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フレグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フレグ
هولاكو خان
イルハン朝初代イルハン
フレグとその筆頭正妃ドクズ・ハトゥン(『集史パリ本より)
在位1260年 -1265年
別号イルハン(Īlkhān / ایلخان)

出生1218年
死去1265年2月8日
配偶者ドクズ・ハトゥン 他
子女アバカ
テグデル 他
王朝イルハン朝
父親トルイ
母親ソルコクタニ・ベキ
宗教仏教
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ティムール朝時代に描かれたフレグの肖像。片手に酒杯、もう片方の手には弓と鞭を持つ。画面右側には脱がれたターバンを置いている。

フレグHülegü, Hülägü、1218年 -1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位:1260年 -1265年)。アバカテグデル・アフマドの父。モンケクビライアリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・カンイルハンايلخان Īl-khān の尊称で呼ばれた。

名前について

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世界征服者史』『集史』等のペルシア語史料ではフーラークー・ハーン(ペルシア語:هولاكو خان 転写: Hūlākū Khān)[注釈 1]、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜Shu'`ab-i Panjgāna)』のウイグル文字モンゴル語表記ではᠤᠯᠡᠺᠤ 'wl'kw(ulaku < 'ülegü < Hülegü) と表される。

生涯

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生まれ

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チンギス・カンの子のトルイと、ケレイト族出身の正室ソルコクタニ・ベキの間の三男として生まれた[1]

幼少時代については不詳であるが、1219年に早くも河南地方の彰徳方面に所領を有していたようで、『元史』巻85によれば祖父のチンギス・カンより「打捕鷹房民戸七千余戸」を分与されていたと記録されている[2]

初めての狩猟

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1225年1月、フレグは9歳の時、兄のクビライとともに中央アジア遠征から帰還する祖父チンギス・カンをエミル川で出迎えた[3][4]。そのとき二人は初めてアイマン森というところで狩猟をした[5][4]。クビライは1匹のウサギを、フレグは1頭の鹿を射止めた[5][4]。モンゴルの習慣で子供が初めて狩猟に出た際に親指に油をつけ、獲物の肉と脂身を指にこすりつけるという風習があったため、チンギス・カンは二人の孫に油を塗ってやった[5][4]

ペルシア遠征へ出発

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中央アジアからイラン高原へ向かうフレグ(『集史』パリ本より)

1251年、兄のモンケが第4代カアンに即位すると、オノン川の源流の付近で召集されたクリルタイにおいて、ペルシアに軍を派遣することが決議され、モンケ・カアンはその司令官として弟のフレグを指名した[6][7]。決議に従って各帝室諸王侯たちは10人に2人の兵士をフレグに提供し、これらの部隊はその王侯の近親者によって指揮されることになった[7]。また、石、石油、槍を投射する機器を扱うための技師1000人を中国から派遣した[7]。前もって派遣された将校たちはフレグの軍のためにカラコルムビシュバリクとの間に位置するトンガト(カンガイ)山以西にある進軍路上のすべての草原を確保すべしとの命令を伝達した[7]。この線上に駐屯しているすべての軍隊はそこから離れるよう命ぜられた[8]。道路が補修され、船橋が用意された[8]バイジュの軍に属する一部隊はルームの国境の方へ退くよう命令を受け、ペルシアの代官たちは兵士1人ごとに1タガールすなわち百メン[注釈 2]の穀物粉と、革袋1つ分、すなわち50メンの酒(クミーズ)を準備させた[8]ナイマン族出身のノヤン・ケドブカ1252年7月末ごろに1万2000の前衛部隊を率いて出発した[8]

モンケ・カアンはフレグの出発に先立ち、偉大なる祖父チンギス・カンを模範としてその教訓に従うこと、自発的に降伏する者には温情をもって取り扱い、抵抗する者は全滅するよう指示した[9]。モンケ・カアンはフレグとその妃妾、諸子に金銀、宝石、衣服、馬匹などの贈物を与え、その軍隊の諸将にも惜しみなく賜物をした[9]。また、このころに「相之五県(=相州の5県=後の彰徳路)」がフレグに投下領として与えられているが、これは遠征に先立つ軍需品の提供という側面があったと考えられている[10]

1253年5月、フレグはモンケ・カアンの宮殿を去り、自身のオルドへ戻ると、多くの帝室諸王侯が送別の挨拶と贈物をもたらした[11]。10月、フレグはオルドを出発すると、その所領の支配権を長男アバカではなく、次男のジュムクル(ジョムクル)に委ねた[11]バトゥからの派遣部隊である王侯バラカンとトタルが前衛となり、各駅ごとに食糧やクミーズを受け取った[11]。フレグ一行がアルマリク地方へ到着すると、チャガタイ・ウルスの当主であるオルガナ妃およびその他婦人たちはフレグを歓迎して宴を催した[12]。その後さらに西方へ進軍すると、トルキスタントランスオクシアナ別失八里等処行尚書省)の財務長官マスウード・ベクが両地方の諸将とともにフレグに敬意を表しに来た[12]。フレグは1254年の夏をトルキスタンで過ごし、1255年9月になってサマルカンドに到着した[12]。マスウード・ベクはフレグのためにこの都市の付近の豊美なる草原のなかに金襴緞子を貼り付けた帳幕をしつらえさせた[12]。フレグはこの場所で40日間宴楽で過ごした[12]。フレグはケシュ市においてペルシア(阿母河等処行尚書省)の総督アルグン・アカとホラーサーンの貴族、高官たちの来迎に接した[13]。フレグはこの地に1か月とどまり、この地から西アジアすべての君主へ降伏勧告を送った[13]

われわれはカアンの命令により、ムラーヒダ(ニザール派[注釈 3]を滅ぼさんがためにこの地へ到着せり。もし、なんじが自らなんじの軍隊を率いてわれわれの軍に参加せば、なんじはなんじの国と家族を保つことを得ん。また、なんじの功労は報われるならん。もし、なんじが服従することを躊躇せば、神の加護をもって予はこの民族(ムラーヒダ)の運命を決したるのち、なんじを襲うべし。しかして、なんじを同様の苛酷さをもって遇するならん。

[13]

ペルシアに到着

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1256年1月、フレグは船橋でジャイフーン川を渡るやいなや、ルーム・セルジューク朝のスルターンたちとファールスサルグル朝)のアタベク・サアドの使節たちの挨拶を受け、また、イラーク、ホラーサーンアッラーンシルワーングルジア王国の貴族たちはすべて莫大な贈物を捧げてフレグに朝貢してきた[14]。フレグはシュブルカーンの草原に幕営し、冬を過ごした[14]。春になるとアルグン・アカは政務を報告するためにモンケ・カアンのもとへ出発するに先立ち、フレグに豪華な刺繍を施した一枚の帳幕と宝石をちりばめた金銀の器皿杯などの宴会用品を献上し、自分の代理人として子のケレイ・マリク、書記(ビチクチ)のアフマドおよび、のちに『世界征服者の歴史』の著者となるアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーを残していった[15]

イスマーイーリー教団の根絶

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→詳細は「モンゴルのニザール派討滅」を参照
アラムートに籠城するニザール派と攻撃するモンゴル軍(1256年)
アラムートの占領(1256年)
周辺の山城
フレグ率いるモンゴル軍がアラムートを解体する様子を描いた細密画

フレグはクーヒスターン州とルードバール地方ならびにシリアにおいて多数の城塞を有していたイスマーイーリー派ニザール派)というイスラム教派を絶滅させるための準備をした[15]。この宗派の第8代教主ルクヌッディーン・フールシャーペルシア語版はその居城であるマイムーン・ディズから一人の官吏をハマダーン市にいるノヤン・ヤサウルのところへ派遣して、モンゴル皇帝への降伏の保証を求めさせた[16]。ヤサウルはちょうど到着したフレグのもとへ赴くよう使者に勧告した[16]。ルクヌッディーン・フールシャーはただちに弟のシャーアンシャーをフレグの幕営へ派遣すると回答し、シャーアンシャーを出発させた[16]。それにもかかわらずヤサウルは数日してからテュルク人とペルシア人からなる一隊を率いてアラムート地方へ侵入し、その要塞を攻撃させた[16]。しかし、激戦の後に退却を余儀なくされた[16]

フレグはホラーサーンのザーヴァ地区に到着すると、ココ・イルゲイとケドブカにクーヒスターン州の征服を成し遂げるよう命じた[17]。というのも、2年前からケドブカが1万2千の前衛を率いてクーヒスターンを攻略していたにもかかわらず、いくつかの要塞を落とせていなかったからであった[17]。ケドブカはココ・イルゲイとともにトーン城鎮を攻略し、そこの住民をなぎ倒し、クーヒスターン征服を完了させた[17]

フレグはペルシア総督府のあるトゥース市にあるアルグン・アカの庭園のなかに天幕を設置し、チンギス・カン時代に破壊されたニーシャープール地方のイスラム寺院とバザールを修復させ、人々を住まわせるよう命じた[18]。そこにルクヌッディーン・フールシャーの弟シャーアンシャーが使者としてやってきたので謁見し、ルクヌッディーン・フールシャーへの書簡を渡した[18]。その書簡の中で降伏の条件として城堡を破壊することとし、これまでの過失を許すとともに、その国土に危害を加えないことが記されていた[19]。ルクヌッディーン・フールシャーは書簡を受け取ると、さっそくいくつかの城堡を破壊し、アラムート、マイムーン・ディズ、ランマサルの各堡の城門を取り除かせ、その防備施設の一部を削らせた[19]。これによってフレグはノヤン・ヤサウルの軍隊を撤退させた[19]

1256年9月、ルクヌッディーン・フールシャーがフレグに服従を誓い、モンゴルの徴税官(バスカーク)を受け入れたにもかかわらず、直接朝貢にやってこないため、フレグは使節を送って帰順するように催促した[19]。これに対し、ルクヌッディーン・フールシャーはフレグの使節とともに親族と宰相のシャムスッディーン・ギーラーニーを同行させ、朝貢の遅延の弁解と、アラムート、ランマサル、ラールの三城を保有できるよう懇願した[19]。フレグはルクヌッディーン・フールシャーの居城であるシャー・ディズを包囲し、ふたたびフレグのいるダマーワンドの幕営へ臣従しに来るよう勧告し、政務で遅れる場合は自身の子を派遣するよう指示した[20]。ルクヌッディーン・フールシャーはさっそく300人の徴募兵を提供し、城堡の取り壊しに同意したが、自身の子ではなく、父とクルド人奴隷との間に生まれた7歳の幼児を自分の子と称して派遣した[21]。フレグはすぐに見破ったが、特に咎めることなくこの子を送り返し、代わりにルクヌッディーン・フールシャーの弟シャーアンシャーをよこすよう要求した[21]。10月、ルクヌッディーン・フールシャーは弟シャーアンシャーを派遣した[21]。フレグはマイムーン・ディズ要塞の防備を撤去して朝見にくれば丁重に扱うが、そうでなければ神のみぞ知るとシャーアンシャーに伝えて還すと、ルクヌッディーン・フールシャーがまたも同じような逃げ口実を言ってきたため、ブカ・ティムールとココ・イルゲンを右翼に、ネグデル・オグルとケドブカを左翼に、ブルガイとトタルをアラムート側面から進軍させ、自身は中軍(コル)を率いて、マイムーン・ディズ要塞の攻略にかかった[22]。11月、投石機を使って攻撃をしかけると、ルクヌッディーン・フールシャーが使者を派遣してきてこれまでの行為を陳謝し、翌日には出頭するつもりであることを伝えてきた[23]。フレグは宰相アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーに命じて降伏条件書を書かせてルクヌッディーン・フールシャーに送った[24]。しかし、翌日になって城塞の住民から出頭することを妨害されて出頭できないと言ってきたため、モンゴル軍は四方八方からいっせいに攻撃をしかけ、1日中それが続いた[24]。11月19日、ついにルクヌッディーン・フールシャーは降伏することを決意し、フレグのもとに出頭し、平伏すると、おびただしい財宝をフレグに献上した[24]。フレグはこの財宝を将校たちに分配し、翌日マイムーン・ディズの包囲を解いた[25]。ルクヌッディーン・フールシャーはフレグから厚遇されたが、諸将の監視下に置かれ、40以上の城塞をモンゴル軍に引き渡した[25]。モンゴル軍はこれらの城塞を破壊したが、アラムートとランマサルの守将が降伏を拒否したため、フレグはルクヌッディーン・フールシャーを伴って降伏するよう呼びかけさせた[25]。12月20日ついにアラムート城塞が開城したため、モンゴル軍はその城塞を掠奪した[26]。この時、アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの勧めで図書館に所蔵されているクルアーンの写本や貴重な書物、天文観測器などを手に入れた[26]。残るランマサル城塞攻略はタイル・ブカに任せてフレグはカズヴィーン市近くの司令部へ帰還した[27]

フレグはイスマーイール派のすべての城塞を降伏させることに利用するため、しばらくルクヌッディーン・フールシャーを伴って行動し、彼に素性の卑しいモンゴル人女性を娶らせた[28]。やがてその必要がなくなると、フレグは彼を亡き者にしようと考えた[28]1257年3月、ちょうどルクヌッディーン・フールシャーがモンケ・カアンに朝貢したいと願い出たため、フレグは彼に数人のモンゴル将校と9人の随行人をつけて送りだしてやった[28]。ルクヌッディーン・フールシャーはモンケの宮廷に到着したが謁見することを許されず、引き返すところでカンガイ山付近で殺された[28]。フレグはその後モンケ・カアンの命に従い、イスマーイーリー派の女・子供にいたるまでのすべての信徒を虐殺させ、その数は1万2千人にのぼった[29]

アッバース朝征服

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当時のバグダードの俯瞰図
フラグ・カンによるバグダード陥落(ムガル帝国時代の『集史(ジャーミー・アッタワーリーフ)』写本より、1596年)
1258年のフレグ西方遠征軍によるバグダード包囲(『集史』パリ本より)
フレグの前に連れてこられるムスタアスィム

フレグは続いて750年以来、約500年続くアッバース朝の根絶に取り掛かった[30]

1257年3月、フレグがカズヴィーン市の付近からハマダーン市へ赴いたとき、ノヤン・バイジュがアーザルバーイジャーン(アゼルバイジャン)から表敬訪問に来た[31]。フレグはこのとき、バイジュに対し「なんじがチョルマグンから指揮権を受け継いで以降、なんじは何をしてきたのか!」と叱責した[31]。バイジュは過失がないこと、ルームを征服したこと、バグダードの防備が固かったことを理由に弁明した[31]。9月、フレグはアッバース朝の第37代ハリーファ(カリフ)・ムスタアスィムに降伏勧告をおこなった[31]。これに対し、ムスタアスィムはフレグの使節に降伏を拒絶する返事をして帰した時、使節はバグダードの群衆に囲まれ、悪口や唾を吐き捨てられ、衣服を引き裂かれるなど暴行を受けた[32]。これを聞いたフレグは怒り狂い、戦争の準備に取り掛かった[32]。とはいえムスタアスィムはモンゴル軍を何とかしたかったので、どうすべきかを宰相(ワズィール)のムアヤドゥッディーン・ムハンマド・イブン・アル=アルカミーに尋ねると、モンゴルよりだったアルカミーは「財宝と馬を惜しみなく恵むことです」と言ったので、それを採用しようとしたところ、副尚書(小ダワートダール)のムジャーヒドゥッディーン・アイベクが反対した[32]。将軍スライマーン・シャーも名誉の死を遂げてでもモンゴル軍と戦うという気概を見せた[33]。しかし、副尚書も将軍も無能なハリーファに対して憤慨していた[33]

フレグはまずイラーク・アジャミー州、イラーク・アラビー州を分かつ山岳地方を征服するにあたり、そこにあるダルタンク要塞の守将フサームッディーン・アッケがハリーファに恨みごとがあることを知っていたため、彼に恩恵を施し、その他の要塞を占領するよう命じた[34]。アッケはその命に従ったが、すぐに我に返って自分の罪をハリーファに報告したものの、許してもらえなかった[34]。これを知ったフレグはケドブカに命じて彼を捕らえさせると、彼の家族と軍隊とともに処刑した[35]

フレグはバグダード侵攻前に2人の占星学者に相談した[35]。フサームッディーンは「バグダードに侵攻する者はすべて王位と生命を失うでしょう」とし、ナスィールッディーン・トゥースィーは「親王(フレグ)がハリーファにとって代わるでしょう」とし、バクシやモンゴルの将軍たちも侵攻を催促したため、フレグはバグダード攻めを決意した[36]。11月、フレグはハマダーン市を出発し、ココ・イルゲイ、ウルウト、アルグン・アカ、カラタイ、宰相サイフッディーン、ナスィールッディーン・トゥースィー、サイブ、アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーおよびペルシアの諸王侯、貴族、代官たちを従えて進軍した[37]。フレグはサアド・アーバード城からハリーファのもとへ使節を送って投降するよう促したが、ハリーファ・ムスタアスィムは拒否した[38]。フレグはクルド人の山岳地帯へ侵入し、キルマーンシャーハーン市付近で掠奪し、ターク・ケスラという地点の幕営で右翼の諸将ならびにバイジュ、スンジャク、スウンタイの諸将を召集した[39]

1258年1月、バイジュ、ブカ・ティムール、スンジャクらはティグリス川を渡り、アッバース朝の副尚書アイベク、将軍のファトゥッディーン・イブン・ケレルの軍と戦闘になった[40]。モンゴル軍はいったん退却するように見せかけて敵軍をおびき出し、堤防を決壊させてファトゥッディーンのアッバース朝軍を全滅させた[40]。副尚書アイベクは何とか逃げ帰った[40]。1月22日、バイジュらはバグダードに到着して西側に陣取り、東側にはフレグの本隊がすでに陣取っていた[41]。モンゴル軍はティグリス川の両岸に土塁を築いて城を囲み、城の側に濠を掘った[41]。さらに小高い丘をつくり、そこに投石機を配置した[41]。フレグはアジャミー門の正面に陣取り、ココ・イルゲイはカルワーザー門の前に陣取り、クリ、ブルガイ、トタル、シレムン、ウルウトはスーク・スルターン門の前に陣取り、ブカ・ティムールは城塞の方へ南面し、バイジュとスンジャクは西に向かって陣取った[41]。1月31日、諸軍はいっせいに攻撃を開始し、投石機によってアジャミー門の城楼側面の最も下方の部分に大きな破れ口をあけた[41]

ハリーファ・ムスタアスィムはモンゴルの軍営へ宰相ムアヤドゥッディーン・ムハンマド・イブン・アル=アルカミー、寵臣ベン・ダルヌース、ネストリウス教会の大司教マキコを派遣し、贈り物を届け、フレグに対して「約束を守ってほしい」と言ってきたが、フレグは宰相のほかに将軍スライマーン・シャーと副尚書(小ダワートダール)アイベクをよこすよう告げ、使節の謁見を拒否した[42]。攻撃は再開され、6日間にわたって行われた[42]。フレグは法官、法律学者、シャイフ、アリー族、一切の武器を持たない者の助命を約束した6か条文を矢に付けて城中の各地に発射させた[42]。2月1日、アジャミー門楼が破壊され、4日にモンゴル軍はこの城楼に隣接している城壁の一部に梯子をかけて攻略し、籠城軍を駆逐した[43]。フレグはスーク・スルターン門の正面に陣取っているジョチ家の部隊が一向に侵攻しないのを責めると、彼らはその夜に突撃を開始し、東部の城壁はすべてモンゴル軍に占領された[43]。モンゴル軍はバグダードに通じる川と道路を完全に封鎖していて誰一人逃げ出すことができなかったため、ハリーファ・ムスタアスィムはフレグへの使者に贈り物を持たせて送ったが、フレグは自分の要求と違ったため接見を拒否した[43]。その後も何度か使者が来たが、スライマーン・シャーと副尚書(小ダワートダール)アイベクではなかったので、無視した[44]。ついに二人は連れてこられ、副尚書(小ダワートダール)アイベクとスライマーン・シャー、ついでに大ダワートダールの子アミール・ハッジュッディーンを処刑した[45]。2月10日、ハリーファ・ムスタアスィム、その子アブドゥル・ラフマーン、アフマド、ムバーラクらはサイード族、イマームたち、法官、貴族など3千人を従えてフレグに投降した[46]。フレグはハリーファに城中の住民に対し、武器を捨てて人口調査に応じさせるよう命じ、ハリーファはそのように布告した[46]。軍人と一般住民は群をなして都城の各門へ押し寄せたが、モンゴル軍はこれを出てくるごとに殺していった[46]。ハリーファとその諸子と随行者らはカルワーザー門に面したノヤン・ケドブカの軍営へ移され、厳重に監視された[46]

フレグ(左から2人目の人物)、ムスタアスィム(一番右の人物)、ムスタアスィムが蓄えた財宝

2月13日、バグダードの略奪が開始された[46]。モンゴル軍は同時に各方面から市内に火を放ち、キリスト教住民と若干の外国人のみが助命された[46]。2月15日、フレグは城内に入り、ハリーファの宮殿に訪れると諸将のために宴を開いた[46]。フレグはハリーファを連れてきて隠された財宝を差し出すよう要求し、ハリーファは恐る恐るすべてを差し出した[47]。続いてフレグは後宮の人数を数えると、そのうちの100人はハリーファに与え、すべての財宝をフレグの帳幕のまわりに積み上げさせた[48]。バグダードの略奪は7日間つづき、バグダードのイスラム寺院の大部分は焼き払われ、虐殺された人数は80万人に上った[48][注釈 4]。2月21日、ハリーファ・ムスタアスィムとその長子は袋に入れられたまま馬に踏みつけられて殺された[50][注釈 5]

フレグはアリ・バハドルをバグダードの長官に任命し、宰相ムアヤドゥッディーン・ムハンマド・イブン・アル=アルカミーと財務長官ファフルッディーン・ダムガーニーにはそのまま続投させ、アフマド・イブン・アムラーンをバグダード以東の知事に、ニザームッディーン・アブドゥル・ムーミーンを大法官に任命した[52]。ノヤン・イルゲイとカラ・ブカには3千騎を率いさせて駐留させ、バグダードの治安維持と死体埋葬をおこなわせた[52]

モンケへ報告

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1258年、フレグはこれまでの西アジアで獲得した莫大な財宝をアーザルバーイジャーンのウルミア湖の中央部にあるタラという島に堅牢な要塞を建てさせ、その中に財宝を貯蔵した[53]。また、南宋攻略中の兄モンケ・カアンのもとに使者を派遣し、これまでのペルシア征服事業の報告をおこない、続いてシリア、エジプトへ進軍することを報告した[54][53]。この時モンケ・カアンはジャイフーン(アム)川以遠の統治権をフレグに与えた[54]

モスルのスルターンが臣従

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1258年8月、フレグはマラーガ市においてモスルのスルターン・バドルッディーン・ルールーの臣従を受けた[53]。彼は在位39年にあり、80歳であった[53]。フレグは彼を厚く歓迎した[55]

大ルル公国と小ルル公国

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ルリスターン地方は2つの公国に分かれており、それぞれ大ルリスターン小ルリスターンと呼ばれていた[56]。フレグは大ルル公国のアタベクにシャムスッディーン・アルプ・アルグーンを任命し、小ルル公国のアタベクにはバドルッディーン・マスウードを任命した[56]

ファールスのアタベク、ルームのスルターンが臣従

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1258年8月9日、フレグはファールス(サルグル朝)のアタベク・サアド・イブン・アブー・バクルがバグダード征服の祝賀とともに臣従に来たので、それを受けいれた[56]。同時にルーム・セルジューク朝ルクン・ウッディーン・キリジ・アルスラーンイッズッディーン・カイ・カーウースの両スルターンが臣従してきたので、彼らの調停文に調印し、ルームの分割統治を承認した[57]

マラーガの天文台

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ナスィールッディーン・トゥースィー

天文学者ナスィールッディーン・トゥースィーはフレグから最も適当と思われる場所に天文台を建てるようにとの命令を受けていた[58]。彼はかつてフレグに事件をうまく予見し、将来のことを星占いするために、日月と5つの惑星の毎日の位置を正確に指示した優れた天文表が必要であると説明していた[58]。彼はこれらの天体が異なった時期に作られた表によって明らかにされたように、歳差運動をもっていて、このことはある一定の時間ののちに新たな観測を必要としていること、しかし、新しい天文表を作成するためには土星が30年という公転を必要とするから、この期間の間、新しい観測を続けなければならないということを説明した[58]。フレグは彼がこれらの表をもっと短時間に、例えば12年の間に作成できないものかと問うた[58]。ナスィールッディーンは「もし、天が私に年月を与えてくれるならば、この期間内にこの仕事を成就することに努めるが、その際に前代の諸表を参照し、比較しなければならず、その最も古いものは1400年前に作成されたエネルジェスの諸表であり、ついで、その275年後にできたプトレマイオスの諸表があり、さらにまた、ハリーファ・マアムーンの治世にバグダードにおいて行われた観測、シリアにおいて行われたテバーニーの観測があり、最後に250年前にエジプトで行われたハーキミーとイブン・アル=アーラムの観測があってこれは最近のものである」と述べた[58]

1259年、ナスィールッディーンはマラーガ市の北にある小さな丘を選定し、ここに天文台の土台を据えた[59]。この建設には国庫から費用が支出され、フレグはナスィールの要求に応じて4人の有名な天文学者ムアヤドゥッディーン・イブン・アル=ウルズィー、ナジュムッディーン・カーティブ、マラーガのファフルッディーン、ヒラートのファフルッディーンを協力させた[59]。天文台はいくつかの渾天儀と天文観測器(アストロラーベ)が備え付けられた[59]。この建物の円屋根のなかに作られた窓から太陽の光が中に入って床の上に子午線高度と日時を指示できるようになっていた[59]。天文台の中には一台の地球儀があり、全地球は七つの気候帯に区分されていた[59]。この天文台でなされた観測に基づいてアバカ・ハンの時代にナスィールッディーンは天文表を作成し、これを『ズイージュ=イ・イルハーニー(Zīj-i Īlkhānī)』(イルハン天文表)と題してアバカ・ハンに献呈した[60]。この天文観測機器だけでも2万ディーナールの費用がかかった[61]

シリア征服

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1258年、シリア(ダマスカス)のアイユーブ朝君主アル=ナースィル・ユースフはフレグの宮廷にその子アズィーズ、宰相ザイン・ウッディーン、将軍1人、数人の侍従、莫大な贈り物とともに派遣し、同時にモスル王バドルッディーン・ルールーにも書簡を送り、フレグに嘉納を斡旋するよう懇願した[62]。フレグはアル=ナースィル・ユースフ自身が来ないのを不信に思い、1259年9月、シリアへ向けて侵攻した[63]。フレグはヒラート街道を経由してハッカール山を越え、クルド人をなぎ倒し、ディヤールバクルに侵入してジャズィーラ城を占領した[63]。フレグの三男イシムト(ヨシムト)はノヤン・スウンタイとともにマイヤーファーリキーン市を奪取する任務を委ねられた[63]。マイヤーファーリキーン市の領主カーミルはアイユーブ朝の王侯であって彼は数年前にモンケの宮廷に朝貢して厚遇を受け、モンケ・カアンから彼の公国の保護を承認する勅許状を得たのであったが、のちに敵対したので、フレグは彼を罰しようと欲した[63]

フレグはマールディーン王のサイード・ナジュムッディーン・アル=ガーズィーに服従を勧告し、彼を呼び寄せた[64]。彼はその子ムザッファル・カラ・アルスラーンを大法官ムハッズィブッディーン・ムハンマドおよびアミール・サビクッディーン・ビルバーンと共に派遣し、贈物の捧呈と書簡を手渡す任務を託したが、この書簡のなかでマールディーン王は自分自身でフレグに朝貢に行けない弁解として自分が病気であると申し立てた[64]。フレグは彼に「その病気はシリア王のナースィルを恐れているからである」と伝えた[64]

バドルッディーン・ルールーの子マリク・サーリフはフレグからアーミド市を攻囲するよう命ぜられ、フレグはナスィービーン市を陥落させた。フレグはハッラーン市の付近に軍営を置いてこの都市とルハー市の降伏を受け入れた[65]。一方でサルージュ市は降伏しなかったので虐殺された[65]

アル=ナースィル・ユースフはフレグの軍がハッラーン市まで来たことを知り、諸将と協議して戦うことが決定された[66]。しかし、宰相のザイン・ウッディーン・アル=ハーフィズィーはナースィルの不安な様子を見てフレグに降伏すべきであると勧告したが、この臆病な意見に対してアミールのバイバルス・ブンドクダールは宰相にとびかかり、暴力をふるった上にさんざんに非難した[66]。さらにマムルークの一団はナースィルにも襲い掛かったのち、エジプトのマムルーク朝のもとへ逃れた[67]。ナースィルもまたマムルーク朝に庇護を求めた[67]

フレグはユーフラテス河畔のアル=ビーラ市を包囲して奪取した[68]。その後もマラティヤ市、カラート・アル=ルーム、アル=ビーラおよびカルキースィヤ諸市にかけた橋によってユーフラテス川を渡った[68]。フレグはマンビジ市を掠奪し、アレッポへ進軍した[68]。それを聞いたアレッポの住民たちは恐れおののいてダマスクスへ避難したが、ダマスクスの人々のほとんどはすでにマムルーク朝へ避難しており、運悪くダマスクスにペストが猛威を振るっていたため多くの人が亡くなった[69]

シリア・パレスチナ戦線 (1260年)。

1260年1月、フレグは2~3日ののちアレッポ城下に到着し、王侯ムアッザムに書簡を送って降伏勧告をしたが、ムアッザムはこれを拒否した[70]。モンゴル軍は20台の投石機でもってアレッポを攻城し、7日目に陥落させた[71]。5日間略奪と虐殺が行われた[71]。約10万人の婦女と児童が捕虜となり、アルメニアやヨーロッパへ売られた[71]

ハマー市を支配していたアイユーブ朝の王侯マンスール・ムハンマドはハマー市の守備を宦官のムルシードに委ね、首都を去ってダマスクスに移っていたが、このムルシードもアレッポの破滅の後、ハマー市を去ってマンスールに合流した[72]。ハマー市の貴族はこの都市の鍵をアレッポ城下のフレグのもとに送り、公国の住民の安全保障を求め、官吏を派遣するようフレグに乞うた[72]。フレグはこれを承諾し、彼のところにホスローシャーという名のペルシア人を派遣した[72]

アル=ナースィル・ユースフはなおもバルザー村付近の幕営にいたとき、アレッポ陥落の報告を聞いた[73]。彼の諸将はガザ市へ退却し、スルターン・クトゥーズに救援を乞うよう勧告した[73]。ナースィルはハマー王のマンスールと少数の部下とともに出発し、ダマスクス市を無防備のまま残した[73]。ナースィルがダマスクスを離れた後、ザイン・ウル・ハーフィズィーの名で知られたアリーの子アミール・ザイン・ウッディーン・スライマーンは城門を閉じ、貴族たちを集めて協議し、城民の血を流させないためにダマスクス城をモンゴル軍に引き渡すことを決めた[74]。その結果住民の代表団が莫大な贈り物とダマスクス城の鍵を携えてアレッポ城下のフレグの陣営へ赴いた[74]。2月、フレグはこの代表団の長となった法官ムハーイー・ウッディーンに金糸織の礼服を着させ、彼をシリアの大法官に任命した[74]。ムハーイーはただちにダマスクスに帰り、フレグが住民の安全を保障したことを報告した[74]。しかし、ダマスクス城はなおも降伏していなかったため、3月、ケドブカは城塞を包囲し、投石機で攻撃し、4月にようやく陥落した[75]。モンゴル軍はこれを掠奪し、建物を焼き、城楼の大部分を取り壊し、武器を破壊した[75]。ダマスクスの守将はザイン・ウル・ハーフィズィーによって処刑された[75]

モンケ・カアン崩御

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フレグはアレッポにてモンケ・カアンが崩御したことを知った[76]。フレグはケドブカにシリアにおける軍司令を委ね、モンゴリア本国へ帰還することにした[76]。また、アレッポの長官にはファフルッディーンを、ダマスクスの長官にはバイダラを任命した[76]。フレグがアレッポを立ち去るに際し、アレッポと城塞の城壁を取り壊すよう命じた[77]

フレグは帰路の途上で次兄クビライと弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、西アジアに留まることを決断した[78]。とりあえず自身はアーザルバーイジャーンに本拠を構え、シリアには将軍のケドブカを置いてマムルーク朝を牽制した[78]

アル=ナースィル・ユースフを捕縛・殺害

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王侯アル=ナースィル・ユースフはマムルーク朝へ逃れたものの、バルカ地区(トランスヨルダンのあたり)のズィーザ湖畔でモンゴルの分遣隊によって捕らえられ、ケドブカのもとへ連れていかれた[79]。ケドブカは彼を利用して、まだ帰順していなかったアージルーン要塞を帰順させた後、彼とその弟ザーヒル、ヒムス王アシュラフの子サーリフをタブリーズ市にいるフレグのもとへ護送した[80]。ナースィルは途中、ダマスクス市、ハマー市、アレッポ市を通過したが、アレッポの廃墟の惨状を見たとき涙を流した[80]。タブリーズ市に到着するとフレグは彼を歓迎し、自分がマムルーク朝を征服した暁にはシリアを与えることを約束した[80]。フレグは彼にダマスクス地方を封邑として与え、300人の騎兵をつけてやったが、ケドブカのアイン・ジャールートの敗北を聞き、ナースィルがマムルーク朝に寝返ることを予見したフレグはすぐさまナースィルらを殺すよう命令を出し、一人の占星学者を残してすべて殺害した[81]

アイン・ジャールートの敗北

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アイン・ジャールートの戦い
→詳細は「アイン・ジャールートの戦い」を参照

1260年9月、マムルーク朝のスルターン・ムザッファル・クトゥズが侵攻してきたため、ケドブカはシリア領内の軍隊を結集し、ナーブルス・バイザーン両地間のアイン・ジャールート平原(ゴリアス河源)において戦闘をおこなった[82]。ケドブカは何度も突撃を繰り返したが、モンゴル軍の首領の大半を失い、ケドブカ自身も敵将ジャマールッディーン・アクーシュによって戦死し、敗残兵もことごとく殺された[82]。モンゴル軍に帰順していたアイユーブ朝の王侯サイードはマムルーク朝軍に投降したが殺された[83]。フレグがシリア各地に置いた長官は虐殺され、シリアはマムルーク朝に占領され、モンゴル軍は撤退した[84]

王侯カーミルの処刑

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フレグはケドブカの復讐をしたくてたまらなかったが、モンケ・カアン崩御後の処理に忙殺されて身動きが取れない状態だった[85]

フレグがタルバシール市にいるとき、アイユーブ朝の王侯でマイヤーファーリキーン市のカーミルが捕らえられてフレグのもとに連れてこられた[86]。フレグは人々に彼の肉片をはぎ取って彼の口に押し込ませて殺し、その首級は槍の先に掲げられてアレッポ、ハマー、ダマスクスともっていかれ、ダマスクス市の街頭を歌と太鼓で引き回され、最後に網に入れてアル=ファラーディーズ門の脇の城壁につるされ、マムルーク朝軍が来るまで放置された[86]。スルターン・ムザッファル・クトゥズは城門の近くにあるフセイン霊廟のなかにカーミルの遺骸を葬った[86]

マールディン市の攻囲

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フレグは三男イシムトにマイヤーファーリキーン市を陥落させた後、マールディン市包囲を命じた[87]。8か月の末に飢えと伝染病が蔓延したので、マールディン王サイードは病死し、その子ムザッファルは城と共に降伏した[87]。フレグはムザッファルにマールディン公国の統治権を与えた[87]

バイダラのシリア侵攻

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マムルーク朝のスルターン・ムザッファル・クトゥズがクーデターによって殺されたことを聞いて、モンゴルの将軍バイダラはアイン・ジャールートの敗残兵とメソポタミア駐留軍よりなる6000人ほどの部隊を率いてシリア奪還を試みた[88]

1260年11月、モンゴル軍がアレッポ市に近づくとその長官アミール・フサームッディーンはアレッポを棄ててハマーへ逃れたため、モンゴル軍は戦わずしてアレッポを占領できた[88]。モンゴル軍は続いてハマー市へ進軍すると、またもアミール・フサームッディーンはハマー王アル=マンスール・ムハンマドと共にヒムス市へ逃亡した[89]。12月、モンゴル軍はヒムス市に到着すると、ヒムス王アシュラフ・ムーサ、ハマー王アル=マンスール・ムハンマド、アミール・フサームッディーンらが迎撃してきたため、バイダラらは潰走し、アレッポまで退却し、ココ・イルゲイと合流した[89]1261年4月、マムルーク朝軍が来ることを聞き、モンゴル軍はアレッポを放棄した[90]

フレグとベルケの反目

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1262年、テレク川の戦い

ジョチ・ウルスの第5代当主のベルケ・ハンはイスラム教徒であったため、フレグに対してしばしば強硬な意見を吐いていた[91]。ベルケはフレグの残酷さ、友人に対しても敵に対しても加える暴力、多数のイスラム都市の破壊、ハリーファの処刑について非難した[91]。また、フレグのペルシア遠征に従軍していたジョチ家のクリ、バラカン、トタルがフレグによって殺されたことを疑った[91]。フレグはベルケの非難と叱責に堪えかねて「ベルケを尊敬するに足りない」と言明し、ベルケもまたフレグによって殺された多数の人々の復讐をすべきとトタルの従兄ノガイ率いる3万の軍を差し向けた[92]

1262年8月、フレグはペルシアのすべての州から集めた軍を率いてアタラクを出発し、チョルマグンの子ノヤン・シレムンの前衛はシャマーハ市付近で完敗を喫した[93]。11月、ノヤン・アバタイはシルワーン州で敵に勝利した[93]。12月、フレグはこの勝ちに乗じてシャマーハから進軍してデルベント関の敵軍を駆逐し、ノガイを敗走させた[93]。フレグはこの勝利にかまけて酒と宴楽にひたっていたところ、ノガイの反撃にあってテレク川の付近で敗れ、逃走兵は凍った川を渡ろうとしたが割れて多数が溺死した[94]。一方でベルケはマムルーク朝のスルターン・バイバルスに書簡を送り、使節を交換し合った[95]

1263年4月、フレグはこの失敗に意気消沈してタブリーズ市に帰った[94]。フレグは新しい軍を徴発して戦闘準備をさせるよう命令をくだし、タブリーズに滞在していたベルケ所属の商人に対し、先の敗北の復讐として彼らの財産を没収した[94]。ベルケはこれに対し、ジョチ・ウルス領内のフレグ所属の商人を殺した[94]。これに対しフレグはバトゥ家に所属するブハーラー市民を殺した[94]

1264年、ノガイが再びデルベント関から侵入してくるという噂が広まったため、フレグは戦争準備に取りかかった[96]

フレグの内政

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ベルケは1262年の戦勝の後、結局軍事行動は起こさなかった[97]。そのためフレグは1264年のうちにアラタクに宮殿を、ホーイ城に数座の偶像寺院を建て、マラーガ天文台の工事を進めることができた[97]。フレグは学者にとりかこまれてその話を聞くことが好きだった[98]。とくに錬金術師の話が好きだったが、彼らの実験は莫大な費用がかかった[98]。また、占領地の統治にとりかかり、長男アバカにイラーク、マーザンダラーン、ジャイフーン川にいたるホラーサーン各州の統治を、三男イシムトにアッラーン州、アーザルバーイジャーン州の統治を、将軍トダンにディヤールバクルとユーフラテス川にいたるディヤール・ラビーアの統治を、ムイーン・ウッディーン・パルワーナにルームの統治を、マリク・サドルッディーンにタブリーズ地方の統治を、テルケン・カトンケルマーン州の統治を、アミール・イキアトにファールス州の統治をそれぞれ委ねた[98]。宰相はサイフッディーン・ビティクチを殺して代わりにシャムスッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニーを任命し、その弟アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーをバグダードの長官に任命した[98]

アル=ハーフィズィーの処刑

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同じ年、フレグはザイン・ウッディーン・アブール・ムアヤド・スライマーン・イブン・アミール・アル=アーカルバニーに死刑の宣告をした[99]。この人物は旧主であった王侯ハーフィズの名にちなんでアル=ハーフィズィーと呼ばれていた[99]。アル=ハーフィズィーはダマスクスでの横領の罪に問われていた[99]。フレグは彼がこれまでの旧主を裏切ってきたことを鑑み、彼の家族、一族郎党約50人を死刑に処した[99]

また、同じ年にファールス(サルグル朝)のアタベクであるセルジューク・シャーも処刑した[100]

アリクブケの処分

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1264年、クビライ・カアンはアリクブケ・カアンを降し、その部下の10人を死刑に処したが、アリクブケとモンケの子アスタイの審判にはフレグ・カン、ベルケ・カン、アルグ・カンの列席を希望した[101]。アルグは「自分はクビライの承認なしにチャガタイ・ウルスの当主になったのだから、自分の意見を表明する立場にない」と述べ、フレグは「この際とられたすべての処置に同意し、すぐにクリルタイに出席する」と言明し、ベルケも同じ返答をした[101]

フレグの崩御

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フレグの崩御

1265年2月8日、フレグはジャガトゥ河畔の冬営地において崩御した[102]。享年48歳であった[102]。彼の遺骸はウルミア湖の中央部に浮かぶ山のような島、タラー島の頂上に埋葬された[102][103]。モンゴルの慣習に従って墳墓の中には多くの黄金と宝石が投げ入れられ、そこへ美しく着飾った幼年の美女を生きたまま埋めた[102]。数日間続けて彼らの霊に食物を捧げた[102]。チンギス裔の男性王族の死去に際し殉死が行われたことが報告されるのは、このフレグのケースが最後である[103]

フレグが没した時、長男アバカはホラーサーン地方にいたが、ただちに三男イシムト(ヨシムト)が管轄していたタブリーズに上り、フレグの葬儀を済ませると、同年4月にクリルタイを開催し、6月15日に西征軍の王族・諸将に推戴されるかたちでフレグのイルカン位と西征軍全軍を継承し即位した。

宗室

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『集史』「フレグ・ハン紀」によると、フレグには14人の息子と7人の娘が記録されている[注釈 6]。(『五族譜(Shu`ab-i Panjgāna)』フレグ・ハン系図での人名表記には、『集史』での表記と若干異なっている場合がある)

父母

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后妃

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  • ドクズ・ハトゥン[注釈 7] - 大ハトゥン(Khātūn-i Buzurg/Yaka Khātūn)
  • グユク・ハトゥン[注釈 8] - 次男ジョムクル、長女ボルガン・アガの母
  • クトイ・ハトゥン[注釈 9] - 四男テクシン、七男テグデルの母
  • オルジェイ・ハトゥン[注釈 10] - グユク・ハトゥンの姉妹。十一男モンケ・テムル、次女ジャムイ、三女モングルゲン、七女バーバーの母
  • イェスンジン・ハトゥン[注釈 11] - 長男アバカの母

側室

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  • ノカチン・エゲチ[注釈 12] - 三男ヨシムト、五男タラガイ、六男トブシンの母
  • ボラクチン[注釈 13]
  • アリカン・エゲチ[注釈 14] - 八男アジャイ、五女タラカイの母
  • アジュジャ・エゲチ[注釈 15] - 九男コンクルタイ
  • イシジン[注釈 16] - 十男イェスデルの母
  • イル・エゲチ[注釈 17] - 十二男フラチュ、十三男シバウチの母
  • メングリ・ゲチ・エゲチ[注釈 18] - 六女クトルカの母

※その他側室多数。

子女

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男子

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女子

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  • 長女 ボルガン・アガ[注釈 31] - 母グユク・ハトゥン。ジュルマ・キュレゲン[注釈 32]に降嫁。
  • 次女 ジャマイ[注釈 33] - 母オルジェイ・ハトゥン。ジュルマ・キュレゲンに降嫁。
  • 三女 モングルゲン[注釈 34] - 母オルジェイ・ハトゥン。オイラト部族のブカ・テムルの息子チャキル・キュレゲンに降嫁。
  • 四女 トゥドゥケチ[注釈 35] - 母は氏名不詳の側室。オイラト部族のティンギズ・キュレゲンに降嫁[注釈 36]
  • 五女 タラカイ[注釈 37] - 母アリカン・エゲチ。ミリタイ・ハトゥンの兄弟でコンギラト部族のムーサー・キュレゲン(タガ・テムル)に降嫁。
  • 六女 クトルカ[注釈 38] - 母メングリ・ゲチ・エゲチ。ドルバン部族のオルグト・ノヤンの息子イェスブカ・キュレゲンに降嫁。
  • 七女 バーバー[注釈 39] - 母オルジェイ・ハトゥン。オイラト部族出身で最後のイラン総督アルグン・アカの息子リグジ・キュレゲンに降嫁。

脚注

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注釈

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  1. ^ペルシア語発音だと「ハーン Khān」と長母音発音だが、日本語(モンゴル語)表記では「ハン Khan」と短母音にするのが正しい。
  2. ^ドーソン原文ではtouganであるが、諸写本によってはtaghārと読む。ドーソンはこれを百メンと計算している。タガールは常衡675ポンドにあたり、メンはモーンド(21ないし80ポンド相当の衡量単位)にあたる。[8]
  3. ^このアラブ語は本来「迷える者」の意である。これは正統派イスラム教徒がペルシアのイスマーイール派に対して用いる形容語の一つである[14]
  4. ^その後のバグダードでは略奪と虐殺が起き、80万人の死者が出たとされるが、これはモンゴル人によるものではなく、バグダードの管理を任されたネストリウス派キリスト教徒とルーティー(ごろつき)らによるもので、むしろそれをモンゴル側が敵に恐怖心を与えるため流した噂であった可能性が高い[49]
  5. ^この殺し方はモンゴルの習わしで、君主や王侯に対して血を流さずに殺す敬意を払った殺し方である。[51]
  6. ^『集史』でのアラビア文字による人名表記は、Rawshan校訂本に依りつつ適宜修正した。
  7. ^ دوكوز خاتون Dūkūz Khātūn/ توكوز خاتون Tūkūz Khātūn:ケレイト部族オン・カンの息子イク ايقو Īqū の娘。彼女はキリスト教徒で、彼女のオルドの傍らにはキリスト教会が営まれ、定時には鐘が鳴らされていたという。最初はトルイのハトゥン(妃)であったが、後にフレグに与えられたという。『集史』や『五族譜』では、彼女は「フレグ・ハンの最上位のハトゥン(Buzurgtarīn KhKhātūn-i Hūlākū Khān)」と呼ばれている。
  8. ^ كويك خاتون Kūyuk Khātūn:オイラト部族首長家のトレルチ・キュレゲンとチンギス・カンの第二皇女チチェゲンとの娘。
  9. ^ قوتوى خاتون Qūtūy Khātūn:コンギラト部族首長家の子女。チンギス・カンの娘の息子ムーサー・キュレゲン موسى كوركان 、アバカ妃ミリタイ・ハトゥンの同母姉妹。チンギス・カンの皇后ボルテの父デイ・セチェンの兄弟ダリタイの系統で、これら3人はダリタイの息子ブユル、テクデル、ジョムクルのうちいずれかの人物の子女たちであったと見られている。
  10. ^ اولجاى خاتون Ūljāy Khātūn:アバカ時代の大ハトゥン
  11. ^ ييسونجين خاتون Yīīsūnjīn Khātūn:スルドス部族出身。クトイ・ハトゥンとともにモンゴル本国からイランに移住したという。
  12. ^ نوقاچين ايكاچی Nūqāchīn Īkāchī:ヒタイ出身。クトイ・ハトゥンのオルドに属す。
  13. ^ بورقچين Būraqchīn:クトイ・ハトゥンのオルドに属す。
  14. ^ اريقان ايكاچی Arīqān Īkāchī:オイラト部族出身のテンギズ・キュレゲン تينككيز كوركان Tīnkkīz Kūrkān の娘。クトイ・ハトゥンのオルドに属す。
  15. ^ اجوجه ايكاچی Ajūja Īkāchī:ドクズ・ハトゥンのオルドに属す。
  16. ^ ييشيجين Yīshījīn:コルラス部族のカラヤンギ قراينكى Qarāyankī の姉妹。クトイ・ハトゥンのオルドに属す。)
  17. ^ ايل ايكاچی Īl Īkāchī:コンギラト部族出身。ドクズ・ハトゥンのオルドに属す。)
  18. ^ منكلى كاچ ايكاچی Manklī Kāch Īkāchī
  19. ^ جومقور Jūmqūr / جومقار Jūmqār(『五族譜』):息子にジュシケブ جوشكاب Jūshkāb とキンシュウ كينكشو Kīnkshū の兄弟がいる。
  20. ^ يوشموت Yūshmūt / يوشوموت Yūshūmūt(『五族譜』)
  21. ^ تكشين Takshīn:『集史』フレグ・ハン紀によると、長い闘病の末に没したという。同母兄のジョムクルの死後、その妃であったノルン・ハトゥン Nūlūn Khātūn を引き継いだ。テクシンには توبون Tūbūn ないし توبوت Tūbūt (『五族譜』。ウイグル文字表記でも twbwd )という息子がひとりおり、ノルン・ハトゥンとの間にエセン ايسن Īsan という娘がいたという。
  22. ^ طرقاى Ṭaraqāy:『集史』フレグ・ハン紀、アバカ・ハン紀によると、イラン地方へ移住の途中、落雷を受けて死亡したという。カラクチン قراقچين Qarāqchīn という名前の妃からバイドゥを儲けた。バイドゥの他にイシル اشيل Ishīl という名の娘がいた。
  23. ^ توبسين Tūbsīn
  24. ^ اجاى Ajāy
  25. ^ قونقورتاى Qūnqūrtāy:『五族譜』では قونكيردای Qūnkīrdāy。異母兄テグデル・アフマドの即位の貢献したが、即位後にテグデルと不和となり処刑された。テグデルがアルグンとの抗争で没落した時、テグデルが殺されることとなった原因は、『集史』テグデル・アフマド紀によると、コンクルタイの死に対するコンクルタイ家の人々による報復であったという。
  26. ^ ييسودار Yīsūdār
  27. ^ منككه تيمور Mankka Tīmūr/مونكا تمور Mūnkā Timūr(『五族譜』):玄孫にイルハン朝最末期の君主ムハンマド(在位1336-1337年)がいる。
  28. ^ هولاچو Hūlāchū
  29. ^ شيباوچی Shībāwuchī
  30. ^ طغای تيمور Ṭaghāy Tīmūr:母の名前は『集史』フレグ・ハン紀では氏族名部分が空欄になっているため不詳だが、クトイ・ハトゥンのオルドに属す側室であったという。
  31. ^ بولوغان آغا Būlūghān Āghā
  32. ^タタル部族のジョチの息子。ガイハトゥの生母でアバカの大ハトゥンであったノクダン・ハトゥンの兄弟。
  33. ^ جمی Jamay
  34. ^ منكلوكان Munkūlūkān
  35. ^ تودوكاچ Tūdūkāch
  36. ^ティンギズの死後はその息子スラミシュ、テンギズの孫チチェグ・キュレゲンが降嫁を欲した。
  37. ^ طرقاى Ṭaraqāy
  38. ^ قوتلوقان Qūtulūqān
  39. ^ بابا Bābā

出典

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  1. ^集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī,Jāmi'al-Tawārīkh, (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。
  2. ^松田 1980, pp. 40–41.
  3. ^杉山 1992, p. 164-165.
  4. ^abcd佐口 1968, p. 278.
  5. ^abc杉山 1992, p. 165.
  6. ^佐口 1968, p. 298.
  7. ^abcd佐口 1973, p. 138.
  8. ^abcde佐口 1973, p. 139.
  9. ^ab佐口 1973, p. 140.
  10. ^松田 1980, pp. 42–44.
  11. ^abc佐口 1973, p. 141.
  12. ^abcde佐口 1973, p. 142.
  13. ^abc佐口 1973, p. 143.
  14. ^abc佐口 1973, p. 144.
  15. ^ab佐口 1973, p. 145.
  16. ^abcde佐口 1973, p. 192.
  17. ^abc佐口 1973, p. 193.
  18. ^ab佐口 1973, p. 194.
  19. ^abcde佐口 1973, p. 195.
  20. ^佐口 1973, p. 196.
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参考資料

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関連項目

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外部リンク

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先代
アルグン・アカ
モンゴル帝国のイラン総督
第5代
1255年 - 1260年
次代
-
先代
-
イルハン朝のイルハン
初代
1260年 - 1265年
次代
アバカ
統一時代
ハン乱立時代
モンゴル帝国 /チャガタイ・ハン国 /ジョチ・ウルス /イルハン朝


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