| この記事は2005年5月1日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、特定版削除となりました。詳細はノート:曽野綾子/削除をご覧ください。 |
| ここは記事「曽野綾子」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
百科事典に不適切で恣意的な記述が多すぎます。政治的に偏った人物がマイナスイメージを与えようとして不必要で悪意のある引用を行っていますので削除しました。--以上の署名のないコメントは、222.144.182.100(会話/Whois)さんが2007年10月7日 (日) 20:41 (UTC) に投稿したものです。返信
IP編集氏は内容を重複させたり、コメントアウトせずにいきなり削除したり、出典の明記タグの使い方がデタラメだったり問題がありすぎます。--Miwa.SS2007年10月9日 (火) 22:00 (UTC)返信
曽野が「二次方程式~」と発言をした根拠を出典してください。審議会は夫の発言の根拠です。ネットでの噂話を載せてはいけない --210.231.1.2432007年10月10日 (水) 04:47 (UTC)返信
曽野が著書で主張しても事実と確定したわけではありませんので、曽野がそう主張していると表現を変えました。また、それに太田が反論したこと及び曽野がそれに対して再反論したことを書き加えました。--Miwa.SS2007年10月10日 (水) 10:16 (UTC)返信
以前、曽野綾子の項目で私もいろいろと引用を元に投稿し、典拠を示せとのノートに応じて典拠も載せましたが、以下のような議論を経て、結局ディテールは削除されるにいたったのです。以下が過去のノートですが、
Wikipedia:削除依頼/曽野綾子 コピペが醜いのでリンクに置換え--johncapistrano2007年10月10日 (水) 12:57 (UTC)返信
MIWAss氏はこのような経緯を理解した上で、細々とした個人的興味に基づく投稿をなさっているんでしょうか。あなたは引用を載せて曽野氏の人格や言動を一方的に印象付けようとしているだけで、その引用には百科辞典に載せる必然性のみとめられない詳しすぎるものです。とにかく、上の過去のノートを一度よく読んだ上で、自分のしていることがそれに反することだということを理解したうえで、それでも載せる必要があると思うなら、その理由を具体的に論理的に説明していただきたい。—以上の署名の無いコメントは、222.144.182.100(会話/whois)さんが[2007年10月10日 (水) 12:09 (UTC)]に投稿したものです。返信
反論を載せるとか再反論を載せるとかいう問題ではなく、事典に載せる比重のものかが問題なのです。「曽野に関することを曽野の項目に書くのも当たり前」と嘯くのは大いに結構ですが、自分の「当たり前」を全てに適応してもらっては困ります。少なくとも「関すること」なら何でもかんでも書くのが「当たり前」でないことぐらい一々説明するまでもないことだと思いますが。著作権の件では、引用に比して、それに付随する記述が少なすぎるという理由で却下されました。MIWAss氏の引用例もそれにあたり、削除するのが適当です。また、氏はたびたび「個人批判」などと言っては、個人攻撃を受けた被害者のような素振りをしていますが、私の書き込みは氏の加筆した「内容」に向けられたものです。何かを削除したりまたは加筆したりすれば、それに対する批判は当然想定しておかなければならないでしょう。批判されるのが嫌ならアクションを起こさねば言いだけの話。批判されたからといって「個人批判」だと騒ぎ立て「ここではお答えしません」と断言するとは傲慢で被害妄想もはなはだしい。--222.144.182.1002007年10月11日 (木) 13:15 (UTC)返信
山崎行太郎なる者の主張を載せた方がいますが[1]、必要なんでしょうか?『ある神話の背景』の評論を載せるならば、いくらでも他に評論はあり、集団自決にあるように評しているものも多くあります。そんな中で素人に近いブロガー山崎なる者の主張を百科事典に載せるに値するのでしょうか? また一つの本についての評論を載せるとキリがなくなると思います。いかがでしょう。--210.231.13.712008年5月18日 (日) 15:12 (UTC)返信
またまた過剰な引用が増えてますが、ちょっと整理すべきじゃあないでしょうか。確実に一定の意図を持って変更した形で編集されていますよね。--222.144.175.72008年7月21日 (月) 10:15 (UTC)返信
以前の議論の蒸し返しになるようですが、「二次方程式を追放すべき」と曽野が言ったと三浦が言った、という事実の出典を求めます。「二次方程式を解けなくても生きてこられた」と言った(と言った)のは出典があるようですが、「追放すべき」は他者がその後を勝手に想像して補ったセリフに過ぎないのでは、と疑っています。少し探したところ、小松彦三郎の講演記録が引っ掛かりましたが、これも小松先生が講演でそうおっしゃった、という記録に過ぎず、出典としてふさわしくないと感じます。--白駒(会話)2025年3月26日 (水) 03:34 (UTC)返信