この項目では、広義の民族名称について説明しています。その他のタタール人については「タタール (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
タタール人 татарлар tatarlar 総人口 合計: ~730万人[ 1] 居住地域 ロシア 5,319,877[ 9] ウクライナ 319,377[ 10] [ 11] ウズベキスタン ~239,965[ 12] (クリミア・タタール人) カザフスタン 208,987[ 13] トルコ 500,000–6,900,000[ 4] [ 5] [ 6] [ 14] アフガニスタン 100,000[ 15] (推定) トルクメニスタン 36,655[ 16] キルギス 28,334[ 17] アゼルバイジャン 25,900[ 18] ルーマニア ~20,000[ 19] アメリカ 10,000[ 20] ベラルーシ 3,000[ 21] フランス 700[ 22] スイス 1,045+[ 23] 中国 3,556[ 24] カナダ 56,000[ 25] (混血を含む) ポーランド 1,916[ 26] ブルガリア 5,003[ 27] フィンランド 600–700[ 28] 日本 600–2000[ 29] オーストラリア 900+[ 30] チェコ 300+[ 31] エストニア 2,000[ 32] ラトビア 2,800[ 3] リトアニア 2,800–3,200[ 33] [ 34] [ 35] [ 36] イラン 20,000–30,000[ 37] (ヴォルガ・タタール人) 言語 キプチャク語群 宗教 大半がスンニ派 イスラーム東方正教会 の少数派が存在 関連する民族 バシキール人 クリミア・タタール人 テュルク人
タタール (Tatar,タタール語 :татарлар )は、東アジア のモンゴル 高原とシベリア とカザフステップ から東ヨーロッパ のリトアニア にかけての幅広い地域にかけて活動したテュルク系民族 に対して用いられてきた民族総称である[ 38] 。日本 では、中国 から伝わった韃靼 (だったん)という表記も用いてきた[ 39] 。
タタル (Татарла, Татар - Tatarla, Tatar) という語は、テュルク系 遊牧国家 である突厥 (とっけつ)がモンゴル高原 の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称である[ 40] 。この語はテュルク語 で「他の人々」を意味するとされ[ 41] 、その最古の使用例は突厥文字 で記した碑文(突厥碑文 )においてであった。まもなく中国側もテュルク語のタタルを取り入れ、『新五代史 』や『遼史 』において「達靼」「達旦」などと表記したが、これは他称ではなく、彼らの自称であるといい[ 42] 、タタルを自称とする部族が形成されていた。
後にタタルと自称する人々はモンゴル部族に従属してモンゴル帝国 の一員となり、ヨーロッパ遠征に従軍したため、ヨーロッパの人々にその名を知られた。ヨーロッパではモンゴルの遊牧騎馬民族が「タルタル (Tartar)」と呼ばれるようになり、その土地名も「モンゴリア(モンゴル高原)」という語が定着するまでは「タルタリー」と呼ばれた。中でもロシア語の「タタール(Татар )」はよく知られているが、ロシアはヨーロッパの中で最も長くモンゴル(タタール人)の支配を受けた国であり、ロシア人にとって「タタールのくびき (татарское иго )」という苦い歴史として認識されている。東ヨーロッパではモンゴル帝国の崩壊後にロシアの周縁で継承政権を形成したムスリム (イスラム教徒)の諸集団をタタールと称した。彼らの起源は、モンゴル帝国の地方政権のうちで後のロシア領を支配したジョチ・ウルス においてイスラム教 を受容しテュルク化したモンゴル人と彼らに同化した土着のテュルク系、フィン・ウゴル系 諸民族などで、これが現在のロシア・東ヨーロッパのタタール民族に繋がっている。
一方、東アジアでもモンゴル帝国の崩壊後も「タタル」の語は使われ続け、漢字で「韃靼」と記された[ 43] 。この韃靼はかつての達靼(タタル部 )ではなく、モンゴル人全体を指しているため、使い方としてはヨーロッパと類似している。
以上のように、「タタル」という呼び名は突厥碑文の他称に始まり、のちに突厥碑文のタタルから派生したタタル部(達靼)が自称するようになった。同じく突厥碑文のタタルから派生したモンゴルがユーラシア大陸 を支配する巨大な帝国に形成すると、タタル部はその一員となるが、この時代にモンゴル帝国の遊牧民全体がヨーロッパ、中国から「タルタル、韃靼」と他称された。今はテュルク系ムスリムのことを指す場合が多い。
現在では、旧ソビエト連邦 を中心にシベリアから東ヨーロッパにかけて居住するテュルク系諸民族がタタール(タタール語 :Татарлар , Tatarlar)を自称するが、現在「タタール」と呼ばれる諸民族はロシア連邦 内のヴォルガ川 中流域(イデル=ウラル 地域)に住むヴォルガ・タタール人 (カザン・タタール人)、ヴォルガ川下流域に住むアストラハン・タタール人 、シベリア に住むシベリア・タタール人 、クリミア半島 に住むクリミア・タタール人 、ベラルーシ 、リトアニア およびポーランド に住むリプカ・タタール人 などに分かれる。
タタール人の人口が多い国はロシアで、統計上の総人口はおよそ550万人とロシア人 に次ぐ多数派民族である。このうち数が多いのはヴォルガ・タタール人で、ヴォルガ中流域のタタールスタン共和国 に200万人、隣のバシコルトスタン共和国 に100万人が居住する。また、中華人民共和国 にもロシアから移住したタタール人が少数民族のタタール族 (タタール語版 、中国語版 ) とされ、新疆ウイグル自治区 に2010年現在で4890人[ 44] が暮らす[ 注 1] 。
タタールの語源は古テュルク語 で、「他の人々」を意味した[ 41] Tatar (タタル)である。
伝統的にはもっぱら、中国語 では韃靼 (ダーダー、拼音 :dádá )、アラビア語 ではتتر (タタル)、ペルシア語 では تاتار (タータール)、ロシア語 ではТатар (タタール)、西ヨーロッパ の諸言語ではTartar (タルタル)と表記される[ 45] 。
韃靼の口語形 として韃子 があるが、モンゴルを侮辱する言葉であり、陝西省 や山西省 の漢人 たちは現在でもときどき口にする言葉である[ 46] 。
宮脇淳子 は韃靼という語について、「中国王朝の明 は、モンゴル高原 で遊牧生活を送っている人びとが、元朝 と深い関係にあるモンゴル帝国の後裔であることを知りながら、かれらをモンゴル(蒙古)と呼ばずに、わざとタタル(韃靼)とよんだ。それは、中華思想 の立場では、正統 はただひとつしかなく、明朝だけがモンゴル帝国の宗主国元朝の継承者でなければならなかったからである」と分析している[ 46] 。
突厥碑文には、「三十姓タタル (オトゥズ・タタル、Otuz Tatar)」や、「九姓タタル (トクズ・タタル、Toquz Tatar)」という複数の部族(姓)からなる集団が登場する。このうちの三十姓タタルは中国史書に記されている室韋 (しつい)に比定されている。
8世紀 の『ホショ・ツァイダム碑文 (キョル・テギン碑文)』に、「バイカル湖 の東岸方面のクリカン(骨利干 )とシラムレン川 のキタン(契丹)の間に、オトゥズ・タタル(三十姓タタル)がいた」と刻まれたように[ 47] 、突厥 の時代から室韋は三十姓タタルと呼ばれていたのであるが、一方で『シネ・ウス碑文 』などに「トクズ・タタル(九姓タタル)」という集団がセレンゲ川 下流近くに居住していたことも記されている。九姓タタルと三十姓タタルとの関係はわかっていないが、九姓タタルが三十姓タタルと同じ起源であるとすれば、これも室韋から分かれた集団であると推測できる。しかし、『新五代史 』に記されている「達靼(たつたん、タタル)」は「靺鞨 の遺種」と記されており、室韋の後身とは記されていない。
860年代に九姓タタルは回鶻 (ウイグル)を滅ぼした黠戛斯 (キルギス)を撃退し、オルホン川 流域に割拠した。13世紀 にモンゴルが強大になるまでモンゴル高原の支配部族であったケレイト 王家はおそらく九姓タタルの後身である可能性が高い[ 48] 。
一方で、室韋の旧地に残っていた三十姓タタルは、かつて九姓タタルが住んでいたセレンゲ川上流域や、ケルレン川 上流にまで住地を広げ、11世紀から13世紀にかけて活躍するモンゴルやタタルといった部族の起源となる。
13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 モンゴル高原中央部で黠戛斯(キルギス)の遊牧国家 が倒れると、タタル諸部族は南下を開始し、モンゴル高原の中部から東部に広く分布するようになった。高原の東南に遊牧していたキタイ(契丹 )が遼 を建国すると、これらの遊牧諸部族は遼の支配を受け、ときに遼に反抗しながら部族の興亡を続ける。この時期に台頭したのが、ケレイト 部、ジャライル 部、メルキト 部、モンゴル 部、バルグト 部といった諸部族であり、これらと並んで有力部族となったのがタタル部 である。すなわち、この時代のタタル部とはかつて突厥が三十姓タタルと他称した室韋の後裔の一部であり、タタルを自称の部族名とした集団であった。『元朝秘史 』によると、タタル部族にはアルチ 、チャガン 、ドタウト 、アルクイ の4氏族があるという。一方、『集史 』ではトトクリウト を筆頭に、同じくアルチ、チャガンの他にクイン ,テレイト ,バルクイ の計6氏族が数えられている。
12世紀 、南宋 ・金 代の中国ではモンゴル高原東部・北東部に居住するタタル部など諸部族を「黒韃靼 」、モンゴル高原南部(内蒙古 )に居住するオングト など諸部族を「白韃靼 」と呼んでいた[ 40] [ 43] [ 49] 。
タタル部は遼に代わって成立した金と結んで、モンゴル部のアンバガイ・カン を殺害した。そのため12世紀末、モンゴル部の部族長となったチンギス・カン によってタタル部は滅ぼされた。やがてチンギス・カンが、モンゴル高原のモンゴル・テュルク系遊牧諸部族を統合してモンゴル帝国 を建てると、かつてのタタル部も勢力は振るわなかったものの、モンゴル帝国を構成する一部族として存続した。
『集史』では、チンギス・カンのオルドの管理を行っていた最有力の大ハトゥンが第1皇后ボルテ を含め5人いたことが記されているが、うち第5皇后イェスルンおよび第3皇后イェスゲンの姉妹はトトクリウト・タタル氏族の首長イェケ・チェレンの娘であった。チンギス・カンの養子としてホエルンらに養育されたシギ・クトクやクリ・ノヤンなど、タタル部族は氏族それぞれがチンギス・カン家の各王家で有力な部将や姻族として政権の中枢を担った。
モンゴル帝国の諸政権のうち、中国とモンゴル高原を支配した元 は、1368年 に北へ逃れて北元 となったが、やがて1388年 にクビライ 直系のハーンが殺害されてクビライの王統がほぼ断絶し、モンゴル高原西部の諸部族がオイラト 部族連合を形成してモンゴル部族連合と対立し始めた。
一方、中国を取り戻すことができた漢民族の明 ではモンゴルのことを「蒙古」と呼ばず、かつてのモンゴル系遊牧民の総称であった「韃靼」と呼ぶことになった[ 40] 。これは彼らが元朝の後継政権であることを言葉の上で否認したためである[ 50] 。そのため明代に記された史料や清代に編纂された正史 『明史 』では、モンゴルは韃靼の名で記録されている。
モンゴルが韃靼と呼ばれるようになった明代でも、モンゴルの東に住む女真 (のちの満洲人 )はモンゴルのことをᠮᠣᠩᡤᠣ (Monggo, モンゴ)と呼び続けていた。のちに明に代わって満洲人が立てた清 は韃靼の名称を採用せず、モンゴルの漢字表記は「韃靼」から「蒙古」に戻った。清代には西トルキスタン に居住するイスラム教徒も含めた、北アジア・中央アジアの諸集団を指して「韃靼」という言葉が使われるようになった[ 43] 。
日本 では、江戸時代 から沿海州 、アムール川 流域を含む北アジア・中央アジアを指す呼称として「韃靼」の語が用いられたが、領域や実態について明確な定義は存在していなかった[ 51] 。
ヨーロッパ のキリスト教 世界の中でも最も東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシ (現在のロシア・ウクライナ[ 52] )は1223年 にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年 にはバトゥ 率いる征西軍の侵攻 を受けて、ノヴゴロド公国 以外は全てモンゴルの支配下に入った。ルーシの人々は、おそらく周囲にいたポロヴェツ などのテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、彼ら東からやってきた遊牧民たちをタタールと呼んだ。1245年 、モンゴル皇帝グユク に謁見するためローマ からカラコルムに向かったローマ教皇 インノケンティウス4世 の使者プラノ・カルピニ は往路途中、ルーシの古都キエフ が襲撃により今や廃墟 であったことを記している。
バトゥの征西で大被害を受けたルーシは、続けてバトゥがヴォルガ川下流に留まって建国したジョチ・ウルス の支配下に入り、モンゴルへの服従と貢納を強制された。モスクワ大公国 が1480年に貢納を廃止し、他地域も独立するまで約200年前後にわたって続くことになる、このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史 では「タタールの軛 (くびき)」と呼ぶ。
ジョチ・ウルスのモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教 化してゆく。15世紀 にはジョチ・ウルスは再編と解体が進んでクリミア半島 にクリミア・ハン国 、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国 、西シベリア にシビル・ハン国 などが生まれるが、これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系などの様々な人々が混交し、現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアやルーマニア に移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も多く現われており、ユスポフ家 、カンテミール家 など有力な貴族となった家もある。
ロシアは、16世紀 頃までに「タタールの軛」を脱するが、その後もクリミアやヴォルガ、シベリアなどに広く散らばるテュルク=モンゴル系の人々をタタールと呼んだ[ 43] 。ロシア帝国 は18世紀 までにこれらのタタールはほとんど全てを支配下に置く。
ロシア治下のタタールのうち、ヴォルガ川中流域のカザン 周辺に住むヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済的・文化的に成長し、ロシア領内のムスリム(イスラム教徒)中で最大の共同体へと発展していった。ロシア・ソビエト連邦 では様々な民族に分かれたタタールたちをまとめてタタール民族として扱っていたが、それらのうちで継続してタタールの自治共和国を持つことができたのはヴォルガ・タタール人のみであった(ソビエト連邦 ロシアSFSR タタール自治ソビエト社会主義共和国 →ロシア連邦 タタールスタン共和国 )。このため、ロシア領を話題とする多くの文脈で、単にタタール人といったときも、狭義にはヴォルガ・タタール人を指していることが多い。クリミア・タタール人は1921年ロシアSFSRにクリミア自治ソビエト社会主義共和国 の建国を許可されたが、ヨシフ・スターリン によるクリミア・タタール人追放 政策により人口比民族が大幅に減少、1945年にはクリミア州 に格下げとなった。1954年管轄がウクライナSSR に移動。ソ連崩壊後のウクライナ ではクリミア自治共和国 として、2014年のロシアによるクリミアの併合 後にはクリミア共和国 としてそれぞれ自治権が復活している。
13世紀から17世紀において、多様なタタール族がポーランド・リトアニア共和国 に移住や難民とし居住した。ポーランド王 =リトアニア大公 は、高いスキルの戦士として知られていたタタール人を好んだからである。13世紀-14世紀の間、リプカ・タタール人 が移住し、15世紀から16世紀にはクリミア・タタール人 とノガイ族 などが移住し、ポーランド軍で高い評価を得ていた。16世紀から17世紀に、ヴォルガ・タタール人 が移住した。主にリトアニア大公国 (現在のリトアニア とベラルーシ )に定住した。ポーランドには、リプカ・タタール人を筆頭に、ハザール を起源とするクリミア・カライム人 など多くのタタール系やテュルク系民族 が定住した。
バトゥの征西は東ヨーロッパのポーランド からハンガリー まで達し、ルーシのみならず西ヨーロッパ・カトリック圏にも大きな衝撃を与えているが、西ヨーロッパの人々は、ロシア語のタタールという名をさらにギリシャ語 で地獄の住民を意味するタルタロス に重ね合わせ、モンゴル人たちをタルタル人と呼んだ。そしてモンゴル帝国以来、中央ユーラシア、中央アジア、北アジアの諸民族をタルタル人と呼ぶ用法が長く残ることになる。
例えばモンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた。17世紀に清 を建てた満洲人 はツングース系の非遊牧民であるが、彼らもヨーロッパ人にはタルタル人の一種とみなされていた。近代に中央ユーラシアの諸民族に関する知識がヨーロッパの人々に根付くにつれ、タルタルの名は使われなくなっていくが[ 53] 、その名残は現代において払拭されてはいない。例えば、ヴォルガ・タタール人などのタタールの名を冠する民族が英語圏で言及されるとき、Tatars ではなくTartars と綴られることもしばしばである。
中国の少数民族 の一つタタール族 (タタール語版 、中国語版 ) [ 注 2] は、18世紀以降にロシアから移住したタタール人の子孫であり、上述の韃靼 とは無関係である。中華人民共和国 の新疆ウイグル自治区 における人口は4890人(2010年)[ 44] 。新疆ウイグル自治区に以下の郷 [ 注 3] レベルの行政区が唯一ある。
1917年のロシア革命 によって国を追われたタタール人たちが日本に逃れており、彼らは日本に最初に入ってきたムスリム の集団とされる。彼らは日本にイスラム教 を持ち込んだ最初期の集団であり、東京 などに回教礼拝堂(1938年完成、現在の東京ジャーミイ )などを作った[ 55] 。この回教堂の開堂式典にはイエメン 王子、サウジアラビア王国 やエジプト王国 の国王名代ら中東 イスラム圏からの来賓を含め約300人のムスリムが出席した。設立を主導した在日タタール人指導者ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー は先立つ1927年に東京回教学校も開校している。在日タタール人が日本社会に受け入れられたのは、アジア大陸進出にあたってイスラム世界の好意が重要だと日本政府・軍部が認識していたためである[ 56] 。
彼ら在日タタール人は第一次世界大戦 で敗れて崩壊したオスマン帝国 に代わり成立したトルコ共和国 の国籍を求めたが、同国は原則として国籍を与えなかった。第二次世界大戦 中、駐日トルコ大使は本国への引き揚げ時に、大戦でトルコがどちらにつくかはわからず、無国籍 のままがよいと語ったと伝承される(大戦末期、トルコは日独へ宣戦布告 した)。戦後、朝鮮戦争 に派兵したトルコ軍 将兵は通訳や慰問で在日タタール人の世話になり2組の夫婦が生まれたほか、戦死者は在日タタール人イマーム により葬儀が執り行われた。その功績を評価したトルコ政府が国籍付与を認めた。トルコのほかアメリカ合衆国 やオーストラリア へ移住した人々もおり、かつて数百~千人程度いた在日タタール人は、子孫が参加する東京トルコ協会の会員と日本人家族を含めて40人程度に減っている[ 57] 。
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(2013年5月8日). https://www.nippon.com/ja/features/c01301/ 2014年5月3日閲覧。 {{cite news }}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ )^ “来日100年・タタール人の軌跡/2 モスク、日本の「国策」反映” . 毎日新聞 . (2021年6月17日). https://mainichi.jp/articles/20210617/dde/014/040/005000c 2021年7月25日閲覧。 ^ “来日100年・タタール人の軌跡/5 朝鮮戦争でトルコ籍取得” . 毎日新聞 . (2021年10月28日). https://mainichi.jp/articles/20211028/dde/014/040/006000c 2022年1月5日閲覧。 ウィキメディア・コモンズには、
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