タンザニア連合共和国 Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (スワヒリ語) United Republic of Tanzania (英語) 国の標語:Uhuru na Umoja (スワヒリ語 : "自由と統一") 国歌 :Mungu ibariki Afrika (スワヒリ語) 神よ、アフリカに祝福を ^ Tanzania Goverment Portal :languages タンザニア連合共和国政府 2019年1月1日閲覧^ 各国・地域情勢 国名:タンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania) 外務省 2019年1月1日閲覧^ “Tanzania ”. ザ・ワールド・ファクトブック . 2025年9月13日閲覧。 ^a b c d e IMF Data and Statistics 2021年10月17日閲覧([1] ) 註1: データは本土のみ 註2: 立法府の議事堂はドドマ 、その他の政府官庁はダルエスサラーム 註3: ケニアとウガンダから掛ける場合は 007タンザニア連合共和国 (タンザニアれんごうきょうわこく)、通称タンザニア は、東アフリカ にある共和制 国家 。イギリス連邦 加盟国。ケニア 、ウガンダ 、ルワンダ 、ブルンジ 、ザンビア 、マラウイ 、モザンビーク と国境を接し、タンガニーカ湖 対岸にはコンゴ民主共和国 があり、またインド洋 に面する。
1996年 に立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマ に移転されたが、その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラーム にある。
タンザニアは東アフリカ大陸部のタンガニーカ とインド洋島嶼部のザンジバル から構成され、ザンジバルは中央政府から強い自治権を確保したザンジバル革命政府 によって統治されている。
また、アフリカ でも有数の大自然に恵まれ、文化的にもスワヒリ語 を国語とし、アフリカ在来の言語が大きな役割を果たしている数少ない国家である。
正式名称は、スワヒリ語 でJamhuri ya Muungano wa Tanzania (ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア)。英語でUnited Republic of Tanzania (ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア)。通称、Tanzania (タンザニア)。
日本語の表記は、タンザニア連合共和国 。通称、タンザニア 。漢字表記 は、坦桑尼亜 。
国名はタンザニアを構成するために併合したタンガニーカ (Tanganyika)とザンジバル (Zanzibar)の名前に、かつてアフリカ南部 で栄えたアザニア文化 (英語版 ) (Azania)の名前を複合して1964年に命名された。
キルワ・キシワニの大モスクの遺跡 19世紀半ばオマーン帝国 の版図。19世紀のインド洋の覇権をイギリスと争ったオマーン帝国は、1830年代 より東アフリカのザンジバル に本拠地を置いていた。 250万 - 200万年前にホモ・ハビリス が現在のタンザニアに相当する地域(北部のオルドヴァイ峡谷 )に存在していたことが、ルイス・リーキー 博士によって確認されている。
紀元前10世紀ごろ、現在のカメルーン に相当する地域からバントゥー系民族 がタンザニアの森林部に移住した(en:Bantu expansion )。
7世紀にアラビア半島 でイスラーム教 が成立したあと、アラブ人 やペルシア人 が東アフリカのインド洋 沿岸部に渡来し、スワヒリ文明 を築きあげた。10世紀ごろから16世紀初頭にかけて、タンザニアにはキルワ島 やマフィア島 、バガモヨ などのスワヒリ都市が栄えた。
1498年 にポルトガル王国 の航海者ヴァスコ・ダ・ガマ がインド航路を開拓し、インド洋 におけるポルトガル の覇権が始まった。ポルトガル は1505年にキルワ王国 を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。
アラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力はオマーン によって1698年 に現在のタンザニア領から駆逐され、南方のモザンビーク島 にまで撤退した。その後、19世紀に入るとオマーン帝国 (アラビア語 :الإمبراطورية العمانية )のサイイド・サイード 王が在地のマズルイ家 から島嶼部と沿岸地方を自らの勢力圏に置き、1830年代にザンジバルに王宮ストーンタウン を建設し、帝国の本拠地を移した。1856年 にサイイド・サイード王が死亡したあと、本国のオマーン・スルタン国 とは別にサイイド・マージド がザンジバルのスルターン に即位するとザンジバル・スルタン国 (Sultanate of Zanzibar 、1856年 -1964年 )が成立し、引き続きクローヴ などの香辛料 の交易や奴隷貿易 で栄え、この時代にザンジバルは東アフリカ最大の奴隷市場 となった。19世紀後半には、ザンジバル出身のスワヒリ商人ティップー・ティプ が現在のコンゴ民主共和国 東部に相当するタンガニーカ湖 にまで勢力を伸ばし、内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となった。彼はデイヴィッド・リヴィングストン やヘンリー・モートン・スタンリー の探険も助けた。
ドイツ領東アフリカ 1880年代 にアフリカ分割 が始まると、カール・ペータース の活動によって1885年に大陸部にドイツ東アフリカ会社 の植民地が認可された(ドイツ領東アフリカ )。19世紀後半からインド洋に進出していたイギリスは、1890年 7月1日 にドイツとヘルゴランド=ザンジバル条約 を締結し、ザンジバル領のうち、沿岸地方はドイツが獲得し、島嶼部のザンジバルをイギリスの保護国 とした。1890年に保護国となったザンジバル・スルタン国は、政変にともなう1896年 のイギリスとの戦争 でイギリスに一方的に敗北し、保護国化当初のザンジバルへの内政不干渉の原則は反故にされ、以後ザンジバルではイギリスによる行政が進んだ。
一方、大陸部のタンガニーカでは、ペータースの植民地会社は沿岸地方で発生したアブシリの反乱 の鎮圧に手こずり、会社による統治は不可能と判断され、本国ドイツ から総督の派遣を受ける統治形態へと変わった。19世紀末、領域内部には部族国家が複数存在しており、中でもルヴマ州 のソンゲア・ルワフ・ムバノ 率いるンゴニ族 とイリンガ州 のムクワワ 率いるヘヘ族 (英語版 ) が二大勢力であったが、相争っていたため、数年がかりで各個制圧されていった。しかしながら、指導者ムクワワ が率いるヘヘ族 (英語版 ) とのゲリラ 戦(1891年 -1898年 )は長期化した。1905年の霊媒師キンジキティレ・ングワレ (英語版 ) (Kinjikitile Ngwale)が主導するマジ・マジ反乱 はンゴニ族 も呼応して最大の反乱となったが、ヘヘ族がドイツ側について部族の垣根を越えることはできず、徹底的に鎮圧された。この反乱を受けて、ドイツは統治政策の見直しを行うこととなった。沿岸部からタンガニーカ湖 までを結ぶ鉄道(ドイツ語 :Tanganjikabahn 、現在のタンザニア中央鉄道 (英語版 ) )は、1905年にダルエスサラーム を起点に着工し、1914年には終点キゴマ に到達して完成した。
1914年に第一次世界大戦 が勃発すると、東アフリカ戦線 ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック 将軍率いる現地人兵士(アスカリ )を中心としたゲリラ 部隊がイギリス軍 などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。
第一次世界大戦 がドイツの敗北で終結したことによりドイツ領東アフリカ は解体され、大半はイギリス の委任統治 領タンガニーカ準州 となり、東北部のルアンダ=ウルンディ はベルギー の委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域(ウガンダ 、ケニア 、タンガニーカ 、ザンジバル )を支配することとなり、これらには関税同盟が敷かれ、ドイツ領東アフリカルピー (英語版 ) に代えて共通通貨東アフリカ・シリング (英語版 ) が導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設され、そのひとつはヴィクトリア湖 のムワンザ にまで延長された。
1939年に第二次世界大戦 が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは8万7,000人が出征した[ 1] 。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線 でイタリア軍 と、ビルマ戦線 で日本軍 との戦いを繰り広げ、インパール作戦 で日本軍が対峙したイギリス軍 には多くのアフリカ人のアスカリ が存在した。
タンザニア連合共和国初代大統領ジュリウス・ニエレレ 。「ムワリム」(スワヒリ語 で「先生」の意)と呼ばれ、タンザニア人の尊敬を集めている。 第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化 の潮流の中でタンガニーカ=アフリカ人民族同盟 (英語版 ) (TANU)が次第に支持を集め、1961年 12月9日 に大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立した。1963年 にはザンジバル王国 も主権を獲得して独立した。しかし、翌1964年 1月にザンジバルで革命が勃発 すると国王は亡命し、アラブ人排斥の流血の事態の中でザンジバル人民共和国 が成立した。その後、ザンジバルでの政変を経て、ニエレレの汎アフリカ主義 の精神の下で両国は連合し、1964年4月26日にタンガニーカ・ザンジバル連合共和国 が成立した[ 2] 。同年10月29日、この国家連合は両国の名称とかつてこの地域で栄えたアザニア文化 (英語版 ) の名称を複合し、タンザニア連合共和国 と改称した。なお、官報の名称は、4月26日付45巻29号まではThe Tanganyika Gazetteとし、4月28日付45巻30号から11月30日付45巻71号まではThe Gazette of the United Republic of Tanganyika and Zanzibarを使い、12月3日付け45巻72号からThe Gazette of the United Republic of Tanzaniaとしている[ 3] 。
独立後、連合共和国の初代大統領となったジュリウス・ニエレレ は、内政面ではスワヒリ語 を国語とし、1967年のアルーシャ宣言 (英語版 ) 発令以後は社会主義 の建設を目指し、ウジャマー (英語版 ) と呼ばれるコンセプトに基づいたアフリカ社会主義 を採用した(ウジャマー社会主義 )。対外的には東アフリカ諸国を東アフリカ連邦 (英語版 ) に統合する構想を掲げ[ 4] [ 5] [ 6] 、アルーシャを本部とする東アフリカ共同体 (第一次)を作り[ 7] 、南アフリカ共和国 のアパルトヘイト 政権やローデシア の対白人少数派支配に対抗する「最前線」としてザンビア やボツワナ とフロントライン諸国 (英語版 ) (FLS)を結成して、ニエレレは初代議長を務めた[ 8] 。また、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を図るタンザン鉄道 の建設などを通じて中華人民共和国 との関係を深め、ポルトガル とも敵対し、1964年にモザンビーク独立戦争 が始まると、エドゥアルド・モンドラーネ 議長の指導するモザンビーク解放戦線 (FRELIMO)を支援し、解放区を提供した。この時期にタンザニアはFRELIMOのみならず、ナミビア の南西アフリカ人民機構 (SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカ人民族同盟 (英語版 ) (ZANU)を支援している。
1971年にミルトン・オボテ がイディ・アミン のクーデターによって追放されて以来、オボテをかくまったタンザニアは隣国ウガンダ とは対立が続いた。
1977年にそれまで別組織だったTANUとアフロ・シラジ党 (英語版 ) (ASP)が統合し、タンザニア革命党 が成立し、国内でも一党制 に移行した。
1978年にそれまで対立していたウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、タンザニア軍 はウガンダの首都カンパラ を攻略してアミン失脚の一因となった(ウガンダ・タンザニア戦争 )。こうした政策によってタンザニアはアフリカ内外で第三世界 を指導する国家の一角としての信望を集めたが、その一方で1970年代に入ると親西側 的なケニアのジョモ・ケニヤッタ との対立で自らの理想を体現した東アフリカ共同体は消滅し、旱魃 による農業の衰退や、ウジャマー村 の建設の失敗が各地で報告され、経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになった。
1980年代 に入ると第二次石油危機 の影響もあって経済の衰退は深刻化し、日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる中、1985年11月にニエレレは引退を発表した。
後任には与党タンザニア革命党からザンジバル 出身のアリ・ハッサン・ムウィニ が就任し、ムウィニの下でIMF の勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められ、また複数政党制 が認められて民主化が行われた。1995年 に就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ 大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。
1998年 8月7日 にはアルカイーダ によって首都ダルエスサラーム の駐タンザニアアメリカ合衆国大使館 が攻撃される、アメリカ大使館爆破事件 が発生した。
2005年 にはジャカヤ・キクウェテ が大統領に就任し、2015年 にはジョン・マグフリ が大統領に就任した。
第4代大統領ジャカヤ・キクウェテ と閣僚 第5代大統領ジョン・マグフリ タンザニアは共和制 、大統領制 を国家体制 とする立憲国家 である。現行憲法であるタンザニア憲法 (英語版 ) は1977年 4月25日 に制定(1984年 10月 に大幅改正)されたもの。
タンザニア政治の特徴として、他のアフリカ諸国に多く見られる、特定部族 による政権の独占や民族による投票行動が見られないことがあげられる。これは、国内に特別大きな民族グループが存在しないこと、スワヒリ語による初等教育と、教育プログラムに盛り込まれた汎タンザニア史などを通じてタンザニア人としてのアイデンティティ創出に成功したこと、初代大統領ニエレレがウジャマー社会主義建設の過程で旧来の地方組織を解体したこと、複数政党制導入時に民族を基盤とした政党結成が禁じられたことなどが理由となっている[ 9] 。
国家元首 である大統領 は、国民 の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相 および閣僚 は大統領により任命されるが、閣僚は国民議会議員でなければならない。2015年10月に与党信任で選出されたジョン・マグフリ 第5代大統領が2021年3月17日に死去[ 10] し、後任の第6代大統領として副大統領であったサミア・スルフ・ハッサン が同国初の女性の大統領として就任した。死去したマグフリの残余任期を引き継ぐ[ 11] 。
立法府 は一院制 で、正式名称は国民議会 。定数は393議席で、うち264議席は国民の直接選挙枠(うち50議席は、ザンジバル5州内の選挙区より選出)、113議席は大統領が任命する女性議員枠、5議席はザンジバル 革命議会議員の枠である。議員の任期は5年である。
1992年 以来、タンザニアでは複数政党制 が認められているが、タンザニア革命党 (CCM)による政権が独立以来続いている。その他の政党の勢力は脆弱だが、市民統一戦線 (CUF)と民主進歩党 (CHADEMA)が比較的有力である。
連合共和国政府とは別に、ザンジバル には独自の自治政府であるザンジバル革命政府 および議会が存在し、ザンジバルの内政を担っている。統治権が及ぶのはザンジバル島の3州、およびペンバ島 の2州である。ザンジバルの大統領 (英語版 ) はザンジバル住民の直接選挙で選出され、任期は5年である。ザンジバル議会は一院制で定数81議席。議員の任期は5年で、81議席中50議席はザンジバル住民の直接選挙により選出される。2021年現在のザンジバル大統領はタンザニア革命党 (CCM) のフセイン・ムウィニ (英語版 ) (第8代)。強力な自治政府であり、大陸からザンジバル島に渡る場合でも、入国管理 手続きが存在する。タンガニーカ の独自政府は存在しない。
一方で、ザンジバルにおいては首都のあるウングジャ島とペンバ島の間に対立がある。ペンバ島はザンジバル革命の時に旧政権側を支持したため、革命政権によって冷遇を受けた。この対立は民主化後でも続いており、ウングジャ島でタンザニア革命党 が強い一方、ペンバ島はタンザニア最大野党・市民統一戦線 の地盤となっている。ザンジバル経済はペンバ島でおもに栽培されるクローブの輸出を柱としているため、経済面での貢献に比してペンバ島が政治面で冷遇を受けていることがさらにこの対立を増幅している。
独立以来、ニエレレ大統領の下で第三世界 外交が実践され、特にソビエト連邦 よりも中華人民共和国 との友好関係が築かれた。ザンビアからタンザニアに至るタンザン鉄道 やタンザニア海軍基地なども中国の援助によって建設され、中国の支援でできたアマーン・スタジアム (英語版 ) でタンザニア革命党も設立された[ 12] 。もともと英領東アフリカ植民地として同一の政府機構の下にあったウガンダやケニアとは独立時から東アフリカ共同役務機構を設立しており、アルーシャに事務局を置く東アフリカ共同体 (第一次)の盟主でもあったが、1977年 にケニアと決裂して東アフリカ共同体は解体、1978年にはウガンダ・タンザニア戦争 も起きた。その後、2001年 に東アフリカ共同体はアルーシャで再結成され、再び協力体制が構築された。また、南部アフリカ開発調整会議 (英語版 ) (SADCC)の設立経緯から、他の東アフリカ諸国は加盟していない南部アフリカ開発共同体 (SADC)の一員でもある。
1960年代、日本から6人の技術専門家が送り込まれ、政治顧問や官僚として活動した。このことが縁となり、1969年にはタンザニアの大臣の発案で、キリマンジャロ州の1万4000平方キロの土地を日本に貸し、パイロット地区を形成しようとする案が持ち込まれた[ 13] 。
在留日本人数 - 195名(2021年10月,外務省海外在留邦人数調査統計)[ 14] 在日タンザニア人 数 - 433人(2021年12月,法務省在留外国人統計)[ 14] 1976年 、日本大使館の書記官が象牙 の密輸 を図っていたとして事実上の更迭を受けた。タンザニアでは当時から象牙の輸出は許可制となっており、規制を回避するために外交特権 を利用して日本に送っていた疑い。象牙集めを手伝ったタンザニア従業員は警察の取り調べを受けた後に解雇されており、現地民や日系企業からは批難の声が上がった[ 15] 。
タンザニア人民防衛軍 タンザニア人民防衛軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約2万7,000人である。兵制は志願制 を採用している。2005年にはGDPの0.2%が軍事に支出された[ 16] 。
タンザニアの地図 アフリカ大地溝帯 タンザニアの面積94万5,087km²は世界31位の広さでエジプト に続き、ナイジェリア とほぼ等しい。北東部にアフリカ最高峰 のキリマンジャロ山 (5,895メートル)があり、北部にアフリカ最大の面積 を誇るビクトリア湖 、西部にアフリカでもっとも深い タンガニーカ湖 がある。この南のニアサ湖 を含めアフリカ三大湖 が存在する。これらはアフリカ大地溝帯 が形成したものである。中部には高原が広がる。東部海岸は蒸し暑い気候で、ザンジバル島(ウングジャ島)がすぐ沖合にある。
気候は国土の大半がサバナ気候 に属し、中央部がステップ気候 、南部と北部の高原部が温暖冬季少雨気候 である。降水量は海岸部やビクトリア湖岸、キリマンジャロ周辺では1,000ミリを超えるが、内陸部では500ミリ程度のところが多い。植生は、海岸部に熱帯半落葉降雨林が、内陸部にミオンボ (またはミヨンボ)と呼ばれる熱帯広葉雨緑乾燥林が広がっている。
生態学上貴重な野生公園が数多く存在する。北の有名なンゴロンゴロ保全地域 とセレンゲティ国立公園 、そして南にセルース猟獣保護区 とルアハ国立公園 とミクミ国立公園 がある。西のゴンベ国立公園 はジェーン・グドール 博士がチンパンジー を研究したところである。タンザニア政府観光省が南西部ルクワ地域にあるカランボ滝 を観光拠点にしようと努めている。この滝はタンガニーカ湖南端にあり、アフリカ第2の規模である。
タンザニアの州 タンザニア連合共和国は、タンガニーカの26州、ザンジバルの5州(ウングジャ島3州、ペンバ島2州)からなる。
タンガニーカ: 首相府、地方自治国務相(Minister of State, Regional Administration and Local Government)の下、政令行政区上位から州(Region)、県(District)、郡(Division)、区(Ward)、村(Village/Street)と定められている。その他、県と郡の間に選挙区(Constituency)、村の下に隣組(Sub-Vilage)が存在する。また、行政系統が Regional Administration と Local Government に分かれており、連合共和国政府レベルの行政系統としてRegional Administration(州、県、郡)、地方政府の行政系統としてLocal Government(県、区、村)となっている。 ザンジバル: 最大の都市ダルエスサラーム 1980年代中盤まで、タンザニアはジュリウス・ニエレレ大統領の下ウジャマー社会主義を標榜し、ウジャマー村と呼ばれる集団農場を中心とした社会主義経済を目指していた。しかし旧来の社会制度をまったく無視したこの方式は失敗に終わり、生活必需品の供給すら滞る状態となった。1985年にニエレレの後を継いだアリ・ハッサン・ムウィニ大統領は、IMFの勧告を受け入れ、貿易制限の緩和などを行い自由経済 へと舵を切った。以後タンザニア経済は緩やかに回復へと向かい、1995年に就任したベンジャミン・ムカパ大統領の行った国営企業の民営化など政府セクターの民間への移動と、南アフリカ共和国などからの投資の拡大により、1995年から2005年までの経済成長率は平均5%を記録した。
タンザニア経済は農業に立脚しており、GDP の半分以上、輸出の80%、雇用の85%は農業によってもたらされている。キリマンジャロ は上質のコーヒーとして世界中で愛好される主要輸出品である。ほかに茶 が栽培される。ビクトリア湖周辺では、漁業 と綿花 栽培を中心とした農業 が盛んに行われている。ビクトリア湖で捕獲されるナイルパーチ (スズキ に食感が似た淡水魚 )は加工され、世界各地に輸出されている。他に、カシューナッツ なども主要輸出品となっている。一方、ザンジバル経済の根幹を成しているのがクローブ の栽培である。19世紀 半ばにオマーン のサイイド・サイード によって始められたクローブ栽培は、2015年現在ではザンジバルの主要な輸出品となっている。ザンジバルのクローブの90%はペンバ島で栽培されている。
鉱業では、宝石 のタンザナイト を産出することで有名である。金 はアフリカでは南ア、ガーナに次ぐ産出がある。また、ブルンジと同様、超塩基性岩にともなうNi-PGE鉱床が存在し、ニッケル ・コバルト ・銅 が採掘されている。また、南部海域のガス田から天然ガスが生産されダルエスサラームと地方での発電に使われている。しかしタンザニアの電力の多くは水力発電 によってまかなわれているため、旱魃 の影響を受けやすく、水不足 が電力不足に直結する。
アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ山 タンザニアの観光業は成長を続けている。タンザニアにおける観光業はGDPの17.5%を占め、外貨収入の25%を占めており、金の輸出に次いで第2位の外貨獲得産業となっている。[ 17] 2004年 にタンザニアに入国した観光客数は58万3,000人であり、1995年の2倍に達した[ 18] 。さらに2016年には観光客数は128万4,279人となっており、増加の一途を辿っている[ 17] 。観光客の目的はンゴロンゴロ保全地域 やセレンゲティ国立公園 などでのサファリ 、キリマンジャロ への登山、ザンジバル島のストーン・タウン など歴史遺産やザンジバルでのビーチリゾートなど多岐に渡っている。
タンザニアの鉄道網 交通網はあまり発達しておらず、輸送インフラも貧弱である。国内道路のうち、旧首都ダルエスサラームからキリマンジャロ山麓のアルーシャまでは舗装道路が通じているものの、他は未舗装の悪路である部分も多い。
鉄道は、タンザニア中央鉄道とタンザン鉄道 の2社があり、前者はダルエスサラームから北へ向かいタンガ やアルーシャ を結ぶ路線と、西へ向かい首都ドドマ 、タボラ を通ってタンガニーカ湖畔のキゴマ へ向かう路線、タボラから北へ向かいビクトリア湖畔のムワンザ へと向かう3路線を運行している。後者は1976年 に建設され、ダルエスサラームから南西へ向かい、マラウイ国境近くのムベヤ を通ってザンビア領のカピリムポシ までを結んでいる。
水運は、タンガニーカとザンジバル間で活発であるほか、ビクトリア湖やタンガニーカ湖に国際フェリー が就航しており、ケニアやウガンダ、コンゴ民主共和国とを結んでいる。沿岸ではいまだにダウ船 での輸送も行われている。
空運はかつて国営のタンザニア航空 (英語版 ) の独占であったが、自由化により中小の航空会社が多く設立されるようになった。
タンザニアの人口推移(1961年 -2003年 ) バントゥー系 黒人が国民の95%を占め、タンガニーカでは99%がアフリカ系黒人であり、1%ほどのヨーロッパ系、アラブ系、インド系の市民が存在する[ 16] 。ザンジバルではアラブ人 、アフリカ系黒人の他に、両者の混血 が存在する[ 16] 。また、アフリカ系黒人はザンジバル原住民と大陸からの移住民に別れ、ザンジバル原住民はイラン のシーラーズ からの移民の子孫であるとしてシラジと名乗り、混血民も含めてひとつの民族としてのアイデンティティを持つ。おもな民族はスクマ人 (英語版 ) 、ハヤ人 (英語版 ) 、ニャキュサ人 (英語版 ) 、ニャムウェジ人 、チャガ人 、マコンデ族 などである。それ以外にはトングェ族 、ハッザ族 などが存在する。また、北部からケニア 南部にかけて、先住民であり遊牧民 のマサイ族 も存在する。
言語は、スワヒリ語 が国語 であり、スワヒリ語 と英語 が公用語 である[ 19] [ 20] 。
スワヒリ語は国語 の扱いを受けており、1960年 のタンガニーカ独立時にはすでに公用語に指定されていた。これは旧宗主国の言語をそのまま公用語に指定した他のアフリカ諸国とは大きく異なる点である。1961年 のザンジバルとの連合後、スワヒリ語母語話者がほとんどを占めるザンジバルを加えたことでこの政策はより推進されることとなった。1967年 のウジャマー社会主義政策の採用以来、スワヒリ語の近代言語化や教育による普及が進められた。タンザニア憲法はスワヒリ語で書かれており、大衆文化の中でもテレビやラジオ、ポピュラー音楽などで用いられ、タンザニアにおいてスワヒリ語は国民統合のための言語としての地位を与えられている[ 21] 。その結果、タンザニアでは国民のほぼ100%がスワヒリ語を解するとされ、国家内で同一の言語が通じることはタンザニアの政情安定に大きく貢献しているとされる[ 9] 。一方で、スワヒリ語での教育は初等教育に限られ、中等教育以降へのスワヒリ語導入は進んでいない[ 22] 。2015年にはタンザニア政府は中等教育以降においても教授言語 を英語からスワヒリ語へ転換する政策を表明し[ 23] 、実現されればサブサハラアフリカ では初の試みとなる。
宗教は、タンガニーカではキリスト教 が30%、イスラム教 が35%、伝統的宗教が35%である[ 16] 。ザンジバルではほぼ100%がイスラム教である[ 16] 。
タンザニアの児童 学制は初等教育 が7年、前期中等教育 が4年、後期中等教育 が2年、高等教育 が3年の7-4-2-3制。義務教育 は初等教育のみである。初等教育は2001年より無償化し、これにより就学率が大幅に向上した。現在、初等教育の就学率は97.3%である。前期中等教育は20.7%、後期中等教育は0.9%。教育言語 は、初等教育は公用語であるスワヒリ語であるが、中等教育以降は英語が教育言語である。
2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率 は69.4%(男性:77.5%、女性:62.2%)である[ 16] 。1999年にはGDPの2.2%が教育に支出された[ 16] 。
おもな高等教育機関としては、ダルエスサラーム大学 やソコイネ農業大学 の名がげられる。
かつては衛生状態が劣悪で、1978年 1月には首都ダニエスサラームを中心にコレラ 患者が多発、180人以上の死者が出た。政府はトイレ の環境改善を奨励した[ 24] 結果、2020年現在、都市部では改善されたトイレを利用できる人口比率は30%を超える状態となっている[ 25] 。
タンザニアにおける2007年のHIV 感染者は推計で約140万人であり[ 16] 、感染率は6.2%である[ 16] 。タンザニア人の平均寿命は52.01歳(男性:50.56歳、女性:53.51歳)である[ 16] 。
治安は周辺のケニア やブルンジ やコンゴ民主共和国 などに比べると安定しているが、日本と比べるとかなり危険であり、全土において一般犯罪 が日常的に発生しているとの情報がある。特に都市部においては、強盗 (主に路上強盗や車両強盗)、住居侵入、空き巣 、詐欺 、ひったくり が多く発生しており、銃器 が使用される凶悪犯罪 も発生している。
2020年10月には隣国モザンビーク 北部のカーボデルガード州 における治安悪化が波及する形で、タンザニアで初めてイスラム国 に関係するとみられる武装グループによるムトワラ州 村民襲撃事件が発生。その後もモザンビークとの国境地域では武装グループによる襲撃事件も多発しており、更に翌年2021年8月にはダルエスサラーム市で治安当局がテロと断定した銃 発砲 事件が発生している。
また、コンゴ民主共和国等からの密入国 者も多く、これらの中には武器 を所持しているケースもあるなど、難民 流入に伴い治安の悪化が懸念されている。加えて、近隣国のウガンダ ではISIL との関係が疑われるテロ事件が続発しているのが現状である。その為、滞在する際にはこうした状況のタンザニアへの波及リスクを念頭に充分留意する必要が求められる[ 26] 。
タンザニアにはメディア評議会が存在しており、評議会は1995年に開設された。2003年に成立した「タンザニア通信規制法」により、放送ライセンスを監督する「タンザニア通信規制当局」が創設されている。
マコンデ人 の彫刻ウガリ と呼ばれるトウモロコシ の粉を練ったもの、または米 が主食で、これにトマト ベースのスープなどのおかずをつけて食べるのが一般的である。プランテン・バナナ やキャッサバ 、チャパティ などを食べる地域もある。
タンザニアにおける文学は、20世紀後半まで主に口承文学 を主体としていた。タンザニア国内で記録されている口承文学の大部分はスワヒリ語であるが、同国の言語にはそれぞれ独自の口承の伝統が根付いている為、必ずしも画一されたものとはなっていない。
ポピュラー音楽 においては、1980年代 からダルエスサラームで発達したレゲエ やヒップ・ホップ の影響を受けたボンゴフレーバー 、20世紀 前半にザンジバルで発達したタアラブ やその現代版のモダン・タアラブなどが存在する。1980年代にはジャマイカ 発祥のレゲエ の汎アフリカ主義 のメッセージが一定の力を持ち、タンザニア人ラスタファリアン が存在した[ 27] 。なお、伝統音楽においては親指ピアノ 、ンゴマ などが存在する。また、R&B歌手にはヴァネッサ・ムディらがいる。[ 28]
南部に居住するマコンデ人 のシェタニ(精霊 )をモチーフとした黒檀 の彫刻はタンザニアの美術において特筆される。
現代タンザニアを代表する画家、ジョージ・リランガ (英語版 ) もシェタニをモチーフに絵画や彫刻を製作した。その他にもタンザニアで発展を遂げたポップアート として、エドワード・サイディ・ティンガティンガ (英語版 ) が1960年代 に大成したティンガティンガ派絵画 の存在が挙げられる。
タンザニア国内には、ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産 が3件、自然遺産 が4件存在する。
サッカー タンザニア国内でも他のアフリカ 諸国同様、サッカー が圧倒的に1番人気のスポーツ となっている。1965年 にサッカーリーグのタンザニアン・プレミアリーグ が創設された。タンザニアサッカー連盟 (英語版 ) によって構成されるサッカータンザニア代表 は、これまでFIFAワールドカップ には未出場である。アフリカネイションズカップ には2度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。
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脱退国 1 1はイギリスの植民地・保護国だったことのない国。
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