カラーテレビ(アメリカ英語:Color television, イギリス英語:Colour television)は、映像に色が付いているテレビジョン放送、またはこれに対応したテレビ受像機である。
現在の日常では「カラーテレビ」という用語はほとんど使われない。その理由は、カラーテレビが1970年代や1980年代に各国で標準化し、わざわざ「カラー」という標識(修飾語)をつけることが"冗長"だと感じられるようになったからである。#Color television(カラーテレビ)という用語が使われなくなった理由
現在では「カラー」を省略して単に「テレビ」と言う。「カラーテレビ」のほうは現在では基本的に、テレビの歴史(英語版) を解説する際に使う用語、あるいは博物館の展示品などで使われる用語である。
モノクロ画像をカラーにするため三原色に分解変換する必要があるが、NTSC・PAL・SECAMといった方式が出来上がるまでに模索期があり、大別すると「フィールド順次方式(逐次方式)」と「同時方式(並列方式)」、並びに後者に準じた「点順次方式」となる[1]。
テレビ画面を1コマ(フィールド)ごとに赤・緑・青と切り替え、これを高速化することで残像現象で自然な色彩像になるというもの[1]。
赤・緑・青の信号を同時に送りだすというもの。NTSC方式はこの方式の代表例である[1]。白黒放送の映像も見ることができ、上位互換性を保っている。また白黒テレビの受像器でも色は付かないものの映像を見ることができ、下位互換性を保っていることが強み(両立性[4])となり、こちらが主流になった。
カラーで画像を送る発想は1928年、イギリスのJ・L・ベアードが、三重スパイラルニポー円盤を使用して行った試みが最初で、翌年にはアメリカのベル研究所で飛点走査方式による実験が行われた[5]。
ブラウン管を使った実用的カラーテレビ方式の実験は、1940年のアメリカ・コロンビア放送による初期CBS方式の実験が最初だが、戦争のため中断され、戦後これが再開されて、1950年に一度CBS方式がアメリカのカラーテレビ放送の標準方式としてFCC(連邦通信委員会)に採用されたが、RCAを中心とするアメリカ電子工業会では従来の白黒テレビではCBS方式が全く受像できないことを理由に反対し、全米テレビジョン方式委員会(NTSC:National Television System Committee)を組織して全電子方式を開発し1953年に公表、同年にFCCはNTSC方式を標準方式として採用し、日本でも1960年にこの方式の採用が決定された[5]。
世界初のカラーの本放送はNTSC方式が先行し、1954年1月23日、アメリカのNBCのニューヨーク局であるWNBC局が最初にカラー放送を行った。日本では本放送に先がけ、1957年5月に東京晴海で行われた日本国際見本市で、アメリカ工業特設館がカラーテレビのデモンストレーションを実施。昭和天皇が視察したことで注目を集めた[6]。1960年9月10日に本放送が開始[7][注 1]。その後、PAL方式やSECAM方式もカラー本放送を開始していった。
ただし、この後すぐにカラーテレビが広まったわけではなく、アメリカでも1965年4月時点で白黒テレビ5260万台に対し、カラー330万台(推定)と白黒テレビの1割ほどであった。この年の後半になってから普及が活発化して、三大ネットワークの1つであったNBCがゴールデンアワーの95%をカラー放送し、残りのCBS・ABCもこれに刺激されて50%をカラー化した。
日本で登場したばかりの頃は「総天然色テレビジョン」と呼ばれていた。日本では1965年時点でも受像機の全国台数は5万台以下で、カラー番組の週間合計時間も東京の4社(NHK・日本テレビ・TBSテレビ・フジテレビ)が30時間程度という状況で、かつ民放のカラー番組もカラーテレビの普及促進上、家電メーカーの一社提供がほとんどという有様だったが、1964年の東京オリンピックを契機に電電公社の国内中継路線のカラー規格化がなされ、撮影方法・受像機共に画質の改善も行われたりした結果、受像機の生産台数もこの時期に急激に伸び始めた[5]。

1968年4月からNHKがラジオ契約を廃止してカラー契約を創設することにより、カラー放送を大幅に増やしたことなどから普及が促進され、1968年頃から1970年代にかけて「ユニカラー」(東京芝浦電気(現:東芝))、「パナカラー」(松下電器産業(現:パナソニック))、「キドカラー」(日立製作所)、「トリニトロンカラー」(ソニー)、「サンカラー」(三洋電機)、「純白カラー」(日本ビクター(現:JVCケンウッド))、「ロングランカラー」(シャープ)、「ダイヤトロン」(三菱電機)など各社から高性能カラーテレビが出揃った。それと同時に大量生産で値段が下がったことによって、1970年の大阪万博の前後から爆発的に普及し、1973年にはカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回った[8]。
1969年には日本が世界で生産第1位国になるものの、1970年に日本国外において日本国内よりも廉価で販売していたため、アメリカ政府からダンピング認定を受けたことから、日本国内で消費者団体により、価格が高止まりしたままのカラーテレビを買い控える運動が推奨された。また、こうした動きからダイエーがクラウン(当時存在した電機メーカー)と協力して5万円台のカラーテレビを発売するなど価格破壊を仕掛けて[9]、各メーカーは国内価格値下げを余儀なくされた。
1970年頃から、真空管を使用したカラーテレビは、トランジスタを使用したモデルに移行し始めた[10]。その後は日本国外への工場移転が進み、日本国内生産は薄型テレビへとシフトしていった。
カラーテレビの普及促進などの目的から、カラーテレビ時代を意識した番組やプロスポーツチーム(読売ジャイアンツ・オークランド・アスレチックスなど)も存在した。
カラーテレビ普及初期の番組表には、カラー放送の番組には「カラー」の表記あるいはそれを表す記号がされ、テレビ放送でも番組開始の冒頭でカラー放送を示すマーク(「【カラー】」等、局によって異なる)を数秒間表示していた。逆にカラー放送が急速に普及し、相対的に白黒番組の減少が著しくなった1971年頃より、白黒放送の番組に「モノクロ」と表記あるいはそれを表す記号がされるケースも見られた。
カラー放送であることを示す「INCOLOR」アイキャッチが海外のアニメでは冒頭に入っている場合があるが、日本での放映時では省略されることが多い。
日本で、再放送等を除いて完全にカラー放送となったのは1977年10月1日であった(NHK教育の完全カラー化によるもの)。新聞表記の「モノクロ」表記およびそれを表す記号もこの時期までに消滅した。
日本放送協会(NHK)はかつて日本放送協会放送受信規約に於いて、カラー契約、普通契約、衛星カラー契約及び衛星普通契約の4つを設け、カラーとモノクロを区別していた。
2007年10月1日に施行した現行の日本放送協会放送受信規約では、カラー契約及び普通契約は地上契約に、衛星カラー契約及び衛星普通契約は衛星契約にそれぞれ統合されている。
「カラーテレビ (color television)」という用語が使用されなくなった主要な要因は、その対概念である「白黒テレビ (monochrome television)」が市場および家庭から姿を消したことにある[11]。これにより、単に「テレビ」と呼ぶだけでカラー表示が可能であることが自明となり、「カラー」という限定的な修飾語が不要になったと考えられる[12]。この現象は、言語学において有標性の消失(Unmarkedness/Unmarking)、語の省略(Ellipsis)、または意味の一般化(Generalization)として体系的に説明される。
有標性の理論によれば、言語表現は特定の属性を持つ場合(例:「カラー」)を有標項(Marked term)、特定の属性を持たないか、あるいはデフォルトの状態を表す場合を無標項(Unmarked term)として区別する[13]。
カラーテレビが市場で多数派となり、デフォルトの製品仕様となった結果、「カラー」という情報が付加価値ではなく、単なる冗長な情報と認識されるようになったのである。
これにより、「テレビ」という無標項がカラーテレビを指す意味を包含するようになり、「カラー」という有標項が言語使用から消失していった。これは、「電気洗濯機」という用語が、手動の洗濯機が市場から消えたことに伴い、単に「洗濯機」と呼ばれるようになった現象と同一の言語学的メカニズムに基づいている[14]。
技術変化による言語の有標性・無標性の変遷を扱う関連論文としては次のものが挙げられる。
「カラーテレビ」という有標語は、各国におけるカラーテレビの販売優位性の確立と、それに続く白黒テレビの製造・販売の終焉により不要になっていった。
アメリカ合衆国におけるカラーテレビの普及は、1953年のNTSC規格採択後、特に1960年代半ばのテレビ番組のカラー化によって加速された。RCA (Radio Corporation of America)は、1954年に初めて一般消費者向けカラーテレビモデル「CT-100」を約1,000ドルで市場に投入した[18]。初期の販売価格は高額であったため、普及は緩やかであったが[19]。1972年に、アメリカのテレビ市場は決定的な転換点を迎え、カラーテレビの年間販売台数が、初めて白黒テレビの年間販売台数を上回った[20]。さらに、1972年末までに、全米のテレビ所有世帯の50%以上が少なくとも1台のカラーテレビを保有するに至り、カラーテレビが「標準」としての地位を確立した[21]。主要な大手家電メーカーは、1980年代に入ると、コンシューマー市場向けの白黒テレビの生産を縮小あるいは停止した。例えば、GE (General Electric)などのブランドは、1980年代初頭の製品カタログから白黒テレビを段階的に削除し、市場の大部分はカラー製品で占められた[22]。1972年の販売逆転から約10年後の1980年代前半には、大半の家庭において白黒テレビはすでに主要な視聴装置ではなくなり、「テレビ=カラー」という言語的デフォルトが確立され、Color televisionではなく、televisionやTVと呼ばれるようになっていった。
ソニーが1968年に発表した革新的なカラー受像管技術「トリニトロン (Trinitron)」(例:KV-1310)は、画質とコスト面での競争を激化させ、市場への浸透を加速させた[23]。1970年の大阪万博(日本万国博覧会)が、日本のカラーテレビ普及に決定的な影響を与えた[24]。その結果、日本国内の白黒テレビの年間出荷台数が、カラーテレビの年間出荷台数に逆転されたのは、アメリカよりも早い1970年であった[25]。この逆転後、1973年にはカラーテレビの世帯普及率が80%に達する爆発的な普及を見せた。日本の主要メーカーは、1970年代後半に大型の白黒テレビの生産を完全に終了し、白黒は小形のポータブル機に限定した。ソニー(Sony)の白黒テレビは、「TV-730」(1970年代半ば)や「TV-960」(1975年頃)のようなポータブルモデルが最終期の製品として確認されている[26]。これらのモデル以降、一部の例外を除き[注釈 1] 一般家庭向け白黒テレビの製造は1980年代初頭までに終了した。日本における白黒テレビの大量生産は1970年代後半で事実上終了しており、1980年代後半には、白黒テレビが家庭の物置(納戸)からも処分されてゆき日本人に意識されなくなったことで、「カラーテレビ」という有標語は日常語彙からほぼ完全に消滅したと推定される。
カラーテレビを、ドイツ語では「Farb-」(色)+「Fernseher」(テレビ受像機)の合成語である「Farbfernseher」と呼んだ。西ドイツは1967年にPAL規格でカラー放送を開始し、これはヨーロッパにおけるカラー化のパイオニアの一つであった[27]。西ドイツでは1970年代を通じてカラーテレビが急速に普及し、1970年代後半には白黒テレビの販売は大幅に減少した。ドイツのメーカー、例えばテレフンケン(Telefunken)などの主要ブランドは、国内市場向け白黒テレビの生産を1980年代初頭までにほぼ停止し、市場をカラー製品に完全にシフトさせた。これによりテレビ=カラーテレビというシフトが起き、「Farbfernseher カラーテレビ」という用語が使われなくなり、単に無標語の「Fernseher フェルンゼーアー(テレビ受像機)」と呼ばれるようになっていった。対照的に、("過去のもの"となっていった)白黒テレビを指す言葉は、色の情報を明示する「Schwarz-Weiß-」(黒白xxxx)という接頭辞が使われ続けた。
アルゼンチンは1978年のFIFAワールドカップを機に、PAL規格で部分的なカラー放送を開始し、1980年5月にフルタイムのカラー放送が正式に始まった[要出典]。カラー放送の本格化が遅かったため、白黒テレビの終焉も他国より遅れ、主要な白黒テレビの販売・製造が終了したのは1980年代後半であった。
中華人民共和国では変化が遅かった。中華人民共和国の白黒テレビの製造は1958年に始まったが、1978年までテレビはほとんどが白黒であった[28] 中国は1970年代後半からSECAMやPALなどの方式を導入し、徐々にカラー放送を拡大した。中国においてカラーテレビが本格的に普及し、白黒テレビを圧倒し始めたのは、経済成長が加速した1980年代中頃から後半にかけてである。低価格の小型白黒テレビは、遠隔地や農村部を中心に1990年代初頭まで販売が続けられ、都市部では1980年代後半にようやく「テレビ=カラー」の認識が確立した。