Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

ルネサンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避この項目では、西洋史における文化復興運動について説明しています。その他の用法については「ルネサンス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ルネサンス
アテナイの学堂(ラファエロ・サンティ作)
テーマ別
建築
舞踊英語版
文学
音楽
美術
哲学
科学英語版
技術英語版
戦争英語版
国別
イングランド英語版
フランス英語版
ドイツ英語版
イタリア英語版
ネーデルラント英語版
北欧
ポーランド
スペイン英語版
カテゴリカテゴリ

ルネサンス(英: The Renaissance)は、15世紀および16世紀にわたる歴史上の時期であり、ヨーロッパにおける文化運動英語版である。中世から近代性英語版への移行を画し、古典古代の思想と成果を復興し、これを凌駕しようとする志向を特徴とした。芸術建築政治文学探検科学など、ほとんどあらゆる分野における大きな社会的変化を伴い、当初はフィレンツェ共和国を中心として、その後イタリア各地へ、さらにヨーロッパ全域へと広がった。「再生」を意味する用語リナスキタは、ジョルジョ・ヴァザーリによる『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550年頃)に初めて現れ、これに対応するフランス語ルネサンスは1830年代に英語へ取り入れられて、この時代を指す術語となった[1]

日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが[2]、文芸に限らず広義に使われるため、現在では訳語として文芸復興という言葉はあまり使われない。ルネッサンスとも表記されるが[3]、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。

ルネサンスの知的基盤は、その独自の人文主義にあり、これはローマのフマニタス英語版の概念および古代ギリシア哲学(「人間は万物の尺度である」と述べたプロタゴラスの思想など)の再発見に由来する。活字の発明は15世紀後半以降の思想の流布を加速させたが、ルネサンスの変化はヨーロッパ全域で一様ではなかった。その最初の兆候はイタリアにおいて早くも13世紀末に見られ、特にダンテの著述やジョットの絵画に顕著である。

文化運動としてのルネサンスは、ルネサンス・ラテン語文学の革新的な開花と、諸国語文学の爆発的な展開を包含した。これは古典資料にもとづく学問の14世紀的復興(同時代人はその功をペトラルカに帰した)に始まり、絵画における線遠近法など、より自然な現実を描出するための諸技法の発達、そして漸進的ながら広範囲に及ぶ教育改革を伴った。レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロといった博学多才の人物による数多の芸術的展開は、「ルネサンス・マン(万能人)」という語の由来ともなった[4][5]。政治においては外交の慣行と規範の発展に寄与し、科学においては観察および帰納的推論への依拠の増大をもたらした。さらに、その他の知的・社会科学的営為における革新とともに、近代的銀行制度および会計学の導入も見られた[6]

時期

[編集]

ルネサンス期は中世後期の危機英語版のさなかに始まり、慣例的には、人文主義の衰退、宗教改革対抗宗教改革の到来、そして美術におけるバロック期の出現とともに終わるとされる。その時期区分や性格は地域によって異なり、イタリア・ルネサンス英語版北方ルネサンススペイン・ルネサンス英語版などが挙げられる。

標準的な時代区分に加えて、「長いルネサンス」を唱える立場は、その始まりを14世紀、終わりを17世紀に置くことがある。

伝統的な見解はルネサンスの近世的側面を重視し、過去からの断絶を強調するが、今日では多くの歴史家が中世的側面に注目し、中世の延長として捉える傾向にある[7][8]

イタリア・ルネサンス

[編集]

ルネサンスの始まり、すなわち15世紀の初期ルネサンスおよび1250年または1300年頃にまでさかのぼるイタリアのプロト・ルネサンスは、中世後期(慣例的には1350年頃から1500年頃)と大いに重なり合う。中世自体が近代と同様に漸進的変化に満ちた長期の時代であったため、その両者の移行期たるルネサンスは、双方と近しい性質を有し、特にそれぞれの後期・前期との類似が顕著である。

ルネサンスは、イタリアの諸都市国家の一つであるフィレンツェにおいて始まった。イタリア・ルネサンスは、コニャック同盟戦争のさなかに神聖ローマ皇帝カール5世が1527年にローマへの攻撃を開始した時に終結したとされる。しかし、イタリア・ルネサンスの影響はティントレットソフォニスバ・アングイッソラパオロ・ヴェロネーゼといった著名なイタリア人画家の作品に持続しており、彼らは16世紀中後期にも活動を続けた[9]

その起源と特質を説明する理論としては、当時のフィレンツェに固有の社会的・市民的特性、すなわち政治構造、支配的家門であるメディチ家の庇護[10]、およびコンスタンティノープルオスマン帝国陥落したのちにギリシア系学者とその文献がイタリアへ移入したことに注目するものがある[11][12][13]

ほかの主要中心地としては、ヴェネツィアジェノヴァミラノルネサンス期の教皇庁下のローマナポリが挙げられる。イタリアから出たルネサンスはヨーロッパ全域に広がり、さらに当時のヨーロッパ植民諸国の支配下にあった、あるいはキリスト教宣教師が活動したアメリカ大陸アフリカアジアの地域にも及んだ。

ルネサンス懐疑論

[編集]

ルネサンスの史学史は長く複雑であり、明確な時代区分に対する一般的な懐疑と歩調を合わせて、19世紀的な「ルネサンス」の礼賛や、個々の文化的英雄を「ルネサンス・マン」と称揚する見方に対して、多くの歴史家が異議を唱え、この術語および歴史区分としての有用性に疑義を呈してきた[14]

中には、ルネサンスが中世からの文化的「前進」であったかを疑い、むしろ古典古代への郷愁と悲観が支配する時代であったと見る論者もいる[15]。これに対し、とりわけ長期持続(longue durée)の視座をとる社会経済史家は、両時代の連続性に注目しており[16]パノフスキーが述べたように、両者は「千の絆によって」結びついているとする[17]

なお、ルネサンスの語は他の歴史的・文化的運動にも拡張されて用いられ、カロリング朝ルネサンス(8–9世紀)、オットー朝ルネサンス英語版(10–11世紀)、12世紀ルネサンスなどが挙げられる[18]

概要

[編集]

ルネサンスは、近世におけるヨーロッパの知的生活に甚大な影響を及ぼした文化運動である。イタリアに始まり、16世紀までにヨーロッパ全域へと広がり、その影響は美術、建築、哲学、文学、音楽、科学、技術、政治、宗教、その他の知的探究の諸領域に及んだ。ルネサンスの学者は研究において人文主義的方法を採用し、美術においては写実性と人間的感情の表現を追求した[19]

ポッジョ・ブラッチョリーニのようなルネサンス人文主義英語版者は、ヨーロッパ各地の修道院図書館に保存されたラテン語文学歴史修辞学の文献を探索した。一方で、コンスタンティノープルの陥落(1453年)は、古代ギリシア語で書かれた貴重な写本の多く(西欧では忘却されていたものも多い)を携えたギリシア人学者の亡命の波を生じさせた。こうした文学・歴史文献への新たな焦点において、ルネサンスの学者は、自然科学哲学数学に関するギリシア語・アラビア語文献の研究に注力した12世紀ルネサンス期の中世の学者と著しく異なっていた[要出典]

サンドロ・ボッティチェリ若い女性の肖像』(1480–1485年頃)(シモネッタ・ヴェスプッチ

新プラトン主義の復興に際して、ルネサンスの人文主義者はキリスト教を否定したわけではない。むしろ、ルネサンスの著名作の多くはキリスト教に捧げられ、教会ルネサンス美術の多くの作品を保護・後援した[20]。ただし、知識人宗教に接近する態度には微妙な転換が生じ、それは文化生活の他の多くの領域にも反映された[21]。さらに、ギリシア語新約聖書英語版を含む多くのギリシア語のキリスト教文献がビザンツ帝国から西ヨーロッパにもたらされ、古代末期以来初めて西欧の学者を本格的に惹きつけた。ロレンツォ・ヴァッラエラスムスといった人文主義者が推進した新約聖書のギリシア語原典への回帰は、宗教改革への道を開く一助となった[要出典]

古典主義への最初の芸術的回帰がニコラ・ピサーノ彫刻に典型を見せたのち、マザッチョに率いられたフィレンツェの画家たちは人体を写実的に描こうと努め、遠近法と光をより自然に表現する技法を発展させた。政治哲学者、なかでも著名なニッコロ・マキアヴェッリは、政治生活を実際に即して記述し、すなわち理性的に理解しようとした。

イタリア・ルネサンス人文主義における重要な貢献として、ピコ・デラ・ミランドラは『人間の尊厳について英語版(1486年)』を著し、哲学自然哲学信仰魔術に関する一連の命題を、理性に基づいていかなる反対者に対しても弁護した。古典ラテン語とギリシア語の研究に加え、ルネサンスの著述家は現地語の使用を次第に拡大し、印刷機活版印刷)の導入と相まって、とりわけ聖書を含む書物へのアクセスをはるかに多くの人々に開いた[22]

総じて、ルネサンスは、古代の理念の復興と新たな思考方法の双方を通じて、知識人が世俗的・現世的領域を研究し改善しようとする試みとみなしうる。政治思想家ハンス・コーン英語版はこれを「人々が新たな基盤を求めた時代」と描写し、エラスムスやトマス・モアのように新たに改革された精神的基盤を構想した者がある一方で、マキアヴェッリの言葉を借りれば、「現代生活に関する長い経験と古代からの不断の学習」を重んじた者もいた[23]

社会学者ロドニー・スターク英語版は、ルネサンスよりもむしろ中世盛期イタリア都市国家英語版における先駆的革新(応答性の高い政府・キリスト教・資本主義の誕生の結合)を重視してルネサンスの位置づけを相対化する[24]。この分析によれば、フランススペインといった大国が絶対君主制で、他の地域が教会の直接的支配下にあったのに対し、イタリアの独立した都市共和国は修道院領で生み出された資本主義の原理を継承し、ルネサンスに先行し、かつその資金的基盤ともなった空前の商業革命を引き起こしたとされる[要出典]

歴史家レオン・ポリアコフ英語版は、ヨーロッパにおける人種主義思想の古典的研究『アーリア神話』において批判的見解を提示している。ポリアコフによれば、民族起源神話の利用は、ルネサンスの人文主義者によって「生まれつつあったショーヴィニズムへの奉仕のために」初めて用いられたという[25][26]

起源

[編集]
→詳細は「en:Italian Renaissance」を参照
フィレンツェの景観—ルネサンス発祥の地

ルネサンスを特徴づける諸観念は、13世紀末から14世紀初頭にかけてフィレンツェにおいて、ことにダンテ・アリギエーリ(1265–1321)およびペトラルカ(1304–1374)の著述、ならびにジョット・ディ・ボンドーネ(1267–1337)の絵画にその起源をもつと論じられてきた。

ルネサンスの開始時点を精確に画定しようとする著述家もあり、その一つは1401年、ライバルたる天才ロレンツォ・ギベルティフィリッポ・ブルネレスキフィレンツェ大聖堂洗礼堂青銅扉(サン・ジョヴァンニ洗礼堂の青銅扉英語版)の制作契約を争った年(最終的にギベルティが受注)を起点とするものである[27]。他方では、ブルネレスキ、ギベルティ、ドナテッロ、マザッチョといった芸術家・博学者が、作品委嘱をめぐって競い合ったこと自体が、ルネサンスの創造性に火をつけたとみる見解もある。

とはいえ、なぜルネサンスがイタリアで、かつその時期に始まったのかについては議論が続いている。したがって、その起源を説明するためにいくつかの理論が提起されてきた。ペーター・リエトベルヘンは、おおむね1300年以降、ヨーロッパ各地で種々の影響力あるプロト・ルネサンス的運動が始動したと主張する[28]

ルネサンス人文主義のラテン語期とギリシア語期

[編集]
コルッチョ・サルターティ

中世盛期においてラテン学者がほぼ専ら、自然科学・哲学・数学に関するギリシア語およびアラビア語の著作の研究に集中していたのとは著しく対照的に、ルネサンスの学者は、古代のラテン語およびギリシア語による文学・歴史・弁論の文献の収集と研究に最大の関心を寄せた。

概括的にいえば、これは14世紀の「ラテン語期」に始まり、ペトラルカコルッチョ・サルターティ(1331–1406)、ニッコロ・ニッコリ(1364–1437)、ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380–1459)らが、キケロルクレティウスリウィウスセネカといったラテン著作者の作品を求めてヨーロッパの図書館を渉猟した[29]。15世紀初頭までには、その種のラテン文学の大半が再発見され、学界の関心は「ギリシア語期」へと移行し、西欧の学者は古代ギリシアの文学・歴史・雄弁・神学の文献の回収に取り組むようになった[30]

ラテン文献が後期古代以来西ヨーロッパで保存・研究されてきたのとは異なり、古代ギリシア文献の研究は中世西欧ではきわめて限定的であった。自然科学・数学・哲学に関するギリシアの著作は、中世盛期の西欧およびイスラーム黄金期に(通常は翻訳を介して)研究されたものの、ホメロスギリシア悲劇作家、デモステネストゥキュディデスといった文学・雄弁・歴史の諸作品は、ラテン世界にも中世イスラーム世界にも研究対象として広く受け入れられず、中世においてはビザンツの学者のみが継続的に扱っていたのである。

サマルカンドヘラートティムール朝ルネサンス英語版の壮麗さが、文化的復興の中心としてのフィレンツェに比肩しうるものであったと論じる者もおり[31][32]、これらはオスマン帝国と結びつき、同帝国の征服がギリシア人学者のイタリア諸都市への移住を促したとされる[11][33]。ルネサンスの学者の最大の成果の一つは、後期古代以来初めて、この種のギリシア文化の諸作品を西欧にもたらしたことであった。

イスラム勢力がエジプトおよびレヴァントを侵攻・征服したのち、ムスリムの論理学者、なかでもイブン・スィーナー(アヴィセンナ)およびイブン・ルシュド(アヴェロエス)はギリシアの思想を継承した。彼らによる翻訳と註解は、アラブ西方世界を経てイベリアおよびシチリアへともたらされ、これらの地域はイスラム世界から西欧への思想伝播の重要な拠点となった。11世紀から13世紀にかけて、古典アラビア語から中世ラテン語への哲学・科学文献の翻訳に特化した学校がイベリアに多数設立され、とりわけトレド翻訳学派が著名である。このイスラーム文化からの翻訳活動は、多くが計画性や組織性に欠けていたにもかかわらず、歴史上最大級の知の伝播を構成した[34]

古代ギリシアの文学・歴史・弁論・神学文献の研究を西欧の教授カリキュラムに再統合しようとする運動は、通常、1396年にコルッチョ・サルターティがビザンツの外交官・学者マヌエル・クリソロラス英語版(c.1355–1415)をフィレンツェに招聘してギリシア語を教授させたことに始まるとされる[35]。この遺産は、ヨハンネス・ベッサリオンからレオ・アラティウス英語版に至るまで、亡命ギリシア人学者の手で継承された。

イタリアの社会・政治構造

[編集]
1494年頃のイタリア半島の政治地図

中世末のイタリアに固有の政治構造は、稀有な文化的開花を可能にした特異な社会環境をもたらしたとするいくつかの説を生んだ。近世初期のイタリアは一つの政治体としては存在せず、小規模な都市国家と領域に分かれていた。南部はナポリ王国が、中央はフィレンツェ共和国およびローマ教皇領が、北部と西部はそれぞれミラノ公国およびジェノヴァ共和国が、北東部はヴェネツィア共和国が支配した。15世紀のイタリアは、ヨーロッパでもっとも都市化の進んだ地域の一つであった[36]。諸都市の多くは古代ローマ建築の遺構の中に立地しており、ルネサンスの古典主義的性格が、ローマ帝国の中心地に起源をもつことと結びついていた可能性は高い[37]

歴史家・政治思想家クェンティン・スキナーは、12世紀に北イタリアを訪れたドイツの司教フライジングのオットー(c.1114–1158)が、イタリア社会が封建制から脱却し、商人商業に基盤を置く、新しい広範な政治・社会組織を見出したと記していることを指摘する。これと結びついて、アンブロージョ・ロレンツェッティによる初期ルネサンスの著名なフレスコ連作『善政と悪政の寓意英語版』(1338–1340年制作)に代表される反君主主義的思考が見られ、その強いメッセージは、公平正義共和主義・良き統治の美徳を称揚するものであった。教会と帝国の双方に距離を置きつつ、これらの都市共和国は自由の理念に奉仕していた。スキナーは、マッテオ・パルミエーリ英語版(1406–1475)が、美術・彫刻・建築のみならず、「同時代のフィレンツェにおける倫理・社会・政治哲学の著しい開花」を称えたように、自由を擁護する論考が多数存在したと報告している[38]

また、この時期の中部以外の諸都市・諸国家もヴェネツィア共和国を筆頭に海洋共和国英語版として知られ、実際には寡頭制的であり現代の民主制とは大きく異なっていたものの、様々な統治への参加と自由への信念といった、一定の民主的特徴と応答性を備えた国家であった[38][39][40]。彼らが享受した相対的な政治的自由は、学問と芸術の進展を促した[41]。同様に、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの諸都市が大交易拠点として占めた地位は、そこを知的交差点たらしめた。商人たちは、ことにレヴァントから、世界の隅々の思想を持ち込んだ。ヴェネツィアは東方交易へのヨーロッパの玄関口であり、精巧なガラス製品の生産地でもあった。他方、フィレンツェは織物の中心地であった。こうした交易がもたらした富は、公共・私的双方の大規模な美術プロジェクトを可能にし、個人にも学究のための余暇を与えた[41]

黒死病

[編集]
→詳細は「黒死病」を参照
ピーテル・ブリューゲル死の勝利』(1562年頃)は、中世ヨーロッパを壊滅させたペストに続く社会的不安と恐怖を反映している。

1348年から1350年にかけてヨーロッパを襲った黒死病によってフィレンツェが被った壊滅が、14世紀イタリアの人々の世界観の転換をもたらしたとする説がある。イタリアはとりわけ深刻な打撃を受け、死への慣れが、人々に精神性や来世よりも地上での生活に思いを致させたと推測されている[42]。他方で、黒死病が宗教芸術の後援という形で新たな敬虔の波を引き起こしたとも論じられている[43]。しかし、こうした説明だけでは、なぜ14世紀のイタリアにおいて特にルネサンスが生じたのかを十分に説明しえない。黒死病の流行はイタリアに限らずヨーロッパ全域に同様の影響を及ぼしたパンデミックであったからである。ルネサンスの勃興は、上述の諸要因の複雑な相互作用の結果であった可能性が高い[14]

疫病は、アジアの港から帰航する船舶に寄生したノミによって運ばれ、衛生状態の不備から急速に拡大した。人口約420万人であった当時のイングランドは、腺ペストによって140万人を失った。フィレンツェの人口は1348年の一年でほぼ半減した。住民の激減により労働力の価値が上昇し、平民はより大きな自由を享受するようになった。労働需要の増大に応えるため、労働者はより有利な経済的条件を求めて各地を移動するようになった[44]

人口減少は経済にも影響を及ぼし、1350年から1400年にかけて、ヨーロッパの多くの地域で食料価格は下落し、地価は30~40%低下した[45]。土地所有者は大きな損失を被ったが、一般の男女にとっては思わぬ利得となった。生き残った人々は、食料価格が安く、土地がより豊富である環境を見出し、多くが死亡した親族から財産を相続したのである。

疾病の蔓延は貧困地域で著しく激しかった。流行病は都市部を荒廃させ、特に子どもたちが打撃を受けた。シラミ、不衛生な飲料水、軍隊などの集団、そして不良な衛生環境によって、疫病は容易に拡散した。発疹チフス先天梅毒など多くの疾病は免疫系を損なうため、幼い子どもたちは抗しがたかった。都市の住居に暮らす子どもは、富裕層の子どもよりも疾病の影響を受けやすかった[46]

黒死病は、後の疫病よりもフィレンツェの社会・政治構造に大きな動揺をもたらした。支配階層の間でも多数の死者が出たにもかかわらず、フィレンツェの統治はこの時期を通じて機能し続けた。市内の混乱のため、流行の最盛期には選挙で選ばれた代表者による正式会合は停止されたが、市政を執行する少数の官吏が任命され、統治の連続性が確保された[47]

フィレンツェの文化的条件

[編集]
ロレンツォ・デ・メディチ。フィレンツェの統治者にして芸術のパトロン(ヴァザーリによる肖像)
→「en:Florentine Renaissance art」を参照

ルネサンスがなぜフィレンツェで始まり、他のイタリア諸都市ではなかったのかは、長らく議論の的である。フィレンツェの文化生活に固有のいくつかの特質が、この種の文化運動を生じさせた可能性があると指摘されてきた。銀行家一族にして後には公爵家ともなったメディチ家が、芸術の保護と振興に果たした役割を強調する見解は多い。他方で、フィレンツェがルネサンスの発祥地となったのは偶然、すなわち「偉人」たちがそこにたまたま生まれたためだとする歴史家もいる[48]レオナルドボッティチェリミケランジェロはいずれもトスカーナの出身である。こうした偶然性は考えにくいとする立場からは、当時の支配的な文化状況があったからこそ、これらの「偉人」たちが頭角を現しえたのだと論じられる[49]

ロレンツォ・デ・メディチ(1449–1492)は膨大な芸術パトロネージの触媒となり、同国人に対して、レオナルド・ダ・ヴィンチ、サンドロ・ボッティチェリ、ミケランジェロ・ブオナローティをはじめとするフィレンツェの第一線の芸術家に作品を委嘱するよう奨励した[10]。また、ネーリ・ディ・ビッチ英語版、ボッティチェリ、レオナルド、フィリッピーノ・リッピの作品が、フィレンツェのスコペートのサン・ドナート修道院によって委嘱されている[50]

ただしルネサンスは、ロレンツォ・デ・メディチが権力を掌握する以前、さらにはメディチ家がフィレンツェ社会において覇権を確立する以前からすでに進行していた。

特徴

[編集]

人文主義

[編集]

ある観点からすれば、ルネサンス人文主義は哲学というよりも学習の方法であった。著者間の矛盾の調停に主眼を置いた中世スコラ学的手法とは対照的に、ルネサンスの人文主義者は古典文献を原典言語で読解し、理性と経験的証拠の組み合わせによってそれらを評価した。人文主義教育は人文学の課程に基づき、詩・文法・歴史・道徳哲学・修辞学の五科の学習から成った。人文主義の厳密な定義づけはしばしば歴史家を悩ませてきたが、多くは「中道的な定義—すなわち、古代ギリシアとローマの言語・文学・学芸・価値の回収・解釈・吸収を目指す運動」へと収斂している[51]。何よりも、人文主義者は「人間の天才—人間精神の唯一無二にして非凡なる能力」を主張した[52]

ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ—『人間の尊厳について英語版』の著者(しばしば「ルネサンスの宣言」と称される)[53]

人文主義の学者たちは近世を通じて知的地平を形作った。ニッコロ・マキアヴェッリやトマス・モアといった政治思想家は、ギリシア・ローマの思想を再興し、イブン・ハルドゥーンのイスラーム世界における先例に続いて、それらを同時代の統治批判に応用した[54][55]。ピコ・デッラ・ミランドラは、思考の価値を力強く擁護する『人間の尊厳について』を著し、これがルネサンスの「宣言」に当たるとされる[要出典]

別の人文主義者マッテオ・パルミエーリ(1406–1475)は、市民的人文主義(古典的共和主義英語版)を唱える著作『市民生活について(1528年)』で知られるとともに、イタリア語トスカーナ方言(俗語)をラテン語と同等の水準へ洗練するうえで影響力を及ぼした。彼はローマの哲学者・理論家、とりわけ、自身と同様に市民・官人としての公的活動を理論・哲学の営みと併せもったキケロおよびクインティリアヌスに範をとった。彼の人文主義観をもっとも簡潔に示すのは1465年の詩作『La città di vita』とされるが、内容の広がりにおいては先行作『Della vita civile』がより包括的である。同書は1430年の疫病流行期に、フィレンツェ郊外ムジェッロ英語版地方の田園邸宅を舞台とする一連の対話篇として構成され、理想的市民の資質を説く。そこでは、子どもの精神的・身体的発達、市民の道徳的行状、公的生活における市民と国家の廉直確保の方途、さらに実利的有用性と誠実(正直)との相違に関する重要な討論などが扱われる[要出典]

人文主義者は、教育によって完全な精神と身体を備え、来世へと至ることが重要であると信じた。人文主義の目的は、知的・身体的卓越を併せ備え、ほとんどあらゆる状況で高潔にふるまい得る普遍的人間の形成にあった[56]。この理念は古代ギリシア・ローマの理想に淵源をもつ。ルネサンス期の教育は古典文学と歴史を中心に構成され、古典が道徳的訓示と人間行動への深い理解を与えると考えられていた。

人文主義と図書館

[編集]

ルネサンス期のいくつかの図書館には、一般に開放されていたという独自の特色が見られる。これらの図書館は、思想が交換され、学問読書が精神と魂の双方にとって愉楽であり益となると考えられた場であった。自由思想が時代の標識であったため、多くの図書館は幅広い著述家の作品を収蔵し、古典文献と人文主義の著作が並置された。

かかる知識人の非公式な結社は、ルネサンス文化に深甚な影響を及ぼした。図書館学上の不可欠の道具は、蔵書を列挙・記述・分類する目録であった[57]。もっとも裕福な書物愛好家の中には、書物と知識の神殿として図書館を築く者もいた。莫大な富と書物愛が結びついた所産として多くの図書館が出現し、教養ある蔵書家の中には、自らのコレクションの利用機会を他者に提供することに意を用いた者もいた。著名な貴族や教会の高位聖職者は、宮廷の用に供する大図書館、いわゆる宮廷図書館を創設し、それらは華麗に設計された記念碑的建築に収められ、精緻な木工装飾とフレスコ画で壁面が飾られた(Murray, Stuart A.P.)。

美術

[編集]
→詳細は「ルネサンス美術」を参照

ルネサンス美術は、中世の終焉と近代世界の勃興に際する文化的再生を画するものである。ルネサンス美術の顕著な特徴の一つは、高度に写実的な線遠近法の発展であった。ジョット・ディ・ボンドーネ(1267–1337)は、絵画空間への「窓」として最初に扱った功績を認められるが、遠近法が一つの技法として理論化・体系化されたのは、建築家フィリッポ・ブルネレスキ(1377–1446)の実演と、それに続くレオン・バッティスタ・アルベルティ(1404–1472)の著述によってであった[58]

レオナルド・ダ・ヴィンチ『ウィトルウィウス的人体図』(1490年頃)は、古代著作家がルネサンスの思索者に及ぼした影響を示す。ウィトルウィウスデ・アーキテクチュラ(紀元前1世紀)』の規定にもとづき、レオナルドは完全比例の人体を描こうとした。(ヴェネツィア、アカデミア美術館

遠近法の発展は、美術におけるより広範な写実主義への潮流の一部であった[59]。画家たちは光や陰影、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチに特に著しいように人体解剖の研究など、他の技法も発達させた。これらの方法上の変化の根底には、自然の美を描出し、美学の公準を解き明かそうとする欲求の再燃があり、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの作品は他の多くの芸術家に模倣される到達点となった[60]。他の著名な作家としては、フィレンツェでメディチ家に仕えたサンドロ・ボッティチェリ、同じくフィレンツェのドナテッロ、ヴェネツィアのティツィアーノなどが挙げられる。

ネーデルラントでは、とりわけ活気ある美術文化が形成された。フーゴー・ファン・デル・グースヤン・ファン・エイクの作品は、油彩カンヴァスの導入といった技術的側面、ならびに表現の自然主義といった様式面において、イタリア絵画の展開に大きな影響を及ぼした。のちには老ピーテル・ブリューゲルの作品が、日常生活の主題を描く動機づけとなった[61]

建築においては、ブルネレスキが古代古典建築の遺構の研究で第一人者であった。紀元前1世紀の著述家ウィトルウィウスに関する再発見の知識と、数学の学問的隆盛を背景に、彼は古典の形態を踏まえつつそれを改良するルネサンス様式を構想した。彼の工学上の偉業は、フィレンツェ大聖堂の大円蓋の建設である[62]。この様式を示す別の建築としては、アルベルティによるマントヴァサンタンドレア教会英語版がある。盛期ルネサンス建築の白眉は、ブラマンテ、ミケランジェロ、ラファエロ、サンガッロマデルノらの技を結集したサン・ピエトロ大聖堂の再建であった。

ルネサンスの建築家は、柱・付け柱エンタブラチュアを統合的な体系として用いることを目指した。用いられたローマ式柱頭秩序には、トスカナ式オーダーおよびコンポジット式オーダー英語版がある(オーダー (建築)も参照)。これらはアーケードアーキトレーヴを支持する構造材として、あるいは壁面に付け柱として配される純装飾要素として用いられた。付け柱を統合体系として用いた初期の建築の一つは、ブルネレスキによる旧聖具室(1421–1440年)である[63]。アーチは半円アーチ英語版、あるいは(マニエリスム様式では)セグメンタルアーチ英語版がしばしばアーケードに用いられ、柱頭をもつ柱や壁柱に載せられる。柱頭とアーチの起拱点のあいだにエンタブラチュアの区間が設けられる場合もある。アルベルティは、モニュメンタルな用途におけるアーチ使用の先駆者の一人であった。ルネサンスのヴォールトはリブを持たず、半円形またはセグメンタルで、しばしば正方形平面上に載る点で、矩形平面が多いゴシック・ヴォールトと異なる。

ルネサンスの芸術家は古代を敬慕し、中世からの若干の観念や象徴を保持したとはいえ、異教徒ではなかった。ニコラ・ピサーノ(c.1220–c.1278)は、聖書場面を古典的様式で表すことにより古典形態を模倣した。ピサ洗礼堂英語版の《受胎告知》は、ルネサンスが文芸運動として根づく以前から、古典的範型がイタリア美術に影響していたことを示している[64]

航海と地理

[編集]
→詳細は「大航海時代」を参照
カンティーノ世界図英語版(1502年)—ポルトガルの海上探検英語版を詳細に描いた最古の世界図。

ルネサンス期(1450年から1650年に及ぶ)[65]には、南極大陸を除くあらゆる大陸がヨーロッパ人により訪問され、おおむね地図化された。この進展は、1648年にウェストファリア条約を記念してオランダの地図製作者ヨアン・ブラウが制作した大型世界図『Nova Totius Terrarum Orbis Tabula』に表象されている。

1492年、クリストファー・コロンブスデリー・スルターン朝領のインドへの直航路を求めてスペインから大西洋を横断した。彼は偶然アメリカ大陸に到達したが、当初は東インド諸島に至ったと信じた。科学史家デイヴィッド・ウートン英語版は、古代人に全く知られていなかった大陸が発見されたことが16世紀のヨーロッパ知的生活に深甚な影響を与え、(印刷術と並んで)科学革命の二大触媒の一つであったと論じている[66]

1519年から1522年にかけて、マゼラン=エルカーノ遠征隊(マゼランの探検英語版)は史上初の世界周航を達成し[67]、ヨーロッパの遠征として初めて太平洋横断も成し遂げ、その広大さを明らかにした[68]

1577年から1580年には、フランシス・ドレークの掠奪遠征が二度目の世界周航を達成した(単一の遠征として完遂)。ドレークは航程全体を通じて遠征を率いた艦長として、はじめて世界周航を成し遂げた人物でもある。(フランシス・ドレークの世界周航英語版

1606年、オランダの航海者ウィレム・ヤンスゾーン英語版は、オランダ東インド会社デュイフケン英語版で東インドから航行し、オーストラリアに上陸した。彼はクイーンズランドヨーク岬半島西岸のおよそ300キロメートルを測図した。続く30回以上のオランダ遠征が、北・西・南岸の各部を地図化した。1642–1643年にはアベル・タスマンがこの大陸を周航し、想像上の南極大陸と地続きではないことを示した。

1650年までに、オランダの地図製作者たちはこの大陸の海岸線の大部分を測図し、これをニューホラントと命名した(東岸のみは1770年にジェームズ・クックが測図)。

長らく想像されてきた南極の大陸は、やがて1820年に視認された。ルネサンス期を通じてそれはテラ・アウストラリス(略して「オーストラリア」)と呼ばれていたが、19世紀にこの名称がニューホラントに転用されると、南極の大陸には新たに「アンタークティカ」の名が与えられた[69]

科学

[編集]
→「en:Science in the Renaissance」および「en:Medical Renaissance」を参照
ニコラウス・コペルニクスの匿名肖像』(c.1580)
ルカ・パチョーリの肖像英語版』—ヤコポ・デ・バルバリ作、1495年(カポディモンテ美術館

実用的革新は商業にも及んだ。15世紀末、ルカ・パチョーリ簿記に関する最初の著作を刊行し、会計学の創始者とされる[6]

古典文献の再発見と、1440年頃の活版印刷の発明は学習の民主化を促し、広範な領域にわたる思想の迅速な伝播を可能にした。イタリア・ルネサンス初期には、人文主義者は自然哲学や応用数学よりも人文学の研究を重視し、古典資料への敬意は、宇宙についてのアリストテレス的およびプトレマイオス的見解をいっそう定着させる結果となった。1450年頃にニコラウス・クザーヌスは、哲学的な仕方で、後のコペルニクスの地動説的世界観を先取りした。

初期ルネサンスにおいては、科学と芸術が混然一体であった。レオナルド・ダ・ヴィンチのような博学の芸術家は、解剖学や自然に関する観察図を制作した。レオナルドは水流、医学的解剖、運動および空力の体系的研究において制御実験を設け、研究方法の原理を案出した。このためフリッチョフ・カプラは彼を「近代科学の父」と位置づけている。同時期のレオナルドの貢献には、大理石切断機や巨石揚重機の設計、音響学植物学地質学・解剖学・力学における新知見などが数えられる[70]

古典的科学学説を問い直す環境も整った。1492年のコロンブスによる「新世界」の発見は、古典的世界観に挑戦を突きつけた。プトレマイオス(地理学)やガレノス(医学)の著作が日常の観察と一致しない場合があることも明らかになった。宗教改革と対抗宗教改革が衝突する中で、北方ルネサンスではアリストテレス的自然哲学から化学生物学的諸科学(植物学・解剖学・医学)への焦点移動が決定的となった[71]。既成の真理を問い、新たな解答を探究する姿勢は、科学上の大きな進歩をもたらした。

これを「科学革命」と見て近代の開幕を告げるとする見解もあれば[72]、古代から現代に至る連続的過程の加速とみなす見解もある[73]。コペルニクスは『天球の回転について』において、地球太陽の周囲を運動することを主張した。アンドレアス・ヴェサリウスの『人体の構造について』は、解剖や観察、機械論的解剖観の役割に新たな確信を与えた[74]

もう一つの重要な展開は、発見の手続きとしての科学的方法である[74]。これは経験的証拠と数学の重要性に焦点を合わせ、アリストテレス科学の多くを捨象した。これらの理念の初期の有力な提唱者には、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイフランシス・ベーコンが含まれる[75][76]。新たな科学的方法は、天文学物理学・生物学・解剖学の分野に大きな貢献をもたらした[77]

音楽

[編集]
→詳細は「ルネサンス音楽」を参照

社会の変容から、共通かつ統一的な音楽言語が生まれ、とりわけフランコ=フランドル楽派多声音楽様式が確立した。印刷技術の発達は、音楽の広域的な頒布を可能にした。市民階級の成立に伴い、娯楽として、また教養あるアマチュアの実践としての音楽需要が増大した。シャンソンモテットミサ曲の流布は、16世紀後半にジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナオルランド・ディ・ラッソトマス・ルイス・デ・ビクトリアウィリアム・バードといった作曲家の作品に結実する、流麗な多声音楽様式の統一と歩調を合わせた。

宗教

[編集]
→「ルネサンス教皇」、「宗教改革」、および「対抗宗教改革」を参照
アレクサンデル6世。腐敗で悪名高いボルジア家の教皇

人文主義の新たな理念は、いくつかの点でより世俗的であったとはいえ、北方ルネサンスにおいてとりわけ、キリスト教的背景のもとで発展した。新しい美術の多く、あるいはその大半は、ローマ・カトリック教会により委嘱され、または献呈された[21]。しかし、ルネサンスは同時代の神学にも深い影響を与え、特に人間と神との関係の理解において大きな変化をもたらした[21]。この時代の主要な神学者の多くは人文主義的方法の追随者であり、エラスムスフルドリッヒ・ツヴィングリトマス・モアマルティン・ルタージャン・カルヴァンが含まれる。

ファルネーゼ時祷書英語版』(1546年)より「東方三博士の礼拝」と「ソロモン王を礼拝するシバの女王」—ジュリオ・クローヴィオ作。禁書目録の制定とともに、イタリアにおける装飾写本ルネサンスの終焉を画する

ルネサンスは、宗教的動揺の時代に始まった。中世末には教皇庁をめぐる政治的陰謀が渦巻き、その頂点に、同時に三人がローマ司教位の正統性を主張した教会大分裂(いわゆる西方教会大分裂)があった[78]。分裂はコンスタンツ公会議(1414年)で収束へ向かったが、その後発した公会議主義教皇権の制限を求めた。第5ラテラン公会議(1511年)によって最終的に教皇庁は教会問題において至上の地位を回復したものの、腐敗の非難は続いた。とりわけアレクサンデル6世は、枢機卿時代にまで遡る聖職売買縁故主義子の認知英語版(多くは権力固めのために縁組されたとされる)などで批判の的となった[79]

エラスムスやルターらの聖職者は、頻繁に新約聖書の人文主義的文献批判にもとづく教会改革を提唱した[21]。1517年10月、ルターは『95か条の論題』を公にし、教皇権に異議を唱えるとともに、その腐敗とみなされた点、特に贖宥状の販売を批判した。この「95か条」は宗教改革へとつながり、先に西欧で覇権を主張していたローマ・カトリック教会との断絶を生じさせた。したがって、人文主義とルネサンスは宗教改革を直接に誘発したのみならず、同時代の諸宗教的論争や紛争においても重要な役割を果たした。

パウルス3世(在位1534–1549)は、1527年のローマ劫掠後、宗教改革を受けて不確実性が漂うカトリック教会を率いるために教皇座に就いた。ニコラウス・コペルニクスは『天球の回転について』をパウルス3世に献呈した。パウルス3世はのちにアレッサンドロ・ファルネーゼの祖父となり、ファルネーゼはティツィアーノ、ミケランジェロ、ラファエロの絵画や重要なコレクションを擁し、またジュリオ・クローヴィオに『ファルネーゼ時祷書英語版』というおそらく最後の大規模な彩飾写本の傑作を制作させた。

自己意識

[編集]
レオナルド・ブルーニ

15世紀までには、イタリアの著述家・芸術家・建築家は、自らの営為に生じつつある変容を十分に自覚しており、自作を形容するのに「古式の様式」や「ローマ人および古代人の様式で」といった語を用いていた。ペトラルカは1330年代、キリスト教以前の時代を「古代」、キリスト教の時代を「新時代」と呼んだ[80]。ペトラルカのイタリア的視座からすると、この新時代(自身の同時代を含む)は「国民的暗転の時代」であった[80]レオナルド・ブルーニは『フィレンツェ人民史』(1442年)において、三分法的な時代区分を初めて用いた[81]。ブルーニの最初の二時期はペトラルカの区分に基づくが、彼はイタリアがもはや後退期にないと考え、第三の時期を付加した。フラヴィオ・ビオンド英語版も『ローマ帝国衰微以後の歴史の十書』(1439–1453年)で類似の枠組みを用いた。

人文主義の歴史家は、同時代の学問が古典期への直接的連関を回復し、したがって中世を迂回したと論じ、この時期を初めて「中世」と命名した。ラテン語での初出は1469年の「中間の時代」である[82]。「再生(後に仏語ルネサンス)」という語は、広義にはジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』(初版1550年、改訂版1568年)に初めて現れる[83][84]。ヴァザーリはこの時代を三段階に分け、第一段階にチマブーエジョットアルノルフォ・ディ・カンビオ、第二段階にマザッチョブルネレスキドナテッロ、第三段階の中心にレオナルド・ダ・ヴィンチを置き、ミケランジェロに至って頂点に達するとした。ヴァザーリによれば、この発展を駆動したのは古典古代への自覚の高まりだけではなく、自然を研究し模倣しようとする欲求の増大でもあった[85]

普及

[編集]

15世紀には、ルネサンスはその発祥地フィレンツェからイタリア全土へ、さらにほどなくヨーロッパ各地へと急速に広がった。ドイツの印刷業者ヨハネス・グーテンベルクによる印刷機の発明は、これら新思想の迅速な伝播を可能にした。普及の過程で、その理念は各地の文化に適応され、多様化・変容した。20世紀には、研究者がルネサンスを地域的・国民的運動へと細分化する試みを進めた。

イングランド

[編集]
→詳細は「en:English Renaissance」を参照
「人間とは何と見事な作品であろう。理性においていかに高貴、能力においていかに無限、姿と動きはいかに明晰にして賞讃すべきか。行為においては天使のごとく、理解においては神のごとし!」—ウィリアム・シェイクスピアハムレット』より

16世紀後半のエリザベス朝は、イングランド・ルネサンス英語版の最盛期と一般にみなされる。その淵源はしばしば、ヘンリー8世治下の16世紀初頭に求められる[86]。イングランド・ルネサンスは、諸点においてイタリア・ルネサンス英語版と異なる。支配的な芸術形態は文学音楽であり、これらが豊かに開花した。視覚芸術の重要性はイタリアに比してはるかに小さく、美術上のルネサンスはイタリアより遅れて始まり、イタリアは1530年代にはすでにマニエリスムへ移行していた[87]

文学においては、16世紀後半にエリザベス朝文学英語版が開花し、詩はイタリア・ルネサンス文学の影響を強く受けた一方、演劇は独自の国民的様式を示した。著述家としては、ウィリアム・シェイクスピア(1564–1616)、クリストファー・マーロウ(1564–1593)、エドマンド・スペンサー(1552–1599)、トマス・モア(1478–1535)、フィリップ・シドニー(1554–1586)が挙げられる。音楽では、トマス・タリス(1505–1585)、ジョン・タヴァナー(1490–1545)、ウィリアム・バード(1540–1623)らの作曲家が欧州と肩を並べた。建築では、廷臣たちのための壮大なプロディジー・ハウス英語版が築かれ、次世紀にはイニゴー・ジョーンズ(1573–1652)がパッラーディオ建築をイングランドに導入した[88]

また、フランシス・ベーコン(1561–1626)は近代的科学思想の先駆者であり、科学革命の創始者の一人と広くみなされている[89][90]

フランス

[編集]
→詳細は「en:French Renaissance」および「en:French Renaissance architecture」を参照
シャンボール城(1519–1547年)—ルネサンス建築を代表する著名な一例

「ルネサンス」という語はフランス語に由来し、「再生」を意味する。18世紀に初めて用いられ、のちにフランスの歴史家ジュール・ミシュレ(1798–1874)が『フランス史』(1855年)で普及させた[91][92]

1495年、シャルル8世のイタリア侵攻に伴い、イタリア・ルネサンスがフランスにもたらされた。世俗主義の拡大を促した要因として、黒死病に対して教会が有効な救済を提供できなかったことも挙げられる。フランソワ1世レオナルド・ダ・ヴィンチプリマティッチオロッソ・フィオレンティーノニコロ・デッラバーテベンヴェヌート・チェッリーニらのイタリア美術と芸術家を招聘し、フォンテーヌブロー宮殿シャンボール城といった壮麗な宮殿建設に巨費を投じた。

文学ではフランソワ・ラブレーピエール・ド・ロンサールジョアシャン・デュ・ベレーミシェル・ド・モンテーニュ、絵画ではジャン・クルーエ英語版フランソワ・クルーエ、音楽ではジャン・ムートンが、いずれもこの精神を摂取した。彫刻ではミシェル・コロンブ英語版ジャン・グージョンピエール・ボントン英語版リジェ・リシエジェルマン・ピロン英語版、建築ではピエール・レスコー英語版ルーヴル宮レスコー翼英語版の設計者)、フィリベール・ドロルム英語版ジャック1世・アンドルエ・デュ・セルソー英語版らが重要である。

1533年、フィレンツェ出身のカトリーヌ・ド・メディシス(1519–1589)は、フランソワ1世の次男アンリ2世(のちのフランス王)と結婚した。彼女はユグノー戦争における役割で名高くも悪名高くもあるが、故郷フィレンツェから芸術・科学・音楽(バレエの萌芽を含む)をフランス宮廷英語版にもたらすうえで直接的な貢献をした。

ドイツ

[編集]
→詳細は「en:German Renaissance」および「en:Weser Renaissance」を参照
皇帝マクシミリアン1世の肖像(アルブレヒト・デューラー作、1519年)

15世紀後半、ルネサンスの精神はドイツおよび低地地方(ネーデルラント)へ広がった。ここでは印刷術(約1450年)の発達や、アルブレヒト・デューラー(1471–1528)といったルネサンス美術家の活動が、イタリアからの影響に先行した。

国内の初期プロテスタント地域では、人文主義が宗教改革の動乱と密接に結びつき、ドイツ・ルネサンス英語版の美術や著述はしばしばこの対立を反映した[93]。とはいえ、ゴシック様式と中世スコラ哲学は16世紀転換期まで支配的であり続けた。ハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世(在位1493–1519)は、神聖ローマ帝国における最初の真正の「ルネサンス的君主」であった。

ハンガリー

[編集]
→詳細は「en:Renaissance architecture in Central and Eastern Europe」を参照

イタリアに次いで、ハンガリーはルネサンスが出現した最初のヨーロッパ諸国の一つである[94]クワトロチェント(1400年代)にイタリアから直接もたらされたこの様式は、14世紀以降に強まったハンガリーとイタリアの初期関係(王朝的結びつきだけでなく、文化・人文主義・商業の諸関係)によって中欧地域で最初に根づいた。さらに、ハンガリーとイタリアのゴシック様式の関係性、すなわち過度な壁面解放を避け、簡明で軽快な構造を好む傾向も一因であった。大規模建設計画は芸術家に豊富な長期の仕事を提供し、たとえばブダ城ヴィシェグラードタタヴァールパロタ英語版の諸城の建設が挙げられる。ルクセンブルク家ジギスムント帝の宮廷には、フィレンツェのスコラーリ家の後裔であるピッポ・スパーノ英語版などのパトロンがいて、マネット・アンマナティーニやマゾリーノ・ダ・パニカーレをハンガリーに招いた[95]

ハンガリーにもたらされた新しいイタリアの潮流は、土着の伝統と結びついて、独自のローカルなルネサンス美術を生み出した。人文主義思想が継続的にもたらされたことも、受容を促した。イタリアの大学で学んだ多くの若いハンガリー人がフィレンツェの人文主義の中心に接近し、フィレンツェとの直接的な関係が形成された。とりわけブダに移住したイタリア商人の増加も、この過程を助長した。エステルゴム大司教ヴィテーズ・ヤーノシュ英語版(ハンガリー人文主義の創始者の一人)を筆頭に、人文主義の高位聖職者らも新思想の担い手であった[96]。ルクセンブルク家のジギスムント帝の長い治世の間、ブダ王宮は中世末最大級のゴシック宮殿へと発展し、マーチャーシュ1世(在位1458–1490)はこれを初期ルネサンス様式で改築し、さらに拡張した[97][98]

1476年にマーチャーシュ1世がナポリのベアトリーチェと結婚すると、ブダはアルプス以北におけるルネサンスの最重要な芸術中心の一つとなった[99]。宮廷に仕えた主要な人文主義者には、アントニオ・ボンフィーニ英語版やハンガリーの著名詩人ヤーノシュ・パノニウス英語版がいる[99]。1472年、アンドラーシュ・ヘシュ英語版がブダに印刷所を開設した。マーチャーシュ1世の図書館「コルヴィナ文庫」は、15世紀ヨーロッパ最大の世俗書籍コレクション(歴史編年、哲学・科学書)であり、その規模はヴァチカン図書館に次いだ(ただしヴァチカンは主として聖書や宗教資料を収蔵)[100]。1489年、フィレンツェのバルトロメオ・デッラ・フォンテは、ロレンツォ・デ・メディチがハンガリー王の先例に鼓舞されてギリシア・ラテン図書館を創設したと記している。コルヴィナ文庫はユネスコ世界遺産の一部である[101]

マーチャーシュ1世は少なくとも二つの大規模建設計画を開始した[102]。ブダとヴィシェグラードでの工事はおよそ1479年に始まり[103]、ブダ王宮では新館二棟と空中庭園が建設され、ヴィシェグラードの宮殿はルネサンス様式で再建された[103][104]。彼はイタリア人のキメンティ・カミーチャ英語版とダルマチア人のジョヴァンニ・ダルマタ英語版を総監に任じ[103]、時代の第一線のイタリア人芸術家である彫刻家ベネデット・ダ・マイアーノ、画家フィリッピーノ・リッピアンドレア・マンテーニャに宮殿の装飾を委嘱した[105]。マンテーニャによるマーチャーシュ1世像の写しが現存する[106]。また、イタリア人軍事技術者アリストテレ・フィオラヴァンティ英語版を雇い、南部国境沿いの要塞再建を指揮させた[107]。さらに、コロジュヴァールセゲドフニャド英語版フランシスコ会修道院や、フェイェーレギハーザのパウロ会英語版修道院など、後期ゴシック様式の新修道院を建立した[108][109]。1485年春には、レオナルド・ダ・ヴィンチがスフォルツァ家の名代としてハンガリーを訪れ、マーチャーシュ王に謁して聖母子像の制作を委嘱された[110]

マーチャーシュ1世は人文主義者の友を好み、彼らと多様な主題について活発な議論を行った[111]。その寛大さの名声に鼓舞されて、とくにイタリア人の学者が多数ブダに定住し[112]アントニオ・ボンフィーニ英語版ピエトロ・ランツァーノ英語版、バルトロメオ・フォンツィオ、フランチェスコ・バンディーニ英語版らが長年にわたり宮廷に滞在した[113][111]。彼らの知的サークルはハンガリーに新プラトン主義をもたらした[114][115]。同時代の知識人一般と同様、マーチャーシュ1世は星辰の運行や惑星の組み合わせが個人の生活や諸国民の歴史に影響するとの確信を抱いていた[116]マルティウス・ガレオッティ英語版は彼を「王にして占星家」と描写し、ボンフィーニは「彼は事を運ぶにあたり、つねに星の助言を仰いだ」と記した[117]。彼の求めにより、当時の著名な天文学者レギオモンタヌスマルチン・ビィリツァ英語版がブダに天文台を設け、アストロラーベ天球儀を備えた[118]。レーギオモンタヌスは、後にコロンブスが用いた航海書をマーチャーシュ1世に献呈している[112]

ハンガリー・ルネサンスの他の重要人物には、詩人バラッシ・バーリント、詩人ティノーディ・ラントシュ・セベシュティエン英語版、作曲家・リュート奏者バクファルク・バーリント英語版、壁画画家マイスターMS英語版がいる。

低地地方

[編集]
→詳細は「en:Renaissance in the Low Countries」および「en:Dutch and Flemish Renaissance painting」を参照
ロッテルダムのエラスムスの肖像(1523年)—ハンス・ホルバイン(子)

15世紀末のネーデルラントの文化は、フランドルを富ませたブルージュ経由の交易を通じてイタリア・ルネサンスの影響を受けた。当地の貴族は芸術家に制作を委嘱し、彼らはヨーロッパ各地に名を知られるようになった[119]。科学分野では、解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスが先導し、地図学ではゲラルドゥス・メルカトルの地図が探検家・航海者を助けた。美術では、オランダ・フランドルのルネサンス絵画は、ヒエロニムス・ボスの奇想的作風から[120]老ピーテル・ブリューゲルの市井の日常生活の描写に至るまで幅広い展開を示した[119]

エラスムスは、ルネサンス期のネーデルラントにおける、最もよく知られた人文主義者かつカトリック知識人と評される[28]

北ヨーロッパ

[編集]
→詳細は「北方ルネサンス」を参照

ルネサンスの北ヨーロッパにおける展開は、しばしば「北方ルネサンス」と総称される。イタリアから北方へ思想が伝播する一方で、音楽など一部の革新分野では同時に南方への逆流もみられた[121]。15世紀のブルゴーニュ楽派は音楽におけるルネサンスの端緒を画し、ネーデルラントの作曲家たちのポリフォニーは演奏家の移動とともにイタリアへ波及し、9世紀のグレゴリオ聖歌の標準化以来となる最初の真正の国際様式の中核を形成した[121]フランドル楽派の到達点は、イタリアの作曲家ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナの音楽に見出される。16世紀末には、イタリアがふたたび音楽革新の中心となり、ヴェネツィア楽派の多合唱様式が発達して、1600年頃にはドイツへ北上した。デンマークでは、サクソ・グラマティクスの著作がデンマーク語に翻訳されるとともに、フレデリク2世クリスチャン4世クロンボー城ローゼンボー城ボーセン英語版(取引所)などの重要建築の改修・新築を命じた[122]。天文学者ティコ・ブラーエは、天文学を「最初の近代科学」へと転換させ、科学革命の端緒を開くうえで大きく寄与した[123][124]

絵画においては、イタリア・ルネサンスと北方ルネサンスの差異が際立つ。イタリアの画家は中世の純然たる宗教画から離脱し、世俗的主題を描いた先駆者であったのに対し、北方の画家は当初、宗教的主題(アルブレヒト・デューラーが表した同時代の宗教的動揺など)に焦点を留めた。のちに老ピーテル・ブリューゲルの作例が、宗教的・古典的主題よりも日常生活の場面を描く方向へと影響を与えた。また北方ルネサンス期には、フランドルのフーベルトおよびヤン・ファン・エイク兄弟が油彩技法を完成させ、硬い支持体上で強い発色を実現し、数世紀に耐える作品制作を可能にした[125]

北方ルネサンスの特色には、ラテン語やギリシア語に代わって諸国語を用いたことも含まれる。これは表現の自由を拡大し、運動はイタリアにおけるダンテ・アリギエーリの決定的影響から始まったが、イタリア語による著述への注目の高まりは、一方でラテン語で表現されていた、フィレンツェ的観念の重要な源泉らを等閑視する結果にもなった[126]。印刷術の普及は北ヨーロッパにおけるルネサンスを他地域と同様に促進し、ヴェネツィアは世界的な印刷の中心地となった。

ポーランド

[編集]
→詳細は「ポーランド・ルネサンス」を参照
Sigismund Chapel
Tombstone
クラクフジギスムント礼拝堂英語版の16世紀ルネサンス様式のポーランド王墓碑—黄金のドームはバルトロメオ・ベレッチ英語版設計

ポーランド・ルネサンスは15世紀末から16世紀末まで続き、ポーランド文化黄金時代をなした。ヤギェウォ朝のもと、ポーランド王国(1569年以降はポーランド・リトアニア共和国)は汎ヨーロッパ的なルネサンスに積極的に参与した。15世紀半ばにイタリアの人文主義者フィリッポ・ボナッコルシ英語版が来訪して王の顧問に任ぜられ、1505年にフランチェスコ・フィオレンティーノ英語版が完成させたヤン1世の墓碑は、国内最初のルネサンス様式の構成例とされる[127][128]。その後、多くのイタリア人芸術家が、ミラノ出身のボナ・スフォルツァが1518年にジグムント1世と結婚したのに伴ってポーランドに渡来した[129]。この動向は、一時的に強化された両地域の君主制に支えられ、また新設の大学群によって後押しされた[130]

多民族から成るポーランド国家は、この時期、東部・南部の人口希薄な辺境での紛争を除けば一世紀にわたる大規模戦争の不在にも支えられて、顕著な文化的成長を遂げた。建築はより洗練され装飾的となり、マニエリスムコーニス上部の高い屋根裏部(アティック英語版)と小尖塔付け柱を伴う意匠など、今日「真正にポーランド的」とみなされる様式形成に重要な役割を果たした[131]ポーランド文学英語版は、ミコワイ・レイヤン・コハノフスキといった著者の主要作品が刊行され、ポーランド語は東中欧のリンガ・フランカとなった[132]ヤギェウォ大学は地域の一大高等教育機関へと発展し、ニコラウス・コペルニクスコンラート・ツェルティスら著名な学者を擁した。さらに、ケーニヒスベルク(1544年)、ヴィリニュス(1579年)、ザモシチ(1594年)(ザモシチ・アカデミー英語版)に3つの学院が創設された。宗教改革は国内に平和裏に浸透し、三位一体を否認する(非三位一体主義英語版)「ポーランド兄弟団英語版」を生み出した[133]。生活水準は向上し、都市は成長し、農産物の輸出が住民、とりわけ貴族(シュラフタ)や大貴族を富ませた。貴族は「黄金の自由」と呼ばれる新たな政治体制において優勢となり、これは君主専制への牽制として機能した[134]

ポルトガル

[編集]
→詳細は「en:Portuguese Renaissance」を参照
ルイス・デ・カモンイスとその主著『ウズ・ルジアダス』は、それぞれポルトガル語最大の詩人、ポルトガル文学の頂点とみなされる

イタリア・ルネサンスがポルトガル美術に及ぼした直接的影響は比較的限定的であったが、ポルトガルはヨーロッパの世界観の拡張に大きく寄与し[135]、人文主義的探究を刺激した。ルネサンスは、海外交易に投資した富裕なイタリアおよびフランドルの商人の影響を通じて到来した。

ヨーロッパ探検の拠点として先駆的役割を果たしたリスボンは15世紀末に繁栄し、数学・天文学・造船航海技術で多くの革新をもたらした専門家(ペドロ・ヌネスジョアン・デ・カストロ英語版アブラハム・ザクート英語版マルティン・ベハイムなど)を惹きつけた。地図製作ではペドロ・レイネル英語版ロポ・オメン英語版エステバン・ゴメスディオゴ・リベイロ英語版らが世界測図の画期をなした。薬種商トメ・ピレス英語版や医師ガルシア・デ・オルタ英語版、クリストヴァン・ダ・コスタは植物と薬に関する著作を収集・刊行し、ほどなくフランドルの植物学先駆者カロルス・クルシウスにより翻訳された。

建築では、香辛料交易の巨利によって、16世紀初頭に海洋的モチーフを取り込んだ華麗な折衷様式、マヌエル様式が成立した[136]。主要画家にはヌーノ・ゴンサルヴェスグレゴリオ・ロペス英語版ヴァスコ・フェルナンデスがいる。音楽ではペドロ・デ・エスコバル英語版ドゥアルテ・ロボが『エルヴァス歌謡集英語版』を含む四つの歌集を生んだ。

トマールのキリスト教修道院。ルネサンス様式の回廊

文学では、ルイス・デ・カモンイスが叙事詩ウズ・ルジアダスにおいて海外におけるポルトガルの偉業を歌い上げた。サ・デ・ミランダ英語版はイタリア詩形を導入し、ベルナルディン・リベイロ英語版牧歌小説を展開、ジル・ヴィセンテの戯曲はそれを民衆文化と融合させて時代の変化を映し出した。旅行記文学はとりわけ隆盛し、ジョアン・デ・バロスフェルナン・ロペス・デ・カスタニェーダ英語版アントニオ・ガルヴァン英語版ガスパル・コレイア英語版ドゥアルテ・バルボーザ英語版フェルナン・メンデス・ピントらが新世界を記述し、新しい印刷術とともに翻訳・流布された[135]。1500年にブラジル探検に加わったアメリゴ・ヴェスプッチは、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ英語版宛書簡で「新世界」という語を提唱した[137]

活発な国際交流は、フランシスコ・デ・オランダ英語版アンドレ・デ・レゼンデ英語版ダミアン・デ・ゴイス英語版エラスムスの友で、マヌエル1世治世を独立的観点から記した)など、国際的視野をもつ人文主義者を多数生み出した。ディオゴ・デ・ゴーヴェイア英語版アンドレ・デ・ゴーヴェイア英語版はフランスを介して教育改革を進めた。アントワープのポルトガル商館にもたらされた海外情報と物産は、トマス・モア[138]アルブレヒト・デューラーの広い世界への関心を惹起した[139]

同地で蓄積された利益と知見は、とりわけポルトガルから追放された裕福で教養あるユダヤ人共同体の到来後、オランダ・ルネサンスとオランダ黄金時代の醸成を助けた。

スペイン

[編集]
→詳細は「en:Spanish Renaissance」を参照
フアン・デ・エレーラ英語版フアン・バウティスタ・デ・トレド英語版によるエル・エスコリアル修道院

ルネサンスは、アラゴン王冠領地中海支配地とヴァレンシア市を経由してイベリア半島にもたらされた。初期スペイン・ルネサンスの著述家はアラゴン王冠出身者が多く、アウジアス・マルク英語版ジョアノット・マルトレイ英語版が挙げられる。カスティーリャ王冠領では初期ルネサンスがイタリア人文主義の強い影響下にあり、15世紀初頭にイニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ(初代サンティリャーナ侯)英語版が新しいイタリア詩形を導入した。ホルヘ・マンリーケ英語版フェルナンド・デ・ロハス英語版フアン・デル・エンシーナフアン・ボスカン・アルモガベル英語版ガルシラソ・デ・ラ・ベーガ英語版らも、イタリア古典に近い規範を示した。ミゲル・デ・セルバンテスの傑作『ドン・キホーテ』は、西洋最初の小説とされる。16世紀初頭には人文主義が隆盛し、哲学者フアン・ルイス・ビベス、文法学者アントニオ・デ・ネブリハ英語版、博物学者ペドロ・メヒーア英語版などが影響力をもった。詩人・哲学者ルイサ・デ・メドラーノ英語版は、同時代に「学識ある少女たち」として称賛され、サラマンカ大学でヨーロッパ初の女性教授となった。

のちのスペイン・ルネサンス英語版は宗教的主題や神秘主義へ傾き、詩人ルイス・デ・レオン英語版アビラのテレサ十字架のヨハネらが登場した。また、新世界探検に関わる課題は、インカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベーガ英語版バルトロメ・デ・ラス・カサスといった年代記作者・著述家によって扱われ、後に「スペイン・ルネサンス文学英語版」と呼ばれる体系を形成した。後期には、政治・宗教の著述家トマス・フェルナンデス・デ・メドラノ英語版、画家エル・グレコ、作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリアアントニオ・デ・カベソンらが活躍した。

史学史

[編集]

概念形成

[編集]
ジョルジョ・ヴァザーリ美術家列伝』の装丁

イタリアの美術家・批評家ジョルジョ・ヴァザーリ(1511–1574)は、著書『美術家列伝』(1550年刊)において「再生」の語を最初に用いた。同書でヴァザーリは、ゴシック美術の「野蛮さ」からの断絶を論じ、ローマ帝国の崩壊とともに諸芸術は衰微したが、チマブーエ(1240–1301)とジョット(1267–1337)に始まるトスカーナの美術家たちがこの衰退を反転させたと主張した。ヴァザーリは、古代美術がイタリア美術の復興の中心にあるとみなした[140]

もっとも、ルネサンスというフランス語が、13世紀末に始まるローマ的典型の復興を基盤とする自己意識的文化運動を指す用語として普及するのは19世紀になってからである。フランスの歴史家ジュール・ミシュレ(1798–1874)は『フランス史』(1855年)でルネサンスを一つの歴史時代として定義し、それ以前の限定的用法を拡張した[18]。ミシュレにとってルネサンスは、芸術文化それ自体というより科学の発展であり、その幅はコロンブスからコペルニクスガリレオに至る(すなわち15世紀末から17世紀半ば)時期を覆うとされた[91]。さらにミシュレは、中世を「奇矯にして怪奇」な時代とし、共和主義者としての立場から、ルネサンスに民主的価値を読み取った[14]。また彼はフランスの国民主義者として、ルネサンスをフランスの運動として位置づけようとした[14]

スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルト(1818–1897)は、『イタリア・ルネサンスの文化』(1860)において、ルネサンスをイタリアのジョットからミケランジェロに至る14世紀から16世紀半ばの時期と定義した。彼はルネサンスに、中世によって抑圧されていた近代的個人主義精神の出現を見いだした[141]。この書は広く読まれ、イタリア・ルネサンスの近代的解釈の形成に大きな影響を与えた[142]

近年では、ルネサンスを一つの歴史時代、あるいは首尾一貫した文化運動として厳密に画定することに慎重な歴史家も少なくない。カリフォルニア大学バークレー校の歴史家ランドルフ・スターンは1998年、次のように述べている。

ルネサンスは、明確な始まりと終わり、そしてそのあいだに一貫した内容をもつ時代というより、むしろ、時と所によって特定の集団や個人がさまざまに応答した実践と観念の運動として捉えうる(しばしばそう捉えられてきた)。その意味で、それは単一で時間に縛られた文化ではなく、多様にして時に収斂し時に衝突する文化のネットワークである。[16]

進歩をめぐる論争

[編集]
→「en:Continuity thesis」を参照

ルネサンスがどの程度中世の文化を進歩させたかという問題には論争がある。ミシュレとブルクハルトはいずれも、ルネサンスが近現代への進歩を画したと強調した。ブルクハルトはこの変化を、人の眼から覆いが取り払われることになぞらえた[48]

中世においては、人間意識の内面に向かう側も外界に向かう側も、共通のヴェールの下で夢見、あるいは半ばまどろんでいた。そのヴェールは信仰と幻想と幼児的先入観で織られており、世界と歴史はそのヴェールをとおして奇妙な色合いを帯びて見えた。
ヤーコプ・ブルクハルト、『イタリア・ルネサンスの文化』[143]
フランソワ・デュブワ英語版サン・バルテルミの虐殺フランス宗教戦争の一場面。

一方で、多くの歴史家は、しばしば中世に結びつけられる否定的社会要因、すなわち貧困、戦争、宗教的・政治的迫害の多くがこの時代にかえって悪化したことを指摘する。たとえばマキアヴェッリ的政治、宗教戦争ボルジア家の腐敗した教皇たち、16世紀に激化する魔女狩りなどである。実際、同時代人の多くはこれらの社会病理を不安視し、後世の19世紀的著述家が思い描いたような「黄金時代」とは見なしていなかった[144]。とはいえ、当の文化運動に関与した芸術家・著述家・パトロンたちは、自分たちが中世から明確に断絶した新時代を生きていると感じていた[83]マルクス主義史家の中には、ルネサンスを物質的観点から説明し、芸術・文学・哲学の変化を、封建制から資本主義への一般的経済的趨勢の一部(余暇をもつ市民階級の出現)とみなす立場もある[145]

ヨハン・ホイジンガ(1872–1945)はルネサンスの存在を認めつつ、その積極性に疑義を呈した。『中世の秋』において、彼はルネサンスを中世盛期からの退潮期と捉え、重要な多くのものが破壊されたと論じた[15]。たとえば中世ラテン語は古典期から大きく発展し、教会や他領域で使用される生きた言語であったが、古典的純粋性への執着がその進化を停止させ、ラテン語を古典形へ回帰させたという(もっとも、この見解は近年の研究(ネオラテン語研究英語版)によって一部争われている)。ロバート・S・ロペスは、当時が深刻な経済不況の時期であったと主張し[146]ジョージ・サートン英語版リン・ソーンダイク英語版は、科学の進歩は従来想定されるほど独創的ではなかったと論じた[147]ジョーン・ケリー英語版は、ルネサンスが性差の強化をもたらし、中世に比して女性の主体性を低下させたと論じている[148]

この語のもつ無条件の肯定性、いわば「暗黒時代」とされる中世からの明るい再生、を嫌い、当該期(およびその後の相当期間)を指すのに「近世初期」を用いることを好む歴史家もいる。これは、同時期を中世と近現代の過渡期として強調するための呼称である[149]。他方でロジャー・オズボーンのように、イタリア・ルネサンスを西洋史全体の神話と理想の集積所、すなわち古代の単なる復活ではなく大いなる創造革新の時代と捉える立場もある[150]

美術史エルヴィン・パノフスキーは、「ルネサンス」概念への抵抗について次のように観察した。

イタリア・ルネサンスの事実性にもっとも精力的に疑義を呈してきたのは、文明の美的側面に専門的関心を寄せる義務のない、経済・社会・政治・宗教、そしてとりわけ自然科学の歴史家であって、文学研究者は例外的に、そして美術史家に至ってはほとんどない。[151]

他のルネサンス

[編集]

「ルネサンス」の語は、15〜16世紀以外の時期にも適用されてきた。たとえばチャールズ・H・ハスキンズ英語版(1870–1937)は「12世紀ルネサンス」を提唱した[152]。また、8–9世紀のカロリング朝ルネサンス、10世紀のオットー朝ルネサンス英語版、14世紀のティムール朝ルネサンス英語版を唱える議論もある。イスラームの黄金時代が「イスラーム・ルネサンス」と呼ばれることもある[153]。さらに、9–11世紀の東ローマ帝国を指す「マケドニア朝ルネサンス」という用語も用いられる。

近代以降の文化的再生の時期もまた「ルネサンス」と呼ばれてきた。ベンガル・ルネサンス英語版タミル・ルネサンス英語版ネパール・バサ・ルネサンス英語版アラブの覚醒ハーレム・ルネサンスなどである。映画では「ディズニー・ルネサンス」(1989–1999、ディズニー黄金期英語版のアニメーション水準への回帰)が、文学・詩では20世紀中葉サンフランシスコにおける探究的運動を指す「サンフランシスコ・ルネサンス英語版」が挙げられる。

他文化との関係

[編集]

イスラム文化との関係

[編集]

ギリシアをはじめとする古典的な知の遺産は、そのほとんどが8世紀から9世紀にかけてアラビア語に次々と翻訳され、初期のイスラーム文化の発達に多大なる貢献をもたらした。とくに830年にアッバース朝の第7代カリフマアムーンによってバグダードに設立された「知恵の館」において膨大な翻訳作業が行われ、知識の継承が急速に進んだ[154]

古典文献とイスラムの哲学者や科学者たちの思索は、今度は断続的に、9(カロリング朝ルネサンス)、10(マケドニア朝ルネサンス)、12(12世紀ルネサンス)、13から15世紀(パレオロゴス朝ルネサンス)と、次々とラテン語に翻訳された。西ヨーロッパの人たちはイスラムが継承、拡充した古典をラテン語で読むことができるようになった。翻訳作業の大半は、イスラム圏とヨーロッパ大陸を繋ぐ中継基地としての役割を担っていた、イスラム支配下のスペインにおいて行われ、この作業には、それぞれ出身地を異にするイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒など、数多くの翻訳者集団が参加した。

社会と経済の発達の重要性を痛感していた西洋の社会は初期のイスラム社会と同じように、とりわけ、医学をはじめとする科学的な知識を必要としていた。アリストテレスが魂について哲学的考察を加えた『霊魂論』(これにはイスラムの哲学者イブン・ルシュドが注釈をつけている)、イブン・スィーナーが著した『医学典範』、哲学者であるとともに医師であったアル・ラーズィーが著した『アル・マンスールの書』は、いずれも15世紀から16世紀にかけて翻訳された。

ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書のようなギリシア-イスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、多くのヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシア-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない[155]

ギャラリー

[編集]

活躍した人物

[編集]
ボッカチオ(1449年の絵画)
万能人と呼ばれているレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像

商業・経済

[編集]

思想

[編集]
→「ルネサンス哲学」を参照

文学

[編集]
→「ルネサンス文学」を参照

美術

[編集]
→「ルネサンス美術」を参照
→「ルネサンス期のイタリア絵画」を参照

音楽

[編集]
→「ルネサンス音楽」を参照

ルネサンス期の器楽曲・声楽曲は、イタリアよりブルゴーニュ、フランドルが中心であった。イタリアではルネサンス後期に至ってようやくパレストリーナが登場した。

建築

[編集]
→「ルネサンス建築」を参照

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^Brotton, Jerry (2006). The Renaissance: a very short introduction (1. publ ed.). Oxford: Oxford Univ. Press. pp. 9. ISBN 978-0-19-280163-0 
  2. ^林達夫「文芸復興」、花田清輝「復興期の精神」など。
  3. ^通俗的に「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、例えばコスメティック・ルネッサンス、あるいはカルロス・ゴーン著『ルネッサンス』などは、ルネッサンスと表記されることが多い。
  4. ^BBC Science | Learn about Leonardo da Vinci”. www.bbc.co.uk. 2025年10月26日閲覧。
  5. ^BBC - History - Michelangelo” (英語). www.bbc.co.uk. 2025年10月26日閲覧。
  6. ^abDiwan, Jaswith. Accounting Concepts & Theories. London: Morre. pp. 1–2. id# 94452 
  7. ^Monfasani, John (2016). Renaissance Humanism, from the Middle Ages to Modern Times. Taylor & Francis. ISBN 978-1351904391. https://books.google.com/books?id=NCKoDQAAQBAJ&pg=PP14 
  8. ^Boia, Lucian (2004). Forever Young: A Cultural History of Longevity. Reaktion Books. ISBN 978-1861891549. https://books.google.com/books?id=bdIBlQXSKi8C&pg=PA63 
  9. ^The Renaissance: At a Glance | Britannica” (英語). www.britannica.com. 2025年3月14日閲覧。
  10. ^abStrathern, PaulThe Medici: Godfathers of the Renaissance (2003)
  11. ^abEncyclopædia Britannica, "Renaissance", 2008, O.Ed.
  12. ^Harris, Michael H.History of Libraries in the Western World, Scarecrow Press Incorporate, 1999, p. 69,ISBN 0810837242
  13. ^Norwich, John Julius,A Short History of Byzantium, 1997, Knopf,ISBN 0679450882
  14. ^abcdBrotton, J.,The Renaissance: A Very Short Introduction,OUP, 2006ISBN 0192801635.
  15. ^abHuizanga, Johan,The Waning of the Middle Ages (1919, trans. 1924)
  16. ^abStarn, Randolph (1998). “Renaissance Redux”. The American Historical Review 103 (1): 122–124. doi:10.2307/2650779. ISSN 0002-8762. JSTOR 2650779. 
  17. ^Panofsky 1969:6.
  18. ^abMurray, P. and Murray, L. (1963)The Art of the Renaissance. London:Thames & Hudson (World of Art), p. 9.ISBN 978-0500200087. "...in 1855 we find, for the first time, the word 'Renaissance' used – by the French historian Michelet – as an adjective to describe a whole period of history and not confined to the rebirth of Latin letters or a classically inspired style in the arts."
  19. ^Perry, M.Humanities in the Western TraditionArchived 29 April 2009 at theWayback Machine., Ch. 13
  20. ^Kennedy, Lesley (2021年9月27日). “How the Renaissance Challenged the Church and Influenced the Reformation” (英語). HISTORY. 2025年10月26日閲覧。
  21. ^abcdOpen University,Looking at the Renaissance: Religious Context in the Renaissance (Retrieved 10 May 2007)
  22. ^The Open University” (英語). fass.open.ac.uk (2025年10月12日). 2025年10月26日閲覧。
  23. ^Kohn, Hans (1944). The Idea of Nationalism: A Study in Its Origins and Background. New York: Macmillan 
  24. ^Stark, Rodney,The Victory of Reason, Random House, NY: 2005
  25. ^Fernandez-Armesto, Felipe (2017). The Medieval Frontiers of Latin Christendom. United Kingdom: Taylor & Francis 
  26. ^Leon Poliakov,The Aryan Myth: A History of Racist and Nationalist Ideas in Europe, trans. E. Howard (Basic Books, 1974), pp. 21–22, cited in Fernandez-Armesto (2017)
  27. ^Walker, Paul Robert,The Feud that sparked the Renaissance: How Brunelleschi and Ghiberti Changed the Art World (New York, Perennial-Harper Collins, 2003)
  28. ^abRietbergen, P. J. A. N. (2000). A Short History of the Netherlands: From Prehistory to the Present Day (4th ed.). Amersfoort: Bekking. pp. 59. ISBN 90-6109-440-2. OCLC 52849131 
  29. ^Reynolds & Wilson 1974, pp. 113–123
  30. ^Reynolds & Wilson 1974, pp. 123, 130–137
  31. ^Truxillo, Charles A. (2008). Periods of World History: A Latin American Perspective. Jain Publishing Company. ISBN 978-0-89581-863-8. https://books.google.com/books?id=71LfAfvseeYC&dq=Periods%20of%20World%20History%3A%20A%20Latin%20American%20Perspective&pg=PP1 
  32. ^Grousset, René (1970). The Empire of the Steppes: A History of Central Asia. Rutgers University Press. ISBN 978-0-8135-1304-1. https://books.google.com/books?id=CHzGvqRbV_IC&dq=%27%27The%20Empire%20of%20the%20Steppes%3A%20A%20History%20of%20Central%20Asia%27%27%2C&pg=PP1 
  33. ^Harris, Michael H.History of Libraries in the Western World, Scarecrow Press, 1999, p. 145,ISBN 0810837242.
  34. ^Western Civilization: Ideas, Politics, and Society, Marvin Perry, Myrna Chase, Margaret C. Jacob, James R. Jacob, 2008, pp. 261–262.
  35. ^Reynolds & Wilson 1974, pp. 119, 131
  36. ^Kirshner, Julius,Family and Marriage: A socio-legal perspective,Italy in the Age of the Renaissance: 1300–1550, ed. John M. Najemy (Oxford University Press, 2004) p. 89 (Retrieved 10 May 2007)
  37. ^Burckhardt, Jacob,The Revival of Antiquity,The Civilization of the Renaissance in ItalyArchived 7 April 2007 at theWayback Machine. (trans. by S.G.C. Middlemore, 1878)
  38. ^abSkinner, Quentin,The Foundations of Modern Political Thought, vol I:The Renaissance; vol II:The Age of Reformation, Cambridge University Press, p. 69
  39. ^Stark, Rodney,The Victory of Reason, New York, Random House, 2005
  40. ^Martin, J. and Romano, D.,Venice Reconsidered, Baltimore, Johns Hopkins University, 2000
  41. ^abBurckhardt, Jacob,The Republics: Venice and Florence,The Civilization of the Renaissance in ItalyArchived 7 April 2007 at theWayback Machine., translated by S.G.C. Middlemore, 1878.
  42. ^Barbara Tuchman (1978)A Distant Mirror, KnopfISBN 0394400267.
  43. ^The End of Europe's Middle Ages: The Black DeathArchived 9 March 2013 at theWayback Machine. University of Calgary website. (Retrieved 5 April 2007)
  44. ^Netzley, Patricia D.Life During the Renaissance. San Diego: Lucent Books, Inc., 1998.
  45. ^Hause, S. & Maltby, W. (2001).A History of European Society. Essentials of Western Civilization (Vol. 2, p. 217). Belmont, CA: Thomson Learning, Inc.
  46. ^"Renaissance And Reformation France" Mack P. Holt pp. 30, 39, 69, 166
  47. ^Hatty, Suzanne E.; Hatty, James (1999). Disordered Body: Epidemic Disease and Cultural Transformation. SUNY Press. p. 89. ISBN 978-0791443651. https://books.google.com/books?id=V0yJQXmGODgC&pg=PA89 
  48. ^abBurckhardt, Jacob,The Development of the Individual,The Civilization of the Renaissance in ItalyArchived 3 October 2008 at theWayback Machine., translated by S.G.C. Middlemore, 1878.
  49. ^Stephens, J.,Individualism and the cult of creative personality,The Italian Renaissance, New York, 1990 p. 121.
  50. ^Guido Carocci, I dintorni di Firenze, Vol. II,Galletti e Cocci, Firenze, 1907, pp. 336–337
  51. ^Burke, P., "The spread of Italian humanism", inThe Impact of Humanism on Western Europe, ed. A. Goodman and A. MacKay, London, 1990, p. 2.
  52. ^As asserted by Gianozzo Manetti inOn the Dignity and Excellence of Man, cited in Clare, J.,Italian Renaissance.
  53. ^Oration on the Dignity of Man”. Reading About the World, Volume 1. 2011年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年11月7日閲覧。
  54. ^Miller, John H.. Ibn Khaldun and Machiavelli : an examination of paradigms. OCLC 11117374 
  55. ^Religion and Political Development: Some Comparative Ideas on Ibn Khaldun and Machiavelli by Barbara Freyer Stowasser
  56. ^Hause, S. & Maltby, W. (2001).A History of European Society. Essentials of Western Civilization (Vol. 2, pp. 245–246). Belmont, CA: Thomson Learning, Inc.
  57. ^Murray, Stuart (2009). The Library: An Illustrated History. Skyhorse Publishing. pp. 88 
  58. ^Clare, John D. & Millen, Alan,Italian Renaissance, London, 1994, p. 14.
  59. ^Stork, David G.Optics and Realism in Renaissance ArtArchived 14 June 2007 at theWayback Machine. (Retrieved 10 May 2007)
  60. ^Vasari, Giorgio,Lives of the Artists, translated by George Bull, Penguin Classics, 1965,ISBN 0140441646.
  61. ^Peter Brueghel Biography, Web Gallery of Art (Retrieved 10 May 2007)
  62. ^Hooker, Richard,Architecture and Public SpaceArchived 22 May 2007 at theWayback Machine. (Retrieved 10 May 2007)
  63. ^Saalman, Howard (1993). Filippo Brunelleschi: The Buildings. Zwemmer. ISBN 978-0271010670 
  64. ^Hause, S. & Maltby, W. (2001).A History of European Society. Essentials of Western Civilization (Vol. 2, pp. 250–251). Belmont, CA: Thomson Learning, Inc.
  65. ^Woodward, David (2007). The History of Cartography, Volume Three: Cartography in the European Renaissance. Chicago and London: University of Chicago Press. ISBN 978-0226907338 
  66. ^"...1492年にコロンブスがアメリカを発見する以前には、『発見』という明確に画定され十分に確立した観念は存在しなかった。――この『発見』という観念は、後に明らかになるように、科学の発明の前提条件である。……アメリカの発見は、1492年以前に一般に受け入れられていた世界についての中心的な主張を反証した。……これこそが、その後に続く天文学革命の決定的な前提条件となった。" Wootton, David.The Invention of Science: A New History of the Scientific Revolution (Penguin, 2015) . xiv + 769 pp.ISBN 0-06-175952-X
  67. ^Ferdinand Magellan”. library.princeton.edu. Princeton University Library (2010年). 2024年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月9日閲覧。
  68. ^Redondo, J.M.G., & Martín, J.M.M. (2021).Making a Global Image of the World: Science, Cosmography and Navigation in Times of the First Circumnavigation of Earth, 1492–1522.Spanish National Research Council. Culture & History Digital Journal. 10(2).ISSN 2253-797X
  69. ^Cameron-Ash, M. (2018). Lying for the Admiralty: Captain Cook's Endeavour Voyage. Sydney: Rosenberg. pp. 19–20. ISBN 978-0648043966 
  70. ^"Columbus and Vesalius – The Age of Discoverers".JAMA. 2015;313(3):312.doi:10.1001/jama.2014.11534
  71. ^Allen Debus,Man and Nature in the Renaissance (Cambridge: Cambridge University Press, 1978).
  72. ^Butterfield, Herbert,The Origins of Modern Science, 1300–1800, p. viii
  73. ^Shapin, Steven.The Scientific Revolution, Chicago: University of Chicago Press, 1996, p. 1.
  74. ^abBrotton, J., "Science and Philosophy",The Renaissance: A Very Short Introduction,Oxford University Press, 2006ISBN 0192801635.
  75. ^Van Doren, Charles (1991)A History of Knowledge Ballantine, New York,pp. 211–212,ISBN 0345373162
  76. ^Burke, Peter (2000)A Social History of Knowledge: From Gutenberg to Diderot Polity Press, Cambridge, Massachusetts,p. 40,ISBN 0745624847
  77. ^Hunt, Shelby D. (2003). Controversy in marketing theory: for reason, realism, truth, and objectivity. M.E. Sharpe. p. 18. ISBN 978-0765609328. https://books.google.com/books?id=07lchJbdWGgC 
  78. ^Catholic Encyclopedia,Western Schism (Retrieved 10 May 2007)
  79. ^Catholic Encyclopedia,Alexander VI (Retrieved 10 May 2007)
  80. ^abMommsen, Theodore E. (1942). “Petrarch's Conception of the 'Dark Ages'”. Speculum 17 (2): 226–242. doi:10.2307/2856364. JSTOR 2856364. 
  81. ^Leonardo Bruni, James Hankins,History of the Florentine people, Volume 1, Books 1–4 (2001), p. xvii.
  82. ^Albrow, Martin,The Global Age: state and society beyond modernity (1997), Stanford University Press,p. 205ISBN 0804728704.
  83. ^abPanofsky, Erwin.Renaissance and Renascences in Western Art, New York: Harper and Row, 1960.
  84. ^The Open University Guide to the Renaissance,Defining the RenaissanceArchived 21 July 2009 at theWayback Machine. (Retrieved 10 May 2007)
  85. ^Sohm, Philip.Style in the Art Theory of Early Modern Italy (Cambridge: Cambridge University Press, 2001)ISBN 0521780691.
  86. ^Foundation, Poetry (2024年1月16日). “The English Renaissance” (英語). Poetry Foundation. 2024年1月17日閲覧。
  87. ^Art in Renaissance England” (英語). obo. 2024年1月18日閲覧。
  88. ^A Brief History of Architecture in Britain”. University of Southampton. 2025年11月7日閲覧。
  89. ^The Scientific Revolution” (英語). Historic UK. 2024年1月17日閲覧。
  90. ^Klein, Jürgen (2012), Zalta, Edward N., ed., Francis Bacon (Winter 2016 ed.), Metaphysics Research Lab, Stanford University, オリジナルの22 October 2019時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20191022212025/https://plato.stanford.edu/archives/win2016/entries/francis-bacon/ 2020年1月17日閲覧。 
  91. ^abMichelet, Jules.History of France, trans. G.H. Smith (New York: D. Appleton, 1847)
  92. ^Vincent Cronin (2011). The Florentine Renaissance. Random House. ISBN 978-1446466544. https://books.google.com/books?id=aU8z-Sge6WgC 
  93. ^Strauss, Gerald (1965). “The Religious Renaissance of the German Humanists”. English Historical Review 80 (314): 156–157. doi:10.1093/ehr/LXXX.CCCXIV.156. JSTOR 560776. 
  94. ^Louis A. Waldman; Péter Farbaky; Louis Alexander Waldman (2011). Italy & Hungary: Humanism and Art in the Early Renaissance. Villa I Tatti. ISBN 978-0674063464. https://books.google.com/books?id=l-OKuQAACAAJ 
  95. ^Hungary (4th ed.) Authors: Zoltán Halász / András Balla (photo) / Zsuzsa Béres (translation) Published by Corvina, in 1998ISBN 9631341291,9631347273
  96. ^the influences of the florentine renaissance in hungary”. Fondazione-delbianco.org. 2009年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月31日閲覧。
  97. ^History section: Miklós Horler: Budapest műemlékei I, Bp: 1955, pp. 259–307
  98. ^Post-war reconstruction: László Gerő: A helyreállított budai vár, Bp, 1980, pp. 11–60.
  99. ^abCzigány, Lóránt,A History of Hungarian Literature, "The Renaissance in Hungary" (Retrieved 10 May 2007)
  100. ^Marcus Tanner, The Raven King: Matthias Corvinus and the Fate of his Lost Library (New Haven: Yale U.P., 2008)
  101. ^Documentary heritage concerning Hungary and recommended for inclusion in the Memory of the World International Register. portal.unesco.org
  102. ^E. Kovács 1990, pp. 177, 180–181.
  103. ^abcEngel 2001, p. 319.
  104. ^E. Kovács 1990, pp. 180–181.
  105. ^Kubinyi 2008, pp. 171–172.
  106. ^Kubinyi 2008, p. 172.
  107. ^E. Kovács 1990, p. 181.
  108. ^Klaniczay 1992, p. 168.
  109. ^Kubinyi 2008, p. 183.
  110. ^Franz-Joachim Verspohl(),Michelangelo Buonarroti und Leonardo Da Vinci: Republikanischer Alltag und Künstlerkonkurrenz in Florenz zwischen 1501 und 1505 (Wallstein Verlag, 2007), p. 151.
  111. ^abKlaniczay 1992, p. 166.
  112. ^abCartledge 2011, p. 67.
  113. ^E. Kovács 1990, p. 185.
  114. ^Klaniczay 1992, p. 167.
  115. ^Engel 2001, p. 321.
  116. ^Hendrix 2013, p. 59.
  117. ^Hendrix 2013, pp. 63, 65.
  118. ^Tanner 2009, p. 99.
  119. ^abHeughebaert, H.; Defoort, A.; Van Der Donck, R. (1998). Artistieke opvoeding. Wommelgem, Belgium: Den Gulden Engel bvba.. ISBN 978-9050352222 
  120. ^Janson, H.W.; Janson, Anthony F. (1997). History of Art (5th, rev. ed.). New York: Harry N. Abrams, Inc.. ISBN 978-0810934429. http://www.abramsbooks.com 
  121. ^abLáng, Paul Henry (1939). “The So Called Netherlands Schools”. The Musical Quarterly 25 (1): 48–59. doi:10.1093/mq/xxv.1.48. JSTOR 738699. 
  122. ^Renæssance i Europa og Danmark” (デンマーク語). Nationalmuseet. 2023年11月24日閲覧。
  123. ^Wootton, David (2015). The Invention of Science: A New History of the Scientific Revolution (First U.S. ed.). New York, NY: HarperCollins. ISBN 978-0-06-175952-9. OCLC 883146361 
  124. ^Tycho Brahe, 1546-1601” (デンマーク語). danmarkshistorien.dk. 2023年11月24日閲覧。
  125. ^Painting in Oil in the Low Countries and Its Spread to Southern Europe,Metropolitan Museum of Art website. (Retrieved 5 April 2007)
  126. ^Celenza, Christopher (2004),The Lost Italian Renaissance: Humanists, Historians, and Latin's Legacy. Baltimore, Johns Hopkins University Press
  127. ^Rundle, David (2012). Humanism in fifteenth-century Europe. Oxford: The Society for the Study of Medieval Languages and Literature. p. 143. ISBN 9780907570400 
  128. ^Suchodolski, Bogdan (1973). Poland, the Land of Copernicus. Wrocław: Ossolineum, Polska Akademia Nauk PAN. p. 150. OCLC 714705 
  129. ^Bona Sforza (1494–1557)Archived 6 May 2014 at theWayback Machine.. poland.gov.pl (Retrieved 4 April 2007)
  130. ^For example, the re-establishment ofJagiellonian University in 1364.Waltos, Stanisław (2002年10月31日). “The Past and the Present”. Uniwersytet Jagielloński. 2002年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年11月7日閲覧。
  131. ^HISTORIA ARCHITEKTURY EUROPEJSKIEJ TYLKO DLA ORŁÓW - SKRÓT”. www.historiasztuki.com.pl. 2025年11月7日閲覧。
  132. ^Koyama, Satoshi (2007). “Chapter 8: The Polish–Lithuanian Commonwealth as a Political Space: Its Unity and Complexity”. In Hayashi, Tadayuki; Fukuda, Hiroshi. Regions in Central and Eastern Europe: Past and Present. Slavic Research Center, Hokkaido University. pp. 137–153. ISBN 978-4-938637-43-9. オリジナルの25 February 2020時点におけるアーカイブ。. http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no15_ses/08_koyama.pdf 2019年5月23日閲覧。 
  133. ^Phillip Hewett,Racovia: An Early Liberal Religious Community, Providence, Blackstone Editions, 2004, p.20-21.
  134. ^Norman Davies, God's Playground: A History of Poland in Two Volumes, Oxford University Press, 2005,ISBN 0-19-925339-0, p.262
  135. ^abPortuguese Overseas Travels and European Readers”. Portugal and Renaissance Europe. The John Carter Brown Library Exhibitions, Brown University. 2011年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月19日閲覧。
  136. ^Bergin, Thomas G.; Speake, Jennifer, eds (2004). Encyclopedia of the Renaissance and the Reformation. Infobase Publishing. ISBN 978-0816054510. https://books.google.com/books?id=VOb4hIp7EE8C&pg=PP1 
  137. ^Bergin, Thomas G.; Speake, Jennifer (2004). Encyclopedia of the Renaissance and the Reformation. Infobase Publishing. p. 490. ISBN 978-0816054510. https://books.google.com/books?id=VOb4hIp7EE8C&pg=PP490 
  138. ^Bietenholz, Peter G.; Deutscher, Thomas Brian (2003). Contemporaries of Erasmus: a biographical register of the Renaissance and Reformation, Volumes 1–3. University of Toronto Press. p. 22. ISBN 978-0802085771. https://books.google.com/books?id=hruQ386SfFcC&pg=RA1-PA22 
  139. ^Lach, Donald Frederick (1994). Asia in the making of Europe: A century of wonder. The literary arts. The scholarly disciplines. University of Chicago Press. ISBN 978-0226467337. https://books.google.com/books?id=hhE3sPY78s0C&pg=PA6 2011年7月15日閲覧。 
  140. ^Defining the Renaissance, Open University”. Open.ac.uk. 2008年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月31日閲覧。
  141. ^Burckhardt, Jacob.The Civilization of the Renaissance in ItalyArchived 21 September 2008 at theWayback Machine. (trans. S.G.C. Middlemore, London, 1878)
  142. ^Gay, Peter,Style in History, New York: Basic Books, 1974.
  143. ^Burckhardt, Jacob. “The Civilization of the Renaissance in Italy”. 2008年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月31日閲覧。
  144. ^Girolamo Savonarola's popularity is a prime example of the manifestation of such concerns. Other examples includePhilip II of Spain's censorship of Florentine paintings, noted by Edward L. Goldberg, "Spanish Values and Tuscan Painting",Renaissance Quarterly (1998) p. 914
  145. ^Renaissance ForumArchived 14 June 2012 at theWayback Machine. atHull University, Autumn 1997 (Retrieved 10 May 2007)
  146. ^Lopez, Robert S. & Miskimin, Harry A. (1962). “The Economic Depression of the Renaissance”. Economic History Review 14 (3): 408–426. doi:10.1111/j.1468-0289.1962.tb00059.x. JSTOR 2591885. 
  147. ^Thorndike, Lynn; Johnson, F.R.; Kristeller, P. O.; Lockwood, D.P.; Thorndike, L. (1943). “Some Remarks on the Question of the Originality of the Renaissance”. Journal of the History of Ideas 4 (1): 49–74. doi:10.2307/2707236. JSTOR 2707236. 
  148. ^Kelly-Gadol, Joan. "Did Women Have a Renaissance?"Becoming Visible: Women in European History. Edited by Renate Bridenthal and Claudia Koonz. Boston: Houghton Mifflin, 1977.
  149. ^Stephen GreenblattRenaissance Self-Fashioning: From More to Shakespeare,University of Chicago Press, 1980.
  150. ^Osborne, Roger (2006). Civilization: a new history of the Western world. Pegasus Books. pp. 180–. ISBN 978-1933648194. https://archive.org/details/00book2095698803 2011年12月10日閲覧。 
  151. ^Panofsky,Renaissance and Renascences in Western Art 1969:38; Panofsky's chapter "'Renaissance – self-definition or self-deception?" succinctly introduces the historiographical debate, with copious footnotes to the literature.
  152. ^Haskins, Charles Homer,The Renaissance of the Twelfth Century, Cambridge: Harvard University Press, 1927ISBN 0674760751.
  153. ^Hubert, Jean,L'Empire carolingien (English:The Carolingian Renaissance, translated by James Emmons, New York: G. Braziller, 1970).
  154. ^「医学の歴史」pp139 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷
  155. ^ハワード・R・ターナー、久保儀明訳「図説科学で読むイスラム文化」青土社、2001年

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ルネサンスに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
時代別
中世
ルネサンス
17世紀
18世紀
19世紀
20世紀前半
20世紀後半
21世紀
地域
領域
公共
関連項目
絵画材料
代表的な技法・材料
代表的な支持体
ポータルPortal:美術コモンズコモンズ
国立図書館
その他
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ルネサンス&oldid=107144041」から取得
カテゴリ:
隠しカテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp