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スイスの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

スイスの歴史ではスイス連邦の歴史について述べる。現在のスイス連邦の原型は、1291年に成立した原初同盟からであるが、本記事では現在のスイスに当たる場所で起きた出来事より記載する[注 1]

先史時代

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ムスティエ文化の洞窟

現在のスイスのバーゼル付近のプラッテルン英語版で発見された打製石器で、これは紀元前10万年以前のものである[1]。また、ヌーシャテル湖近くの洞窟からは、ムスティエ文化に属する石器やネアンデルタール人の骨が見つかっている[2]。そして、スイス東部のザンクト・ガレンにも、紀元前6万年頃のネアンデルタール人の遺跡が見つかっている[3]氷河期のスイスは氷河に覆われていたが、紀元前1万2千年頃に氷河期が終わり、ホモ・サピエンスがスイスに住むようになる[3][4][1]

中石器時代になると、スイスは自然豊かな土地となり、狩猟や果実の採集が行われ、中石器時代の終わりには、穀物の栽培も行われていたと見られている[2][1]。紀元前4300年になると、ヌーシャテル湖周辺に多数の人々が住むようになり、紀元前2500年には青銅器時代を迎えると、家畜の飼育や、車輪が発明され、交易が行われていたと見られている[3][1]

その後、紀元前8世紀中頃に鉄器時代を迎えるが、スイスではどういう経緯によって、青銅器文化から鉄器文化に移行したかはわかっていない[2]。鉄器文化の前期はハルシュタット文化、後期はラ・テーヌ文化と呼ばれる[2]。ハルシュタット文化は紀元前8世紀から紀元前5世紀、ラ・テーヌ文化は紀元前5世紀中頃から紀元前1世紀までが該当する[3][2][5]。ハルシュタットと言う名称は現在のオーストリア東部の遺跡の名称に由来し、ラ・テーヌと言う名称はスイスのヌーシャテル湖畔の遺跡の名称に由来する[3][5]。ラ・テーヌ文化の遺跡からは、刀剣、馬具、車輪・金細工などが多数発掘されている[5]

ローマ時代のスイス

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ケルト人の分布
- 紀元前1500年から紀元前1000年
- 紀元前400年
紀元前44年カエサル統治下の共和政ローマの領土

ラ・テーヌ文化が形成された理由や経緯としては、ケルト人が紀元前5世紀頃にヨーロッパ各地に進出したためと見られている[2]。ケルト人は、紀元前387年にはローマを破壊し、略奪した(アッリアの戦い[5][2]。ローマ人は、彼らケルト人をガリア人と呼び恐れた[5]

ガリア人のうち、現在のスイス中部台地に居住していたガリア人の部族は、ヘルウェティイ族であり、彼らは紀元前200年頃から紀元前100年頃の間に定住した[3][2][6]。スイス東部には、ラエティー族が定住した[7]。その他には、バーゼルには、ラウラキ族、ジュラにはセクアニ族、ジュネーヴにはアロプロゲース族が定住するようになる[3]。様々な部族がスイスに定住したが、中心となったのはヘルウェティイ族である[8]

ガリア人達は文字を残さなかったため、彼らに関する記録はガイウス・ユリウス・カエサルガリア戦記に依存している[5][2]。ガリア戦記の情報ではあるが、ガリア人はローマ人と幾度も戦い、ヘルウェティイ族もローマ人と戦った[5]。紀元前58年、ヘルウェティイ族は、自身の居住地であるヘルヴェティアを焼き払って退路を断った上で、西方への移住を試み、カエサルのローマ軍と衝突するが、敗北する(ガリア戦争[8][5][9]。カエサルは彼らヘルウェティイ族を元の居住地に帰還させ、町の再建を行わせた[8][5][9]。カエサルがヘルウェティイ族を帰還させたのは、彼らに対して寛容であったわけではなく、ライン川北にいたゲルマン人による侵略の防備を行わせるためであった[5][8]

だが、ガリア人のローマに対する不満は鬱積し、紀元前52年になると、ウェルキンゲトリクスが反乱を起こし、ローマに対して戦いを挑む[8][5]。これに対して、ガリア人は41もの部族が援軍を派遣した[5]。援軍を派遣した部族の中には、現在のスイスに定住していたセクアニ族、ヘルウェティイ族、ウラウラキー族が軍を派遣したとされる[5]。ローマは何とか反乱を鎮圧することに成功した[5]。カエサルは、紀元前45年から44年頃に、レマン湖北岸のニヨンに植民都市コローニア・ユーリア・エクュストリス[注 2]という都市を建設した[10][9]。その後、紀元前15年ごろに、アウグストゥスが、ラエティア人を征伐し、これによって現在のスイス全土はローマの支配下に置かれ、次第にローマ化していくことになる[10][11][7]

ローマ人は現在のスイスに当たる場所に植民都市を建築し、円形闘技場、神殿、公衆浴場などを建設し、ローマ化が進んだ[12][10][13]

その後のスイスでは、ネロ帝時代までは比較的平穏であったが、ネロ帝が死去すると後継者争いが起こり、スイスはガルバを次期皇帝として支持し、争いに巻き込まれる[11]。だが、ガルバが次期皇帝に就任すると、ヘルウェティイ族の中心地であったアウェンティクム英語版はローマ植民市に昇格され、退役軍人など一部のヘルウェティイ族には、ローマ市民権が与えられた[11][13]

その後、ローマでは、五賢帝の時代が過ぎると、ローマの力は衰え、212年にカラカラ帝がローマ帝国全域の自由人にローマ市民権を付与し、ヘルウェティイ族の自由人もローマ市民権を得る[14]。カラカラ帝のこの方策は、ローマ帝国市民の結束を促し、北からの脅威であるゲルマン人の侵略に備えるためであった[14]。この頃、現在のチューリッヒローザンヌには地方から人々がやってくる[15]

213年に、ゲルマン人の一部族であるアレマン人が台頭する[14][10]。260年には、ローマ皇帝のウァレリアヌス帝が、サーサーン朝ペルシアとの戦い(エデッサの戦い)に敗れて捕虜となったため、空位となった皇帝の座を巡って争いが繰り広げられた[14][16][15]。ローマ軍は、自国防衛のためスイスから軍を一部引き上げたため、スイスはゲルマンからの防衛の最前線となり、各地に城砦が建築された[16][14][15]。ウァレリアヌス帝が捕虜となった隙に、アレマン人がアウェンティクム英語版を占領する[14][10]。なお、この頃にスイスにキリスト教が伝わる[15][10]。そして、350年から400年頃になると、現在のスイスには教会が建てられ、バーゼルマルティニージュネーヴクール司教区が設けられた[17]

395年、ローマ帝国西ローマ帝国東ローマ帝国に分割される[15]。4世紀末になると、アラリックが族長を務める西ゴート族がイタリア半島に到来し、ローマ軍はローマ防衛のため、401年にスイスを撤退し、スイスのローマ帝国支配の時代は終わる[15][14]。406年になると、ゲルマン人の一派ブルグント人がライン川を越えて、別のゲルマン人の部族であるアレマン人と争う[18]。ローマはこの争いに目をつけ、ブルグント人の方と友好関係を構築した[18][15]。だが、ブルグント人は、436年にローマのアエティウス将軍から攻撃を受けて、サヴォワに追放されるが、その後443年に古ブルグント王国をフランス南東部とスイス西部(ローヌ川流域)に樹立し、ローマの同盟者となる[18][14][19]

中世のスイス

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フランク王国成立前後

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メロヴィング朝フランク王国の領土(600年ごろ)

西ローマ帝国が476年に滅びると[注 3]、ブルグント王国は独立を果たし、領土を拡張する[14][15]。ブルグント王国は、スイスにおいてはヴァリスヴォーフリブールジュラに勢力を拡大する[14][15]ブルグント人の定住したこれらのスイス地域はフランス語圏となっている[14]。西ローマ帝国滅亡後、ラエティア(現在のグラウビュンデン)などの北東スイスは東ゴート族の支配下に入った[14][9]

ブルグント王国では、キリスト教のアリウス派が信仰されていたが、ジギスムント英語版が国王になると彼はカトリックに改宗し、教会や修道院を多数設立する[18][14][15]

一方ゲルマン人の一派であるフランク人は4世紀後半にライン川下流域からガリアに侵入し、481年にメロヴィング家の下でフランク王国を成立させる[18][15]。この頃、ライン川東側(現在のドイツ南東部)に居住していたゲルマン族のアレマン人がフランク王国と衝突するが、アレマン人が496年に敗北し、その後アレマン人は、6世紀に南ドイツとスイスに定住し、フランク王国の支配を受けつつも、アレマン公国を樹立する[17][18][20]。アレマン人は、東ゴート族がいたヘルヴェティア東部を侵略し、勢力を拡大する[17]。アレマン人はキリスト教を当初信仰していなかったが、6世紀の終わりごろにアイルランドから修道士がやってきて、彼らの影響を受けキリスト教を信仰するようになる[20][21][22]

フランク王国は、534年にブルグント王国を滅ぼした[18][17][14]。フランク王国は、その後、王国が幾度か分割され、スイス西部はブルグンディア分王国に、スイス東部はアレマン公国を含むアウストラシア分王国に編入される[18][21]

その後、アウストラシア分王国では、7世紀前半からメロヴィング朝の宮宰のカロリング家が権勢を振るう[21][19]。メロヴィング家のネウストリア王クロタール2世はアウストラシア分王国や、ブルグント分王国と戦い、613年にフランク王国を再統一する[21]。メロヴィング朝のカロリング家は、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで勝利し、さらに勢力を強め、751年には、メロヴィング朝を廃止し、カロリング朝を樹立する[21]

東フランク王国と西フランク王国並びに中部フランク王国の成立

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ヴェルダン条約で定められた国境

768年には、カール大帝がフランク国王に就任し、彼はフランク王国の領土を拡張し、800年にはローマ皇帝に就任する[21]。フランク王国は、カール大帝の息子ルートヴィヒ1世が死去すると、843年のヴェルダン条約によって、東フランク王国中部フランク王国西フランク王国に分かれた[23]

855年に中部フランク王国の国王のロタール1世が死去すると、領地を巡り争いが起き、870年にメルセン条約が締結され、東フランク王国ルートヴィヒ2世と西フランク王国シャルル2世が中部フランク王国の一部を分割して編入する[23]

スイス誕生の地と言える場所は、東フランク王国に属していた[23]。東フランク王国は、在地の貴族が強大化するのを防ぐため、貴族に土地が渡らないようにするため、修道院に対して土地を寄進して牽制した[23][19][24]。だが、東フランク王国の国王ルートヴィヒ4世が死去すると、東フランクのカロリング朝が断絶する[19]。ルートヴィヒ4世の後継となったのは、ザーリアー朝コンラート1世であるが、権力基盤は弱く、様々な貴族が割拠し、その中でもスイス北東部が含まれる旧アレマン公国の領域ではラエティア伯ブルカルトが力を持ち、919年に東フランク王国のザクセン朝国王ハインリヒ1世によって、シュヴァーベン公国成立が認められた[23][19][24]。ただし、シュヴァーベン公国はあくまでも東フランク王国の支配を受けることになる[24]

一方西フランク王国でも、貴族が力を持ち始め、スイス西部では、ヴェルフェン分家が自立し、現在のスイス西部を中心として高地ブルグント王国が成立(888年)、同王国はサヴォワ北部と西スイスを領地とした[19][23][18]。フランス南東部では、ヴィエンヌ伯家が自立して、低地ブルグント王国が樹立される[23][18]。なお、高地ブルグント王国は、その後東へと領土を拡張し、現在のバーゼルアールガウにまで進出し、シュヴァーベン公国と対立する[18]。だが、ヴィンタートゥールの戦い(919年)で、シュヴァーベン公国に敗北し、以降は協調路線を取る[18]。高地ブルグント王国と低地ブルグント王国は、933年に高地ブルグント王国国王ルドルフ2世の時代に統合され、ブルグント王国が成立する[25][23]。その後、ブルグント王国は1032年に神聖ローマ帝国に統合された[19][26]

神聖ローマ帝国の成立

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神聖ローマ帝国皇帝オットー1世

東フランク王国国王のオットー1世が、イタリア遠征を行い、951年にはイタリア国王となる[27]。10世紀初頭、マジャール人(ハンガリー人)が西ヨーロッパ各地を襲撃する[27][23]。このマジャール人に対して、オットー1世は955年にレヒフェルトの戦いで勝利し、マジャール人を撃退する[27][23]。962年には、教皇ヨハネス11世の救援要請に応じて、ベレンガーリオ2世による攻撃から、ローマを防衛した[25][23]。この功績に対して、オットー1世は、ローマ教皇より皇帝の冠位を授与され、神聖ローマ帝国が成立する[25][23]。現在のスイスは、11世紀中葉になると、神聖ローマ帝国の支配を受けることになる[25][23][19]

ハプスブルク家の台頭

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11世紀末、スイスの西部を支配していたのは、シュヴァーベン系のツェーリンゲン家であったが、シュタウフェン家と対立し、これに対抗するために12世紀後半までに、フリブール、ベルンなどの都市を建設する[28][29][30][31]。1173年には、スイス東部を支配していたレンツブルク家が断絶したため、ツェーリンゲン家はスイス東部に進出する[30][28]。だが、シュヴァーベン系のツェーリンゲン家は、1218年に男子の相続人がいなかったため断絶し、帝国から受けた領土は、皇帝に返還され、チューリッヒベルンゾロトゥルンは、地方貴族の支配を受けず、皇帝に直属する自由都市となる[29][30][31]

自由都市となったチューリッヒ、ベルン、ゾロトゥルンは、自由と自治を大幅に認められたことで発展し、チューリッヒでは1220年に市参事会が当時のドイツ王ハインリヒ7世によって認められた[30]

ツェーリンゲン家断絶後、一部の領地についてはキーブルク家が継承するが、当時の皇帝フリードリヒ2世はキーブルク家の勢力拡大を警戒し、当時は弱小の貴族であったハプスブルク家ウーリの帝国代官職に任命し、統治させる[29][32][33]。その後、キーブルク家が13世紀後半に衰えると、同家と姻戚関係にあったハプスブルク家がキーブルク家の所領の多くを継承し、勢力を拡大する[29][32]。ハプスブルク家はその後、1282年までにはオーストリア方面に広大な領地を得たことから、ウィーンを本拠地としつつ、現在のスイスはハプスブルクのラウフェンブルク家が支配するようになる[29][34]

原初三邦同盟の成立

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1470年出版の年代記の挿絵によるモルガルテンの戦いの様子
→詳細は「スイスの地方行政区画」を参照

ハプスブルク家の支配を受けることとなったスイスであるが、同家の支配を受けることを避けた地域もあった[35]。ドイツ国王フリードリヒ1世は、チューリッヒとウーリの支配をハプスブルク家に委ね、ウーリの住民は、ハプスブルクからの支配を逃れるため、住民が資金を出し合い、担保の解消を達成する[35][34]。その後、ウーリは1231年に、ドイツ国王ハインリヒ7世から、自由特許状を付与され、自由と自治を認められた[35][34][36]。その後、シュヴィーツもイタリアに軍事行動を展開していた皇帝フリードリヒ2世を支援した功績によって、1240年に自由特許状を付与される[35][34][36]。そして、ウンターヴァルデンもハプスブルク家の支配から逃れるため、自由特許状を欲したが、これは同地の貴族と修道院から反対を受けたため、同地はウーリとシュヴィーツよりも遅れて付与されることになる[34]

一方ハプスブルク家は、オーストリアだけでなくスイスの支配も強化し、1264年にはグラールスを、1273年にはツーク、1291年にはルツェルンを支配下におさめる[37]。また、1273年には、ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出された[38]。ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出されたということは、神聖ローマ帝国の支配を受けているスイスは、敵視していたハプスブルクの支配を受けるということになる[39]。このハプスブルク家の支配の拡大に対して、1291年8月1日にウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンが永久同盟を締結する(原初同盟[40][41][35]。ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンを原初三邦ともいう[40]。原初同盟は1291年に初めて成立したわけではなく、それより前に存在していた同盟を更新したというのが実情のようであるが、最初に同盟が締結されたのかがいつかはわかっていない[40][42]。原初同盟では、原初三邦が内外から攻撃を受けた際、無償で相互援助を行うことを誓約し、私闘の禁止、争いに対しては仲裁によって解決することを定めている[35]

その後、ハプスブルク家は、皇帝の戦死や皇位継承争いが起こるなどして混乱し、1308年にルクセンブルク家のハインリヒ7世が神聖ローマ皇帝に選出されたことから、スイスはハプスブルク家の支配から脱却する[37][39][43]。ハインリヒ7世は、1309年に、ウンターヴァルデンにも自由特許状を付与し、これによって原初三邦全てが自由特許状を得たことになる[39][42][44]

ハインリヒ7世が1313年に死去すると、神聖ローマ皇帝はハプスブルク家のフリードリヒ3世と、バイエルン公のルートヴィヒ4世との間で選挙が行われ、原初三邦はルートヴィヒを支持する[39]。これに対して、フリードリヒ3世の弟レオポルトが、原初三邦を攻撃する[39]。これがモルガルテンの戦いであるが、弱小とみられていた原初三邦が勝利し、1315年にモルガルテン同盟が成立し、原初三邦は事実上共和国となった[39][45]。原初三邦の名称を盟約者団ともいう[45][42]。以降、盟約者団に加盟する邦が増えていくことになる[注 4]

八邦同盟の成立

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ハプスブルク家に勝利した原初三邦に対して、1332年、ハプスブルク家の支配を受けているルツェルンが同盟締結を打診し、同盟する[46][47]。これを森林四邦とも言う[47]。一方、チューリッヒでは、1218年に帝国都市となり、織物業が栄えていたが、政治の面ではハプスブルクに従属する貴族や大商人が支配していた[47][48]。これに対して、中小の商人達は1336年にツンフト(職業組合)を発足させて、小商人や手工業者を市の参事会に送り込む体制を構築した(ツンフト闘争[47][46]。チューリッヒは、ハプスブルクの報復を警戒し、森林四邦に接近し、1351年に同盟を締結する[47][48]。チューリッヒはその後、ハプスブルク家の勢力下にあったグラールスとツークに同盟への参加を促し、1352年、原初三邦とチューリッヒはグラールスと同盟を締結する[47][46]。チューリッヒは1352年にツークと同盟を締結し、1353年になると、ベルンが原初三邦と同盟を締結する[47][42]

これらの同盟は緩やかな結びつきで、原初三邦を中心とした6つの同盟による集合体であり、同盟の内容はばらつきがあった[47][49]。とは言え、ベルンとの同盟により、スイス西部に同盟が拡大し、八邦同盟の時代が始まった[47][46]。これら八邦は、都市邦に分類される邦が3つ(チューリッヒベルンルツェルン)、農村邦に分類される邦が4つ(ウーリシュヴィーツウンターヴァルデングラールス)、都市と農村部の複合邦のツークで構成された[47][50]

八邦は、ハプスブルク家を警戒していたが、チューリッヒとベルンは、オーストリアと同盟を締結し、協調路線を歩む[51][52]。ハプスブルク家がルドルフ4世の時代になると、スイスの支配を目論もうとする[51][52]。ベルンとグラールスを除いた6邦は、1370年に坊主協定ドイツ語版を締結し、ハプスブルク家に対抗した[51][45]。坊主協定について補足すると、これは、そもそもの始まりは、チューリヒのツンフト闘争を指導したブルン家の息子達(聖職者とハプスブルク家の臣下)とルツェルン市長が対立し、遂にはブルン家の息子達が、市長を襲撃してしまう[46]。裁判に掛けられたブルン家の息子達であったが、彼らは聖職者の特権とハプスブルク家の特権を行使して、裁判を受けなかった[46]。つまり、坊主協定はこういった治外法権を認めないという狙いがあり、盟約者団の領域に住む者は、たとえ聖職者であっても、ハプスブルク家であっても、盟約者団の裁判に服させることを規定したもので、外部勢力が敵対行動を取りにくい体制を構築した[51][52][46]

八邦の同盟状況[53]。各行の色を塗っている箇所が同盟を成立した邦。
ベルンルツェルンツークウンターヴァルデンウーリシュヴィーツチューリヒグラールス
1291年:原初同盟
1332年:ルツェルン同盟
1351年:チューリヒ同盟
1352年:グラールス同盟
1352年:ツーク同盟
1353年:ベルン同盟

領土の拡張

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ゼンパハの戦いの様子

ハプスブルク家は、数少ないスイスの領土となったルツェルンの支配を強化するため、徴税を強化する[54]。これに対して、ルツェルンはハプスブルク家と対立を深め、1386年にはルツェルンを戦場として、ゼンパハの戦いが起こり、盟約者団が勝利する[52][44][51]。更に1388年にはハプスブルク家の支配を受けていたグラールスが、ハプスブルクに対して蜂起し、ネーフェルスの戦いが起き、ハプスブルク家に勝利する[52][44][54]。戦後の1389年に、盟約者団はハプスブルク家と休戦条約を締結し、ハプスブルク家が支配していたルツェルン、ツーク、グラールスの三邦は、ハプスブルク家による支配から脱却する[52][54]

1393年には、八邦全邦が同盟するゼンパハ協定英語版が締結され、同協定で戦争のルールを定め、立法も共通化され、緩やかな同盟であった八邦は強固に結びつくようになる[52][54][51]。ハプスブルク家に勝利した盟約者団は勢力を拡大し、保護同盟を締結する邦が現れた[55]。この保護同盟を締結した邦は従属邦とされ、共同支配地(後述)の経営には参加できないが、外部から戦争を仕掛けられた場合には、盟約者団の軍事力を頼ることができた[55][51]。この頃に従属邦となったのが、ゾロトゥルンビールヌーシャテルアッペンツェルヴァリスである[56]。共同支配地とは、各邦が2年交代で代官を派遣して統治するというものである[57]。盟約者団が初めて獲得した共同支配地はアールガウである[55]。これは1415年、神聖ローマ皇帝ジギスムントが、対立を深めていた教皇 ヨハネス23世が、ハプスブルク家のフリードリヒ4世を頼ったため、ジギスムントは、盟約者団に対して、ハプスブルク家が支配するアールガウを攻撃するよう要請し、盟約者団がこれを占領した[52][55]。盟約者団はその後、金銭によってアールガウを獲得し、ベルン・ルツェルン・チューリッヒの共同支配地とした[52][57][58][56]

盟約者団は一枚岩だったわけではない。盟約者団内で争いが起きたこともあり、それが古チューリッヒ戦争英語版である[59][58]。これは、1436年にトッケンブルク伯が断絶し、チューリッヒ、シュヴィーツ、グラールスが伯家の所領を巡り争った[57]。チューリッヒとしては、伯家の所領はイタリアへとつながる交易路があり、シュヴィーツとグラールスはスイス東部へと勢力を拡大するため、伯家の所領が必要だった[57][59][60]。全面衝突を回避するため、盟約者団内で仲裁が試みられたものの、チューリッヒはオーストリアに援助を求める[59]。そして、オーストリアはフランスの傭兵に救援を要請し、戦争は国際戦争となり1450年まで続いた[59][61][60]。戦争の勝敗はつかず、チューリッヒは結局1450年に盟約者団に復帰し、トッケンブルク伯領の南部はシュヴィーツとグラールスの共同支配地となった[60][59][55][61]

古チューリッヒ戦争後も、盟約者団に対する同盟の要望が相次ぎ、ザンクト・ガレン修道院の修道院長は1451年にチューリッヒ、ルツェルン、シュヴィーツ、グラールスの四邦と都市・ラント保護同盟を結んだ[55]。1452年には、アッペンツェルがベルン以外の七邦と同盟を締結するなど様々な保護同盟が締結された[55]

ブルゴーニュ戦争と傭兵契約

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シャルル突進公
→詳細は「スイス傭兵」を参照

15世紀後半になると、スイスはフランスのブルゴーニュ公国の脅威にさらされ、同公国のシャルル突進公は、勢力拡大を目論む[62][61]。この頃、ハプスブルク家のオーストリア大公ジークムントは盟約者団に対する賠償金の支払いを求められていたが、既に財源が枯渇しており、上アルザスシュヴァルツヴァルトの所領をシャルル突進公に売却することを試みる[62][61]。だが、このうちアルザスの4都市(バーゼルストラスブールコルマール、シュレットシュタット)は、ハプスブルク家の支配にとどまることを希望し、ブルゴーニュ公国と対立を深め、盟約者団を頼り、1474年に盟約者団はシャルル突進公に宣戦布告する(ブルゴーニュ戦争[62][63][61]。盟約者団は、当時ヨーロッパ最強とも言われたブルゴーニュ公国の軍を破り、1477年にシャルル突進公を敗死させる大戦果を挙げる[63][62][61]。なお、ブルゴーニュ戦争勃発時の1474年に、盟約者団とオーストリアは、永久講和を締結し、ハプスブルク家がかつて所領していたスイスの領地を放棄することが取り決められた[61][64]

ブルゴーニュ戦争での勝利は、盟約者団の傭兵の実力をヨーロッパ諸国に知らしめた[63][64][62]。前後するが、盟約者団はブルゴーニュ戦争時の1474年には、フランスの国王ルイ11世と傭兵契約を締結している[62][50][58]。スイスで傭兵契約が好まれた理由や経緯としては、スイスでは15世紀に牧畜業が栄えるようになるが、牧畜業はそれほど人手を必要とせず、労働人口が過剰になっていたこと、そして牧畜業の運営のためには穀物が大量に必要であったが、スイスでは穀物を輸入に依存していたため、資金を容易に獲得するためには傭兵契約が好まれた[65][62]

ブルゴーニュ公国に勝利した盟約者団であったが、ブルゴーニュ戦争より前の戦争では、農村邦が中心として戦い勝利に貢献していたが、ブルゴーニュ戦争ではベルンなどの都市邦が戦争の中心となり、勝利を収めた[62][66][67]。また、ブルゴーニュ戦争後、勝利に貢献した都市邦のフリブールとゾロトゥルンが盟約者団の加盟を要望する[67][68][69]。これに対して、農村邦は盟約者団内で少数派になることを警戒し、都市邦との間で軋轢が深まるが、ニコラウス・フォン・フリューエ英語版と言う修道士が仲裁に入り、1481年にシュタンス協定英語版が成立する[62][69][67]。シュタンス協定は、盟約者団間の武力衝突を禁止し、各邦の支配地域を規定した[62][69]

シュヴァーベン戦争と13邦時代の始まり

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1499年時点のシュヴァーベン戦争の地図

神聖ローマ帝国の皇帝は、1440年に選出されたフリードリヒ3世の時代から、ハプスブルク家が代々就任し、オーストリア大公の地位も獲得していた[63][70]。そして、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、1495年に、神聖ローマ帝国の裁判所を設置し、帝国税の徴集を決定した[63][70]。これはスイスにとっては、事実上ハプスブルク家による抑圧であり、神聖ローマ帝国の裁判所は、神聖ローマ帝国側(=ハプスブルク家)に有利な判決が下されるであろうと思われ、不満を抱いた[67][63]

スイスはこの決定を拒絶したため、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世は、1499年スイスに対して戦争を仕掛ける[63][70]。これがシュヴァーベン戦争である(ドイツ側ではスイス人戦争という)[63][68]。戦争はスイスが、マクシミリアン1世の軍を撃退し、戦後の1499年にバーゼルの和約が締結される[63][70]。バーゼルの和約によって、スイスは神聖ローマ帝国に対する税支払いなど帝国議会の決定事項から免除され、神聖ローマ帝国から事実上独立することになった[注 5][70][63][50]。なお、シュヴァーベン戦争でスイス側に立って参戦したシャフハウゼンやバーゼルが、1501年に盟約者団に加盟する[66][71]。1513年には、アッペンツェルが従属邦から正式な邦となり、13邦時代が始まった[71][66][50]。なお13邦の内訳は、都市邦が7でチューリッヒ、ベルン、ルツェルン、バーゼル、ゾロトゥルン、フリブール、シャフハウゼンである[50]。農村邦は5で、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、グラールス、アッペンツェル[50]。都市と農村を含む複合邦のツークである[50]

フランスと傭兵契約を交わしていたスイスは、フランスの戦争に傭兵として動員される[72]。1499年、フランスのルイ12世が、イタリアとの戦争にスイスの傭兵を動員し、これによってミラノ領を支配下におさめ、スイスはミラノ領ベッリンツォーナを共同支配地として獲得し、アルプスの南部に領土を拡張する[72][73][50]。だが、フランスは金払いが悪く、スイス人傭兵はフランスとの傭兵契約の更新を拒絶し、スイスは1509年にフランスとの傭兵契約を打ち切った[50][73]。そして、翌年1510年、スイスはローマ教皇庁と傭兵契約を締結した[72][73][50]。ローマ教皇ユリウス2世は、神聖同盟を結成し、北イタリアからフランスを撃退する計画を立てて、実行に移した[72][73][50]。スイスもこの計画に参加したが、1515年にマリニャーノの戦いでフランスに大敗し、スイスはローマ教皇庁に傭兵を派遣していたが、ローマ教皇庁も傭兵に対する報酬の支払いが滞ってしまう[74][72][73]。スイスでは、ローマ教皇庁よりはフランスとの傭兵契約を推進する意見が多数となり、1516年にスイスはフランスと平和条約を締結、その後1521年にフランスと傭兵契約を締結した[74][72][73]。なお、この平和条約によってスイスは、ミラノをあきらめる代わりに、ティチーノを獲得する[74]。傭兵契約では、フランスは適宜スイスから6千から1万6千人の範囲で、傭兵を募集できる権利を獲得した[67][66]。領土拡大を目指していたスイスであったが、1515年のマリニャーノの戦いにおける、フランスに対する敗北によって、以降は中立を心掛けるようになる[67]

フランスのフランソワ1世は、神聖ローマ皇帝カール5世との戦争に、スイス人傭兵を次々に投入した[74]

宗教改革

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スイスで宗教改革を指導したフルドリッヒ・ツヴィングリ
戦闘が行われなかった第一次カッペル戦争の様子

16世紀初頭、カトリック教会は汚職や信用の失墜など腐敗し、これに対して1517年、ドイツではマルティン・ルターが宗教改革を行い、その動きはスイスに波及する[75]。スイスでは1519年以降に、チューリッヒの司祭フルドリッヒ・ツヴィングリが宗教改革を指導し、チューリッヒは改革派が勃興する[72][76][75]。彼はイタリア戦争に従軍司祭として参加し、多数のスイス人傭兵が犠牲になったため、傭兵契約同盟に反対する[74][77]。ツヴィングリの宗教改革に対して、1528年から1529年にかけて、チューリッヒは、ベルン、ザンクト・ガレン、バーゼル、シャフハウゼンと共にキリスト教都市同盟を結成した[78][79]。これに対して、保守的なカトリック五邦(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ルツェルン、ツーク)は、宗教改革を否定し、チューリッヒを盟約者団会議から排除した[78][79]。カトリック五邦は、1528年秋に、キリスト教連合を結成し、同連合にはオーストリアのフェルディナンド国王も参加した[79][80]。こうして、スイス領内でキリスト教都市同盟とキリスト教連合が対立を深める[79][81]

キリスト教都市同盟の内、都市の全域が改革派支持であったわけではなく、ベルンの一部領地ではカトリックの支持があったため、カトリック五邦のウンターヴァルデンから軍事支援を受ける[80]。これは、他の邦に対する政治干渉を禁止するというシュタンス協定英語版に抵触していたため、チューリッヒはカトリック五邦に対して宣戦布告し、1529年10月、第一次カッペル戦争が勃発仕掛けるが、戦争はグラールスが仲裁に入ったため、回避された[82][80]。第一次カッペル戦争終結後、第一次カッペル平和条約が締結されたが、両宗派の信仰の自由が保障され、キリスト教連合の解散、共同支配地は住民の多数決による宗派選択が盛り込まれ、改革派に有利な条約であった[80][82][83]

その後、ツヴィングリは、ヘッセン方伯フィリップの仲介によって、マルティン・ルターと1529年に会談の場を持ち、チューリッヒは、バーゼル、ストラスブール、ヘッセン方伯と同盟する[80][82][83]。だが、1531年、カトリック五邦が奇襲をかけたことで、第二次カッペル戦争が勃発する[82][83]。戦争では、ツヴィングリが戦死してしまい、改革派が敗北する[82][83]。1531年11月、第二次カッペル平和条約が締結され、改革派の信仰の自由を認めるが、共同支配地については、改革派からカトリックへの復帰は認められたが、その逆は認められず、盟約者団会議の構成はカトリックが七邦、改革派が四邦、両派共存が二邦となった[83][82][84][75]

第二次カッペル平和条約では、スイス西部の信仰や布教活動については取り決めが無かった[82]。そのため、改革派のベルンは、スイス西部の方に関心があり、フランス人の宗教改革者であるギョーム・ファレルを招聘し、1532年からジュネーヴで宗教改革を行わせ、ジュネーヴは1536年に改革派が支持されるようになる[80][82][85]

スイスでは、トリエント公会議の理念に基づいて、カトリックの改革が行われた[86][87]。1570年から、イエズス会を招聘し、上層市民に対する教育を行い、一般信徒に対してはカプチン会が指導を行った。カプチン会はカトリックの邦において修道院の建設を行い、25箇所に修道院が建設された[86][88][87]。改革派の邦は、カトリック邦よりも人口が多く、産業もにぎわっていたため、カトリック邦は1586年に黄金同盟を結成し、翌年にはスペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世と同盟し、勢いを強める[87][89][90]

1618年、三十年戦争が勃発するが、スイスは中立を保った[91][92]。だが、スイス人傭兵はフランスやスウェーデンの軍に身を置いていた者もいる[91][92][93]。三十年戦争中、スイス領内には外国の軍隊が度々侵入し、外国の軍隊を警戒したスイスは、国境防衛のために1647年に防衛軍事協定が全13邦の間で締結され、全13邦、従属邦、共同支配地が兵士を供出し、武装中立政策が取られた[91][92][94]。三十年戦争終結後、ヴェストファーレン条約が締結され、スイスの三十年戦争中の中立維持が評価され、神聖ローマ帝国からの分離が承認され、スイスは神聖ローマ帝国からの独立を果たした[91][92]。神聖ローマ帝国は、バーゼル、アッペンツェル、シャフハウゼン、ザンクト・ガレンの支配をスイスに譲渡した[95]

三十年戦争中のスイスは、戦争による被害を受けなかったため、農作物の輸出、傭兵契約金で好景気を享受したが、三十年戦争終結によって不況に突入する[96][91]。生活に困窮した農民は、1653年に反乱を起こして、農民同盟を結成し、彼らは宗派の壁を超えて協力した[96]。だが、反乱は間もなく鎮圧された[96][91]。これをスイス農民戦争という[96][91]。このスイス農民戦争が起きていた頃、シュヴィーツでは宗派の対立が起こり、これに対して1656年にチューリッヒとベルンはカトリック五邦に対して戦争を仕掛け、第一次フィルメルゲン戦争英語版が勃発する[96][97]。第一次フィルメルゲン戦争では、一時はチューリッヒが共同支配地のトゥールガウを占領するが、間もなく敗北し、第三次平和条約が締結され、第二次カッペル平和条約を追認し、改革派にとって不利な状況が続くこととなった[96][97]

フランス国王ルイ14世は、スイスとの傭兵契約を1663年に更新し、ルイ14世は拡大政策を取り、スイス人傭兵がフランスの戦争に動員される[97][92]。対外戦争に駆り出されたスイス人傭兵であったが、スイス自体は武装中立を宣言し、外国の軍隊の領内通過を禁止した[92][98]。スイスでは次第にフランスに対する反感が強まり、1685年にルイ14世がナントの勅令を廃止した事が決定打となった[93][98]。ナントの勅令廃止によって、ユグノーはカトリック改宗を迫られ、多数のユグノーがスイスに亡命してくる[98][99][93]。ユグノーは技術者が多く、ジュラ地方にとどまったユグノーは、時計産業の隆盛に貢献し、現在の高級腕時計の礎が築かれた[93][95]

1712年、ザンクト・ガレン修道院長が支配するトッケンブルグでは、修道院長に対して改革派が反乱を起こした[97][96]。これが第二次フィルメルゲン戦争英語版である[96][97]。チューリッヒとベルンが支援し、今度は改革派が勝利する[97][99]。戦争終結後、第四次平和条約が締結され、共同支配地における両宗派の同権と併存が認められた[96][97][99]。共同支配地の統治は改革派の邦に有利となった[96][97][99]。また、カトリック五邦は、共同支配地の支配からほとんど外された[100]。これによってスイスにおける宗教戦争は終結した[99]

前後するが、1701年にスペイン継承戦争が勃発し、スイス人傭兵は両派閥に分かれて戦うこととなった[101][102]。スペイン継承戦争後、ヨーロッパでは戦争が連続しており、外国の軍隊がスイス領を侵犯することはあったものの、スイスは概して平和を享受できた[103]

近代のスイス

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フランス革命とフランスによる支配

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瀕死のライオン像

1789年、フランス革命が起こり、1792年8月、暴徒と化した民衆が国王を襲撃し、国王の護衛に当たっていたスイス人傭兵は760名又は786名が死亡する[103][104][65][105]。彼らスイス人傭兵を追悼する形で、ルツェルンには、瀕死のライオン像英語版が1821年に築かれた[103][65]

フランス革命の動きは、スイスにも波及する[106]。フランスは衛星国家を樹立してスイスを包囲し、フランス革命で功績を挙げたナポレオン・ボナパルトは、スイスの解放を名目として、スイスに軍を派遣し、1798年春には、ミュールハウゼンジュネーヴがフランスに編入された[106][107]。バーゼルの政治家ペーター・オクス英語版がヘルヴェティア革命を指導し、バーゼルの体制を無血で転覆させることに成功する[106][104]。こうして、フランスの総裁政府は、1798年4月12日にヘルヴェティア共和国を樹立した[106][108]

ヘルヴェティア共和国時代

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ヘルヴェティア共和国の地図

ヘルヴェティア共和国では、フランスを手本とした憲法が制定され、二院制議会が設置された[104]。そして、各邦の境界線は廃止されて、スイスは統一国家となった[104]。盟約者団は一時解体させられて、スイスの行政単位は州(フランス語でカントン)となり、言語はドイツ語、イタリア語、フランス語が公用語となった[104]。だが、フランスの傀儡であったヘルヴェティア共和国の統治には反対も多く、スイスは不安定な状態に陥る[104]

調停法を承諾させたナポレオン・ボナパルト

勢力を拡大するフランスに対しては、ヨーロッパ諸国の反発が大きく、1799年第二次対仏大同盟が結成され、オーストリアとロシア、フランスとの戦争が勃発する[104]。1799年11月にはフランスでは、ナポレオンが実権を握り、彼はヘルヴェティア共和国の解体に着手し、1803年2月にスイスの代表者をパリに招待し、調停法英語版を承諾させた[109][110]。調停法の承諾により、スイスでは旧体制が復活され、13邦とこれまでの従属邦や共同支配地が「州(フランス語でカントン)」となり、スイスは19州[注 6]で構成されるようになる[110][111]。調停法によって、各州が独自の憲法を持つこととなり、主要な6州(フリブール、ベルン、ゾロトゥルン、バーゼル、チューリッヒ、ルツェルン)が1年の持ち回りで議会を開催することとなり、開催された州の主張がスイス知事を務めることとなった[112]。スイスでは、大きく3種類の政体が確立された[111][109]。旧農村邦(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ツーク、グラールス、アッペンツェル)では直接民主政治が行われる[111]。旧都市邦(チューリッヒ、ベルン、ルツェルン、シャフハウゼン、バーゼル、ゾロトゥルン、フリブール)では、富裕層に対して選挙権を付与し、都市住民に議席が優先的に配分され、門閥支配が行われた[111]。ザンクト・ガレンなどの新カントンでは、多数の住民に選挙権を付与され、近代的政治制度が整備された[111]

スイスを与したフランスは、1803年にスイスと傭兵契約を締結し、スイスは1万6千人の傭兵の提供が義務付けられた[109][110][113]。1805年、第三次対仏大同盟が結成され、スイスは武装中立を宣言し、ナポレオンはこれを容認する[113][110]。ナポレオンは、スイスが中立に徹することで、オーストリアからの攻撃を防ぐこととなると考え、実際その通りとなった[113][111]

ナポレオンは更に領土拡大を目論み、1812年にロシアを攻撃し(1812年ロシア戦役)、約9千人のスイス人傭兵が従軍する[114][115]。だが、ナポレオンは敗北し、スイス人傭兵もほとんど戦死してしまう[114][109]。その後、第六次対仏大同盟が結成され、勢いが弱まったフランスに対して、スイスは、大同盟側のスイス領内通過を黙認し、1814年に大同盟側がパリを占領し、ナポレオンは失脚する[115][109]

ウィーン会議から分離同盟戦争まで

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ウィーン会議後のヨーロッパの国境

ナポレオン戦争の処理を巡り、1814年にウィーン会議が開催される[115][114]。スイスも会議に出席し、ナポレオン戦争の敗戦国ではあったが、スイスの外交使節は、スイスの独立と中立を訴えかけた[113]。そうこうしている内に、ナポレオンが配流されていたエルバ島を脱出し、復権する(百日天下[113]。スイスは、この時反ナポレオンの姿勢を貫き、これによってウィーン会議では有利な立場を獲得して、スイスの永世中立が認められた[113][114]。ウィーン会議開催中、スイスでは、フランスによって併合されていたジュネーヴ、ヴァリス、ヌーシャテルをスイスが獲得することが決まった[114][109]。こうして、スイスは1815年8月に22州体制となり、調停法時代から引き続き各州が憲法を持つこととなった[114][116][109]。チューリッヒ、ベルン、ルツェルンの3州が2年交代で、盟約者団会議の議長を務めることとなり、知事制度が廃止された[115]

スイスは武装中立ではあったが、神聖同盟に加盟し、そして傭兵契約は引き続き他国と契約された[115]。そして、武装中立を維持するため、各州が兵士の分担出兵を行った[115][117]。盟約者団会議は、軍隊の指揮権と外交を管轄することとなった[118][117]

18世紀末から19世紀初めにかけて、イギリスで産業革命が起こり、これはスイスにも波及した[119]。1819年には、スイスでチョコレート工場が建設され、スイスの名産となった[119]。また、伝統産業であった繊維産業と時計工業以外にも機械工業が発達した[115][120]。だが、スイスは保守的で、営業の自由は認められておらず、通貨も各州独自の通貨が使用され、統一されていなかった[119][118]

1830年、パリで7月革命が起こり、この動きはスイスにも波及する[121][119]。多数の州において、リベラル派が州の憲法改正を求める動きが現れる[121][119]。リベラル派のこの運動によって、ベルン、チューリッヒ、ヴォーでは憲法改正が行われ、信仰や言論の自由、営業の自由などが認められた[119]。1832年3月には、盟約者団の同盟規約の全面改正を目的として、リベラル派は、7州条約を締結[注 7]、この動きに対して、カトリック保守派の諸州は、ザルネン同盟を結成して、対抗する[119][123][注 8]。保守派とリベラル派に分派したが、同派内でも派閥が分かれ、リベラル派の中から急進派が分かれ出る[121]。自由主義の州でも内部では問題が無いわけではなく、1832年11月、自由主義州のチューリッヒのウスターでは、産業革命によって、力織機導入の動きがあり、そのあおりを受けた手織工が、力織機導入禁止を陳情したが、チューリッヒ州政府はこれを取り合わず、手織工が機械を打ち壊すと言う、ウスター焼き討ち事件を起こした[122][119][124]。バーゼルでは、都市部の保守派と農村部の改革派の内紛が起こり、1833年にバーゼルは、バーゼル=シュタット準州バーゼル=ラント準州に分割された[119][120][123]

1841年、ルツェルンで保守派が政権を獲得し、イエズス会に教育事業を委任したが、これは急進派が反発した[121][119][125]。急進派の中から、義勇軍が結成され、ルツェルンを攻撃する事態にまで発展してしまう[119][126][125]。アールガウでは、カトリックと改革派の両宗派同権が認められていた州であったが、1841年に宗派同権が廃止され、カトリックにとって不利な改革を実行していくようになる[127][119]。これに対して、アールガウ内のカトリックが蜂起し、蜂起を扇動したという理由で、アールガウ州政府は、州内にある全修道院8か所の廃止を決定する[127][119]。この事件は、盟約者団会議内でも議論され、結局全修道院の半分の4か所が復活されることが決定した[127][119]

分離同盟戦争勃発直前の勢力地図。紫がカトリック、緑が自由主義

カトリックは急進派・改革派に対する警戒を強め、カトリック諸州は、1845年12月に防衛同盟を結成する[121][126]。この防衛同盟に参画した州は原初三邦のウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンに加え、ルツェルン、ツーク、フリブール、ヴァレーである[121][126]。このカトリック保守派諸州による防衛同盟は、当初は機密であったが、間もなく知られることとなる[128][126]。スイスの同盟規約では、州間での同盟は禁止されていなかったが、外国との同盟は禁止であり、この防衛同盟はフランスとプロイセンから支援を受けていた[128][121]。急進派並びに自由主義派は、カトリック諸州による防衛同盟を分離同盟として非難し、スイスの存続を難しくするとして、盟約者団会議に上程する[121][127]。結局、1847年7月盟約者団会議で分離同盟解散決議が可決される[121][127]。そして、1847年11月、盟約者団会議は、ジュネーヴ出身の軍人アンリ・デュフールを司令官に任命し、分離同盟側に対して軍事行動を起こした(分離同盟戦争[127][128]。軍事力に遥かに劣る分離同盟側は瞬く間に敗北した[127][126][128]

スイス連邦の成立

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政治家として実業家として辣腕を振るったアルフレート・エッシャー

分離同盟戦争が自由主義派と急進派の勝利に終わると、彼らが中心となってスイスでは新しい国づくりが始まる[129][127]。1848年にスイス連邦憲法が制定され、議会は州の人口に応じた議席数が設定される国民議会(下院に相当する)と、各州2名が選出される全州議会(上院に相当、ただし準州は1名)で構成された[129]。また、国民投票(レファレンダム)の規定が盛り込まれ、憲法の全面改正を行う場合、国民投票を行うことが定められた[129][130][131]。政府閣僚は7名で構成され、1名が1省の長官となり、7人のうち1人が大統領を務めること、大統領は1年任期とされた[132][133]。1848年に行なわれた選挙では、国民議会では全111議席中、82議席が急進派が占め、全邦議会では、急進派が44議席中38議席を獲得した[133][134]

その他、1848年憲法では、法の下の平等、言論の自由、結社の自由、信仰の自由など、様々な自由が認められた[129][134]。ただし、信仰の自由についてはキリスト教のカトリックと改革派のみを対象とした[129][135]。そして、州によって不統一だった、通貨の統一(1850年)、度量衡の統一が進められ、中央集権化が一定程度実現した[135][133][136]。1848年憲法によって、外国との傭兵契約は明確に禁止された[注 9][132][65]

スイスでは、1848年憲法成立後、様々な国際組織が樹立、または加盟することになる。例としては、赤十字社が1864年にジュネーヴで創設され、万国電信連合万国郵便連合に加盟した[137][136]

この頃のスイスでは、政治並びに実業界で辣腕を振るったのが、アルフレート・エッシャー英語版である[129][138][139]。スイスでは1847年になって鉄道が開通した[129][139]。初めて開通した区間は、チューリッヒ=バーデン間の約23 kmで、その後スイスでは1852年に鉄道法が制定され、民間鉄道会社が次々に創設される[139]。その内1853年に設立された北東鉄道は、アルフレート・エッシャーが創設した[138]。エッシャーはその後、1856年には、鉄道建設資金調達のためクレディ・スイスを設立し、1871年にはゴットハルト鉄道会社を設立した[129][138][140]。エッシャーはその後、アルプス縦貫鉄道の建設を行い、1882年に工事は完成するが、莫大な建設費用が掛かったため、社長職を解任されてしまう[140]。ただ、数多く樹立された民間鉄道については、陸続きのヨーロッパでは民間企業に完全委託することは軍事戦略上リスクが高かったため、1898年の国民投票により、連邦鉄道会社の創設が決定され、民間鉄道の買い上げが進んだ[140][139]。エッシャーはその他、チューリッヒ工科大学設立のため尽力した[129][138]。大学について補足すると、1848年憲法では、総合大学1校と工科大学1校の設立を認めていたが、州間の対立が激しく、ようやくチューリッヒ工科大学の設立が認められただけだった[138][139]

1860年代、自由主義急進派が分派して民主派が形成された[141]。彼らは、スイスの政治は一部の特権層が運営していると批判した[141][142]。この頃、スイスは、プロイセンが台頭したドイツ、フランス、オーストリア、そしてイタリアが統一されたことから、スイスは4強国に隣接する[130][139]。1870年、普仏戦争が勃発すると、スイスは、各州から国境警備のため兵士を招集したが、兵士の装備のばらつきや、鉄道の輸送能力並びに通信機能の能力不足が露呈し、中央集権化が求められるようになる[130]。そうして、「ひとつの法、ひとつの軍隊」をスローガンとして、1872年国民投票で憲法改正が提案された[130][141][143]。憲法改正案は中央集権化が非常に強い草案だったため、国民投票で否決されたが、1874年には中央集権化を少し弱めた憲法案が可決された[130][141][143]

1874年憲法と1848年憲法の大きな違いは、連邦の権限強化と、信仰の自由の拡大、直接民主政が強められた点である[142][130][141]。直接民主政の拡大としては、任意的レファレンダムが導入されたことである[141][144]。これは議会において可決された法律に対して、有権者3万人が要求すれば国民投票にかけることができるようになるというものである[144][145][130][注 10]。また、1891年には、憲法の部分改正に対して、国民発議(以降イニシアティヴ)が認められるようになった[146][141]。イニシアティヴとは、有権者5万人以上の署名が集まった場合、議会は憲法改正案を国民に提示し、その後国民投票に掛けられる制度である[130][141][147]。このイニシアティヴによって、1994年時点までで国民投票にかけられたイニシアティヴの総数は122であり、憲法の部分改正が実現したのは、13つである[130]

ヨーロッパ諸国では、産業化が進展し、一部の資本家が富を独占するようになる[148]。労働者は長時間労働が常態化し、低賃金労働を強いられ、労働条件の改善が求められていた[148]。そこで社会主義思想が広まり、スイスでも、1877年の国民投票によって工場法が制定され、待遇改善が図られ、労働組合も樹立された[148]。この流れに乗り、社会民主党が結成され、1890年に社会民主党は国民議会で議席を獲得する[148][149]。これに対して、自由主義者達は、1894年に自由民主党を結成し、保守派はカトリック人民党(1912年から保守人民党)が誕生、1917年には農工市民党(1971年からはスイス国民党)が結成され、政党政治の時代を迎える[148][150]

第一次世界大戦以降のスイス

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第一次世界大戦と戦間期のスイス

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第一次世界大戦勃発時に総司令官に就任したウルリヒ・ヴィレ

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発し、スイスはすぐさま他国に対して中立を宣言する[151][152][153]。スイスの連邦政府内閣は1914年8月8日に、ウルリヒ・ヴィレ英語版を総司令官に任命した[154][153]。そして、22万人の兵士を動員して、国境警備に当たらせた[154]。だが、ウルリヒ・ヴィレはドイツのヴィルヘルム2世と交流があったため親ドイツとして知られていたため、スイス領内のフランス語圏の市民はスイスの中立が破綻すると不安視した[154][155]。スイスでは、フランス語圏住民はフランスを、ドイツ語圏住民はドイツを支持していたため、第一次世界大戦に参戦を求める意見も生じた[152][156]

結局、スイスは第一次世界大戦に参戦することなく、戦禍に見舞われることも無かった[151]。第一次世界大戦後、スイスはヴェルサイユ条約によって、中立国の承認を受けた[137]。1920年には、ジュネーヴで国際連盟の本部が設立され、スイスは国際連盟に加盟した[137][157]。スイスは国際連盟加盟に当たり、軍事制裁への不参加が認められ、経済制裁の参加義務は負うことになった[154][156]

第一次世界大戦中、スイスでは、食料生産を行っていた農民は輸出増大により好況を享受したが、外国からの輸入が途絶えたため、物価が上昇し、都市労働者は困窮する[154][151][152]。この状況に社会民主党とスイス労働組合総同盟が主体となって、1916年からはデモとストライキが頻発する[155][156]。1918年11月には、ゼネストが起こされ、政府によって鎮圧された[156]。社民党は、ゼネスト時比例代表選挙制の導入を掲げていた[158]。当時のスイスでは、単純多数決選挙であり、これは選挙区において、ある党が過半数を獲得した場合は、その党が全議席を獲得するという方式であり、これでは得票数が僅差であっても、特定の選挙区では特定の政党が選出されるという問題があった[151]。そのため、社会民主党は比例代表選挙にこだわっていた[150]。ゼネストは失敗に終わったものの、比例代表制選挙は導入が決定し、1919年に比例代表選挙に基づく国民議会選挙が行われた[154][156]。選挙の結果、当時第一党だった自由民主党の牙城が崩れ、国民議会の議席数では、自由民主党が189議席中101から60に減らし、社会民主党は20議席から40議席へと躍進した[154][159][156]

1929年10月24日、世界恐慌が始まり、スイスでも1931年になると影響が及んだ[160][161][152]。失業者は増大し、1930年に0.4 %だった失業率は、1936年には4.8 %に悪化する[157]。なお、世界恐慌によって苦しんでいた最中の1934年には、銀行法が成立し、スイスの銀行では守秘義務が重要視され、外国の資産家の金を呼び込んだ[160][157][159]。ドイツでは1933年にヒトラー政権が樹立したこと、社会不安が横行したことから、スイスでは極右団体が数多く設立された[161][157]。極右の団体は、戦線と言う名称の団体が多かったため、これは諸戦線の春と呼ばれた[161][157]

1935年、イタリアはエチオピアを侵略し(第二次エチオピア戦争)、1938年にはドイツがオーストリアを併合する(アンシュルス[157][161]。これらの動きに対して、国際連盟は非難したものの、スイスはドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏の住民に配慮し、これらを承認し、経済制裁も実行せず、国際連盟はうまく機能しなかった[157][162]

第二次世界大戦

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1939年9月1日、ドイツがポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が勃発する[163]。スイスは中立を宣言し、アンリ・ギザン将軍が総司令官に就任し、フランスとドイツ双方の関係維持に注意を払った[164]。スイスでは総動員体制が取られ、総計43万人の兵士が任務に就いた[165][164]。だが、フランスは早々にドイツに降伏し、スイスでは衝撃が走り、スイス国内では枢軸国支持の声が高まる[164]。だが、ギザンは万が一の際には、アルプスの要塞に立てこもった上での徹底抗戦を呼びかけた[165][162]。ドイツでは、スイス侵略のためのタンネンバウム作戦があったが、ドイツはイタリアへとつながるスイスの鉄道を利用していたため、スイスを侵略するメリットが無かった[165][163]。スイスは、第二次世界大戦中国家としては中立を宣言していたが、武装親衛隊に参加した者もおり、彼らは戦後軍法会議に掛けられた者もいた[165][164]

第二次世界大戦中のスイスの政策

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スイスは、ドイツと盛んに貿易を行い、12億スイス・フラン相当の金塊を購入していたが、これには略奪品が多数含まれていた[165][166]。つまり、スイスはドイツのマネーロンダリングを行っていたということになる[166]。難民については寛容に受け入れていたが、ユダヤ人は例外で、ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に対して、当時の司法長官は「ボートは満員だ。」と言い放ち、こうして追い返したユダヤ人は2万人に上った[165][166]。ただ、中には、ユダヤ人の入国許可証を偽装して、数百人又は3600人のユダヤ人を助けたパウル・グリュニンガー英語版と言う人物もいた[165][167][166]。だが、パウルは、この不正が露見してしまい、処罰される[166]。彼は、戦後の1993年に復権を果たした[166]

スイスは第二次世界大戦では中立を維持したものの、全くの無傷であったわけではなく、スイス領空は度々枢軸軍並びに連合国軍に領空侵犯され、最終的には両国の飛行機23機を撃墜したこともあった[168]。また、シャフハウゼンとジュネーヴもアメリカによって爆撃され、シャフハウゼンでは40人の死者が出た[168]

第二次世界大戦後から冷戦終結まで

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1945年5月に第二次世界大戦が終結後、スイスは戦時中のドイツとの経済活動に対して責任を取るようになる[169]。スイスはドイツが略奪した金塊については、1946年に2億5千万スイス・フランを、関係各国の中央銀行に支払った[169][166]。世界大戦中のスイスは、人道配慮並びに国際協調に欠けていたことから、スイスでは、中立を維持しつつも国際貢献を心掛けるようになる[169]。スイスは戦後間もない時点での国際連合への加盟は控えたが、戦争被害者に対する義援金の拠出、難民受け入れの拡大を行い、国連のヨーロッパ本部や関係諸機関をジュネーヴに誘致した[169]冷戦中のスイスは、東西両陣営と良好な関係を構築し、1946年にはソ連を承認する[170]。スイスは、1948年にOEECに加盟し、GATTにも1966年に加盟する[169]。一方、ハンガリー動乱チェコ事件発生後も、共産圏諸国との貿易を拡大し、1950年には中華人民共和国を承認した[169]。スイスでは、核武装の是非が議論されたが、1964年には、軍部が核武装可能な戦闘機を予算超過状態で購入を試みた事件が起こる[169]。これをミラージュ事件と言う[169]。結局スイスは、核拡散防止条約に調印した[169]。なお、核戦争勃発に備えて、スイスでは民間用の核シェルターの設置が進んだ[169]

スイスでは、第二次世界大戦中に挙国一致内閣が形成されており、1943年の国民議会選挙では、社会民主党が第一党となり、閣僚入りを果たし、内閣ではこれによって全政党が閣僚となる[171]。急進民主党2名、保守人民党2名、農工市民党1名、社会民主党1名で構成された[171]。戦後もこの政党政府が継続し、政府が緊急政令を度々発令し、独裁的な政治を行った[171]。これに対して、スイス国民は直接民主政への回帰を求め、イニシアティヴが提起され、1949年9月、国民投票によって可決された[171]

1959年になると、連邦政府の閣僚7人のうち4人が引退し、内閣の構成は、急進民主党2名、キリスト教社会人民党2名、社会民主党2名、農工市民党1名で構成されるようになる[171]。この比率、2:2:2:1は魔法の公式と呼ばれ、2003年まで維持されることとなった[172][173][174]

ジュラは、ベルン州に所属していたが、1945年以降、ジュラの住民はベルンからの独立を要求し、中にはテロ行為に走って訴える者もいた[175]。ジュラではジュラ北部ではカトリックが信仰され、ベルン州では改革派が多かったため、宗派問題が起きていた[176][174]。そして、1978年にジュラの扱いを巡り国民投票が行われ、ジュラ北部は1979年に23番目の州として成立する[172][174]

スイスは保守的で、女性の参政権の実現は非常に遅く、1918年に起こされたゼネストで女性の参政権が要求されていたものの、幾度かイニシアティヴが提起されていたが実現しなかった[173]。スイス以外のヨーロッパ諸国ではこの時点でも女性参政権が実現している国もあった[174]。スイスでは、州レベルの女性参政権については、1959年時点で実現した州もあった[173]。結局女性の参政権が認められたのは、1971年になってからで、1981年に男女同権が連邦憲法に制定された[173][172]。婚姻上の差別が無くなったのは1985年になってからである[172]。1984年には、エリーザベト・コップが初の連邦政府の女性閣僚に就任する[177]

1990年代以降のスイス

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1953年スイスジュネーヴで開催された世界ユダヤ人会議の様子

1995年、世界ユダヤ人会議は、第二次世界大戦中のユダヤ人財産の接収について調査していた[178][179]。そして、その中でスイスの銀行を問題視した[178][179]。第二次世界大戦中にドイツから受け取った金塊やユダヤ人の口座問題の解明を要求する[178][179]。ユダヤ人の口座問題について補足する。ホロコーストによって落命したユダヤ人の一部は、スイスの銀行に仮名で資産を預け、死後遺族がスイスの銀行に預けた資産の調査を要求したが、許可されず、資産の返還がされなかったという問題である[166]。スイスでのユダヤ人差別は根強かったが、1995年5月の戦後50周年記念式典では、スイス側はユダヤ人の亡命を拒否したことに対しての謝罪を行った[166]。1996年から世界ユダヤ人会議の要求に応じて、調査のため独立委員会を設置し、2001年に最終報告書を提出した[178][179]。スイスの三大銀行であるUBSSBCクレディ・スイスは1998年、財産返還訴訟に対して、12億5千万ドルを支払い和解した[179][178][180]

21世紀以降のスイスは、国際機関や協定については、加盟したものもあれば、そうでないものもある。スイスはEFTAを結成したが、EUには加盟していない[172][181]。だが、2005年には、シェンゲン協定ダブリン規約への参加が国民投票で可決され、2008年から実施されている[172]国連についても、1986年から国民投票によって加盟の是非が問われたが、否決され、2002年になって国連加盟を果たした[178]

スイスでは、1959年から、前述した魔法の公式と言われる全政党が同一比率で閣僚を輩出するという状態が続いていたが、1990年代から国民党が躍進し、1999年の選挙では、第二党に躍り出て、2003年の選挙でついに第一党となった[182][175]。キリスト教民主党が獲得していた閣僚の座を獲得した[182][175]。国民党は排外主義政策を国民に訴え続け、2009年には、スイス内のイスラム教の礼拝施設の建設禁止のイニシアティヴが起こされ、賛成多数によって可決される[175]

スイスの銀行は秘匿性が極めて高かったが、これは独裁国家や犯罪組織の財産隠匿、企業の脱税のために悪用された[179]。そのため、2010年代になると、口座の不正利用が行われている場合は情報公開に応じるようになり、その秘匿性は絶対的なものではなくなる[179]

スイスの中立政策が維持されるのは、国民皆兵によって維持されているのだが、1980年代になると、兵役拒否者が増加し、国民皆兵に反対するイニシアティヴが展開され、1992年には、良心的兵役拒否者に対する代替役務制度が国民投票で定められ、1996年に発効した[172][183]。その後、2009年になると、徴兵の際の、信条確認の規定が廃止された[172]

年表

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  • 紀元前6万年頃 - スイス東部のザンクト・ガレンにネアンデルタール人が洞窟に住む[3]
  • 紀元前4300年頃 - ヌーシャテル湖周辺に人々が住むようになる[1]
  • 紀元前2500年頃 - 青銅器時代を迎える[1]
  • 紀元前8世紀中頃 - 鉄器時代を迎える[4]。鉄器時代以降ケルト人がスイスにやってくる[5]
  • 紀元前200年頃から紀元前100年 - スイス中部台地にヘルヴェティア族が入植する[6]
  • 紀元前58年 - ヘルウェティイ族がカエサルのローマに戦争を仕掛けるが敗北する[8]
  • 紀元前45年から紀元前44年 - カエサルによって、レマン湖西岸にあるニヨンに植民都市が建設される[11]
  • 紀元前15年 - アウグストゥスが現在のスイス全土を支配下に置く[10]
  • 350年から400年 - キリスト教が受容されスイスの各地に教会が建設される[17]
  • 401年 - ローマがスイスを撤退する[9]
  • 443年 - 古ブルグント王国が成立し、フランス語圏が形成される[19]
  • 843年 - ヴェルダン条約によって、フランク王国が東フランク王国、中部フランク王国、西フランク王国に分割される[18]
  • 870年 - メルセン条約によって、中部フランク王国の一部が東西フランク王国に編入される[23]
  • 962年 - オットー1世が戴冠し、神聖ローマ帝国が成立する[27]
  • 1218年 - チューリッヒ、ベルン、ゾロトゥルンが自由都市となる[29]
  • 1231年 - ウーリが自由特許状を獲得する[34]
  • 1240年 - シュヴィーツが自由特許状を獲得する[36]
  • 1273年 - ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出される[34]
  • 1291年 - 原初同盟が成立する[35]
  • 1315年 - 原初同盟がモルガルテンの戦いでハプスブルクの軍に勝利する[37]。以降原初同盟に対して加盟する邦が増える。
  • 1332年から1353年 - 原初同盟を中心として5つの同盟が締結され、八邦同盟が成立した[49]
  • 1436年 - 古チューリッヒ戦争が勃発し、チューリッヒとシュヴィーツが争う[61]。1450年に終戦し、チューリッヒは同盟に復帰[61]
  • 1474年 - ブルゴーニュ戦争が勃発し、盟約者団はシャルル突進公を戦死させる[64]
  • 1499年 - シュヴァーベン戦争が勃発し、神聖ローマ帝国から事実上独立する[68]
  • 1513年 - 13邦体制が成立する[50]
  • 1519年 - チューリッヒを拠点として宗教改革が始まる[75]
  • 1529年 - 第一次カッペル戦争が勃発するが、武力衝突は直前で回避される[83]
  • 1531年 - 第二次カッペル戦争、改革派が敗北し、以降スイスではカトリックが優勢となる[84]
  • 1648年 - 三十年戦争終結後のヴェストファーレン条約締結により、スイスが神聖ローマ帝国から完全に独立する[93]
  • 1656年 - 第一次フィルメルゲン戦争勃発、改革派が再び敗北する[96]
  • 1712年 - 第二次フィルメルゲン戦争勃発、改革派が勝利し、スイスの宗教戦争は終結[96]
  • 1792年 - 1789年に開始されたフランス革命によって、スイスの傭兵が多数死亡、のちに瀕死のライオン像建立により哀悼された[103]
  • 1798年 - ヘルヴェティア共和国成立[106]
  • 1803年 - ナポレオンによる調停法採択により、ヘルヴェティア共和国崩壊[112]
  • 1814年 - ウィーン会議開催、会議中にナポレオンが復権し、スイスは反ナポレオンの姿勢を鮮明にしたことにより、永世中立の地位を獲得[114][113]。22邦体制になる[109]
  • 1833年 - バーゼルが、バーゼル=シュタット準州とバーゼル=ラント準州に分離する[120]
  • 1847年 - 分離同盟戦争勃発、盟約者団側がカトリック諸州に勝利する[127]
  • 1848年 - 連邦憲法が成立する[121]
  • 1914年 - 第一次世界大戦が勃発し、スイスは中立を維持[151]
  • 1935年、1938年 - 1935年にイタリアがエチオピアを侵略、1938年にドイツがオーストリアを併合[161][157]。スイスは制裁に不参加[161][157]
  • 1939年 - 第二次世界大戦勃発、スイスは中立を宣言[163]
  • 1946年 - スイス、ソ連を承認する[170]
  • 1948年 - OEECに加盟[169]
  • 1969年 - 核拡散防止条約調印[169]
  • 1966年 - GATTに加盟[169]
  • 1971年 - 連邦での女性参政権が認められる[148]
  • 1978年 - ベルンのジュラ北部が、ジュラ州として成立する[175]
  • 1996年 - 第二次世界大戦中のスイスのユダヤ人の扱いについて調査を開始し、1998年に賠償請求に応じ和解する[179]
  • 2002年 - 国民投票の結果、国連加盟が決定する[184]

脚注

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[脚注の使い方]

注釈

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  1. ^そのため、イタリア、ドイツ、フランスの歴史が混在している
  2. ^カエサルの騎兵植民地という意味[10]
  3. ^これによって現在のイタリアは東ゴート族が支配する[18]
  4. ^以降盟約者団と言う記載はスイスと同義である
  5. ^実際の独立は200年近く後の事である[50]
  6. ^内訳は旧13邦に加えて、グラウビュンデン、ザンクト・ガレン、アールガウ、トゥールガウ、ティチーノ、ヴォー[111][109]。この時点ではジュラ、ジュネーヴ、ヴァレーはスイスの州に含まれていない[109][110]
  7. ^7州は、チューリッヒ、ベルン、ルツェルン、ゾロトゥルン、ザンクト・ガレン、アールガウ、トゥールガウ[121][122]
  8. ^分離同盟を結成した州は、原初三邦のウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンに加え、バーゼル、ヌーシャテル、ヴォーである[121][122]
  9. ^だが、個人レベルでの傭兵契約は、1927年まで容認された[131]。また、バチカン市国の衛兵は数少ない例外として認められている[65]
  10. ^1848年憲法では法律に対してではなく、憲法改正に当たってのレファレンダムが認められていたという点で内容が違うものである

出典

[編集]
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  2. ^abcdefghi森田 1998, pp. 13–17.
  3. ^abcdefgh踊 2011, pp. 7–9.
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  5. ^abcdefghijklmno森田 2000, pp. 4–8.
  6. ^abナッペイ 2014, pp. 10–11.
  7. ^abホーフ 1997, pp. 5–8.
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参考文献

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