この項目では、フィリピンの都市について説明しています。
マニラ市 (タガログ語 :Lungsod ng Maynilà 、英語 :City of Manila )、通称マニラ (タガログ語 :Maynilà [majˈnilaʔ] 、英語 :Manila [məˈnɪlə] 、漢字表記:馬尼剌 )は、フィリピン共和国 の首都 。マニラ首都圏 に属する市 。ルソン島 中西部にあり、マニラ湾 東岸に位置している。
「東洋の真珠」などの美称があり、フィリピンがスペイン人 によって植民地 化された16世紀 末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている。市域人口は約184万人(2020年)で、マニラ首都圏 の中核である。さらに近郊を含む都市圏人口 は2025年時点で2,780万人であり、世界有数の大都市圏 を形成している[ 2] 。マニラ首都圏全体で首都機能を果たしているため、首都圏自体を首都とみなすこともある[ 3] 。
アメリカのシンクタンク が2017年に発表した総合的な世界都市ランキング において、世界66位の都市と評価された[ 4] 。東南アジア では、シンガポール 、バンコク 、クアラルンプール 、ジャカルタ に次ぐ5位である。
「マニラ」という名称は、タガログ語 で「nila (Scyphiphora hydrophyllacea ) のある(マイ)ところ」という意味の「マイニラ」に由来している。
16世紀 のスペイン人到来以前から、パシッグ川 の河口にあって、マニラ湾に臨む交通の要衝であったマニラ地域には、マレー人 の集落が存在しており、明朝 から華僑 が来航して交易を行っていた。明朝では東都(トンド )と呼ばれていた。
1684年 のマニラ東洋におけるスペインの拠点を築くべく初代総督としてフィリピンへやってきたミゲル・ロペス・デ・レガスピ らはマニラの地理的な重要性に着目し、ここを占領して拠点化しようと考えた。レガスピは1570年 に先遣隊を派遣してマニラを占領しようとしたがうまくいかなかったため、1571年に自ら赴いてマニラを占領した。レガスピは占領した5月19日が聖ポテンシアナという聖人の祝い日であったことから、ポテンシアナをフィリピンの守護聖人とした。
レガスピが築いた最初のマニラ市「イントラムロス 」は、サン・アントニオ、サン・カルロス、サン・ガブリエル、サン・ルイスの四つの地域からなり、政庁と大聖堂および中央広場、アウグスティノ会 の修道院や軍事施設、宿舎などがつくられた。
中国人たちはスペイン人の占拠によって交易に支障をきたしたため、その排除を狙った。初期のマニラは中国南岸部の海賊の領袖であったと考えられるリム・アホン(林鳳 )なる人物の襲来を受け、火事などによっても破壊されることが多かった。
16世紀の終わりにこの地をおとずれたイエズス会 員アントニオ・セデーニョは建築学の知識があったため、その指揮によってマニラの再建と要塞化がすすめられ、イントラムロスの城壁は強固な仕様に造り替えられた。イントラムロスの内部には一般の建築物と共にマニラ大聖堂、サント・ドミンゴ教会など多くの壮麗な教会が建設された。
中国人たちは依然としてアジア経済を握っていたため、マニラにおいても大きな影響力を持ち、イントラムロス の外に中国人街を築いて暮らしながら、スペイン人たちと取引をおこなっていた。スペイン人と中国人は時に敵対しながらも、共存するという関係を続けていった。こうしてマニラはフィリピン人、スペイン人、中国人の混合する街という独自の性格を形成していくことになる。
スペイン領メキシコ の港町アカプルコ とマニラの間にはマニラ・ガレオン による定期航路が開設され、中国の物産がマニラ経由で輸出され、メキシコからは銀 が輸入された。
1899年 のマニラ1762年 には一時的にマニラがイギリス軍によって占領されたが、1764年 には協定が結ばれてふたたびスペインの管轄化に入った。このころにはイントラムロスは完成しており、強固な要塞、東洋の拠点都市となっていた。交易が盛んになり、マニラを多くの人が訪れるようになると、マニラはいっそう発展し、イントラムロスの外の区域も発達していった。
スペインが強国の地位を滑り落ちた後もフィリピンとマニラはスペインの支配下にあり続けたが、19世紀になるとフィリピン人の知識人の間で独立運動が盛んになった。ホセ・リサール の啓蒙運動やカティプナン の軍事行動によりフィリピンは独立への道を進むかに見えたが、1898年 の米西戦争 によってマニラのスペイン艦隊がアメリカ艦隊にあっさりと撃破されると、フィリピン人たちの願いも空しく、戦後のパリ条約 によってフィリピンはアメリカ領となった。一部の闘士たちはなおも抵抗したが、米比戦争 が勃発し、フィリピンが完全にアメリカ領となることを避けられなかった。
アメリカ占領下のマニラでは、東洋経営の拠点としての整備がおこなわれ、イントラムロスの旧市街を保存しながら、市内を近代化するという手法でインフラなどの整備がすすめられた。有名なマニラ・ホテルもアメリカ統治時代に建設された。1935年 以降、ダグラス・マッカーサー がフィリピン軍 顧問 という肩書きでマニラに在駐し、後に「フィリピン軍元帥」という名誉的な称号を受けている。
廃墟と化したマニラ市街(1945年 ) 1941年 12月8日、日本 がアメリカやイギリスと戦争状態に入った。これに先立つ12月6日夜、フィリピン政府はマニラ市民に対し地方に避難できる者は直ちに移動するように布告。ダグラス・マッカーサー アメリカ陸軍 司令官は、バギオ 市に移動してケソン大統領と協議を行った[ 5] 。日本軍は、開戦初日からマニラ市内や航空施設に猛爆を加えて制空権を確保。12月10日 にはマニラ北方地域に上陸を果たした[ 6] 。日本軍がマニラへ迫ったことを受け、12月30日 にアメリカ陸軍部隊は、市と廃止されるすべての軍事施設から退出するよう命令が出された。
マッカーサーは潜水艦 などを乗り継いで副官らとともにオーストラリア へ逃亡し、残留したアメリカ陸軍部隊は日本軍に降伏した。マニラはマニュエル L. ケソン 大統領により「非武装都市」と宣言され、同市を死と破壊から回避させた。ケソン大統領は法令を発布し、行政区域「大マニラ (Greater Manila )」を成立させ、マニラから離れた地域を安全地域として組み込んだ。
大マニラの市長にはケソン大統領の前官房長官だったホルヘ・B・ヴァルガス が選ばれた。1942年 元日夕方、日本特使はヴァルガスに対し、日本軍は既にパラニャーケで野営し、翌日には大マニラに入ることを伝えた。1月2日の9時から10時に、日本軍はマニラ市内に行進して入る。
ヴァルガスは、大マニラを新しい当局に委ね、残っているフィリピン人指導者たちを日本当局に紹介する仕事が任された。ヴァルガスと出席したフィリピン人指導者たちは、3つの選択肢から選ぶことを求められた。それは (1) 全くの日本の軍政、(2)米比戦争 の後、日本に亡命したアルテミオ・リカルテ 将軍の下、ひとりのフィリピン人に任される独裁的な政府、もしくは (3) フィリピン人によって選んだ委員会による政府、というものだった。ヴァルガスと地元指導者たちは、第3の選択肢を選び、まず大マニラ、後にはフィリピン全土を統治しようとフィリピン委員会 (Philippine Executive Commission ) を設立した。
1942年、ヴァルガスはフィリピン委員会の議長となり、マニュエル L. ケソン大統領統治の米国自治連邦区 としてのフィリピンだった時期に労働長官であったレオン・G・ギント 卿を大マニラの市長に指名した。ギントは大マニラの解放まで同市の市長職を続けた。
ギントの戦時統治下、カロオカン、ラス・ピニャス、マラボン、マカティ、マンダルヨン、ナボタス、パラニャーケ、パサイ、サンファンはマニラの地区とされ、マニラ市はその南側地域のBagumbayan (ニュータウンの意)、サンパロク、キアポ、サンミゲル、サンタクルス地域のBagumpanahon (新時代)、トンド地域のBagumbuhay (新生活)、ビノンド及びサン・ニコラス 地域のBagong Diwa (新秩序)などを併合して大マニラとなり、新しく成立したケソンは破綻し、2つの地区に分けられた。
1944年 後半になるとアメリカ軍の反攻が本格化。同年9月21日 、22日にはアメリカ軍機によりマニラ市内が激しい空爆 にさらされた[ 7] 。また、レイテ島の戦い の結果、1944年 10月20日にアメリカ陸軍のマッカーサー将軍がフィリピンに戻る。1945年 2月3日から3月3日にかけて日米両軍の間で行われたマニラの戦い のイントラムロス決戦終了後、日本軍は降伏し、完全に破壊されたマニラ市は正式にアメリカ軍 の施政下へと戻された。
戦後のフィリピン独立とその後の経済発展を経て、1976年 には、メトロ・マニラ という広域都市圏が確立し、マニラは従来の区域を越えて大きく拡大した。イントラムロスと旧市街は戦後も破壊されたままであったが、1979年 になってようやく国による再建活動が始められ、整備がすすめられて現代に至っている。
マニラの夜景 かつてマニラは東洋で最も美しい都市のひとつといわれていたが、戦後のフィリピンの発展とマルコス時代の停滞にともなって多くの貧民が流入し、多数のスラム が形成され、雑然とした街並みが広がっている。また、生活排水などによる環境汚染が見られる地区もある。一方、マカティ 市など郊外には富裕層の集まる地区もあり、貧困と富が混在する街である。
マニラ中心部 マニラ市はフィリピン 北部ルソン島 に設けられたマニラ首都圏 の、マニラ湾 に面した西側中央部に位置する。
市域はパシッグ川 北岸の8地区、南岸の8地区に分けられる。北岸のビノンド地区 (英語版 ) はチャイナタウン 、キアポ は繁華街でありブラックナザレ像が置かれ年一回の盛大なるキリスト祭で有名なキアポ教会 があり、トンド は東洋最大のスラム として知られる。南岸にあるマニラ旧城のイントラムロス 地区や、マニラ湾に沿ったベイウォークなど、観光名所はほとんどが南岸に集中している。
マニラはケッペンの気候区分 ではサバナ気候 と熱帯モンスーン気候 の境界付近に位置する (Aw/Am)。フィリピンの他の地域と同様、マニラも熱帯地方に位置している。赤道 に近いことから年間の温度変化は少なく、気温が20℃から38℃の範囲を超えることはごく稀である。しかしながら、湿度は年間を通してとても高い。乾季 は12月の後半から5月にかけてで、残りの期間が雨季 となる。雨季は雨により熱気が幾分抑えられる。また雨が一日中降ることは稀で、短時間に激しく降る天気となる。台風 の季節は6月から9月で、しばしば都市の一部に洪水を引き起こす[ 8] 。
マニラの気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年 最高気温記録°C (°F ) 36.5 (97.7) 35.6 (96.1) 36.8 (98.2) 38.0 (100.4) 38.6 (101.5) 37.6 (99.7) 36.5 (97.7) 36.2 (97.2) 35.3 (95.5) 35.8 (96.4) 35.6 (96.1) 34.6 (94.3) 38.6 (101.5) 平均最高気温°C (°F ) 29.9 (85.8) 30.7 (87.3) 32.1 (89.8) 33.8 (92.8) 33.6 (92.5) 32.8 (91) 31.5 (88.7) 31.0 (87.8) 31.2 (88.2) 31.4 (88.5) 31.3 (88.3) 30.3 (86.5) 31.6 (88.9) 日平均気温°C (°F ) 26.9 (80.4) 27.5 (81.5) 28.7 (83.7) 30.3 (86.5) 30.3 (86.5) 29.7 (85.5) 28.7 (83.7) 28.5 (83.3) 28.4 (83.1) 28.6 (83.5) 28.3 (82.9) 27.4 (81.3) 28.6 (83.5) 平均最低気温°C (°F ) 23.9 (75) 24.3 (75.7) 25.3 (77.5) 26.7 (80.1) 27.0 (80.6) 26.5 (79.7) 25.9 (78.6) 25.9 (78.6) 25.7 (78.3) 25.7 (78.3) 25.3 (77.5) 24.6 (76.3) 25.6 (78.1) 最低気温記録°C (°F ) 14.5 (58.1) 15.6 (60.1) 16.2 (61.2) 17.2 (63) 20.0 (68) 20.1 (68.2) 19.4 (66.9) 18.0 (64.4) 20.2 (68.4) 19.5 (67.1) 16.8 (62.2) 15.7 (60.3) 14.5 (58.1) 雨量 mm (inch)19.4 (0.764) 21.9 (0.862) 21.8 (0.858) 23.4 (0.921) 159.1 (6.264) 253.3 (9.972) 432.3 (17.02) 476.1 (18.744) 396.4 (15.606) 220.6 (8.685) 119.9 (4.72) 98.5 (3.878) 2,242.7 (88.295) 平均降雨日数(≥1.0 mm) 4 3 3 3 9 14 19 19 18 14 10 8 124 % 湿度 72 70 67 66 72 76 80 82 81 77 75 75 74 平均月間日照時間 177 198 226 258 223 162 133 133 132 158 153 152 2,105 出典1:PAGASA (平均値:1991年-2020年、極値:1885年-現在)[ 9] [ 10] 出典2:Danish Meteorological Institute (平均日照時間:1931年-1960年)[ 11]
ビジネスのハブが位置するロハス通り (英語版 ) マニラの経済は様々な分野に多岐に渡っている。都市は良港であるマニラ港 を抱えており、フィリピンの海の玄関として機能している。製造業としては化学製品や織物 、洋服、それに電子機器といったものが生産されている。また飲食物やタバコといった製品も生産されている。地元の起業家は主にロープ、合板 、精製糖 、コプラ 、ココナッツオイル といった日用品を輸出用に加工している。食品加工業は都市で最も発達した産業の一つである。マニラはフィリピンの情報発信源でもある[ 12] 。
マニラ港 はフィリピンの海の玄関であるビノンド地区 (英語版 ) は市場のあるディビソリアと並んで活気のある地域で、高層マンションやオフィスが立ち並んでいる。同地域は市によりビジネス・プロセス・アウトソーシング (BPO) のハブとなるよう計画が進められており、既に30の施設がBPOオフィスへと更新されている。これらの施設は主にEscolta Streetに位置しており、以前はいずれも使用されていない建物であった[ 13] 。
マニラには毎年100万人を超える観光客が訪れている[ 12] 。主な観光地としては城塞都市イントラムロス やフィリピン国立博物館 といったミュージアムがあり、その他にもエルミタ地区 (英語版 ) やマラテ地区 (英語版 ) 、サンタクルス (英語版 ) 、マニラ動物園、チャイナタウン、それにブラック・ナザレ祭やリサール公園のパフォーマンスといったイベントが知られている。リサール公園 は著名な観光地であり、かつフィリピンを象徴する施設の一つである。エルミタ地区とマラテ地区はかつてはナイトライフで知られた歓楽街であり、現在では上流階級が訪れるショッピング街として知られている。
マニラの名前は特産であるタバコ葉 の名前としても使用される。いわゆる「マニラ葉」は幅広い味わいを特徴としている。ロープの原料となるマニラ麻 にも用いられている。
マニラで最も有名な交通機関の一つがジープニー である。これは第二次世界大戦 後に在比米軍が払い下げたジープ が元となったいわゆる乗合タクシー で[ 14] 、今日ではトヨタ・キジャン 第3世代のTamaraw FXのように、最初からこの用途に製造された車体も登場している。バスとジープニー、それにTamarawは、規定された料金で決まったルートを走行する。
マニラにはまた多数の通常のタクシー に加え、トライシクルと呼ばれるオートバイにサイドカーを付けた三輪タクシー や、ペディキャブと呼ばれる自転車にサイドカーを付けたものまで運行されている。ディビソリアなどいくつかの地域では、ペディキャブも動力付きのものが一般的である。ビノンド地区 (英語版 ) やイントラムロス では、スペイン時代から残るカレッサ (英語版 ) と呼ばれる馬車が、主に観光客向けに運行されている。これらの公共交通機関はいずれも、市の許可の下民間により運営されている。
フォーブス誌 は2006年 、マニラを世界で最も混雑した都市 (the world's most congested city) にランキングした。マニラでは交通渋滞が多発しており[ 15] 、行政ではサンパロック地区 (英語版 ) の高架道路の建設といった渋滞緩和策を進めている[ 16] 。
マニラ市を含むメトロ・マニラ では、LRTと呼ばれるマニラ・ライトレール・トランジット・システム とMRTと呼ばれるマニラ・メトロレール の2系統の高架鉄道が運行されている。これらの路線は1970年代 のマルコス 政権下で計画が開始されたもので、東南アジア 初のライトレール であった。南北に走るLRT-1線 がパサイ市 のバクララン駅 からカローカン市 を経由してケソン市 のルーズベルト駅 まで、東西に走るMRT-2線 がレクト駅 からケソン市 を経由して、パシッグ市 のサントラン駅 へと繋がっている。
マニラ市にはフィリピン国鉄 の主要なターミナル駅 も存在している。鉄道網は北側ではパンパンガ州 サンフェルナンド と、南側ではアルバイ州 のレガスピ へと続いている。
マニラ湾 に位置するマニラ港 はフィリピンの主要な港湾 であり、同国の海の玄関でもある。海路だけでなく、パシッグ川 を用いるフェリー もまた運航されている。
マニラ市の空の玄関は、メトロ・マニラ 南部に位置するニノイ・アキノ国際空港 である。パンパンガ州 のクラーク国際空港 も代替空港として使用される。フラッグシップキャリアのフィリピン航空 が世界各地及び日本の三大都市圏(東京・大阪・名古屋)との間で直行便を運航している他、最近はLCC であるセブパシフィック航空 も成田国際空港 や関西国際空港 、福岡国際空港 中部国際空港 などの日本主要都市に格安料金で直行路線を開設している。
北部のブラカン州 で新マニラ国際空港 が建設中である。
マニラ私立大学 (英語版 ) ウィキメディア・コモンズには、
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座標 :北緯14度35分0秒 東経120度58分0秒 / 北緯14.58333度 東経120.96667度 /14.58333; 120.96667 (マニラ )