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バアリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

バアリン(モンゴル語: Baa'rin)とは、モンゴル高原に居住するモンゴル系遊牧集団の1つ。『元朝秘史』では巴阿隣、『集史』ではبارین(Bārīn)と記される。バーリンバリンとも。

歴史

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起源

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『元朝秘史』の伝える伝承によると、モンゴル部の中心氏族たるボルジギン氏の始祖、ボドンチャルは征服したウリャンカイ部の女性に生ませた子供をバアリダイと名付け、バアリダイの子孫からバアリン氏が生じたという[1]

バアリン氏はモンゴル部において祭祀を務める特殊な地位にあったようで、『元朝秘史』は次のような興味深いチンギス・カンの発言を伝えている。

モンゴルの国制では、ノヤンの職務の内には、ベキとなる習わしがあった。バアリンは[我がモンゴルの族の]長兄の後裔であった。ベキたる職務には、我らの内の長上から[なる習わしであったから]、ベキにはウスン・エブゲンよ、[卿が]なれ。ベキの位に登らせて、白き衣装を纏い、白き馬に乗り、上座に座らせて、祭りを執り行い、更にまた年月[の吉凶]を[選び]図りてこそ、しかあるべけれ。 — チンギス・カン、『元朝秘史』第216節[2]

バアリンが「長兄の後裔であった」というのはバアリン氏がボドンチャルの長子から生じた氏族であるという事を指しており、また「白き衣装を纏い、白き馬に乗り〜」という箇所はバアリンの人間が務める「ベキ」という役職が祭祀を執り行う地位にあったことを示唆する[3]

また、『集史』はチンギス・カンの「ベキ(=コルチ・ウスン・エブゲン)」について以下のように記述している。

チンギス・カンはバアリン族の一人の男(コルチ・ウスン・エブゲン)を、馬や他の動物を「オンゴン(族霊)」とするように、「オンゴン」としたと言われる。即ち、誰も彼に対しては権利を主張できなくなり、彼は全く自由の身となって「ダルハン」となる。この男の名を「ベキ」といった。カンのオルドでは、彼は皇子たちと同じく上座を占めて、チンギス・カンの右手に座し、彼の馬はカンの馬と一緒に繋がれた……。 — ラシードゥッディーン、『集史』「バアリン部族志」[4][5]

この記述は、「ベキ」がオンゴン(族霊)をシャーマンとして身に宿すことによって人間的束縛から離れた身分となる(=ダルハンとなる)ことを指しており、実際に『元朝秘史』にはコルチ・ウスン・エブゲンが「神託(ja'arin)」を受けてテムジンにカンに即位するよう勧めたという逸話を伝えている[6]

以上のような宗教的権威を以て、バアリン氏はモンゴル帝国成立以前におけるモンゴル部内の長老的地位にあったものと見られている。後にモンゴル部ではキヤト氏タイチウト氏という二大勢力が台頭してきたものの、依然としてバアリン氏は特権的地位を保ち続け、チンギス・カンの登場とモンゴル帝国の成立を迎えている[7]

モンゴル帝国時代

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12世紀末、モンゴル部においてキヤト氏の長テムジン(後のチンギス・カン)が台頭すると、バアリンからはコルチ・ウスン・エブゲンココチュスナヤアといった人物がテムジンに仕え、モンゴル帝国建国の功臣となった。

特にコルチ・ウスン・エブゲンは前述したように司祭者たる「ベキ」としてチンギス・カンに仕え、モンゴル部の祭祀・卜占において重要な役割を果たした。『元朝秘史』は、モンゴル部内にてテムジンとジャムカの主導権争いが激化する中で、コルチ・ウスン・エブゲンは「テムジンとジャムカのどちらがモンゴルのカンとなるべきか」占い、「テムジンをカンにするように」との神託を受けたためテムジンの下にやってきたという逸話を伝えている[8]

1206年にモンゴル帝国が建国されるとテムジン改めチンギス・カンは功臣を千人隊長(ミンガン)に任じたが、コルチ・ウスン・エブゲンはバアリン氏からなる10の千人隊を率いていたため、万人隊長(トゥメン)とも呼ばれた。10の千人隊という数は当時のモンゴル帝国において最大規模の集団であり、同じく万人隊長と称されたムカリ直属のジャライル千人隊は3つしかなく、バアリン万人隊に次ぐのはコンギラトの5千人隊を率いるアルチ・ノヤンがいるだけであった。

チンギス・カンの死後その遺領が分割されると、バアリンの大部分は末子トゥルイが相続し、以後バアリンの有力者は主にトゥルイ家に仕えるようになる。特に最初フレグに仕え、後にクビライに仕えるようになったバヤン南宋征服の総司令官を務め、大元ウルスの最高幹部にまで上り詰めたことで著名となった。

北元時代以後

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18世紀のモンゴル高原。清朝時代のモンゴル各部

14世紀末、大元ウルス明朝の登場によって瓦解し、東のドチン・モンゴルと西のドルベン・オイラトが対立する時代(北元時代)に入った。この間、100年近くにわたって内乱の続いたモンゴル高原では史書が編纂されることがなく、モンゴル帝国時代の諸部族がどのような変遷を辿ったかについてほとんど記録がない。しかし、16世紀初頭にはダヤン・ハーンが敵対する諸部族を討伐し、モンゴル高原の諸部族を「ダヤン・ハーンの六トゥメン」と呼ばれる六大集団に再編することに成功した。各トゥメンは下位集団である複数のオトク(otoγ)によって構成されており、これ以後内ハルハ5部やトゥメトのオトクとしてバアリンが史料上に登場するようになる。

ハルハ内のバアリン・オトク

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「ダヤン・ハーンの六トゥメン」の一つ、ハルハ・トゥメンは早くから左右翼に分かれており、ダヤン・ハーンは右翼ハルハには第五子アルチュ・ボラトを、左虞ハルハには第十一子ゲレセンジェを、それぞれ分封した[9]。右翼ハルハはコンギラト・オトクを筆頭として五部ハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)もしくは内ハルハと呼ばれ、左翼ハルハはジャライル・オトクを筆頭として七旗ハルハ(ドロー・ホシューン・ハルハ)もしくは外ハルハと呼ばれた[10]

この内ハルハの中にバアリン・オトクが含まれており、これを継承したのがアルチュ・ボラトの息子フラハチの第二子シュブハイであった。この頃、チャハル部の東遷に伴ってモンゴル高原東方の諸部族の再編が起こり、内ハルハは泰寧衛の故地に移ったことで、明側からは泰寧衛の酋長とみなされていた。シュブハイは当時のモンゴルの領侯の中でも特に有力な指導者として知られており、モンゴル年代記ではトゥメン・ジャサクト・ハーンの五大執政の一人に数えられている。

17世紀清朝が台頭するとバアリン部はその傘下に入りバアリン右・左旗として知られた。バアリン右・左旗という行政区画は清朝の崩壊、満州国の成立、国共内戦という動乱を経たが、21世紀中華人民共和国においても赤峰市バアリン右旗左旗として存続している。

トゥメト内のバアリン・オトク

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「ダヤン・ハーンの六トゥメン」の一つ、トゥメト・トゥメンを構成するオトクについて史料上の記述は錯綜しているが、バアリン・オトクも含まれていたとする説がある。

『北虜世系』ではアルタン・ハーンの第五子として「把林台吉」なる人物が挙げられており、これは「バアリンを領有する領侯(tayiǰi)」を意味する[11]。また、18世紀に編纂された『ガンガイン・ウルスハル』でもトゥメトを構成する集団の一つとしてBaγarinが挙げられている[12]

さらに、『北虜世系』で把林台吉の第二子として挙げられる補児哈兎台吉は別の史料で「把林補児哈兎台吉」とも表記されており、この父子がバアリン・オトクを継承していたと分かる[13]。ただし、トゥメト・トゥメンはリンダン・ハーンによって滅ぼされた後、復興することなく遺民は分散して清朝に降ったため、17世紀前半の状況はあまり記録が残っていない。バアリン・オトクもトゥメト・トゥメンの崩壊に伴って解体されたとみられるが、詳細は不明である。

構成氏族

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  • メネン・バアリン氏族…メネン(Menen)とは、「数多くの」「豊かなる」の意。
  • ニチュグト・バアリン氏族…ニチュグト(Ničugüd)とは、「裸の」「痩せた」「不毛な」の意。
  • スカヌウト・バアリン氏族…スカヌウト(Sūqanūt)とは、「聖柳(タマリスク)」の意。

[14][15]

バアリン氏出身の有力者

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系図

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バアリン氏族の祖バアリダイの系図。

ボルテ・チノからボドンチャルまでの初期モンゴル部族の系図。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^村上 1970, p. 38-39.
  2. ^訳文は村上1976,26頁より引用
  3. ^村上 1976, p. 26-27.
  4. ^志茂 2013, p. 707.
  5. ^訳文は村上1993,250頁より引用
  6. ^村上 1993, p. 250-251.
  7. ^村上 1993, p. 151-156.
  8. ^村上 1970, p. 242-244.
  9. ^森川 1972, p. 35.
  10. ^森川 1972, pp. 39–40.
  11. ^森川 1977, p. 534.
  12. ^森川 1977, pp. 536–537.
  13. ^森川 1977, p. 538.
  14. ^村上 1970, p. 240-241.
  15. ^村上 1972, p. 15.

参考資料

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書籍

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  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。 
  • 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』 1巻、平凡社〈東洋文庫163〉、1970年5月。ISBN 978-4582801637 
  • 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』 2巻、平凡社〈東洋文庫209〉、1972年4月。ISBN 978-4582802092 
  • 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』 3巻、平凡社〈東洋文庫294〉、1976年8月。ISBN 978-4582802948 
  • 村上正二『モンゴル帝国史研究』風間書房、1993年5月31日。ISBN 978-4759908527 
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年7月4日。ISBN 978-4130210775 
  • 森川哲雄『15世紀ー18世紀モンゴル史論考』中国書店、2023年3月24日。ISBN 978-4903316734 

論文

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モンゴル帝国の諸部族
原モンゴル部諸氏族
ニルン
ドルルギン
モンゴル系諸部族
非モンゴル系諸部族
中央アジアの諸部族
ホイン・イルゲン
(「森林の民」)
馬牛羊飼養牧畜民
トナカイ飼養狩猟民
  • 1 史書によってはニルンに分類する
  • 2 本来はモンゴル系であるが、テュルク系文化の影響を強く受けているため『集史』はここに分類する
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