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座標 :北緯33度30分 東経36度18分 / 北緯33.500度 東経36.300度 /33.500; 36.300
ダマスカス はシリア の首都 。ダマスクス とも表記される。アラビア語 ではディマシュク (アラビア語 :دمشق ,アラビア語発音: [diˈmaʃq] , Dimashq)で、別名をシャーム (アラビア語 :الشام , al-Shām, アッ=シャーム)という。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコ と表記する。
「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山 の山麓、バラダ川 沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。人口は都市圏 全体では500万人に迫るといわれる。
アラビア語では、この街は正式にはディマシュク・アッ=シャーム (دمشق الشام , Dimashq al-Shām) と呼ばれている。多くの人は「ディマシュク」と短縮するが、ダマスカス市民やシリアほかアラブ圏の人々は「アッ=シャーム」の別名で呼ぶ。またシリア(特に、歴史的シリア について)のことは「ビラード・アッ=シャーム」(アラビア語 :بلاد الشام, Bilād al-Shām,「シャームの地、シャームの国」の意)とも呼ばれる。
シリア・レバノン・ヨルダン・パレスチナ地域(レバント、レヴァント)を指す広義のシャーム、ダマスカスを指す狭義のシャームについては命名の由来に関していくつかの説があり定かではないが、
「土壌に石が点在する様子がشأم (shaʾm, シャアム)から発音が転じた名詞شام (shām, シャーム, 「(集合名詞的に)ほくろ」の意)に似ていたから」や「村々や家々が点在する様子がほくろに似ていたから」とするほくろ説。 「預言者ヌーフ (ノア)の息子سام (Sām, サーム, 「セム 」に相当)ゆかりの地という意味だったが発音がشام (shām, シャーム)に置き換わった」という「セムの地」説。 「聖地メッカのカアバ神殿南方にあるイエメンに対して北方にあることから「左、北」を意味する語根ش-أ-م (sh-ʾ-m)から構成されるشأم (shaʾm, シャアム)転じてشام (shām, シャーム)と呼ばれた」という「聖地の北方」説 などが知られている[ 2] 。
英語の「Damascus」はギリシャ語 のΔαμασκός を語源に、ラテン語 経由で伝わった。これはさらに古いアラム語 の都市名でダルメセク(דרמשקDarmeśeq よく灌漑 された場所)からきている[ 3] [ 4] 。しかし、アラム人 の時代以前の遺跡 であるエブラ の王国跡地から出土した粘土板には、エブラの南にある町を「ダマスキ」と記しており、ダマスカスの名の起源はアラム人以前に遡る可能性が大きい。
ダマスカスという地名の初出と考えられる文献は、紀元前15世紀 のエジプトのトトメス3世 の残した地理文献にある「T-m-ś-q」と読める文字である[ 5] 。「T-m-ś-q」の語源は不明だが、アッカド語 では「ディマシュカ Dimašqa」、古代エジプト語 では「T-ms-ḳw 」、古アラム語 では「ダマスク Dammaśq דמשק 」、聖書ヘブライ語 では「ダメセク Dammeśeqדמשק 」と呼ばれていた。アッカド語のものは、紀元前14世紀 のアマルナ文書 におけるアッカド語文献に出てくる。
後のアラム語における綴りは、「住居」を意味する語幹の「dr」に影響されて「r」(レーシュ)が入るようになり、クムラン の文献では「ダルメセク Darmeśeqדרמשק 」に、シリア語 では「ダルムスク Darmsûqܕܪܡܣܘܩ 」となった[ 6] [ 7] 。
ダマスク織 や金銀細工のダマスキナード にその名を残す。
ウマイヤド・モスク のミナレットダマスカスは地中海 から約80km 内陸に位置し、アンチレバノン山脈 で海からさえぎられている。街はアンチレバノン山脈の麓の、海抜680m の高原の上にある。
城壁に囲まれた古代都市ダマスカス はバラダ川 のすぐ南岸にある。その南東、北、北東の方角には中世に遡る近郊地域がある。また南西にはミーダーン、北と北西にサールージャとアマーラの各地区がある。これらの地区はもとは都市から外に出る街道沿いの、宗教上重要な墓所の近くに発生したものであった。東にはグータ (アラビア語 :الغوطة , al-Ghūṭa, アル=グータ) という、バラダ川 などの内陸河川が潤す森や田園からなる大きなオアシス があり、エデンの園 のモデルとされる場所である。
19世紀 、旧市街を北西から見下ろすジャバル・カシオン(カシオン山 、旧約聖書 創世記 においてカイン がアベル を殺したとされる場所)の斜面上に近郊農村が開発された。すでに近くには、ムヒッディーン・イブン・アラビー の廟の周りにサリヒイー地区ができていた。これら新しい地域はまずクルド人 の軍人たちやオスマン帝国 のヨーロッパ地域(キリスト教徒に制圧されつつあった)からのムスリム 難民 らが入植した。それゆえ、これら地域は「アクラード」(クルド人)や「ムハージリーン」(移民)と呼ばれている。これらは旧市街から2 - 3 km北に横たわっている。
ダマスカスの衛星画像。ダマスカスは周囲を緑のオアシスに囲まれる 19世紀 後半から、近代的な行政・商業の中心が旧市街の西側のバラダ川の周囲、「マルジェ(牧草地)」と呼ばれる場所を中心に発生した。マルジェはすぐに近代のダマスカスの中心となる市庁前の広場の名前(マルジェ広場)となった。裁判所、郵便局、アナトリア やヒジャーズ に通じるヒジャーズ駅 が、少し南の高い場所にできた。ヨーロッパ化された住宅街区がマルジェ広場とサーリヒーヤ地区の間をつなぐ道路沿いにでき始めた。新市街の商業と行政の中心地は、次第にその方向へ、北側へ移動し始めた。
20世紀 になると、より新しい郊外がバラダ川の北側に開発され、旧市街の南にも広がりグータ・オアシスを侵食し始めた。1955年 から、新しい街区ヤルムーク が数万人のパレスチナ 難民 のキャンプとなった。ミッシェル・エコシャール や番匠谷尭二 といった都市計画家 らは南のグータの森を可能な限り残そうと考えたため、20世紀後半には主な開発は市の北部、および西部のメッゼ地区、最近ではバラダー川の流れる先の北西部ドゥンマルの谷と、北東部のベルゼの山々の斜面で行われている。貧困な地区は、公式な許可なく建てられ、ほとんどは旧市街の南に集中する。
ダマスカスはオアシス に囲まれている。グータ・オアシスの森は、バラダ川の水に潤されている。バラダ川に沿って西に行ったところにあるフィジェーの泉は市街に飲料水を提供している。グータ・オアシスは、ダマスカスの急速な住宅や産業の拡大により面積が減ってきている。また街の交通、産業、廃棄物により汚染されてきている。
1981-2010年の平年値によると、1月の平均気温は6度、7月の平均気温は27度、年間平均気温は16.7度、年降水量は176.1 mmである。
ダマスカスの気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年 最高気温記録°C (°F ) 21 (70) 30 (86) 28 (82) 35 (95) 38 (100) 45 (113) 44 (111) 45 (113) 39 (102) 34 (93) 30 (86) 21 (70) 45 (113) 平均最高気温°C (°F ) 12 (54) 14 (57) 18 (64) 29 (84) 29 (84) 33 (91) 36 (97) 37 (99) 33 (91) 27 (81) 19 (66) 13 (55) 24.6 (76.3) 平均最低気温°C (°F ) 2 (36) 4 (39) 6 (43) 9 (48) 13 (55) 16 (61) 18 (64) 18 (64) 16 (61) 12 (54) 8 (46) 4 (39) 10.5 (50.9) 最低気温記録°C (°F ) −6 (21) −5 (23) −2 (28) −1 (30) 7 (45) 9 (48) 13 (55) 13 (55) 10 (50) 6 (43) −2 (28) −5 (23) −6 (21) 降水量 mm (inch)43 (1.69) 43 (1.69) 8 (0.31) 13 (0.51) 3 (0.12) 0 (0) 0 (0) 0 (0) 18 (0.71) 10 (0.39) 41 (1.61) 41 (1.61) 220 (8.66) 出典:BBC Weather[ 8]
カシオン山 からの夜のダマスカス。緑の明かりはミナレット 古代からシリア地方の中心都市で、紀元前10世紀 にはアラム人 の王国の首都が置かれていた。
その独立は新バビロニア やペルシア 、セレウコス朝 、ローマ帝国 に敗北し失われた。ローマ時代においてダマスカスはギリシャ・ローマ文化のとても重要な中心であり、自由都市連合の名誉都市となった。その後イスラム帝国 によって635年 に征服され、ウマイヤ朝 の首都として栄えた。ウマイヤ朝が705年 にキリスト教 の教会 をモスク に改造して設けたウマイヤド・モスク が現存し、シリアで没したサラーフッディーン (サラディン)やバイバルス の墓もこの町にある。
ダマスカスの辺縁にあるテル・ラマド (英語版 ) の遺跡により、ダマスカスは紀元前8000年から10000年もの昔から人が定住していたことが分かる。ダマスカスが人間が連続的に定住した世界で最も古い都市であるといわれるのは、これによる。しかし、アラム人 (アラビア半島から来たセム語派 系の遊牧民)の登場までは、ダマスカスは重要な都市として記されることはなかった。バラダ川 の利便性を最大に広げた運河と隧道の建設によってダマスカスに水道システムを初めて構築したのはアラム人であることが知られている。後にこのネットワークはローマ人 とウマイヤ朝 によって改良され、今日のダマスカス旧市街の水道システムの基礎をなしている。紀元前1100年 、この都市はアラム・ダマスカス (英語版 ) と呼ばれる強力なアラム人国家の中心になる。アラム・ダマスカスの王はこの地域をアッシリア 人とイスラエル 人とのいくつもの戦争に巻き込んだ。そうした王の一人、ベン・ハダト2世 (英語版 ) は、カルカルの戦い においてシャルマネセル3世 と戦った。アラム人の都市の遺構は壁に囲まれた旧市街の東部に埋まっている可能性が最も高い。紀元前732年 にティグラト・ピレセル3世 が都市を占領し破壊して後、数百年間独立を失い、紀元前572年 に始まるネブカドネザル2世 による新バビロニア 王国の支配下に入る。バビロニア人の支配は、紀元前539年 キュロス2世 率いるペルシア帝国 軍が都市を占領し、ペルシア 支配下のシリア 州の州都としたときに終わる。
旧市街のバーブ・シャルキー通り。ヴィア・レクタ(Via Recta、「直線通り」)の名残。ヴィア・レクタは古代のローマ都市計画におけるデクマヌス・マクシムス (東西の中央大通り)であり、東門と西門を直線で結ぶ。新約聖書 の「使徒行伝 」では、パウロの回心 の舞台となった アル=ハミディヤ市場の入口にあるユピテル神殿跡 ダマスカスは、近東を席巻したアレキサンダー大王 の大遠征により西洋の支配下に入る。紀元前323年 アレキサンダーの死後、ダマスカスはセレウコス朝 とプトレマイオス朝 の闘争の場となる。都市の支配権は両者の間を頻繁に行き来した。アレキサンダーの将軍の一人セレウコス1世ニカトール は、アンティオキア を彼の広大な帝国の首都にした。これにより、北方のラタキア のような新たに建設されたセレウコス朝の都市に比べると、ダマスカスの重要性は衰えることになった。
紀元前64年 、ポンペイウス 率いるローマ がシリア西部を併合した。彼らはダマスカスを占領し、デカポリス として知られる十都市連合に組み入れた。ギリシャ・ローマ文明の主要な中心地だと考えられたためであった。新約聖書 によれば、聖パウロ が幻視を体験したのはダマスカスへ向かう途中であったとされる。37年 、ローマ皇帝カリグラ は政令によりダマスカスをナバテア王国 の支配下に置いた。ナバテアの王アレタス四世フィロパトリスは首都ペトラ からダマスカスを支配した。しかし、106年 頃、ナバテア王国はローマ人に征服され、ダマスカスはローマの支配下に戻る。
ダマスカスは2世紀の始めまでには一つの巨大都市になっており、222年 、皇帝セプティミウス・セヴェルスによりコロニアに昇格する。パックス・ロマーナ の到来とともに、ダマスカスとローマ領シリア は全体的に繁栄する。南アラビア、パルミラ 、ペトラ からの貿易路、および中国に始まる絹 の貿易路がすべてダマスカスに収斂することから、キャラバン 都市としてのダマスカスの重要性は顕著だった。ダマスカスは東方に産する贅沢品へのローマ人たちの需要を満たした。
ローマ建築 の遺構はほとんど残っていないが、旧市街の都市計画は長く続く効果を持っていた。ローマ人の建築家は、ギリシアとアラムの都市基盤を組み合わせ、城壁に囲まれた、長さおよそ1,500 × 750 mの新しいレイアウトに融合させた。城壁には七つの門があったが、東門(バーブ・シャルキー)はローマ時代から残り続けている。ローマ時代のダマスカスはほとんどが現在の都市の5 m以内の地下に埋まっている。
ウマイヤド・モスク 現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である636年 、ダマスカスは第2代正統カリフ ・ウマル・イブン=ハッターブ (ウマル一世)に征服される。その直後、アンダルス (現在のスペイン )からインド まで広がるウマイヤ朝 (661年 -750年 )の首都となったときに、この都市の力と威光は頂点に達した。705年 にキリスト教会をモスク に改造したウマイヤド・モスク は今でもダマスカスに残っている。744年 、最後のウマイヤ朝カリフ 、マルワーン2世 は首都をジャズィーラ (メソポタミア北部)にあるハッラーン に移し、以後ダマスカスはこれほどの政治的重要性を取り戻すことはない。
750年 、ウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝 が興ると、ダマスカスはバグダード から支配される。858年 、アル=ムタワッキル は首都をサマラから移転する意図の下に短い間ダマスカスに居を構えたが、すぐにこの考えを放棄した。アッバース朝が傾くにつれ、ダマスカス方面は不安定となり、地方政権の支配下に入る。875年 、エジプトの支配者アフマド・イブン・トゥールーンがこの都市を手に入れ、アッバース朝の支配は905年 になるまで回復しない。945年 、ハムダーン朝 がダマスカスを手に入れ、その後しばらくしてイフシード朝 の開祖ムハンマド・イブン=トゥグジュの手に渡る。968年 そして971年 にダマスカスは短い間カルマト派 に占領される。
970年 、カイロ にいたファーティマ朝 のカリフがダマスカスの支配を取り戻す。これがこの都市の波乱の時代の幕開けだった。ファティマ軍の主力をなすベルベル人 の軍隊は、市民の間で非常に不評を買った。シリアにおけるカルマト派、時にはトルコ人 の軍隊の存在は、ベドウィン からの絶え間ない圧力を増やした。978年 から短い間、ダマスカスはイザッディン・アル・カッサムの指導と市民軍の保護の下で自治を行っていた。しかし、グータ・オアシスはベドウィンの侵入を受け、トルコが率いる戦役の後、この都市は再びファティマ朝の支配に屈する。1029年 から1041年 までは、ファーティマ朝カリフ・ザーヒルの下、トルコ人の軍事指導者アヌシュタキンがダマスカスの総督となり、かつての栄光を取り戻すため大いに働いた。
この期間は、ダマスカスがブロックとインスラ (集合住宅)で特徴付けられるギリシア・ローマ風の都市計画から、より親しみやすいイスラム風の都市へとゆっくりと変わっていく時期であったようだ。格子状の直線の大路は、狭い街路のパターンへ変わり、ほとんどの住人が、夜には犯罪者や徴税から守るための重い木戸で閉鎖されるハラートの中に住むようになった。
ヌーリーヤ学院(ヌールッディーンの建てたマドラサ、モスク、ヌールッディーン廟の複合建築)のドーム 11世紀後半のセルジューク朝 の到来により、ダマスカスは再び独立国家の首都になる。1079年 から1104年 まではセルジューク朝およびシリア・セルジューク朝 に支配されたが、それから別のトルコの王朝、ブーリー朝 に支配される。彼らは1148年 の第2回十字軍 の攻城戦にも耐え抜いた。1154年 にはダマスカスは十字軍 の宿敵、アレッポ のザンギー朝 の有名なアターベク ・ヌールッディーン に征服される。彼はダマスカスを首都としたが、彼の死後にアイユーブ朝 エジプトの支配者サラーフッディーン (サラディン)に奪われ、その首都となる。サラーフッディーンは城砦を再建し、彼の統治下では郊外もあたかも都市そのもののごとく広大であったという。イブン・ジュバイル の記すところによると、サラーフッディーン時代にはダマスカスは多くの大学があり「乱されることのない研究と隠遁」を求めて世界中から集まる勤勉な若者や知識を求める者を歓迎したという。アイユーブ朝 はサラーフッディーンの死後内紛で徐々に衰退する。
この当時ダマスカス鋼 は十字軍の間で伝説的な名声を得、今日なお模様の有る鋼はダマスカスと呼ばれる。ビザンチンや中国でつくられる紋様のある絹織物は、シルクロード の西の終点ダマスカスを経由して運ばれたため、英語ではダマスク織 という言葉が生まれた。
アイユーブ朝の支配(および自治)は、1260年 モンゴル帝国 がシリアに侵入し、ダマスカスにキトブカ 率いるモンゴル軍と、同盟する十字軍国家 の軍勢が入城して終わる。アイン・ジャールートの戦い でモンゴルが敗北しシリアから撤退した後はマムルーク朝 の地方首都となり、エジプトから支配される。
1400年 にティムール がダマスカスを包囲し、略奪と火災によって町は被害を被った。(ダマスカス包囲戦 (1400年) )
ダマスカスは再建され、1516年 までマムルーク朝の地方首都として機能した。
1516年 にマルジュ・ダービクの戦い でオスマン帝国 がマムルーク朝を破って以来、ダマスカスは1918年 までオスマン帝国によって統治されることとなった。オスマン帝国による統治が始まった1516年当時の人口は、全市でおよそ5万5,000人(約8,000戸)ほどであったと推定されている。オスマン帝国時代には数度にわたる行政区画の改変があったが、ダマスカスは常に州都 の地位を維持していた。これは、ダマスカスがアレッポ と共に帝国のシリア地方支配の要となる都市であり、長くこの地域の政治・経済の中心地であったほか、ムスリム にとって重要なマッカ 巡礼 に向かうキャラバン の出発地であったため、その点においても帝国にとって重要な都市であったためである。
アゼム宮殿 18世紀 以降帝国が衰退を始めると、各地でアーヤーン (名士)と呼ばれる半独立の大土地所有者が登場する。シリア地方も例外ではなく、ダマスカスとハマ を治めたアズム家などが知られている。アズム家は州の総督 の座を世襲 し、中央の権力から半独立状態を保った。アズム家は19世紀 に入ると中央政府によるタンズィマート (恩恵改革)によって独占的な地位を失ったものの、その後もダマスカスの名望家 として地域社会に大きな影響力を与え続けた。ダマスカスの旧市街にはアズム家によって建てられた宮殿が残っており、現在では観光名所の一つとなっている。
その後、二度のエジプト・トルコ戦争 の結果、1832年 から1840年 にかけてシリア地方はエジプト のムハンマド・アリー朝 の支配を受け、ムハンマド・アリー の息子であるイブラーヒーム・パシャ がダマスカスを支配した。その後、1840年のロンドン条約によってダマスカスがオスマン帝国の支配下に戻ると、ダマスカスにはオスマン帝国軍の第5軍団の司令部が置かれた。1860年 には大規模な暴動が発生している。背景にあったのは経済的な問題であったが、キリスト教徒 とムスリムの宗教対立に転嫁したことで多数の犠牲者を生んだ。1870年代にはシリア州総督となったミドハト・パシャ によってスーク(市場 )の整備などが行われ、この時期に整備された二つの屋根付きのスークは現在でも使用されている。また、1908年 には市電が開業している。
ダマスカスのヒジャーズ鉄道のヒジャーズ駅 19世紀 後半から20世紀 初頭のダマスカスは、徐々に近代的なインフラの整備も行われ、地域における政治・軍事の中心地としても重要な都市であった。しかし、以前とは異なり経済面では新興の港湾都市であるベイルート にその地位を脅かされるようになっていた。これはスエズ運河 が開通したことで、ヒジャーズ 方面への旅客・貨物が以前のようにダマスカスを通らずにベイルートから直接船で運ばれるようになったためである。このような状態に危機感を覚えたダマスカスの商人達は、対抗手段としての鉄道建設を強く要望し、中央政府への陳情 を繰り返した。これは、1900年 から始まったダマスカスを起点とするヒジャーズ鉄道 の建設という形で一応の結実をみたが、それでもベイルートに奪われた地域経済の主導権を奪い返すまでには至らなかった。
また、ダマスカスは近東 におけるドイツの「世界政策 」(3B政策 )の舞台にもなった。1898年 にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 自らダマスカスを訪れ、「ドイツ皇帝は世界3億の回教徒の友人である」という有名な演説を行ってドイツ帝国 とオスマン帝国の関係の緊密さをアピールした。この際ヴィルヘルム2世はサラーフッディーン の廟 に参詣し、石で出来た棺と金属製の花輪を寄贈している(なお、花輪は後にトーマス・エドワード・ロレンス がダマスカスに入城した際に持ち去ったといわれている。棺の方は現在でも廟に展示されている)。
都市に大きな影響を与えていた名望家層が鉄道建設などを通じてイスタンブール の宮廷と直接結びついていたこともあって、ダマスカスはベイルートと比べると民族主義の勃興が遅れたが、20世紀 初頭にはダマスカスでも民族主義 的感情が興るようになった。始めは文化的ナショナリズム だったが、次第に政治的色彩を帯び始めるようになる。また、ダマスカスで起こったアラブ・ナショナリズムの諸運動は、ベイルートで起こったアラブ・ナショナリズムの諸運動が早くから帝国からの独立を要求したのと対照的に、比較的遅い時期まで帝国の枠組みの中での自治を要求する傾向があった。
1908年 の青年トルコ人革命 後、統一と進歩委員会 が中央政府を掌握すると、ダマスカスでもアラビア語の公用語 化や連邦制の導入といった、アラブ人 の権利や帝国の分権化を要求する運動が起こるようになる。これらの動きに対し、中央集権 化を進めたい統一と進歩委員会は時には懐柔しつつも、もっぱら強硬策をもって臨んだ。このような統一と進歩委員会の方針は中央集権化という名の「トルコ化」政策であると受け取られ、ダマスカスのアラブ・ナショナリストの中にも自治から独立へとその主張をより強める動きが現れるようになった。
第一次世界大戦 が始まると、統一と進歩委員会の中心人物であるジェマル・パシャ が方面軍の司令官としてダマスカスに赴任してくる。1915年 から1916年 にベイルートとダマスカスで、ジェマルにより愛国的な知識人が数多く絞首刑にされたことは、さらにナショナリストの感情を逆撫ですることになった。また、この処刑はダマスカスの住民にマッカの太守フサイン・イブン・アリー による「アラブ反乱 」への支持を広げる結果にもなり、1918年 にアラブ軍とイギリス軍が迫るに連れて、住民は撤退してゆくトルコ軍に対して発砲した。
フランス軍のダマスカス空爆(1925年) 1918年 10月1日、フサインの部下で後のイラク王国 宰相ヌーリー・アッ=サイード 率いるアラブ反乱軍がダマスカスに入城する。同じ日、イギリス軍に属するオーストラリア人部隊の兵士も入城し、オスマン帝国の知事の降伏を受け入れた。トーマス・エドワード・ロレンス を含む別のイギリス軍部隊もダマスカスに入っている。
しかし1917年 11月、十月革命 で成立したロシアのボリシェビキ 政府が、フランス とイギリス が交わしたアラブ分割に関する密約サイクス・ピコ協定 を暴露したため、アラブの政治的緊張が高まっていた。イギリスとフランスは連名で「トルコに長い間抑圧されてきた人々の完全な解放」を約束する宣言を発表した。シリアでは民主的憲法を定める会議が行われ、1920年 にはフサインの息子であるファイサル・イブン・フサイン を国王とするシリア王国の建設が宣言された。しかしヴェルサイユ条約 ではフランスがシリアを委任統治 下に置くことが認められていたため、英仏はファイサルの宣言を認めなかった。1920年7月23日、アンチレバノン山脈 を越えたフランス軍がマイサルン峠でシリア人部隊を破り、ファイサルはダマスカスを追われた。サイクス・ピコ協定 に基づき、シリア地方が英仏に分割されると、ダマスカスはフランス委任統治領シリア の首都となった。
1925年 、シリア南西部ハウラーン地方で起きたドゥルーズ派 の反乱(en )がダマスカスに及んだため、フランス軍はダマスカス市街に対し砲撃と空襲を加えて鎮圧した。アル=ハミディヤ市場(スーク)とミドハト・パシャ市場の間の古い町並みは炎上し、多くの市民が死亡した。この後、旧市街はグータ・オアシスからの反乱分子が入らないよう有刺鉄線で囲まれ、装甲車などが通れるように新しい道路が北部郊外に造られた。1941年 6月21日 、イラクから侵入した連合軍部隊がヴィシー政権 側の守るダマスカスを占領した。
1945年 にフランス軍は再度ダマスカスを空襲したが、イギリス軍の介入でフランス軍は撤退に応じ、1946年 のシリア独立につながった。以来、ダマスカスはシリアの首都となっている。
2025年 7月にシリア南部で発生したドルーズ派 とスンニ派の衝突を受けて、同月16日にイスラエル がダマスカス市内を空爆。国防省庁舎などが深刻な損傷を受け、3人以上が死亡、34人以上が負傷[ 9] 。
聖アナニア教会の内部。パウロの回心に登場するアナニヤ の家の跡地とされる メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会 (英語版 ) のアンティオキア総主教の座所、生神女就寝大聖堂ダマスカスは、都市の歴史のさまざまな時代に遡る歴史的地区の宝庫である。この都市は過去の占領者ごとに増築されたため、現在の都市の8フィート(約2.4メートル)地下に埋まっているダマスカスのすべての遺構を発掘するのはほとんど不可能である。ダマスカスの城砦は旧市街の北西隅に位置する。
使徒行伝 第9章第11節にある聖パウロ の改宗に登場する、直線と呼ばれる街路 またの名をVia Recta は、ローマ時代のダマスカスのメインストリートの一つであり、1,500 m以上の長さがあった。
この道は今日ではバーブ・シャルキー通りと覆いのあるスーク (市場)、スーク・ミドハト・パシャとなっている。バーブ・シャルキー通りは小さな商店に満ち、キリスト教徒の区画Bab Touma(聖トマスの門)に通じている。スーク・ミドハト・パシャもまた、ダマスカスの主要な市場であり、スークを刷新したオスマン時代のシリア州知事ミドハト・パシャにちなんで名づけられた。バーブ・シャルキー通りの端には、アナニアスの家の地下貯蔵庫であった地下教会がある。また、ダマスカスにはスーク・ミドハト・パシャと平行にもう一つ屋根つきのスークがあり、こちらは建設当時のオスマン帝国のスルタン ・アブデュルハミト2世 の名にちなみスーク・ハミディーエと呼ばれている。
ウマイヤード・モスク、またの名をダマスカスの大モスクは、世界で最も大きいモスクの一つであり、イスラム教が始まって以来最も長く祈りが捧げられ続けている場所の一つでもある。モスク内の寺院には洗礼者ヨハネ の頭が納められているといわれている。
Bab Kisanの門、現在は聖パウロを記念した教会 ダマスカスの旧市街は、北と東、および南の一部を塁壁に囲まれている。現存している門は七つある。最も古いものはローマ時代にまで遡る。城砦の北から時計回りに:
Bab al-Faraj (救いの門) Bab al-Faradis (果樹園の門) Bab al-Salam (平和の門)以上三つは旧市街の北側にある。 Bab Touma (トマスの門)北東の隅にあり、同じ名前のキリスト教徒の区画へ通じている。 Bab Sharqi (東門)東の壁にあり、ローマ時代の設計が残っている唯一のもの。 Bab Kisan、南東にあり、聖パウロがここから籠に入って塁壁から吊り下げられてダマスカスから脱出したという伝説が残っている。現在は閉鎖されており、この故事を記念する教会がその場所に建てられた。 al-Bab al-Saghir (小さい門)南側にある。 加えて、Bab a-Faraj、Bab al-Faraidis、スーク・ミドハト・パシャへの入り口にあるBab al-Jabiya、およびスーク・al-Hamidiyyaの入り口近くにあるBab al-Baridは、かつてはスークへの入り口の区域を指していた、ダマシーンという名で呼ばれている。城壁の外にある二つの区域もまた、「門 (bab)」の名を持っている。Bab MousallaとBab Sreijaであるが、どちらも城壁の外の南西にある。
ダマスカスには、フランス委任統治時代に建てられた国内最古のダマスカス大学 をはじめとし、アラブ国際大学、応用科学技術高等研究所など数多くの高等教育機関が集まっている。
ダマスカスのビジネス地区。アル=シャルク銀行とブルータワーホテル ダマスカスはシリア砂漠 のオアシス都市として古くから交易の中心であったが、現代もシリア国内の政治の中心地であるのみならず産業・物流・教育などの中心地として重要である。また世界中からの観光客も多く集めており、市内にはホテルも多く建つ。1954年以来、毎年秋にはダマスカス国際見本市が開催されている。2009年にはダマスカス証券取引所 が開設された。
ダマスカス国際空港 で中東やアジア、欧州各国と結ばれている。同空港はシリア・アラブ航空 のハブ空港でもある。
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