サーサーン朝 𐭠𐭩𐭥𐭠𐭭𐭱𐭲𐭥𐭩620年頃のサーサーン朝の最大版図 サーサーン朝 (サーサーンちょう、中期ペルシア語 :𐭠𐭩𐭥𐭠𐭭𐭱𐭲𐭥𐭩 Ērānšahr エーラーンシャフル 「イラン国」 )は、イラン高原 ・メソポタミア などを支配したイラン系 帝国 (226年 -651年 )。首都はクテシフォン (現在のイラク )。ササン朝 、ササン朝ペルシア とも呼ばれる。
サーサーン朝は、数世紀前のアケメネス朝 と同じくイラン高原のパールス から勃興した。その支配領域はエーラーンシャフル (イラン国 )と呼ばれ、おおよそ小アジア 東部、アルメニア からアム川 西岸、現在のアフガニスタン とトルクメニスタン 、果てにウズベキスタン 周辺まで及んだ。最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸(エジプト を含む)からパキスタン まで、そしてアラビア 南部の一部からコーカサス と中央アジア まで広がっていた。
始祖アルダシール1世 がゾロアスター教 の神官 階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったものの王家のサーサーン家 はゾロアスター教と強い結びつきを持っていた。イスラーム共同体 によって滅亡した後はペーローズ3世 ら王族は軍事支援を求めて中国の唐 王朝に逃れ、その庇護のもと亡命政府 を組織した[ 1] 。
サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており[ 2] 、多くの点でイスラーム共同体による征服 とその後のイスラーム 化の前の古代イラン文化の最盛期であった。サーサーン朝は多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。サーサーン朝の文化的影響力は、領土の境界をはるかに超えて西ヨーロッパ [ 3] 、アフリカ [ 4] 、中国 、インド [ 5] などに広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた[ 6] 。ペルシア文化はイスラーム文化の多くの基礎となり、イスラーム世界 全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた[ 7] 。
この国は公式にはイラン国 (中期ペルシア語 :𐭠𐭩𐭥𐭠𐭭𐭱𐭲𐭥𐭩 Ērānšahr 、パルティア語 :𐭀𐭓𐭉𐭀𐭍𐭇𐭔𐭕𐭓 Aryānxšahr 、ギリシア語 :Ἀριανῶν ἔθνος Arianōn éthnos )として知られていた。この用語は、王が「朕は~イラン国の主なり(中期ペルシア語 :an... Ērānšahr xwadāy hēm 、パルティア語 :az... Aryānxšahr xwadāy ahēm 、ギリシア語 :ἐγώ... τοῦ Ἀριανῶν ἔθνους δεσπότης εἰμῐ́ egō... toû Arianôn éthnous despótēs eimĭ́ )」と宣言するザラスシュトラのカアバのシャープール1世の碑文 (英語版 ) で初めて確認されている[ 8] 。
日本語ではしばしばササン朝 、ササン朝ペルシア 、ササン朝ペルシャ 、イラン帝国 、第2ペルシア帝国 とも呼ばれる[ 9] 。より一般的には、王朝がサーサーン にちなんで名付けられたという事実のために、歴史的・学術的な情報源でサーサーン帝国 として知られている。単にペルシア帝国 またはペルシャ帝国 といった場合は、この国か、数世紀前のアケメネス朝を指すことが多い。
サーサーン朝の起源は不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世 だが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられるサーサーンが何者なのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いた証拠は現在まで確認されておらず、サーサーンに関する伝説も、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族とするもの、神官とするものなどがある。アルダシール1世の父パーパク はパールスの支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、パーパクは間もなくパルティア と戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に収まった。そしてパーパクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として興すことになる。
アルダシール1世は224年 に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国 などイラン高原諸国を次々制圧した。同年4月にホルミズダガンの戦い でパルティア王アルタバノス4世 と戦って勝利を収め、「諸王の王 」というパルティア王の称号を引き継いで使用した。この勝利によって、パルティアの大貴族 がアルダシール1世の覇権を承認した。230年 にはメソポタミア 全域を傘下に納め、セウェルス朝 ローマ帝国 の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝 ・トゥーラーン の王たちとの戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権 を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。
降伏するウァレリアヌス らと騎乗したシャープール1世(ナクシェ・ロスタム の磨崖像より) 以後、サーサーン朝とローマ帝国(後に東ローマ帝国 )はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世 は、対ローマ戦で戦果を挙げた。244年 、シリア の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビス (英語版 ) などの都市を奪回すべく、ゴルディアヌス3世 がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世は、マッシナの戦い でゴルディアヌス3世を戦死させた。そして新たに帝位に就いたピリップス・アラブス との和平において、莫大な賠償金を獲得した。後にウァレリアヌス が再度サーサーン朝と戦端を開いたが、シャープール1世は260年 のエデッサの戦い でウァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は、馬上の自分に跪いて命乞いをするウァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、王号を従来の「イラン人 の諸王の王(中期ペルシア語 :šāhān šāh ī Ērān )」から「イラン人と非イラン人の諸王の王 (中期ペルシア語 :šāhān šāh ī Ērān ud Anērān )」とするようになった。
ナクシェ・ロスタムの「ザラスシュトラのカアバ (英語版 ) 」と呼ばれる遺跡。建物の用途は不明だが、下部壁面にカルティールによって書かれた長大な中期ペルシア語碑文がある。 シャープール1世の崩御後、長男ホルミズド1世 (ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく崩御したため次男バハラーム1世 が即位した。バハラームの治世では、シャープール1世の時代に有力な神官となっていたカルティール (キルデール)が影響力を大幅に拡大した。絶大な権勢を振るった彼は、王と同じように各地に碑文を残し、マニ教 ・仏教 ・キリスト教 などの排斥を進めた。マニ教の経典によれば、カルティールは教祖マニ の処刑に関わっていた。
バハラーム1世の崩御後、その弟ナルセ と、息子バハラーム2世 との間で不穏な気配が流れた。バハラーム1世の生前に既にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。しかし、カルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーン の反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の崩御後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセは政変を起こし王位についた。ナルセ1世は、メソポタミア西部やその他の州の奪回を目指してローマ軍 と戦い、西メソポタミアを奪回した一方でアルメニアを喪失した。両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。
ユリアヌスの東方遠征(363年 ) その後、王位はシャープール2世 に引き継がれた。シャープール2世は胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝史上最長の在位期間を持つ王となった。少年時代は貴族たちの傀儡として過ごしたが、長じると実権を握った。シャープール2世はスーサ の反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊した。また前王の崩御後に領内に侵入していたアラブ人 を撃退し、アラビア半島 奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦い (英語版 ) で侵攻してきたユリアヌス を戦死させ、アルメニアの支配権を握った。東方のトゥーラーンではフン族 の一派と思われる集団が侵入したが、シャープール2世は彼らを同盟者とすることに成功した。
対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治では数多くの都市を再建し、各地に要塞・城壁を築いて外敵の侵入に備えた。またナルセ1世以来の宗教寛容策を捨て、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教・マニ教への圧力を強めた。こうしてシャープール2世の治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。
ターク・イ・ブスタン 小洞のシャープール3世 (左)とその父シャープール2世(右)の像。像の左上、右上に各々の像主について中期ペルシア語碑文が書かれている。バハラーム4世 の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラーム4世は彼らと同盟を結んだ。バハラーム4世の崩御後、ヤズデギルド1世 が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年 にセレウキア=クテシフォン公会議 (英語版 ) が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。
ヤズデギルド1世の崩御後、再び王位継承の争いが起き、短命な王が続いた。その後、バハラーム5世 が即位した。バハラーム5世は、ゾロアスター教神官団の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったため、多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡って、サーサーン朝とテオドシウス朝 東ローマ帝国の間で交渉が持たれたが、決裂した。422年 にローマ・サーサーン戦争 (英語版 ) に敗北し、領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。
インド・エフタルのナプキ・マルカ (英語版 ) 王(475年 - 576年)の貨幣用合金 ドラクマ 425年 、東方からエフタル が侵入した。バハラーム5世はこれを抑え、サーサーン朝は中央アジア方面で勢力を拡大したが、以後エフタルがサーサーン朝の悩みの種となる。428年 にはアルメニア王国 が消滅し、サーサーン朝領アルメニア となった。
バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世 は、東ローマ皇帝テオドシウス2世 と紛争(東ローマ・サーサーン戦争 (440年) )の後、441年 に相互不可侵の約定を結んだ。443年 にキダーラ朝 との戦いを始め、450年 に勝利を納めた。国内では、アルメニア人のキリスト教徒にゾロアスター教への改宗を迫り、動乱が発生した。東ローマ帝国はアルメニア人を支援したが、451年 にヤズデギルド2世がアヴァライルの戦い (英語版 ) で勝利し、キリスト教徒の煽動者を処刑して支配を固めた。
ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく457年 に世を去った。彼の2人の息子、ホルミズドとペーローズ1世 は王位を巡って激しく争い、ペーローズ1世はエフタルの支援で王位に就いた。
458年 、サーサーン朝領アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むマミコニアン家 (英語版 ) の王女が、夫ワズゲーン (英語版 ) に殺害された。サーサーン朝はエフタルの攻撃を受け東方に兵を振り向けていたため、イベリア王国 の王ヴァフタング1世 がこの争いに介入してワズゲーンも殺された。ペーローズ1世はアードゥル・グシュナースプ (英語版 ) を派遣したが、ヴァハン・マミコニアン (英語版 ) が蜂起してヴァフタングに合流。アードゥル・グシュナースプは再攻撃を試みたが、敗れて殺された。
ペーローズ1世は、エフタルの影響力を排除すべく469年 にエフタルを攻めたが、敗れて捕虜となり、息子のカワードを人質に差し出しエフタルに莫大な貢納をおこなう盟約を結んだ。旱魃 により財政事情は逼迫し、484年 に再度エフタルを攻めたが戦死した(ヘラートの戦い )。485年 、ヴァハン・マミコニアンがアルメニアのマルズバーン に指名される。
488年、人質に出ていたカワード1世 がエフタルの庇護の下で帰国し、王位に就いた。しかし、マズダク教 の扱いを巡り貴族たちと対立したため、幽閉されて廃位された。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位した。同年、ネストリウス派 総主教がセレウキア=クテシフォン (英語版 ) に立てられた。カワード1世は、王位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世 とした。
502年 、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し(アナスタシア戦争 )、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。526年 に、イベリア戦争 (526年 -532年 )が、東ローマ・ラフム朝 (英語版 ) 連合軍との間で行なわれ、530年 にはダラの戦い やサタラの戦い (英語版 ) が、531年にはカッリニクムの戦い (英語版 ) が起こった。
カワード1世の後継者、ホスロー1世の治世がサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父王の政策を継承して大貴族の影響力の排除を進め、またマズダク教制して社会秩序を回復させ、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避するため、軍備費の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方で宗教政策にも力を入れ、末端にも聖火 の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。
一方、東ローマ帝国ではキリスト教学 の発展に伴う異教排除が進み、529年 にはユスティニアヌス1世 によってアテネ のアカデメイア が閉鎖された。これによって失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスロー1世は彼らのための施設を作って受け入れた。それ以前に、エジプト でも415年 にヒュパティア がキリスト教徒により殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命した。この結果、ギリシア語 とラテン語 の文献が多数翻訳された。
ホスロー1世の狩猟図を描いた銀盤 ホスロー1世からホスロー2世 の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『アヴェスター 』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化され、この注釈など各種中期ペルシア語文書(『ヤシュト』)もこの時期に執筆された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字 を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献の基礎はこの時期に作成されたと考えられる。現存しないが、後の『シャー・ナーメ 』の前身、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ (英語版 ) (Χwadāy Nāmag )』は、この頃に編纂されたと思われる[ 10] 。
タバリー などの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(主にホスロー2世の時代にかけて)天文・医学・自然科学などに関する大量の中期ペルシア語訳のギリシア諸文献が宮廷図書館に収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット 諸文献も積極的に移入・翻訳されたという(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェス がインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられている中期ペルシア語のシャトランジ の歴史物語『シャトランジ解き明かしの書 (ペルシア語版 ) (チャトラング・ナーマグ、Čatrang Nāmag )』もホスロー1世と彼に仕えた大臣ウズルグミフル・イー・ボーフタガーン (英語版 ) (Wuzurgmihr ī Bōxtagān )の話である)。
5世紀前後から現在のオマーン やイエメン といったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、メソポタミア南部のラフム朝などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置いた。
ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。ユスティニアヌス朝 との間に50年間の休戦を結ぶと、558年 に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥 西方(現イリ )の室点蜜 と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案だったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが、588年 の第1次ペルシア・テュルク戦争 (英語版 ) で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土拡張は一部に留まった。569年 から東ローマ帝国と西突厥 は同盟関係となっていたことから、東ローマ・サーサーン戦争 (英語版 ) を引き起こした。
600年前後のサーサーン朝周辺 ホスロー1世の孫ホスロー2世は即位直後に、東方でバハラーム・チョービン の反乱 が発生したため東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪 された。東ローマ皇帝マウリキウス の援助で反乱を鎮圧したが、602年 に東ローマ帝国における反乱でマウリキウスが殺されフォカス が帝位を僭称 すると、仇討を掲げて東ローマ・サーサーン戦争 を開始した。フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年 に政変で処刑され、その後ヘラクレイオス が皇帝に即位してヘラクレイオス朝 を興した。
サーサーン朝は連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、613年 にはシリアのダマスカス 、アンティオキア (アンティオキアの戦い (英語版 ) )、翌614年 には聖地 エルサレム を占領した(エルサレム包囲戦 )。この時エルサレムから「真なる十字架 」を持ち帰ったという。
615年 にエジプト征服 が始まり、619年 に第2次ペルシア・テュルク戦争 (英語版 ) が起こった。621年 にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、小アジア も占領して、アケメネス朝旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープル も包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴ へ逃亡を計ろうとした。
しかし、622年 にカッパドキアの戦い (英語版 ) でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海 東南部沿岸から直接中枢部メソポタミアへ侵入した。サーサーン朝はアヴァール と共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノープルを包囲し、呼応して第3次ペルシア・テュルク戦争 も起こったが、撃退される(コンスタンティノープル包囲戦 )。
627年 に、サーサーン朝軍はメソポタミアに侵攻したヘラクレイオス親征の東ローマ軍にニネヴェの戦い で敗北し、クテシフォン近郊まで進撃された。ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世 に裏切られ殺された。
ホスロー2世を屈服させるヘラクレイオス(十字架に描かれた七宝製画像、12世紀後半) カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なく病死して王位継承の内戦が発生した(サーサーン内乱 )。長期に渡る混乱の末に、最後の王ヤズデギルド3世 が即位した。しかしサーサーン朝の国力は内乱に加え、メソポタミア南部におけるディジュラ川 ・フラート川 とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗した。そこに新興の宗教イスラーム が勃興し、サーサーン朝は最期の時を迎えることになる。
アラビア半島に勃興したイスラーム共同体 は、勢力を拡大し東ローマ・サーサーン朝領へ侵入した。633年 、ハーリド・イブン=アル=ワリード 率いるイスラーム軍が、メソポタミア南部のサワード地方に侵攻(イスラーム共同体によるペルシア征服 )した。現地のサーサーン朝軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。翌634年 にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラーム軍は統率を失い、進撃は停滞した。ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるメソポタミア防衛は成功するかに見えた[ 11] 。しかし、同年のアブー=バクル の死によるカリフ (正統カリフ )のウマル・イブン・ハッターブ への交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラーム軍の指揮系統は一新された。636年 のカーディシーヤの戦い で敗北し、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は逃亡、サーサーン朝領では飢饉・疫病が蔓延したという。クテシフォン北東のジャルーラーウで、ザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラーム軍の攻撃を受け大敗した。
641年 にヤズデギルド3世はライ 、クーミス (英語版 ) 、エスファハーン 、ハマダーン などイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市のバスラ 、クーファ から軍勢を招集する。
642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝軍とイスラーム軍は会戦し、サーサーン朝軍は敗れた。敗戦後はエスファハーンからパールス州のエスタフル (英語版 ) へ逃れたが、エスファハーンも643年 から644年 にかけてイスラーム軍に制圧された。ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーン やスィースターン へ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり、ホラーサーンのメルヴ へ逃れた。651年、ヤズデギルド3世はメルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊した。東方に遠征駐屯していた王子ペーローズ とその軍は、その地に留まり反撃の機会を窺った。さらに唐 の助勢を求め、自ら長安 まで赴いて亡命政府 を設立したが、成功することはなかった。『旧唐書 』には大暦6年(771年)に唐に真珠 を献上した記録があり、この頃までは亡命政府は活動していたようである。
サーサーン朝の滅亡は、ムスリム にとってはイスラーム共同体が広大な帝国へ発展する契機となった栄光の歴史として記憶された。
後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝 などのイスラーム諸国 に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の王ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーがシーア派 第3代イマーム のフサイン の妻の1人となり、第4代イマームのアリー・ザイヌルアービディーン の生母となった、といったものやサファヴィー朝 の祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク (1252/ 3年 -1334年 )がサーサーン家の血を引いているなどの伝承が生まれた。
特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降もカスピ海 南岸の地域ではズィヤール朝 やマーザンダラーン のバーワンド朝 (英語版 ) (7世紀 -1349年 )などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持ったブワイフ朝 が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン 方面まで進出したイスラームの預言者ムハンマド の一族であるハーシム家 などの後にサイイド と呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。
大臣ウズルグミフルのために宴席を設ける公正なるアヌーシルワーンことホスロー1世(イルハン朝 時代の『シャー・ナーメ』の1写本、1330年 作成) サーサーン朝の歴史については、アッバース朝時代のウラマー であるタバリーがアラビア語 で著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が、現存する「通史」としては最古である。他には、サーサーン朝の歴代王が残した碑文群やマニ教文書、中期ペルシア語による行政文書などの史料群、中期ペルシア語・アルメニア語 ・シリア語 ・ギリシア語・ラテン語などの年代記・通貨などにより、歴史・実態・文化などが研究されている。
パルティア語やパフラヴィー文字碑文などはサーサーン朝草創期から存在しているが、現存するゾロアスター教文献などによると、古代イラン世界では文字は音声を物質化した賎しむべきものと見なされていたようで、古代からの伝承は神官(マギ )などが口伝で代々受継がれていくものとされていたという。その後、ホスロー1世の時代から世界中の知識を集積しようというイデオロギー的な動きが見られ、パフラヴィー文字を改良したアヴェスター文字の発明によりゾロアスター教文献書籍化の契機が生まれたと考えられている。これに関連して古代からサーサーン朝時代までの歴史も編纂する動きがあったようで、歴史書『フワダーイ・ナーマグ(Χwadāy Nāmag )』が製作されたと伝えられている。これがアッバース朝時代のタバリーなどのサーサーン朝史の原典となり、さらに後代のフェルドウスィー などが著した歴史叙事詩『シャー・ナーメ』のルーツとなった。
そのため、現在のイラン人にとってサーサーン朝が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、セレウコス朝 時代・パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態だった。過去への歴史的憧憬は、神話 時代を除くとペルシア文学 ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」(「不滅の魂」を意味する中期ペルシア語のアノーシャグ・ルワーン(anōšag ruwān) に由来するアラビア語の訛音)とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用した小アジア・イラン高原以東の地域では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他に、ホスロー2世を題材にしたニザーミー の『ホスローとシーリーン 』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。
サーサーン朝で育まれた行政組織や文化は、後のイスラーム時代にも多大な影響を残した。
サーサーン朝では、直径3cmの大型で薄い高純度の銀貨を用いた、1ドラクム銀貨を数多く発行した。図柄は共通しており、片面には王冠をかぶった王の横顔胸像と王名等を示す中期ペルシア語での銘文、片面には拝火檀並びに2名の守衛像と、発行地・発行年を示す中期ペルシア語銘文を記している。
三蔵法師玄奘はペルシア訪問の機会は無かったが、ペルシアの伝聞情報を得ていた。大唐西域記第11巻第20節には、波剌斯国(ペルシア国)の記録として、「良い馬・駱駝が多く、貨幣は大銀銭を使用する」と記載した。中国の方孔円形銅貨と比べると、サーサーン朝の1ドラクム銀貨は美麗であり巨大である。
著名な貨幣学者マイケル・ミッチナーが編纂した「東洋貨幣とその価値 古代・古典期の世界」には、1ドラクム銀貨を中心にサーサーン朝の貨幣473点を収録しているが、近隣諸国でもサーサーン朝に類似した貨幣を多く発行した。サーサーン朝で発行された銀貨 は、ソグド人 などの中央ユーラシア 社会における高額決済用の基軸通貨 としても尊重された。
ガラス器 や銀製品などの工芸品は、世界史上に残る工芸品である。7世紀の日本に渡来した文物は、正倉院 に今も収められている。またペルシア錦といわれる織物が成立した。
ホスロー2世時代に、絢爛豪華で洗練された宮廷料理が成立した。サーサーン朝滅亡後もアッバース朝の上流階級に引き継がれ、後には南アジア、中東、北アフリカにまで影響を及ぼした。記録に残っている料理には、ケバブ やブドウ の葉のドルマ が含まれている[ 12] 。
サーサーン朝時代は、西からキリスト教 (ネストリウス派 など)、東から仏教 が伝来した。サーサーン朝はインド 、クシャーナ朝、ローマ帝国(東ローマ帝国)、唐、突厥など当時の大国と係わりがあり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、キリスト教、ゾロアスター教 、仏教などの世界宗教を総合するマニ教 が誕生した。
サーサーン朝の国教
ズルワーン教 はゾロアスター教に関連する宗教。善と悪は時間の神ズルワーン から生まれたと説いた[ 13] 。
紀元前4世紀ごろの小アジア・シリア・メソポタミア一帯で信仰されていたとみられる。サーサーン朝成立から5世紀にかけてギリシア語・ラテン語・アルメニア語・シリア語・アラビア語などの外国語資料が豊富に残っている。また、マニ教の教祖マニ も最高神としてズルワーンに言及している。一方9~10世紀にかけてのゾロアスター教中期ペルシア語文献ではズルワーン教に関する資料が残されておらず、後世に伝わる二元論的なゾロアスター教との関係は分かっていない。ズルワーン教に関しては以下のような説がある[ 13] 。
バハラーム1世に召され、自ら著述した画集教典を王に差し出す「絵師マニ」(16世紀 、ミール・アリー・シール・ナヴァーイー 作) マニ教は、キリスト教・ゾロアスター教・仏教などの諸宗教を混合した 世界宗教 。教祖はマニ (216年頃 - 274年?)[ 14] 。
マニはアルサケス家の血を引くパルティア人で父と共にユダヤ教系キリスト教のグノーシス主義洗礼教団エルカサイ派に所属していた。24歳の時にエルカサイ派を離脱した彼は、父親や仲間たちと共にメソポタミア・メディア・インドなどを行き巡り、キリスト教・ゾロアスター教・仏教など諸宗教を混合した新興世界宗教(後にマニ教と呼ばれる)を開く。サーサーン家の人物まで改宗させた彼は、シャープール1世にも謁見し、廷臣として取り立てられた。そして自ら聖典を書き記し、教団の組織化と伝道活動に従事した。しかしシャープール1世の崩御後、ゾロアスター教神官のカルティールが台頭し、マニは処刑されてしまう[ 14] 。
教祖の死後、マール・スィースィンが跡を継ぎ、アラブ人伝道にも成功するが、彼自身は殺されてしまう。その後、マニ教会の資料はほとんど残されておらず、キリスト教会に地盤を奪われたとみられている[ 14] 。
マズダク教はカワード1世の宰相マズダク により提唱された宗教。カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとしたが、それにより混乱を深めた[ 15] 。
19世紀ペルシアのアッシリア人 (ネストリウス派)たち サーサーン朝に広まったキリスト教は、ローマ帝国で広がったヘレニズム 系キリスト教とは一線を画すシリア文化系キリスト教であった。彼らはイエスが使った言語 であるアラム語 (シリア語)を用い、パルティア時代からローマ帝国におけるキリスト教の文化的中心都市エデッサ を起点に東方との交流を行っていた[ 16] 。
サーサーン朝にキリスト教が広まるきっかけとなったのは、260年にサーサーン朝がエデッサを占領してからである。またサーサーン朝に捕らえられたローマ兵にもキリスト教徒がおり、彼らを通して国内にキリスト教が広まるようになった。なお、キリスト教徒は一枚岩ではなく、文化的背景によって以下のグループに分かれ、それぞれ緊張関係にあった[ 16] 。
クリスティヤーン(ギリシア文化系キリスト教徒、ローマ帝国のキリスト教主流派) ナズラーイ(シリア文化系キリスト教徒) イラン人キリスト教徒 なお、当初のサーサーン朝はローマ帝国で迫害されるキリスト教に好意的で、布教は順調に進んだ。4世紀にはセレウキア =クテシフォンに府主教 座が設けられた[ 16] 。
313年にローマ帝国でのキリスト教公認 が行われると、サーサーン朝はキリスト教の迫害(339年 - 379年)に転じる。当時はイラン人の間でもキリスト教が広まっており、ゾロアスター教を基盤とするサーサーン朝にとって死活問題であった。シャープール2世によって主導された弾圧はキリスト教徒の反乱と多くの殉教者を出した[ 16] 。
(参考)10世紀における東方教会の教会管区 ヤズデギルド1世の代になると、東ローマ帝国との関係改善のためにキリスト教徒の迫害が停止された。また、教会網が整備され、以下の6大教会が成立した[ 16] 。
しかし、ヤズデギルド1世の治世末期にはキリスト教会との衝突や、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次ぎ、再び迫害策(420年 - 484年)がとられた。また、東ローマ帝国で異端とされた非カルケドン派 (合性論 派)とネストリウス派がサーサーン朝のキリスト教界に入り込み、事態はより複雑化した。5世紀半ばにはクテシフォンの府主教座が非カルケドン派に交代した。また、エデッサを追われたネストリウス派がニシビスに拠点を移した。ネストリウス派は東ローマ帝国と敵対する別種のキリスト教と解釈され、サーサーン朝と結びつき、クテシフォンの府主教座を獲得した(逆に非カルケドン派の府主教は処刑に追い込まれた)。ネストリウス派はサーサーン朝に公認された唯一のキリスト教として勢力を拡大し、クテシフォンの府主教座は東方総主教 (カトリコス )の名称を用いるようになった[ 16] 。
ネストリウス派はニシビス一帯に神学校 と修道院 を整備したが、修道院制度と禁欲主義は元ゾロアスター教徒のイラン人キリスト教徒たちにはなじまず、486年にはいったん廃止された。しかし文化的基盤であった修道院をなくすことはキリスト教会の文化的活力を低下させたため、シリア文化系キリスト教徒から反発を受けた。そのため6世紀には修道院制度が復活し、ネストリウス派神学が確立されていった[ 16] 。
キリスト教がサーサーン朝の領域に広まった理由として次の理由が挙げられる[ 16] 。
書物文化の発達 - キリスト教会はユダヤ人 ・ギリシア人 の書物文化を受け継いでいたのに対し、ゾロアスター教神官団には碑文以外の書物文化が乏しく、6世紀まではセム系文字の借用に甘んじていた 聖典の確立 - シリア語訳『ディアテッサロン 』(2世紀)、中期ペルシア語訳『詩編 』(3~4世紀)、シリア語訳『聖書 』(5世紀)など、キリスト教会は聖典翻訳を積極的に行っていた。特に中期ペルシア語訳『詩編』は新たに発明された書物用のパフラヴィー文字をもとに書かれており(それまでパフラヴィー文字は碑文用のものしかなかった)、6世紀まで口伝伝承しか持たなかったゾロアスター教神官団を圧倒していた(#自国史の編纂 参考)。 ヘレニズムの知的遺産 - キリスト教会はギリシア人の学問の成果を受け継いでおり、神学校・修道院でそれらを継承・発展させていった。そのため医者・学者・占星術師など知的職業に占めるキリスト教徒の割合が高くなり、これらの層からも宣教師が輩出された。なお、初期イスラーム文化 もキリスト教徒によるヘレニズム文化のシリア語訳に頼っていた。 これらの理由からキリスト教会はゾロアスター教神官団に対して知的優位に立つことができた。ホスロー1世のもとでゾロアスター教にギリシア哲学 やインド哲学 が取り入れられたり、キリスト教パフラヴィー文字を参考にアヴェスター文字 が発明され、口伝『アヴェスター』とその中期ペルシア語注釈『ザンド』が書籍化されたのも、キリスト教会に対抗するためであったとされている[ 17] 。
208年 :パーパクがパールスを統一。サーサーン朝の基礎を起こす。226年:アルダシール1世がパルティア(アルサケス朝)を滅ぼし、イラン高原 ・メソポタミア を統一。 240年 頃:シャープール1世、クシャーナ朝に遠征し、ガンダーラ を奪う。260年:シャープール1世、エデッサの戦いでローマ軍と戦い、ウァレリアヌスを捕える。 350年 頃:シャープール2世、クシャーナを破り、再度征服。363年:シャープール2世、ユリアヌスを戦死させる。 409年 :キリスト教寛容令。425年:エフタルの侵入。 428年:アルメニア王国を廃絶し、サーサーン朝の知事を置く。 484年:ペーローズ1世、 エフタルとの戦いで戦死。 540年 :ホスロー1世、アンティオキアを占領。567年 :ホスロー1世、エフタルを滅ぼす。575年 :ホスロー1世、イエメンを占領。616年 :ホスロー2世、東ローマ領のシリア、エジプトを占領。627年:ニネヴェの戦いで東ローマ帝国のヘラクレイオスに敗れ、クテシフォン近郊への侵攻を許す。 628年:ホスロー2世廃位・処刑、息子のカワード2世はヘラクレイオスと和睦、占領地を奪回される。 637年 :カーディシーヤの戦いでイスラーム軍に敗れ、クテシフォンを占領される。642年:ハマダーン近くのニハーヴァンドの戦いで敗北。 651年:ヤズデギルド3世が逃亡先で暗殺され、サーサーン朝滅亡。 ^ Bonner, Michael (2020). The Last Empire of Iran. New York: Gorgias Press. pp. 1–406.ISBN 978-1463206161 . ^ Chronique d'Agathias. ^ Will Durant, Age of Faith, (Simon and Schuster, 1950), 150; Repaying its debt, Sasanian art exported it forms and motives eastward into India, Turkestan, and China, westward into Syria, Asia Minor, Constantinople, the Balkans, Egypt, and Spain.. ^ "Transoxiana 04: Sasanians in Africa". Transoxiana.com.ar. Retrieved 16 December 2013. ^ Sarfaraz, pp. 329–330 ^ "Iransaga: The art of Sassanians". Artarena.force9.co.uk. Retrieved 16 December 2013. ^ Abdolhossein Zarinkoob: Ruzgaran: tarikh-i Iran az aghz ta saqut saltnat Pahlvi, p. 305 ^ “ĒRĀN, ĒRĀNŠAHR – Encyclopaedia Iranica ”. www.iranicaonline.org . 2019年11月9日閲覧。 ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ササン朝とは ”. コトバンク. 2018年1月3日閲覧。 ^ ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』(山本啓二 訳)勁草書房, 2002/12/20. ^ 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、pp.46-47 ^ Arthur Christensen.Contes persans en langue populaire . Copenhagen: Andr. Fred. Høst & Son, 1918. ^a b 青木健 『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)142-144ページ。 ^a b c 前掲『新ゾロアスター教史』144-157ページ。 ^ 前掲『新ゾロアスター教史』178ページ。 ^a b c d e f g h 前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。 ^ 前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。 ウィキメディア・コモンズには、
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