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ウィンター兄弟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Robert and Thomas Wintour
Engraving
クリスピン・ド・パス英語版による犯人を描いた銅版画より。左がロバート、右がトマス。
生誕1568年 (ロバート)
1571–72年 (トマス)
死没1606年1月30日(37-38歳、ロバート)
1606年1月31日(33-35歳、トマス)
セント・ポール教会 (ロバート)
ウェストミンスター (トマス)
死因首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑
配偶者Gertrude Talbot (ロバート)
George Wintour, Jane Ingleby
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ロバート・ウィンター(Robert Wintour、1568年 - 1606年1月30日)と弟トマス・ウィンター(Thomas Wintour、1571年または1572年 - 1606年1月31日)の兄弟は、イングランド史において、プロテスタントイングランド国王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる火薬陰謀事件のメンバー。特にトマスは1604年2月の計画最初期から関わっていた主要人物。なお、ウィンターの綴りにはWinter もある。

イングランドのウスターシャーハディントン・コート英語版の出身で、ジョージ・ウィンターの息子として生まれた。母ジェーンはナレスバラ近くのリプリー城英語版に住むイングルビー家の出身で、母方の叔父は1586年に処刑されたカトリック司祭のフランシス・イングルビーであった。父の財産を相続したロバートは敬虔なカトリック教徒として知られ、有名な国教忌避者であるタルボット家の娘と結婚し、よくカトリックの神父らを匿っていた。一方、トマスは知的で教養があり、複数の言語に堪能で弁護士になる訓練も受けていたが、軍人となり、イングランドのために低地地方(ネーデルラント)やフランスにおいて、カトリックの大国スペインなどと戦った。しかし、1600年に転向して敬虔なカトリック教徒となり、1602年から1603年にかけては戦争によるカトリック解放を求めてスペイン政府にイングランド侵攻を嘆願する特使(スペイン反逆事件)を務めた。

1603年にイングランド王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人である過激派のロバート・ケイツビー貴族院ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式にて、議場を大量の火薬をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方英語版で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。ケイツビーは親戚関係にあり親しかったトマスに計画を打ち明け、1604年2月までには彼は参加を決めた。トマスはスペインの助力を得るため、再び大陸に渡り、この時、ガイ・フォークスと出会い、彼を連れてイングランドに帰国した。トマスは1604年5月の最初の打ち合わせに参加するなど、初期から関わっていた5人の主要メンバーの一人であり、ケイツビーに次ぐ中心人物として計画を動かした。1605年3月には兄ロバートや、兄弟の義弟ジョン・グラントも計画に引き入れた。こうして計画は着実に進められていった。

しかし、陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、イングランド当局は計画決行日の前日である1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿の捜索を行い、貴族院の地下室にて、大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見し、計画は露見した。当時、ロンドンに残っていたトマスは、フォークス逮捕の報を聞くと、他にロンドンに残っていた仲間たちに指示を出して街からの脱出を促し、しかし、自身は十分に状況を確かめて失敗を確信してから脱出した。その後、兄のいるハディントン・コートを経由して、兄弟でケイツビーらと合流した。仲間たちは当初計画通りにミッドランズで反乱を起こし、最後の抵抗を試みようとしたが、ロンドンの情報が広がったことによってもはやケイツビーらを支持したり協力を申し出る者はおらず、計画は頓挫した。トマスはなおも協力を求めて有力者と交渉を行っていたが、ロバートは一足早く逃げ出した。11月8日の早朝に、滞在していたスタッフォードシャーホルベッチ・ハウス英語版を、ウスターの州長官率いる200人の部隊に襲撃され、その戦闘の中でケイツビーは射殺され、トマスは銃撃で肩に重傷を負い逮捕された。兄ロバートは数か月に渡り逃亡生活を続けたが、翌年1月9日に身柄を発見され逮捕された。兄弟共にロンドン塔に投獄された。

その後の当局の取り調べでは、首謀者ケイツビーが亡くなった上で、計画の最初期から中心人物として関わっていたトマスの証言は重要視された。現代に伝わる事件の内幕の多くは、このトマスの供述書に依っている。この中では兄ロバートのことは話さなかった。1606年1月27日のウェストミンスター・ホールにおける裁判ではトマスは自分が巻き込んだだけだとして、兄への慈悲を求めたが、無駄に終わり、共に大逆罪での首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑が宣告された。兄ロバートは同月30日にセント・ポール教会堂で、弟トマスは翌31日にウェストミンスターのオールド・パレス・ヤード英語版で、それぞれ処刑された。

ウィンター家と前半生

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1604年のロンドン条約を締結するサマセット・ハウス会議を描いた絵画。ここに描かれているスペイン側の特使ドン・ファン・デ・タシス英語版フリアス公英語版に対して、トマスはイングランドにおけるカトリック教徒の窮状を訴え、助力を求めた。

ロバート(1568年生)とトマス(1571年または1572年生)のウィンター兄弟は[1]ウスターシャーハディントン・コート英語版のジョージ・ウィンターの息子として生まれた。母ジェーンはナレスバラ英語版近くのリプリー城英語版に住むウィリアム・イングルビー卿の娘であった。妹ドロシーは、後の火薬陰謀事件の同志となるジョン・グラントと結婚した[注釈 1]。母の死後、父はエリザベス・ボーンと再婚し、その間にできたジョンとエリザベスという異母兄妹もいた[3]。兄弟の父方の祖父母はグロスタシャーのキャブウェルのロバート・ウィンターと、その妻でウォリックシャー・コートンのジョージ・スロックモートン卿の娘キャサリンであった。したがってスロックモートン家の血筋とみた場合に、火薬陰謀事件に関与したフランシス・トレシャムや、その従兄弟で計画の首謀者となったロバート・ケイツビーとは遠縁と見なすこともできる(トレシャムの母ムリエルはスロックモートン家出身)[1]。彼らの母方の伯父(叔父)フランシス・イングルビーは、カトリック司祭で1586年にヨークで首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処されている。歴史家で作家のアントニア・フレイザーの見解では、この件は「ウィンター家に強烈な印象を与えたに違いない」としている。"Wintour"というファミリーネームは、ウェールズ語の「Gwyn Tour(白い塔)」に由来している。署名には「Wyntour」が使われることもあったが、(一般に兄弟に対して使用される)「Winter」が使われたことはない[3][4]

敬虔なカトリック教徒であったロバートは、グラフトンの国教忌避者ジョン・タルボットの娘ガートルード・タルボットと結婚した。ロバートは金払いの良さで知られる多額の財産と共にウスター郊外にあったチューダー朝時代のハディントン・コート英語版を相続した。ロバートの所有するはディントン・コートは司祭の避難所として知られるようになった[5]。計画が露見した後の彼の指名手配書には「やや低い平均的な背丈の男。がっしりとした体格でやや前かがみ。年齢は40歳近く。髪とあご鬚は茶色。あご鬚は薄く、髪は短い」という特徴が書かれていた[6]。イエズス会のジョン・ジェラード神父は「(彼は)生前、ウスターシャーで最も賢く、最も毅然とした完全な紳士の一人として尊敬されていた」と記している[7]

ジェラードはトマスも同様に高く評価している。彼は知的で機知に富んだ教養人であり、ラテン語、イタリア語、スペイン語、フランス語を話すことができたという。その外見について「平均的な背丈だが、強く美しく、とても勇敢であり、歳は33以上」と記している[8]。トマスは第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカーの使用人として働いていた[9]。彼は弁護士として教育を受けたが、数年間の放蕩生活を経てフランドル地方に渡り、イングランド軍に入隊した。彼は低地地方やフランスでカトリックのスペインと戦い、おそらく中央ヨーロッパでオスマン帝国軍と戦ったこともあった。しかし、1600年までに考えが変わり、兄と同様に敬虔なカトリック教徒に転向し、カトリック・スペインに対抗することを不正と捉えるようになった。1601年2月24日から13日間「ウスターシャーのミスター・ウィンター(Winter)」を名乗ってローマに滞在した[3]。また、その年の終わりから翌1602年にかけては、第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーの処刑によって指導者が失われたカトリック反乱軍を代表して、スペイン評議会に支援を求めるため同国を訪問した。このスペイン政府との接触については、トマスの目的が貧しいイングランドのカトリック教徒への財政支援だと考えたと思われるイエズス会のヘンリー・ガーネット神父が、トマスと修道院長ジョセフ・クレスウェル英語版神父を紹介し、彼がスペイン政府への取次を行ったという[10]。このスペイン訪問は、後にイングランド政府によって「スペイン反逆事件」と呼称されることになる2回の訪問の最初のものとなるが、スペインのアイルランド攻撃(キンセールの戦い英語版)が失敗した直後というトマスにとって不運なタイミングであり、漠然とした支援の約束しか得られなかった[11]。エリザベス女王が亡くなり、ジェームズ1世が即位した後の1603年8月には、イングランド国内において講和交渉のためにドーバーに上陸したスペインの特使ドン・ファン・デ・タシス英語版との面会の機会を得た。トマスは資金さえあれば「3,000人のカトリック教徒」が反乱を起こせると主張したが、タシスは反乱が成功する可能性は低いとすぐに悟り、彼の展望を否定した。ジェームズとの会談後にタシスは本国に手紙を書き、その中ではカトリック教徒の自由よりもイングランドとの和平を優先させるべきだとその必要性を強調した[12]

火薬陰謀事件

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→詳細は「火薬陰謀事件」を参照

1603年にカトリックを弾圧したエリザベス女王が亡くなり、ジェームズ1世イングランド国王に即位した。彼自身はプロテスタントであったものの、彼の母であるスコットランド女王メアリーはカトリックの殉教者と見なされていたため、イングランド国内のカトリック教徒の多くは彼がカトリックへの寛容政策をとるのではないかと期待していた。実際に即位直後は寛容的な態度を見せたものの、妻アンにローマ教皇から密かにロザリオが贈られたことなどが発覚し、1604年2月にはカトリック司祭の国外退去命令が出されたり、国教忌避者に対する罰金の徴収が再開された。これによりカトリック教徒たちは国王に大いに失望した。その中の一人である過激派のロバート・ケイツビーは、議会開会式にて議場を大量の火薬で爆破してジェームズ及び政府要人をまとめて暗殺し、また同時にミッドランズ地方英語版で反乱を起こしてカトリックの傀儡君主を立てることを計画した(火薬陰謀事件)。

計画の始動

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1603年、国王陛下の治世初年の万聖節(Allhollantide)の頃、私は兄と共に田舎に留まっておりました。ケイツビー氏が使者をよこし、ロンドンへ来るように嘆願いたしました。ロンドンにて彼や他の友人たちと会えることを喜ぶだろうとのことでした。私は体調が悪しく、勘弁を願い、(私にとって初めてのことですが)使者をそのまま送り返してしまいました。ほどなくして何としても来るようにと別の手紙を受け取りました。二度目の招集に直ちに王都に向かい、ランベスにて彼(ケイツビー)がジョン・ライト殿と一緒にいるのを見つけました。そこで彼は祖国を見捨ててはならないと私に切り出しました(彼は私が外国に向かおうとしていたことを察知していました)。そうではなく、隷属状態から国を解放すべく、あるいは少なくとも我々が尽力して救国する必要があると彼は説きました。
トマス・ウィンターの供述書[13]

1604年2月下旬、トマスは従兄弟のロバート・ケイツビーから、彼のランベスの自宅に招待された。1度目は体調を崩して訪問できなかったが、再度手紙を受け取って彼の家を訪れた[10]。そこにはケイツビー以外に敬虔なカトリック教徒で著名な剣士としても知られるジョン・ライトもいたという。そこでケイツビーは議会開会式にて議場を大量の火薬で爆破してジェームズ及び政府要人をまとめて暗殺し、また同時にミッドランズ地方で反乱を起こしてカトリックの傀儡君主を立てることを計画を打ち明けた。トマスはこの計画に即座に反対の意を示さなかった。軍人出身である彼は現実的な人間であり[14]、この計画が成功した場合に「新たな変化を生むのに適した混乱をもたらす」というケイツビーの意見に同意したためであった[15]。一方では「結果として敵ではなく友人からも正当な非難が行われ、カトリックが耐えられるかわからない大きな不名誉を背負うことになる」と、失敗した場合の代償についても警告していた[15]。それでもトマスは陰謀に加担することに同意した。ただ、トマスもケイツビーも、まだ外国からの支援を完全には諦めていなかったため、「我々は平和な静かな方法を試さないわけにはいかない」[15]としてトマスは支援を求めて再び大陸に向かった[16][17]

トマスはフランドル地方において、ロンドン条約締結のためにイングランドに向かう前に御前会議を開いたフリアス公英語版[注釈 2]と面会する機会を得た。トマスはイングランドのカトリック教徒の窮状を再び訴えることで、ロンドンのサマセットハウスで行われる予定の条約交渉に影響を与えようとしたが[18]、フリアス公の反応は「乗り気(forthcoming)というより友人のような(friendly)」態度であったという[19]。次にトマスはウェールズのスパイであるヒュー・オーウェンとウィリアム・スタンリー英語版と面会した。彼らはケイツビーがスペインの支援を希望していることを馬鹿にしていたが、オーウェンは南オランダでスタンレーに仕えていたイングランド人の敬虔なカトリック教徒ガイ・フォークスをトマスに紹介した。当時、一味は具体的な計画を立てていなかったが、トマスはフォークスにスペインの支援が望めない場合は「イングランドで何とかする」という野心を語った。4月下旬に2人は一緒にランベスにあるケイツビーの自宅に戻り、スペイン側の回答は前向きだったにも関わらず支援は望めないだろうと彼に伝えた[注釈 3][20][21][22]

1604年5月20日、さらにジョン・ライトの義弟トマス・パーシーを加えた5人は、ロンドンの富裕層が集まるストランド地区にある「ダック・アンド・ドレイク」という宿屋で最初の打ち合わせを開いた[23]。以降、トマス・ウィンターは陰謀の中心的存在の一人となった。

計画準備とロバートの加入

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一味は計画のためにロンドン市内のプリンス・チェンバー(Prince's Chamber)にもほど近い不動産を借りた。この場所はテムズ川を挟んで対岸にケイツビーが所有するランデスのアジトがあり、ここから火薬や物資を川を渡って密かに運び入れた[24][25]。後の当局の発表によれば、この拠点では貴族院地下に向かってトンネルを掘り始めたが、その後、直接貴族院地下室を借りることができたためにトンネル計画は放棄されたという(なお、このトンネルは掘ったという痕跡や証拠が当時にもなく、当局の捏造という説もある)[3][26][27]

5人で始まった計画であったが、その後、同年12月までにロバート・キーズトマス・ベイツを新たに仲間に迎え入れた[注釈 4]。この頃、疫病(ペスト)によって議会開会は当初の1605年2月から同年10月に延期されることが発表された。

旧暦(ユリウス暦)の新年にあたるレディ・デイの3月25日、一味が再結集した時、ロバート・ウィンター、ジョン・グラントクリストファー・ライトの3人が新たに加わっていた。またこの日は、貴族院地下室の借地権を得た日でもあった。一味はこの場所に7月20日までに火薬樽を36樽運び込んだ。直後に議会開会が11月5日に再延期されることが発表され、一味は一時的に地下室から離れた。8月下旬にトマスとフォークスが火薬の点検を行ったところ、腐っていることが判明し、追加で火薬を運び入れることになった[29]

9月も過ぎた頃にケイツビーは陰謀に加担した最後の3人、アンブローズ・ルックウッドエベラード・ディグビーフランシス・トレシャムを勧誘した。そして計画の最終的な詳細は10月にロンドンとダヴェントリー英語版の酒場で決まった。議会開会式が行われる11月5日、フォークスは貴族院地下室の火薬の導火線に火を付けた後、テムズ川を渡って現場を離れる。時を同じくしてミッドランズ地方で反乱を起こし、ディグビー率いる「狩猟隊」が王女エリザベスを確実に確保する。その後、フォークスはヨーロッパのカトリック勢力にイングランドの状況を説明するため、大陸に向かうというものであった[30]

10月26日、第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカーは自宅にて、議会に出席しないよう警告する匿名の手紙を受け取った(モンティーグルの手紙)。男爵は即座にこれ国王秘書長官ロバート・セシルに提出し、当局が陰謀を察知するきっかけとなった[31]。男爵の使用人にはライト兄弟と親しい者がいたため、彼を通してケイツビーらもすぐに手紙を存在を把握した。モンティーグル男爵はトレシャムの義弟であったため、手紙の差出人は新参の彼ではないかと疑い、トマスはケイツビーと共に、彼に詰問しに行った。ケイツビーは身の証を立てなければ「吊るす」とトレシャム脅した。彼は自分が無実であることを説明し、2人を納得させた。その上で彼は計画を諦めるようにケイツビーを諭したが、これは無駄に終わった。ケイツビーは手紙の中身が不明瞭すぎて計画を脅かす恐れはないと判断した[32]

11月3日、トマスはケイツビー、パーシーと3人で計画実行前の最後の打ち合わせを行い、パーシーは仲間たちに「極限の試練に耐えろ」と述べた[33]。同日、ロバートは友人ロバート・アクトンらと共に義父であるグラフトンのジョン・タルボットの家に泊まった。一行は翌朝、ディグビーから提供された余分な馬を連れてコヴェントリーに向かった[34]

計画の露見と逮捕

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11月4日の深夜、モンティーグルの手紙に基づいて貴族院周辺の探索が行われ、その地下室にて大量の火薬と共にガイ・フォークスが発見・逮捕された[35]

フォークスが捕まったというニュースはすぐにロンドン中に広まり、一味の中ではストランドにいたクリストファー・ライトの耳にも入った。彼はすぐに宿屋「ダック・アンド・ドレイク」に泊まっていたトマスのもとに駆け付けた。フォークスはパーシーの使用人「ジョン・ジョンソン」と名乗って現地で活動していたことから(実際に当局による当初の指名手配中での名はジョン・ジョンソンであった)、トマスはクリストファーに対し、ロンドン市内にいるパーシーに、すぐにロンドンを離れろと伝えるよう命令した。ロンドンで待機していた仲間たちが脱出を図る中、トマスは焦ることなくウェストミンスターに向かい、自分に何ができるか見極めようとした。著述家のアラン・ヘインズの見解では、これはフォークスが尋問者を混乱させることができると、その能力に信頼を示したがゆえの行動だったのであろうが[36]、結局、暗殺計画が露見したと自分の耳で確認すると、途中でノーブルックの妹の家に立ち寄りながらハディントンに向かった[37]

ロンドンからの脱出者たちがケイツビーの実家であるアシュビー・セント・レジャーズに到着したのは、午後6時頃だった。母を巻き込みたくないケイツビーは到着したばかりのロバートにメッセージを送り、町のすぐ近くで会うように頼んだ。そこでフォークスが捕まったことが伝えられた[38]。ダンチャーチにはディグビーと彼が率いる「狩猟隊」が集められており、その中にはウィンター兄弟の異母兄弟であるジョン・ウィンターもいた。ジョンは11月4日に合流するよう指示を受けていた[39]

翌日、一行はウォリック城を襲撃して物資調達を行ったが、これについてロバートは国に「大きな混乱(a great uproar)」を引き起こすとして強く反対していた。その後、ハディントンコートに到着し、トマスが合流した。翌日早朝、ハディントンに集まった者たちは告解とミサで聖餐式を取ったが、フレイザーによれば誰もが先が長くないことを自覚していた表れだという。

その後、ヘウェル・グランジにあるウィンザー卿の空き家で武器や弾薬、資金を手に入れた。未だ彼らが期待していた大規模な反乱の目論見は、地元民の反応によって打ち砕かれた。彼らは、反乱者たちの「神と国」のためという意見に対し、「神と国だけではなくジェームズ王も支持している」と答え、反乱を支持しなかった[40]。その日の夜遅く、武器や甲冑を積み込んだ荷車を引いてスタフォードシャーのキングスウィンフォード近くにあるスティーブン・リトルトンが所有するホルベッチ・ハウス英語版に到着した。仲間はロバートに、彼の義父ジョン・タルボット卿の助けを求められないかと頼んだが、彼は拒否した。彼の代わりにトマスがリトルトンを連れてタルボットのペッパーヒルの邸宅に向かった。タルボットはジェームズに忠誠を誓っており、彼らの協力要請を拒否し、送り返した[41]。その帰路、トマスたちはケイツビーが死んだという知らせを受けた。実はトマスが不在の間、ホルベッチ・ハウスでは疲労困憊で自暴自棄となった仲間たちが湿った火薬を乾かそうと火の前に広げていたが、事故でこれに火がつき、ケイツビー以下、ルックウッド、ジョン・グラント、狩猟隊のメンバー1人の計4人が火柱に巻き込まれたということであった。これを聞いたリトルトンはその場で逃亡したが、トマスはホルベッチ・ハウスに戻った。火傷で負傷していたもののケイツビーは生きていた[42][43]

ロバートや異母兄弟のジョンを含む何人かは夜のうちにホルベッチ・ハウスから去ったが、トマスを含め、ケイツビー、パーシー、ライト兄弟、グラント、ルックウッドはこの場所に留まることを決めた。トマスが仲間にどうするつもりかと尋ねると「自分たちはここで死ぬつもりだ」と返ってきたため、トマスも「私も行動を共にする」と答えた。11月8日の午前11時頃、ウスターシャーの州長官リチャード・ウォルシュ率いる200人の部隊がホルベッチ・ハウスを包囲し、襲撃した。最初に負傷したのはトマスで、中庭を横切ったところを肩に銃撃を受けた。続けてライト兄弟が負傷し(のち死亡)、前夜の事故で火傷を負ったルックウッドも戦闘で負傷した。ケイツビーとパーシーはラッキーショットの1発によって仕留められた。戦闘後、兵士たちは負傷した敵も気にせず彼らの貴重品の略奪を行ったが、トマスは長官の補佐官に助けられた[44]。トマスの所持品には4ヵ月前に購入したばかりの立派な剣があったが、彼がこれを見ることは2度となく、おそらく長官の部下達にはかなり魅力的な代物であったようである[45]。彼と他の生存者たちはまずウスターに連行され、そこからロンドン塔に収監されることになった[46]

ロバート・ウィンターとスティーブン・リトルトンは11月18日に指名手配されたが、約2カ月後の1606年1月9日についに捕まった[47]。この期間中、納屋や家で潜伏生活を送り、時には酔っ払った密猟者にアジトが見つかり、逆に彼を拘束する羽目になったこともあった。最終的にはスティーブンの血縁であるハグリーのハンフリー・リトルトンの邸宅に匿われていたが、2人に気づいた料理人のジョン・フィンウッドが当局に通報したことで逮捕された。なお、ハンフリーはその場では逃走に成功したが、後にスタッフォードシャーのプレストウッドで捕らえられた[48]

最終的に主要メンバーはウィンター兄弟以下、ガイ・フォークス、ロバート・キーズ、トマス・ベイツ、ジョン・グラント、アンブローズ・ルックウッド、エバラード・ディグビー、フランシス・トレシャムの9名が生きたまま捕縛された(ただし、トレシャムは12月に病気で獄死)。

トマスへの尋問

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歴史的に火薬陰謀事件について書かれている多くのことは、1605年11月23日に署名されたトマスの自白記録に由来している。また、いわゆるスペイン反逆事件の詳細は、この3日後に付け足された。当時における事件記録「キング・ブック」にはトマスとフォークスの自白が掲載されたが、フォークスは主要メンバーとはいえ1604年5月以降に関わった人物であり、計画の最初期から関わったトマスの自白は、政府が得られた中核メンバーからの唯一の証言であった[49]。しかし、著述家のアントニア・フレイザーはトマスの署名が、通常の「Thomas Wintour」ではなく、「Thomas Winter」であったことから捏造の可能性を疑っている。そもそもトマスがホルベッチ・ハウスの戦闘で肩を撃たれてからわずか数週間後のことであり、ロンドン塔副長官(Lieutenant of the Tower)のウィリアム・ワッド英語版が偽造した可能性がある。一方で伝記作家のマーク・ニコルズは、偽造の専門家がこの文章を書いたとするならば、署名の違いは重要かつ不可解なものであると指摘している。彼は自白書の筆跡を「かなり確度の高いウィンター(Winter,Wintour)の直筆」と見なし、よって第三者ではなく本人が書いたものであり、キング・ブックへの下書きとして書かれたもののように見えると述べている[3]。この見解にはアラン・ヘインズも同意しており、「政府に雇われた偽造家(例えばトマス・フィリップス)が、なぜ重要な国家文書において、故意にこのような誤りを犯すのか、しっかりと理に適った説明をした者はいない」と指摘している[49]

フレイザーが指摘したもう1つの疑念は、11月21日にワッドがセシルに報告した「トマス・ウィンターの手には力が入っているので夕食後には閣下が口頭でお伝えした内容を書くでしょう、彼自身が思い出したことを加えて」という文面でありく[50]、「思い出した」として当局の筋書きを書いた可能性を示唆している。また、トマスの自白書の草稿はコークが手書きしたものであり、イエズス会が関与したことに重みが置かれていた。加えて、フォークの供述書では触れられていない、議事堂地下へ向けて掘られたとされるトンネルについても言及されていた[3][51]

裁判と処刑

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A busy urban scene. Medieval buildings surround an open space, in which several men are being dragged by horses. One man hangs from a scaffold. A corpse is being hacked into pieces. Another man is feeding a large cauldron with a dismembered leg. Thousands of people line the streets and look from windows. Children and dogs run freely. Soldiers keep them back.
火薬陰謀事件の犯人たちが首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された場面が描かれた版画

この時点で生きていた主要メンバー8人の裁判は1月27日に行われた。ウィンター兄弟は他の仲間たちと共にロンドン塔よりはしけでホワイトホールに連行された(平民のトマス・ベイツのみ、ゲートハウス監獄から連行)。最初、星室庁に入れられた後、ウェストミンスター・ホールで裁判が始まった。大逆罪で起訴され、弁護人もいなかったために結果を疑う余地はなかった。スペインによる反逆という見立ては法務長官エドワード・コークのレトリックの特徴であったが、スペイン王については「恭しく、礼儀正しく言及された」。ヘンリー・ガーネットなどのイエズス会は断罪された。また、兄弟のそれぞれの自白も読み上げられた。塔の中ではロバートとフォークスは隣り合わせの独房であったため、会話することができた。しかし、この個人的な会話も密かに記録されており、公判中に読み上げられた[52]

トマスは「死刑宣告されるべきではない」理由はあるかと尋ねられたとき、兄ロバートを巻き込んだことを悔い、そのために兄が(首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑ではない)絞首刑にされることを望んだ。ロバートはただ慈悲を懇願した[52]。裁判の最後に陪審員は彼ら全員に大逆罪での有罪を宣告した[53]

1606年1月30日木曜日、まずロバートが、ディグビー、グラント、ベイツと共にセント・ポール教会堂にて首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。この中でロバートは2番目に処刑台に立ち、執行直前に静かに独り言を述べた。翌31日に残りのトマス、ルックウッド、キーズ、フォークスの4人の処刑が行われ、彼らはウェストミンスターのオールド・パレス・ヤード英語版に引き回され、自分たちが破壊する予定であった建物の反対側に連れて行かれた。トマスが最初に処刑台に引き立てられた。死刑囚には宣告された罪状に関して演説の機会が与えられるのが通例であったが、彼は「非常に青ざめた死んだような顔色」で、「演説している場合ではない、死ぬために来たのだ」と言った。イエズス会の関与を否定した上で、カトリック教徒である自分に祈ってくれるように頼み、ローマ教皇への忠誠を宣言した。彼への首吊りはほんの数秒であり、その後の生きたまま内臓を抉られる残忍な処刑に移った[54]。異母兄弟のジョンは4月7日にウスター近郊のレッドヒル英語版で処刑された[55]

脚注

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[脚注の使い方]

注釈

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  1. ^作家アラン・ヘインズはジョン・アッシュフィールドと結婚したアンという名の別の姉妹についても言及しているが[2]、これを裏付ける史料はない。
  2. ^後のポルトガル王ジョアン4世の母方の祖父にあたり、コンスタブル・オブ・カスティーリャ(Constable of Castile)の名誉称号も持つ。
  3. ^実際、1604年にスペインはイングランドと和平を結んだ[20]
  4. ^アラン・ヘインズは彼らの参加を1605年1月としている[28]

出典

[編集]
  1. ^abFraser 2005, p. 57
  2. ^Haynes 2005, p. 78
  3. ^abcdefNicholls, Mark (2008) [2004]. “Winter , Thomas (c.1571–1606)”.Oxford Dictionary of National Biography.Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press.doi:10.1093/ref:odnb/29767. 2010年10月27日閲覧. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^Fraser 2005, p. 59
  5. ^Fraser 2005, pp. 59–60
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  7. ^Gerard 1871, p. 218
  8. ^Gerard 1871, pp. 58–59
  9. ^Bengsten 2005, p. 46
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参考文献

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外部リンク

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犯人グループ
主要メンバー
共犯者
イエズス会関係者
政府側関係者
関連項目
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