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ハタイ国

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(2022年12月)
曖昧さ回避ハタイ共和国」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ハタイ共和国 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ハタイ国
Hatay Devleti(トルコ語)
État du Hatay(フランス語)
دولة حطاي(アラビア語)
シリア第一共和国
フランス委任統治領シリア
1938年 -1939年トルコ
ハタイ県
国歌:İstiklâl Marşı(トルコ語)
独立行進曲
ハタイの位置
フランス委任統治領シリア。桃色左上がアレクサンドレッタ県。
公用語トルコ語
言語フランス語
アラビア語
首都アンタキヤ
大統領
1938年 - 1939年タイフル・ショクメン英語版
首相
1938年 - 1939年アブドゥルラフマン・メレク英語版
変遷
シリア、ハタイ独立1936年10月
国際連盟、ハタイ自治州承認1937年
議会選挙1937年8月~翌月
共和国樹立1938年9月
トルコに編入1939年7月
通貨トルコリラ
現在トルコの旗トルコ

ハタイ共和国は、1938年から1939年にかけて、現在のトルコ共和国ハタイ県の範囲にあった、トルコ系の短命国家である。

歴史

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独立まで

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第一次世界大戦までは、オスマン帝国のハレプ州英語版の一部であった。ムドロス休戦協定で、アレクサンドレッタ県は、アナトリアに進んだフランス軍に占領された。1921年10月のアンカラ条約でシリア領内に置かれた。しかし、特別自治区として、トルコの文化が尊重された。

独立

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1936年のシリア独立にあたって、フランスは、ハタイを自治州ではなくシリアの一部としたが、トルコ政府は抗議し、国際連盟に訴えた。ムスタファ・ケマル・アタテュルクがフランス大使に独立を強く訴えた結果、同年10月にフランスはこれを承認し、シリア独立と共にハタイも自治州として独立した。その後、1937年には国際連盟もこれを承認した。

共和国時代

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ハタイ独立後、議会選挙が行われたものの、これの監督がフランス軍であることに対し、トルコ政府はシュキュル・カナトル大佐率いるトルコ軍を派遣した。結果、1937年8月の議会選挙で、トルコ人が多数派を獲得し、1938年9月2日にハタイ共和国が建国され、大統領も選出された。

共和国の独自通貨は発行されずシリアポンド、引き続いてトルコリラが通用した。切手については、当初、トルコ共和国の切手にHATAY DEVLETİの文字が加刷されたものが用いられたが、1939年に独自の切手が発行された(図柄は5種で、ハタイの国旗・ハタイの地図・ハタイの郵便局・アンティオキアの城塞・アンティオキアのライオン)。なお、トルコ共和国への編入に際して、ハタイの切手にはTC ilhak tarihi 30-6-1939の加刷がなされ、しばらくの間通用していた。

編入

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共和国の建国後も、トルコ人が議会の多数派であることは変わらなかった。ハタイ編入を強く望んでいたムスタファ・ケマルの死去後、1939年6月29日のハタイ共和国議会の決議をもって、1939年7月7日にトルコへ編入された。ハタイ共和国は、ハタイ県に取って代わられる形で崩壊した。

その他

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1989年に公開された映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」のクライマックスはハタイが舞台となっている。

参考文献

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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。2021年12月
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