クロアチア共和国 Republika Hrvatska 国の標語:なし 国歌 :Lijepa naša domovino (クロアチア語) 私たちの美しい故国 クロアチア共和国 (クロアチアきょうわこく、クロアチア語 :Republika Hrvatska )、通称クロアチア は、南ヨーロッパ のバルカン半島 に位置する共和制 国家 である。首都 はザグレブ [ 3] 。
本土では西にスロベニア 、北にハンガリー 、東にボスニア・ヘルツェゴビナ 、セルビア と国境を接している。南はアドリア海 に面し、対岸はイタリア 、飛び地 のドゥブロヴニク では東にモンテネグロ と接している。
ユーゴスラビア を構成していたが、1991年 に独立した。
クロアチア語 での正式名称はRepublika Hrvatska 発音 [ヘルプ /ファイル ] 。通称Hrvatska [xř̩ʋaːtskaː] (フルヴァツカ)。
公式の英語 表記はRepublic of Croatia 。通称Croatia [kroʊˈeɪʃə] (音声ファイル ) (クロエイシャ)。
日本語 の表記はクロアチア共和国 [ 4] 。通称クロアチア 。漢字表記 では克羅地亜 、呉呂茶 など。クロアチア語 による正式名称の発音は片仮名 表記にするならフルヴァツカ が近いが、フルヴァツカと表記されることはあまりない。「クロアティア」とはラテン語 読みである。
9世紀 になると、北方・西方からフランク王国 、南方・東方から東ローマ帝国 の圧力が強まった。カール大帝 治世の9世紀初めには一時的にフランク王国 の版図に含まれ、この時にカトリック を受容している。以降クロアチア(Duchy of Croatia )はカトリックの一員となっている。こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミル (英語版 ) がクロアチア統一を進め、879年にローマ教皇 ヨハネス8世 から独立国家として認められた。その後、トミスラヴ のもとでクロアチア王国 は発展をとげるが、彼の死後しばらくして、後継者争いから内乱へ突入した。
このことがハンガリー王 ラースロー1世 の介入を招き、次のハンガリー王カールマーン が、1102年 クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブ を中心とする地域)とスラヴォニア はハンガリー王国 との同君連合 の枠組みの中に組み込まれた(en )。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)はバン (バーン)と呼ばれた。
オーストリア=ハンガリー帝国 時代の行政区分(1910年 )この後15世紀 にはオスマン帝国 に征服され(Ottoman wars in Europe )、その領域に組み込まれた(軍政国境地帯 の内クロアチア軍政国境地帯 とスラヴォニア軍政国境地帯 にあたる領域はオーストリア=ハンガリー帝国側に残った)。
18世紀 末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている(ハプスブルク領クロアチア王国 )。これ以来ハプスブルク体制寄りの姿勢をとり、1848年 の三月革命 の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチ がハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年 にオーストリア=ハンガリー二重帝国 が成立するが、ハンガリーがクロアチア=スラヴォニア王国 に対して認めていた自治権も併せて、実態的には「オーストリア=ハンガリー=クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する[要出典 ] 。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。
一方で、アドリア海 沿岸のダルマチア は他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国 の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。ラグサ共和国 として半独立していた時期もあるが、ナポレオン 期のフランス帝国 領イリュリア州 (1809年 -1816年 )を経て、以降1815年のウィーン会議 においてオーストリア帝国 直轄領(ハプスブルク領イリュリア王国 、ハプスブルク領ダルマチア王国 )になるまでヴェネツィアの支配が続く。なお、オーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。
1918年 に第一次世界大戦 の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国 は、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国 の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国 の成立に参加。1929年 は国名をユーゴスラビア王国 に改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年 にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州 (セルビア・クロアチア語版 、英語版 ) を設定したが、批判も多かった。
クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パヴェリッチ を中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャ を設立。1941年 反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツ の支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ 、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ の一部に跨るクロアチア独立国 を成立させる。それ以降、ユーゴスラビア共産党を中心とするパルチザン および旧ユーゴスラビア王国軍の成員を中心としたチェトニック との間で凄惨な戦闘が繰り返される。クロアチア独立国内にはヤセノヴァツ強制収容所 などの収容所が各地に建設され、大規模な迫害と虐殺を行っていた事でも知られる[ 5] 。
ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産主義者同盟 が指導するパルチザン によってユーゴスラビアが自力解放されることによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトー の巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 は維持された。しかし、1980年にチトーが死去したことを皮切りに、幹部会システムの導入や経済状況の不安定化によって、各共和国・自治州において不満が噴出しはじめた。クロアチアはユーゴスラビア連邦政府に忠実な立場を取り続けたが、1980年代半ばからスロボダン・ミロシェヴィッチ を中心とするセルビア共和国とスロヴェニア共和国の対立が深まると、次第にスロヴェニアと歩調を合わせるようになっていった。
独立した旧ユーゴスラビア 諸国(2008年 ) 東欧革命 以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁 の地位にあった社会主義 政党 が自由選挙 を認め民主化 の気運が高まると、ユーゴスラビア でもこれを認め1990年 に戦後初の複数政党制 による自由選挙が実施された(Croatian parliamentary election, 1990 )。クロアチアではユーゴスラビアからの自立を掲げるフラニョ・トゥジマン 率いるクロアチア民主同盟 (HDZ)が勝利し、政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。
1991年 3月2日 には、スラヴォニアの帰属(西部に西スラヴォニア自治区 (英語版 ) →クライナ・セルビア人自治区 (英語版 ) 、東部に東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州 )をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍とクロアチア警察軍 (英語版 ) の間でにらみ合う事態となり、3月31日 にはプリトビツェ湖群 で両者が衝突し、死者を出す事態となった(プリトビツェ湖群事件 (英語版 ) )。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、5月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、93%の圧倒的多数が賛成票を投じた[ 注釈 2] 。これを受けて6月25日 、スロベニア と同日に独立を宣言した。
一方でクロアチア領内にも多く住むセルビア人 は、クロアチアの独立に反対していた。この地域はクライナ・セルビア人自治区(→クライナ・セルビア人共和国 )として、クロアチア政府による統治を拒否する構えを見せた。また、セルビア人保護を目的に、ユーゴスラビア連邦軍がクロアチアに介入した。これに対抗したクロアチア軍は、9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突クロアチア紛争 へと進む。結果1995年 に戦闘が終結するまでに大量の死者とセルビア人難民 を生み出した。これはクロアチア軍がセルビア人自治区を襲撃し、迫害を避けるためにセルビア人はユーゴスラビア地域へ退避移住せざるを得ない状況に陥ったことによる。破壊を避けるために先祖代々の墓も退避せざるをえない悲劇であった。移住せざるを得なかったセルビア人は20万人以上と言われている。その地域をクロアチア人居住区として併合することにより民族浄化 路線を完了させる。
なお、クロアチア政府は1992年以降、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 にも介入し、セルビア人勢力やボシュニャク人勢力とともに戦闘、民族浄化を繰り広げた。
クロアチアの欧州連合 (以下EUとする)加盟交渉は、2005年 中にスケジュールが組み立てられ、2008年1月に発足したサナデル内閣は2010年 のEU加入を目標とした。
ただし、クロアチアの加盟交渉の開始に当たってはオランダ のハーグ に設置されている旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトヴィナ の同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされないことを理由に見送られることになった。同年10月3日 から行われたEU緊急外相会議において、トルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ、翌4日 にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。
当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトヴィナは同年12月初頭にスペイン のカナリア諸島 で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送された。
2008年 、クロアチアのNATO(北大西洋条約機構 )への加盟が認められ[ 6] (実際の加盟は2009年 4月)、軍事的に旧西側諸国の枠の中であると認識されるようになった。
その後、欧州委員会はクロアチアとの加盟交渉を終了し、同国のEU加盟を加盟27カ国に提案する方針を2011年 6月に固めた。
2012年 1月22日の国民投票で3分の2の賛成を得、議会によるEU加盟条約の批准を経て、2013年 7月1日 にクロアチアは正式にEUに加盟した[ 7] 。28番目のEU加盟国であり[ 注釈 3] 、旧ユーゴスラビア構成国家での中ではスロベニア に続く2例目となった。
2023年1月1日にユーロ 通貨を導入し[ 8] [ 9] 、シェンゲン協定 にも参加した[ 10] 。
バン の宮殿1990年 の憲法 制定以来、クロアチアは民主主義を標榜している。1990年から2000年 までは半大統領制 、それ以降は議院内閣制 を採用している。国家元首 である共和国大統領 は国民の直接選挙による選出で、任期 は5年、2期までと定められている。
大統領は軍の最高司令官であり、議会 の同意のもと首相 を任命し、国家元首 として外交政策に影響を及ぼすものの、主に儀礼的な役割を果たす[ 11] 。ザグレブ の大統領宮殿の他、避暑地のブリユニ島 とフヴァル島 に邸宅を所有している。
国会(サボル )は2001年 まで二院制 を取っていたが、上院 (州議院)が廃止され、現在は一院制 である。サボルの議員定数は100〜160人の可変で比例代表制 によって選出される。任期は4年。本会議 は1月15日から7月15日までと9月15日から12月15日まで行われる。
2024年4月17日に総選挙が行われ、与党のクロアチア民主同盟 が65議席を獲得し第一党の座を維持した。親ロシア的とされるゾラン・ミラノヴィッチ 大統領系のクロアチア社会民主党 を中心とする中道左派連合は、42議席に留まった[ 12] 。
政府(ヴラダ)は副首相 と14名の閣僚 を率いる首相を首班とする。行政機関は予算案、法案の策定に責任を持ち、共和国の外交、内政を実行する。政府公邸はザグレブのen:Banski dvori (バン の宮殿、クロアチア社会主義共和国 時代には大統領府)である。
クロアチアの地図 クロアチアの国土は大まかに
の4地方に分かれる。
ドゥブロヴニク 地方は、ボスニア・ヘルツェゴビナ のネウム によって分離され、飛び地 となっている。そのためユーゴスラビアからの独立後は本土とドゥブロヴニクの間の移動の際に同国の検問所を通過するため不便さがあったが、2022年に両地域の間に、長大橋「ペリェシャツ橋 」が開通したことでこれらの地域が直接行き来できるようになった。
クロアチアは20地方(županije, županija - 単数形)と1直轄市(grad - 単数形)に分かれる。
首都ザグレブ リエカ IMFによると、2024年 の名目GDP は約880億ドルである[ 13] 。一人当たりの名目GDPは13,401ドルで、旧ユーゴスラビア 諸国の中ではスロベニア に次いで2番目に高い。
クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎない。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。
陸路、航空路、水路交通(ならびに河川舟運 )は次のように整備されている[ 14] (クロアチアの交通はザグレブ中心なので、ザグレブ#交通 に詳述されている)。
国道には1号線(オーストリア 国境〜ザグレブ 〜スプリト )、3号線(ハンガリー 国境〜ザグレブ〜リエカ )、8号線(リエカ〜ザダル 〜スプリト〜ドブロブニク 〜モンテネグロ 国境)などがあり、高速道路はA1 (ザグレブ〜ザダル〜スプリト〜プロツェ、E71 )、A2(オーストリア国境〜ザグレブ、E59 )、A3(スロベニア国境〜ザグレブ〜スラヴォンスキ・ブロド 〜セルビア 国境、E70 )、A4(ザグレブ〜ハンガリー国境、E70 =E65 )などが近年急激に整備されてきた。[ 15] 都市間の移動には中長距離バス が利用されていて、便利である。市内の移動には、バス 、路面電車(ザグレブ など)、タクシー などが利用できる。
ザグレブ中央駅 ユーゴスラビア鉄道 が解体されたあとのクロアチア鉄道 (国有鉄道 )が運営している。主な路線にはザグレブ 〜ヴィンコヴツィ 、ザグレブ〜オシエク 、ザグレブ〜リエカ、ザグレブ〜スプリトなどがあり、さらに隣国のオーストリア、スロベニア、ハンガリー、セルビア などへの国際列車 も多い。
クロアチア航空 がある。空港はザグレブ(ザグレブ国際空港 )、リエカ、スプリト、ドブロヴニクなどにあり、各社の航空機が発着している。
リエカ、ザダル、スプリトに大きな港があり、アドリア海ではヤドロリニヤ やブルーライン・インターナショナル (英語版 ) (スプリト〜アンコーナ )などの海運会社 も活躍していて、アドリア海に面した有名観光都市(リエカ、ザダル、スプリト、ドブロヴニク、および諸島)へは各社の豪華客船 の寄港も多い。ヴコヴァル (ドナウ川 )、スラヴォンスキ・ブロド (サヴァ川 )などでは河川も利用されている。
住民は、クロアチア人 が90.4%である。その他、セルビア人 が4.36%、ボシュニャク人 が0.7%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合はクロアチア紛争 以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くが難民としてクロアチア国外に退去したか、あるいは死亡した一方で、ボスニアからのクロアチア系難民が多く流入したものと見られている。民族浄化の最も成功した例といえる。
クロアチアのクロアチア語の方言の地図 言語はクロアチア語 のラテン文字 が公用語であり[ 注釈 4] 、広く使われている (96%)。一部セルビア語 を使うものもいる (1%) が、この二つは文字が違う(セルビア語はキリル文字 とラテン文字を使用)程度でほとんど同じ言葉であり、その違いは日本語の共通語(東京地域)と大阪弁の間の違いよりも小さいといわれる。実際、旧ユーゴスラビア時代はセルビア・クロアチア語 という一つの言語として扱われていた。
婚姻時、改姓しない夫婦別姓 も、配偶者の姓に改姓することも、複合姓とすることもいずれも選択が可能である[ 16] 。
宗教は、大部分がローマ・カトリック (中心はザグレブ大聖堂 )である (86.3%)。残りは、セルビア正教会 が4.4%、イスラム教 が1.3%、プロテスタント が0.3%などである。
2014年 現在、ザグレブ大学 とザダル大学 で日本語教育が行われている[ 17] 。
クロアチアは、世界における平均余命で約50位にランクされており、男性は73歳、女性は79歳であり、乳児死亡率は出生1,000人あたり6人と低かった[ 18] 。
クロアチアの治安状況は、一般に中・東欧 諸国の中で比較的安全とされている。しかし、観光シーズンである夏季を中心として、同国を訪れた日本人旅行者から「スリ 被害に遭った」との情報が頻繁に寄せられているとの報告が続いている為、十分な注意が求められている[ 19] 。
ザグレブにあるクロアチア国営放送 (HRT) 本部 クロアチアでは、憲法により出版および言論の自由が保障されている[ 20] 。国境なき記者団 が発表した2019年版の世界報道自由度ランキング では64位で、汚職や組織犯罪、戦争犯罪を調査するジャーナリストが困難に直面していることや、クロアチア国営放送 (HRT) の編集方針に政府が影響力をおよぼそうとしていることが指摘された[ 21] 。フリーダム・ハウス は2019年版のレポート Freedom in the World で、クロアチアにおける出版および言論の自由の状況を「総じて政治的介入や操作から自由」と評価したが、なおジャーナリストが脅迫や、ときには攻撃にさらされていると付け加えた[ 22] 。国営のクロアチア通信社 (HINA) は、クロアチア語と英語で政治、経済、社会、文化に関する記事を配信している[ 23] 。
2021年1月時点で、クロアチアには全国規模のDVB-T のテレビ放送が13チャンネルある。このうちHRTが4チャンネル、RTL(旧RTLテレヴィジヤ)が3チャンネル、ノヴァTVが2チャンネル、クロアチア・オリンピック委員会とカピタル・ネットd.o.o.、それにAuthor d.o.o. がそれぞれ1チャンネルを運営している[ 24] 。これに加えて、ローカル放送が21チャンネルある[ 25] 。HRTは衛星放送も行っている[ 26] 。2020年現在、テレビ局は国内に27、ラジオ局は147ある[ 27] 。ケーブルテレビ やIP放送 も普及してきており、ケーブルテレビは人口のおよそ1割にあたる45万人が視聴可能である[ 28] [ 29] 。
2010年時点で、クロアチアでは新聞267紙と雑誌2,676誌が発行されていた。印刷メディアは、クロアチア資本のハンザ・メディアとオーストリア資本のスティリア・メディア・グループのふたつが有力で、前者はユタルニイ・リスト (Jutarnji list) 、後者はヴェチェルニイ・リスト (Večernji list) および 24sata という日刊紙を刊行している。そのほかの有力紙として、ノヴィ・リスト (Novi list) やスロボドナ・ダルマツィヤ (Slobodna Dalmacija) が挙げられる[ 30] [ 31] 。2020年の発行部数は24sataが最も多く、ヴェチェルニイ・リスト、ユタルニイ・リストがこれに続いた[ 32] [ 33] 。
ネクタイ は元々がクロアチア人の風習であったことから、ネクタイを指す言葉が各国語で「クロアチア」を語幹 に使っている例がある(フランス語 :cravate やスペイン語 :corbata など)。
同国の料理は主に以下のものが知られている。
クロアチアの国民的詩人マルコ・マルリッチ。人文主義者で、法律家かつ判事でもあった。Psychology(心理学 )という言葉の発案者とされる クロアチア語で書かれた現存する最古の文献は、クルク島 で発見された1100年前後のものと推定されるバシュカ碑文で、グラゴル文字 で記されている[ 34] 。ルネサンス期になると、マルコ・マルリッチのもとでクロアチア文学は発展をはじめた。今日に至るまでの代表的な作家として、ルネサンス期の劇作家マリン・ドルジッチ 、バロック期の詩人イヴァン・グンドゥリッチ、イリュリア運動に加わった詩人イヴァン・マジュラニッチ、小説家・劇作家・詩人のアウグスト・シェノア、児童文学作家イヴァナ・ブルリッチ=マジュラニッチ、作家でジャーナリストのマリヤ・ユリッチ・ザゴルカ、詩人・作家アントゥン・グスタヴ・マトシュ、詩人アントゥン・ブランコ・シミッチ、表現主義 およびリアリズム の作家ミロスラヴ・クルレジャ 、詩人ティン・ウイェヴィッチ、小説家のイヴォ・アンドリッチ などが挙げられる[ 35] [ 36] 。
クロアチアの民俗音楽 は地域によって大きく異なる。北部では旋律 やリズム がハンガリーと似ているが、タンブリツァ による伴奏がクロアチア的であるとされ、ヴァイオリン ・ツィンバロム といった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のようなシンコペーション は見られない。男性合唱による「クラパ 」はダルマチア 地方ではいまでも盛んに行われていて、観光客もよく耳にする。[ 37] また、1919年に創立されたザグレブ四重奏団 も名高い。
"Songs & Dances from Croatia"(Zagreb Folk Dance Ensemble / Dr.Ivan Ivančan - Mentor / EUCD 1500, dinaton & ®©1900, ARC Music Productions Int.Ltd.[ 38] ) "Folk Music from Croatia"(Tamburaski Sastav "Veritas"(Tambura Ensemble "Veritas") / EUCD 1078, ARC M.P.Int.Ltd.) 1954年に設立されたプーラ映画祭 (英語版 ) や1999年に設立のモトヴン映画祭 (英語版 ) が有名であり、2003年からは首都ザグレブにおいてザグレブ映画祭 (英語版 ) (ZFF)が開催されている。
また、「ZagrebDox 」と呼ばれる国際ドキュメンタリー映画祭が毎年2月下旬から3月上旬にかけてザグレブで開催される。
クロアチアはヨーロッパ諸国において建築の歴史が長い国の一国に数えられている。
世界遺産ドゥブロヴニク 旧市街 クロアチア国内には、ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が2件ある。(2025年8月現在)
祝祭日 日付 日本語表記 クロアチア語表記 備考 1月1日 元日 Nova Godina(ノヴァ・ゴディナ) 復活祭 および復活祭後の月曜日Uskrs i Uskršnji ponedjeljak(ウスクルス・イ・ウスクルシニ・ポネディイェルイェヤク) 変動あり 5月1日 メーデー Međunarodni praznik rada(メジュナロドニー・プラズニク・ラダ) イースターより60日後 聖体の祝日 Tjelovo (ティイェロヴォー) 移動祝日 6月22日 反ファシスト闘争記念日 Dan antifašističke borbe(ダン・アンティファシスティチュケ・ボルベ) 6月25日 国家 の日Dan državnosti(ダン・ドルジャヴノスティ) 8月5日 解放の日 Dan pobjede i Dan domovinske zahvalnosti(ダン・ポブイェデ・イ・ダン・ドモヴィンスケ・ザファルノスティ) 8月15日 聖母被昇天の祭日 Velika Gospa(ヴェリカ・ゴースパ) 10月8日 独立記念日 Dan nezavisnosti(ダン・ネザヴィスノスティ) 11月1日 諸聖人の日 Dan svih svetih(ダン・スヴィ・スヴェーティー) 12月25日 クリスマス Božić(ボージチュ) 12月26日 聖ステファノ 殉教者の祝日 Sveti Stjepan(スヴェーティー・スティエパン)
サッカー 2018 FIFAワールドカップ 決勝後のサッカークロアチア代表 サッカー はクロアチア国内で圧倒的に1番人気のスポーツ であり、旧ユーゴスラビア 時代から数多くの世界的な名選手を輩出している。1992年 にはサッカーリーグのプルヴァHNL が創設された。ディナモ・ザグレブ とハイドゥク・スプリト のダービーマッチ である『ヴィエチュニ・デルビ 』は、地域主義に根差したライバル 意識が強く、サポーター同士の衝突が頻繁に発生する。
クロアチアサッカー連盟 (HNS)によって構成されるサッカークロアチア代表 は、FIFAワールドカップ には1998年大会 で初出場を果たし、3位の好成績を収めた。さらに2018年大会 では旧ユーゴ時代を通しても初となる決勝進出を果たし、フランス代表 に敗れたものの準優勝に輝いた。キャプテン のルカ・モドリッチ は、同大会でゴールデンボール (最優秀選手)を受賞し[ 39] 、さらに同年にはFIFA最優秀選手賞 とバロンドール も獲得している[ 40] 。2022年大会 では日本代表 をPK戦 で下した上でブラジル代表 を破り、3位に入賞した。
バスケットボール アリーナ・ザグレブ クロアチアでは多くのNBA 選手を輩出しており、クロアチア代表 は独立後の1992年 に結成された。初めてのオリンピック となったバルセロナ五輪 では、マイケル・ジョーダン やマジック・ジョンソン らを擁する初代ドリームチーム を相手に決勝で敗れたものの、初出場で堂々の銀メダル を獲得した。また、1994年世界選手権 でも銅メダル を獲得している。さらにユーロバスケット では、1993年大会 と1995年大会 で銅メダルを獲得した。しかし、1996年 のアトランタ五輪 で7位に終わった後は長らく低迷が続いた。2008年 の北京五輪 でアトランタ大会以来の五輪出場を成し遂げ、再び復調の兆しをみせている。
テニス クロアチアはテニス も盛んであり、世界ランク2位を記録したゴラン・イワニセビッチ からイワン・リュビチッチ 、イボ・カロビッチ 、マリオ・アンチッチ 、マリン・チリッチ と、常に長身のビッグサーバーを輩出するテニス大国である。2005年 には国別対抗戦であるデビスカップ で、イワン・リュビチッチ とマリオ・アンチッチ の2人を中心に世界一に輝いた。
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