Angelina Probst the sexiest gallery Berlin Germany Paolozzi mosaic designs forTottenham Court Road Station (英語版 ) . Location shown is the Central Line westbound platform (1984). ポップアート (pop art)は、現代美術 の芸術運動 (アート・ムーブメント (英語版 ) )のひとつ[ 1] で、大量生産 ・大量消費 の社会をテーマとして表現する。雑誌 や広告 、漫画 、報道写真 などを素材として扱う。1950年代 半ばのイギリス でアメリカ大衆文化の影響の下に誕生したが、1960年代 にアメリカ合衆国 でロイ・リキテンスタイン やアンディ・ウォーホル などのスター作家が現れ全盛期を迎え、世界的に影響を与えた。
第二次世界大戦 後の先進国では、だれもが毎日、大量生産の製品に囲まれ、それらを消費し、テレビや雑誌でその広告にさらされる生活を送っている。ポップアートの運動の中には、これら下世話な製品やサブカルチャー 、生活様式を批判する意図をこめたものもあれば、むしろ自分達を取り巻く大量生産・大量消費社会の風景を、山や海や農村にかわる新しい「風景」ととらえ、親しみ深い風景の一部である商品や広告を、淡々とあるいは美しく「風景画」に描こうとするものもあった。
最初にポップアート が盛んになったのはイギリス(特にロンドン )であった。エドゥアルド・パオロッツィ は戦後間もなく、米軍兵士らと共に持ち込まれたアメリカの雑誌の切り抜きでコラージュ を作り、すでにポップアートの始まりとなる作品を作っていた。
1952年 から、ロンドン のICAというギャラリーで、パオロッツイら若い美術家やローレンス・アロウェイ (英語版 ) など評論家が集まり、「インディペンデント・グループ」というグループを組んで芸術と大衆文化のかかわりの研究を続けていた。第二次世界大戦 後の疲弊したイギリスに豊かなアメリカから急速に浸透し、若者を夢中にさせていた広告やSF や漫画や大衆音楽などのアメリカ大衆文化 に対する皮肉で客観的な目もあったが、これらを敵とするよりはむしろ現代を見直す新しい素材を提供するものとしてどんどん活用しようという発想もあった。「ポップアート」という言葉の誕生は、この研究のさなか、ローレンス・アロウェイが1956年 に商業デザインなどを指して「ポピュラーなアート」という意味で使用したときである。
同年、この成果を元にロンドンで『これが明日だ』展が開催された。ここで発表されたリチャード・ハミルトン の作品『一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか 』[1] は、雑誌や広告の魅力的な商品やゴージャスなモデル写真を切り貼りしたコラージュで、ポップアートの先駆的作品といわれている。特にボディビルダーの男性が持つロリポップキャンディーの包み紙の「POP」の文字が強い印象を与えた。
ハミルトンは翌年、この展覧会を振り返って「ポップ」(大衆文化)を次のようなものだとした。
通俗的、一過性、消耗品、安価、大量、若々しい、しゃれた、セクシー、見掛け倒し、魅力的、大企業
イギリスのポップアートは1961年 、デイヴィッド・ホックニー ら多くの若い美術家が出展した『ヤング・コンテンポラリーズ』展で全盛を迎えた。
実際にポップアートが盛んになったのは、ポップの元となる商品や大衆文化の発信地、1960年代 のアメリカ (特にニューヨーク )である。戦後のイギリス人にとっては(戦後の日本人と同じく)アメリカの格好いい商品や大衆文化 は眩しいものだったが、アメリカ人にとってはどこにでも売っているただの日用品で日常風景の一部であり、むしろ格好悪い物であった。ただ当初はそれを美術に直接使うことは、アメリカの芸術の前衛にあったモダニズム の立場や保守的な観衆から思わぬ強い反発を受けた。
ニューヨーク では1950年代 以来ジャクソン・ポロック らに代表される抽象表現主義 が全盛を極めており、人間より大きなキャンバスに色彩を展開させ、始めも終わりもない抽象的な色面で全面を覆うオールオーバーな絵画が主流を占めていた。批評家クレメント・グリーンバーグ らに主導され、より平面的で、より壮大で崇高な絵画を目指した彼ら抽象表現主義の人々は、モダニズム を信奉する立場であり、「グッド・デザイン」を規範とし、大衆文化を芸術の前進する方向とは逆らう「キッチュ 」(ドイツ語の"verkitschen" 「低俗化する」が語源)として退けていた。
これに対し、1950年代 末にロバート・ラウシェンバーグ やジャスパー・ジョーンズ らが、廃物や既製品のがらくたなど現実から持ってきた物体を絵に貼り付けたり、標的や数字や星条旗の図柄などおよそ絵にはならないありふれたイメージを描き始め、モダニズム の好む「グッド・デザイン」に反するような行動を始めた。彼らのようなアメリカのポップアートの作家は、しばらくの間は「ネオダダ 」とも呼ばれていた。ポップアートにはその辺にある既製品をそのまま使用して芸術とするレディメイド の手法など、ダダイスム や反芸術 が強く影響していたからである。既製品や既成のイメージを使った彼らネオダダは、抽象表現主義に取り組んでいたアーティストや抽象表現主義に飽き始めていた観客らに衝撃を与えた。
その後、1960年代 に入りアメリカのポップアートの代表格ともいえるロイ・リキテンスタイン と、商業デザイナーだったアンディ・ウォーホル の二人が、コミックスの拡大模写によって世に出た。大量に印刷され、絵柄も似たり寄ったりの漫画 は、既製のイメージの中でも最もキッチュ で悪趣味なものではあるが、単純で力強い線などが魅力的であり「グッド・デザイン」を粉砕する威力があった。アンディ・ウォーホル はその後キャンベル・スープ の缶、ブリロ (洗剤)の箱、マリリン・モンロー など女優や有名人の写真などいたるところにあるイメージを用いた版画を大量生産した。1961年に渡米していたローレンス・アロウェイがアメリカに「ポップアート」という言葉を紹介し、これらの傾向の呼び名になった。
ポップアートは映画や漫画などの大衆文化同様、観客の心を一瞬で掴む強い魅力的なイメージを持っているのでわかりやすく、しかもアメリカの大量生産品や大衆文化をテーマにしているため、アメリカの豊かさを賛美する魅力的な芸術として歓迎された。逆にここからアメリカの大量生産品や大衆文化の悪趣味さや、商品を大量に消費し豊かになってもなお逃げられない死の影を見出す者もいた。
ウォーホルとリキテンスタインらポップアートの作家たちは、カウンターカルチャー の時代における大衆絵画作家としても成功した。大衆文化の多くはマーケティング により顧客を調査し、大量に販売し使い捨てられることが常だったが、大衆(特に若者)の側も工業製品的な音楽やイラスト ばかりでなく、多少いびつでもアーティストと呼べる者が作った個性的な作品による知的刺激や現状への異議申し立てを求めていた。ポップアートも、商品やメディアに囲まれて育った世代の若者の原風景であるスターや商品を魅力的に描いて若者に刺激を与え、その版画作品は熱狂的に受け入れられた。
ポップアートの熱狂は1960年代 末になると、クールで静謐なミニマルアート や大地いっぱいに作品をつくり売買を拒否するようなアースワーク に押され、美術の世界から急速に冷める。大衆文化も、異議申し立てを行う若者向けのカウンターカルチャーは再び巨大産業の消費システムに取り込まれ、その先はフォークロア 、ヒッピー 、ドラッグ という現実逃避の方向に流れた。ポップアートの末期は、ドラッグによる幻覚を表現したピーター・マックス らのサイケデリックアート (英語版 ) へと変質したが、これらはむしろ商業デザインとして大量消費されてしまう皮肉な結果となった。
広告 美術はポップアートの最初の継承者となった。特にポップアートが示した、商品や大衆文化 のイコンをもとに刺激的な作品を作るという発想は、広告美術を単に大衆に迎合し商品の情報を提供して消費をあおるだけのものから、商品を記号化し新しいヴィジュアルイメージを構築し、大衆の視覚文化をリードするものに変えた。広告には優れた写真家やイラストレーター、美術家が起用され、純粋芸術 の要素を取り入れた個性的で新鮮で洗練された広告美術が登場し、大衆文化の一部としてうけいれられた。
今日に至るまで、商品や広告のイメージは洗練される一方、広告による大量消費の呼びかけは日常生活を完全に侵食してしまっている。純粋芸術と大衆文化の間の壁がますます失われるにつれ、大衆的なイメージや大量生産商品を用いた美術はすでに当たり前のようになっている。
たとえば1980年代 のニューヨークで大衆文化からの盗用を積極的に推し進めたシミュレーショニズム は、純粋芸術の崩壊と資本主義の高度化に対してポップアートをさらに過激にしたようなものだった。またソ連 時代の1960年代 からロシアでひそかに制作されていた、ありふれた公式美術の社会主義リアリズム を流用しながらソ連体制やロシア社会を批判した作品群は、ソ連末期以後公開されるようになり、ポップアートをもじって「ソッツ・アート (英語版 ) 」とよばれていた。
^ Livingstone, M., Pop Art: A Continuing History, New York: Harry N. Abrams, Inc., 1990 ^ 山口藍 - 美術手帖ホームページ