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ドイツ国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避この項目では、ドイツ語で「Deutsches Reich」という国号とその概念について説明しています。
  • 1871年に建国された立憲君主制国家については「ドイツ帝国」をご覧ください。
  • 1918年に成立した共和制国家については「ヴァイマル共和政」をご覧ください。
  • 1933年以降のナチ党体制の国家については「ナチス・ドイツ」をご覧ください。
  • 1949年に建国された現在のドイツ連邦共和国については「ドイツ」をご覧ください。
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(2022年12月)
ドイツ国
Deutsches Reich[注釈 1]
1871年 -1945年連合軍軍政期
ドイツの国旗ドイツの国章
(1871-1918)
(1918-1933)
borber
(1933-1935)
borber
(1935-1945)
(1889-1918)
(1928-1935)
(1935-1945)
国歌:Heil dir im Siegerkranz(ドイツ語)
皇帝陛下万歳(非公式)

Die Wacht Am Rhein(ドイツ語)
ラインの護り(非公式)


Deutschlandlied(ドイツ語)
ドイツの歌(1922-1945)


Die Fahne hoch!(ドイツ語)
旗を高く掲げよ
公用語ドイツ語
首都ベルリン
国家元首
1871年1月18日 -1888年3月9日ヴィルヘルム1世(初代皇帝
1888年6月15日 -1918年11月9日ヴィルヘルム2世(最後の皇帝
1919年2月11日 -1925年4月26日フリードリヒ・エーベルト(初代大統領
1934年8月2日 -1945年4月30日アドルフ・ヒトラー総統
1945年4月30日 -5月23日カール・デーニッツ(最後の大統領)
首相
1871年3月21日 -1890年3月20日オットー・フォン・ビスマルク(初代)
1945年5月1日 -5月23日ルートヴィヒ・フォン・クロージク(最後・代行)
面積
1910年540,857.54km²
1925年468,787km²
1937年633,786km²
1939年696,265km²
人口
1871年41,058,792人
1890年49,428,470人
1910年64,925,993人
1925年62,411,000人
1937年69,314,000人
変遷
ドイツ統一1871年1月18日
共和国宣言1918年11月9日
全権委任法成立1933年3月23日
無条件降伏1945年5月8日
ベルリン宣言1945年6月5日
通貨ゴルトマルク
(1914年以前)
パピエルマルク
(1914年 - 1923年)
レンテンマルク
(1923年 - 1924年)
ライヒスマルク
(1924年以降)
現在ドイツの旗ドイツ
ポーランドの旗ポーランド
フランスの旗フランス
ベルギーの旗ベルギー
ロシアの旗ロシア
 リトアニア
 デンマーク
 チェコ
先代次代
北ドイツ連邦北ドイツ連邦
バイエルン王国バイエルン王国
ヴュルテンベルク王国ヴュルテンベルク王国
バーデン大公国バーデン大公国
ヘッセン大公国ヘッセン大公国
アルザス=ロレーヌアルザス=ロレーヌ
連合軍軍政期連合軍軍政期
ドイツの歴史
ドイツの国章
東フランク王国
神聖ローマ帝国
プロイセン王国ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ)
ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国

ドイツ国(ドイツこく、ドイツ語:Deutsches Reich〔ドイチェス・ライヒ〕)は、中央ヨーロッパの現在のドイツの領域に存在した国家。現在のドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、ドイツ語:Bundesrepublik Deutschland)の前身とされる国家で、ドイツ統一から第二次世界大戦におけるドイツ敗北までの74年間における帝政時代からヴァイマル共和政時代、およびナチス政権時代まで、正式な国名として用いられた。また、1943年からは大ドイツ国の名称も用いられた。日本語においては、帝政時代以外でも後述のライヒの用法からドイツ帝国の表記が用いられることがある。

戦後ドイツにおいては主に国際法的見地から、ドイツの敗北・占領を経て、行為能力を持たない存在としてその後も存続したという見解が主流となっている。

名称

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→「ライヒ」も参照

ドイツ語Reich(ライヒ)」とは、元来「一人の支配者が治める国家」という意味であった。いわゆる神聖ローマ帝国[注釈 2]において初めて用いられ、単に「ライヒ」を用いた場合には「帝国」を意味する「エンパイア」の語源であるラテン語の「Imperium(インペリウム)」とほとんど同義であった。王国の場合はプロイセン王国 (Königreich Preußen)やバイエルン王国 (Königreich Bayern) と言ったように「König(王)」をつけた「Königreich」として用いられる。1871年に成立した帝政ドイツは、正式な国号を 「Deutsches Reich」とした。ドイツ革命で成立したいわゆるヴァイマル共和政では、「Deutsches Reich」の国名を引き継ぎ、この時点でライヒは「ドイツ全国」を意味するという解釈変更が行われた。このためこれ以降は帝政時代については「Kaiser(皇帝)」を加えて「ドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)」と呼称する用法が生まれた。

変遷

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ドイツ国は以下の3つの政治体制に分けられるが、これら3つの政治体制でも正式な国名は "Deutsches Reich" のまま変わっていない。日本においてはドイツ皇帝による立憲君主制国家であった時代を「ドイツ帝国」、共和政時代を「ヴァイマル共和国」や「ヴァイマル共和政」、アドルフ・ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党によるナチズム体制期を「ナチス・ドイツ」と呼ぶことが一般的である。

帝政時代

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→詳細は「ドイツ帝国」を参照
ドイツ帝国の領域(1914年)

1871年から1918年までの、ホーエンツォレルン家皇帝によって統治される国家体制は、日本では教科書等で「ドイツ帝国」という名称で紹介されている場合が多い。1871年に成立した『ドイツ帝国憲法』(ドイツ語:Verfassung des Deutschen Reichs)は、その名で「Deutsches Reich」を掲げ、前文において「この同盟はドイツ国(Deutsches Reich)の名称を冠し」と規定している。1918年、第一次世界大戦の敗戦前後に発生したドイツ革命によって崩壊した。

ヴァイマル共和政

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→詳細は「ヴァイマル共和政」を参照
ヴァイマル共和政期の領域(1930年)

1918年から1933年ナチ党の権力掌握に至るまでの国家体制は議会制民主主義国家であった。1919年に制定されたドイツ国憲法(ヴァイマル憲法)ドイツ語:Die Verfassung des Deutschen Reichs)第1条第一項で「ドイツ国は共和国である」と規定され、「ドイツ国」の国号が引き続き用いることが定められている。日本では教科書等で「ドイツ共和国」「ヴァイマル共和国」という名称で紹介されている場合も多い。

ナチス・ドイツ期

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→詳細は「ナチス・ドイツ」を参照
ドイツ本国領土とその占領地域(1942年)

1945年第二次世界大戦敗北までの国民社会主義ドイツ労働者党政権下の国家体制は、全権委任法による措置で1934年1月30日に成立した『ライヒ新構成法ドイツ語版』によってヴァイマル憲法を事実上停止したものの廃止は行わず、国名の変更も行わなかった。現在のドイツでは「NS-Deutschland」や「Nazi-Deutschland」などの名称も用いられる。

一時期はプロパガンダ上で「Drittes Reich」の呼称を宣伝し、英語では「The Third Reich」の訳語を使用し、日本では「(ドイツ)第三帝国」と訳した。しかし、この呼称は海外でナチ党を批判する言説に頻繁に利用されたことから、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは、使用を1939年7月10日から宣伝上の問題点により忌避するように命じた。

1943年6月24日総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが、公用文書「Erlass RK 7669 E」の中で初めて「Großdeutsches Reich(大ドイツ国)」の呼称を用いた[1]。同年10月24日以降は切手にもこの国名が印刷されるなど、半ば公式の名称となったが、正式な国名変更は最後までなされることはなかった。

ナチス体制の崩壊後、連合国軍は1945年6月5日に「ベルリン宣言」を発してドイツに中央政府が存在しないことが宣言された[2]

連続説と没落説

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→詳細は「1945年以降のドイツの法的状況ドイツ語版」を参照

国際法の理論では、軍事的に敗北し、戦勝国によって軍事占領されただけでは国家が滅亡したとは言えず、そのためには戦勝国による征服の意図が問題となる[3]。しかし連合国は従前からドイツを征服・併合する意図はないと言明してきていた。ドイツ側では「ドイツ国」は戦争の結果にかかわらず存続していると意見が主流であり、早い例では1945年5月22日、フレンスブルク政府の内務次官であったヴィルヘルム・シュトゥッカートは、ドイツ国はドイツ軍の降伏にも関わらず存続しているという鑑定書を提出している[4]

ドイツから亡命していた法学者ハンス・ケルゼンは、戦後ドイツの占領方法として中央政府(ナチス政府)を解体し、「ドイツ国家の没落(ドイツ語:Untergang des deutschen Staates)」を行ったうえで軍事占領を行うべきであるとした[5]。この考え方は連合国側に一定の影響を与えたが、戦後ドイツではこの考え方は否定されている[5]。現行ドイツの憲法であるドイツ連邦共和国基本法においても継続説が前提となっている[5]

1947年4月16日にハンブルクで開かれたドイツ法学者会議でケルゼンの説を紹介したエーベルハルト・メンツェルドイツ語版は「ドイツ国」の「没落」を否定し、「独自の国民をもつ国家および一般的国際法の意味における権利主体」として「ドイツ国」は継続していると述べた[4]。この会議で採択された占領政策に対する法学者意見は、ドイツ国の継続を前提としたものとなっている[4]。また再建が行われていた地方行政においては「ドイツ国」の存続問題は喫緊の課題であった[6]。1948年夏にはドイツの法学者の間では継続説が圧倒的に主流となっていた[7]。またキリスト教民主同盟の指導者であったコンラート・アデナウアードイツ社会民主党党首クルト・シューマッハーを始めとする複数の政治家も「ドイツ国」の継続を支持しており、「継続説」は政治的なテーゼとなっていた[8]。一方でバイエルン州では「没落説」が主流であり、この頃開かれた憲法制定会議においても各州がドイツ国家権力の唯一の担い手として西側国家を建設すると主張していた[9]

このような状況下の1949年、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)ドイツ民主共和国(東ドイツ)という2つの国家が成立した。このことは「ドイツ国連続説」を取る人々に、理論の明確化を迫ることとなった。1952年、東ドイツは「ドイツ国は1949年に没落し、その領域に2つの後継国家(東ドイツと西ドイツ)が成立した」という「二つの国家説(ドイツ語:Zwei-Staaen-Theorie)」の見解を発表した[10]。一方の西ドイツにおいてはドイツ連邦共和国とドイツ国は同一であり、東ドイツはその領域に成立した反乱政権であるという「国家中核説(ドイツ語:Staatskern-Theorie)」の亜流である「同一説(ドイツ語:Identitiitstheorie)」が主流となった[10]。また、同一説と同様にドイツ連邦共和国とドイツ国は同一であるが、領土と国民的には西ドイツの領域に縮減しているという「縮減的国家テーゼ(ドイツ語:Schrumpfstaatsthese)」や、西ドイツと東ドイツは「ドイツ国」の領域にある政権であるが両者とも「ドイツ国」ではないとする「屋根理論(ドイツ語:Dachtheorie)」などが存在している[10]

1973年、ドイツ連邦裁判所は「ドイツ国」が「1945年の敗北」や「連合諸国の占領政策」を超えて存在しているとし、「存続し、依然として権利能力をもつが」「制度化された機関」を欠いており、「自身としては、行為能力がない」存在であるという判決を下している[11]

脚注

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[脚注の使い方]

注釈

[編集]
  1. ^1943年から1945年までは「大ドイツ国」(Großdeutsches Reich)とも称した。
  2. ^フリードリヒ3世マクシミリアン1世以降、「ドイツ人の神聖ローマ帝国」 (Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)。この国号の「ドイツ人(ドイツ国民、Deutscher Nation)」とは、ドイツ語の話者全体ではなく、諸侯、都市、騎士といった帝国身分のことを指している(坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』84頁)。

出典

[編集]
  1. ^Erlass RK 7669 Eウィキメディア・コモンズ
  2. ^山中敬一 1991, p. 83-85.
  3. ^山中敬一 1991, p. 97.
  4. ^abc山中敬一 1991, p. 100.
  5. ^abc山中敬一 1991, p. 99.
  6. ^山中敬一 1991, p. 101-102.
  7. ^山中敬一 1991, p. 102.
  8. ^山中敬一 1991, p. 103-107.
  9. ^山中敬一 1991, p. 110.
  10. ^abc山中敬一 1991, p. 112.
  11. ^山中敬一 1991, p. 96.

参考文献

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全般
国立図書館
その他
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