東京 ・秋葉原 の電気街。中央通り ・万世橋 から第一半田ビル を望む(2013年 )秋葉原駅頭。改装前の秋葉原ラジオ会館 が見える(2003年 ) おたく (オタク またはヲタク )とは、愛好者 を指す呼称で、1980年代 に日本 のサブカルチャー から広まった言葉である。元来の「お宅」は相手の家や家庭を指す敬称の二人称 代名詞であるが、ある特定のサブカルチャー の愛好者を指し示す、現在使われている言葉としての「おたく」の起源は、1983年 にコラムニスト の中森明夫 が「コミックマーケット 」に集うSF や漫画 ・アニメ などの若いファン 達がお互いを「おたく」と呼び合っていた現象を揶揄して、彼らを「おたく」として分類したことにある。
1989年 に発覚した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 において、犯人 が収集していたアニメ や特撮 等の多数のビデオテープ や漫画雑誌 を、マスコミ が事件と関連付けて盛んに報道したことで、世の中でオタクバッシング が起こり、皮肉にもその「おたく」の存在が世間一般に広く知られるようになった。そのため、当初は漫画 やアニメ 、コンピュータゲーム 、アイドル などの趣味 を持つ人たちと、社会性 が欠如している人間や対人コミュニケーションが不得意 な人等を、十把一絡げにして指し示す否定的な意味合いを持つ言葉として使用されることが多かった。
その後、1990年代 後半からのインターネット の普及やアニメや漫画、コンピュータゲーム、アイドルの社会的地位 の向上によりおたくへの悪い印象は薄れ、現在では単なる「ファン 」や「マニア 」と同義で使われることも多い。
最初期のロリコン同人誌『愛栗鼠 』『シベール 』『幼女嗜好 』を創刊し、1980年代前半のコミックマーケット に変質者 のコスプレで出没していた蛭児神建 。大塚英志 は「中森明夫 が『おたく』の語をもって外からコミケに集う人々をカリカチュアライズするより前に蛭児神建の異装は既におたく自身による『批評』としてあった」と評している[ 1] 。 「おたく」の元の語源は、相手の家を指す敬称である「御宅」であり、転じて相手の家庭、夫を指す二人称代名詞として使われた[ 2] 。1950年代からの学生運動 により、青年層を中心に、相手個人を指す敬称としても使われ始めた。「あなた」や「きみ」と比べて距離をおいた呼びかけ[ 3] としてその後、若者言葉のような形で一般的に使われるようになった。
「おたく」が「おたく」と呼ばれる以前の歴史は、それほど研究されていない。内田樹 は、「SF」から「オタク」へのテイクオフは1960年代後期の少年文化の「過政治化」に対する反動であり、自閉的で自分の立ち位置について客観的に語ることができないとしている[ 4] 。
1982年 から放送されたロボットアニメ 『超時空要塞マクロス 』の中で、主人公の一条輝 がリン・ミンメイ 相手に「御宅 (おたく)」という二人称を使う場面があり、ファンがコミケやSF大会などでこの呼び方を真似たことで[ 5] [ 6] 、アニメファンの中で相手を指し示す際の「おたく」という言葉の用法が広まったとされる。
ある特定のジャンルのサブカルチャーを好きな人そのものを指し示す、現在使われている意味・言葉としての「おたく」は、日本で2番目となるロリコン漫画 雑誌『漫画ブリッコ 』(白夜書房 、当時はセルフ出版)1983年 6月号から8月号まで中森明夫が連載した『東京おとなクラブ 』の出張コーナー『東京おとなクラブJr.』[ 7] 内のコラム「『おたく』の研究 」が初出とされている。中森はコミックマーケット(コミケ)に集まる人々を「おたく」として活字で次のように表現した。
その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。(中略)
それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。(中略)もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたいが十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。(中略)
それでこういった人達を、まあ普通、マニアだとか熱狂的ファンだとか、せーぜー
ネクラ 族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。
— 『漫画ブリッコ』1983年6月号、『おたく』の研究(1)街には『おたく』がいっぱい[ 8] また、中森はコミケに集まる人々の他の特徴として、「ブルトレ撮りに行って 線路上でひき殺されそうになる奴」(当時は「撮り鉄 」という呼称はなかった)、「アニメ映画 の公開前日に並んで待つ奴」、「マイコンショップ でたむろってる牛乳ビン底メガネの理系少年」、「SFマガジン のバックナンバーと早川の金背銀背のSFシリーズ が本棚にビシーッと揃ってる奴」、「有名進学塾に通ってて、勉強取っちゃったら単にイワシ 目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」などを挙げ、そうした普段は暗いのにコミケだとやたらにはしゃぐ少年少女、理系やガリ勉 、そして対人コミュニケーションが不得意な人らを一括りにして、「おたく」と命名した。
中森が同連載で「中学生ぐらいのガキがコミケとかアニメ大会とかで友達に「おたくら さぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない」「けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、女なんか出来るわきゃないんだよね」[ 9] といった差別的な文章を書いたことで、読者から怒り・反感の投書が殺到した。編集としても静観するわけにもいかず、1983年8月号で「『おたく』の研究」は休止となり、1983年9月号の読者投稿欄「新宿マイナークラブ」では、代表的な読者の反応を掲載するとともに、編集部の大塚英志 は「相手の立場をからかうなら自分の立場をふまえてからでないと、単なる誹謗中傷に終わってしまいます。その意味で非生産的な中森君の文章は困ったものだと思い、改善を求めておりました」と中森を非難した[ 10] 。一方、雑誌内雑誌『東京おとなクラブJr.』の担当編集者であった小形克宏 (旧・緒方源次郎)は「ちょっと後味悪いけど、まあ別にいいんじゃないって思ったのに、相棒だった大塚英志さんが許さず、彼との間で議論になりました。『ブリッコ』は僕と大塚さんとできっちり担当を分けていたので、僕のページに口を出されるのは心外だったんですけど、結局大塚さんに『読者の悪口は載せられない』と言い負かされました」と同人誌のインタビューで証言しており、大塚の一連の言動は、担当者の枠を超えた越権行為まがいの容喙であったとしている[ 11] 。
その後、「『おたく』の研究」は1984年1月号で終了したが、大塚は1984年6月号の読者投稿欄で再度、「おたく」についての立場表明を行い、「中森氏の『おたくの研究』についてぼくは担当の緒方に対し毎回、『不快感』を表明してきました。中森氏の文章は<健全な批判>ではなく<差別>を目的としたものと目に映ったからです」と改めて非難したが、その一方で「最終的には登場をご遠慮願うことになったのですが、意外だったのは中森氏の文章に読者を含めて、相当の支持者がいたことです。たしかに感情的な文章と<おたく>という語の差別用語としての秀逸さ(?)は無責任におもしろがるには充分のものだったといえます。結局のところ、<おたく>なる語はすっかり定着してしまいました」と述べた[ 12] 。
岡田斗司夫 は、おたくを「強制収容所 に入れられた囚人 」であるとしてこう語っている[ 13] 。
「おたく」という言葉がない時代は、いろんな
種族 がいただけでした。SFファンとかアニメファンとかマンガファン、個別の作品とか個別のジャンルのファンがいたわけです。
それを外側からひとまとめにして、ああいう奴らを「おたく」と言うんだと決めつけられてから、私たちの民族が発生した。だから、正確に言うと民族じゃなくて私たちはもともとは他者から「強制収容所に入れられた囚人」でした。
あるときから、「ヘンなやつら
強制収容所 」が作られた。そこに収容される理由は様々でした。まずは「アニメ好き」「マンガ好き」「ゲーム好き」という人たちがぽんぽんと放り込まれた。それだけではなくて「なんか暗い」とか「なんか社会性がない」という人たちまでも、ぽんぽん放り込まれていった。この収容所の看板が「おたく」でした。
— 『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書 , 2008年) - p.52-53 なお、竹熊健太郎 と『漫画ブリッコ』元編集部の小形克宏 は、当時を振り返って「おたく」という造語がシニカルながらも秀逸なネーミングであったことを認めつつ、命名者の中森明夫に対して、ある種の違和感を抱いていたことを次のように語っている。
竹熊 中森氏の「おたくコラム」について、担当者としてはどう考えていたんですか? そう言えば聞いた事がなかったけど。小形 そうだなあ、「庇いきれなくてごめん」って感じだなあ。竹熊 あれ、「差別文章」だとは思いました? 僕はきついなあ、と思ったけど、げらげら大笑いした記憶があります。小形 そうだなあ、きつかったよねえ。でも中森氏の持ち味だからねえ。まあ、おれが感じたのは「中森くんだって、この中に書かれているおたくじゃないのかなあ」ってことかな。そして「おれもそうだなあ」ということ。そうでしょ?竹熊 中森くんも小形くんも、僕も、大塚さんだってオタクだよね。それで、本が出て2ヶ月後のコミケでは、もうみんな「おたく」って言い合ってました。最初はオタクが自分の事を自嘲するスラングでしたよね。小形 そうだね。でも、中森氏は一貫して「自分はオタクじゃない」って言ってる。すごい不思議だけど。大塚氏もきっと違うと思っていると思う。確かめたことないけど。竹熊 不思議だよねえ。周囲のオタクはむしろ喜んで使ってた感じだったけどねえ。とにかく「あ、それ!」と膝を打つぴったりなネーミングだった。小形 そうね、なんとなく意識していた程度のものに、名前が付いて以降意識せざるを得なくなった瞬間。竹熊 なんかもやもやとあったけど、名前がついて一挙に定着した感じだよね。でもオタクが一般化したのは、やはり7年後の宮崎事件でしたね。あれでマスコミが使い出して自嘲語から差別語になった印象があります。小形 あの時、中森氏が電話かけてきたんだよね。「大塚さんの連絡先教えて」って。「悪いけど今は知らないんだ」って答えたけど。自分から大塚氏に連携を呼びかけようとしていた。昔打ち切られたのに、偉いなあってすごく感心した。
—おたくの語源―”非”大塚英志史観の『漫画ブリッコ』再検証
1988年 から1989年 にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(以下「宮﨑勤事件」)において、犯人の宮﨑勤 が収集していた特撮 やアニメ 、ホラー映画 のビデオテープ 、漫画やアニメ雑誌 などをマスコミ ・メディア が取り上げ、「現実と虚構の区別が付かなくなり犯行に及んだ」として、センセーショナルに報じた。その際、宮崎の個室部屋が報道され、4台のビデオデッキ と6000本近いVHS ビデオテープが万年床を乱雑に囲んだその部屋は、犯人の異常性を示すものとして注目を浴びた。当時まだ一般に浸透していなかった“おたく”という人格類型の呼称が定着したのも、この事件によるものだった。ただ、宮崎の部屋は殺人犯特有の特殊なものというよりは、オタクの部屋にしばしばみられる傾向として、オタクたち自身にも認識されている[ 14] 。
この事件により、「おたく=変質者 ・犯罪者予備軍」というイメージが定着し、おたくは印象の悪い言葉として広まった。この時期、「おたく」という言葉はNHK では放送禁止用語 とされ、使用できない言葉であった[ 5] 。現在でもこの影響は残っており、おたくを性犯罪 と結びつける報道がなされることがある[ 15] 。そのためこれらのバッシングが集合的記憶 となり、おたくの間でマスコミに対する猜疑心や被害者意識が強くなっていった。その影響は、おたくに対する偏見が薄らいだ今でも陰を落としている。
宮崎勤事件によって「おたく」に注目が集まる中、無署名で活動していたフリー ライター が1990年に『週刊SPA! 』上で、おたく評論家 「宅八郎 」としてデビュー。翌年の1991年にワンレングス の長髪に銀縁 眼鏡 、マジックハンド とアイドル のフィギュア 、手提げ紙袋を持つという姿でテレビ番組に出演し、強烈なインパクトを残した。いわゆるオタク史の中の位置づけとして、宅八郎は宮崎勤事件と並んで「オタクの間違ったイメージを広めた」存在として語られることが多い。宅八郎と長年交流のあった大泉実成 は、宅について、「彼にはオタクのプラス面をアピールしたいという思いがあった。ただ、その擁護の仕方がめちゃくちゃで、誤爆のようなところがあった」と振り返っている。宅のメディアでの風貌は作られたものであり、オタクに見える服を着て、おたくを演じていた。大泉は、「オタクと呼ばれていた当事者たちからは、演じていることはバレバレ。迷惑でもあっただろう」「オタクの歴史を語るうえでは、あだ花のような存在でしょう」と語る一方で、宅の著書『イカす!おたく天国』について、「負のイメージが強かったオタクを、特定の分野に特化した優秀な存在として社会に伝えた。その意味はあると思う」と評している[ 16] 。
1990年代 前半には、依然として「おたく=変質者・犯罪者予備軍・社会不適応者」とみなす論調があり、1991年にはコミケ幕張メッセ追放事件 が起きた。
一方、パソコン通信 でのおたく間交流により、岡田斗司夫 的な情報発信に積極的なおたくが増え、カタカナ の「オタク」、探求者としてのイメージも出てきた[ 17] 。
1990年代後半からは、海外で日本の漫画やアニメ、ゲーム等が流通していることが徐々に知られるようになる。1996年にはNHKBS2 で、漫画を紹介・解説する『BSマンガ夜話 』が放送を開始する、岡田が東京大学 で講義を行うなど、漫画 やアニメといったサブカルチャー が、小説 や実写映画 等といったメインカルチャー と同じ土俵で語られることも徐々に増え始めた。1995年から放送された『新世紀エヴァンゲリオン 』は社会現象 と評されるほどのヒットとなる。
また、『AKIRA 』(1986年)や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 』(1995年)といったアニメや漫画が海外のクリエイター にも大きな影響を与え、更にはその二作品にも影響を受けた、1999年公開のハリウッド映画 『マトリックス 』が、世界的に大ヒットを記録した事などがきっかけで、日本でも「ジャパニメーション(Japanimation)」が逆輸入 的な形で評価され始めたが、一方でマスコミが評価するのはあくまで「ジャパニメーション」であって「アニメ」ではないという傾向もあった[ 18] 。
岡田斗司夫 は、1980年代後半から1990年代までのオタクを取り巻く状況について、こう語っている。
(オタクに対する誤解をなんとかするためには)2つ方法がある。1つは魅力そのものを伝えてオタクというのは実は面白くて「こうだ」っていう方法。もう一つは、お前らは知らないだろうけど、海外では俺達ちょっとしたもんだぜっていうこの二面作戦でオタクって実は大したことあるよという底上げ作戦を展開したんですね。それはその後、海外でのオタク評価は本当に上がってきたりですね、「エヴァンゲリオン」が大ヒットしたりですね、ものすごい後押しがあったんですね。時代の後押しがあったおかげで、なんだかんだいってもオタクは80年代の暗黒の時代から90年代の後半になるにつれて、かなり楽な状況になってきた。
だから僕たちは、なんかこう「オタク」と言えるようになったんですね、自分のことを。
ロフトプラスワン で「オタクのイベントだ」と言って人が来るようになったのそれのおかげなんですよ。それまでは「オタクのイベントだ」と言うと、何よりもオタクが来れなかったんですね。オタクと思われたら困るっていう風に思ってた。それがなんか90年代半ばのオタク状況。(中略)
世の中が急激にそのオタクを認めるようになった。1つは、お前らがやってることって案外面白いんだなってのが、ようやっと評価されてきた。それはエヴァンゲリオンとか色んな作品のヒットのおかげですね。あともう一つ、海外で一流の監督とかが皆オタクだと自分のことを言ったり、よその国では
セーラームーン とかそういうコスプレしてる奴がガンガン出てきて、僕らのヘンテコさがなんとなく相対化されたんですね。僕らが相変わらずヘンテコなのは当たり前なんですけども、海外にもヘンテコな奴がいるからなんだこれ?って。日本の中の変な奴じゃなくて、世界でいえば普遍的な奴なんだ。あいつら面白かもわかんないなみたいな目線で見てもらえるようになったのが僕らがちょっとだけ生きやすくなった理由ですね。
— 『オタク・イズ・デッド』(新宿ロフトプラスワン , 2006年5月24日) また、岡田はこのようなおたくへの評価が好転した要因として、「オタクたちの努力だけではなく、日本経済が行き詰まっていた ことも挙げられる」と述べている[ 19] 。財界人からもオタク文化に期待する声が寄せられた。
日本人は、日本発のものは世界に評価されるはずはないと思っている。
桂離宮 から
浮世絵 まで、外国人が評価したものだけを日本文化と称してきたが、それは違うのではないか。
漫画こそ、日本が世界に誇りうる独自の文化で、これからもっと世界に浸透していくだろう。マルチメディア 時代になれば、コンビューターソフトと結びついておもしろい社会をつくると思う。世界に広がる漫画が、管理教育、官僚文化に風穴を開けてほしいものだ。
インターネットの他、ますます複雑・高度化する情報ネットワーク網の中で作品を作り続け、ヒットさせる実力を持つ者はオタク・クリエイターしかいない。現に、日本のアニメーターたちは日本よりもアメリカ等海外での評価が高い。本当の国際競争力を持つクリエイターとは、オタクの中からしか生まれないのだ。
— 堺屋太一 [ 20] 批評家の東浩紀 も1990年代の不況 と関連付けて分析をしている。
消費社会化が行くところまで行った今日、日本人が「日本的である」と思う風景は、もはや
フジヤマ や
ゲイシャ ではないでしょう。(中略)1990年代の
長い不況 のなかで、残ったのは
コンビニ と
ケータイ ぐらい。『
アキラ 』のような格好いいサイバーシティはやってこなかった。そういう絶望と正面から付き合ってきたのが、オタクたちだったわけです。ニセモノとサブカルチャーしかない世界でどのように誇りをもって生きていけばいいのか。オタクたちはそんな物語ばかり紡いでいる。そしてそれはいまでは日本全体の問題でもある。
— 東浩紀、2002年[ 21] 2000年代 インターネットの普及とオタクの広がり[ 編集 ] 2000年代前半にはインターネット利用が広がり、若年層の間で2ちゃんねる ネタやFlash 動画が人気を得る[ 22] 。
2005年 (平成17年)には、アキバ系 アニメオタクの青年が主人公である、2ちゃんねる発の恋愛小説 『電車男 』が映画化及びフジテレビ のゴールデンタイム でドラマ化され、女性層や若年層を中心にヒットしたことで、宮崎事件以降長らく続いていた、オタクへの否定的なイメージが払拭されるきっかけのひとつとなった。この頃にようやく、変質者 や犯罪者 予備軍などといった、マイナスイメージではないオタク像が世間一般に広く認知されるようになり、マンガ やアニメ といった二次元 文化が、カジュアルな趣味として市民権を得るようになったといえる[ 23] 。その市場規模については、2005年時点で4110億円(野村総研 調べ)と推定され、有望な市場としても注目が集まった[ 24] 。
同時にオタクバッシングの波も続いており、「ゲーム脳 」「フィギュア萌え族 」の提唱、アニメソング 「なくなってほしい」発言騒動[ 25] なども起きたが、更には同年の流行語大賞 に「萌え 」や「メイドカフェ 」がノミネートされるなど、オタク文化が世間一般に広まり始めた[ 26] [ 15] 。
オタクという呼称そのものも半ば陳腐化し、「オタ」と気軽な呼び方で使用されたほか、「鉄オタ 」「特撮オタ」のようにファンやマニアと同義に使われることが増えた。一方で、それまで副次的な要素にすぎなかった「萌え」文化も、おたく文化の主要な要素とみなされるようになり、「おたく=何かに萌えている人」「おたく=秋葉原 にいる人」という偏見も生まれ、「オタク=アニメ・アイドルのオタク」というイメージもより一層強まる結果となった。
この頃には日本のアニメや漫画に強く影響された外国人の存在が徐々に知られるようになり、おたく文化が外国人から注目されていることが知られるようになったため、その評価が逆輸入される形でも地位は向上した。2003年 (平成15年)には、おたく文化に強く影響を受けた外国人によって英語圏最大の匿名掲示板 「4chan 」が開設され、アニメや漫画に特化した大規模なコミュニティ が英語圏 にも生まれた。
2000年代後半からはYouTube やニコニコ動画 などの動画投稿サイト により、ゲームの「実況プレイ 」や、『初音ミク 』を使用したVOCALOID 楽曲などが流行し、同時期の深夜アニメ バブルを追い風に、2006年の『涼宮ハルヒの憂鬱 』などの深夜アニメ 作品がインターネットで人気を博した[ 23] [ 27] 。
2007年 (平成19年)に大学生を対象に行われた調査によると[要出典 ] 、おたくが受容される傾向にあることが示され、オタク文化への認知が進んだ。調査では、自らがおたくであると思い当たるフシがある、親しい友人におたく的な人がいると答えたものが増加しており、おたくの内集団化 が進んだとされる。
また、2007年 には、麻生太郎 外務大臣 (当時)がサブカルチャー を利用して日本を代表する外交活動を行い、外国人漫画家 に贈られる「国際漫画賞 」を創設した[ 28] 。
2007年放送の『らき☆すた 』では、所謂「聖地巡礼 」がブームとなり、それを地元の自治体 が町おこし に活用するという現象も生まれた。そうした一連の流れを「萌えおこし 」と称することもあり、以降、このような聖地巡礼や萌えおこしは他作品でも一般化していくことになる。
一方で大塚英志 は、世間のオタク観をこう批判している。
「おたく」なる語が「オタク」と片仮名に書き換えられるあたりから
文部科学省 や
経済産業省 や、ナントカ財産〔
ママ 〕の類がちょっとでもうっかりするとすり寄ってくる時代になった。ぼくのところでさえ
メディアなんとか芸術祭 という国がまんがやアニメを勝手に「芸術」に仕立て上げようとするばかげた賞がもう何年も前から「ノミネートしていいか」と打診の書類を送ってくるし(ゴミ箱行き)、そりゃ
村上隆 や
宮崎アニメ は今や国家の誇りってことなんだろうが、しかし「オタク」が「おたく」であった時代をチャラにすることに加担はしたくない。国家や産業界公認の「オタク」と、その一方で見せしめ的な有罪判決が出ちまった「おたく」な
エロまんが はやっぱり同じなんだよ、と、その始まりの時にいたぼくは断言できる。国家に公認され現代美術に持ち上げられ「おたく」が「オタク」と書き換えられて、それで何かが乗り越えられたとはさっぱりぼくは思わない。
— 大塚『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』著者からのコメント[ 29] 2010年代から2020年代 オタク文化の大衆化と更なる拡散[ 編集 ] 2000年代末からの「AKB48 」や「ももいろクローバーZ 」などのブームが拡大し、全国的なアイドル ブームが起こった。AKB48のヒットにより、「推し 」という言葉が一般化し、女性アイドルだけではなく男性アイドルやアニメのキャラクターなど、様々なジャンルでも使用されるようになった。
iPhone やAndroid スマートフォン が普及し、インターネット がますます身近となった。電子掲示板 、動画共有サイト 、Twitter などのSNS などでオタク文化が拡散したことで、マニアックな話題の交流が深まった。それにより美少女キャラを起用したブラウザゲーム やソーシャルゲーム などがおたく界で主要な位置を占めるようになった一方で、1990年代 後半から2000年代 半ばにかけて、オタク文化の中心的存在の一つだったアダルトゲーム (エロゲー)はソフトの高価格やコンテンツの多様化などの様々な理由で、衰退傾向に歯止めがかからなくなっている。
2011年、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ 』が深夜放送から異例のヒット[ 30] 。2016年にはアニメ『君の名は。 』、特撮映画『シン・ゴジラ 』が大ヒットを記録した。
2016年 に登場したキズナアイ を端緒としてバーチャルYoutuber がブームとなり、アニメ ・漫画 ・ゲーム に並ぶオタクのトレンドとして存在感を持つようになった[ 31] 。
2016年に行われた調査によると、18歳から29歳の間で好きなテレビ番組 のうち、10年前から大きく伸びているジャンルが「アニメ」であり、20pt以上増加しているのに対して、「音楽 」「スポーツ 」が10pt以上低下している。また、若者女性も男性と同様に、大きく伸びているのは「アニメ」で、「音楽」「現代ドラマ」が約10ptダウンするなど、若者 の好きなテレビ番組を2006年と比較すると、男女ともに「アニメ」が大きく上昇している。一方で、「バラエティ番組 」「音楽」「スポーツ」「テレビドラマ 」が低下するなど、テレビ番組に対する好みが10年間で大きく変化しており[ 32] 、アニメとスポーツやテレビドラマ等といった大衆文化 (メインカルチャー )との、人気の逆転現象が見受けられる。
2010年代後半から、「Netflix 」や「Amazonプライム・ビデオ 」をはじめとした定額制動画配信サービス の台頭で、映像作品に触れる機会が多くなってきたことからオタクに憧れる若者も増えてきている。その背景として、博報堂DYメディアパートナーズ の森永真弓 は、世間からの「個性的でなければいけない」という外圧により、「無理して個性を作らなければいけない」と焦る若者が増えているとして、その理由を「カルチャーシーンから“メジャー”が消えてしまったから」だと分析し[ 33] 、「属するだけで安心できていたメジャーが消えてしまった今、彼らが探しているのは、要は“拠りどころ”なんだと思います。自分が属しているだけで、楽しいと思える場所。それが、オタクという属性です。(中略)推し活動をしているオタクはすごく輝いているから、自分もああなりたいと切望する。もしそうなれて、オタクという属性を手に入れられれば、結果的に自分は“個性的”にもなれる、と捉えている。だから正確に言えば、“オタクになりたい”んじゃなくて、“拠りどころになりうる、好きなものが欲しい”だし、それは“個性的な自分でありたい”だし、一番正直に言うなら“自己紹介欄に書く要素が欲しい”なんですよね」と語っている[ 34] 。
映像分野以外でも鉄道オタクの活動が活発化し、1000億[ 35] とも言われる経済効果と同時に迷惑行為も問題となった。
原田曜平 は、非常に多くの若者たちが、自分のことを「オタク」と自称するようになっていることを挙げ、本来であれば、サブカルチャー好きを指す言葉である「オタク」というワードが、メジャーなカルチャーにまで使われるようになってきていることに驚いたと述べている。また、話題になった作品だけをチェックしており、オタク知識は総じてそう深くない「エセオタク」が増えており、濃度の高いオタク(ガチオタ)からは「にわかオタク」と揶揄されることもある[ 36] 。
オタク層は選挙の動きも左右するほどになった。保守 系の表現規制派の代表だった石原慎太郎 が東京都知事 を辞めるなどして保守派からのオタクバッシングは減少し、むしろ取り込みを図るようになる[ 37] 。自由民主党 は2019年に「#自民党2019」として『ファイナルファンタジーシリーズ 』などで知られる天野喜孝 を起用し、若者向けキャンペーンを実施[ 38] 。これ自民の若者戦略ついては安倍晋三 の若年層の支持が高かった点も指摘される[ 39] 。
第25回参議院議員通常選挙 で自民党の山田太郎 が当選した際には、オタク票を味方につけたことが勝因と評された[ 40] 。第26回参議院議員通常選挙 では漫画家の赤松健 (自民党 )が比例トップ当選し、自民党内の組織票系候補者 すら軽く上回っている[ 41] 。ライターの遠藤結万 は、山田太郎の支持者の多くは「オタク」を社会から疎外され、ポリコレ によって抑圧されたアイデンティティだと捉えているのだと分析している[ 42] 。
また、日本政府 が観光資源 の一環として、国策 で「クールジャパン 」戦略を行うようになったのも2010年代 からであり、迫害から一転し、おたく文化は自民党政府お墨付きの“体制 側”の文化になったとも言える。
自民党がおたく層の取り込みを図ったのに対し、リベラル系の立憲民主党 と、かつては表現規制や青少年健全育成条例 に関して激しく抵抗する一面もあった日本共産党 は表現規制を推進していった[ 37] [ 43] 。
おたくが自民党の支持基盤と認識され、SNSを通じて左右対立が激化し、リベラル・左派の間でおたくに対する反感がますます強まり、「表現の自由戦士 」という蔑称も広がった。漫画家の山本直樹 は、自民党の憲法改正案や小池百合子 都知事の例や戦前のエログロ の例など表現言論規制は別に左翼だけではなく、逆に左翼も現実とフィクションを混同しており、どっちもどっちとしている[ 44] 。
その一方で日本国外では、『とっとこハム太郎 』や『ポケットモンスター 』、『ONE PIECE 』が反政府デモで使われるなど、日本の漫画やアニメ、ゲームか反体制の象徴として扱われることもある[ 45] [ 46] [ 47] [ 48] 。
なお、アメリカでもマーベル や『ロード・オブ・ザ・リング 』などのファンである「Geek 」は体制側になっているという見方がある[ 49] 。
2020年代前半の新型コロナウイルス感染症 の流行による巣ごもり需要 の拡大によりオタクコンテンツの消費者が急増し、アニメ ・漫画 の市場は成長を続け過去最高を記録。特に「配信」と「海外」の伸びが目覚ましく、2020年には海外アニメ市場が国内アニメ市場を上回るようにもなっている[ 50] [ 51] 。
海外への輸出のみならず、ソーシャルゲーム では中国の原神 ・崩壊スターレイル 、アズールレーン 、韓国のブルーアーカイブ 、NIKKE 等、日本の萌え絵 の影響を受けたキャラクターデザインを採用した作品が作られ日本でも人気を得るようになり、オタク文化の逆輸入のような現象も現れ始めている。
淫夢 やおとわっか 等、ゲイ を揶揄 ・嘲笑 するという差別感情が根底にある人権侵害 的なインターネット・ミーム がオタク間で流行するようになり[ 52] 、特に淫夢 の流行は海外にも広がり、中国 において動画サイトのbilibili を中心に「中国のネットユーザーで知らない人はいない」と言われるほどになっている[ 53] 。
その一方、声優の茅野愛衣 が靖国神社 に参拝して炎上し、中国で配信されるゲームから追放される[ 54] 、声優の林原めぐみ が韓国の右派YouTuberの主張を紹介して韓国の左派から批判される[ 55] などの対立も起きている。
「おたく」の意味や定義は世代によって大きく異なる。そのため、おたくを題材とした評論では、1960年代生まれを第一世代として10年ごとに1970年代生まれを第二世代、1980年代生まれを第三世代と、世代で分類することが多い。世代が下がるにつれて「ライトなオタクが増えている」との指摘もある[ 56] 。ここでは個人の違いは捨象し、世代ごとの大まかな傾向を概観する。
おたくという言葉が生まれる以前は、おたくの同義語として、主に「マニア 」やきちがい を略して「○○キチ」(釣りキチ 等)「ファンダム 」等と呼ばれていた。日本SF大会 、全国アニメーション総会 などのイベントも行われていた。戦時中は規制されていた鉄道趣味 も戦後徐々に活動を再開した。 目立った活動を行っていた集団としてSF と特撮ファンが挙げられ、流行した作品に『キング・コング 』(1933年)や『原子怪獣現わる 』(1953年)初代『ゴジラ 』(1954年)『キングコング対ゴジラ 』(1962年)『大魔神 』(1966年)『2001年宇宙の旅 』(1968年)「猿の惑星シリーズ 」(1968年~1973年)や、『鉄人28号 』等がある。 テレビ の発展と共に育った世代で、アニメ に抵抗のない最初の世代といえる。幼少期、少年期に流行したテレビ番組に第1期『ウルトラシリーズ』 (Q ・マン ・セブン )、『仮面の忍者 赤影 』の再放送や各種の『スーパー戦隊シリーズ 』など実写特撮もの のほか、『オバケのQ太郎 』(モノクロ 版)、『魔法使いサリー 』、『巨人の星 』、『8時だョ!全員集合 』、『仮面ライダー 』、『天才バカボン 』、『世界名作劇場 』シリーズ、『ルパン三世 』、『マジンガーZ 』、『宇宙戦艦ヤマト 』などがある。学習塾 が急速に普及した世代であり、下校後に「習い事」に向かう富裕層とは別に再放送 される米国アニメや米国ドラマ、日本アニメ、時代劇 などを熱心に視聴するカギっ子 が定着したのもこの世代である。 怪獣ブーム ・変身ブーム を体験した世代であり、特撮オタクとなった者も多い。いわゆる断層の世代 (概ね中期しらけ世代 の世代)、もしくは新人類 (概ね後期しらけ世代 からバブル世代 までの世代)である。 「大人になったらアニメや漫画は卒業する」という考え方がまだ根強い時代でもあったため、同世代の大半はインドア なオタク文化ではなく、主に電通 などの広告代理店 やフジテレビ やホイチョイ 等が主導していた、ネアカ な恋愛至上主義 的文化や、スキーブーム 等のアウトドア 、セゾン 文化を消費するのが主流であった。そのため、オタク文化がまだ珍しいサブカルチャー としてネクラ 扱いされつつも容認されていた時代に青年期を過ごしている。 大塚英志 は本来「新人類」と「オタク」は「人の目を気にしなくていい」という同一の文化だったのに、朝日ジャーナル のために「新人類」のほうだけが文化人化されたとしている[ 57] 。1989年に発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人が同世代であったため、主に年長者やオタク趣味を持たない同世代から、偏見 や差別 を受ける原因にもなった。 前の世代が作り上げた爛熟し細分化したオタク系文化を10代で享受した世代[ 58] 。 いわゆる団塊ジュニア ・氷河期世代 である。 代表的な出来事として、『週刊少年マガジン 』『週刊少年サンデー 』『週刊少年ジャンプ 』などの少年漫画誌の隆盛、『機動戦士ガンダム 』や『銀河鉄道999 』『うる星やつら 』に代表されるアニメブーム やガンプラ ブーム、「ファミリーコンピュータ 」(1983年)が思春期に直撃した世代でありゲーム依存症 が社会問題となった最初期の世代である。家庭用ゲーム機 の普及、『ゼビウス 』(1983年)などのアーケードゲーム のブーム、「PC-9800 」や「MSX 」等のホビーパソコン (マイコン )ブーム、『スター・ウォーズ 』(1977年)『E.T. 』(1982年)『ターミネーター 』(1984年)『ブレードランナー 』(1982年)などのSF映画 やサイバーパンク 作品の世界的なブームなどが挙げられる。 アニメ雑誌 の相次ぐ創刊、「アニメイト 」などの専門店の創業、コミックマーケット の大規模化、美少女ゲーム やアダルトゲーム の登場など、オタク文化や二次元文化が急速に発展する一方で、オタク第一世代と同様に、青年期に発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 によってオタクバッシングが激化し、偏見・差別に晒された世代であった。このあたりの世代のアニメの作り手は比較的少なく、ゲーム業界に流れたことが原因ではないかと指摘されている[ 59] 。 後期ポスト団塊ジュニア世代 ~プレッシャー世代。就職氷河期の後半の世代にあたる。彼らの少年期は、1990年代 初頭にかけて前述の連続幼女誘拐殺人事件によるオタクバッシングの余波が続き、神戸連続児童殺傷事件 以降の少年犯罪 報道の激化などいくつかの動きと重なってアニメの性的表現、残虐・暴力描写の自主規制 が行われる時代であった[ 60] 。またキレる17歳 論やゲーム脳 論などにも晒された。 1980年代から盛んに行われた小説、漫画、アニメ、ゲームなどの複数のメディアを通じて展開する“メディアミックス ”が主流となり、ヒット作が複数のメディアに派生し、一つのメディアだけにとどまることが少なくなった。 『新世紀エヴァンゲリオン 』(1995年)や「PlayStation 」(1994年)の大ヒットで、アニメやコンピュータゲームが趣味の一つとして市民権を得るようになり、メインカルチャー とサブカルチャー の差が薄れ始めた世代といえる。 「Windows 95 」の日本語版発売もこの時期で、インターネット が個人にも普及し始めた世代でもある。 ゲームでは『ストリートファイター2 』(1991年)などの格闘ゲーム や、『ときめきメモリアル 』(1994年)などの恋愛シミュレーションゲーム が多数ヒットするようになり、ゲームのキャラクターがアニメや漫画のキャラクターと同等の人気を博すようになった時代である。 ブロードバンド が普及し、家庭 でのインターネット利用が一般的な環境の中に育った。「Windows XP 」(2001年)世代でもある。この世代はゆとり世代 論により年少期からバッシングに晒され、また地上波テレビ 等で自主規制 が強まった後に育っている。 一方で、インターネットの普及により「2ちゃんねる 」(1999年)、2000年代前半から中盤のFlash動画 黄金期、深夜アニメ の隆盛、「YouTube 」(2005年)や「ニコニコ動画 」(2006年)などの動画投稿サイト の台頭、実況プレイ などのネット動画ブーム、『初音ミク 』(2007年)等のVOCALOID ブーム、「ハルヒダンス 」などの「踊ってみた」ブーム等、ネット発の様々な流行を体験した。 2005年には、おたくを肯定的に描いた、2ちゃんねる発の恋愛作品『電車男 』が映画化・ドラマ化され共に大ヒットしたことや、同年の流行語大賞 に「萌え 」及び「メイドカフェ 」がノミネートされるなど、一般社会へオタク文化が急速に浸透し、10代でオタク趣味に傾倒する人が増えた。学校 でアニメやゲームが話題に上がることも多く、宮崎事件の後に産まれていることもあって、オタク趣味やオタク文化に対する恥 や後ろめたさがほとんどないことが特徴で、オタクの低年齢化が一気に進んだ。このため、かつてのトレンディドラマ やJ-POP 、洋画 、スポーツ 、車 等といった、一般的な大衆文化 (メインカルチャー )やアウトドア 等と並んでオタク文化もごく普通に消費されるようになり、オタク文化が大衆文化やメインカルチャーに内包されるようになった最初の世代であるといえる。 類語・好む主体
好む対象・客体
用語
トピック カテゴリー
トピック
集団 組織とイベント 創作物と活動 大会 トピック