アルキマル(モンゴル語:Arkimal、生没年不詳)は、15世紀後半の朶顔衛(ウリヤンハイ)の領主。オイラトのエセン・ハーンによるモンゴル高原統一がなされた頃(正統・景泰年間)、エセン没後の内乱時代(天順・成化年間)、ダヤン・ハーンによるモンゴル高原再統一期(弘治年間)という、約40年近い長期に渡って活動したことで知られる。
明朝の記録(『明実録』)によると、アルキマルは最初の朶顔衛領主トルクチャルの息子のオルジェイ・テムルの孫であったとされる[1]。アルキマルの父については全く記録がなく、明末に編纂された『盧龍塞略』では誤ってオルジェイ・テムルの息子ともされている[2]。なお、後にアルキマルは弟の「エンケ・テムル(影克帖木児)[3]」と「エンケ・ボラト(影克孛羅)[4]」を明朝に派遣したとの記録があり、複数人の兄弟がいたようである[1]。
アルキマルが史料上に登場するのは1446年(正統11年)11月からのことで、この時明が「オルジェイ・テムルの孫のアルキマル(完者帖木児孫阿古蛮)」が地位を継ぐことを認めたと記録されている[5][1]。
アルキマルが領主となったのはドルベン・オイラトを支配するエセン太師がモンゴル高原を統一しつつあった時期であり、アルキマルの支配する朶顔衛もオイラトより圧迫を受けていた。1454年(景泰5年)6月にアルキマル自身が明朝に使者を派遣して述べたところによると、「(朶顔衛は)オイラトの圧迫を受け、その部落を黄河北方のムナ山(現在のウラド前旗烏拉山)に移した。オイラトは三衛の頭目を召し出して若者を徴発させ戦いに従わせようとしている」という[6][7]。
『于公奏議』巻2によると、エセンが自ら明朝に使者を派遣して「(かつてオイラトと敵対していた)和寧王アルクタイがウリヤンハイ三衛の地を根拠地としてたため、これを接収し、三衛の人は放逐した」と伝えており、このようなオイラトの強制移住策によってウリヤンハイ三衛の居住地は大きく変わることとなった[8]。『明史』外国・兀良哈伝は朶顔衛が1389年(洪武22年)の登場から常に「大寧より喜峰口にあたり、宣府に近い地(現在の河北省最北部)」にあったとするが[9]、これは後世の編者の誤りで、15世紀半ばにオイラトの強制移住を受けた後の住地である[10]。
しかし、1454年中にエセンは弑逆されてしまい、オイラトの支配から解放されたアルキマルは東方に帰還し、1455年(景泰6年)7月に朝貢を行った[11]。エセン没後に即位したマルコルギス・ハーン、モーラン・ハーンの治世中はオンリュートと総称される、チンギス・カンの弟の子孫が支配する勢力(カサル家=ホルチン部のボルナイ、オッチギン家=泰寧衛のゲゲン・テムルとウネ・テムル、ベルグテイ家=モーリハイら)が隆盛した。
アルキマルは1459年(天順3年)8月に泰寧衛のゲゲン・テムルおよび福余衛のケフテイとともに使者を派遣したこと[12]を皮切りに、1460年(天順4年)から1463年(天順7年)にかけて、単独もしくは他の首領とともに朝貢を繰り返した[13]。
1465年-1466年(成化1年-成化2年)はマルコルギス・ハーンとモーラン・ハーンが相継いで弑逆されるという動乱の年であったが、1467年(成化3年)には「朶顔衛右都督」のトゥルゲンと、「都督」のアルキマルが始めて名を連ねて明朝に使者を派遣した[14]。なお、アルキマルは1459年より「朶顔衛都督」を称していたが、ほぼ同時期にトゥルゲンも「朶顔衛右都督」を称するようになっており、これ以後朶顔衛内で「都督(左都督)」「右都督」を称する家系が確立する[1]。
1468年(成化4年)後半から1469年(成化5年)にかけてモーラン・ハーンを弑逆したモーリハイ王が内乱の末に殺され、突出した有力者がいなくなったモンゴル高原ではハーン位が空位になる混乱時代に陥った。これによって朶顔衛も混乱に巻き込まれたためか、明朝に対して辺地で耕牛・農具を收買することを乞うたとの記録がある[15][16]。これ以後、ハーンの空位時代が続いた期間は連年朝貢が行われた記録のみが残る。
1479年(成化15年)、モンゴル高原ではマンドゥールン・ハーンが亡くなり、その寡婦であるマンドゥフイ・ハトゥンと再婚したバト・モンケがダヤン・ハーンとして即位していた。しかし即位時のダヤン・ハーンはまだ年少で、この頃のアルキマルは1479年9月[17]と1481年(成化17年)2月[18]に明朝に使者を派遣した記録があるに過ぎない。
しかし1482年(成化18年)に入ると、この年の閏8月にダヤン・ハーンの義父であり当時最大の実力者であったイスマイル大師とアルキマルらウリヤンハイ三衛の勢力が抗争したが、講和が成立し共に明朝に攻め込もうとしているとの報告がなされた[19][20]。しかし結局ウリヤンハイ三衛はイスマイルの敵に回ったようで、1483年(成化19年)にはイスマイルが敗走し、その幼子はウリヤンハイ三衛によって海西女直に奴隷として売り飛ばされたという[21][20]。モンゴル年代記によるとダヤン・ハーンの命を受けてイスマイル大師を討ったのはゴルラトのトゴチ少師とされ、この人物は朶顔衛署印知院のトゴチ(脱火赤)に比定されている[22]。このように、朶顔衛のアルキマルとトゴチらはダヤン・ハーンの治世の最初から忠実な味方として活動しており、この関係は後の朶顔衛の発展に大きな影響を及ぼすこととなる。
イスマイルが討伐されたころ、ダヤン・ハーンは西北のオイラトと「連和」しており、1484年(成化20年)にはオイラトのケシク・オロクがアルキマルら三衛をも招降させようとしていたとの報告がある。さらにケシク・オロクは小王子(ダヤン・ハーン)と協力して明朝を襲おうとしているとも伝えられており、この時明朝はかつてのエセンの時代のようにウリヤンハイ三衛がその先導をなすことを恐れていた[23]。しかし1486年(成化22年)からは「北虜讐殺」と表現される内乱がモンゴル高原で起こったようで[24]、これ以後1489年(弘治2年)正月に使者を派遣した他は、約10年近くアルキマルの活動は見られなくなる。
1495年(弘治8年)8月にはモンゴル側で捕虜となっていた七名を送還して明朝より下賜を受け[25]、再びアルキマルの活動が散見されるようになる。アルキマルは1497年(弘治10年)9月にも使者を派遣し[26]、1501年 (弘治14年)7月もアルキマルとその息子2人、頭目4人がモンゴルに掠奪された人畜を送還したことで官位を昇格とされている[27]。1502年(弘治15年)3月使者派遣。
1504年(弘治17年)6月にはアルキマルが小王子(ダヤン・ハーン)と通和し、小王子は一小女をアルキマルに与え姻戚関係を結ぼうとしているとの報告が明朝になされた[28][29]。1505年(弘治18年)正月にはアルキマル自らが明朝に使者を派遣し、小王子からの和親の申出を断ったと報告した[30]。しかしこの時、明朝の兵部は「アルキマルは明国のため忠義を尽くし、北虜と和親しなかったと自ら述べるが、その真偽は知るよしもない(阿児乞蛮自陳為国効忠、不与北虜和親、其情偽雖不可知……)」とも述べており、事実としてこれ以後アルキマルの子孫とダヤン・ハーンの子孫はより密接な関係を築いていく[29]。なお、約10年後の1514年(正徳9年)には「小王子と三衛の締姻」が成立していたと報告されている[29]。
1507年(正徳2年)2月には「アルキマルの子のホトン(阿児乞蛮子花当)」が明朝に使者を派遣し、父の地位を継承することを乞うたので、これを認めたとの記録がある[31]。このため、アルキマルは1506年〜1507年ころに死去したものとみられる[32]。
| ジェルメ J̌elme | |||||||||||||||||||||||||||||||
| トルクチャル Torqčar | |||||||||||||||||||||||||||||||
| トゥルゲン Törögen | オルジェイ・テムル Ölǰei Temür | ||||||||||||||||||||||||||||||
| トゴチ Toγoči | 古彦卜 gǔyànbǔ | 打不乃 dǎbùnǎi | |||||||||||||||||||||||||||||
| シリン・ボロト Šilin bolod | アルキマル Arkimal | ||||||||||||||||||||||||||||||
| ホトン Qotang | |||||||||||||||||||||||||||||||
| ゲレ・ボロト Gere bolod | |||||||||||||||||||||||||||||||
| ゲレルテイ Gereltei | |||||||||||||||||||||||||||||||
| エンケ Engke | |||||||||||||||||||||||||||||||
| ハラチン旗 | |||||||||||||||||||||||||||||||
| 主要部族 |
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| 歴代ハーン | ||||||||||||||||
| 歴代ハトゥン | ||||||||||||||||
| 歴代ジノン | ||||||||||||||||
| 歴代オン | ||||||||||||||||
| 歴代タイシ | ||||||||||||||||
| 称号 | ||||||||||||||||
| 主要都市 | ||||||||||||||||
| 年代記 | ||||||||||||||||
| 対外勢力 | ||||||||||||||||