| ライオネス飛鳥 Lioness Asuka | |
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| プロフィール | |
| リングネーム | ライオネス飛鳥 北村 智子 |
| 本名 | 北村 智子 |
| ニックネーム | トモさん |
| 身長 | 170cm |
| 体重 | 70kg |
| 誕生日 | (1963-07-28)1963年7月28日(62歳) |
| 出身地 | 埼玉県蓮田市[1] |
| トレーナー | 山崎照朝 |
| デビュー | 1980年5月10日 |
| 引退 | 2005年4月3日 |
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ライオネス飛鳥(ライオネスあすか、本名:北村 智子(きたむら ともこ)、1963年7月28日 - )は、日本の元女子プロレスラー、タレント、実業家。東京都練馬区生まれ[2]、埼玉県蓮田市育ち。パーフィットプロダクション所属。
蓮田市立黒浜中学校を経て、埼玉県立蓮田高等学校を中退後、1980年に全日本女子プロレスに入団する。入団テストではトップの成績で、すぐれた運動神経であり、技もすぐに覚えるエリートであった。[3]同年5月10日に同期の奥村ひとみ、師玉美代子との巴戦でデビュー。後にリングネームを改めて[4]、後に親友となる長与千種とのクラッシュギャルズで一大ブームを巻き起こす。1981年には全日本ジュニア王座、1982年には全日本シングル王座を獲得した。1984年8月にはクラッシュギャルズがWWWA世界タッグ王座を獲得、さらに8月、「炎の聖書」で歌手デビュー。1989年夏に現役を引退。
引退後は女子プロレスの解説をしながらタレント活動を始め、1990年には「のぞみウィッチィズ」で映画デビュー。また日本自動車連盟(JAF)の国際A級ライセンスを取得し、カーレースにも出場。1994年11月に行われた全女の東京ドーム大会にて女子プロレスラーとして現役復帰、ジャガー横田・バイソン木村と共に『ライディーン・アレイ』を結成するが、ブランクと甲状腺疾患による体調不良から思うように試合が出来ず、苦しい日々を過ごす。
その後、吉本女子プロレスJd'にフリーとして戦いの場を移し、ブランクと甲状腺疾患を克服しヒールに転向。イーグル沢井やシャーク土屋と組み、Jd'のみならず、FMWやLLPWでも活躍の場を広げる。この時期に幾度となく繰り広げられた井上京子とのハードコアシングルマッチは評価が高い。1995年にはWWE(当時WWF)のPPV・サバイバー・シリーズに出場し、モンスター・リッパーやアジャ・コングとチームを組んで井上京子やチャパリータASARIらとの激戦を全米に披露。1998年12月27日後楽園ホール大会にてGAEA JAPAN初登場。1999年4月4日、9月15日に行なわれた長与千種との2度に渡る凄絶なシングルマッチを経て、2000年3月12日に再結成を宣言。2000年5月14日に行なわれたGAEA旗揚げ5周年記念有明コロシアム大会で「クラッシュ2000」として再始動。この有明大会での観客動員数は8,000人を超え、クラッシュ復活を観ようと観戦バスツアーも組まれた。その後はアルシオンに参戦し、浜田文子からクイーン・オブ・アルシオンのベルトを奪う。アルシオン消滅後は主にGAEAに活動の場を戻すが、首の故障(脊柱管狭窄症と指定難病の靭帯骨化症[5])により2004年11月3日の後楽園ホール大会で引退を発表。2005年4月3日、GAEA JAPAN横浜文化体育館大会を最後に現役を引退した。
選手生命の限界を医師から告げられ、セカンドキャリアを考え始めた2003年、親交のあった元女子シュートボクシング選手の仁あきらが経営していた会員制ラウンジが銀座にも出店するにあたりスタッフとして勤務を始め、約2年ほど銀座の流儀や水商売の経営を学ぶ[6]。2006年3月1日、銀座に会員制スナック「gangs」を開店。
2017年8月には両膝の人工関節手術を行った[7]。
2023年現在、スナック経営の他、GAORAなどでの解説を主とするタレント活動をしている。
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