリゴ・ヴェスプッチ は、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ (英語版 ) 宛書簡で「新世界 」という語を提唱した[ 137] 。
活発な国際交流は、フランシスコ・デ・オランダ (英語版 ) 、アンドレ・デ・レゼンデ (英語版 ) 、ダミアン・デ・ゴイス (英語版 ) (エラスムス の友で、マヌエル1世 治世を独立的観点から記した)など、国際的視野をもつ人文主義者を多数生み出した。ディオゴ・デ・ゴーヴェイア (英語版 ) とアンドレ・デ・ゴーヴェイア (英語版 ) はフランスを介して教育改革を進めた。アントワープ のポルトガル商館 にもたらされた海外情報と物産は、トマス・モア [ 138] やアルブレヒト・デューラー の広い世界への関心を惹起した[ 139] 。
同地で蓄積された利益と知見は、とりわけポルトガルから追放された裕福で教養あるユダヤ人共同体の到来後、オランダ・ルネサンスとオランダ黄金時代 の醸成を助けた。
フアン・デ・エレーラ (英語版 ) とフアン・バウティスタ・デ・トレド (英語版 ) によるエル・エスコリアル修道院 ルネサンスは、アラゴン王冠領 の地中海 支配地とヴァレンシア 市を経由してイベリア半島 にもたらされた。初期スペイン・ルネサンスの著述家はアラゴン王冠出身者が多く、アウジアス・マルク (英語版 ) やジョアノット・マルトレイ (英語版 ) が挙げられる。カスティーリャ王冠領 では初期ルネサンスがイタリア人文主義の強い影響下にあり、15世紀初頭にイニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ(初代サンティリャーナ侯) (英語版 ) が新しいイタリア詩形を導入した。ホルヘ・マンリーケ (英語版 ) 、フェルナンド・デ・ロハス (英語版 ) 、フアン・デル・エンシーナ 、フアン・ボスカン・アルモガベル (英語版 ) 、ガルシラソ・デ・ラ・ベーガ (英語版 ) らも、イタリア古典に近い規範を示した。ミゲル・デ・セルバンテス の傑作『ドン・キホーテ 』は、西洋最初の小説とされる。16世紀初頭には人文主義が隆盛し、哲学者フアン・ルイス・ビベス 、文法学者アントニオ・デ・ネブリハ (英語版 ) 、博物学者ペドロ・メヒーア (英語版 ) などが影響力をもった。詩人・哲学者ルイサ・デ・メドラーノ (英語版 ) は、同時代に「学識ある少女たち」として称賛され、サラマンカ大学 でヨーロッパ初の女性教授となった。
のちのスペイン・ルネサンス (英語版 ) は宗教的主題や神秘主義へ傾き、詩人ルイス・デ・レオン (英語版 ) 、アビラのテレサ 、十字架のヨハネ らが登場した。また、新世界探検に関わる課題は、インカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベーガ (英語版 ) やバルトロメ・デ・ラス・カサス といった年代記作者・著述家によって扱われ、後に「スペイン・ルネサンス文学 (英語版 ) 」と呼ばれる体系を形成した。後期には、政治・宗教の著述家トマス・フェルナンデス・デ・メドラノ (英語版 ) 、画家エル・グレコ 、作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリア やアントニオ・デ・カベソン らが活躍した。
ジョルジョ・ヴァザーリ 『美術家列伝 』の装丁イタリアの美術家・批評家ジョルジョ・ヴァザーリ (1511–1574)は、著書『美術家列伝 』(1550年刊)において「再生」の語を最初に用いた。同書でヴァザーリは、ゴシック美術 の「野蛮さ」からの断絶を論じ、ローマ帝国 の崩壊とともに諸芸術は衰微したが、チマブーエ (1240–1301)とジョット (1267–1337)に始まるトスカーナ の美術家たちがこの衰退を反転させたと主張した。ヴァザーリは、古代美術がイタリア美術の復興の中心にあるとみなした[ 140] 。
もっとも、ルネサンスというフランス語 が、13世紀末に始まるローマ的典型の復興を基盤とする自己意識的文化運動を指す用語として普及するのは19世紀 になってからである。フランスの歴史家ジュール・ミシュレ (1798–1874)は『フランス史』(1855年)でルネサンスを一つの歴史時代として定義し、それ以前の限定的用法を拡張した[ 18] 。ミシュレにとってルネサンスは、芸術 ・文化 それ自体というより科学 の発展であり、その幅はコロンブス からコペルニクス 、ガリレオ に至る(すなわち15世紀末から17世紀半ば)時期を覆うとされた[ 91] 。さらにミシュレは、中世を「奇矯にして怪奇」な時代とし、共和主義 者としての立場から、ルネサンスに民主的価値を読み取った[ 14] 。また彼はフランスの国民主義者として、ルネサンスをフランスの運動として位置づけようとした[ 14] 。
スイス の歴史家ヤーコプ・ブルクハルト (1818–1897)は、『イタリア・ルネサンスの文化 』(1860)において、ルネサンスをイタリアのジョットからミケランジェロ に至る14世紀から16世紀半ばの時期と定義した。彼はルネサンスに、中世によって抑圧されていた近代的個人主義 精神の出現を見いだした[ 141] 。この書は広く読まれ、イタリア・ルネサンスの近代的解釈の形成に大きな影響を与えた[ 142] 。
近年では、ルネサンスを一つの歴史時代、あるいは首尾一貫した文化運動として厳密に画定することに慎重な歴史家も少なくない。カリフォルニア大学バークレー校 の歴史家ランドルフ・スターンは1998年、次のように述べている。
ルネサンスは、明確な始まりと終わり、そしてそのあいだに一貫した内容をもつ時代というより、むしろ、時と所によって特定の集団や個人がさまざまに応答した実践と観念の運動として捉えうる(しばしばそう捉えられてきた)。その意味で、それは単一で時間に縛られた文化ではなく、多様にして時に収斂し時に衝突する文化のネットワークである。
[ 16] ルネサンスがどの程度中世の文化を進歩させたかという問題には論争がある。ミシュレとブルクハルトはいずれも、ルネサンスが近現代 への進歩を画したと強調した。ブルクハルトはこの変化を、人の眼から覆いが取り払われることになぞらえた[ 48] 。
中世においては、人間意識の内面に向かう側も外界に向かう側も、共通のヴェールの下で夢見、あるいは半ばまどろんでいた。そのヴェールは信仰と幻想と幼児的先入観で織られており、世界と歴史はそのヴェールをとおして奇妙な色合いを帯びて見えた。
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ヤーコプ・ブルクハルト、『イタリア・ルネサンスの文化』[ 143] フランソワ・デュブワ (英語版 ) 『サン・バルテルミの虐殺 』フランス宗教戦争 の一場面。一方で、多くの歴史家は、しばしば中世に結びつけられる否定的社会要因、すなわち貧困、戦争、宗教的・政治的迫害の多くがこの時代にかえって悪化したことを指摘する。たとえばマキアヴェッリ的政治、宗教戦争 、ボルジア家 の腐敗した教皇たち、16世紀に激化する魔女狩り などである。実際、同時代人の多くはこれらの社会病理を不安視し、後世の19世紀的著述家が思い描いたような「黄金時代」とは見なしていなかった[ 144] 。とはいえ、当の文化運動に関与した芸術家・著述家・パトロンたちは、自分たちが中世から明確に断絶した新時代を生きていると感じていた[ 83] 。マルクス主義 史家の中には、ルネサンスを物質的観点から説明し、芸術・文学・哲学の変化を、封建制 から資本主義 への一般的経済的趨勢の一部(余暇 をもつ市民階級 の出現)とみなす立場もある[ 145] 。
ヨハン・ホイジンガ (1872–1945)はルネサンスの存在を認めつつ、その積極性に疑義を呈した。『中世の秋 』において、彼はルネサンスを中世盛期 からの退潮期と捉え、重要な多くのものが破壊されたと論じた[ 15] 。たとえば中世ラテン語 は古典期から大きく発展し、教会や他領域で使用される生きた言語であったが、古典的純粋性への執着がその進化を停止させ、ラテン語を古典形へ回帰させたという(もっとも、この見解は近年の研究(ネオラテン語研究 (英語版 ) )によって一部争われている)。ロバート・S・ロペスは、当時が深刻な経済不況 の時期であったと主張し[ 146] 、ジョージ・サートン (英語版 ) とリン・ソーンダイク (英語版 ) は、科学の進歩は従来想定されるほど独創的ではなかったと論じた[ 147] 。ジョーン・ケリー (英語版 ) は、ルネサンスが性差の強化をもたらし、中世に比して女性の主体性を低下させたと論じている[ 148] 。
この語のもつ無条件の肯定性、いわば「暗黒時代 」とされる中世からの明るい再生、を嫌い、当該期(およびその後の相当期間)を指すのに「近世初期」を用いることを好む歴史家もいる。これは、同時期を中世と近現代の過渡期として強調するための呼称である[ 149] 。他方でロジャー・オズボーンのように、イタリア・ルネサンスを西洋史全体の神話と理想の集積所、すなわち古代の単なる復活ではなく大いなる創造革新の時代と捉える立場もある[ 150] 。
美術史 家エルヴィン・パノフスキー は、「ルネサンス」概念への抵抗について次のように観察した。
イタリア・ルネサンスの事実性にもっとも精力的に疑義を呈してきたのは、文明の美的側面に専門的関心を寄せる義務のない、経済・社会・政治・宗教、そしてとりわけ自然科学の歴史家であって、文学研究者は例外的に、そして美術史家に至ってはほとんどない。
[ 151] 「ルネサンス」の語は、15〜16世紀以外の時期にも適用されてきた。たとえばチャールズ・H・ハスキンズ (英語版 ) (1870–1937)は「12世紀ルネサンス 」を提唱した[ 152] 。また、8–9世紀のカロリング朝ルネサンス 、10世紀のオットー朝ルネサンス (英語版 ) 、14世紀のティムール朝ルネサンス (英語版 ) を唱える議論もある。イスラームの黄金時代 が「イスラーム・ルネサンス」と呼ばれることもある[ 153] 。さらに、9–11世紀の東ローマ帝国 を指す「マケドニア朝ルネサンス 」という用語も用いられる。
近代以降の文化的再生の時期もまた「ルネサンス」と呼ばれてきた。ベンガル・ルネサンス (英語版 ) 、タミル・ルネサンス (英語版 ) 、ネパール・バサ・ルネサンス (英語版 ) 、アラブの覚醒 、ハーレム・ルネサンス などである。映画では「ディズニー・ルネサンス 」(1989–1999、ディズニー黄金期 (英語版 ) のアニメーション水準への回帰)が、文学・詩では20世紀中葉サンフランシスコ における探究的運動を指す「サンフランシスコ・ルネサンス (英語版 ) 」が挙げられる。
ギリシアをはじめとする古典的な知の遺産は、そのほとんどが8世紀から9世紀にかけてアラビア語 に次々と翻訳され、初期のイスラーム文化 の発達に多大なる貢献をもたらした。とくに830年にアッバース朝の第7代カリフ ・マアムーン によってバグダード に設立された「知恵の館 」において膨大な翻訳作業が行われ、知識の継承が急速に進んだ[ 154] 。
古典文献とイスラムの哲学者や科学者たちの思索は、今度は断続的に、9(カロリング朝ルネサンス)、10(マケドニア朝ルネサンス)、12(12世紀ルネサンス)、13から15世紀(パレオロゴス朝ルネサンス)と、次々とラテン語 に翻訳された。西ヨーロッパの人たちはイスラムが継承、拡充した古典をラテン語で読むことができるようになった。翻訳作業の大半は、イスラム圏とヨーロッパ大陸を繋ぐ中継基地としての役割を担っていた、イスラム支配下のスペインにおいて行われ、この作業には、それぞれ出身地を異にするイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒など、数多くの翻訳者集団が参加した。
社会と経済の発達の重要性を痛感していた西洋の社会は初期のイスラム社会と同じように、とりわけ、医学をはじめとする科学的な知識を必要としていた。アリストテレスが魂について哲学的考察を加えた『霊魂論』(これにはイスラムの哲学者イブン・ルシュド が注釈をつけている)、イブン・スィーナー が著した『医学典範』、哲学者であるとともに医師であったアル・ラーズィー が著した『アル・マンスールの書』は、いずれも15世紀から16世紀にかけて翻訳された。
ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書のようなギリシア-イスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、多くのヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシア-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない[ 155] 。
ボッカチオ(1449年の絵画) 万能人と呼ばれているレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像 ルネサンス期の器楽曲・声楽曲は、イタリアよりブルゴーニュ、フランドル が中心であった。イタリアではルネサンス後期に至ってようやくパレストリーナが登場した。
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