アルメニア共和国 Հայաստանի Հանրապետություն 国の標語:Մեկ Ազգ , Մեկ Մշակույթ (アルメニア語: 一つの国家、1つの文化) 国歌 :Մեր Հայրենիք (アルメニア語) 我が祖国 アルメニア共和国 (アルメニアきょうわこく、アルメニア語 :Հայաստանի Հանրապետություն )通称アルメニア は、ユーラシア大陸の 南コーカサス の内陸国 である。首都はエレバン 。
西アジア のアルメニア高原 に位置し[ 4] [ 5] 、西にトルコ 、北にジョージア 、東に事実上の独立した共和国アルツァフ共和国 とアゼルバイジャン 、南ではイラン とアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン に国境を接する[ 6] 。
同国の地域はウラルトゥ を基盤に形成されている。ウラルトゥが成立したのは紀元前860年で、紀元前6世紀にはアルメニア・サトラピー に取って代わられた。アルメニア王国 は紀元前1世紀にティグラネス大王 のもとで絶頂期を迎え、世界で初めてキリスト教 を公教として採用した国家となった[ 7] [ 8] [ 9] 。国家がキリスト教を採用した正式な日付は301年 である[ 10] 。アルメニアは現在も世界最古の国教会であるアルメニア使徒教会 を国の主要な宗教施設として認めている。古代アルメニア王国は、5世紀初頭頃に東ローマ帝国 とサーサーン朝 の間で分裂した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活してアルメニア王国 となった。東ローマとの戦争で衰退し、1045年 に王国は陥落し、アルメニアはすぐにセルジューク トルコの侵略を受けた。アルメニア公国と後にキリキア・アルメニア王国 は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。
16世紀 から19世紀 の間に、東アルメニアと西アルメニアで構成される伝統的なアルメニアの祖国は、オスマン帝国 とペルシャ帝国 の支配下にあり、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。19世紀までには、東部アルメニアはロシア帝国 に征服され、西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。第一次世界大戦 中、150万人のアルメニア人がオスマン帝国の先祖代々の土地に住んでいたが、第一次世界大戦 で組織的に絶滅させられた。1918年 、ロシア革命 後、ロシア帝国が消滅した後、ロシア以外のすべての国が独立を宣言し、アルメニア第一共和国 が成立した。1920年 にはザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国 に編入され、1922年 にはソビエト連邦 の建国メンバーとなった。1936年 には、アルメニア・ソビエト社会主義共和国 を含む構成国が完全な連邦共和国へと変貌を遂げ、トランスコーカサス州は解散した。1991年 、ソビエト連邦の崩壊 に伴い、現代のアルメニア共和国が独立した。
アルメニアは単一・多政党制・民主主義の国民国家 である。発展途上国 であり、人間開発指数 (2021年)では85位にランクされている。その経済は主に工業生産と鉱物採掘に基づいている。アルメニアは地理的には南コーカサス に位置しているが、一般的には地政学的には欧州 と考えられている。アルメニアは地政学的に多くの点で欧州と連携しているため、欧州評議会 、東方パートナーシップ 、ユーロコントロール 、欧州地域協議会、欧州復興開発銀行 など、数多くの欧州組織に加盟している。アルメニアはまた、アジア開発銀行 、集団安全保障条約機構 、ユーラシア経済連合 、ユーラシア開発銀行など、ユーラシア大陸の特定の地域グループにも加盟している。アルメニアは、国際的にアゼルバイジャンの一部と認められている地域であり、ロシアの軍事的後ろ盾があって1991年に一方的に独立が宣言された事実上の独立国であるアルツァフ共和国 (ナゴルノ・カラバフ )を支持してきたが、2023年9月19日、トルコ、イスラエルからの支援を得たアゼルバイジャンからの軍事反攻を受けてナゴルノ・カラバフ地域のアルメニア人は全面降伏。アルメニアはアルツァフ共和国 (ナゴルノ・カラバフ )をわずか3日で失った。
正式名称はアルメニア語(アルメニア文字 )で、Հայաստանի Հանրապետություն (ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。通称、Հայաստան (Hayastan、ハヤスタン)。
英語 の公式表記は、Republic of Armenia 。通称、Armenia 。日本語 の表記は、アルメニア共和国 [ 11] 。通称、アルメニア 。
アルメニア人 は自らをհայ (hay)ハイ (複数形はհայեր (hayer)ハイェル 、またはհայք (hayk')ハイク )、国をハヤスタン 、またはՀայք (Hayk')ハイク と呼ぶ[ 注釈 1] [ 12] 。
正式名称Հայաստան の語源は、アルメニア人の始祖ハイク・ナハペト とペルシャ語 で国を示す接尾語スターン から来ている[ 13] 。アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。
先史時代にはクラ・アラクセス文化 (英語版 ) があったことが知られており、文明の早い時期から車輪 が使われていた。
紀元前6世紀 ごろには国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀 にアルメニア高原 を中心に大アルメニア王国 を築き繁栄した。しかしローマ帝国 とパルティア 、サーサーン朝 ペルシア帝国 の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。
1世紀 ごろにはキリスト教の布教(十二使徒 聖タデヴォス 、聖バルトゥロメウス が伝道し、殉教した)、2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったと伝える[ 14] 。
紀元301年 には世界で初めてキリスト教を国教 とした[ 注釈 2] 。
405年 -406年 、アルメニア文字 がメスロプ・マシュトツ (361年 -440年 )によって創始された。
古代アルメニア王国は、5世紀初頭ごろに東ローマ帝国 とサーサーン朝の間で分裂した。その後、サーサーン朝の支配下に入り(サーサーン朝領アルメニア )、さらにイスラム帝国 の侵攻を受けるが(アルメニア首長国 (英語版 ) )、9世紀 半ばにはバグラト朝 (英語版 ) が興り(バグラトゥニ朝アルメニア )、独立を回復した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活してアルメニア王国 となった。東ローマとの戦争で衰退し、1045年 に王国は陥落し、アルメニアはすぐにセルジューク トルコの侵略を受けた。
しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝(en:Seljuq Armenia )、en:Zakarid Armenia 、モンゴル帝国 (en:Mongol Armenia )、ティムール朝 (en:Turkmen Armenia )などの侵入が相次いで国土 は荒廃。このため10世紀 に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ )ことになった。その中の一部は11世紀 にトルコ南東部のキリキア に移住しキリキア・アルメニア王国 を建国、14世紀 末まで独立を保った。アルメニア公国と後にキリキア・アルメニア王国は、11世紀から14世紀の間に地中海 の海岸に位置していた。
20世紀 初頭のアルメニア人 の居住地域(濃い水色)1636年 からは、オスマン帝国 (en:Armenians in the Ottoman Empire )とサファヴィー朝ペルシア (en:Armenians in the Persianate )に分割統治され、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。
1826年 に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争 の講和条約であるトルコマンチャーイ条約 (1828年 )によってペルシア領アルメニア(東アルメニア)がロシア帝国 に割譲された[ 1] 。
西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国は長く多民族が共存する帝国 であったが、19世紀後半には多数派であるトルコ人 とアルメニア人など帝国内諸民族でナショナリズム が高まった。アルメニア人は19世紀末から、オスマン帝国がロシアなどと戦った第一次世界大戦 中とその直後にかけて多数が虐殺され(アルメニア人虐殺 )、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。
第一次世界大戦中の1917年 に起きたロシア革命 でロシア帝国は消滅。帝国内主要民族は独立を目指し、アルメニア人もアルメニア第一共和国 を成立させたが、革命でロシアの権力を握った赤軍 の侵攻を受けて崩壊。1920年 にはアルメニア・ソビエト社会主義共和国 が成立[ 1] 。1922年には同じく南カフカス (ザカフカース)にあるジョージア 、アゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国 に編入され、ソビエト連邦 (ソ連)の建国メンバーとなった[ 1] 。1936年 には再びアルメニアを領域とするアルメニア・ソビエト社会主義共和国となった[ 1] 。
ソ連末期の1988年 2月[ 1] 、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 のナゴルノ・カラバフ自治州 でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起こり、これに反発したアゼルバイジャン人 との緊張の中で衝突し、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争 )に発展した。
ソビエト連邦の崩壊 に向かう中、アルメニアは1990年8月23日に主権 宣言、1991年 のソ連8月クーデター 失敗直後の9月21日 に独立宣言を発し[ 1] 、独立は国民投票 で承認された。10月17日 、大統領選挙でレヴォン・テル=ペトロシャン が圧勝した。
1991年12月21日 、独立国家共同体 (CIS)に加盟。同年12月25日 付でソ連は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となった。しかし、ナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの紛争は現在も続いている。
アルメニアの政体 は共和制 を採っている。
1995年7月、新議会選挙および新憲法草案について国民投票が行われる。議会選挙では共和国ブロックが勝利、新憲法についての選挙では大統領任期5年、議会解散権、首相任免権付与などの内容が採択された。1996年9月、新憲法のもとで初の大統領選挙が実施された。初代大統領のレヴォン・テル=ペトロシャン が再選される。1998年、テル=ペトロシャンの辞任に伴い大統領選挙が行われ、ロベルト・コチャリャン が選出される。1999年 10月、国会内で首相や国会議長など8名が死亡した銃撃事件が起こった(アルメニア議会銃撃事件 )[ 15] 。
その後、おおむね政情は安定していたが、コチャリャンの任期終了に伴い2008年に行われた大統領選挙でセルジ・サルキシャン が選出。対立候補であった元大統領のテル=ペトロシャン陣営はこの結果に異議を唱え、大規模な抗議活動が発生、同年3月1日から3月20日まで非常事態宣言が発令されるなど、政情が一時不安定になった。同年4月にサルキシャンは大統領に就任。その後、任期中の2015年に大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制 を導入する改憲を成立させた。
2018年に2期10年の任期が満了したが、同年4月17日にサルキシャンは大統領退任に伴い首相に鞍替えしたことから、長期政権や汚職疑惑に野党や一部の国民が反発し、大規模な抗議活動へと発展した。これを受けてサルキシャンは4月23日に辞任を表明、5月1日に首相選出選挙が行われたが、最大野党のニコル・パシニャン 党首しか出馬しなかったことを理由に与党は反対し、新首相の選出は否決された。この結果を受けたパシニャン支持派が首都のエレバンで大規模な抗議活動やゼネラル・ストライキが起こり、12月に総選挙が実施されパシニャン首相が率いる改革派が勝利した[ 16] 。
議院内閣制 の国家。国家元首 は大統領 で、任期は7年。アルメニア議会 による間接選挙 で選出される。大統領は首相を任命し、首相の提案によりその他の閣僚を任免する。
一院制 の国民議会 があり、その任期は4年となっている。定数は107議席。選挙制度は2021年より、従来の大選挙区比例代表並立制から厳正拘束名簿式 の政党名簿比例代表 に一本化された。
なお、州知事と大都市の市長は任命制である。
複数政党制 で、独立後から多数の政党が存在している。
アルメニアの司法はアルメニアの法律を解釈し、適用する。三権分立の原則に基づき、司法府は議会の立法権や首相 の行政権とは別に司法権を行使する。憲法によると、アルメニア最高司法評議会によって統制されるヒエラルキーである。一方、アルメニア法務省 (英語版 ) (アルメニア語:Հայաստանի արդարադատության նախարարություն)は、行政権を有し、アルメニア政府の政策を執行する政府機関であり、法律や条例に関係している。アルメニア憲法第7条に基づき、最高司法評議会を保証人として、アルメニアの司法は三審制を通じ、裁判所によってのみ行使される。
憲法裁判所 (英語版 ) は同国における憲法審査の最高法的機関であり、行政、立法、司法から独立した司法機関である。立法の合憲性を監督する責任を負う。
首都エレバンにある専門裁判所(Մասնագիտացված դատարաններ)は、行政裁判所(Վարչական դատարան)と破産裁判所(Սնանկության դատարան)の2種類がある。
アルメニア破毀院(Հայաստանի վճռաբեկ դատարան)は本拠地を首都エレバンに置き、アルメニア全土を管轄する。
民事控訴裁判所(Վերաքննիչ քաղաքացիական դատարան)、刑事控訴裁判所(Վերաքննիչ քրեական դատարան)、そして行政控訴裁判所(Վերաքննիչ վարաչական դատարան)の三種類があり、首都エレバンに拠点を置き、アルメニア全土を管轄する。
第一審裁判所(Հայաստանի առաջին ատյանի ընդհանուր իրավասության դատարաններ)は、アルメニアの第一審裁判所である。首都エレバンでは、12の地区を8つの裁判所が担当し、他の10州は9つの裁判所が担当する。また、アララト州とバヨツ・ゾル州を除き、アララト州の裁判所が管理する。
アルメニアの国際関係(2018年時点): 国交がある国
国交がない国
外交関係を停止した国
ナゴルノ・カラバフを巡り、アゼルバイジャンと対立している。2020年ナゴルノ・カラバフ紛争 ではロシア連邦 の仲介下で同年11月10日に停戦協定 が発効した。しかし、2023年に起きたナゴルノ・カラバフ衝突 により事実上の全面降伏。
独立以降、一貫して集団安全保障条約 (CSTO)という軍事同盟を結ぶ親露国家であるが、2018年 に反汚職、反腐敗を掲げ、欧米のNGOにも支援されて発足(ビロード革命 (英語版 ) )したパシニャン政権は親欧米路線に転換しつつある。2020年以降のナゴルノ・カラバフ紛争の経過を受けて、軍事同盟を結ぶ関係ながら支援を得られないとしてロシアを強く批判する一方、在外アルメニア人の多いアメリカ合衆国 やフランス を中心とした欧米西側諸国に接近。現与党の市民契約党 (英語版 ) も親欧米路線を掲げる。アメリカ合衆国は下院議長 (当時)のナンシー・ペロシ が訪問したり、アルメニア軍がアメリカ軍と合同軍事演習を行う[ 17] など、アルメニアの取り込みを図っている。将来的な欧州連合 (EU) や北大西洋条約機構 (NATO) 加盟へと動く可能性も指摘されており、新たな火種となり兼ねない危険性もある。
トルコともアルメニア人虐殺 の歴史認識をめぐって対立していたが、2009年 10月10日 にスイス でトルコとの国交調印式が行われた。2021年4月24日にアメリカ合衆国大統領 ジョー・バイデン がアルメニア人迫害を「ジェノサイド 」と正式に認定する声明を発表した[ 18] [ 19] [ 20] 。これにより、今後トルコとの軋轢が激化する可能性が懸念されている。
現在の国際連合加盟国 のうち、パキスタン だけはアルメニアを国家として認めていない [ 21] 。
ハンガリー とは、アゼルバイジャンの軍人ラミル・サファロフ によるアルメニア軍人殺害事件を巡って、彼の身柄を母国に引き渡したことに抗議し、2012年より外交関係を停止している。
アルメニア人も多く住む隣国ジョージア との関係は比較的平穏に保たれており、イランとの関係も比較的良好である。
国防組織としてアルメニア共和国軍 が存在し、内陸国 のために海軍 は存在せず、アルメニア陸軍 ・アルメニア空軍 の2軍種により構成される。管轄は国防省 (英語版 、アルメニア語版 ) である。また、国家保安局 (アルメニア語版 、英語版 ) によって管轄される形で国境警備隊 (英語版 、アルメニア語版 ) が存在している。
国家保安局 (アルメニア語版 、英語版 ) (NSS)が国内唯一の情報機関となっている。
アルメニアの地図 セヴァン湖 アルメニアの地形図 アルメニア共和国は、黒海 の南部、カスピ海 の西部に位置するアルメニア高地の最東端にあり、面積はこの高地全体の一割に過ぎない。北側に小コーカサス山脈と西側にはアルメニア高地が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において標高 1,000 - 3,000メートルであり、3,000メートル級の山岳も珍しくない。最高地点はアラガツ山頂で標高4,090メートル、最低地点は北部のデペート川下流にあるベルタヴァン村近くの渓谷の標高380メートルである。
国内最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地 で肥沃。名前の通りアララト山 (「ノアの方舟 」で有名、高さ5,165メートル)を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れるアラス川 (アラクス川、キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800メートル以上。1万年前から人が居住していたことが考古学 的発掘で知られている。
中央部にセヴァン湖 (標高1,900メートル、深さは36 - 80メートル。高山の淡水湖 である)が存在しており、ここで採れる魚はブラウントラウト の近縁種であるセヴァンマス (英語版 ) (アルメニアを代表する固有種 の一つであり、「イシュハン・ヅーク (魚の王子さま)」と呼ばれる)やホワイトフィッシュ が存在する。森林 は少なく、急流となった小規模な河川 が多い。森林 地帯は国土の15%で、可耕地は17%、牧草 地は30%、乾燥不毛地は18%を占めている。
隣国のトルコやイラン同様、地震 が多い。1988年に発生したアルメニア地震 では2万5,000人もの死者を出した。
鉱物資源に富み、鉄鉱石 、ボーキサイト 、銅 、亜鉛 、モリブデン が産出される。また、南部のシェニーク地方ではウラニウム 鉱床も確認されている。石灰岩 は全国に分布する。
気候の特徴としては、日照時間 が多いことが挙げられている。アララト盆地(首都エレバン)では年間2,711時間で、40℃を超える時もある。
ケッペンの気候区分 によると、低地はステップ気候(BS)、高地は亜寒帯湿潤気候 (Df)である。低地は雨 が少なく、高地は多い。高地特有の大陸性乾燥気候で、四季がある。年平均降水量は地域によって差があるが200 - 900ミリである。
首都エレバンの平均気温は11.4℃、年降水量は318ミリ。1月の平均気温は氷点下5.5℃、8月は25.5℃である。しかしながら高地に位置すること、冬季に前線 が停滞することなどから天候は変化に富んでおり、エレバンに限定しても氷点下25℃から40℃まで気温が変化する。
アルメニアは11の地方(marzer、単数はmarz)に分かれる。
アラガツォトゥン地方 (Արագածոտնի մարզ )アララト地方 (Արարատի մարզ )アルマヴィル地方 (Արմավիրի մարզ )ゲガルクニク地方 (Գեղարքունիքի մարզ )コタイク地方 (Կոտայքի մարզ )ロリ地方 (Լոռու մարզ )シラク地方 (Շիրակի մարզ )シュニク地方 (Սյունիքի մարզ )タヴシュ地方 (Տավուշի մարզ )ヴァヨツ・ゾル地方 (Վայոց Ձորի մարզ )エレバン (Երևան )
首都エレバン IMF の統計によると、2013年 のアルメニアの名目GDP は104億ドルである。1人当たりは3,173ドルで、南コーカサス 3国の中では最も低く、世界平均の約30%の水準に留まっている。
主要産業は、農業 、工業 、宝飾品 加工業。都市人口率が65%と高く、農林水産業従事者は国民の8%に過ぎない。農業では綿 、ブドウ 、野菜 などの青果物 栽培 が盛ん。穀物 としては小麦 と大麦 を産する。
アルメニアは新生代 ならび中生代 の造山帯の中央に位置し、国内に多数の火山性塊状硫化物鉱床が点在する。この為、規模は小さいものの貴金属 を産する。主な鉱物資源は金 (2003年時点の採掘量は1.8トン)、銀 (同4トン)、銅 (同1.8万トン)である。
同国はエネルギー資源 を産出せず、地域紛争で近隣諸国から孤立していることから、国内電力需要の40%以上を老朽化したメツァモール原子力発電所 に頼っている。メツァモール原子力発電所は1988年のアルメニア地震 のあと、独立後の1995年まで6年半にわたって閉鎖されたが、その間、国内は深刻な電力不足に陥った。2015年から2021年にかけて、ロシアの融資で設備の近代化工事が行われ、2026年までの運転延長が可能となった[ 22] 。
住民の大半はアルメニア人(98.1%)。次いでクルド人(1.3%)、ロシア人(0.4%)、アッシリア人 (0.1%)が居住している。
他には少数民族 として、アゼルバイジャン人 も存在する。
同国の賃金は安いため、就労年齢に達した男性は、国外(特にアルメニアの3倍の賃金を得られるロシア連邦 )へ、季節労働者として出稼ぎ に行くことが多い。アルメニア人男性の9割が職を求めて海外の国々へ赴く。
また就労先の国で国際結婚 を果たして家庭 を持つ男性も多く、それに伴う形で同国の人口が減って来ており、1991年のソビエト連邦の崩壊 時に350万人だった人口は2017年時点で290万人となっている[ 23] [ 24] 。
公用語 はアルメニア語 。アルメニア語はインド・ヨーロッパ語族 の一種に該当する言語で、印欧祖語から派生したといわれている。
かつては旧ソ連の構成国であったことも絡み、ロシア語 が共通語 として幅広く通用する。
宗教では、非カルケドン派正教会 の一つであるアルメニア使徒教会 の信者が大部分を占める。他にギリシャ正教 やカトリック (東方典礼カトリック のアルメニア典礼カトリック教会 (英語版 ) )、改革派 プロテスタント のアルメニア福音教会 (英語版 ) の信徒がいる。301年 に世界で初めてキリスト教 を国教化したことで有名。
少数民族であるクルド人 やアゼルバイジャン人 の多くはイスラム教 を信仰し、クルド人の中にはヤズディ教 の信者も存在する。なお、イスラム教に改宗したアルメニア人であるヘムシン人 と呼ばれる民族が、隣国トルコなどに存在する。
教育制度は、5 - 6歳までの幼稚園 や保育園 、6 - 7歳から中等教育 (10 - 11年制。小学校 にあたるのが1 - 3年生、中学校 にあたるのは4 - 8年生、高等学校 にあたるのが9 - 10年生、高校とは別に2、3年制の専門学校があり、2年で卒業して専門技術職に就くなり、3年で卒業して専門職あるいは大学に行く)、その上は大学 である。義務教育期間は中等教育の8年生まで。授業料は無料で、全国に1,439校ある(2003年現在)[ 25] 。
2011年には小学校でのチェス 学習を義務化している。
アルメニアは従来からナゴルノ・カラバフ地域を巡って隣国アゼルバイジャンとの間に紛争を抱えており、両国の国境周辺地域では発砲事件などが散発的に発生している。また、首都エレバンをはじめとする各地域でも2013年2月以降、散発的に反政権デモが発生しており、同都では2015年6月に電気料金値上げに反対する大規模デモが発生する事態に陥っている。
さらに,2016年7月には反体制派武装集団による警察署占拠事件が発生しており,今後の政情により治安が悪化する可能性が高いとされている。
アルメニア共和国警察 (英語版 ) が主体となっている。
アルメニア憲法 (英語版 ) 第27条では、言論の自由 と報道の自由を保証しているとされている為、現時点で弾圧を受けている報道機関やマスコミは見受けられていない。
アヌシャブル (Anushabur) 「アルメニアのクリスマスプディング 」や「ノアのプディング」とも呼ばれており、クリスマスと大晦日に食されているバターナッツを使ったガパマ この料理にはドライフルーツ や米 が主な具材として用いられている タルハナ アルメニアでは料理に様々なハーブ を多用している。ケルチク(kerchik)と呼ばれる粥 のような料理には穀物と自生しているハーブが用いられている。
一般的に使用されるスパイスには、黒コショウ やスマック 、クミン 、シナモン などが挙げられる。
同国では羊肉 や牛肉 、山羊 肉などの肉が食されているが、多く消費されるのは豚肉 である。ゴチ(gochi)と呼ばれる伝統料理 は同国において最も人気のある郷土料理 でもあり、新年 の祝賀のために用意されることが多い。
野菜を使った料理にはガパマ と呼ばれるカボチャ をベースとした甘い味付けの詰め物料理が在り、これはクリスマスの時期によく食べられている。
また、ギリシャヨーグルト をはじめ、バター やクリーム ならびチーズ などの典型的な乳製品 が料理に使われている点も特徴の一つとなっている。
一方で、伝統的な食品にはタルハナ と呼ばれる乾燥食品やパストゥルマ (英語版 ) と呼ばれる肉の塩漬け があり、古くから食されている。
古くからワイン の製造が盛んであり、特にブランデー は世界的に有名となっていて、アルメニア・コニャック と呼ばれる。
伝統音楽 伝統的なアルメニアンダンス 民族衣装を纏ったアルメニア人の女性たち 石が古くから使われてきた。紀元前9 - 8世紀以降、多くの要塞、城市、防備用建築などを石で作り上げてきた。エレバン のバザール やトゥマニヤン記念館はアルティクで産出した凝灰岩 でできている。スペンディアリアン記念オペラ・バレー劇場や共和国広場にかつてあったレーニン像の石は、パンバク地方産の花崗岩 である。マテナダラン(メスロプ・マシトツ記念古文書収蔵館)、ジェノサイド 犠牲者碑のモニュメント 、共和国広場の水飲み場「七つの泉」などは、淡灰色の玄武岩 でできている。地下鉄駅の入り口ホールは多彩な大理石 で飾られている[ 26] 。
アルメニア語で「十字架 の石」を意味するハチュカルという石碑 が古来多く建てられ、石造の書物や年代記 となっているほか、近年ではアルメニアと同じ地震国である日本で起きた東日本大震災 (2011年3月11日)の犠牲者を追悼するハチュカルもある[ 27] 。
ゲガルド修道院 世界遺産 として3か所の文化遺産が指定されている。991年に創建されたハフパット修道院 とサナヒン修道院 、4世紀に創立したゲガルド修道院とアザト川上流域 、4世紀に建立されたエチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡 がある。
アルメニアでは伝統的なアルメニア暦 も使用される。
アルメニアでは多種多様なスポーツ が行われており、人気の球技 としてはサッカー やバスケットボール が挙げられる。オリンピック ではレスリング 、ウエイトリフティング 、ボクシング 、体操競技 でメダルを獲得している。他方で、頭脳スポーツ ではチェス 選手を多数輩出しており盛んである。
同国のスポーツ団体は最大組織となるものが2つ存在しており、その組織としてホメネテメン (英語版 ) とアルメニア慈善協会 (英語版 ) が挙げられる。特にホメネテメンは世界中に支部を開設しており、アルメニア人コミュニティ が存在する場所なら何処からでもアクセスが可能と言われるほど規模が大きいものとなっている。
サッカー アルメニア国内ではサッカー が最も人気のスポーツ となっており、1992年 にプロサッカーリーグのアルメニア・プレミアリーグ が創設されている。アルメニアサッカー連盟 (FFA)によって構成されるサッカーアルメニア代表 は、これまでFIFAワールドカップ およびUEFA欧州選手権 には未出場である。
アルメニアの英雄的な存在として、ヘンリク・ムヒタリアン が知られている。ドルトムント 、マンチェスター・ユナイテッド 、アーセナル 、ASローマ 、インテル など[ 28] 、数々のヨーロッパ のビッグクラブ において顕著な実績を残してきた[ 29] 。なお、ムヒタリアンはアルメニア年間最優秀選手賞 (英語版 ) を歴代最多となる10度受賞している。
アルメニアの国果 はアンズ である。アンズは同国では古くから栽培されて来ており、アルメニア高地 の自然を反映するものとしての意味合いも強い。
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