この項目では、オートバイメーカーについて説明しています。
ヤマハ発動機株式会社 (ヤマハはつどうき、英 :Yamaha Motor Co., Ltd. )は、静岡県 磐田市 に本社を置く、世界的な輸送用機器 メーカー。二輪車、マリン製品、ロボティクス、IoTサービス、金融サービスなどの事業を約180の国と地域で展開する多国籍企業 である。
モビリティ分野を基盤に事業を多角的に展開、海外売上比率は国内トップであり、グローバルに事業規模を拡大している。オートバイ の販売台数、売上高は世界第2位[ 3] 、プレジャーボート や船外機 では世界首位[ 4] 、半導体製造装置 のチップマウンター で世界第2位の市場シェアを持つ[ 5] 。
楽器 や半導体 、音響機器 を製造するヤマハ (静岡県 浜松市 )を源流とするが、現在は両社とも独立した別会社である。日経平均株価 およびJPX日経インデックス400 の構成銘柄の一つ[ 6] [ 7] 。
大正時代 に大日本帝国陸軍 からの要請で軍用航空機 関連機器を製造していた日本楽器製造(現ヤマハ )が、戦後 の技術と製造設備の平和利用を目的とした設備返還を受けて、オートバイの生産を開始したことが起源である[ 8] 。
オートバイ の市場シェア及び販売台数はホンダ に次ぐ世界第2位、船舶 ・船外機 では世界首位である。他にも、世界初の電動アシスト自転車 「PAS 」をはじめとする電動自転車・バイクなどのEV、スノーモビル 、バギー 、ゴルフカー などのレジャービークル、産業用ロボット 、表面実装機 などの産業機器、農業用無人航空機 、さらには除雪機、浄水器、新規事業投資など多岐にわたる領域で事業を展開している。世界180ヵ国以上に製造・販売拠点を広げる多国籍企業 でもあり、海外売上高比率は約94%にのぼる。ヤマハ発動機における2023年12月の売上高構成比は、連結ベースで北米が26.7%、欧州が13.2%、アジアが39.6%、日本が5.9%、その他が14.6%である[ 9] 。
2014年より、日本取引所グループ と日本経済新聞 が「財務や経営が優秀な上場企業の上位400社」として選定しインデックス化するJPX日経インデックス400 の構成銘柄に採用される。2016年8月1日よりシャープ に変わり日経平均株価 の銘柄に採用される。クラリベイト・アナリティクス(旧トムソン・ロイター )による「トップ100 グローバル・イノベーター2016」に、分離独立元のヤマハ のほか、ソニー 、富士通 、トヨタ自動車 など34の日本企業と共に選出された[ 10] 。
2005年度の決算ではヤマハとの比較でヤマハ発動機の売上高が倍以上の数字となった。こうした時価総額の関係およびヤマハが持分法適用会社 としていることから、間接的買収の対象となりやすい状況にあった。このため2007年 5月 にヤマハがヤマハ発動機の株式を売却することにより、ヤマハの持分法適用対象から外れた。一方、ヤマハ発動機がヤマハの株式を5%取得することになった。2021年8月、ヤマハ株式会社は保有するヤマハ発動機の株式5.43%を売却し、売却後の保有割合は4.47%となった。
2008年の中華人民共和国 、四川大地震 における支援活動の功績により、2010年 (平成22年)に紺綬褒章 を授与されている[ 11] 。
ヤマハ発動機は日本楽器製造(現在のヤマハ )の二輪部門が独立して誕生した企業であり、ロゴタイプ に共通点が存在する。1898年 に制定された「音叉をくわえた鳳凰図」からつながる、音叉 を組み合わせたロゴタイプである。3つの音叉がロゴの外円に重なっているが、これはバイクのホイールをイメージしたデザインである。
ヤマハ株式会社とヤマハ発動機株式会社のロゴタイプ の差異について、両者は細部に下記の違いがある[ 12] 。
異なる点 ヤマハ ヤマハ発動機 音叉マーク 音叉の先端が外円の内側に収まる 音叉の先端が外円に重なる 「YAMAHA」ロゴ "M"の文字の中央部分が下(ベースライン)に付いていない "M"の文字の中央部分が下に付いている 各アルファベット の文字の形が極く僅かだが左右非対称 各アルファベットの文字の形が左右対称 コーポレートカラー バイオレット (薄紫色■ )赤色 ■
主要5事業のほか多数の事業を、約180の国と地域で展開する。海外売上比率は94%で、売上高1兆円以上の企業の中で村田製作所 を抜き国内トップの比率である。日本 を含む東アジア のほか、南アジア と東南アジア のアジア地域 、ヨーロッパ 、南北アメリカ 、オセアニア 、アフリカ に116社の海外子会社を持つ。
オートバイ 事業は、1955年 の創業以来の主要事業であり、アジア、欧州、北米を中心にグローバルな生産・販売ネットワークを展開している。特にアジア市場では、インドネシア、タイ、インドをはじめとする新興国でのシェアが高い。一方で欧州・北米市場では、スポーツモデル やツーリングモデル などのプレミアムモデルを中心にした販売を行い、MotoGP やSBK などのモータースポーツ活動も積極的に展開している[ 13] 。水素 やe-fuel といった次世代燃料車両にも積極的である[ 14] 。
マリン事業では、船舶関連 事業で高い世界シェアを誇る。特にプレジャーボート と船外機 では、市場シェアが約40%であり、これは世界トップシェアである[ 15] 。製品の販売以外にも、船体と操船システムを統合制御するIoT分野への進出や、「シースタイル」などのシェアリングビジネス も展開する[ 16] [ 17] 。
ロボディクス事業では、産業用無人航空機 のパイオニアであり現在も世界大手、半導体 後工程では、表面実装工程 に使用されるチップマウンター で主要メーカーのうち唯一工程機械をフルラインナップで販売している。近年では、協働ロボットや自動搬送システムなどのインテリジェンスファクトリーの導入も行っている[ 18] [ 19] 。
自動車エンジン関連では、従来よりエンジンの生産請負をしてきたトヨタ自動車 の他にも、販路をフォード グループへ拡大。ハイパフォーマンスV型エンジン 「SHO」(Super High Output)を開発し、トーラス等に採用している。また、パフォーマンスダンパーと呼ばれる車体性能向上装置や相互連携ショックアブソーバシステムなどを開発している。自社ブランドによる自動車事業への参入も何度か検討され、1992年 発表のOX99-11 では実際に発売寸前まで事業が進められたこともある。2013年11月には試作車「MOTIV 」の公開とともに自動車事業への参入の意向が改めて示された[ 20] が、2018年、普通乗用車事業参入の凍結が発表された[ 21] 。
コンセプトモデル 「デザインのヤマハ」と呼ばれ、流麗なフォルムと細部の繊細な設計に対して高い評価を得ている。オートバイ・YA-1 をはじめデザインを外注している製品も多く、全方位推進システムの搭載によりガンネルのないデザインを採用したヨット・EXULTや、独自の三輪機構を備えるオートバイ・トリシティ などに見られるように、先進技術を積極的に製品に落とし込んだデザインも特徴である。日本のグッドデザイン賞 やドイツのレッド・ドット・デザイン賞 をはじめ、国内外の多くのデザイン賞を受賞している[ 22] 。
また、主に二輪製品においては「ハンドリングのヤマハ」との異名を持つ。レースでのコーナリング性能の高さからその名が広まった。高速走行時のハンドリングのみならず、モビリティと人の共鳴を軸に開発している点が特徴である。先述したトリシティ に代表されるように、高性能な先進技術とハンドリングの高次元での両立は他社にない独特の強みである。
ヤマハ発動機のルーツであるYA-1 山葉寅楠 が1897年 (明治 30年)に設立した日本楽器製造株式会社 (現ヤマハ 、本社:静岡県 浜松市 )を源流とし、帝国陸軍 からの要請により、1921年 (大正10年)から軍用航空機 の木製・金属製プロペラ 及び航空機用試作エンジンの製造を開始した。
第二次世界大戦 後の1953年 (昭和 28年)11月、ピアノ と軍用航空機の製作における剛性・弾性制御の鋳造 ・機械加工 技術とノウハウ、そして製造設備の平和利用の検討を受け[ 23] 、社内で初めてのオートバイ「ヤマハ・YA-1 」の製作を開始。翌1954年 (昭和29年)に試作車第1号が完成し、さらに1年後の1955年 (昭和30年 )2月に製造・出荷が開始された。黒一色が主流だった当時のオートバイの中で、マルーンとアイボリーというモダンなツートンカラーを採用し、これが現代に繋がる「デザインのヤマハ」の原点となる。同7月1日に二輪車部門が独立する形でヤマハ発動機株式会社 が設立された[ 24] 。
当時、国内には200近い数のオートバイ製造メーカーが存在し、ヤマハ発動機はオートバイメーカーとしては最後発であった。新興メーカーであるがゆえに販売網の拡大には苦労し、「レースで技術力をアピールして知名度を高める」という戦略で販路拡大を狙った。1号車発売からわずか5か月後の第3回富士登山レースに参戦し、1〜8位を独占。設立と同じ1955年から始まった全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間高原火山レース) にはレースの3ヶ月前から合宿練習を行う必勝体制で臨み、125㏄クラスでホンダ 、スズキ を抑えて1位から3位までを独占した。この上位独占によって販路拡大戦略は成功し、耐久ロードレース以前は月産300台程度であった生産台数はレース後すぐに月産1000台を突破した。国産二輪車の技術力を高め世界躍進の足掛けとなるものであった[ 25] 。
トヨタ自動車との共同開発で生まれた2000GT 初代社長の川上源一 は欧米視察で水上レジャーが盛んに行われている光景を目の当たりにし、将来日本にもこうしたレジャーが来ると確信。帰国後、川上は水上レジャーの本質を知るために自らクルーザーを所有し、浜名湖でのセーリングを楽しんでいた。クルーザーには当時メジャーブランドであったアメリカ製の船外機が搭載されていたが、故障が多いものであった。国産品に載せ替えると、今度は故障こそ少ないものの性能面ではアメリカ製に遠く及ばない。そこで川上は「無いものなら造ろう」と船外機の製造を決断、マリン事業への進出を決めた。1960年 (昭和35年)に初のマリンエンジン「P-7」を発売した。オートバイの小型エンジンをベースに様々な部品を共通化したこの製品は、レジャー向けだけでなく漁業にも重点を置いて作られた。これは当時の日本の社会状況を見越した判断であり、高度経済成長期 初期の家電化が始まったばかりの日本にはレジャーボートの需要はなく、代わりに動力化の兆しが見えてきた漁船などの業務需要を当面の対象とするようにと川上が指示したためである。翌1961年 (昭和36年)には、国産船外機初のダイキャスト を採用した「P-3」を発売[ 26] 。
また、川上は学生時代の弓道 をしていた経験から、海外視察の際に繊維強化プラスチック(FRP) 製のアーチェリー 用弓 に注目。その弓の精度の高さに驚き、帰国後の1959年 に国産初のFRP製アーチェリー弓を完成させた。川上が「日本アーチェリーの父 」とも称される由来となる出来事であったが、このFRP素材の開発がプレジャーボート やプール 事業進出のきっかけとなった。1960年 には、日本の海洋 レジャー 興隆のきっかけとなったFRPボート「RUN-13」と「CAT-21」を発売した[ 27] 。
陸上輸送機器の分野では、1959年 に設立した『ヤマハ技術研究所』で、安川力を主任とする研究室が四輪車の試作を行っており、世界初の全アルミ製エンジンを製作するなど意欲的にスポーツカー開発に挑戦していた。しかし四輪車の発売に至ることは出来ず、さらに当時発売していたスクーターのクレーム対応に追われるなど会社の経営難も重なり、1962年に技術研究所と安川研究室は解散させられた[ 28] 。川上はなんとか安川たちの熱意に応えるべく、銀行を仲介して日産自動車 との提携による四輪開発に持ち込み、こうして日産主導の下に、安川研究室は再び初代日産・シルビア の原型ともいえるコンセプトカー 「ダットサン クーペ1500」や、高性能スポーツカー「A550X」に携わった[ 29] 。しかしこの計画も日産側の事情により1964年 (昭和39年)半ばに頓挫。そんな中、自社のスポーツモデルを持たず製造にも苦戦していたトヨタ自動車 とニーズが一致し、共同開発でのスポーツカー製造が決定した。「トヨタ・2000GT 」は1967年 から1970年 までの3年間で337台が生産され、その先進的装備と生産台数の少なさから「国産車初のスーパーカー 」と呼ばれた[ 30] 。その後、製造技術や品質の高さから自動車エンジンの製造・組み立て事業を本格化した。
SR400/500(1978年) 世界初の電動アシスト自転車「PAS」 1962年 、鈴鹿サーキット で行われた第1回全日本ロードレース選手権 に参戦。初の市販ロードレーサー車両である「TD1」を投入し、250ccクラスで1位と2位、350ccクラスで1位を獲得した。この活躍を皮切りに、多くの世界選手権へ参戦。1953年 に、カタリナグランプリに国産メーカーとして初めて参戦。その後も2ストロークエンジン を駆使した車両で、1963年 のマン島TTレース では2位入賞、オランダグランプリでも125㏄と250㏄で2位入賞を果たし、ベルギーGPでは250ccクラスで国際大会での初優勝を飾った。その後、1964年 と1965年 の世界選手権で250ccクラスのメーカーチャンピオンに輝いた。同時に、販売の成功も印象的であり、1964年のタイと1968年のオランダを皮切りに最初の海外子会社を設立した。
1978年 、SRシリーズ のSR400とSR500を生産開始。4ストロークエンジン を採用したXT500 で得たノウハウをオンロードに応用したスポーツモデルで、時代の流行に左右されない普遍性のあるシンプルなスタイリング、単気筒ならではのトルクと鼓動感が独自のファン層を獲得した。発売から40年にわたって愛された屈指のロングセラーモデルとなった。1980年 には、初の3輪バギー「YT125」の生産を開始し、バギー (ATV)事業へ参入した[ 31] 。
1990年 に長期経営ビジョンを策定。同時に企業理念「感動創造企業 」を策定。1993年 、世界初の電動アシスト自転車 である「ヤマハ・PAS 」のシリーズ販売を開始。当初は、モーター が大きい、バッテリー が鉛蓄電池 という仕様であったため走行距離は公称約20kmという性能であったが、新しい乗り物として同業他社の本田技研工業 や異業種である電機メーカーの三洋電機 (現在のパナソニック )などの参入も促した[ 32] 。
2013年 に新ブランドスローガン「Revs your Heart 」を策定。エンジンの回転を意味する「Rev」を前面に掲げ、人々の心を高揚させるブランドへのさらなる注力を表現した。レーシングスピリットとイノベーションへの情熱を引き継ぎ、さらに加速させることで、価値の創造と感動的な体験を提供し、人々の生活を豊かにするという創業以来の精神を強く表現している[ 33] 。
2016年 10月5日に二輪車最大手のホンダ と国内の排気量50ccのスクーターの生産、開発で提携の検討を始めたと発表した[ 34] 。2018年をめどに子会社の台湾山葉機車工業 で製造している「ジョグ」と「ビーノ」をホンダの熊本製作所でOEM生産に切り替えて製造していくこととしている[ 35] 。
2016年12月7日に汎用エンジンにおいて、富士重工業(現・SUBARU )の一部技術資産と米国販売子会社を譲受することを発表した[ 36] 。2017年 9月末でSUBARUの事業が終息するため、譲渡完了は2017年10月1日付けとなる。
2017年4月、産業用ドローンのベンチャー企業との提携、および農機中堅のやまびこ と農薬散布ドローンの開発・販売で提携すると発表した[ 37] 。
2017年 11月7日、ヤマハ発動機とヤマハは、産業用ロボットの遠隔管理システムパッケージを共同開発し、2018年 度内の発売を目指すと発表した[ 38] 。これにより、ヤマハ発動機はFA(ファクトリーオートメーション)領域におけるIoTビジネスへ本格的に参入するという。
2019年 、半導体製造装置大手の新川とアピックヤマダを買収。ヤマハロボティクスホールディングス(現:ヤマハロボティクス) の傘下に納め、半導体製造工程のうち、後工程における唯一の一気通貫型の装置を提供する。[ 39] 。2025年 、ヤマハロボティクスホールディングス 傘下の統廃合を行い、ヤマハロボティクス株式会社とした[ 40] 。
2021年 3月、ホンダ、ヤマハ発動機、KTM (オーストリア)、ピアッジオ (イタリア)の4社は電動二輪車のUNECE 規格に沿った互換性のある交換式バッテリーの共同開発事業を立ち上げると発表した[ 41] [ 42] 。
2024年 には横浜市 西区 みなとみらい の横浜シンフォステージ に技術開発も担う横浜オフィスを開設し[ 43] [ 44] 、オフィス内には社外共創スペース 「YAMAHA MOTOR Regenerative Lab(通称:リジェラボ)」[ 45] を併設している[ 46] ほか、同ビルの低層商業ゾーンにeBike などの展示を行うショールーム 「YAMAHA E-Ride BASE 」[ 47] も設置している[ 43] 。
1998年から2025年まで使用されたヤマハ発動機のロゴ 創業70周年を迎えた2025年 にブランドロゴのデザインを変更し、デジタルでの活用を意識した2D(平面)の音叉マークを採用した[ 48] 。
取締役 取締役会長 渡部 克明 代表取締役社長 設楽 元文 社長執行役員 Chief Executive Officer 取締役 丸山 平二 常務執行役員 松山 智彦 上席執行役員 田代 祐子 独立社外取締役 大橋 徹二 独立社外取締役 Jin Song Montesano(ジン・ソン・モンテサーノ) 独立社外取締役 増井 敬二 独立社外取締役 Sarah L. Casanova(サラ・エル・カサノバ) 独立社外取締役 監査等役員 妻夫木 雅 常勤監査役 野田 武男 常勤監査役 米 正剛 河合 江理子 氏原 亜由美
執行役員 社長 設楽 元文 代表取締役社長 Chief Executive Officer 常務執行役員 丸山 平二 上席執行役員 松山 智彦 井端 俊彰 マリン事業本部長 海外市場開拓事業部担当 太田 裕之 ヤマハロボティクス(株)取締役会長 執行役員 広瀬 聡 社長付 野田 武男 社長付 西田 豊士 モーターサイクル車両開発本部長 植田 孝太郎 品質保証本部長(CQO) 横溝 晋 ランドモビリティ事業本部EV事業推進部長 鈴木 康高 ランドモビリティ事業本部長・ランドモビリティ事業本部MC事業部長 カスタマーエクスペリエンス事業担当 江頭 綾子 ソリューション事業本部長 橋本 満 人事総務本部長 企画・財務本部長 青田 元 経営戦略本部長(CSO)
Fellow フェロー(Fellow) 三宅 貴浩 経営戦略本部デジタルトランスフォーメーション担当 IT本部 本部長付
OMDO(国際協力) - 1970年代に、アフリカ で木造漁船や帆船をFRP製漁船や船外機に置き換え、漁業指導とあわせて漁業 の近代化に取り組んだことがはじまり。1991年には事業本部として活動を開始し、現在はアフリカ 、中東 、カリブ など140を超える国に事業を展開している[ 54] 。開発途上国を中心に、クリーンウォーターシステムによる生活支援活動、漁業支援・産業振興・治安維持・ビジネス提携による経済振興活動、オートバイ や船外機 などの製品販売活動までを行う[ 55] 。 レーシングロゴ 創業以来数々のレースで実績を納めており、モータースポーツ はヤマハ発動機のアイデンティティの一部である。
MotoGP絶対王者のバレンティーノ・ロッシ (2014年) 全日本ロードレース絶対王者の中須賀克行 モトクロス世界選手権絶対王者のステファン・エバーツ ダカール絶対王者のステファン・ペテランセル のXTZ850R(1995年) 1955年 (昭和30年)に日本国内レースである富士登山レース や浅間火山レース に出場し、ホンダ などの先行有力メーカーを抑えて優勝を収めた。
ロードレース世界選手権 には1961年から参戦を開始し、1964年に250ccクラスでチャンピオンを獲得。以降スズキ と並ぶ2ストロークエンジンの雄として、中小排気量クラスを席巻した。1969~1972年にワークス参戦を一時休止した後、1973年から最高峰クラスへ参戦。1975年にジャコモ・アゴスチーニ がライダースタイトル、翌1976年にはコンストラクターズタイトルを、いずれも日本メーカーとして初めて獲得する快挙を達成した。またさらに翌年の1977年には、日本人ライダー初のチャンピオン(350ccクラス、片山敬済 )も輩出している。以降はホンダ、スズキ、ドゥカティ と激しくタイトル争いを展開し、現在までワークス参戦を続けている。最高クラス(500cc→MotoGPクラス)ではこれまでにケニー・ロバーツ 、エディ・ローソン 、ウェイン・レイニー 、バレンティーノ・ロッシ 、ホルヘ・ロレンソ 、ファビオ・クアルタラロ がヤマハでチャンピオンとなっている。また日本人では原田哲也 が250ccチャンピオンとなった。
市販車ベースのレースでも好戦績を残しており、北米では1970年代に盛んであったフォーミュラ750がTZ750 のワンメイク状態になって、シリーズ自体を終焉させてしまったこともある。その後継となるAMAスーパーバイク /MotoAmericaでも、2010年~2020年の11年間に10度のチャンピオンを獲得している。国内でも全日本ロードレース選手権 や鈴鹿8時間耐久ロードレース で幾度も優勝する等数ある実績を築いている。スーパーバイク世界選手権 では2度のみだが、2009年にベン・スピーズ 、2021年にトプラク・ラズガットリオグル がチャンピオンとなっている。
モトクロス でも、初期は2ストロークエンジン で活躍した。世界選手権 ではスズキの後に参戦し、1977年に初めてタイトルを獲得。以降も現在までホンダやKTMと争いながら、30回近くライダースタイトルを獲得している。1990年代に北米AMAモトクロス /AMAスーパークロス で、日本メーカーとしてはいち早く4ストロークエンジン を投入したことでも知られ、こちらもホンダやカワサキ と共に多数のタイトルを獲得している。2021年から国内でも2ストロークエンジンのモトクロッサーを復活させ、国内で10車種以上のオフロード競技用バイクを展開するなど、国内で最もオフロードに積極的なメーカーの一つとなっている。
ダカール・ラリー では記念すべき開催初年度に総合優勝マシンとなっているほか、2年目には43台ものヤマハ製バイクがエントリーするなど初期に人気を集めた。80年代はホンダとBMWのビッグバイク勢に対して劣勢となるが、1990年代 はステファン・ペテランセル を擁して黄金時代を築いた。彼の四輪転向後と同時に撤退した。2015年にワークス復帰するが、2022年をもって、北米市場へ注力するため再び撤退した。しかしラリーは継続しており、フランスのMBSM社が運営するテネレ・ワールド・レイドチームを通じて市販車ベースのラリー用バイクの供給を行い、排気量450cc以上の車種も参戦できるアフリカ・エコレース や各地のバハイベントに参加している[ 60] 。
ダカールのYXZ1000R(2021年) ヤマハカップ・フィンランド(2010年) 四輪モータースポーツにもエンジンコンストラクターや四輪バギーカー での参戦経歴がある。
1985年 (昭和60年)には全日本F2選手権 にV6 エンジンのOX66で参戦した。吸気バルブ3本、排気バルブ2本を備えた5バルブシステムを採用する[ 61] 。1987年 に全日本F3000選手権 にはコスワースDFV をチューニングして5バルブ化した、V8エンジンのOX77を投入した。鈴木亜久里 らがドライブするマシンに搭載されて活躍したが、1988年から全日本F3000で5バルブが禁止されることもあり[ 61] 、その翌年の1989年 (平成元年)からF1 にもエンジン供給の形で参戦した(後述)。
フォーミュラE 世界選手権では、2024年 3月、イギリスのローラ・カーズ と提携し電動パワートレインの開発・供給を行う方針を明らかにした[ 62] 。ローラ・ヤマハ・アプト・フォーミュラEチーム として、シーズン11 より参戦する[ 63] 。
スポーツATV(全地形対応車 、四輪バイク)では北米ヤマハの製造するラプターが強力な存在感を示しており、2009年から発足したダカール・ラリー のATV部門では、ラプター700が2023年現在まで無傷の連覇を重ね、ワンメイク状態を築いている。
近年は四輪バギーのスポーツSxS(サイド・バイ・サイド・ビークル )の領域でもYXZ1000Rで頭角を現している。2021年からはBMW /Mini のワークスチームとして多数の総合優勝経験を持つX-raid との提携により、YXZ1000Rを改造して軽量プロトタイプ部門にも進出を果たしている。先述の通り二輪部門では撤退したが、ヤマハは四輪のATVとプロトタイプSxSで参戦を続ける。
レーシングカート についても、1974年 (昭和49年)に「ヤマハSLカートクラブ」(現在のSLカートスポーツ機構 )を設立して、マシン(フレーム)及びエンジンの供給・レース開催の両面で積極的に活動を行っている。また資本関係のあるトヨタ と提携し、『TOYOTA YAMAHA RACING TEAM』としてドライバー育成を行っている。同プログラムはこれまでに片岡龍也 、中嶋一貴 、山内英輝 らを輩出している[ 64] 。なおカート関連業務については、現在は関連会社のヤマハモーターパワープロダクツ が担当している。ただし同事業からは2027年 一杯で撤退する方針を表明している[ 65] 。
このほか直接の参戦ではないが耐久レースで活躍した2000GTやトヨタ・7 はシャーシ・エンジンともにトヨタとの共同開発である。また世界中のF3レースを席巻した2T-G型、WRC /IMSA /パイクスピーク・ヒルクライム などで多数のカテゴリでタイトルを獲得した3S-G型、RC F GT3 やハイラックスEvo にも採用されダカール・ラリー で総合優勝を果たした2UR-GSE型などは、いずれも市販車の段階でヤマハ発動機が深く携わったエンジンである。
F1エンジンのOX99(1992年) ティレル・ヤマハ(1993年) アロウズ・ヤマハ(1997年) 1989年 (平成元年)にV8エンジンのOX88をザクスピード へ供給し、鈴木亜久里 とともにF1に参入した。当初コスワースDFRのシリンダーブロックを使用した5バルブエンジンを開発・供給する予定であったが、コスワースとの折り合いがつかず急遽エンジンを自社製造することになった[ 66] 。そのためかエンジンの信頼性に欠け、予備予選 通過もままならぬ有様で、一時撤退を余儀なくされる。
1990年 (平成2年)は1年を丸々エンジン開発に充て、翌1991年 (平成3年)にブラバム へ5バルブV12 エンジンのOX99を供給し復活を果たす。その甲斐あって後半戦に2度の入賞を記録。
1992年 (平成4年)はジョーダン へOX99を供給するが、クーリングに問題が出るなどシャーシとのマッチングが上手く行かずに最終戦でようやく1ポイントを獲得するのみと、前年と同様に成績はふるわなかった。シーズン途中からはエンジンビルダーのジャッド と提携を開始した。また同エンジンを搭載した市販予定スポーツカー 、OX99-11 を発表するものの、市販の実現には至らなかった。
1993年 (平成5年)には開発済みだった新しいV12を諦め、ジャッドのV10 エンジン(ジャッドGV)をチューニングしたOX10を開発。片山右京 所属のティレル に供給した。エンジン回転数の増加に伴い、ニューマチックバルブを採用した[ 67] 。シーズン当初はそれほどの成績が出せなかったが、最終型のGスペックでは他のワークスエンジンにも見劣りしない程になっていた。
1994年 (平成6年)OX10を継続開発し、OX10Bとして投入。右京が予選5位を2回記録した上に、ドイツGP ではマシントラブルで停止するまで2位を走行し、チームメイトのマーク・ブランデル もスペインGP で3位表彰台を獲得、その他にも度々上位を走行するなどトップチームに肉薄する性能を発揮したが、シーズン後半にはエンジンのパフォーマンスアップを重視した為、エンジンの信頼性をやや落とす結果になった。最終スペックはKスペック。
1995年 (平成7年)には、エンジンレギュレーションが3.5Lから3.0Lへ変更された事に合わせボア・ストロークともに見直したOX10Cをジャッドと共同開発。シーズン序盤こそ度々快走を見せるが、他のエンジンに比べて絶対的なパワーが不足していた事とシャーシ側のパフォーマンス不足も合わせ満足行く戦績は残せなかった。
1996年 (平成8年)には、当時のF1エンジンとしては革新的なサイズと重量のOX11A をジャッド 社と共同開発するも、エンジンに捻れや揺れが発生し、エンジンのパワー不足と信頼性不足に悩み、思ったような成績が残せなかった。剛性不足が原因と判明したのはヤマハがF1活動を終了した後だった。
1997年 (平成9年)にはアロウズ にOX11Aを供給。ハンガリーGP ではデイモン・ヒル の手によって、ラスト1周までトップを快走したが、2位に終わり惜しくも初優勝はならなかった。シーズン終了後の同年12月、アロウズ(当時代表であったトム・ウォーキンショウ )側は1998年 に自身が買収したハートエンジン にヤマハのバッヂを付けて出場する事をヤマハ側に提案[ 注 1] するが、ヤマハ側としては受け入れられずに決別。他の供給先を探すも既に時間は無く、結局この年限りでヤマハとしてのF1活動は終了した。
1975年 (昭和50年)、宮城県 村田町 にテストコースを建設した。これが現在の「スポーツランドSUGO 」となっている。スーパーバイク世界選手権 やモトクロス世界選手権 の開催実績があり、また全日本格式の選手権レースが開催されている。1990年 (平成2年)のF1休止中には、エンジンテスト[ 注 2] の舞台となった。
ジュビロ磐田 前身はヤマハ発動機サッカー部。 Jリーグ に所属している。静岡ブルーレヴズ 前身はヤマハ発動機ラグビー部。 2021年まではヤマハ発動機ジュビロとして活動していた。 ジャパンラグビーリーグワン に所属している。 軍事転用可能な無人ヘリコプターの不正輸出事件[ 編集 ] 2005年 (平成17年)12月 に軍事転用可能な無人ヘリコプター「RMAX Type II G」の改良型「L181」を、中華人民共和国 の航空写真撮影会社である「北京必威易創基科技有限公司 (BVE) 」に不正輸出しようとしたとして、外為法違反容疑でヤマハ発動機は2006年 (平成18年)1月 に刑事告発を受けた。2007年 (平成19年)2月 、静岡県警察 ・福岡県警察 合同捜査本部 は同容疑及び外国貿易法 違反の容疑で同社スカイ事業部の社員3名を逮捕 した。
また、BVE社はヤマハ発動機側に「人民解放軍 が2、3年後までに同型の無人ヘリ約100機の購入を希望している」と伝えていたことが明らかとなっている。この購入の希望は、2004年 (平成16年)6月 に北京であった両社の商談中に打診された物で、出席したヤマハ発動機社員がメモとして残していた。BVE側は、輸入した無人ヘリを軍関係の他の会社を経由して人民解放軍に流す仕組みをヤマハ発動機側に明かしていた。
なお、警察の捜査の結果、BVE側とのメールのやりとりが削除されていることが明らかとなっている。違法性を認識していたヤマハ発動機側が証拠隠滅を図った可能性もあるとみて、容疑者を追及していたが、2007年(平成19年)3月17日 付 読売新聞によれば、輸出が業務の一環だったことも考慮され、元執行役員ら3人については起訴猶予となった。また、違法行為が業務上のものであり、かつ、逮捕された社員に対する監督責任も認めていたため、法人としての同社は略式起訴され、罰金100万円を納付した[ 68] 。
連結子会社137社(国内21社、海外116社) 持分法適用子会社4社 持分法適用関連会社21社[ 71] (2024年9月末現在)
^ ヤマハ製エンジンの供給は不要であるが、スポンサーとしてチーム運営資金の出資を要求した。 ^ テストは、F3000 のシャシーをF1レギュレーション に合わせて修正し、全日本F3000選手権に参戦する片山右京 を起用して1年間継続された。 谷山浩子 - 「ヤマハ発動機社歌」の作曲を担当日置有紀 (車椅子モデル・女優) - ヤマハ発動機で開発された02GEN(電動車椅子)のプロダクトモデルを行った。後にJW女子が出来、それらの第1号のモデルも行っている。ヤマハ発動機の本社には、02GENで撮影された日置有紀の写真が飾られている。ウィキメディア・コモンズには、
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