フランス共和国 République française 国の標語:Liberté, Égalité, Fraternité (フランス語:自由、平等、友愛 ) 国歌 :LaMarseillaise (フランス語) ラ・マルセイエーズ ^a b c d “France ” (英語). ザ・ワールド・ファクトブック . 2022年8月29日閲覧。 ^a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2021 ”. IMF (2020年10月). 2021年10月29日閲覧。 この表のデータは本土 のみで、海外県・属領を含まない。
フランス共和国 (フランスきょうわこく、フランス語 :République française )、通称フランス (フランス語 :France )は、西ヨーロッパ に位置する共和制 国家 。首都 はパリ [ 1] 。フランス・メトロポリテーヌ (本土)のほか、フランス植民地帝国 の名残で世界各地にフランスの海外県・海外領土 が点在する。独立した旧フランス領諸国とはフランコフォニー国際機関 を構成している[ 2] 。
フランス本土は、北は北海 、イギリス海峡 、大西洋 (ビスケー湾 )に、南は地中海 に面する。陸上では、東はベルギー 、ルクセンブルク 、ドイツ 、スイス 、イタリア と、西ではピレネー山脈 でスペイン およびアンドラ と国境を接するほか、地中海沿岸にミニ国家 のモナコ がある。
国際政治 や安全保障 、経済、文化において世界的な影響力を持つ民主主義 の大国 、先進国 の一つである。国際連合安全保障理事会常任理事国 のほか、G7 やG20 、欧州連合 (EU)、経済協力開発機構 (OECD)、北大西洋条約機構 (NATO)、パリクラブ などの主要なメンバーである。イギリス 、ドイツ、イタリアとともに欧州四大国 の一つにも数えられる。
核拡散防止条約 により核兵器 の保有を認められた核保有5か国 の一つで、原子力空母 「シャルル・ド・ゴール 」や原子力潜水艦 を有する。
国内総生産 (GDP) は名目GDP世界第7位 かつ購買力平価で世界第10位 ・ユーロ圏 ではドイツに次ぐ第2位の経済力を有する国 であり、先進国 である。数多くの世界遺産 を抱えており、世界で最も観光客の多い国 の一つである。
歴史的にはデカルト 、モンテスキュー 、ルソー 、サルトル といった哲学者やマリ・キュリー 、パストゥール といった科学者、モネ 、セザンヌ 、ゴーギャン 、クールベ 、ドラクロワ といった芸術家の故国もしくは活躍の舞台であり、百年戦争 やフランス革命 、ナポレオン戦争 といった歴史的事象の主要な舞台であった。
エッフェル塔 はパリおよびフランスのシンボルで、1889年 にパリで行われた第4回万国博覧会 のために建造された。正式名称はフランス語 で、République française (レピュブリク・フランセーズ )。通称、France (フランス )。略称はFR 。
日本語の表記はフランス共和国 [ 1] で、通称フランス 。政体 の第五共和政 にちなんでフランス第五共和国と呼ばれる場合もある。漢字による当て字 で仏蘭西 (旧字体:佛蘭西 )、法蘭西 (中国語表記由来)などと表記することもあり、仏 (佛 )と略されることが多い。
国名のFrance は、11世紀の『ローランの歌 』までは遡って存在が資料的に確認できるが、意味されているFrance はフランク王国 である。987年 に始まるフランス王国[ 3] にFrance の名前が用いられるが、後代が名付けたもので、当時にFrance の国名が存在を認定できるわけではない。中世のフランス王 はREX FRANCUS と署名している。France は中世ヨーロッパ に存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(「ルイ1世 」「ルイ16世 」を参照) [要出典 ] 。作家の佐藤賢一 は、ヴェルダン条約 でフランク王国が西フランク 、中フランク 、東フランク に3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝 を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している[ 4] 。ドイツ語 では、直訳すればフランク王国となる「Frankreich ( フランクライヒ ) 」を現在もフランスの呼称として用いている[ 注釈 3] 。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いているが、ギリシャ語 では現在でも古代ローマ 時代の地名である「Γαλλία (ガリア )」を用いている。
ブルボン朝 最盛期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治・経済・文化に絶大な影響力を持った。フランス語 は外交の舞台での共通語となった。現在は国連事務局 作業言語である。フランスは17世紀以降1960年代まで、大英帝国 に次ぐ広大な海外植民地帝国 を有した。1919年 から1939年 、フランスの面積は最大となり (12,347,000km2 )、世界の陸地の8.6パーセント (%) を占めた。
現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀 まではマッシリア (現・マルセイユ )などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市 を除くとケルト人 が住む土地であり、古代ローマ 人はこの地をガリア (ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイド を軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった[ 5] 。
紀元前219年 に始まった第二次ポエニ戦争 では、カルタゴ の将軍ハンニバル が南フランス を抜けてローマ共和国 の本拠地だったイタリア半島 へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。
『ユリウス・カエサルの足元に武器を放るヴェルサンジェトリクス 』 カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシス が属州とされた[ 6] 。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍であったカエサル が紀元前58年 にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争 )。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクス は果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州 とした。1世紀にはガリア属州はガリア・アクィタニア 、ガリア・ルグドゥネンシス 、ガリア・ベルギカ の3つに分割され、ナルボネンシスを含め4つの属州が存在することとなった。ローマの統治下ではローマの平和 の下で経済が成長し、穀物やブドウ酒の生産が盛んとなって、ガリアはその豊穣で知られるようになった。この時期はケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化 が成立した[ 7] 。
聖レミギウス から洗礼 を受けるクローヴィス 5世紀 の民族移動時代 になるとゲルマン 系諸集団が東方から侵入し、476年 に西ローマ帝国 が滅びると、ゲルマン人の一部族であるフランク族 のクローヴィス が建国したメロヴィング朝 フランク王国 が勢力を伸ばし始めた。クローヴィスは496年にカトリック に改宗し、フランク族はキリスト教 を受け入れた[ 8] 。やがてメロヴィング朝の宮宰 であったカロリング家の勢力が拡大し、カール・マルテル は732年にイベリア半島 から進出してきたイスラーム 勢力のウマイヤ朝 をトゥール・ポワティエ間の戦い で破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ 方面への拡大を頓挫させた。その子であるピピン3世 は751年 にメロヴィング朝のキルデリク3世 を退位させて即位し、カロリング朝 を開いた[ 9] 。
フランク王国はピピンの子であるシャルルマーニュ (カール大帝)の時代に最盛期を迎える。彼はイスラーム勢力やアヴァール族 を相手に遠征を重ね、現在のフランスだけでなく、イベリア半島北部からイタリア半島 北部、パンノニア平原 (現在のハンガリー 周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュのもとでヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンス が興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国 皇帝の称号をローマ教皇 から与えられた。シャルルマーニュの没後、その子であるルイ1世 が840年に没すると、フランク王国 は西フランク王国 、中フランク王国 、東フランク王国 の3つに分裂し、このうち西フランク王国が現在のフランスの基礎となった[ 10] 。この時期に古フランス語 の形成が始まった。
987年、西フランク王国の王統が断絶し、パリ伯 ユーグ・カペー がフランス王に選出されてカペー朝 が成立した[ 11] 。カペー朝の王権は当初非常に弱体で、パリを中心とするわずかな領土を直接支配するのにすぎなかったが、1180年にフィリップ2世 が即位すると国内の所領を次々と獲得して王領を拡大し、1223年に彼が退位するころにはフランスはヨーロッパの大国の一つとなっていた[ 12] 。
1209年 にアルビジョア十字軍 が開始され、キリスト教における異端 とされたオクシタニア (現・南フランス )のカタリ派 を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[ 13] 。12世紀にはフランス全土で「大開墾時代」と呼ばれるほどの農地拡大が起き、13世紀には人口が激増した[ 14] 。カペー朝はその後もルイ9世 やフィリップ4世 といった有能な国王の下で勢力を拡大していったものの、1328年に王統が断絶してフィリップ6世 が即位し、ヴァロワ朝 が成立した[ 15] 。
しかしこの即位を巡ってカペー家の血を引いているイングランド国王 エドワード3世 との対立が深まり、1337年 から、フランスはイングランド との百年戦争 (1337年 -1453年 )を戦っている[ 16] 。この戦争の後半にはフランスは一時国土の北半を奪われるまでになったものの、ジャンヌ・ダルク の活躍をきっかけとして攻勢に転じ、1453年にはシャルル7世 のもとでカレー を除く全てのフランス領を奪回して勝利を収めた[ 17] 。その子であるルイ11世 は国内統治の充実を図るとともにブルゴーニュ戦争 で有力諸侯であったブルゴーニュ公 の領国を崩壊させ、充実した国力の元でその子であるシャルル8世 は1494年にイタリア戦争 を起こした[ 18] 。
「太陽王」ルイ14世 16世紀 前半のフランスは、ハプスブルク家 との抗争を繰り返しながら中央集権 化を進め[ 19] 、1534年からジャック・カルティエ がアメリカ大陸 に向かいセントローレンス川 流域を探検するなど対外進出の動きも見られたが[ 20] 、宗教改革 の影響でユグノー (カルヴァン派 )が増加し、新旧両教の対立から1562年 にユグノー戦争 が勃発し、30年以上も続いた。1589年にはヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世 が即位してブルボン朝 が成立した。アンリ4世はカトリックに改宗し、1598年、ナントの勅令 を発して内戦に終止符を打った[ 21] 。続くルイ13世 の統治下では宰相リシュリュー が中央集権化と王権の強化を推進し、次いで1643年に即位したルイ14世 は幼少だったために宰相マザラン が実権を握ったものの、マザランが1661年に死去すると親政を開始した。ルイ14世の統治下では絶対王政 が確立され、財務総監ジャン=バティスト・コルベール が重商主義 的政策を推進して産業を振興。ヴェルサイユ宮殿 を建設するなど王の権威は非常に高まったものの、対外戦争では必ずしも成果を上げることができず、1685年 にフォンテーヌブローの勅令 によってナントの勅令を廃止したため、産業の中核を担っていたユグノーが海外へと移民して経済の停滞を招いた[ 22] 。この時期にフランスはヨーロッパ外へ盛んに進出し、アメリカ大陸 、アフリカ 、アジア に広大な海外領土を獲得してフランス植民地帝国 を形成した[ 23] 。
1715年に即位したルイ15世 の統治下では啓蒙思想 が発展し、1748年にはシャルル・ド・モンテスキュー が『法の精神 』を発表、1751年からは『百科全書 』の刊行が始まり、1762年にはジャン=ジャック・ルソー が『社会契約論 』を発表した。1756年からの七年戦争 でフランスは孤立し、1763年 のパリ条約 で多くの植民地を失い、経済の不振や財政危機、啓蒙思想の普及によって旧来のアンシャン・レジーム は動揺を始め、1774年に即位したルイ16世 の時代に社会の緊張は頂点に達した[ 24] 。
フランス人権宣言 『アルプス を越えるナポレオン』ジャック=ルイ・ダヴィッド 画 1789年 にフランス革命 が勃発し、三部会 に代わって形成された憲法制定国民議会 は封建制 の廃止や人間と市民の権利の宣言 (フランス人権宣言 )の採択など重要な決定を行った。特に人権宣言は、自由 と平等 、国民主権 など近代民主社会の基本原則を確立した[ 25] 。しかし革命は急進化していき、1793年 には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット が処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治 の犠牲となった[ 26] 。
1794年7月に起きたテルミドール9日のクーデター によって、恐怖政治の中心であったマクシミリアン・ロベスピエール を中心とする山岳派 の主立ったメンバーが逮捕・処刑されたものの、総裁政府 の統治は安定せず、1799年 にブリュメールのクーデター によってナポレオン・ボナパルト が共和国の権力を握り、第1統領 となった[ 27] 。1804年 にはナポレオンは皇帝に即位して第一帝政 を開き、ナポレオン戦争 と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパを圧倒し、この戦争で数百万人が犠牲となった[ 28] 。一方でナポレオン法典 の発布に見られるように、ナポレオンはフランス革命の成果を継承する姿勢を明確に示した[ 29] 。しかしこうしたナポレオンの覇権は1812年ロシア戦役 の失敗によって水泡に帰し、蜂起した諸国軍によって1814年にパリが陥落、ナポレオンはエルバ島 に流された。1815年 、エルバ島から脱出したナポレオンが一時フランスに復帰したものの、ワーテルローの戦い に敗れナポレオン時代は終わった[ 30] 。
ナポレオン敗北後、フランスはブルボン朝のルイ18世 が即位して王政復古 したが絶対王政ではなく、王の権力が憲法 に制約された外見的立憲君主制 となった。しかしこの政権の実権を握った亡命貴族たちは極端な保守反動政治を行い、反発した自由派によって1830年 に七月革命 が勃発してシャルル10世 が追放され、代わってルイ=フィリップ が即位し七月王政 が始まった[ 31] 。七月王政はブルジョワ 層を中心とした政権だったが政情は安定せず、1848年 に勃発した2月革命 によって王政は崩壊し、第二共和政 が成立した。第二共和政は男子普通選挙 を導入したものの政情を安定させることはできず、ルイ・ナポレオン大統領は1851年12月2日のクーデター を起こして実権を握り、1852年 12月2日 にはナポレオン3世 として即位し第二帝政 を開いた[ 32] 。ナポレオン3世は政治を安定させるとともに産業革命 を急速に進展させ、経済を大きく成長させた[ 33] 。この時期にアロー戦争 やコーチシナ戦争 (英語版 ) 、メキシコ出兵 などのように積極的な海外出兵を行い、広大な植民地を獲得したものの、対プロイセン 政策を誤り、1870年 の普仏戦争 に敗北してルイ・ナポレオンは退位した[ 34] 。1871年 にはプロイセンにアルザス・ロレーヌ を割譲することで和議が成立し、パリで蜂起していたパリ・コミューン も鎮圧されて、第三共和政 が打ち立てられた[ 35] 。
第三共和政は当初は安定しなかったものの、1880年代に入ると穏健共和派の指導の下で政情が安定し、繁栄の時代に入った。ただし国内ではその後も1889年 のブーランジェ将軍事件 や1894年 のドレフュス事件 といった政治事件が相次いで起こっていた。普仏戦争による国家の威信の減退を補うため第三共和政政府は積極的な海外進出を行い[ 36] 、アフリカ分割 にも積極的に参加して植民地をさらに拡大させた。文化的にはベル・エポック と呼ばれる華やかな時代を迎え、芸術家が集まるパリでは印象派 などの芸術運動が花開いた[ 37] 。
シャルル・ド・ゴール フランスは第一次世界大戦 と第二次世界大戦 の主戦場となっている。第一次世界大戦ではドイツ帝国 を中心とする中央同盟国 と戦い、140万人が犠牲となった[ 38] 。西部戦線 はフランス東部で4年にわたり膠着し、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの戦死者を出した。
1939年9月に始まった第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻 に敗北して第三共和政は崩壊し、第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン を国家元首 とするヴィシー政権 が成立した。フランス本国はドイツによって北部、のちに全土が占領された[ 39] 。一方でシャルル・ド・ゴール 率いる自由フランス は連合国 につき、連合国軍による北仏ノルマンディー上陸作戦 の成功により、1944年にフランス共和国臨時政府 が帰還して全土を奪還した。
戦後、1946年にフランス第四共和政 が成立した。フランスは冷戦 構造のなかで自由主義陣営 (西側)に属し、北大西洋条約機構 (NATO) の原加盟国となる一方、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体 を西ドイツ やイタリア、ベネルクス三国 と結成。1957年には欧州経済共同体 が発足するなど欧州統合 に参加した。一方で植民地帝国は崩壊しつつあった。インドシナ の支配権を回復するため臨んだ第一次インドシナ戦争 では、1954年 にディエンビエンフーの戦い でベトミン に大敗を喫し、同年7月にはジュネーヴ協定 によってインドシナからの撤退を余儀なくされた。さらにアルジェリア戦争 が泥沼化し、アルジェリア植民地 の維持の是非と、植民者 の帰還[ 40] をめぐって国論が割れ、内戦になりかけた。これを収拾するため、1958年 、ド・ゴールが首相 に就任し、1959年 には強力な大統領 権限を含んだ第五共和政 が成立した[ 41] 。
第五共和政の初代大統領となったド・ゴールは、国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日 のギニア 独立を嚆矢として、「アフリカの年 」と呼ばれた1960年 にほぼ全てのアフリカ植民地が独立した。1962年 にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリア は独立した[ 42] 。外交面では、ド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線をとった。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義 と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年 にはトゥアレグ が居住するサハラ砂漠 で核実験 を強行した。1966年にフランスはNATOを正式脱退した[ 43] 。2009年にフランスはNATOに再加盟し[ 7] [ 8] [ 9] 、NATOは英語とフランス語を公用語として用いる[ 3] [ 4] [ 44] 。
2022年フランス大統領選挙 でエマニュエル・マクロンが大統領に再選された[ 45] 。
大統領エマニュエル・マクロン 1958年10月にフランスの憲法 が制定され、半大統領制 の共和制となった。
直接選挙 で選ばれる大統領 (任期5年、2002年以前は7年)には、シャルル・ド・ゴール の時から首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられている。これは、立法府である議会より行政権の方が強い体制である[要出典 ] 。
大統領が任命するフランスの首相 は、大統領にも議会にも責任を負っており、ともに行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオン と呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが、両者が対立し政権が不安定になることもある。
議会は二院制 を採用し、上院 にあたる元老院 と、下院 にあたる国民議会 がある。元老院は間接選挙 で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙 で選出され、投票に際して小選挙区制 で二回投票制 が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。
現在の主要なフランスの政党 としては、再生 (中道)、不服従のフランス (左翼)、国民連合 (右翼)がある。
歴史ある中央集権 と官僚主義 はフランスの政治体制を代表してきた。スウェーデン には遠く及ばないが、労働人口に対する公務員 の比率は21.6%に達する[ 46] 。世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造は、しばしば批判的な意味をこめて「官僚天国」「役人王国」などと形容される[ 47] 。
地方政治の現場においては、市町村長職こそフランス国籍保有者に限定されているが、市町村議員に関しては欧州連合諸国の出身者に地方議員の被選挙権を認めている。2020年1月時点で、約50万人いる地方議員うち外国人議員数は2500人近くとなっていた。しかし一方で2020年2月にイギリスの欧州連合離脱 があり、フランス国内で活動してきたイギリス人 議員が被選挙権を喪失。その数は約3分の1に相当する757人にのぼった[ 48] 。
フランスは国際連合 の原加盟国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国 の一国である。多くの国際機関の加盟国でもあり、G7 、北大西洋条約機構 (NATO)、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO)、フランコフォニー国際機関 がこれに該当する。欧州連合原加盟国かつ指導国 でもある。
第二次世界大戦でフランスは本国を一時喪失し、自由フランスは英米の庇護・支援を得て母国を奪還したが、当時から独自の外交を志向する傾向があった。第五共和制成立後も冷戦 構造のなかでフランスの影響力を保つため、ソビエト連邦 と提携したり、NATO の軍事機構から脱退したり、1973年からフランス・アフリカ首脳会議 を主催したりしている。フランスは2003年、アメリカが主導するイラク戦争 に終始反対した。
近隣諸国では、ベルギー と密接な関係があり、ベルギー南部はフランス語共同体 となっている。
ナチス・ドイツの崩壊後に成立した西ドイツ とは戦後和解し、ともに欧州統合 の旗手となった。(独仏関係 も参照)冷戦終結後は欧州統合を深化し、欧州連合(EU)の主要国として存在感を高めている。ドイツ とは1999年 1月の通貨ユーロ 導入を含む欧州統合に中心的役割を果たしてきた。しかし、2005年 の欧州憲法 批准は国民投票 で拒否された。2008年 2月にこれを継承するリスボン条約 を議会が承認した。
フランスは旧植民地との間にフランス共同体 を結成している。アフリカの旧植民地に対しては、暴動や内戦の際に親仏 政権を維持するため軍事介入することもある。現在もセネガル やジブチ にはフランス軍の軍事基地がある。実際に1994年のルワンダ紛争 や、2002年のコートジボワール内戦 にも介入している。1970年代以降の軍事介入の件数は30件以上にも及ぶ[ 49] 。2012年からマリ北部紛争 に介入している。フランスの姿勢を新植民地主義 であると批判する声もある。ケベック州 の仲介により、フランス語地域のある国とはフランコフォニー国際機関 を結成した。
フランスが外交使節を派遣している諸国の一覧図 EU各国は北朝鮮 と国交 がある。しかし、フランスは2016年 8月 時点でも日本やアメリカ合衆国 と同様に北朝鮮と国交がない。ただしパリには国際連合教育科学文化機関 (ユネスコ、UNESCO)総代表部が存在する。
2015年1月、パリでシャルリーエブド 本社やユダヤ教徒 向け食料品店が襲撃され、11月には大規模な同時多発テロで仏全土に非常事態宣言がなされるなど、イスラム過激派 との間で緊張が高まっている[ 50] 。
フランスとイギリスは歴史上錯綜した関係を持ってきた。近現代のイギリスの中核をなすイングランド は、ノルマン・コンクエスト を通じてフランス語を母語 とし、フランス王国の公爵 を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。アンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝 のイングランド王は、王権の確立が遅れていたカペー朝 のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。イングランド王家とフランス王家の姻戚関係も深かった。
クレシーの戦い (百年戦争)こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。ジャンヌ・ダルク が活躍したことで有名な百年戦争 は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。この長期の戦争を通じてフランス人 とイギリス人 の間に、のちの国民国家 の創生につながる近代的な国民意識の母体となるものが胚胎したともいわれる。ナポレオンによるフランス第一帝政 時代の対仏大同盟 は、イギリスが盟主的存在であった。
だがドイツ帝国の台頭を受けた1904年の英仏協商 締結以来、基本的には友好関係にある。第一次世界大戦をともに戦い、第二次世界大戦では敗北寸前となったフランスに対し、イギリスから連合国家形成の提案がなされたこともある。戦後はともに西側陣営に属し、スエズ危機 のように両国が協調した行動を取ることもあるが、イラク戦争 に対する対応のように両国の対応が分かれることもある。
歴史 日本とフランスの公式な関係が始まったのは19世紀後半の幕末 期以降である。1858年 10月9日 に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ 男爵によって、日本と最初の修好通商条約 が当時の日本の幕府があった江戸 で調印された。
明治維新 後には西園寺公望 をはじめとする政治家、大山巌 らの軍人、黒田清輝 らといった芸術家らが続々とフランスに留学している。1872年(明治5年)から翌年にかけては、岩倉使節団 がフランスを訪問しており、当時のパリ の様子が『米欧回覧実記 』に詳しく記されている(一部スケッチ入り)[ 51] 。日本は民法 ・刑法 改正にギュスターヴ・エミール・ボアソナード 、陸軍にフランス陸軍の教官を招聘し、強い影響を受けた。
義和団の乱 では共同歩調を取ったが、日清戦争 後にフランスは、日本に遼東半島 を返還するよう働きかける三国干渉 を行っている。第一次世界大戦においては連合国 として戦った。フランス軍航空隊の一員として戦った日本人もおり、バロン滋野 や磯部鈇吉など10名を数える[ 52] 。1919年 のパリ講和会議 では日本の提出した人種差別撤廃案 に賛成している。その後の第二次世界大戦においては、ヴィシー政権成立前後の時期に、日本はフランス領インドシナ への進駐を要求し、北部インドシナは日本の占領下に置かれた(仏印進駐 )。ヴィシー政権は植民地に対する支配力を失い、1940年 のタイ・フランス領インドシナ紛争 では日本の仲介により東京条約 を締結し、タイとの戦争を終結させた。1941年には南部仏印への進駐も行われたが、これは日米交渉において決定的な破局点となった。真珠湾攻撃 後、自由フランスは連合国の一員として日本に宣戦したが、日本軍とは交戦していない。1945年、インドシナで明号作戦 によって、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。日本側はフランスとは戦争関係にないという建前をとり続けたが、降伏文書 には臨時政府のフランス代表も署名している。
1951年、日本国との平和条約 締結により日仏関係は正常化した。以降の関係はおおむね良好である。
・在留日本人数36104人(2022年10月時点)[ 53]
・在日フランス人数12836人(2022年12月時点)[ 53]
日本におけるフランス 日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国である。毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。音楽、美術、料理などを学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、2018年時点で在仏日本人 は44,000人におよび[ 54] 、これはヨーロッパ圏ではイギリス、ドイツに次ぐ多さである[ 54] 。経済面では、1992年から2000年にかけてフランス側が対日輸出促進キャンペーンとして「ル・ジャポン・セ・ポシーブル」を展開したものの、2000年代の現在まで貿易 額は漸増傾向を示すに留まり、2004年時点で貿易額は相互に60億ドル台から80億ドル台で推移している[ 55] [ 56] 。日本から見た場合、対仏輸出の構成比は1.5%で各国中15位、フランスからの輸入も1.8%で13位と貿易における重要度、依存度はほかの先進国や中進国と比較してさほど高くない[ 57] 。フランスから見た場合に対日輸出が輸出全体に占める割合は1.6%で、これはドイツ14.5%、スペイン10.2%、イタリア9.2%、イギリス8.8%、ベルギー7.6%のEU諸国、アメリカ合衆国7.2%、中華人民共和国 1.7%に次ぐ[ 58] 。
直接投資 は、1999年のルノー による日産自動車 の買収に伴い、日産の最高経営責任者 となったカルロス・ゴーン は一般の日本人にも知名度がある。これにプジョー を加え、フランス車 はドイツ車 などと並んで日本では人気のある海外車種の一つである。他方、日本側もトヨタ自動車 がほぼ同時期に北部ノール県 ヴァランシエンヌ に工場を建設しているほか、NTN など自動車部品メーカーの工場進出も行われており、近年では1990年代後半にかけて自動車業界を中心に相互に大きな投資が行われている。
古くは江戸幕府 の幕府陸軍 、および明治以降の日本陸海軍 もフランス軍の影響を相当受けていた(第一次 ・第二次 ・第三次フランス軍事顧問団 )。陸軍 はその建軍にあたってフランス陸軍を師とし、鎮台 制などのフランスの兵式を採用し強い影響を受けている。旧陸軍および現在の陸上自衛隊 の制式行進曲である『陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲) 』は、明治初期に御雇外国人 としてフランスから派遣されたシャルル・ルルー 陸軍軍楽大尉相当官によって作曲されたものである。1880年代中後半には普仏戦争の影響もあり、1888年 (明治 21年)に全体的にプロイセン(ドイツ)式に転換したもののフランス色は完全に排除されたわけではなく(明治38年 ・45年制式 の軍服 にフランス式の肩章 を採用)、第一次大戦から1930年代までは、小火器 、火砲 、戦車 および航空機(後述)などの開発においてはフランスの影響が再度強くなっている。海軍 は建軍当初から兵式はイギリス式を採用していたが、当時のフランスはイギリスに次ぐ海軍大国でもありその存在は無視出来るものではなく、1880年代の第三次フランス軍事顧問団において海軍技術者ルイ=エミール・ベルタン などを御雇外国人として招き主力艦を含む多数の軍艦 を設計させている。そのため19世紀末まではフランス海軍の影響も大きかった。
航空分野は、1910年 (明治43年)に徳川好敏 ・日野熊蔵 両陸軍大尉がフランスの飛行機 の操縦技術を学び、フランス製のアンリ・ファルマン 複葉機 を持ち帰り12月19日に代々木練兵場 で初飛行した。徳川好敏は日本人 として日本の空を飛んだ初めてのパイロットである。第一次大戦時の1914年 (大正 3年)に編成された日本発の実戦飛行部隊 たる陸軍の臨時航空隊 は、フランス製の軍用機と技術をもって青島の戦い に参戦しドイツ軍と交戦した。大戦末期の1918年 (大正8年)1月に陸軍はフランス側より航空部隊の無償技術指導の提案を受け、フォール陸軍大佐 (Jacques-Paul Faure) を団長にした61名のフランス航空教育団 (Mission militaire française au Japon〈1918-1919〉) を迎え、所沢陸軍飛行場 など各地で教育を受けている。少数ではあるが海軍軍人も聴講員として参加した。
1830年からのアルジェリア侵略 で同地をオスマン帝国 から奪い、1834年に併合した。フランス本土から植民を行い海外県としてアルジェリアをフランスに組み込んだ、この支配は1962年の分離独立まで続いた。
植民地を本国に組み込む統治手法は、日本統治時代の台湾 、日本統治時代の朝鮮 でも参考にされた[ 59] 。
フランス側はアルジェリアの支配は近代化をもたらしたと肯定的に評価する、一方でアルジェリア側はフランスが行った虐殺など歴史を巡って対立している[ 60] 。
フランスはアルジェリア戦争の悲惨さは博物館などで語り継いでいるがアルジェリアに行った抑圧は口を開かないなどタブーとなっている[ 61] 。
フランス海軍 初の原子力空母シャルル・ド・ゴール フランス航空宇宙軍 の戦闘機 ラファール フランスの国防政策は1959年 にシャルル・ド・ゴール 政権が制定した「国防組織法」によって運営されている。大統領が最高司令官であり、その指導のもとに内閣委員会が国防政策、将官 の任免、総動員令や戒厳 の宣布などの意思決定機関として機能する。フランス革命 からの徴兵制 を廃止して志願制 を採用した。2011年 の軍事支出は625億ドル と、標準的な軍事費を維持している。
フランス軍 は陸軍 、航空宇宙軍 、海軍 および憲兵 、国民衛兵 からなり、2002年 の総兵力は44万人のうち、陸軍17万人、航空宇宙軍7万人、海軍5.6万人、憲兵9.8万人、その他機関4万人であった。国外駐在兵力は約3万人で、うち太平洋 地区の海外県(植民地)に約2万人、アフリカに6,500人、国際連合 など国際組織の指揮下に9,000人がいる。核兵器 を保有し、海軍の潜水艦発射弾道ミサイル (SLBM) 搭載原子力潜水艦 で運用する。現在もフランス外人部隊 8個連隊 を保有する。南仏オーバニュ に司令部を置き、南仏各地も駐屯、コルシカ やポリネシア にも一部が駐屯する。2002年 12月から西アフリカ のコートジボワール に外人部隊2,500人が派遣され、戦闘状態にある。
2013年に開始されたマリ共和国への軍事介入 において、進展の遅れから軍の兵站 が不十分である指摘する報道が行われた。国防予算の50%が軍人への給与や退職金などに費やされ、残りの予算も空軍機や空母など主力兵器の運用・導入が優先される予算配分に原因があると見られている[ 62] 。徴兵制 廃止によって兵員の不足も発生しており、常備軍23万名の中で即時派兵が可能な戦力は3万名に留まっている。
フランス陸軍 は地上作戦司令部、補給司令部、9個作戦旅団 、2個補給旅団からなる。主要装備は戦車 834輌、装甲車 4,950輌、各種火砲 802門、ヘリコプター 498機である。
フランス海軍 は戦略作戦司令部と海上、対潜 、掃海 、潜水艦 などの専門作戦司令部からなる。主要装備はSLBM搭載原子力潜水艦 4隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、原子力空母 1隻、ヘリ空母 1隻、ミサイル駆逐艦 3隻、駆逐艦 9隻、フリゲート 20隻などである。
フランス航空宇宙軍 は6個攻撃戦闘機 中隊、7個戦闘機中隊、2個偵察中隊、14個輸送機中隊、5個ヘリコプター中隊、2個電子戦 中隊からなり、主要装備は作戦機 433機、早期警戒管制機 4機、偵察機 4機、空中給油機 45機、輸送機 131機などである。
フランス国家憲兵隊 は以前は国防省に属していたが、現在は軍籍は国防省に残置したうえで内務省に属し、警察業務を担当する。
フランス国民衛兵 は2015年のパリ同時多発テロを受け、145年ぶりに復活した軍事組織で警察や軍隊のサポートをする役割を担う。
1951年から1966年の15年間、フランス国内に在仏アメリカ空軍 が駐留していた。
対外治安総局 (DGSE) (Direction Générale de la Sécurité Extérieure) -SDECE―防諜・外国資料局より改称。軍事偵察局 (DRM) (Direction du Renseignement Militaire) - 軍事偵察局 (国防省に属する機関)国内治安総局(DGSI) (Direction centrale du renseignement intérieur;)(内務省に属する機関)フランスの地形図 ジロンド川 、ポーイヤック 市。 アキテーヌ地方の中心都市であるボルドー 市のすぐ北側に位置し、ガロンヌ川 とドルドーニュ川 が合流してできる川である。フランス本国(メトロポリテーヌ)は、北が海を挟んでイギリス と向かい合い、北東がベルギー とルクセンブルク 、東をドイツ とスイス 、南東でイタリア 、南西にスペイン と国境を接している。フランスの強い影響下にあるミニ国家 として、スペインとの間にアンドラ 、仏伊国境近くにモナコ がある。
フランスの国土は西ヨーロッパ に位置する本土のほか、地中海 に浮かぶコルシカ島 、南アメリカ大陸 北東のフランス領ギアナ 、カリブ海 のマルティニーク 、グアドループ 、インド洋 のレユニオン といった4海外県、さらにはニューカレドニア やフランス領ポリネシア などオセアニア の属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、フランス本土だけで日本の1.5倍あり[ 63] 、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。
本土の形状はだいたい六角形 の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語 にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone(レグザゴーヌ)"が「フランス本土 」を意味する。その6辺の国境のうち、1辺は平野と川(ライン川)、2辺は山脈(ピレネーとアルプス)、3辺は海(地中海、大西洋、北海)である[ 64] 。
フランスの地形の主な特色は、東から南にかけて山地や山脈という自然の国境があるほかは、ところどころに高原や丘陵がみられるものの、国土の大半は概して緩やかな丘陵地や平野で可住地に恵まれていることにある(国土の60%が海抜250m以下の平地であり、2000mを超える山岳地帯は東部と南西部の国境付近のみ[ 65] )。
北西部に広がる、フランスでも最も広い領域を占める比較的平らな地域は、東ヨーロッパ から続くヨーロッパ中央平原の西端部にあたる。緩やかな起伏の平野で、高所でも標高200m程度の土地が広がっており、温暖な気候とあわせて西欧最大の農業国フランスの基礎となっている。東部ドイツ 国境にはヴォージュ山脈 、スイス 国境にはジュラ山脈 が延びる。ヴォージュ山脈はライン川 の西岸に沿って流れ、ライン川がフランスとドイツとの国境となっている。南東部は中央高地 が広がり、北から南へ流れ下るローヌ川 を越えると、アルプス山脈 につながっていく。南部イタリア との国境をなすアルプスの山々は、多くが標高4,000m以上で、その最高峰がモンブラン である。アルプス越えには古代ローマ の時代からいくつかの道があるが、なかでも有名なのがサンベルナール峠 である。南西部のスペイン 国境にはピレネー山脈 が延びる。峠 がほとんどないピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。サントラル高地 の最高峰はドール山 1,866m。ピレネー山脈の最高峰アネト山 3,404m はスペイン側にそびえる。フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置するモンブラン 4,810m。
おもな河川は北から反時計回りに、セーヌ川 776km、ロワール川 1012km、ガロンヌ川 647km、ローヌ川 812km。
フランスの気候は大陸性、西岸海洋性、地中海性の気候区に分割される。西岸海洋性気候 は大西洋側の国土の西部で見られる。気温の年較差、日較差とも小さい。気候は冷涼であるが、寒くなることはない。国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の大陸性気候 は東ヨーロッパ 、つまりポーランド やルーマニア が西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候 は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうちもっとも大きい。降水量は年間を通じて少ない。このように3種類の気候が共存している例は、ヨーロッパの中でフランスだけである[ 66] 。
フランスは26の地域圏に分かれる。フランス本土(メトロポリタン・フランス )の位置するヨーロッパ の領土は22の地域圏 (レジオン région)に区分され、その下に100の県 (デパルトマン département)が存在する(各レジオンが2 - 8のデパルトマンに区分されている)。地域圏はメトロポリタン・フランスに21、コルシカ に1つに分かれる。さらに海外のアメリカ大陸 やインド洋 などには、4つの海外県 と、複数の海外領土 がある。各県はさらにコミューンに分かれる。2009年 3月29日にアフリカ東部沖のコモロ諸島 にある人口約20万人のマヨット を特別自治体から海外県への地位変更の是非を問う選挙が行われ、賛成95.2%で海外県となることが決まった。フランスの県としては101番目、海外県としては5番目である。
フランス・メトロポリテーヌ の地域圏再編が行われ、2016年1月1日より地域圏の数は26から18となった。
順位 都市 行政区分 人口(人) 都市 行政区分 人口(人) 1 パリ イル=ド=フランス地域圏 2,165,423 11 レンヌ ブルターニュ地域圏 220,488 2 マルセイユ プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 870 731 12 ランス グラン・テスト地域圏 181,194 3 リヨン オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏 522,969 13 トゥーロン プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 178,745 4 トゥールーズ オクシタニー地域圏 493,465 14 サンテティエンヌ オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏 173,821 5 ニース プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 342,669 15 ル・アーヴル ノルマンディー地域圏 168,290 6 ナント ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏 318,808 16 グルノーブル オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏 158,198 7 モンペリエ オクシタニー地域圏 295,542 17 ディジョン ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏 158,002 8 ストラスブール グラン・テスト地域圏 287,228 18 アンジェ ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏 155,850 9 ボルドー ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏 260,958 19 サン=ドニ レユニオン地域圏 153,810 10 リール オー=ド=フランス地域圏 234,475 20 ヴィルールバンヌ オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏 152,212 2019年国勢調査
フランスの人口は、パリ への一極集中が目立つ。フランスの交通 において結節点となるパリは主要な文化および商業の中心地である。同市に次ぐ都市は規模が小さい。
都市 行政区分 人口(人) 都市圏人口(人) 1 パリ イル=ド=フランス 2,148,271 12,532,901 2 リヨン メトロポール・ド・リヨン 496,343 2,214,068 3 マルセイユ プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール 852,516 1,727,070 4 トゥールーズ オクシタニー地域圏 453,317 1,270,760 5 リール オー=ド=フランス地域圏 228,652 1,166,452 6 ボルドー ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏 241,287 1,158,431 7 ニース プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール 343,629 1,004,914 8 ナント ペイ・ド・ラ・ロワール 291,604 897,713 9 ストラスブール グラン・テスト地域圏 274,394 768,868 10 レンヌ ブルターニュ地域圏 209,860 690,467 2012年国勢調査
パリはアメリカのシンクタンク が2017年 に発表した総合的な世界都市 ランキングにおいて、世界3位と評価された[ 67] 。 フランスは名目GDP で世界第6位 および購買力平価 で世界第8位 の先進国 である[ 68] 。家計資産の総計の観点から、フランスはヨーロッパで最高かつ世界で第4位の経済大国である[ 69] 。同国は世界第2位の排他的経済水域 (EEZ)をも有し、その規模は11,035,000 km2 に及ぶ[ 70] 。
フランス国民は高い生活水準 を享受し、同国は教育 、医療 、平均寿命 、人権、人間開発指数 の国際ランキング において上位に位置する[ 71] [ 72] 。フランスは世界第4位 の世界文化遺産 数を有し、世界最多の年間約8,300万人の外国からの観光客を迎え入れている[ 73] 。
2014年 のフランスのGDP は2兆8,468億ドルであり、アメリカ 、中国 、日本 、ドイツ 、イギリス に次ぐ世界第6位である[ 74] 。同年の1人当たりのGDPは42,999ドルであり世界水準のおよそ4倍、日本と比較してもわずかに多くヨーロッパ屈指の経済大国であることが分かる。観光 客入国数では世界一、農産物輸出 額 では世界第2位 を占める[ 75] 。農業 は生産額世界第6位と依然としてフランスにおける重要な産業であり、EU諸国中最大の規模を誇っている。高負担国家であり、GDPに占める税収比は45.5%とOECD諸国でデンマークに次ぐ 2014年[ 76] 。
第二次世界大戦 後は鉄道・航空・銀行・炭田が国有化された。マーシャル・プラン を原資としたモネ・プラン、次いでイルシュ・プランで経済復興が行われた。自動車・電子・航空機産業についても国が主要株主となり、政府は石油と天然ガスにも投資した。1981年 のフランソワ・ミッテラン 大統領 の社会党 政権は産業国有化をさらに推進したが、早くに私有化(民営化)の動きへと転じた。1986年 に保守 派のシラク が首相 になって国家の役割が縮小された(第1次コアビタシオン )。しかし金融・保険・電力・運輸・国防産業などそれぞれのグローバル市場でフランスは隠然たる影響力を保持した。
OECD各国税収のタイプ別GDP比(%)。 赤は国家間、青は連邦・中央政府、紫は州、橙は地方、緑は社会保障基金[ 76] 。 1990年代 後半は、ヨーロッパ通貨統合 に参加するために強硬な財政赤字削減策が実施されたが、国民の強い反発を招き、消費拡大による景気刺激策に方針が転換された。2000年 を境にGDPの実質経済成長率 は大きく低下し、財政赤字は2002年以降、連続して対GDP比3%以内というEU の財政協定の基準(収斂基準 )を大きく超えていた。1990年代の大きな問題だった12%を超える失業率 も、90年代末から改善されて2001年 には8%台になったが、その後はふたたび悪化して2005年はじめには10%を突破した[ 注釈 4] 。しかし2005年以降、世界経済の好調に助けられる形で経済は持ち直し、財政赤字は3%を切り、失業率も8%台にまで改善されたものの、世界金融危機 で財政出動を余儀なくされたことから、GDP比3%の財政赤字の基準は守れておらず、EUの欧州委員会から財政赤字の立て直しの勧告が出されている[ 77] 。デクシア の救済劇は、資本輸出先であるベルギー とで両国政府が大株主も伴い64億ユーロも注入する有様となった[ 78] 。
2008年度版フォーチュン・グローバル500 によると、総収入を指標とした全世界の企業ランキングリストのうち上位100位に含まれるフランス企業は、国際石油資本 のトタル (本社パリ 、8位)、保険のアクサ (パリ、15位)、金融のBNPパリバ (パリ、21位)、金融のクレディ・アグリコル (パリ、23位)、小売のカルフール (パリ、33位)、金融のソシエテ・ジェネラル (パリ、43位)、自動車メーカーのプジョー (パリ、66位)、電力会社のフランス電力 (パリ、68位)、電気通信事業者のフランステレコム (パリ、84位、現・Orange )、水道や電力、ガス事業などを行うスエズ (パリ、97位、現・エンジー )が並ぶ。
2009年 3月、「経済危機のつけを労働者に回すな」をスローガンに、1月の前回100万 - 250万人を上回り、全国で300万人が統一行動を行った。サルコジ政権は、昨年12月260億ユーロ規模の経済活性化対策を発表した。さらに所得税減税など14億ユーロ規模の低所得者向け支援策を提案し、その後26億ユーロ規模に増額した。2010年に未来のための投資プログラム をスタートし、パリ=サクレー学研都市 (フランス語版 、英語版 ) などへ投資をするようになった。
2012年 5月からフランソワ・オランド が政権をとり、翌年に公的投資銀行 (フランス語版 、英語版 ) を設けて中小企業を支援するようになった。公的投資銀行に国家出資庁が出資する程度はごくわずかである。公的投資銀行は公営である本部と加盟企業に分かれている。本部へは国が出資庁を介さずに直接資金を提供する。加盟企業はその本部から、または預金供託公庫 から資金を調達して、これを原資に中小企業の債権や株式を引き受ける。
EU最大の農業国 であり「ヨーロッパのパン籠」と言われる。穀物、根菜、畜産などすべての農業部門において世界の上位10位以内の生産高を誇る。地形が概して平坦なため、国土面積の53.6%が農業用地と比率的には日本の約4.5倍に達し、国土の36%が耕作地で、18%が酪農用地である(国連FAO)。農業従事者は労働力の約3%。1955 - 2000年で農家の数は3分の1に減少し、相対的に1農家当たりの農地面積、経営規模が拡大した。穀物は、小麦 、大麦 、トウモロコシ 、根菜はじゃがいも 、テンサイ 、畜産ではブタ 、鶏卵 、牛乳 の生産が際立つ。このほか、亜麻 やなたね の生産高も多い。テンサイ の生産高は世界一である。政府は農業を重要輸出産業とし国際競争力の強化を図るほか、農業経営の近代化、若年層の就農促進などの政策を実施している。
フランスの鉄道 は作物の流通に不可欠である。昔は路線自体が必要だった。北部鉄道 で知られるフランスの鉄道史 において、19世紀のハブがパリしかないような状態だった。そのときまで穀物価格には地域格差がしばしば生じた。20世紀に路線網が充実し、土地の権利関係も制度レベルから整理されていったため、それからは重量貨物の輸送手段として活躍している。1960年「基本法」農政がスタートした。そこでアグリビジネス が促進され土地バブルを引き起こした。輸出作物に補助金が積まれ、それが貿易摩擦 も引き起こした。
鉄鉱石 がロレーヌ地域圏 で産出される。戦後は国土の北東部に偏っていた鉱業が南東部でも営まれるようになった。21世紀初頭においてはすでに鉄鉱石の採掘は行われておらず、金属鉱物資源は鉱業の対象となっていない。アフリカなどに十分な利権を維持しており、世界金融危機 において著しく増産した。もっとも規模が大きい鉱物資源は世界シェア8位(3.3%)の塩(700万トン、2002年時点)である。塩の食用需要は限られ、大部分は化学工業需要である。
有機鉱物資源では、石炭、石油、天然ガスとも産出するが、いずれもエネルギー需要の数%を満たす水準である。たとえば石油の自給率は1.6%にとどまる。金属資源では、金、銀、その他の地下資源ではカリ塩 、硫黄を採掘している。
ルノー・ヴェルサティス フランスの工業は食品産業 、製材 (en:Sawmill )、製紙業 、運輸業 、機械産業 (英語版 ) 、電気機械、金属、石油化学産業 (英語版 ) 、自動車産業 が中心である。世界一の生産高を誇るワイン 、世界第2位のチーズ のほか、バター 、食肉 も5本の指に入り、製糖 業も盛んである。製材、製紙はいずれもヨーロッパ随一である。石油化学工業は燃料 製造、合成樹脂 (プラスチック )、合成ゴム 、タイヤ と全部門にわたる。特に合成ゴムとタイヤ製造が著しい。たとえば旧フランス領インドシナ で採取したゴムの樹液が、接収したヒュルス社 のライセンスで加工され、ミシュラン のタイヤが作られる[ 注釈 5] 。
自動車製造業は世界7位の規模である。自動車の生産は古くから行われており、常に生産台数が世界で10番目に入る自動車大国でもある。おもなメーカーとしてルノー (日本の日産自動車 を傘下に収めている)や、PSA・プジョーシトロエン などがある。国防産業 では、タレス 、ナバル 、サフラン などの大企業が存在し、これらによる造船業も盛んである。
エールフランス のエアバスA318 フランスのフラッグ・キャリア は、エールフランス であり、スカイチーム に設立時から所属している。エアバス やマトラ 、ダッソー などの企業が代表するように航空宇宙産業 も発達しており、ロシア を除きヨーロッパではフランスだけが宇宙船発射能力を持つ。
エネルギーでは原子力発電 への依存率が世界でもっとも高い。電力のおよそ78%が原子力発電でまかなわれているのに対し、火力発電 は約11%、水力発電 は約10%にすぎない[ 79] 。発電用原子炉の数はアメリカ合衆国 に次ぐ59基。2001年時点の総発電量5,627億kW時のうち、74.8%(4,211億kW時)を原子力が占める。原子力による発電量自体もアメリカ合衆国の7,688億kW時に次いで2位である。フランスの発電は原子力以下、水力14.7%、火力10.4%、地熱0.1%が続く。総発電量では世界第8位を占めていて、近隣諸国にも多くの電力を供給しており、EUで最大の電力輸出国となっている。おもな原子力発電所は、グラブリン原子力発電所(5,706千kW、ノール県 )、パリュエル原子力発電所(5,528千kW、セーヌ=マリティーム県 )、カットノン原子力発電所(5,448千kW、モゼル県 )。2001年現在で発電規模世界第4位、5位、6位を占める。
フランスは伝統的に西ヨーロッパにおけるもっとも重要な農産品輸出国である。さらに、第二次世界大戦後に工業関連企業を国有化することによって合理化が進み、EC域内でドイツに次ぐ重要な工業国ともなった。2003年における全工業製品の輸出額はドイツの約40%であった[ 80] 。フランス工業(EC域内工業)の特徴は域内分業である。各産業は国内市場よりもEC域内市場を対象としており、フランスにおいても2004年における貿易依存度は輸出20.7%、輸入21.6%まで高まっている。2003年における輸出額は3,660億ドル、輸入額は3,696億ドルである。
輸出 輸出を金額ベースで見ると、工業製品が大半を占める。品目別では、自動車14.3%、電気機械11.2%、機械類10.4%、航空機5.4%、医薬品5.0%である。工業製品が80.4%、食料品が11.2%という比率になっている。おもな輸出相手国は金額が多い順に、ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、ベルギーであった。
フランスは2004年時点の小麦の世界貿易(輸出)において、第4位(12.5%、1,489万トン)を占めていた。さらにとうもろこしの世界貿易では第3位(7.4%、616万トン)、砂糖では第4位(5.2%、234万トン)、チーズ では第2位(14.3%、58.3万トン)を占めている。しかしながら、農産物は工業製品に比べて単価が安いことから輸出全体に占める比率は高くない。同じことが工業製品である鉄鋼の貿易にも当てはまる。フランスは2005年の世界貿易(輸出)において、第4位(1,800万トン)を占めているが、フランスの総輸出額に占める割合は5%未満である。一方、単価の高い自動車は2004年における輸出シェアが世界第2位(426.9万台)であることを反映し、もっとも重要な輸出品目となっている。
輸入 輸入は工業製品が77.4%、原材料と燃料が13.8%、食料品が8.4%という構成である。輸出入とも工業製品が約8割を占める。品目別では、電気機械13.1%、自動車11.0%、機械類10.0%、原油5.1%、衣類4.1%。おもな輸入国は金額順に、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーであった。
過去の収支とその後の傾向 1986年時点の貿易は、輸出1,191億ドル、輸入1,279億ドルであった。輸出に占める工業製品の比率は77.2%、食糧品は15.4%であることから、その後次第に輸出品に占める工業製品の割合が拡大してきたことが分かる。輸入品についてはこの傾向がより顕著である。
オイルショック以降、フランスは慢性的な高失業率に悩まされている[ 注釈 4] 。特に西アフリカ や中東 、北アフリカ などの元植民地からの移民 とその子孫の失業率が高いため、不満が鬱積したこれらの失業者による暴動がたびたび起きている。とりわけ2005年 10月27日 に発生した移民の死傷事件は、これをきっかけに、パリをはじめとしたフランス全土、さらに隣国のドイツやベルギーにも暴動が広がった(2005年パリ郊外暴動事件 を参照)。
就業者を上げるため、2006年3月に26歳以下の若者を2年以内の雇用なら理由なく解雇 できるという、青年雇用対策「初期雇用契約 」(CPE)を制定したが、逆に「安易な首切りを横行させる」と若者を怒らせる結果となり、フランス国内の大学でのCPE反対の抗議活動が激化、若者が暴徒化し警官隊と衝突する事態に陥った。CPE反対に際しては労働組合 も同調しており、抗議行動への参加や、3月28日には全国でTGV をはじめとする鉄道やバスなど公共交通機関の運休のほか、郵便局や公立学校などの公的機関、銀行や電力会社など幅広い業種でゼネラルストライキ が行われ、交通機関などで麻痺状態に陥った。ド・ビルパン 首相は撤回に応じないと表明したが、4月10日 になり、シラク大統領がCPEの撤回を表明した。
現在フランスは世界で最も緻密な交通網が整備された国のひとつである。100km²あたり146kmの道路 と6.2kmの鉄道 が整備されており、これらは首都 で国内最大都市であるパリ を中心とした交通網を形成している。
フランスの科学技術は17世紀から続く長い歴史を持っている。その始まりは当時の国内における科学研究の精神を奨励し保護する目的から、為政者であったルイ14世がジャン=バティスト・コルベール の提案で1666年に設立した科学アカデミー の存在にまで遡る。
グアドループ の市場。フランスの海外県や海外領土には多数の有色人種系の市民が存在する。フランスの人口ピラミッド フランスでは、1978年以降、国勢調査 またはその他の調査において人種 、民族 、政治的または宗教 に関する情報を調べることを禁止している。このため、フランスの人口のうち、どういった民族や人種、宗教が、どれほどの割合を占めているかについて、正確な数値は出せない[ 81] 。
フランスは欧州最大の多民族国家 であり、西ヨーロッパにある本土では①ケルト人 、②ラテン人 、③ゲルマン 系のフランク人 などの混成民族であるフランス人 が大半を占める。基本的には、「ラテン化したケルト人を少数のゲルマン人が征服して成立した国」とみなすこと、つまり「もともとケルト人が住んでいた地域に、古代ローマ帝国 が圧倒的な軍事力で攻め込んでローマ化 を行い、その結果その地域にローマ文化に同化したケルト人が生じ、その土地にフランク人が攻め込んで力を持った国である」などといった大枠でとらえられることが多いが、諸説あり今も議論の的である。世界、特に欧州では混成民族でない国民はほとんど存在しないとはいえ、たとえばドイツ人がゲルマン人を、ロシア人がスラヴ人を主流としていることに異論は少ないのに対し、フランス人はそうした主流を挙げることが困難なほどに3つの流れが拮抗した比重を持つのが特徴である。本土もブルターニュ ではケルト系のブルトン人 、スペイン の国境付近にバスク人 、アルザス はドイツ系のアルザス人 などの少数民族が存在する。コルシカ島 もイタリア人 に近い民族・コルシカ人 が中心である。一方、西インド諸島 やポリネシア の海外県や海外領土では非白人の市民が多い。
1919年のパリ講和会議 での人種的差別撤廃提案 にも賛成するなど、フランス語とフランス文化に敬意を払う人間は他国人であっても同胞として遇することが求められている。しかし実際には、ドレフュス事件 に代表されるように人種差別に基づいた事件も繰り返されており、あえて宣言しなければならないというのが実情である。21世紀以降においてもサルコジ 政権時、サルコジが移民2世であるにも関わらず、本人はアフリカ系住民への差別発言を繰り返し問題となるなど、依然として人種問題は根深い。アジア人 に対する差別も根強く、欧米に多い嘲笑「チン・チャン・チョン 」を投げかけられる事例も多いが、フランスではレイシズムは犯罪であることから、前科が付かないように自身は差別していないと強弁する者が多い[ 82] 。アジア系でも屈強な男性に差別発言をするのは酩酊や薬物中毒者くらいとされるなど、弱者を狙った行いという指摘もある[ 82] 。以前はアジア人が抗議することが少ないため問題化されないままエスカレートして暴力事件の横行に発展した結果、中華系のコミュニティが街頭で抗議活動を始めた[ 82] 。これにより、メディアでも取り上げられるようになり、2021年には以前なら問題視されなかったウスマン・デンベレ とアントワーヌ・グリーズマン の発言も問題視されるようになった[ 82] 。
一方では、ドイツ人でありながら19世紀に数々のフランス語オペラ、オペレッタで人気を博したマイヤベーア、オッフェンバックなどは今日でもフランスの作曲家として記されることが多く、同国文化の受容力を象徴している。フランス女優としてトップクラスの人気を得たロミー・シュナイダー はドイツ映画界出身者であり、同じくイザベル・アジャーニ もドイツ、アラビア混血である。
伝統的にフランスはスペイン 、ポルトガル 、東欧 諸国などから多くの移民 ・政治的難民 を受け入れている。
低賃金労働に従事する労働者となった移民たちも多かった一方で、科学・学術・芸術などの分野に優れ、フランスの文化レベルを押し上げるのに貢献した移民たちもいる。
もともと中東や東欧に住んでいたユダヤ人 たちで、ディアスポラ で西ヨーロッパやロシアまで拡散し放浪し、フランスにたどり着き定住することになったユダヤ系の人々や、結果として代々、数百年以上住んでいる「ユダヤ系フランス人」たちも相当割合いる。フランスの大学教授、弁護士、医師、実業家、商人、芸術家 などなどの職業では結構な割合が、実はユダヤ人である。たとえば、自動車メーカーのシトロエンの創設者アンドレ・シトロエン 、作家のマルセル・プルースト もユダヤ人であり、画家のマルク・シャガール もロシア(東欧)から移民してきたユダヤ人である。en:History of the Jews in France も参照可。
近年では、アフリカ (の中でも1960年代 までフランスの植民地 であった地域)や中近東 からの移民 が多い。
現行の憲法第二条によると、1992年からフランス語 はフランスの唯一の公用語 である。ただし、オック語 、ピカルディ語 などのいくつものロマンス語 系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系のブルトン語 (ブレイス語)、アルザス ではドイツ語 の一方言であるアルザス語 、北部フランドル・フランセーズ ではオランダ語 類縁のフランス・フラマン語 、コルシカではコルシカ語 、海外県や海外領土ではクレオール諸語 など77の地域語が各地で話されている。近年まで、フランス政府と国家の教育システムはこれらの言語の使用を留めてきたが、現在はさまざまな度合いでいくつかの学校では教えられている。そのほか、移民によってポルトガル語 、イタリア語 、マグレブ・アラビア語 、ベルベル諸語 が話されている。フランス語は、フランスのみならず、旧植民地諸国(フランス語圏 )をはじめとした多くの諸国で広く使用されている言語である。フランスは、点字 が生まれた国でもある。
フランスではナポレオン法典 によって子どもにつけられる名前が聖人 の名前などに限定されたことがある。Jean-Paulジャン・ポールやJean-Luc ジャン・リュックのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのようなベースとなる選択肢が少ない状況のなかで名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子どもにつけられる名前が少なく(アラン、フィリップなど)、同じ名前の人物が多数いる。婚姻によって姓が変わることはない(夫婦別姓 )。
フランスの国立調査機関によれば、カップルの32%が法律婚、28%がPACS(パックス,連帯市民協約)、残り40%がユニオン・リーブル(事実婚)の割合となっている[ 83] [ 84] 。
同国は、死後に相手を伴侶とする冥婚 が合法となっている数少ない死後結婚制度保有国の1つでもある。
ゴシック建築 の教会堂 で、フランスの宗教建築を代表するサント・シャペル 宗教面では、国民の約7割がカトリック と言われている。カトリックの歴史も古くフランス国家はカトリック教会 の長姉とも言われている。ただし、フランスでは人種や民族、宗教に関する国民の情報を取ることが禁止されているため、どの宗教が、どれほどの割合を占めているかについては、はっきりしない[ 81] 。
代表的な教会はノートルダム大聖堂 、サン=ドニ大聖堂 などが挙げられる。パリ外国宣教会 はその宣教会。フランス革命以降、公共の場における政教分離が徹底され、宗教色が排除されている。
近年、旧植民地 からの移民の増加によりムスリム 人口が増加し、知事も生まれた。フランスではフランス革命以来の伝統で政教分離 (ライシテ )には徹底しており、2004年 には公教育の場でムスリムの女子学生のスカーフをはじめとしてユダヤ教 のキッパ、十字架など宗教的シンボルを禁止する法案が成立し、フランス内外のムスリムやユダヤ教徒から反発されている。一方でいくつかのキリスト教的シンボル(クリスマスツリー など)はすでに一般化していて宗教的シンボルに値しないと許容されているため、宗教的差別であるという意見もある。
フランスの18世紀までのアンシャン・レジーム (旧体制)では、カトリック教会(の聖職者)と王権(王族)たちが密接に結びつき、国民を抑圧してきた歴史があるが、1789年 のフランス革命 により、「自由・平等・友愛」の理念を掲げる共和国を樹立した(フランス革命 )。
フランスの憲法にも「ライシテ 」(=政教分離 。政治と宗教の分離の原則)および信教の自由 は明記されている。
ただし安楽死 など道徳に関わる分野おいては、カトリックを始めとした宗教保守派の影響が大きい[ 85] 。
ソルボンヌ大学 2歳から5歳までの就学前教育 ののち、6歳から16歳までの10年間が無償の初等教育 と前期中等教育 期間となり、6歳から11歳までの5年間がエコール・プリメール(小学校)、その後4年間がコレージュ (中学校)となる。前期中等教育の後3年間のリセ (高等学校)による後期中等教育を経て高等教育 への道が開ける。2003年の推計によると、15歳以上の国民の識字率は約99%[ 86] である。コミュニケーションを重視した国語教育が、小学校での最重要の教育目標になってもいる。しかし、フランスの教育制度が民衆に等しく手厚いことを必ずしも意味しない。
リセ卒業時に行われるバカロレア に合格すれば任意の総合大学 ・単科大学 へ入学できる。ただし、グランゼコール を含む一部のエリート大学はこの限りでない。代表的な高等教育機関としてはパリ大学 (1211年)、モンペリエ大学 (1289年)、エクス=マルセイユ大学 (1609年)、ストラスブール大学 (1631年)、リヨン大学 (1809年)、パリ・カトリック大学 、エコール・ノルマル 、エコール・ポリテクニーク 、パリ国立高等鉱業学校 、エコール・サントラル などが挙げられる。
フランスの公立学校では、10人に1人がいじめ の被害にあっているとされ、いじめが大きな社会問題となっている。しかしフランスは、ほかのヨーロッパ 諸国より、いじめ対策が遅れているとされる[ 87] 。
幼児教育分野においてステレオタイプな中国人像の歌が歌われていたことや、教員も差別している意識が低いことがアジア系への差別を助長していると指摘されている[ 82] 。
OECD各国のGDPにおける社会的支出割合(公費および私費)[ 88] フランスは高福祉高負担国家 であり、GDPにおける社会的支出の割合はOECD中で最大である[ 88] 。医療制度 はユニバーサルヘルスケア が達成されており、大部分は国民健康保険にてカバーされる。WHOによる2000年の医療制度効率性ランキングにおいてはフランスが第一位となった。国民識別番号 としてINSEEコード (NIR) が採用され、公的医療保険証(ヴィタルカード )などに用いられている。
早くから少子化 対策に取り組み、GDP のおよそ2.8%にも相当する巨費を投じ国を挙げて出産・育児を支援する制度をさまざまに取り入れてきた。代表的なものとしては世帯員(特に子供)が多い家庭ほど住民税 や所得税 などが低くなる「N分N乗税制」や、公共交通機関の世帯単位での割引制度、20歳までの育児手当などがある。この結果、1995年に1.65人まで低下したフランスの出生率(合計特殊出生率)は2000年には1.89人に、2006年には2.005人にまで回復した。2020年の数値は1.81人となっている。
一方で、子供を4人以上産めば事実上各種手当だけで生活することが可能となり、結果として低所得者が多いアフリカ系の移民やイスラム系の外国人労働者を激増させているのではないかとの指摘もある。これに対してINSEE (フランス国立統計経済研究所)は「移民の出生率は平均より0.4%ほど高いが、全体に占める割合が大きくないので大勢にそれほど大きな影響を与えているわけではない」と説明している[ 89] 。
フランスの治安は、2015年に首都パリで発生した同時多発テロの影響からテロ 対策が強化された状態にあり、緊張状態が続いている。
現在の同国における犯罪被害は一般犯罪に絡むものが多く、空き巣 や車上荒らし をはじめ置き引き 、スリ 、ひったくり などの窃盗 、強盗 、暴行 、クレジットカード や現金引出しに関する金銭絡みの犯罪被害が後を絶たない。これらの被害を受けているのは外国人観光客であり、一部には日本人観光客からの被害報告も寄せられている。近年では偽警察官などによる詐欺事件も発生していてその被害報告も増えて来ている[ 90] 。
フランス通信社 は同国を代表するメディア の一つとなっている。
同国を代表するテレビ局 にはフランス・テレビジョン が挙げられる。
新聞 ではシャルリー・エブド をはじめとした週刊新聞が知られている。
フランス文学 は、そのほんの一部をピックアップしただけでも、たとえば13世紀ころから宮廷風恋愛のテーマとしたアレゴリー 詩『薔薇物語 』、16世紀にはモラリスト のモンテーニュ による哲学的な自伝『随想録 』、17世紀にはラシーヌ やモリエール の演劇作品、18世紀には啓蒙思想家のヴォルテール 、ルソー 、ディドロ などによる諸作品、19世紀にはロマン主義 のスタンダール 、バルザック 、デュマ 、ヴィクトル・ユーゴー 、20世紀には実存主義 のカミュ やサルトル 、人間心理を極めたプルースト 、世界大戦下で「愛の意味」や「人生の意味 」を語ったサン=テグジュペリ ...といった具合で、ここでは挙げきれないほどに豊穣であり、しかも思想的にも深みがあり、フランス文学は世界各国の文学の中でもトップレベルだと評価されており、フランス文学の奥深さは結果としてフランスにおける音楽や絵画の作家らにも影響を与え、それらの作品に深みを与えるのに貢献している。
音楽、特にクラシック音楽 も盛んである。19世紀末から20世紀にかけてフォーレ 、ドビュッシー 、ラヴェル 、「フランス6人組 」らはフランス音楽を頂点にまで押し上げた。ポーランド人のショパン 、ドイツ人のグルック 、オッフェンバック 、ジャコモ・マイアベーア がパリを拠点とするなど、多くの外国の才能が活躍する場を提供した。20世紀以降では情緒を巧みに歌い上げたシャンソン や、フランス発のポピュラーミュージックも世界中で愛され、ミシェル・ポルナレフ などしばしば世界中でヒットチャートの上位に上がった。
フランスの絵画 は、数世紀の間欧州世界をリードする地位にあると言われており、たとえば19世紀には印象派 、象徴派 、ポスト印象派 、ジャポニスム が隆盛を迎え、エドゥアール・マネ 、クロード・モネ 、ポール・セザンヌ 、ポール・ゴーギャン らが活躍し、20世紀初頭にはフォーヴィスム (野獣派)、キュビスム 、アール・ヌーヴォー 、アール・デコ が隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラック やアンリ・マティス らが活躍し、現在も多くの諸外国の芸術家やクリエイターを引きつけ続けている。
フランスは「パン 、フロマージュ(=チーズ) 、ヴァン(=ワイン) 」といった フランス人にとって日々の最も基本的な食品とみなされている3食品があり、これらは基本的な食材のみを用いてシンプルな加工でできているにもかかわらずそれだけでもすでに相当な美味であり、食べる人々に幸福をもたらしてくれる組み合わせである。さらにはフランスでは宮廷文化とその農産物の豊かさを背景にして食文化も発達してきた歴史があり、近・現代のシェフが趣向をこらし磨きをかけた技で調理したフランス料理 は、しばしば「世界の三大料理のひとつ」とされ、ガストロノミー (いわば「食通道」)も発達し、さらにミシュランガイド のおかげでパリだけでなくフランスの地方(田舎 )にある優れた料理店にもスポットライトが当たるようになり、フランス国内だけでなく世界中の食通たちがフランスのシェフらの料理を目当てにフランス各地を訪れている。
フランスワイン フランスはヨーロッパでも最上位に位置する農業国であり、食文化の面では王制時代の宮廷文化と豊かな農産物とを背景に発展したフランス料理 が有名である。前菜やスープ類から始まってメイン料理を経てデセール(デザート )へと進むコース料理 が発達し、テーブルマナー も洗練されたものとなった。宮廷文化のおかげで、貴婦人らや甘いもの好きの王などを満足させるためにケーキ などの菓子文化も発達した。そして、上流階級のフランス料理のほかにも、ブルターニュ地方のそば粉を用いたクレープ ガレット のように、地方ごとにさまざまな特色を持つ郷土料理が存在している。バゲット [ 注釈 6] 、バタール 、クロワッサン などのフランス独特のパンも世界中で知られている。コンソメ 、ヴィシソワーズ 、ポタージュ などフランス発祥のスープ も有名である。現代におけるフランス料理の形を確立させたのは、おもにアントナン・カレーム とオーギュスト・エスコフィエ の両名のシェフによる功績とされている。[ 注釈 7] 近年ではたとえば「トリュフのパイ包みのスープ」を考案したポール・ボキューズ など有名なシェフも多く自らが経営する料理店で世界中からやってくる食通たちを満足させているし、現在もフランス料理は進歩し続けている。フランスはチーズ やワイン の生産国としても名高く、AOC 法によって厳格に品質管理されたフランスワイン は世界中で高評価を得ている。ワインを蒸留したブランデー の生産も盛んで、コニャック 地方で生産されるブランデーは品質のよさで知られ「コニャック」というブランドで呼ばれている。カフェ 文化が育ったのもフランスであり、17世紀後半に生まれたフランスのカフェ文化は、現在まで広く世界中に根付いている。
ヴィクトル・ユーゴー 中世においては騎士道 を歌い上げる叙事詩 が文学の主流を担い、11世紀に『ローランの歌 』が成立した。
12世紀ころには騎士道物語が流行し、クレティアン・ド・トロワ (1135?-1190?)により『イヴァンまたは獅子の騎士 』『ランスロまたは荷車の騎士 』『ペルスヴァルまたは聖杯の物語 』などの物語が書かれ、その写本 が流通した。(これは男性向けの作品であるが)、女性向けの作品としては、13世紀初頭から(100年弱の期間にわたり、ギヨーム・ド・ロリスおよびジャン・ド・マンによってアレゴリー(寓喩) を用いて、長詩の形式で、宮廷恋愛の一種の入門書の『薔薇物語 』が書かれ、女性たちの間では大人気となったという。
ルネサンス期にはフランソワ・ラブレー が活躍し、『ガルガンチュワとパンタグリュエル 』を著した。その後の絶対主義 時代からフランス革命期にかけてマルキ・ド・サド などが活躍した。
ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー 』(随想録)は哲学的な自伝の書であり、「自己」を知るだけでなく「人間そのもの」を知ろうとする姿勢はフランス文学のひとつの伝統となった。
17世紀にはジャン・ラシーヌ やモリエール が優れた演劇作品を書き、当時から劇場でさかんに上演されたわけであるが、特にモリエールの『町人貴族』などは、現代でも各国の劇団が、いわば「演劇作品の古典」として(ほぼそのまま、あるいは翻案して)上演することがある。ブレーズ・パスカル は、数学者・自然科学者でありながらも自身の秘めたる神秘体験から宗教的確信を深め、キリスト教を護教するために論陣を張り、キリスト教護教書とも言える書物をいくつも残したが、生前に刊行されず多数の断片からなる遺稿という形で残された『パンセ 』は、自然哲学者やクリスチャンという立場を超え、その哲学的な深淵さによって 現代でも世界中の読者を魅了しつづけている。
18世紀には啓蒙主義のヴォルテール 、ジャン=ジャック・ルソー 、ドゥニ・ディドロ らが活躍し、ディドロやルソーらは『百科全書』の成立にも貢献した(その流れが現代のこのWikipediaにまで繋がっているわけである。)
19世紀には『赤と黒 』のスタンダール 、同一登場人物が何度も異なる小説に登場するという手法(この手法は研究者によって「人物再登場」と呼ばれている)を開発し、「人間喜劇」という名でくくられて呼ばれる膨大な小説群を残したオノレ・ド・バルザック 、『レ・ミゼラブル 』のヴィクトル・ユーゴー 、『三銃士 』や『モンテクリスト伯 (岩窟王)』のアレクサンドル・デュマ・ペール などが活躍した。『八十日間世界一周 』、『海底二万里 』で知られるジュール・ヴェルヌ はサイエンス・フィクション の先駆者となった。1873年 、アルフォンス・ドーデ の『最後の授業 』を含む短編集が出版され、フランス語の愛国教育が始まったことが知られている。[ 注釈 8] [ 注釈 9] [ 注釈 10]
20世紀には、マルセル・プルースト によって『失われた時を求めて 』が書かれ、これは「20世紀を代表する大長編小説」とされている。一方でシュルレアリスム のアンドレ・ブルトン 、ロベール・デスノス 、ルネ・シャール などが詩作品などを残した。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ は、軍用機のパイロットとして勤務しつつ作家としてデビューし、『夜間飛行 』(1931年刊)や『人間の土地 』(1939年刊)などはベストセラーとなり今日でも読み継がれている。『星の王子さま 』は、世界各国でロングセラーとなり、現在では、その翻訳された言語数(翻訳言語数)が「世界中の全ての書物の中で2位」(翻訳言語数トップの聖書 に次ぐ、堂々の2位)となっている。
「我思う、ゆえに我あり 」のコギト命題で知られるルネ・デカルト 中世において神学 者のピエール・アベラール は唯名論 を唱え、スコラ学 の基礎を築いた。のちにスコラ学はシチリア王国 出身のトマス・アクィナス の『神学大全 』によって大成された。一方正統カトリック信仰とは異なる立場で南フランスでは一時グノーシス主義 の影響を受けたカタリ派 が勢力を伸ばしたが、アルビジョワ十字軍 によるフランス王権の拡張やカトリックによる弾圧によってカタリ派は15世紀までに滅んだ。
ルネサンス期にはミシェル・ド・モンテーニュ が活躍し、『エセー 』を著してその中でアメリカ大陸 やアフリカ の住民を擁護した。しかし、モンテーニュの非西欧世界への視線は非西欧を「文明」として捉えることはせず、のちのルソーに先んじて「高貴な野蛮人」として扱うに留まった。
宗教改革や対抗宗教改革後の17世紀にはジャンセニスム やガリカニスム が隆盛を迎え、ブレーズ・パスカル 、ジャック=ベニーニュ・ボシュエ らが活躍し、それぞれの立場からカトリック信仰を擁護した。『方法序説 』を著したルネ・デカルト によって近代哲学 が成立した。
18世紀には信仰 よりも理性 を重視する啓蒙思想 が発達し、ジャン=ジャック・ルソー 、シャルル・ド・モンテスキュー 、ヴォルテール 、フランソワ・ケネー らが活躍した。これらの思想家は清 の儒教 の影響などもあって、それまでのキリスト教会が担っていた神聖な権威よりも理性を重視する合理主義的な考察を進め、君主による絶対主義 を否定するアメリカ独立革命 やフランス革命 の理論的支柱となった。しかし、同時に啓蒙主義によってもたらされた合理主義は植民地 のサン=ドマング や、18世紀末から19世紀末にかけて啓蒙思想を理論的支柱として独立したアメリカ合衆国 やラテンアメリカ 諸国において、理性を持たない「半人間」という扱いをうけた黒人 やアメリカ先住民 (インディアン 、インディオ )を、「より理性的な」白人が合理的に奴隷化し、収奪することを合法化する思想ともなった[ 91] 。フランス革命中に活躍した平等主義者フランソワ・ノエル・バブーフ は、その思想の先見性から共産主義 の先駆者と位置づけられた。『人権宣言 』の説く「人間」に、女性が含まれないことを指摘したオランプ・ド・グージュ はフェミニズム の先駆者となった。
啓蒙主義を理論的支柱としたフランス革命が一段落した19世紀前半にはアンリ・ド・サン=シモン やシャルル・フーリエ によって社会主義 思想が唱えられた。彼らの思想はのちにカール・マルクス とフリードリヒ・エンゲルス によって空想的社会主義 と呼ばれた。同じころ、オーギュスト・コント は実証主義 を唱え、実証主義は19世紀後半のラテンアメリカ諸国の政治や文化(1889年のブラジル の共和制革命など)に大きな影響を与えた。資本主義 経済の確立を唱えた実証主義は、ラテンアメリカにおいて、社会進化論 などとともに国家が資本主義的な利用を図るために「野蛮」なインディオ の共有地や解体し、半奴隷労働を強制することを理論的に支えた。19世紀半ばにピエール・ジョゼフ・プルードン は無政府主義 (アナルキスム)を体系化し、無政府主義はミハイル・バクーニン によってマルクスとエンゲルスの史的唯物論 (科学的社会主義 )に対抗する社会主義思想となった。帝国主義 の時代において、このような19世紀までの社会主義思想も含めた多くの社会思想は、マルクス主義 者のポール・ルイ (ポール・レヴィ)や、哲学者のフェリシヤン・シャレ のような数少ない例外を除いて植民地主義 は「野蛮」な非西欧の「文明化」に奉仕するものだとして、真剣に植民地支配やその結果である収奪、暴力を批判する思想とはならなかった[ 92] 。
第一次世界大戦後の戦間期にはアンリ・ベルクソン やジョルジュ・ソレル らが活躍した。一方、植民地からはマルティニーク出身のエメ・セゼール やセネガル出身のレオポール・セダール・サンゴール が科学的人種主義 によって不当に評価を低く見られていた黒人とアフリカ文明を再評価する、ネグリチュード運動が提唱された。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール 、ジャン=ポール・サルトル 、チェ・ゲバラ (1960年 、キューバ )第二次世界大戦後には実存主義 哲学が隆盛を迎え、ジャン=ポール・サルトル やマルティニーク出身のフランツ・ファノン は反帝国主義 の立場からアルジェリア戦争 に反対するとともに、アルゼンチン の革命思想家チェ・ゲバラ のゲバラ主義 (英語版 ) や毛沢東 の毛沢東主義 とともに植民地 や第三世界 におけるマルクス主義 による革命闘争の理論的支柱となった。実存主義者のシモーヌ・ド・ボーヴォワール はフェミニズム運動を牽引した。1950年代から1960年代のフランスでは、知識人を中心に毛沢東主義が流行した。
実存主義のあとには、1960年代からスイスの言語学 者フェルディナン・ド・ソシュール や、人類学 者クロード・レヴィ=ストロース 、ヘーゲル 学者アレクサンドル・コジェーヴ によって構造主義 が隆盛を迎え、ルイ・アルチュセール 、ミシェル・フーコー 、ジャック・デリダ 、ジル・ドゥルーズ 、エマニュエル・レヴィナス などが活躍した。オーストリア のジークムント・フロイト が大成した精神分析 学は、20世紀後半にパリ・フロイト派 を立ち上げたジャック・ラカン によって新たな段階に至った。構造主義のあとにはポスト構造主義 が隆盛を迎えたが、1994年のソーカル事件 により、構造主義やポスト構造主義の「知の欺瞞」が暴露され、衒学的な姿勢は厳しく批判された。ただし、このような限界がありながらも、未だにフランス初のポストモダニスム はアラン・バディウ のようなフランス人のみならず、アメリカ合衆国 のガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァク (デリダ派)やジュディス・バトラー (フーコー派)スロヴェニア のスラヴォイ・ジジェク (ラカン派)らに批判的に継承され、発展を続けているのも事実である。
脱植民地化時代のマルティニークにおいてはセゼールやファノンの後継者であるエドゥアール・グリッサン の全世界論や、パトリック・シャモワゾー 、ラファエル・コンフィアン らのクレオール主義 が唱えられた。
1990年代には、かつてチェ・ゲバラとともにボリビア での革命運動に参加したレジス・ドブレ によってメディオロジー が唱えられ、毛沢東派のアラン・バディウ が活動し続けるなど、ポストモダニスム以外の哲学のあり方も変化している。
印象主義音楽 の作曲家とされる(本人は否定)ドビュッシー 古くよりイタリアと並ぶ音楽大国として君臨し、ルネサンス音楽 以前ではギョーム・ド・マショー 、ジョスカン・デ・プレ が著名な存在である。バロック音楽 時代はオペラ を中心に栄えた。この時期の作曲家としてはリュリ 、フランソワ・クープラン 、ラモー などをが知られる。古典派音楽 時代は器楽ではゴセック 、オペラではボイエルデュー が活躍した。
ロマン派音楽 前期・中期ではベルリオーズ が知られるが、オペラにおいてはマイアベーア やオッフェンバック といったドイツ系人物の活躍が目立った。19世紀後半になるとビゼー 、グノー 、マスネ など、現在でも知名度の比較的高いフランス・オペラの作曲家たちが出現する。器楽においてはサン=サーンス 、そのサン=サーンスを批判したフランク (彼もドイツ系ベルギー人 ではあったが)が現れたころから独自のフランス器楽音楽を模索する動きが高まり、19世紀末20世紀にかけてフォーレ 、ドビュッシー 、ラヴェル 、「フランス6人組 」らによって一つの頂点を築いた。現代音楽 では独自の音楽語法が世界的に大きな影響を与えたメシアン 、前衛音楽 の一つの典型であったブーレーズ 、スペクトル楽派 のトリスタン・ミュライユ などが知られている。
ポピュラー音楽 においては20世紀初頭から1950年代にかけてミュゼット や、シャンソン として知られる音楽が流行し、エディット・ピアフ やイヴ・モンタン 、シャルル・アズナヴール などが活躍した。戦前はアルゼンチン のタンゴ が流行し、アルゼンチンでは「パリのカナロ 」などの楽曲が作られた。
ジャズ が幅広く普及しており、アメリカのジャズをもとにフランス独自の音楽性を発展させた。アメリカからフランスへ移住したジャズ・マンも過去に存在した。1960年代から1970年代には、アメリカ合衆国やイギリス のポップ、ロック の影響を受け、ミッシェル・ポルナレフ 、シルヴィ・バルタン 、フランソワーズ・アルディ 、ピエール・バシュレ、フランス・ギャル 、ジョニー・アリディ 、アラン・シャンフォーらが大活躍した。ロック・バンドではマグマ 、アンジュ、タイフォンなどが活動した。マグマ らの音楽は、プログレッシブ・ロックとジャズ・ロックの分野で知られている。1980年代以降は、フランスの旧植民地から出稼ぎにやってきた人々や、活動の拠点を母国からフランスに移した音楽家も活躍し始め、セネガル のユッスー・ンドゥール 、マリ共和国 のサリフ・ケイタ 、アルジェリア系のラシッド・タハ のような音楽家が活動している。1990年代にダフト・パンク が登場すると、EDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)の産地としても知られるようになり、ダフト・パンク のほかデヴィッド・ゲッタ などが国際的な成功を収めている。
『民衆を導く自由の女神 』ウジェーヌ・ドラクロワ画 ルーヴル美術館 オルセー美術館 フランスは芸術の国として広くその名を知られており、国内、海外を問わず多くの芸術家がフランスで創作活動を行った。ファン・ゴッホ やパブロ・ピカソ 、ル・コルビュジエ などはフランスで創作活動を行った芸術家達のうちのごく一部である。
18世紀末から19世紀初めにかけては新古典主義 により古代ギリシア ・古代ローマ の文化の復興運動が進められ、フランス革命 を描いたジャック=ルイ・ダヴィッド などが活躍した。
19世紀前半にはロマン主義 や写実主義 が隆盛を迎え、ウジェーヌ・ドラクロワ やギュスターヴ・クールベ らが活躍した。19世紀後半には印象派 、象徴派 、ポスト印象派 、ジャポニスム が隆盛を迎え、エドゥアール・マネ 、クロード・モネ 、ポール・セザンヌ 、ポール・ゴーギャン らが活躍した。20世紀初頭にはフォーヴィスム (野獣派)、キュビスム 、アール・ヌーヴォー 、アール・デコ が隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラック やアンリ・マティス らが活躍した。
1918年に第一次世界大戦 が終結し、それまで世界の中心的地位を占めていたヨーロッパが衰退すると、戦間期にはシュルレアリスム などそれまでの西欧の美術様式に逆らった美術運動が発展した。
第二次世界大戦 後に冷戦 構造の中でアメリカ合衆国 が西側世界の中心となると、フランスの文化的な地位は相対的に低下したが、終戦直後から1950年代にかけてアンフォルメル や、1960年代に全盛を迎えたヌーヴォー・レアリスム などでフランスの芸術運動はアメリカ合衆国と激しく主導権を争った。
フランスにおける芸術の中でも近年とりわけ重要視される文化は映画である。フランスで映画は、第七芸術と呼ばれるほど、深く尊敬を集め親しみある存在である。
映画の歴史は1895年12月28日のリュミエール兄弟 の上映によって始まり、20世紀初頭には文芸色の強い無声映画が多数作られた。毎年5月には南仏の都市カンヌ においてカンヌ映画祭 が開催され、世界中から優れた映画関係者が集まり華やかで盛大な催しが行なわれる。
コンタディン・プロヴァンスの伝統衣装 (フランス語版 ) を身に纏った女性たちヴァンドーム広場 のシャネル本社ファッションの大衆化が進んだ19世紀 以降、特に20世紀に入ってからはフランスのファッションブランドが世界を席巻しており、ユベール・ド・ジバンシィ やイヴ・サンローラン 、クリスチャン・ディオール 、ココ・シャネル などのファッションデザイナー によるオートクチュール やプレタポルテ のほか、これらのファッションブランドが展開する香水 やバッグ などが人気を博している。ほかにも、ルイ・ヴィトン やエルメス などの旅行用品や馬具 のブランドが衣類 や靴 、バッグ、小物、香水などのラインを出し世界中で人気を博している。パリコレクション が世界中のファッション雑誌 やバイヤーからの注目を集めていることから、フランス以外の諸外国のファッションデザイナーの多くがコレクションへの参加を行っており、日本からもコム・デ・ギャルソン (川久保玲 )やケンゾー (1999年 まで高田賢三 )、Yohji Yamamoto(山本耀司 )などの多数のファッションブランドが毎年参加しているなど隆盛を極めている。
これらのファッションにおけるフランスの隆盛は、フランス文化を諸外国に広めるだけでなく、外貨獲得にも大きく貢献していることから、現在では業界そのものが政府による大きなバックアップを受けている。
「西洋の驚異」と称されるモン・サン=ミシェル ヴォー・ル・ヴィコント城 フランス国内におけるバロック様式の建築物に代表されるものの一つとなっているフランスの建築はローマ帝国時代の流れを汲むものが中心となって構成された。同国の建築における技法はこれまで同国植民地をはじめ、数々の国へ広い範囲で影響を及ぼしており、フランス国外で同国式建築物を元に設けられた建物が幾つか残存している。
特にフランス統治下 時代にその該当地域となっていたアメリカ州 ・アフリカ 国家地域の一部には、当時に設けられた植民地建築の施設が良好な状態で保たれつつ散在している面が見受けられる。
フランス国内には、ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産 が35件、自然遺産 が3件存在する。さらにスペインにまたがって1件の複合遺産 が登録されている。
フランスの3大人気スポーツはサッカー 、自転車競技 、ラグビー である。さらにペタンク は国民的なスポーツ であり、あらゆる年齢層で年中よく親しまれている。フランスでは各所に「ペタンク場」が作られている。その他にもモータースポーツ や、海岸地域ではセーリング などのヨット 競技や下記のスポーツが盛んである。
フランスは、予定されている大会も含めて7回(夏季 3回:パリ1900 、パリ1924 、パリ2024 、冬季 4回:シャモニー1924 、グルノーブル1968 、アルベールビル1992 、フランスアルプス2030 )のオリンピック の開催国である。
テニス ローラン・ギャロス が代表するテニスも盛んで、世界的に著名な選手や監督や指導者も多い。四大大会の一つである全仏オープン は、グランドスラム唯一のクレーコートとして有名。近年はジル・シモン 、リシャール・ガスケ 、ガエル・モンフィス 、ジョー=ウィルフリード・ツォンガ 、ファブリス・サントロ 、セバスチャン・グロージャン など数多くのトップ選手のいる強豪国でもある。競馬 パリロンシャン競馬場 で凱旋門賞 が、芝 コースでは世界最高峰の競走 として知られる。繋駕速歩競走 も盛んであり、平地競走 や障害競走 よりも人気があるといわれている。ヴァンセンヌ競馬場 で行われるアメリカ賞 は、世界最高峰の競走で知られる(詳しくはフランスの競馬 を参照)。柔道 と合気道 「Judo 」と綴られる柔道は、フランスでの競技人口が日本を上回っており、広く親しまれている。合気道も、習っている人口が日本を上回っている。 ウィンタースポーツ アルプス地方ではスキー などのウィンタースポーツ が伝統的に盛んである。 スカイスポーツ 夏季のヴァカンス の長期休暇のシーズンになると、大人たちがパラグライダー やモーター・パラグライダー、硬い翼を持つグライダー 、ウルトラライトプレーン などを使って、フランスの空を飛び交う。エアレース にもフランス人パイロットが参戦している。 ウォータースポーツ 大西洋岸(フランスの西側の海岸)ではサーフィン が行われ、ヨーロッパサーフィンの中心地である。同地域ではウィンドサーフィン も盛んである。 サッカー フランスではサッカー が最も人気のスポーツ である。これまでFIFAワールドカップ を2度、UEFA欧州選手権 も2度、自国で開催している。1984年欧州選手権 で優勝したフランス代表 の流麗なサッカーは、「シャンパン・フットボール」と形容された。2度目の自国開催となった1998年ワールドカップ では大会初優勝を遂げ、直後の2000年欧州選手権 でも優勝を果たした。代表メンバーの多くを移民 の子孫や海外県出身者が占めるチームは、国民統合の象徴的な存在にもなった。ロシア で行われた2018年ワールドカップ では、20年ぶり2度目の優勝を達成した。FIFA女子ワールドカップ の2019年大会 は同国で開催され、フランス女子代表 は準々決勝でアメリカ女子代表 に敗れたものの、チームはベスト8の成績を収めた。
1932年 にプロサッカーリーグのリーグ・アン が創設されており、UEFAチャンピオンズリーグ においては、1992-93シーズン にマルセイユ が、2024-25シーズン にパリ・サンジェルマン が優勝を果たしている。バロンドール を受賞したフランス人 選手は歴代で6人存在し、レイモン・コパ 、ミシェル・プラティニ 、ジャン=ピエール・パパン 、ジネディーヌ・ジダン 、カリム・ベンゼマ 、ウスマン・デンベレ である[ 93] 。また、世界的に有名な選手としてキリアン・エムバペ がいる。国際サッカー連盟 (FIFA) 初代会長のロベール・ゲラン 、ワールドカップ創設の功労者ジュール・リメ 、欧州選手権の提唱者アンリ・ドロネー 、ヨーロピアンカップ の提唱者ガブリエル・アノ 、欧州サッカー連盟 (UEFA) の元会長ミシェル・プラティニなど、国際サッカーの発展において重要な役割を果たしたフランス人は数多く挙げられる。その後、彼らが世界のサッカー 人口の増加に寄与した事は言うまでもない。
自転車ロードレース 毎年7月に3週間以上かけて行われるツール・ド・フランス 世界最大で三大ツール の一つであるツール・ド・フランス が行われ、人気のスポーツである。ツール・ド・フランスの歴史は古く、1903年に第1回大会が行われて以来、二度の世界大戦によって1915年から1918年 、および1940年から1946年 の中断期があるものの、2008年で通算95回を数える。しかし、近年ではフランス出身の選手はあまり活躍しておらず、1985年のベルナール・イノー を最後に総合優勝者は出ていない。その他フランスで行われる主な大会としては、パリ~ニース 、パリ〜ルーベ 、クリテリウム・デュ・ドフィネ 、ブルターニュ・クラシック・ウエスト=フランス 、パリ~ツール などがある。
ラグビー フランスにおいてラグビー は南部を中心に人気を誇っており、国内ではサッカーに次いで人気の高いスポーツである。欧州6か国(グレートブリテン・アイルランド2島で4か国)で実施されるシックス・ネイションズ (6 Nations)のメンバーに連ねており、欧州においてもイギリス (イングランド ・ウェールズ など)に並ぶ強豪国である。フランス代表 のパスとランが続くプレースタイルはしばしば「シャンパン・ラグビー」などと評される。2007年にはラグビーワールドカップ を自国開催したが、準決勝でイングランド代表 に敗れ、初優勝はならなかった。フランス政府は全国9か所に、少年層から青年層までの有望選手が勉強しながら育成できる施設をつくっている。2023年 にもラグビーワールドカップ を開催している。
モータースポーツ ルノー ・プジョー といった最古の量販車メーカーを抱えることもあって、自動車 が実用化されだした20世紀 初頭、1906年 には世界初のグランプリレース がフランスで行われた。そうした由縁もあり、フォーミュラ・耐久・ラリーなどのジャンルを問わずフランスは、英国に並ぶ欧州有数のモータースポーツ大国となっている。特にル・マン24時間レース とFIA 世界耐久選手権 (WEC)、ボルドール24時間レース 、ダカール・ラリー をフランスの組織が運営しているのは特筆すべき点である。これらのレースでは複数の言語で規則が公布されるが、翻訳上の解釈の齟齬があった場合はフランス語版が最優先される取り決めとなっている。F1のフランスグランプリ も歴史があるが、プロモーション上の問題も有り、開催はされたりされなかったりと不安定な状況にある。
自動車会社としてはルノー (アルピーヌ )がF1、プジョー・シトロエン がおもにラリー系競技で活躍している他、ブガッティ 、タルボ 、マトラ 、リジェ といった比較的小規模なメーカーや、オレカ 、ピポ・モチュール 、オンローク 、シグナテック など、ワークス系チームも一目置くようなレーシングコンストラクター・プライベーターも多数存在する。
有力ドライバーとしては4度のF1王者のアラン・プロスト 、9度のWRC(世界ラリー選手権)王者のセバスチャン・ローブ /ダニエル・エレナ 、8度のWRC王者のセバスチャン・オジェ /ジュリアン・イングラシア 、二輪・四輪合わせて14度のダカール・ラリー 総合優勝を果たしたステファン・ペテランセル 、4度のチャンプカー 王者のセバスチャン・ブルデー 、インディカー 王者のサイモン・パジェノ 、WTCC王者のイヴァン・ミュラー 、2度のフォーミュラE王者のジャン=エリック・ベルニュ などが挙げられる。
サーキットレーサーはサーキット、ラリードライバーはラリー、というようにある程度明確に線引きをすることの多い業界だが、フランス人ドライバーはジャンルを問わず活躍することが多いのが特徴で、上述のセバスチャン・ローブやイヴァン・ミュラー、ステファン・サラザン 、ロマン・デュマ などは耐久、スプリント、ラリー、ラリークロス、クロスカントリー、ヒルクライムなど文字通りジャンルを問わずに活躍している。
MotoGP (旧WGPも含む)の王者は長らくいなかったが、2021年 にファビオ・クアルタラロ が達成した。Moto2はヨハン・ザルコ が2度王者となっている。ダカール・ラリーでは第一回王者で通算五度二輪部門を制したシリル・ヌヴーを筆頭に、ユベール・オリオール 、ステファン・ペテランセル 、シリル・デプレ などこれまた圧倒的である。
日本との関わりで言うと、四輪では上述のオレカがマツダ とトヨタ のル・マン総合優勝時にチームオペレーションを務めていた他、二輪のEWC(世界耐久選手権)でもTSRホンダ ・フランス、スズキ ・エンデュランス・レーシング・チーム(SERT)といった強豪チームがフランスのチームを母体にしているように、日本メーカーの耐久レース活動にフランスのチームが関わっている事例は多い。ロイック・デュバル 、ブノワ・トレルイエ 、ピエール・ガスリー 、ロマン・デュマなどのように、日本のレースに参戦後に世界選手権で活躍したフランス人ドライバーも多くいる。
バスケットボール フランスは長年の間バスケットボール への関心が低かったものの、近年フランス国内に黒人系の移民が増えるにつれ徐々に関心が高まっており、数多くのNBA 選手も輩出している。中でも、NBA史上初の外国人選手のファイナルMVP受賞者となったトニー・パーカー が有名である。さらに、国内にはLNB と呼ばれるプロリーグも存在している。フランス代表 はこれまでにオリンピック 出場10回、ワールドカップ (旧:世界選手権)出場8回を誇る。2000年 のシドニー五輪 では銀メダル を獲得した。決勝戦ではドリームチームIV と呼ばれたアメリカ代表 をあと一歩の所まで追い詰め、それまでの「アメリカ圧勝」の図式を崩した。この苦戦を機に「ドリームチーム 」という名前は使用されなくなった。ユーロバスケット では2005年大会 で銅メダル を獲得している。フランス代表の課題は、NBA選手が多いためオフシーズンの代表招集に主力が全員揃わない傾向にある。
フランスの国の象徴は、同国が歴史の中で様々な政体の変遷を経てきたことや、多様な文化を持つ点から複雑化が顕著となっている。
現在規定されている象徴は第五共和政 が設立された当初から制定されたものを基盤としている。
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