この項目では、主に現代 のエジプト・アラブ共和国について説明しています。古代 については「古代エジプト 」をご覧ください。
エジプト・アラブ共和国 جمهورية مصر العربية 国の標語:なし 国歌 :بلادي، بلادي، بلادي (アラビア語) 我が祖国 エジプト・アラブ共和国 (エジプト・アラブきょうわこく、アラビア語 : جُمْهُورِيَّة مِصْرَ العَرَبِيَّة )、通称 :エジプト (アラビア語 :مِصْرُ )は、中東 および北アフリカ に位置 する共和制 国家 。首都 はカイロ であるが、カイロ東郊・新行政首都 への首都移転が進められている[ 3] 。
アフリカ大陸 では北東端に位置し、西にリビア 、南にスーダン 、北東のシナイ半島 ではイスラエル 、パレスチナ国 ・ガザ地区 と国境 を接する。北部は地中海 、東部は紅海 に面している。
エジプトは中東とアフリカ大陸の接点に存在し、古代文明 が存在していた地域のひとつに数え上げられる。その文字記録された歴史 は紀元前4千年紀 にまで遡れる。民族 ・宗教的 にはアラブ世界 、イスラム世界 の一国である。
エジプトはアラブ連盟 、アフリカ連合 、イスラム協力機構 、BRICS の加盟国である。
人口 はアラブ諸国で最も多く、2020年2月に1億人を超えている[ 4] 。同国地域には数千年前の古代都市の痕跡や幾多もの史跡 がナイル川 に沿う形で点在している。同国はMENA 地域において2番目に人口密度の高い国と見做されており、中でもカイロは世界で最も人口密度の高い都市のひとつに当たる。
また、水源 が乏しい国の一つとしても知られており、南北に流れるナイル川の河谷 とデルタ 地帯(ナイル・デルタ )のほかは、国土 の大部分の95%以上が砂漠 である[ 5] 。ナイル河口 の東には地中海と紅海を結ぶスエズ運河 がある。
正式名称はアラビア語 でجُمْهُورِيّةُ مِصْرَ العَرَبيّةِ (ラテン翻字 :Jumhūrīyat Miṣr al-ʿArabīyahないしはal-ʿArabīya , ジュムフーリーヤ・ミスル・アル=アラビーヤ[ 6] )。通称はمِصْرُ (標準語 :Miṣr ミスル、エジプト方言 ほか、口語 アラビア語:[mɑsˤɾ] マスル)。コプト語 :Ⲭⲏⲙⲓ (Khemi ケーミ)。
アラビア語の名称ミスル は、古代からセム語 でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語 では、双数形 のミスライム (מצרים , ミツライム)となる。
公式の英語 表記はArab Republic of Egypt 。通称Egypt [ˈiːdʒɨpt] 。発音は「イージプト」に近い。形容詞はEgyptian[ɨˈdʒɪpʃə n] 。エジプトの呼称は、古代エジプト語 のフート・カア・プタハ(プタハ の魂の神殿 )から転じてこの地を指すようになったギリシャ語 の単語である、ギリシャ神話 のアイギュプトス にちなむ。
日本語 の表記はエジプト・アラブ共和国[ 7] 。通称エジプト 。漢字 では埃及 と表記し、埃 と略される。漢字「埃及」に基づいて直接音読み取る「アイキュウ」もあった。[ 8] [ 9]
ギザ の三大ピラミッド ヒエログリフ 「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア の歴史家 ヘロドトス の言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川 のデルタ に支えられ古代エジプト文明 を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年 ごろには早くも国家 を形成し、ピラミッド や王家の谷 、ヒエログリフ などを通じて世界的 によく知られている高度な文明 を発達させた。
3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前663年にアッシリア帝国 によって征服された。アッシリアの滅亡後一時独立 を回復したものの、紀元前525年 にアケメネス朝 ペルシアによって再び征服 され、民族国家 としての独立性を失った。
紀元前332年 にはアレクサンドロス大王の東征 に伴いマケドニア帝国 に組み込まれ、大王の死後その部将 の一人であるプトレマイオス1世 によってプトレマイオス朝 が成立し、ヘレニズム文化 と在来文化の融合を果たした。
末代の女王クレオパトラ7世 の奮闘も虚しく、プトレマイオス朝は紀元前30年 にローマの将軍オクタウィアヌス によって滅ぼされ、エジプトはアイギュプトゥス属州 としてローマ帝国 の支配下に置かれた。紀元後 に入ってはキリスト教 が広まり、後にコプト正教会 が生まれた。豊かな穀倉地帯 であったために皇帝 の直接統治領となり、ローマとその後継のビザンツ帝国 時代に通して帝国行政の一翼を担った。
639年 にイスラム帝国 の将軍 アムル・イブン・アル=アース によって征服され、ウマイヤ朝 およびアッバース朝 の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督 から自立したトゥールーン朝 、イフシード朝 の短い支配を経て、969年 に現在のチュニジア で興ったファーティマ朝 によって征服された。これ以来、アイユーブ朝 、マムルーク朝 とエジプトを本拠地としてシリア地方 まで版図に組み入れたイスラム王朝 が500年以上にわたって続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジア やカフカス などアラブ世界の外からやってきたマムルーク (奴隷軍人)による支配体制が確立した。
1517年 に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国 の下でもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト )。
ムハンマド・アリー 1798年 、フランス のナポレオン・ボナパルト によるエジプト遠征 をきっかけに、エジプトは近代国家 形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人 部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人 のムハンマド・アリー であった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済 ・軍事 の近代化を進め、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功した。アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲 政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝 )。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ 列強 はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。
1882年 、アフマド・オラービー が中心となって起きた反英運動(ウラービー革命 )がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国 となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年 には、第一次世界大戦 によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。1919年3月にイギリス当局が、元官僚で当時ワフド党 を率い独立運動を指導したサアド・ザグルール らを逮捕・国外追放した事がかえって反発を招き、これを契機として反英独立運動たるエジプト革命 が勃発した。
第一次世界大戦 後の1922年 2月28日 にエジプト王国 が成立し、翌年イギリスはその独立 を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。
エジプト王国は立憲君主制 を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。第二次世界大戦 では、1940年9月12日 、枢軸国軍 であるイタリア王国 軍がリビア から侵攻した[ 10] が英軍が撃退した(北アフリカ戦線 )。第二次世界大戦前後から、現在 はイスラエル になっている地域 へのユダヤ人 移民に伴うパレスチナ問題 の深刻化、1948年から1949年のパレスチナ戦争 (第一次中東戦争 )でのイスラエル への敗北、経済 状況の悪化、ムスリム同胞団 など政治のイスラム化(イスラム主義 )を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。
この状況を受けて1952年 、軍内部の秘密組織自由将校団 がクーデター を起こし、国王ファールーク1世 を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒した(エジプト革命 [ 11] )。生後わずか半年のフアード2世 を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブ が首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行。ナギーブ が首相 を兼務したまま初代大統領 となり、エジプト共和国 が成立した。
ガマール・アブドゥル=ナーセル 。第二次中東戦争 に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは汎アラブ主義 の中心となった。1956年 、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセル の下でエジプトは冷戦 下での中立 外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義) を柱とする独自の政策を進め、第三世界 ・アラブ諸国 の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化 を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争 (スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年 にはシリア と連合してアラブ連合共和国 を成立させた。しかし1961年 にはシリアが連合から脱退し、国家連合 としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年 の第三次中東戦争 は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。
アンワル・アッ=サーダート 1970年 に急死 したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート は、自ら主導した第四次中東戦争 後にソビエト連邦 と対立してアメリカ合衆国 など西側諸国 に接近。社会主義 的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル路線からの転換を進めた。1971年 には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国 に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切るうえで、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。さらに、1977年には物価上昇に抗議する暴動を共産主義者によるものと断定、既に結党が禁止されていたエジプト共産党などの左翼組織の弾圧を強化した[ 12] 。しかしサーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年 にイスラム過激派 のジハード団 によって暗殺 (英語版 ) された。
アラブの春 で失脚するまで30年以上にわたり長期政権を維持したホスニー・ムバーラク イラク のクウェート侵攻 はエジプトの国際収支 を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラク は、対米協調外交を進める一方、開発独裁 的な政権 を20年以上にわたって維持した。
ムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す湾岸戦争 では多国籍軍 へ2万人を派兵し、これにより約130億ドル も対外債務 を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、サウジアラビア に対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には国際通貨基金 (IMF)のスタンドバイクレジットおよび世界銀行 の構造調整借款(SAL)が供与され、パリクラブ において200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる為替レート 一本化であった[ 13] 。
ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法 は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された[ 14] 。
民主化後初の大統領だったムハンマド・ムルシー チュニジア のジャスミン革命 に端を発した近隣諸国での「色の革命 」がエジプトにも波及し、2011年 1月、30年以上にわたって独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱を招いた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会 に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ (英語版 ) を暫定首相とする政権が発足した。その後、2011年12月から翌年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムスリム同胞団 (自由公正党 )のムハンマド・ムルシー が当選し、同年6月30日の大統領に就任した。ただし、大統領選挙決選投票直前に裁判所は選挙法が違憲との理由で人民議会の解散命令を出しており、立法権はムバーラク政権に近い軍最高評議会が有することとなった。
2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動 (英語版 ) )。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換した。ムハンマド・イブラヒーム (アラビア語版 ) が内相に就任した2013年 1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない[ 15] 。イブラヒーム内相は「国民が望むならば辞任する用意がある」と2月に述べた[ 16] 。
ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデター によって終焉を迎えた[ 17] 。
アブドルファッターフ・アッ=シーシー 。2013年のクーデターを主導し、大統領に就任した。2014年5月26日 - 28日に行われた大統領選挙では2013年のクーデターの主導者アブドルファッターフ・アッ=シーシー が当選して6月8日、大統領に就任し[ 18] 、8月5日からは新スエズ運河 の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年 3月13日 には、カイロ の東側に向こう5 - 7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした[ 19] 。行政 と経済 の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米ニューヨーク のマンハッタン のおよそ12倍の面積の予定であり[ 20] 、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたUAEのエマール・プロパティーズ や中国 の中国建築股份有限公司 との破談はあったものの2016年 4月に地元企業によって工事を開始し[ 21] 、代わりにエジプト政府がピラミッド [ 22] に匹敵する一大事業のランドマーク と位置づけている、アフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区 を中国企業が請け負って2018年 3月に着工した[ 23] [ 24] [ 25] [ 26] 。
同国は共和制 を採っている。
国家元首 である大統領 は、立法 ・行政 ・司法 の三権において大きな権限を有する。また国軍(エジプト軍 )の最高司令官 でもある。大統領の選出は、直接選挙 による。任期は4年で、三選禁止となった[ 27] 。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。
第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル 以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領ホスニー・ムバーラク は1981年 の就任以来、約30年にわたって独裁 体制を築いた。ムバーラクの親米 ・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、再任可。議会が候補者を指名し、国民は信任投票 を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。
2011年 9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態 となり、2月11日 、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣 で軍最高評議会 議長のムハンマド・フセイン・タンターウィー が元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙 の当選者ムハンマド・ムルシー が6月30日 に大統領に就任するまで続いた。2011年3月19日 、憲法改正 に関する国民投票 が行われ、承認された[ 7] [ 28] 。
しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、軍事クーデター が勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び軍事政権 へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され[ 7] 、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。
議会は、両院制 で上院は参議院、下院は代議院である。かつて、2014年 に施行された憲法により、一院制となったが、2019年の憲法改正により、両院制に戻る[ 29] 。
参議院は全議席の内、3分の2を公選、3分の1は大統領 による指名。代議院は、選挙制度を小選挙区 制か比例代表 制、またはその混合型 とする。全議席の内5%以下を大統領が指名。そして、全議席の少なくとも25%(112議席)を女性枠とする。
2011年11月21日 、イサーム・シャラフ 暫定内閣は、デモと中央治安部隊 の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日 にテレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した[ 30] [ 31] [ 32] 。人民議会選挙は2011年11月28日 から2012年 1月 までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日 までに実施された。また5月23日 と24日 に大統領選挙 の投票が実施された。
しかし、6月14日 に最高憲法裁判所 が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効(3分の1の議員について当選を無効と認定)」との判決を受け[ 33] [ 34] 、16日 までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた[ 35] 。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日 に実施され、イスラム主義系のムハンマド・ムルシー が当選した。
2011年3月28日に改正政党法が公表 され、エジプトでは宗教 を基盤とした政党 が禁止された。そのため、ムスリム同胞団 (事実上の最大野党 であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党 (アラビア語 :حزب الحرية والعدالة -Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala ,英 :Freedom and Justice Party )が結成された。また、ヌール党 (サラフィー主義 、イスラーム保守派)、新ワフド党 (エジプト最古の政党)、政党連合 エジプト・ブロック (英語版 ) (含む自由エジプト人党 (世俗派)、エジプト社会民主党 (中道左派)、国民進歩統一党 (左派))、ワサト党 、政党連合革命継続 (英語版 ) 、公正党 (英語版 ) (アラビア語 :حزب العدل -Hizb ElAdl ,英 :Justice Party 、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた[ 7] [ 28] 。その後、自由と公正党 が、2014年に最高裁判所により解党されている。2021年現在では、2020年の選挙により国民未来党 が、上院は半数近く、下院は過半数を占めている。しかしながら、反対派の活動が徹底的に排除される中での選挙であった[ 36] 。
ナポレオン法典 とイスラム法 に基づく、混合した法システム[ 37] 。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。
国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国 の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプ・デービッド合意 とその翌年のイスラエル国交 樹立によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、1981年 にサーダートが暗殺された後に政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年にはシリア 、レバノン 、リビア を除く全てのアラブ諸国との関係が回復した[ 44] 。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会 の常任理事国 入りを目指すことを表明した。2011年 、パレスチナ のガザ の検問所 を開放した。また、イラン との関係を修復しようとしている[ 45] 。
シーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本、親米アラブ諸国、イスラエルのほか、中国やロシア [ 46] などと広範な協力関係を築いている。
2017年カタール外交危機 では、サウジアラビアとともに、ムスリム同胞団を支援してきたカタールと国交 を断絶した国の一つとなった。またサウジアラビアとは、アカバ湾 口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた(「チラン島 」を参照)。
在留日本人数719人(2021年10月現在)[ 7] 在留エジプト人数1933人(2021年6月現在)[ 7] 陸軍の主力戦車M1エイブラムス 中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は46万8,500人。予備役 47万9,000人。兵員数は陸軍 34万人(軍警察 を含む)、海軍 1万8,500人(沿岸警備隊 を含む)、空軍 3万人、防空軍 8万人[ 47] 。内務省 管轄の中央治安部隊、国境警備隊 と国防省管轄の革命国家警備隊 (大統領親衛隊 )の準軍事組織 が存在する。
イスラエルとは4度にわたる中東戦争 (消耗戦争 も含めて5度)で毎回干戈を交えたが、第二次中東戦争 で政治的な勝利を得、第四次中東戦争 の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。その後は平和条約 を交わしてイスラエルと接近し、シーシー政権下ではシナイ半島で活動するイスラム過激派 (ISIL )に対する掃討作戦で、イスラエル空軍 による爆撃 を容認していることを公式に認めた[ 48] 。
軍事的にはアメリカと協力関係にあるため、北大西洋条約機構 (NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。また、ロシアや中国からも武器の供給を受けており、中露が主導する上海協力機構 にも対話パートナーとして参加している[ 49] 。
エジプトの地形図 エジプトの人口分布図 アフリカ大陸 北東隅に位置し、国土 面積 は100万2,450㎢ で、世界 で30番目の大きさである。国土の95%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠 の一部である西部砂漠(リビア砂漠 )、東側には紅海 とスエズ湾 に接する東部砂漠 (الصحراء الشرقية - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜 0m以下という地域 が多く、面積1万8,000km2 の広さをもつカッターラ低地 は海面より133mも低く、ジブチ のアッサル湖 に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。シナイ半島 の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山 (2,637m)や、旧約聖書 でモーセ が十戒 を授かったといわれるシナイ山 (2,285m)がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾 が大きく湾入して細くくびれた地峡 となっており、ここがアフリカ大陸とユーラシア大陸 の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河 が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。紅海に面したファウル湾 (英語版 ) にある島々の中で最大のザバルガド島 (英語版 ) は、地質学的にユニークと考えられる隆起したマントルと考えられている。
ナイル川 ナイル川 は南隣のスーダン で白ナイル川 と青ナイル川 が合流し、エジプト国内を南北1,545Kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタ を形成して地中海 に注ぐ。アスワン 以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5Kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり[ 50] 、アシュート 近辺で分岐の支流がファイユーム 近郊のカールーン湖 (Birket Qarun 、かつてのモエリス湖 )へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なファイユーム・オアシス (英語版 ) を形成している。一方、本流は、カイロ 近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタ は、地中海に向かって約250Kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内でもっとも肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダム によってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプト と上エジプト という、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し、後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は、世界でももっとも人口密度 の高い地域の一つである。
ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人がオアシス に集住しているのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側にはワジ (涸れ川)が全くない。シーワ 、ファラーフラ 、ハルガ 、バハレイヤ、ダフラといったオアシス が点在している[ 51] 。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルとアラビア半島 を結ぶ重要な交通路に位置しているため、いくつかの小さな港 が存在 する。
1885年に列強がドイツ のベルリン で開いた会議で、それまでに植民地化していたアフリカの分割 を確定した。リビア国境の大部分で東経25度 に、スーダンでは北緯22度 に定めたため、国境が直線的である。
スーダンとの間では、エジプトが実効支配 するハラーイブ・トライアングル に対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にあるビル・タウィール は両国とも領有権を主張していない無主地 である。
国土の全域が砂漠気候 で人口はナイル河谷およびデルタ地帯 、スエズ運河 付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠 に属する。夏には日中の気温は40℃ を超え、50℃になることもある。降雨はわずかに地中海岸 にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13 - 14℃、上エジプトで16℃程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。
エジプトの行政区画 エジプトの最上級の地方行政単位は、27あるムハーファザ(محافظة 、県 、州 と訳されることもある)である。知事 は中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において中央集権体制をとる。面積には極端な偏りがあり、ナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、エジプトの国土がナイル流域以外は全域が砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。
カイロはビジネス、文化、政治などを総合評価した世界都市格付け でアフリカ第1位の都市と評価された[ 52] 2018年のエジプトの国内総生産 (GDP)は約2,496億ドル(約27兆円)、一人当たりでは2,573ドルである[ 2] 。アフリカでは屈指の経済規模であり、2024年よりBRICS の加盟国となっている[ 53] 。一人当たりのGDPでみると、中東や北アフリカ諸国の中では最低水準であり、トルコ の約4分の1、イラン の半分に過ぎず、更に同じ北アフリカ諸国であるチュニジア やモロッコ に比べても、水準は低い[ 54] 。
スエズ運河 収入と観光産業 収入、更には在外労働者からの送金の3大外貨収入の依存が大きく、エジプト政府は、それらの手段に安易に頼っている[ 54] 。更に政情に左右されやすい。
工業 は石油 などの資源はないが様々な工業が発展しており今後も成長が見込まれる。近年は情報技術 (IT)産業 が急速に成長している。しかしながらGDPの約半分が軍関連企業が占めていて主に農業 建築業などの工業を担っている。
金融はイスラーム銀行も近代式銀行の両方とも発達しており投資家層も厚く、アメリカ のドナルド・トランプ 政権にはエジプトの敏腕女性投資家が起用されている。
これまでは買い物 や公共料金 の支払いは現金 、送金は窓口での手続き が主流であった。これはチップ や喜捨 として現金を渡すバクシーシの習慣が根付いていることも一因としてあったが、電子決済も急速に普及している。新型コロナウイルス感染症がエジプトでも流行 し、他人との接触を減らす必要が生じたことも背景となっている[ 4] 。
かつては綿花 の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。
しかし、通年灌漑 の導入によってナイルの洪水に頼ることが減り、アスワン・ハイ・ダム の建設によって、上流からの土壌がせき止められるようになった。そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大した。農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料 の集中投入などが必要になったため、コストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。
1970年代 に農業の機械化および各種生産業における機械への転換により、地方での労働力の過剰供給が見受けられ、労働力は都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招いた。1980年代 には、石油 産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。このため綿花および綿製品の価格 上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代 から、IMF の支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大および失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。2004年 のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化および税制改革に取り組んでいる。2008年 、世界的な食料高騰によるデモが発生した。
また、「アラブの春 」により、2012年 ~ 2014年の間は2 ~ 3%台と一時低迷していたが、その後政情の安定化により、2015年には、4%台に回復している。またIMF の勧告を受け、2016年に為替相場 の大幅切り下げや補助金 削減などの改革をしたことで、経済健全化への期待感より、外国 からの資本 流入が拡大していき、経済 の復調を遂げている[ 54] 。
農業は農薬 などを大量に使っているためコストが高くなっているが、それなりの食料自給率 を保っている。果物 は日本 にもジャム などに加工され輸出されている。
主食 のアエーシ(イーシュ)というパン の原料は小麦 であり国内生産も盛んであるが、2010年代 においても国内需要の全てを賄うことはできず、約半数は輸入に依存している。コメ も古くから生産されており、1917年からジャポニカ米 を導入してきた歴史がある[ 55] 。太平洋戦争 直後の食糧難の時期(1948年)には日本に輸入され配給 に用いられたこともある[ 56] 。
エジプトの交通 の柱は歴史上 常にナイル川 であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカ という伝統的な帆船 や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。
鉄道 は、国有のエジプト鉄道 が運営している。営業キロは5,063キロにのぼり、カイロを起点としてナイル川デルタ やナイル河谷 の主要都市を結んでいる。
航空は、フラッグ・キャリア であるエジプト航空 を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港 はこの地域のハブ空港 の一つである。
2020年 の人口ピラミッド。30歳以下の若年層が非常に多く、若者 の失業 が深刻な問題 となっている。エジプトの人口は近年急速に増大し続けており、エジプト中央動員統計局(CAPMAS)によると2020年2月11日に1億人を突破した[ 57] 。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層はさらに増加傾向にあるにもかかわらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の失業 が深刻な問題となっており、2011年エジプト騒乱 の原因の一つともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033%。
国際連合食糧農業機関 の2005年データによるエジプト人口の推移。1960年の3,000万人弱から人口が急増しているのが読み取れる。住民 はイスラム教徒 とキリスト教徒 (コプト教会 、東方正教会 など)からなるアラブ人 がほとんどを占め、そのほかにベドウィン (遊牧民)やベルベル人 、ヌビア人 (英語版 ) 、アルメニア人 、トルコ人 、ギリシア人 などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが古代エジプト 人の直系であり、エジプト民族 との呼称でも呼ばれる所以である。長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入・定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ 周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。現代においてカイロは世界都市 となっており、また歴史的にもアル=アズハル大学 は、イスラム教スンナ派 で最高権威を有する教育機関として、中東・イスラム圏各地から人々が参集する。
カイロ のモスク なお古代エジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、ギザの大スフィンクス やギザの大ピラミッド を建て、太陽神 や様々な神を信仰 (エジプト神話 )していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語 とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。
現在 のエジプトではアラビア語 が公用語 である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語 (フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言 である。[要出典 ] 。
古代エジプト の公用語であったエジプト語 (4世紀 以降の近代エジプト語はコプト語 の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史 に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である[ 58] 。他には地域的にヌビア諸語 、教育 ・ビジネス に英語 、文化 においてはフランス語 なども使われている。
宗教構成(エジプト) イスラム教(スンナ派)
90% キリスト教その他
10%
宗教はイスラム教 が90%(ほとんどがスンナ派 )であり、憲法 では国教 に指定されている(既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)[ 59] 。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会 であるコプト教会 の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる[ 59] 。
多くの場合、婚姻時に女性は改姓しない(夫婦別姓 )が、改姓する女性もいる[ 60] 。
一夫多妻制 により4人まで婚姻できるが、現在は1人と結婚する者が多い[ 61] 。
エジプトの教育制度は、1999年から小学校 の課程が1年延び、日本と同じく小学校6年・中学校 3年・高校 3年・大学 4年の6・3・3・4制となっている[ 62] 。義務教育 は小学校と中学校の9年である。1923年 のエジプト独立の際、初等教育は既に無料とされ、以後段階的に教育の無料化が進展した。1950年 には著名な作家でもあった文部大臣ターハー・フセイン によって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めた全ての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の教員 が給料の少なさなどから個人の家庭教師 を兼任することが広く行われており、社会問題化している[ 63] 。
小学校は進級試験があるため、家庭教師をつけることもある[ 61] 。授業料は無償化しているが、教育費は日本以上にかかる[ 61] 。なお、高額な授業料の代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。また、エジプト国内に20万以上の小中学校、1,000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校 がある。
新アレクサンドリア図書館 2018年 より「エジプト日本学校(EJS=Egypt-Japan School)」が35校、開校した[ 64] [ 65] 。これは2017年にJICA が技術協力「学びの質向上のための環境整備プロジェクト」を開始したことに始まるもので、日本の学校教育 で行われている学級会 や生徒による清掃などをエジプトの教育に取り入れようとする教育方針である[ 66] 。試験的に導入した際には文化的 な違いから反発も見受けられたが、校内での暴力が減った、子供が家でも掃除をするようになったなど、徐々に成果が見えるようになり本格的に導入されることになった[ 67] [ 68] 。
2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率 は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である[ 59] 。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された[ 59] 。
主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学 、吉村作治 や小池百合子 らが出身のカイロ大学 (1908年~)などが存在する。
国立図書館として新アレクサンドリア図書館 が存在する。
エジプトは、失業率が高い低中所得国である。2011年1月と2013年6月の政変に伴い、社会・治安状況が不安定化したものの2014年6月からアッ=シーシー大統領の就任以後、政治プロセスの進展と共に治安対策が強化され、国内情勢は安定を取り戻しつつある。だが、政府によるエジプトの経済を促進する為の努力が現在も続けられている状態にも拘らず、国民の32.5%は極度の貧困の中で生活している[ 69] 。
一方、カイロを含む各地で発生していたデモ及びそれに伴う衝突事案が減少している事が明らかにされているが、テロ 事件の発生頻度は高めとなっている侭である。テロは主に現地警察や教会 ・モスク を狙ったものが多いが観光地でも死傷者の出る事件が起きており、十分な注意が必要とされている。
人権団体の報告によれば、2020年1月の時点でエジプトには約60,000人の政治犯が収容されているとの調査結果がある[ 70] 。
アレクサンドリア 在住のハーリド・サイードは、2010年6月6日午後11時過ぎ、自宅近くのインターネットカフェにいたところを突然2人の私服警官に取り押さえられ、殴る蹴るの暴行を受けた。集まった群衆の中にいた医師がハーリドの死亡を確認した。
警官の暴行によってあごを割られ、後頭部から出血したことが死因であると遺族は主張した。12日、エジプトの内務省は「強盗容疑などで指名手配中」というハーリドを地元警察の捜査員が発見し逮捕しようとしたが、麻薬入りの袋を飲み込み窒息死したとした上で、「自殺」と断定した。これに対して地元メディアが「当局の人権弾圧の象徴」として大々的に報道したことに加え、地元NGOや国際人権団体アムネスティ・インターナショナル も徹底調査を要請。これを受けて、検察当局は遺体解剖の手続をとるなど、再捜査を開始した[ 71] 。
エジプトのメディアは、エジプト国内およびアラブ世界で非常に強い影響力を保持している。これは、エジプトのテレビ関連業界や映画業界ならび大勢の視聴者がアラブ世界へ供給している為であり、それらが歴史的に長い事も起因している[ 72] 。
またエジプトでは報道法や出版法およびエジプト刑法に基づき、報道機関を規制ならび統制している現状がある。
北アフリカ のサハラ砂漠 の東部に位置するエジプト は国土の大半が砂漠気候 であるが、北部海岸地帯は温暖な地中海性気候 で、ナイル川 の河口に広がるナイル・デルタ はステップ気候 である。降雨量は少ないが、豊富なナイル川の水により、流域およびデルタ地帯 で様々な作物が作られている。これらの豊富な穀物 ・野菜 ・果物 などの農作物 や地中海やナイル川からの魚介類 、肉類 では羊肉 ・牛肉 ・鶏肉 を使った料理が食べられている[ 73] 。
古代エジプト に起源 を持つと言われている春祭りシャンム・ナシーム (春香祭)では、ボラ を塩漬け・発酵させた魚料理であるフィシーフ が食べられるなど、祝祭 に関連した食文化も豊かである。
ナギーブ・マフフーズ は1988年 にノーベル文学賞 を受賞した古代エジプトにおいてはパピルス にヒエログリフ で創作がなされ、古代エジプト文学 には『死者の書 』や『シヌヘの物語 』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア語文学 の一つの中心地となった。近代の文学者としてターハー・フセイン の名が挙げられ、現代の作家であるナギーブ・マフフーズ は1988年にノーベル文学賞 を受賞している。
エジプトの音楽 は隣国に対する何千年にも渡る支配により、その周辺地域へ非常に大きな影響を及ぼしている。たとえば聖書 で「古代ヘブライ人 によって演奏された」と主張されている楽器 はすべて古代エジプトに起源することがエジプト考古学 によって判明されている。また、古代ギリシャ の音楽の発展に多大な影響を与えている面があることが確認されている。
宗教音楽 においては、ムリッド (mulid)と呼ばれるスーフィー などの伝統を重んじるイスラム教徒と、コプト派のキリスト教徒による祭典 における重要な部分であり続けている面が窺える。
同国における建築は古代のものが中心に周知されており、現代建築に対してはあまり焦点が当てられていない現状がある。
一方、世界各地において古代エジプトのモチーフ とイメージを多用しつつも現代風の仕様を留める建築様式が採用されている。
エジプト国内には、ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。
古代都市
テーベ とその墓地遺跡(1979年、文化遺産)
基本となる祝祭日は以下になる。
この他にイスラム暦 に基づいた移動祝祭日 が存在しており、先述したシャンム・ナシーム (東方教会の復活祭 の翌日に行われる)もそのうちの一つである。
エジプトではサッカー が最も人気のスポーツ である。サッカー以外ではスカッシュ が盛んで、21世紀 に入ってからワールドスカッシュ選手権 (英語版 ) で男女ともに多くの優勝者を輩出している。また、公園が少ないゆえに貧困層は路地でスポーツを楽しみ、富裕層はスポーツクラブで楽しむ。
サッカー サッカーエジプト代表 のモハメド・サラー (2022年)1948年 にプロサッカーリーグのエジプト・プレミアリーグ が創設された。同リーグはアル・アハリ が圧倒的な強さで支配しており、通算リーグ優勝は40回を超える。また、アフリカ大陸 のクラブ王者を決めるCAFチャンピオンズリーグ においても最多優勝を飾っている。エジプトサッカー協会 (EFA)によって構成されるサッカーエジプト代表 は、これまでFIFAワールドカップ には3度出場している。アフリカネイションズカップ では大会最多優勝を数える。
国の英雄的な存在にはモハメド・サラー がおり、プレミアリーグ年間最優秀選手 やプレミアリーグ得点王 を複数回獲得している。リヴァプールFC ではエースとして、プレミアリーグ やUEFAチャンピオンズリーグ 制覇を成し遂げた[ 74] 。これらの活躍からエジプトでは絶大な人気を誇り、「エジプトの王」と称されている。2018年に行われたエジプト大統領選挙 では当選した現職の大統領 (92%得票)に次いで2位となる全体の約5%の票(約100万票)が立候補すらしていないサラーへと投じられている[ 75] 。
この節の
加筆 が望まれています。
(2020年12月 )
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