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グラーグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グラグから転送)
曖昧さ回避この項目では、ソ連の施設について説明しています。その他の強制収容所については「強制収容所」をご覧ください。
ロシア革命 >ロシア内戦 >赤色テロ (ロシア) >グラーグ
ウラル山脈西側のペルミにあったグラーグ(強制収容所)Perm-36
1923-1961年に存在したソビエト連邦内のグラグの場所[注釈 1]。1940年時点で53か所のグラーグ、423か所の労働コロニーが設置された[1]
GULAGのマーク

グラーグ[2][3]グラークグラグロシア語ГУЛАГ, ГУЛагラテン文字表記:GULAGGULagGulag、ロシア語での発音(IPA):[ɡʊˈlak]、イギリス英語での発音:[ˈɡlɑːɡ]または[-læɡ])は、ソビエト連邦強制労働行政機関Гла́вное управле́ние лагере́й (ラテン文字表記:Glávnoje upravlénije lageréj)の頭字語(略語)であり、「強制収容所の管理主任」を意味する[4]。グラーグとは労働収容所管理総局のことだが、強制収容所一般も意味する[5]

レーニンによって設置され、スターリンが支配した1930年代から1950年代にかけて頂点に達した[6]

グラーグには総計1800万人〜2500万人が収容され[7][8]、1930年から1953年の期間での推定死亡数は、少なくとも150万から170万人[7][9]、多い見積もりでは600万人という推計もある[7][8][9][10][11][12]

概説

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ソビエト連邦内務人民委員部(NKVD)、内務省(MVD)などにあった強制労働収容所・矯正収容所の管理部門のこと。「収容所本部」(Главное управление лагерей, Glavnoe upravlenie lagerej)の略から来ている。 収容所そのものはラーゲリлагерь, lager')と呼ばれるが、ソ連国外では収容所を含めてグラグと呼ばれることが多かった。グラーグ(GULAG)のラーグ(LAG)とは、ラーゲリのことである[5]

GPUが設置した当初の名称は、Главное управление исправительно-трудовых лагерей,ラテン文字表記:Glavnoje upravlenije ispraviteljno-trudovyh lagerej、「矯正労働収容所の管理部門」だった[4][13][14]。日本語では矯正労働収容所中央管理局とも訳される[15]

強制収容所は、十月革命でソビエト政府を成立させたウラジーミル・レーニンの下で政府機関によって作られた[16][17]。この用語はまた、ヨシフ・スターリン時代の大粛清以降も含めて、ソビエト連邦内の強制労働収容所を指すのにも一般的に用いられている[18]

第二次世界大戦中の戦争捕虜収容所(GUPVIが管理)、クラーク撲滅運動で「クラーク」(富農)と認定された人々の収容所(「特別居住地」)、強制移住を強いられた少数民族ヴォルガ・ドイツ人ポーランド人コーカサス諸民族クリミア・タタール人など)の収容所などソ連に存在した様々なタイプの強制収容所をも指すが、これは正式にはGULagに含まれない[19][20]

グラーグは、はじめ1918年6月[21]に設置され、1934年内務人民委員部(NKVD)に設置された[15]。1953年のスターリンの死後、規模の縮小が始まり、1960年、ニキータ・フルシチョフにより一時閉鎖された。しかし、その後1964年から1982年までソビエト連邦最高指導者であったレオニード・ブレジネフはグラグを「共産主義のもとでの熱意にあふれる労働」を体現するものと語っており、グラグはボリシェヴィキの共産主義イデオロギーを国民に強要する重要な道具だった[22]。ロシアの強制収容所は1991年まで存続した[21]

グラグは「強制収容所」であると直接言及されるのではなく、「バイカル・アムール地方の西シベリアの産業育成」「建設や建築、大工事、労働力の移住と組織的な募集」といった婉曲的な表現で言及された[22]

ソビエトロシアが開発した強制収容所システムは、全世界の共産主義体制に普及していった[21]

「再教育」施設としてのグラーグ

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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所第一強制収容所門のアーチには「ARBEIT MACHT FREI(労働によって自由になる)」と記された。

グラーグは、肉体的かつ精神的に「階級の敵」を破壊することだけでなく、囚人を再教育するという全体主義イデオロギーを反映した制度でもあった[23]。グラーグの「再教育」施設としての側面についてジェルジンスキーは強制収容所を、受刑者に矯正の機会を与える労働学校であるとした[24]強制労働によって、自分の過ちを理解するために自省し、反体制的傾向を放棄させることを目的とした[24]ドミトリー・ヴィトコフスキーの体験記によれば、収容所の目的は罰することよりも、再教育だった[25]

「労働による再教育収容所」の入り口には「労働は名誉、栄光、ヒロイズムである」「労働に励めば早期釈放される」と掲げられた[24]。また、ナチス・ドイツが設置したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の入り口にも「労働によって自由になる」と掲げられた。

受刑者zek

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受刑者は、ロシア語でзаключённый (zakliuchyonnyi) と呼ばれるが、短縮されてз/к(zek,ZEK)と呼ばれた。これらZEKと呼ばれていた者の中には、第二次世界大戦独ソ戦で捕虜になったドイツ人も、ソビエト体制への敵対者として含まれた[26][27]。またソ連対日参戦によりソ連に抑留された日本人も多数が収容所で過酷な労働・生活を強いられた[28]

グラーグに収容されたものの大半は何の罪も犯していなかった[29]。ソ連の勝利に疑念を表明したものは「敗北主義」であるとして収容所10年の刑となり、コルホーズで人参一本を盗んでも、スターリンについての冗談をいっても有罪になり、外国人とやりとりするとスパイとされ、有罪になった[29]

グラーグの例

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イヴァノヴォ州コフマ(Kokhma)にあった強制労働収容所

ソロヴェツキー修道院

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→詳細は「ソロヴェツキー修道院」を参照

トロツキーは人質収容のためとし、レーニンは売春婦を送り込むためとして、1918年7月から8月にかけて白海ソロヴェツキー諸島にグラーグが設置された[24]

コルィマ鉱山

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→詳細は「コルィマ鉱山」を参照

ヴォルクタ

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グラグの収容者は解放されても、その近隣都市に居住し、都市の発展に貢献する者も存在した。炭鉱を持つグラグを中心に発展したヴォルクタの例では、学者、エンジニア、建築家などのエリートが送り込まれて一部が定住した結果、住民の半数以上の先祖がグラグ出身者のモノゴロド(単一産業都市)となった[30]。キャンプには、比較的小さな犯罪の受刑者から政治犯に至るまで、幅広い囚人が収容されていた。

オジョルスク

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オジョルスクでは7万人の囚人が原子炉や地下研究施設などの建設に従事させられた。マヤーク核技術施設では労働者らが大量の放射線を浴び、「5年生存率が0%」といわれた[31]

ノリリスク

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→「ru:Норильский исправительно-трудовой лагерь」を参照

ノリリスク強制労働収容所では1935年から1956年までに強制労働、飢餓、極寒のため16,806人が死亡した[32]

ホルモゴルイ

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ホルモゴルイ強制労働収容所(Холмогорский лагерь принудительных работ)には白軍将校、クロンシュタットの反乱船員、コサック、司祭、告発された農民など、8000人以上が死亡または行方不明になった[33]

ホルモゴルイでは冬の気温はマイナス50度〜60度にもなるが、暖房はなく、朝食はジャガイモ1個、昼食は茹でたジャガイモ1個、夕食はジャガイモ1個だけだった[34]。肉やバターはもちろんのこと、パンや砂糖さえも配給されなかった。飢えに苦しんだ人々は、木の皮を食べた[34]。囚人は、切り株を根こそぎ引き抜いたり、採石場、木材運搬などの強制労働を強いられ、また家族との連絡を禁止され、手紙は棄てられた[34]

1920年から1922年末まで毎日人々が処刑され、遺体はそのまま放置され、部屋の天井まで死体で積まれた[34]。ホルモゴルイに運ばれたクロンシュタットの反乱水兵2000人は3日間で処刑され、腐敗した死体の悪臭で囚人は苦しめられた[34]

ホルモゴルイでは、1921年1月から2月にかけて11,000人が処刑された[34]。1921年、ピョートル・ヴラーンゲリ軍の4000人の将校と兵士がに乗せられ、ドヴィナ川で沈められ、溺れなかった者は射殺された[34]。首に石をくくりつけられたまま水に投げ込まれる水死刑であった[35]。1922年にも数隻の艀に囚人が積み込まれ、ドヴィナ川で沈められ、溺れなかった者(多くは女性)は、ホルモゴリ近くの島に下船させられ、機関銃で射殺された[34]。この島での大量殺戮はその後も長く続き、島では死体が散乱した[34]。ホルモゴルスク収容所は「死の収容所」と呼ばれた[34]

トロフィモフスク島などのレナ川河口地帯

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1942年から1947年にかけて、レニングラード州から強制移送されたリトアニア人フィンランド人は、レナ川デルタ地帯にあるトロフィモフスク島に監禁され、漁業加工の強制労働を課された[36]。生存者によれば半数が1941年から1943年に死亡した[36]。研究書では、13万人のリトアニア人被害者について掲載されている[37][36]。フィンランド人被害者は18,020人[38]サハ共和国の犠牲者は9,675人とされる[36]

402人が死刑判決を受け、追悼録と警察の記録には、3,860人の強制移住者について記されており、ウクライナ民族主義者が93人、401人のクラーク(富農)、746人のドイツ系ロシア人、430人はブルンスキー地区に送られ、37人はトロフィモフスク島で働いたと記されている[36]

ヴィオレッタ・ダヴォリウテによれば、1939年から1941年の間にソビエトによって弾圧されたリトアニア人は29,250人、そのうち2,613人がユダヤ系だった[39]。1941年6月14日から18日まで17,500人のリトアニア人がソ連に強制送還され、334人のユダヤ人が逮捕され、男性385人が収容所に送還され、女性・子供・老人1660人が植民地に送還され、234人は不明である[39]。7,232人が1941年の夏にシベリアのアルタイ地方に到着し、1942年6月、ラプテフ海に接したレナ川河口にある極北地帯に送られ、漁業の強制労働を強いられた[39]。合計2,785人がリトアニアからトロフィモフスク、ティト・アリー島[40]など、レナ川河口、ラプテフ海沿岸に追放され、半数以上が死亡し、リトアニアに帰国できのは1,157人だった[39]

さらに1945年からの強制移住で15万人以上のリトアニア人が犠牲になった[39]

カザフスタン

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ドイツ共産党幹部でコミンテルン機関紙の編集者だったマルガレーテ・ブーバー=ノイマンは1938年に逮捕され、カザフスタンカラガンダシェツキー地区ブルマの労働収容所に送られた[41][42]。1940年2月、マルガレーテはヒトラー・スターリン条約に伴うNKVD-ゲシュタポ協力の一環としてナチスのゲシュタポに引き渡され、ラーフェンスブリュック強制収容所第二次世界大戦終結まで収容された[43]

拷問

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歴史学者リュドミラ・ノビコワ[44]によれば、赤軍と白軍双方が残虐な拷問と殺害を行った。パルチザンに捕らえられた赤軍の兵士は、裸の体に沸騰したお湯をかけられたり、体をバラバラに切られた[33]。赤軍は地元の司祭を殺す前に耳と手足を切り落とした。アルハンゲリスク州ピネガペチョラ(コミ共和国ネネツ自治管区)では、ボルシェビキは犠牲者を埋葬せず、遺体は氷の下に押し込み、また生きたままの囚人を同様に氷の下に押し込んで殺害した。氷点下の気温で穴は瞬時に凍り、体の一部が突き出ていたという[33]

これらの地域の強制収容所での弾圧を指揮したチェカ特別軍事部門長官ミハイル・ケドロフは1941年にラヴレンチー・ベリヤによって粛清された[33]

評価

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レーニンをたびたび批判してきたマクシム・ゴーリキーは晩年スターリン支持者となり、1933年には「憎しみ、それは愛だ」とのべ、「チェキストたちが収容所で成し遂げたことこそ、本物のヒューマニズム、本物の人間愛だ」と語った[45]

犠牲者数

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グラーグでは釈放された場合もあり、また再収容された場合もあったが、これらを含めると、総計1800万人〜2500万人が収容された[7][8]。総計2870万人が収容されたともいう[24]

ソロヴェツキー、ホルモゴルイ、ペルトミンスキー強制収容所では1920年2月から11月までだけで25,640人が処刑または飢餓と病気で死亡した[33]。ロシア北部でのボリシェヴィキによるテロの犠牲者数は、1920-1922年だけで10万人になるとも推定されている[33]

1930-53年の期間での推定死亡数は、少なく見積もっても150万から170万人とされる[7][9]。ローゼフィールドは現在の資料からは160万人が妥当な推計値とする[12]。また、270万人[46]、あるいは300万人[24]とも、600万人という死者数の推計もある[7][8][9][10][11][12]

グラーグのルーツ

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→「ロシア革命 § フランス革命とロシア革命」も参照

グラーグのルーツはフランス革命恐怖政治にさかのぼる[47]ギロチンは見せしめのために首を一気に切り落とすことで、大衆の反抗心を消し去った[47]。1793年8月から10月にかけてのリヨンの反乱では首謀者は処刑され、市民14万のうち11万5000人を懲罰のために強制移住することを革命政府は計画し、10月10日にサン=ジュスト公共工事に政治犯の労働力を利用することを提案した[47]ジョゼフ・フーシェは1793年12月27日に「人間愛ゆえに、義務ゆえに多くの不純な血が流れた」と述べ、社会を壊疽から救うには腐った手足を切り落とすべきだと考えた[47]

ロベスピエールの側近だったジャンボン・サン=タンドレは、若者から男の活力を奪っている売春婦の海外強制移住を提案したが、レーニンは実際に売春婦をソロヴェツキー諸島の強制収容所に送り込んだ[48]

歴史博物館

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2001年にモスクワで設立された強制収容所についての展示施設は「グラグ歴史博物館」(Музей истории ГУЛАГа,The GULAG History State Museum)[49]と命名されている。

犠牲者の体験記録

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→「シベリア抑留 § 抑留者による記録」も参照

ヴァルラーム・シャラーモフ1929年ペルミ北部のヴィシェラ収容所で強制労働をさせられ、1932年に釈放。1937年に反革命罪で再び逮捕、1953年に釈放された。連作短編『コルィマ物語』[50]を遺した。

ドイツ共産党幹部だったマルガレーテ・ブーバー=ノイマン1938年に逮捕され、カザフスタンのカラガンダとシェツキー地区ブルマの労働収容所で強制労働をさせられた。1940年にはヒトラー・スターリン条約によってゲシュタポに引き渡されラーフェンスブリュック強制収容所に拘留された。戦後、体験記『スターリンとヒットラーの軛のもとで 二つの全体主義』を出版し、共産主義とナチズムは実質的に同種のイデオロギーであると述べた[51]

ポーランドの女性哲学者バルバラ・スカルガは、ナチと戦う非共産主義のレジスタンスだったが、1944年にソ連に逮捕され、「ファシズム」の罪で強制収容所10年の刑と終身流刑をいいわたされ、グラーグへ送られた[52][53]。スカルガはカウナス近郊のプラヴィエニシュキ強制労働収容所ウフタ・イジェムスキー矯正労働収容所カザフスタンペトロパブルコルホーズなどで1955年まで強制労働を強いられた[52]。1985年、スカルガはグラーグ体験記『解放後 1944-1956』をペンネームで出版した[54][53][52]。スガルガは収容所ではジストロフィーペラグラ結核が蔓延していたとし、「人殺し収容所はその他の犯罪者やガス室を必要としていなかった。人は生きている限り、動ける限り、有用だった」と書いた[55]

リトアニア人医師ダリア・グリンケヴィチウテ1941年、14歳でトロフィモフスク島収容所に送られ、1日12時間の強制労働を強いられた。21歳で脱走し、母国に戻ったが、1951年に再びシベリアへ強制送還された。5年後に釈放され、医学を学び医者となった。原稿は庭に埋めて隠され、死後数年たって1991年に発見された[56]。グリンケヴィチウテは原稿が秘密警察等に見つかり、没収されることを恐れていた。ヴィータウタス大公戦争博物館によって1996年にグリンケヴィチウテの体験記は出版され、2018年に英訳『Shadows on the Tundra(ツンドラの影)』が出版された[57]。グリンケヴィチウテの記録は、プリモ・レーヴィ『これが人間か』やアンネ・フランクアンネの日記』に並ぶ、記録文学の傑作とされる[58]

アレクサンドル・ソルジェニーツィンは友人との文通でスターリンを批判したとして1945年に逮捕され、モスクワ特殊収容所、北カザフスタンのエキバストス強制収容所に収容され、南カザフスタンのコクテレク村に無期流刑となった[59]。1957年に名誉回復を受けたが、1973年に『収容所群島』をパリで出版すると翌年に逮捕され、西ドイツに強制追放後、アメリカに移住し、ソ連崩壊後に帰国した[59]。『収容所群島』はArkhipelag GULagが原題である[5]

関連作品

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ソビエトの反体制作家ゲオルギー・ヴラディーモフは小説「忠実なルスラン」で強制収容所の刑務官を描いた。ルスランは、強制収容所では人々は互いに無関心ではなく、一人一人を監視し、貴重な財だとみられていたと回想する。「人間の価値を愚行から守らねばならなかった。脱走して自分の価値を無駄遣いするものは、罰しなければならなかった。救済とは残酷だ。船を難破から救うのにマストを切り倒すように。外科医が病気の部分を切除するように。残酷な愛、残酷で血まみれの愛を与えるのがルスランの仕事だった」[60]。ヴラディーモフはソビエト連邦作家同盟を追放された。ウラジミール・イリイチ・フメリニツキーによって1992年に映画化された(Верный Руслан)。

ソ連の強制収容所とナチスの強制収容所

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グラーグの生存者ポーランド人作家グスタフ・ヘルリンクは、コルィマ金鉱山の強制収容所への移送は、ナチの強制収容所への移送と同じだと述べた[35]。1937-53年まで同所にいたヴァルラーム・シャラーモフはすべての鉱山で、コルィマの「アウシュビッツ」に送り込む者のリストが作成されており、コルィマの強制収容所は「皆殺しのキャンプ」だったと証言している[35]

ジャック・ロシは、共産主義とナチズムという二つの全体主義のうち、どちらが野蛮かを問う論争は無意味であり、どちらも排他的に一つの思想を強制し、死体の山を築いたと語る[61]。元受刑者のアロン・ガボールは「ソビエト社会の生活は収容所の生活とよく似ており、ソビエト市民と徒刑囚は双子である」とも語っている[62]

ソ連の強制収容所とナチスの強制収容所とは、おぞましさの点で比較にならないという見解があるが、ソレジェニーツエンやシャラーモフは、おぞましさに序列をつけることは可能なのか、残酷さや苦痛が少ない死に方を決めることはできるのか、死体をほりおこして人肉をたべた挙句の餓死、銃殺、氷点下50度の凍死、病死、衰弱死のどれが穏やかでましなのか、と著作で問いかけた[35]。歴史学者ピエール=エティエンヌ・プノはソ連とナチスの収容所に序列をつけるのは無意味であるとしたうえで、アウシュビッツが映像で残っているのに対して、グラーグは写真もすくなく、証言による記憶しかないことも誤った印象を与えていると指摘する[47]

ポーランドの女性哲学者バルバラ・スカルガの体験記が2000年にフランスで翻訳されたさい、話題とはされなかった[63]。スカルガの友人の哲学者シャンタル・デルソルは、「これがナチスの収容所の記録であればすぐに話題になっただろう。しかし、フランスでは、グラグを話題にすることには居心地の悪さがあり、人はすぐに目をそらしてしまう。フランスではロシアと共産主義者が好きなのだ」と語る[63]

脚注

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[脚注の使い方]

注釈

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  1. ^データは人権団体メモリアルより

出典

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参考文献

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  • アプルボーム, アン 著、川上洸 訳『グラーグ——ソ連集中収容所の歴史』白水社、2006年。 
  • ヴェルト, ニコラ 著、根岸隆夫 訳『共食いの島——スターリンの知られざるグラーグ』みすず書房、2019年。 
  • ネイマーク, ノーマン・Ⅿ 著、根岸隆夫 訳『スターリンのジェノサイド』みすず書房、2012年。 
  • プノ, ピエール=エティエンヌ 著、神田順子 訳「全体主義の新人間製造工場として構想されたグラーグ」、クルトワ, ステファヌ 編『憎悪と破壊と残酷の世界史』 上巻、原書房、2025年。 
  • ロッシ, ジャック、ミシェル・サルド 著、外川継男 訳『ラーゲリのフランス人——収容所群島・漂流24年』恵雅堂出版、2004年。 

外部リンク

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