| この項目は訃報が伝えられた直後の人物について扱っています。 その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。 2025年10月25日 (土) 00:31 (UTC)貼付。(表示終了予定:2025年11月1日 (土) 00:31 (UTC)) | |
称号:王太后
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| 敬称 | 陛下 Her Majesty the Queen Mother สมเด็จพระบรมราชชนนีพันปีหลวง |
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シリキット(タイ語:สิริกิติ์、1932年8月12日 -2025年10月24日)は、タイ王国の王太后。国王ラーマ9世の王妃であった。現国王・ラーマ10世の母。
駐仏陸軍大将・チャンタブリースラマート王子の娘。ラーマ9世と同じく、ラーマ5世を祖父とする。タイではラーマ9世(プーミポン・アドゥンヤデート前国王)と共に国民から絶大の人気が寄せられていた。
1932年8月12日、バンコクで誕生。4歳になった1936年、クイーンズスクールの幼稚園に通った。当時、タイの政治情勢は立憲革命によって立憲君主制への移行を終えていた。しかし、世界情勢の激変に伴い、バンコクは何度か空襲を受けた。このためシリキットは聖フランシスコ・ザビエル修道院学校に転校し[1]、そこでピアノレッスンを始めた。第二次世界大戦後の1946年、父親の都合でイギリスに移住し、シリキットは13歳でグレード3を卒業した。留学中のシリキットは英語とフランス語を学び、教師とのピアノレッスンも続けてきた。まもなく、父親は公務でフランスに移住し、パリにある有名な音楽学校でシリキットの勉強を続けようとしていた。
フランス留学中のシリキットは、学業のために滞在していたプーミポン・アドゥンヤデート国王と出会う。音楽と芸術に興味があった国王の頼みでピアノ演奏を行った。
1949年7月19日、プーミポン・アドゥンヤデート国王との婚約が発表され、1950年に結婚。モムラーチャウォン・シリキット・キティヤーコーン (มรว. สิริกิติ์ กิติยากร) が以前の正式名称であったが、1954年プーミポン国王が仏教界に出家して一時的に公務を除いたので摂政となり、ソムデットプラナーンチャーオ・シリキット・プラボロムラーチニーナート (
สมเด็จพระนางเจ้า สิริกิติ์ พระบรมราชินีนาถ[ヘルプ/ファイル]) が正式名称となった。今でもその呼称が正式名称として使われている。
なお一部日本語メディアに使われる「シリキ」という表記は原語のสิริกิติ์ のติ์ の文字に無音化記号が使われているためであるが、この場合は発音するので「シリキット」の表記が正しい。
〈歴代の呼称〉
- シリキット・キティヤコーン
(1932年8月12日〜1950年4月28日) - シリキット妃
(1950年4月28日〜1950年5月5日) - シリキット王妃
(1950年5月5日〜1956年12月5日) - シリキット(摂政)王妃
(1956年12月5日〜2016年10月13日) - シリキット王太后
(2016年10月13日〜2025年10月24日)
1954年から崩御するまでタイ赤十字の総裁に在任した。
プーミポン・アドゥンヤデート国王がよく行われていた地方視察にも 積極的に足を運び、いつも笑顔で気安く振る舞う王妃の姿には、国民からの人気は、高かった。
誕生日である8月12日は国内で祝日に指定されており、また、タイにおける「母の日」でもある。
日本とも関係が深く、1963年5月にプーミポン・アドゥンヤデート国王と共に日本を公式訪問した。この訪問とは別に、1981年5月と1993年4月、1997年9月に日本を非公式訪問している。
ロシア訪問において(2007年)また、2011年の東日本大地震のときには国王とともに2600万円の寄付をした。王妃の孫にあたるプム・ジェンセンは、2004年のスマトラ島沖地震で亡くなっており、その際、日本が復興支援に力を尽くした恩返しという意味合いのもとで寄付した。
以下の記念紙幣で肖像が使用されている。
2012年7月21日の朝、王妃が宮殿内で散歩していたところ、急に目まいがしたため、精密検査を受けた。診断結果は、脳の血流不全で、意識はしっかりしており言語障害もなかったが、しばらくの間は大事をとって静養すると発表された。3週間後の王妃80歳の誕生日式典には欠席し、同年12月5日のプーミポン・アドゥンヤデート国王85歳の誕生日式典も欠席。療養生活に入って以降は表舞台から遠ざかった[2]。
2013年8月1日、プーミポン・アドゥンヤデート国王と共に退院し、 国民からは喜びの声で祝福された。
2014年3月には左目の白内障の手術を受けた。
2015年5月からバンコクのタイ国立シリラート病院に入院した。その後プーミポン・アドゥンヤデート国王と共に退院した際、王妃が通る道は人で埋め尽くされた。久しぶりに国民に姿を見せた[3][4]。
2016年4月16日、熊本地震が起きた際、国王と王妃は天皇宛てに「陛下と日本の人々に心からお悔やみを申し上げたい」と記した書簡を送った。
2016年7月には肺炎と血液感染でバンコクのチュラロンコーン王記念病院(英語版)に搬送され、治療を受けた[4]。
2016年10月13日、プーミポン・アドゥンヤデート国王が崩御。明仁天皇はプーミポン・アドゥンヤデート国王崩御に際して、シリキット王妃とタイ政府に弔電を送った。
2016年11月29日、王室当局は肺炎で入院していた王妃が退院し、宮殿に戻ったと発表された。
2017年3月、明仁天皇はベトナム訪問の帰途、タイに立ち寄り、プーミポン・アドゥンヤデート国王の遺体安置所を訪問した。このとき、シリキット王妃とは対面していない。
85歳の誕生日を迎えた2017年8月12日に公開された写真には、白髪になった当時の王妃の姿が写っていた[5]。
2017年10月26日から行われたプーミポン・アドゥンヤデート国王の葬儀には出席していない。
2025年10月24日午後9時21分(現地時刻)、入院先のチュラロンコーン王記念病院に於いて崩御[6]。崩御の1週間前から敗血症に罹患していたという[7]。93歳没。
ラーマ9世(プーミポン・アドゥンヤデート)国王との間に1男3女の4人の子女がいる。
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