オーストリア共和国 Republik Österreich 国の標語:なし 国歌 :Land der Berge, Land am Strome (ドイツ語) 山岳の国、大河の国 ^ 南部ドイツ語 のうちオーストリアドイツ語 、バイエルン・オーストリア語 (公文書などは標準ドイツ語使用)オーストリア共和国 (オーストリアきょうわこく、ドイツ語 :Republik Österreich 、バイエルン・オーストリア語 :Republik Östareich )、通称オーストリア は、中央ヨーロッパ に位置する連邦共和制国家 。首都 はウィーン 。
西側はリヒテンシュタイン 、スイス と、南はイタリア とスロベニア 、東はハンガリー とスロバキア 、北はドイツ とチェコ と隣接する。基本的には中欧 とされるが、歴史的には西欧 や東欧 に分類されたことがある。
中欧 に650年間ハプスブルク家 の帝国として君臨し、第一次世界大戦 まではイギリス 、フランス 、ドイツ 、ロシア と並ぶ欧州五大国、列強 の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦 の敗戦と革命により1867年 より続いたオーストリア=ハンガリー帝国 が解体し、共和制 (第一共和国 )となった。この時点で多民族国家 だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人 が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。1938年には同じ民族の国家であるナチス・ドイツ に併合されたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国 軍による分割占領 の時代を経て、1955年の独立回復と永世中立国 化により現在に続く体制となった。
音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU 加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、国内でも右派政党 の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。
本項ではおもに1955年以降のオーストリア共和国に関して記述する。それ以前についてはオーストリアの歴史 、ハプスブルク君主国 、オーストリア公国 、オーストリア大公国 、オーストリア帝国 、オーストリア=ハンガリー帝国 、第一共和国 (オーストリア) 、アンシュルス 、連合軍軍政期 (オーストリア) を参照。
正式名称はRepublik Österreich (ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ )。
通称 Österreich (エースターライヒ)[ヘルプ /ファイル ] ['ø:stəraiç] [ 4] 。Ö は正確には日本語 の「エ」ではなく、丸めた「オ」の口をしながら「エ」を発音する音[øː] だが、日本語では「エ(ー)」で表記する慣習があるほか、日本人には「ウ(ー)」のように聴こえることもある。
公式の英語表記はRepublic of Austria 。通称Austria 、形容詞はAustrian (オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国 、通称オーストリア 。漢字表記 では墺太利 または澳地利 (略表記:墺 )と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記はエースタ (ー )ライヒ 、エスタ (ー )ライヒ 、または舞台ドイツ語 的表記によるエステ (ル )ライヒ であり、専門書や各種サイトなどで使用されている。
国名のÖsterreich は、ドイツ語で「東の国」という意味である。フランク王国 のころにオストマルク(「東方辺境領」)が設置されたことに由来する。OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味する(デンマーク (Danmark)の「マーク」と同じ)。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。
狭義のオーストリアはかつてのオーストリア大公領 であり、現在のオーストリアの領土のうちザルツブルク大司教領 やケルンテン 地方、シュタイアーマルク 地方、チロル 地方は含まれない。オーストリア大公 を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家を「オーストリア家」と呼ぶようになり、時代が下るにつれ同家が統治する領地を漠然と「オーストリア」と呼ぶようになった。1804年 のオーストリア帝国 の成立に際しても「『オーストリア』の地理的範囲」は具体的に定義されなかった。1918年 にオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ウィーンを首都にドイツ人が多数を占める地域で「国民国家オーストリア」が建設されるが、これは一地方の名前を国名に使用したことになる。
現在のオーストリアの行政区画では、かつてのオーストリア大公領は上オーストリア州 、下オーストリア州 に分割継承されている。
ドイツ語のエスターライヒのReich(ライヒ )はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でもFrankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。「Reich」には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。
なお隣国のチェコ語 ではRakousko / Rakúskoと呼ぶが、これは国境の一角の地名ラープス・アン・デア・ターヤ (ドイツ語版 ) に由来している。
オーストリアを統治してきたハプスブルク家 およびハプスブルク=ロートリンゲン家 は「オーストリア家(独 :Haus Österreich ,西 :Casa de Austria ,仏 :Maison d'Autriche ,英 :House of Austria )」とも呼ばれ、同家の成員はハプスブルク、ハプスブルク=ロートリンゲンの家名の代わりに「オーストリアの」を表す各国の言語で呼ばれる(e.g. Marie-Antoinette d'Autriche、マリー=アントワネット・ドートリシュ )。「オーストリア家」にはスペイン・ハプスブルク家も含まれることがあり、たとえば、フランス のルイ14世 の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ (スペイン語:マリア・テレサ・デ・アウストリア)はフランス語、スペイン語でそれぞれ「オーストリアの」とあって、スペイン・ハプスブルク家の王女である。日本語版Wikipediaでは、ハプスブルク家がドイツ系の家系であることから、記事名にはドイツ語の「フォン・エスターライヒ」(e.g.カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ )を使用している。
オーストリアはオーストラリア と間違えられることがある。「オーストリア」はドイツ語 Österreich「東の国; オーストリア」の Oster-「東」を同源のラテン語 auster-「南」で置き換えた呼び方であり、「オーストラリア」はラテン語 terra australis「南の地」に由来する。すなわち「オーストリア」と「オーストラリア」は共にラテン語 auster「南」に由来する。
日本では、オーストリア大使館 とオーストラリア大使館 を間違える人もおり、東京都 港区 元麻布 のオーストリア大使館には、同じく港区三田 の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている[ 5] 。
2005年日本国際博覧会 (愛知万博)のオーストリア・パビリオン で配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オース鳥 ア」、オーストラリアを「オース虎 リア」と覚えるように呼びかけている。
両国名の混同は日本だけではなく英語圏、ロシア語圏、トルコ語圏など多くの言語で見られ、聞き取りにくい場合は「ヨーロッパの」を表す形容詞が付け加えられる場合もある。しばしばジョーク などに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形にカンガルー のシルエット を黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識 に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA(オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツ などが売られている。フランス語 (オーストラリア: Australie /オストラリ/, オーストリア: Autriche /オトリシュ/)やチェコ語(オーストラリア: Austrálie, オーストリア: Rakousko)のように、両国を問題なく区別できる言語もある。
2006年10月に駐日オーストリア大使館 商務部は、オーストラリア との混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー 」に変更すると発表した[ 6] 。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。
発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使 (当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官 (商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。
しかし2006年 11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省 への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した[ 7] 。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。
その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁 、マスメディア などに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「朝日新聞 」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している[ 8] 。
大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断ったうえで
オーストリーの使用はそれぞれの企業の判断にゆだねる マーケティングで生産国が重要な企業にはオーストリーの使用を提案する 「オーストリーワイン」がその成功例である などと述べるにとどまっている[ 9] 。
日本では雑誌『軍事研究 』がオーストリーの表記を一部で用いている。
ローマ帝国 以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパ の地域にはさまざまなケルト人 が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国 はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人 、スラブ人 、アヴァール の侵略を受けた[ 10] 。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国 (658年 -828年 )を建国した。788年 にカール大帝 がこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた[ 10] 。東フランク王国 の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年 にバーベンベルク家 のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領 (marchia Orientalis )となった[ 11] 。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年 でOstarrîchi (東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した[ 11] 。
1156年 、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年 、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領 を獲得する。1230年 にフリードリヒ2世 (在位:1230年 -1246年 )が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国 フリードリヒ2世 とも対立。1241年 にモンゴル帝国 がハンガリー王国 に侵入(モヒの戦い )すると、その領土を奪い取った。1246年 にライタ川の戦い でフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶[ 12] 。その結果、ボヘミア王オタカル2世 がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン 各公領の支配権を獲得した[ 12] 。彼の支配は1278年 のマルヒフェルトの戦い で神聖ローマ皇帝 ルドルフ1世 に敗れて終わった[ 13] 。
1605年 のハプスブルク 皇帝の紋章 ザルツブルク はザルツブルク大司教領 (英語版 ) (1278年 -1803年 )となり、ザルツブルク大司教 フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン (ドイツ語版 ) が領主となった。1290年、アルブレヒト1世 がエンス渓谷の所有権と諸権利をめぐってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇ニコラウス4世 の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、ニーダーバイエルン公 、サヴォイア公 、ザルツブルク、アクイレイア 、コンスタンツ の聖界諸侯、旧ロンバルディア同盟 の諸都市、およびスイス 誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。選帝侯 を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、フランス を範にとり財政改革を行うことになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。レオポルト1世 はモルガルテンの戦い に敗れてフランスに接近した[ 14] 。
フリードリヒ3世 の死後一世紀あまりの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世 が没し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュ が伯位を継承したが(チロル女伯 )、領土の相続をめぐってルクセンブルク家 、ヴィッテルスバッハ家 、ハプスブルク家 が介入した。銀山のあるチロル は位置もイタリア政策 の拠点となりうる垂涎の的であった。
1358年 にハプスブルクはオーストリア大公 (オーストリア大公国 )を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世 は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下に置かれた。14世紀 から15世紀 にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得していく。領土の一円化はコンスタンツ公会議 でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年 にアルブレヒト2世 が義父ジギスムント の後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。
ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも獲得し始める。1477年 、フリードリヒ3世 の唯一の子であるマクシミリアン大公 は跡取りのいないブルゴーニュ公国 のマリー と結婚してネーデルラント の大半を獲得した[ 15] [ 16] 。彼の子のフィリップ美公 はカスティーリャ とアラゴン の王女フアナ と結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペイン を得て、さらにその領土のイタリア、アフリカ、新世界 をハプスブルク家のものとした[ 15] [ 16] 。
1526年 、モハーチの戦い でハンガリー王ラヨシュ2世 が戦死したあと、ボヘミア 地域とオスマン帝国 が占領していないハンガリー の残りの地域がオーストリアの支配下となった[ 17] 。1529年、第一次ウィーン包囲 。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題 )。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。1648年 にヴェストファーレン条約 が結ばれ、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。
1683年 の第二次ウィーン包囲 はオスマン帝国 のヨーロッパ侵略を打ち砕いた18世紀のウィーン レオポルト1世 (1657年 -1705年 ) の長期の治世では、1683年 のウィーン包囲戦 の勝利(指揮をしたのはポーランド王 ヤン3世 )[ 18] に続く一連の戦役(大トルコ戦争 、1683年 -1699年 )の結果締結された1699年 のカルロヴィッツ条約 により、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリー 全土・トランシルヴァニア公国 ・スラヴォニア を獲得した。カール6世 (1711年 -1740年 )は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー 、en:Principality of Transylvania (1711–1867) 、スラヴォニア王国 )。カール6世は国事詔書 を出して家領不分割とマリア・テレジア にハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに、領土と権威を明け渡してしまった。
カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争 (1740年 -1748年 )が起き、アーヘンの和約 で終結。プロイセン領となったシュレージエン をめぐって再び七年戦争 (1756年 -1763年 )が勃発。オーストリアに勝利したプロイセン の勃興により、オーストリア=プロシア二元主義 が始まる。オーストリアはプロイセン、ロシア とともに第1回および第3回のポーランド分割 (1772年 と1795年 )に加わった。
ジャン・バティスト・イザベイ 作「ウィーン会議 」(1819年 )フランス革命 が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオン に敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年 に消滅した。この2年前の[ 19] 1804年 、オーストリア帝国 が宣言されている。1814年 、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争 を終わらせた。1815年 にウィーン会議 が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における4つの列強国のひとつと認められた(ウィーン体制 )。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦 が作られる。
未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争のためにドイツは統一国家を目指した[ 20] 1848年革命 に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一 は大ドイツ か、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦 のいずれかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年 にフランクフルト国民議会 がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年 、オーストリアとプロイセンは連合してデンマーク と戦い、シュレースヴィヒ公国 とホルシュタイン公国 をデンマークから分離させた(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 )。しかしオーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年 に普墺戦争 を開戦する。ケーニヒグレーツの戦い [ 20] で敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった[ 21] [ 22] 。
1867年 のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ )により、フランツ・ヨーゼフ1世 を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国 の二重帝国が成立した[ 23] 。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人 、ポーランド人 、ウクライナ人 、チェコ人 、スロバキア人 、セルビア人 、クロアチア人 、さらにはイタリア人 、ルーマニア人 の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。
この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。たとえばチスライタニア (オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告 (Reichsgesetzblatt ) は8言語で発行され、すべての民族は各自の言語の学校で学ぶことができ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対にほかの民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。
1910年時点のオーストリア=ハンガリーの言語民族地図 1914年 にフランツ・フェルディナント大公 がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア に宣戦布告し、紛争は第一次世界大戦 に発展した。
4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリア の中央同盟諸国 の戦況は1918年 後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日 に連合国と休戦条約を結び、事実上の降伏をした。
第一次世界大戦の降伏直後にオーストリア革命 が起こり、皇帝カール1世 は「国事不関与」を宣言して共和制(ドイツ=オーストリア共和国 )に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉を迎えた。
1919年 に連合国とのサンジェルマン条約 が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキア が独立し、そのほかの領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の4分の1程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方 やユーゴスラビア 、イタリア などに分かれて住むことになった[ 24] 。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツ=オーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。
戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年 に経済立て直しのために国際連盟 の管理の下での借款が行われ、1925年 から1929年 には経済はやや上向いてきたがそこへ世界恐慌 が起き、1931年にクレディタンシュタルト が倒産した。
1933年 、キリスト教社会党 のエンゲルベルト・ドルフース によるイタリア・ファシズム に似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム )[ 25] [ 26] 。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党 の二大政党があり各々民兵組織を有していた[ 27] 。対立が高まり内戦(2月内乱 )となる[ 25] [ 26] [ 28] 。
進駐ドイツ軍を歓迎するウィーン市民 内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し[ 29] [ 28] 、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス (ドイツ語版 ) のクーデターが起こり暗殺された[ 30] [ 31] 。後継者のクルト・シュシュニック はナチスドイツ から独立を守ろうとするが、1938年 3月12日 、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した[ 32] 。3月13日 にアンシュルス (合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラー が母国をドイツと統一させた。
オーストリアは第三帝国 に編入されて独立は失われた。ナチスはオストマルク法 を制定してオーストリアをオストマルクとし[ 32] 、1942年 にアルペン=ドナウ帝国大管区群 と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年 4月13日 、ソ連軍 によるウィーン攻勢 によってウィーンは陥落した。カール・レンナー がソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し[ 33] 、4月27日 に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は26万人[ 34] 、ホロコースト によるユダヤ人 の犠牲者は6万5,000人に上っている[ 35] 。
ドイツと同様にオーストリアもイギリス 、フランス、ソ連、アメリカ によって分割占領され、オーストリア連合国委員会によって管理された(連合軍軍政期 )[ 36] 。1943年 のモスクワ宣言 のときから予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり[ 33] 、ドイツ同様に分断されるおそれがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリン の傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた[ 37] 。
冷戦 の影響を受けて数年かかった交渉の末、1955年 5月15日 、占領4か国とのオーストリア国家条約 が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年 10月26日 、オーストリアは永世中立 を宣言した[ 38] 。1995年に欧州連合 へ加盟し[ 39] 、間接的な憲法改正は加えられている[ 38] 。
インスブルック は1964年 と1976年のオリンピック を開催した。第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年および1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ (比例配分主義:Proporz )に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党 と国民党 の党員に平等に分配されるというものである[ 40] 。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある[ 41] 。1945年以降、単独政権は1966年 -1970年 (国民党)と1970年 -1983年 (社会党)のみで、ほかの期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)のいずれかになっている。
1970年 - 1983年の社会党政権における経済政策はおおむね自由化を進める方向で動いた。このような社会党政権のときに国連事務総長をつとめてきたクルト・ヴァルトハイム が、1986年に大統領となった。
同国の政体は連邦共和制 となっている。
2025年1月10日より暫定的に首相を務めているアレクサンダー・シャレンベルク 国家元首 の連邦大統領 (Bundespräsident )は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は連邦会議 (Bundesversammlung )で行われる。
連邦政府の首班は連邦首相 (Bundeskanzler )。連邦政府 (Bundesregierung )は国民議会における内閣不信任案の可決か、自発的な辞任、総選挙での敗北でしか交代することはない。
オーストリア国会議事堂 議会 は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会 (Nationalrat )と各州議会から送られる62議席の連邦議会 (Bundesrat )から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか拒否権を行使できない。
連邦会議は非常設の連邦機関で、国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とし、大統領宣誓式のほかには、任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認の権限がある。
政党には、中道右派のオーストリア国民党 (ÖVP)、中道左派のオーストリア社会民主党 (SPÖ、旧オーストリア社会党、1945 - 1991)、極右のオーストリア自由党 (FPÖ)、自由党から分かれて成立したオーストリア未来同盟 (BZÖ、自由党の主要議員はこちらに移動)、環境保護を掲げる左派の緑の党 、左翼のオーストリア共産党 がある。
2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため、2007年まで7年間続いた中道右派・オーストリア国民党と極右(自由党→オーストリア未来同盟)の連立政権が解消され、再び中道左派・社会民主党と国民党の大連立 に移行した。2008年7月に国民党が連立解消を決め、9月に国民議会選挙が実施された。その結果、社会民主党と国民党の第1党・第2党の関係は変わらなかったものの、両党ともに議席をこの選挙で躍進した極右の自由党と未来同盟に奪われる形となった。その後、およそ2か月にわたる協議を経て、社会民主党と国民党は再び大連立を組むこととなった。中道右派、中道左派、極右は第一共和国 時代のキリスト教社会党 ・オーストリア社会民主労働党 ・ドイツ民族主義派(諸政党…「農民同盟」、「大ドイツ人党」、「護国団 」などの連合体)の3党に由来しており、1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。
民事裁判と刑事裁判などの司法権 は最高裁判所に属し、大統領や国会議員、最高裁判所裁判官の罷免や違憲審査 、その他の憲法訴訟は憲法裁判所 (英語版 ) が管轄する。韓国やドイツの憲法裁判所とは違い、憲法解釈での衝突は微小である。
オーストリア共和国は第二次世界大戦 後の連合国 による占領を経て、1955年 に永世中立 を条件に独立を認められ、以来東西冷戦中もその立場を堅持してきた。このため東側諸国からもオーストリアへの入国は比較的自由であり、長い間、亡命 者を受け入れる窓口の役割を果たしてきた。1978年上半期の亡命者数として1372人の記録が残されているほか[ 42] 、1989年の冷戦末期には汎ヨーロッパ・ピクニック を通じて東ドイツから一度に1000人以上の大量の亡命者がやってきた。
欧州経済共同体 に対抗するために結成された欧州自由貿易連合 には、1960年の結成時からメンバー国だったが、1995年の欧州連合 加盟に伴い脱退した。
加盟した欧州連合においては軍事面についても統合が進められており、永世中立国は形骸化したとの指摘がある。国民の間には永世中立国堅持支持も多いが、非永世中立国化への方針が2001年1月の閣議決定による国家安全保障ドクトリンにおいて公式に記述されたことにより、国内で議論が起こっている。
歴史的、地理的に中欧 ・東欧 や西バルカン の国と関係が深く、クロアチア などの欧州連合加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。トルコ の欧州連合加盟には消極的な立場をとっている。日本とは1869年 に日墺修好通商航海条約 を締結して以来友好な関係で、特に音楽方面での交流が盛んである。第一次世界大戦 では敵対したが、1955年の永世中立宣言に対しては日本が最初の承認を行った[ 43] 。
2011年に隣国のリヒテンシュタイン がシェンゲン協定 に加盟したことにより、周囲の国家がすべて同協定の加盟国となり、国境管理を行っていない。
国軍として陸軍および空軍 が編制されている。徴兵制を有し、18歳に達した男子は6か月の兵役に服する。名目上の最高指揮官は連邦大統領 であるが、実質上は国防大臣が指揮をとる。北大西洋条約機構 には加盟していないが、欧州連合に加盟しており、それを通じた安全保障政策が行われている。
オーストリアの地形 最高峰グロースグロックナー山 国土面積は日本 の北海道 とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きくアルプス山脈 、同山麓、カルパチア盆地(パンノニア低地)、ウィーン盆地 、北部山地(ボヘミア高地)に分けられる。アルプスが国土の62%を占め、海抜500メートル以下は全土の32%に過ぎない。最高地点はグロースグロックナー山 (標高3,798メートル)である。アルプスの水を集め、ドイツから首都ウィーンを通過して最終的に黒海に達する国際河川 がドナウ川である。1992年にライン川やマイン川を結ぶ運河が完成し北海との交通が可能となった。
ドナウ川 、オーストリア最長の川気候は大きく3つに大別される。東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。
オーストリアの地図 ザルツブルク 旧市街リンツ のメイン広場9つの州 が存在する。このように8つの州とウィーンからなるために、9角形の硬貨が発行されたことがある[ 44] 。なお、9角形とはいっても、辺は直線ではなく曲線、すなわち、曲線多角形の硬貨である。
名称 人口(人) 州都/主府/本部 備考 ブルゲンラント州 Burgenland 277,569 アイゼンシュタット Eisenstadt ケルンテン州 Kärnten 559,404 クラーゲンフルト Klagenfurt ニーダーエスターライヒ州 Niederösterreich 1,545,804 ザンクト・ペルテン St. Pölten オーバーエスターライヒ州 Oberösterreich 1,376,797 リンツ Linz ザルツブルク州 Salzburg 515,327 ザルツブルク Salzburg シュタイアーマルク州 Steiermark 1,183,303 グラーツ Graz チロル州 Tirol 673,504 インスブルック Innsbruck フォアアールベルク州 Vorarlberg 372,791 ブレゲンツ Bregenz ウィーン Wien 1,550,123
グラーツ の旧市街国内最大の都市であるウィーンは国際機関 も集積する、欧州有数の世界都市 である オーストリアは1999年よりユーロ を導入している 日本貿易振興機構 の推計値では、2019年 の一人当たりの名目GDP は50,023ドルである[ 45] 。これは同年のEU平均値である35,774ドル[ 46] の1.4倍に迫る。また、1990年 以降の統計で、一人当たりの名目GDPは世界で概ね10~15位で推移しているが、20位以下に脱落したことはなく(最高順位は1995年 の7位で当時30,351ドル)[ 47] 、経済的に豊かで安定した国である。主要産業としては、シュタイアーマルク州 の自動車産業、オーバーエスターライヒ州 の鉄鋼業などがある。大企業はないものの、ドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っている。ウィーン やザルツブルク 、チロル を中心に観光産業も盛んである。失業率はほかの欧州諸国と比較して低い。欧州の地理的中心にあることから近年日本企業の欧州拠点、工場なども増加しつつある。オーストリアにとって日本はアジア有数の貿易相手国である。ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして歴史を持つAKG は、クラシック愛好者を中心に日本でも有名である。金融では、オーストリア銀行 、エルステ銀行 、ライフアイゼンバンク、BAWAG、フォルクスバンクが主要銀行である。その他の企業についてはオーストリアの企業一覧 も参照のこと。
オーストリアはシェーンブルン宮殿 やハルシュタット湖 、アルプス山脈 に音楽の都ザルツブルク など多くの歴史的構造物や自然が存在し[ 48] 、毎年約4000万人の観光客が本国を訪れている[ 49] 。
GDPに占める観光業の割合は17%と非常に高い上、市場調査・分析・宣伝を担う観光局は連邦経済会議所からの拠出金や宿泊事業者による宿泊税の納入、労働経済省の予算等多額の予算を様々な機関から得ておりオーストリアにおいて観光は重要な産業である。
さらに持続可能性を重要視する同国の観光業では観光の基本的本質を定めた「Tプラン」が2019年に策定されていて、九つの指針を通じて大きな観光要素となる自然環境の保護を図っている[ 50] 。
ÖBB (オーストリア国鉄 )が主要幹線を網羅しており、山岳部ではゼンメリング鉄道 をはじめとする登山列車なども運行している。ウィーンでは地下鉄 やSバーン 、路面電車 なども運行され、インスブルックやリンツなどの主要都市にも路面電車がある。
ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。ウィーン国際空港 では、ドイツ語の案内放送のあと、英語で案内放送がある。
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帝国時代の民族分布 「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかしオーストリア民族はいない。 国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス(de:Hellmut Andics )がオーストリア帝国を評したものであるが、実際に今のオーストリアの領土はかつての「ドイツ人の 神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「ドイツ人の 神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなく、オーストリア人という概念はきわめて新しい。
ドイツ語 を母語 とするオーストリア人 は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっているものの、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常ゲルマン民族 とみなされる。
オーストリア人はドイツ人 に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。もともとオーストリアはプロイセン 、バイエルン などと同じくドイツを構成する分邦のひとつであり(古くはバイエルンの一部であり、ドイツ人を支族別に分けるとオーストリア人はバイエルン族 である)、しかも12 - 19世紀の間、オーストリア大公家であるハプスブルク家 がドイツ帝国(神聖ローマ帝国 )の帝位やドイツ連邦 議長国の座を独占していた。形骸化していたとはいえ、神聖ローマ帝国が長年ドイツ諸邦の盟主だった歴史は無視できない。オーストリア=ハンガリー二重帝国 の崩壊によって、オーストリアの国土が民族ドイツ人居住地域に限定されると、左右を問わずにドイツ への合併を求める声が高まり、第一次大戦敗戦直後は「ドイツ・オーストリア共和国」という国名を名乗っており、国歌の歌詞には「ドイツ人の国」という言葉が1930年代まで残っていた。1945年のブリタニカ百科事典には、オーストリアをドイツから除外した小ドイツ主義 のビスマルク体制 の方が歴史的例外であり、ヒトラーの独墺合併は元の自然な形に戻したにすぎないという記述があり、連合国側にすら戦後の統一ドイツ維持を支持する見方があったことを伺わせる。しかし、この民族自決 論を逆手に取ったオーストリア人のヒトラー の行為に対する反省から、戦後は「ドイツ人と異なるオーストリア人」という国民意識が誕生し、浸透した。ドイツ側はさらにソヴィエト占領地区の分離が余儀なくされていた。こうして3つの国家(オーストリア、東ドイツ 、西ドイツ)、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるという意識が育ち、さらにはエスニシティ においてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、ドイツ統一 ・欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり、国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。
「ドイツ人」という言葉には、国家・国民以前に「ドイツ語 を話す人」というニュアンスが強い。ゲルマン民族が西進しフランク王国を立てたのち、西部や南部でラテン語との同化を選択した勢力(フランス人、イタリア人、スペイン人の一部の先祖となる)には加わらず、もともとのゲルマン語を守り続けてきた東フランク人が「ドイッチュ」(古来は民衆を意味した。当初ラテン語が支配階層のみで使われたため)の名でドイツ人の先祖となったためである。その後、ドイツ語は英語 やフランス語 と違い、ほとんど他民族では母語化しなかったため、言語と民族概念とが不可分となっている。オーストリアでは「ドイッチェ~」で始まる市町村名が、東南部をはじめ数多く見られるが、これらの名称も今日となってはドイツ人の街と解釈するのかドイツ語の街と解釈するのかは微妙である。いずれにせよ、ドイツ連邦共和国よりもオーストリアの方にこの地名が多く見られるのは、ドイツ圏全体からは東南に偏して他民族地域との境界に接し「ドイツ」を強調する必要があった地域特性を示している。また、オーストリアを多民族国家として論じる場合、現在の版図では9割を占める最多数派の民族を「ドイツ人」と呼ばざるをえないという事情もある(ゲルマン人では曖昧すぎ、オーストリア人と呼んでしまうと、少数民族はオーストリア人ではないのかということになってしまう。これは、移民の歴史が古く、民族名とは異なる国号を採用した同国ならではのジレンマである)。1970年代におけるブルゲンラント州 、ケルンテン州 でのハンガリー系、スラブ系住民の比率調査では、もう一方の選択肢は「ドイツ人」だった。近年の民族主義的傾向には、こうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面、拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。
今日ウィーン市内では、ドイツ国歌 を高唱する右派の学生集会なども見られる。ただし、元をただせば現在のドイツ国歌は、ハイドン が神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世 を讃えるために作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え 』の歌詞を替えたものであり、19世紀後半にはオーストリア帝国 の国歌となっていた。ナポレオン戦争 における神聖ローマ帝国の勝利と帝国の権威維持を祈願して当曲が作られた当時はオーストリア国家は存在せず、アウステルリッツの戦い に敗戦してローマ帝位を辞するまでフランツ2世は形式的には直轄地オーストリア地域をふくめる全ドイツ人の皇帝だったため、両国共通のルーツを持つ歌ともいえる(ちなみに先代のハプスブルク家当主のオットー・フォン・ハプスブルク は1999年まで欧州議会議員を西ドイツ選出でつとめた)。しかし、外国人観光客が右翼学生たちを奇異な目で見るのは、国歌のメロディではなく、政治的には外国であるドイツを「わが祖国」と連呼する歌詞をそのまま歌っている点である。
ブルゲンラント州 は1921年 まではハンガリー王国 側だったため、今日でもハンガリー系、クロアチア系が多い。ケルンテン州 にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代の調査によれば1 - 2%であるが、自己申告制であるため、実際にはドイツ人と申告した中にもかなりの外国系住民が含まれると思われる。そのため、標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。
外国人や移民は人口の9.8%を占め、ヨーロッパ有数の移民受入国である。その多くがトルコ人 と旧ユーゴスラビア 諸国出身者である。
オーストリアを含むドイツ語 の方言区分 ドイツ語 が公用語 であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の口語 で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部などと同じ上部ドイツ語 (Oberdeutsch )系の方言(オーストリアドイツ語 )である。この方言は、フォアアールベルク州で話されているもの(スイスドイツ語 に近い)を除き、バイエルン と同じ区画に属するバイエルン・オーストリア語 である。オーストリアでは、テレビ 、ラジオ の放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。
またオーストリア内でも多くの違いがあり、ウィーンやグラーツなどで話されている東オーストリアの方言と西オーストリアのチロル州の方言は随分異なる。
東オーストリアの方言では
-lMädl(Mädchen) nの後にlがくる場合、nがdになる:Pfandl(< Pfann(e) フライパン)、Mandl(< Mann 人、男性) -erlKipferl Ein Momenterl (少々お待ちください) となる。
南部のケルンテン州にはスロベニア人 も居住し、Windisch(ドイツ語とスロベニア語の混声語)と呼ばれる方言も話されている。首都ウィーンの方言は「ヴィーナリッシュ(ウィーン訛り)」として知られ、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国 の領土だったハンガリー ・チェコ ・イタリア などの諸国の言語の影響が残っていると言われている。
また、単語レベルでみた場合、ドイツと異なる語彙も数多く存在するほか、ドイツとオーストリアで意味が異なる単語もあるため注意が必要である。
婚姻の際、2013年までは、原則として「夫または妻の氏(その決定がない場合は夫の氏)を称する(同氏)。自己の氏を後置することもできる[ 51] 」とされていた。しかし2013年4月以降、「婚前に特に手続きしない限り、原則として婚前の氏を保持する(夫婦別姓 が原則)」と変更された[ 52] [ 53] 。これまで通りの選択も可能であるが、その場合婚前に手続きが必要となる。また、別姓での結婚において夫婦が子の姓について合意できない場合は母の姓となる規定がある[ 54] 。これには母子家庭以外でも子が母の姓を名乗るケースを認めることで、親子関係と姓で婚外子 だと分からないようにするという、婚外子差別をなくす意味合いがある[ 54] 。2019年1月1日より同性結婚 が可能になった[ 55] [ 56] 。
宗教 は、553万人(66.0%)がローマ・カトリック に属している(2009年)。プロテスタント のうち、約31万人(3.7%)がルター派 のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派 に、1万4,000人(0.165%)が改革派 のオーストリア福音主義教会スイス信仰告白派に属している。51万5,914人(6.2%)がイスラム教に属している(2009年)。さらに、ユダヤ教 もいる。
3~5歳児を対象とする幼稚園 での就学前教育を経た後は[ 57] 国民学校(Volksschule)での4年間の初等教育 があり、国民学校卒業後の中等教育 以降はギムナジウム (Gymnasium、中学校 及び高等学校 に8年間通った後大学 へ入学するコース)とノイエミッテルスシューレ (Neue Mittelschule、4年間中学校に通学した後専門学校若しくはギムナジウム高等科へ入学するコース)の二つのコースから進路を決定できる。
新学期は9月からで、また首都のウィーン には日本人国際学校が存在する[ 58] 。
義務教育は6~15歳の9年間[ 59] 。
国民だけでなく、在留資格のある外国人は国民健康保険に加入することができる。但し、保険料は収入で異なり、利用するまでに半年待たされる可能性がある[ 60] 。地方でさえも手厚い医療を受けられるように整備されている[ 61] 。2010年欧州ソブリン危機 後、当時の保健大臣であったアロイス・ストーガー (英語版 ) が医療費の上限を導入する必要があると声明発表[ 62] 。発表により、医療制度がさらに複雑化することが懸念された。2015年に先進国の中でオーストリアの加重薬物使用率が5位であったことを受け、薬物の危険性も指摘されている[ 63] 。
2023年02月時点で外務省 は、「オーストリアの治安状況は一見すると安全に思えますが、スリや置き引きなどの犯罪が頻繁に発生しており、日本の生活感覚のまま行動すると犯罪被害に遭いかねません。特に、観光地や空港、駅、公共交通機関の車内、ホテルのフロント、レストラン、カフェなどで貴重品の入ったカバンや財布が盗まれる被害が多数発生していることから、これらの場所や人混みの中を移動する場合は、所持品に十分な注意を払って行動してください。また、近年、夜間に駅のトイレなどで女性が強姦されるなどの性犯罪事件も増えています。人通りの少ない場所は昼間でも避け、また、夜間に外出する際は十分に注意してください」としている[ 64] 。
オーストリアは欧州諸国の中でも比較的治安情勢が安定しているものの軽犯罪などは多発していて、2022年の犯罪認知件数は約49万件と前年比で19%増加している[ 65] 。また大都市での駅周辺は夜間帯に窃盗等が発生する危険性が高く、比較的安全な国といえど外出の際はある程度の注意が必要となる[ 66] 。
ウィーン国立歌劇場 モーツァルト はザルツブルク に生まれ、25歳からウィーン に定住したフランツ・ヨーゼフ・ハイドン 18世紀後半にウィーン古典派 が興って以降、ウィーンはクラシック音楽における重要な都市となり、やがて「音楽の都」と呼ばれるようになった。オーストリア出身の重要な作曲家には、ハイドン 、モーツァルト 、シューベルト 、ブルックナー 、ヨハン・シュトラウス2世 、マーラー 、ベルク などがいるが、いずれもウィーンを活動の拠点とした。このほか、ドイツ出身のベートーヴェン 、ブラームス もウィーンで活動した。音楽家についてはCategory:オーストリアの作曲家 を参照。
これらの伝統を引き継ぎ、演奏活動の面では現在もウィーンはクラシック音楽の重要な拠点となっている。
ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産 が11件、自然遺産 が1件存在する。そのうち、4件の文化遺産と1件の自然遺産はほかの国にまたがっている[ 67] 。
サッカー オーストリア国内ではサッカー が最も人気のスポーツ となっており、1911年 にプロサッカーリーグの『ブンデスリーガ 』が創設された。さらに1924年 には2部リーグの『2.ブンデスリーガ 』も創設されており、1部と2部の全チームが完全なプロリーグとして運営されていた。名門クラブとしてレッドブル・ザルツブルク が存在し、2017年 に国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS)が発表したクラブ世界ランキングで10位にランクされた[ 69] 。
オーストリアサッカー協会 (ÖFB)によって編成されるサッカーオーストリア代表 は古豪として認識されており、1930年代前半にはヴンダーチーム と呼ばれ、世界最強と称された。これまでFIFAワールドカップ には7度の出場歴があり、1954年大会 では3位に輝いている。しかしUEFA欧州選手権 には2008年大会 でようやく初出場を果たし、2021年大会 で初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。世界的に有名な選手としては、バイエルン・ミュンヘン やレアル・マドリード で活躍しているダヴィド・アラバ などが挙げられる。
ウィンタースポーツ 冬季オリンピック で数多くのメダルを獲得することから分かるように、オーストリアでもその寒冷な気候と山がちな地形を利用したウィンタースポーツ が盛んに行われている。過去にはインスブルック で1964年 と1976年の冬季オリンピック 、1984年 と1988年の冬季パラリンピック 、2012年の冬季ユースオリンピック が開催された。ウィンタースポーツの中でも、アルペンスキー は絶大な人気を誇り、冬季オリンピックで計4個のメダルを獲得しているヘルマン・マイヤー は国民的スターでもある。2006-2007年シーズンでは男女計12種目のうち、実に7種目をオーストリア人選手が制覇している。ライフル射撃 競技とクロスカントリースキー を組み合わせたバイアスロン の強豪国でもあり、国際スキー連盟 とは独立している国際バイアスロン連合 は、その本部をオーストリアのザルツブルク に置いている。
ノルディックスキー もオーストリア国内で人気が高く、ノルウェー 、フィンランド 、ドイツ とともに強豪国として名高い。アンドレアス・ゴルトベルガー (ジャンプ 1993年、1995年、1996年FIS・W杯総合優勝)、フェリックス・ゴットヴァルト (ノルディック複合 2001年FIS・W杯総合優勝)、トーマス・モルゲンシュテルン (ジャンプ2008年FIS・W杯総合優勝)といった有名選手を輩出している。近年では2006年トリノオリンピック のジャンプ競技で金メダルを獲得している。
モータースポーツ F1のレッドブル・レーシング ラリーレイド のレッドブル・KTMモータースポーツは、オーストリアで3番目に人気のあるスポーツである(スキーとサッカーに次ぐ)。数人のオーストリアのドライバーがF1 で成功を収めている。最も有名なドライバーは3度のF1世界チャンピオンであるウィーン出身のニキ・ラウダ である。彼はニュルブルクリンク の大事故で瀕死の重症を負いながらも3度の世界チャンピオン(1975年、1977年、1984年)を獲得、25歳でF1世界チャンピオンシップを奪取した7番目のドライバーである。
ヨッヘン・リント もモンツァ・サーキット のレースで事故死後、故人として1970年の世界チャンピオンとなった。リントはまた、1965年のルマン24時間レース でも優勝した。ゲルハルト・ベルガー も1988年と1994年にチャンピオンシップ3位にランクインし、10回のグランプリ勝利と48回の表彰台を獲得した。
近年は2010年 から2013年 にかけてF1の製造者部門(コンストラクター)で4連覇を果たし、2021年からホンダ エンジンで再び選手権を連覇しているレッドブル・レーシング が最も知られる。
F1オーストリアグランプリ は1963年、1964年、1970年から1987年、1997年から2003年、そして2014年から開催されている。
モータースポーツの上位2つの会場は、エステルライヒリンク とザルツブルクリンク である。前者はオーストリアグランプリ、オーストリアモーターサイクルグランプリ、そして1000kmのツェルトベク耐久スポーツカーレースを主催した。後者はまた、オーストリアのオートバイグランプリ、スーパーバイク 世界選手権、ヨーロッパのフォーミュラ2 選手権、そしてドイツツーリングカー選手権 やスーパーツーリングカー選手権などのドイツのトップシリーズを開催した。
KTM は主にオフロードバイクでの実績が多く、モトクロス やエンデューロ の世界選手権で長らくトップチームとして活躍している。特にダカール・ラリー の二輪部門で18連覇という金字塔を打ち立てている。ホンダ をはじめ、日本メーカーが圧倒的な力で支配する二輪モータースポーツの世界でこの記録は驚異的といえる。KTMはハスクバーナ (旧フサベル との合併)、ガスガス といったメーカーも接収して基本設計も共通化しており、その勢力は強大なものになっている。KTM/ハスクバーナ/ガスガス連合はサーキットレースでも存在感を示し始めており、2021年時点でMoto3で4度王者を輩出している。オーストリア人ライダーとしてはマティアス・ウォークナーが2018年にKTMでダカール王者となっている。MotoGP では1954年にルパート・ホラースが一度125ccでタイトルを獲得したきりとなっている。
ヤマハ発動機 の耐久レースのファクトリーチームでもあるYART(ヤマハ・オーストリア・レーシング・チーム)はオーストリアのチームである。
このほかダカール・ラリーで建機メーカーのピンツガウアーが第一回大会でトラック最上位を獲得している(当時は部門として見做されなかったので優勝扱いにはならず)。また日野自動車 に唯一のトラック部門優勝をもたらしたJP-ライフもオーストリア人である。
自転車競技 自転車ロードレース では、ゲオルク・トーチニヒ (ドイツ語版 、英語版 ) やベルンハルト・アイゼル がツール・ド・フランス やジロ・デ・イタリア といった世界最高峰のレースで活躍した。現在はパトリック・コンラート やマティアス・ブレンドレ などが知られている。オーストリア最大のステージレース(複数の日数にわたって行われるレース)「エースターライヒ・ルントファールト 」はUCIプロシリーズ という上から二番目のカテゴリーに分類されており、ツール・ド・フランスと同時期の7月に開催されるが、その年のツール・ド・フランスに出場しない大物選手が数多く出場している。
アーノルド・シュワルツェネッガー (2012年) 彼は現在のオーストリア共和国成立後、もっとも世界的に有名になったオーストリア出身者の一人である。ウィーンでは、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国 の各地(イタリア 〈南チロル 〉、ハンガリー 、チェコ 、スロバキア 、ポーランド 〈ガリツィア 〉、スロベニア 、クロアチア 、ルーマニア 、ブコビナ )の出身者が活躍した。
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