| あまし あま市 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
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| 国 | |||||
| 地方 | 中部地方、東海地方 | ||||
| 都道府県 | 愛知県 | ||||
| 市町村コード | 23237-8 | ||||
| 法人番号 | 5000020232378 | ||||
| 面積 | 27.49km2 | ||||
| 総人口 | 84,895人[編集] (推計人口、2026年1月1日) | ||||
| 人口密度 | 3,088人/km2 | ||||
| 隣接自治体 | 5市 (名古屋市、清須市、稲沢市、愛西市、津島市) 2町 (海部郡大治町、蟹江町) | ||||
| 市の木 | ハナミズキ | ||||
| 市の花 | ゆり | ||||
| あま市役所 | |||||
| 市長 | 村上浩司 | ||||
| 所在地 | 〒497-8602 愛知県あま市七宝町沖之島深坪1 北緯35度12分02秒東経136度47分00秒 / 北緯35.20044度 東経136.78322度 /35.20044; 136.78322座標:北緯35度12分02秒東経136度47分00秒 / 北緯35.20044度 東経136.78322度 /35.20044; 136.78322 | ||||
| 外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
| ウィキプロジェクト | |||||
あま市(あまし)は、愛知県の北西部に位置する市。尾張地方に含まれる。

2010年(平成22年)3月22日に海部郡七宝町、美和町、甚目寺町の3町合併により愛知県内37番目の市として誕生[1][2]。
七宝地区では、江戸時代末期から地場産業である七宝焼による工芸品の製造が盛んであり、経済産業省指定の伝統的工芸品にも指定されている「尾張七宝」が有名である[3]。
美和地区では、蜂須賀小六正勝や福島正則を始め戦国時代に活躍した武将を多く輩出している[4]。甚目寺地区では、国の重要文化財5件を有する尾張四観音の一つで有名な甚目寺観音や、国内で唯一漬物の神様が祀られていることで知られる萱津神社など古くからの社寺が散在している[5]。
地場産業である刷毛は高度経済成長期の1970年(昭和45年)には、生産量で日本一となった[6]。1973年(昭和48年)には、甚目寺地区の刷毛生産高は全国の7割を占めていた。
愛知県の平成の大合併最後の合併で誕生した。2009年(平成21年)7月24日の第8回合併協議会において、6点の名称候補の中から、協議会委員全員投票を行った結果、3町が属していた郡名である「海部」をひらがなに直した「あま市」を市名とすることに決定した[7]。

市域は東西約7.9km、南北約7.8kmで、面積は27.49平方km。市内のほぼ全域が海抜ゼロメートル地帯で、地形は比較的平坦である。濃尾平野に位置し近郊農業を中心に田園都市として発展してきたが、名鉄名古屋駅まで約15分でという立地条件であることから、近年は名古屋市のベッドタウンとしても発展し、人口約88,000人を擁す。田園風景と住宅地との調和がとれた緑豊かなまちを形成している[4]。名鉄津島線が市の中央を横断し、名古屋第二環状自動車道が南北に縦断している。市内のほぼ全域で宅地開発が盛んになり、人口が増加傾向にある。

気候は太平洋側気候であり、夏は高温多湿で蒸し暑い。冬は乾燥した晴天の日が多く、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹いて体感温度が北日本並みに低下する日もあり、稀に20センチメートルを超える積雪に見舞われることもある。
| 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年平均 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2015年 | 4.9 | 5.3 | 9.3 | 14.9 | 21.0 | 22.2 | 26.6 | 27.9 | 22.8 | 17.9 | 14.0 | 9.2 | 16.3 |
| 2020年 | 7.5 | 6.7 | 10.3 | 12.9 | 20.3 | 24.5 | 25.4 | 30.0 | 25.1 | 17.7 | 13.7 | 7.4 | 16.8 |
| 2024年 | 5.1 | 6.2 | 12.2 | 15.3 | 19.9 | 23.7 | 28.7 | 29.3 | 27.0 | 18.0 | 13.4 | 8.2 | 17.3 |
| 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年合計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2015年 | 98.5 | 27.0 | 126.0 | 113.5 | 108.5 | 216.5 | 216.0 | 341.0 | 257.0 | 49.5 | 135.0 | 99.5 | 1788.0 |
| 2020年 | 49.5 | 49.5 | 111.5 | 100.5 | 133.5 | 243.0 | 476.0 | 19.5 | 230.0 | 233.5 | 27.0 | 24.0 | 1697.5 |
| 2024年 | 23.0 | 36.0 | 67.5 | 171.0 | 183.5 | 357.0 | 114.0 | 241.5 | 136.0 | 119.5 | 59.0 | 47.5 | 1555.5 |
鎌倉時代は、『海道記』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時は、甚目寺地区の萱津辺りから尾張国であったと考えられている[9]。
町制時の大字にそれぞれ「七宝町」を冠称している。
2024年1月1日現在の地目別面積は以下の通り[10]。
| 年 | 行政区域 | 農用地 | 宅地 | 池沼 | 山林 | 原野 | 雑種地 | その他 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 田 | 畑 | ||||||||
| 2015 | 25,571 | 7,364 | 2,485 | 9,084 | 8 | 3 | 11 | 2,117 | 4,498 |
| 2024 | 25,607 | 6,608 | 2,231 | 9,798 | 8 | 3 | 11 | 2,422 | 4,526 |
2024年3月31日の発表で、総人口は88,523人で総世帯数は39,069世帯である。男女別では、男性44,037人、女性44,486人である。外国人人口は2,928人。昼間人口は70,392人で、昼夜間人口比率は81.73%となっている[11]。人口は西尾張では一宮市、稲沢市、江南市に次ぎ4番目、海部地域では最も多い(2015年)。
あま市(に相当する地域)の人口の推移
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| 総務省統計局国勢調査より | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
市内では、弥生時代以降の遺跡が数多く発見されており、これらの遺跡は河川により形成された自然堤防と後背湿地上に存在している。遺跡の分布をみると、弥生時代〜古代〜中世と時代が下がるにつれて、あま市北方から南方へ人々の生活範囲が広がっていることがわかった[12]。
弥生時代後期の遺跡として阿弥陀寺遺跡・森南遺跡が挙げられ、これらの遺跡では発掘調査が行われ住居跡・井戸跡や大量の土器が発見された。特に、阿弥陀寺遺跡においては、環濠をもつ集落であることがわかった。古墳時代には、前方後円墳と推定される二ツ寺神明社古墳が出現するが、被葬者はわかっていない。同古墳西方には、同時期の集落と思われる蜂須賀遺跡が推定される。白鳳〜奈良時代の史跡としては、甚目寺遺跡や法性寺跡・清林寺遺跡・篠田廃寺といった古代寺院が挙げられる。なかでも甚目寺地区にある甚目寺遺跡・法性寺跡・清林寺遺跡の3寺院は、軒瓦の文様などから密接が関係があったとされる。その建立時期は、遺跡の状況から尾張地区でも比較的古い時期(7世紀後半)である大渕遺跡は、甚目寺・法性寺・清林寺の各寺院の創建期に関係があるとされる。この他にも市内各所から埴輪片や須恵器・中世陶器などが発見されている[12]。
甚目寺観音の起源は、記録に見るかぎり文永元年(1264年)の「文永甚目寺縁起」(古縁起)にある。それによると推古天皇5年(597年)伊勢国甚目村(現・松阪市)の漁師の甚目龍麻呂が漁をしていたところ、網にかかった観音菩薩を引き上げた。観音像は金色の金銅仏である聖観世音菩薩で、龍麻呂は引き上げた観音様を祀る草庵を建てたことが甚目寺観音の始まりとされる[13]。この観音像は、善光寺如来の脇侍であるとも記されている。甚目という苗字は『正倉院文書』や『日本三代実録』にもあって、『正倉院文書』には奈良時代の天平6年(734年)に中島郡に「甚目氏」の記述が見られる。さらに『日本三代実録』には平安時代の貞観6年(864年)に海部郡に「甚目氏」の記述がある。このことから「甚目氏」と甚目龍麻呂との直接的な因果関係はわかっていないが、「甚目氏」は甚目寺観音周辺に遅くとも奈良時代以降には居を構えており、都の記録に登場するほど有力な氏族であったことがわかっている[14]。
鎌倉時代、幕府の所在地である鎌倉から全国へ放射状に広がる道である、いわゆる鎌倉街道の従来が激しさを増すと、その宿場町のひとつである萱津宿においても多くの人々や物資が行き交うようになった。こと萱津は、五条川と庄内川の合流地点で、さらに伊勢から津島を経由して萱津につながる西の道との接点でもあり、まさに水陸の合流点と立地的に恵まれた土地であり、尾張の政治経済の中心地のひとつとして栄えた。幕府の高官をはじめ多くの旅人が萱津宿に立ち寄り、紀行文などにその記録を残している。編年で紹介すると以下の通りである[15]。
およそ100年の間に少なくとも4人の鎌倉幕府将軍が萱津に宿泊するなど、時の権力者を迎え入れるほど萱津は宿場として立派に機能していたことがわかる。『吾妻鏡』の建久6年(1195年)の記事によれば、源頼朝が萱津宿に立ち寄り、ここで尾張守護小野成綱の接待を受けたことが記され、同書には引き続き4代将軍の藤原頼経、6代将軍の宗尊が京都〜鎌倉従還の際の宿泊所として利用したことが記されていることからも、萱津宿は尾張を通る鎌倉街道の宿場のなかでも、重要な位置をしめていたことが推察できる[15]。
戦国時代では、蜂須賀正勝、福島正則をはじめ、蜂須賀正勝の実子の蜂須賀家政、そして福島正則の実弟の福島高晴が城持ち大名となっている。この他にも大名にまでは至らないものの、福島正則の参謀として名高い福島丹波や、赤林孫七郎など戦国時代に活躍した武将を多く輩出している[16]。
16世紀、尾張の政治経済の中心地は下津から清洲城へと移り、萱津はこれまで通り宿場としての機能を果たすが、戦国時代に合戦場として登場する(萱津の戦い)。その戦いについて『安土創業録』を見ると、天文20年(1551年)織田信友が斯波義廉を倒し清洲城を奪うや、那古野に在城する信長は、その仇を討つべく出陣、稲葉地より川を越え、萱津の民家を放火せしめた。そこへ清洲城より織田信友勢が打ち出し合戦となった、とある。結果は信長軍の勝利に終わるが、この戦いは詳しくは記されていない。この戦いは僅か数時間のもので『信長公記』には「海津(萱津)口へ御かかり候。八月十六日辰の刻、東に向かってかかりあい、数刻火花を散らし相戦い」と出てくるのみであった[17]。

この地方で七宝が作られるようになったきっかけは、江戸時代末期の天保4年(1833年)、梶常吉によってもたらされたといわれている。梶常吉は、享和3年(1803年)、尾張藩士梶市右衛門の二男として生まれ、文政5年(1822年)、海東郡服部村(現在の名古屋市中川区)に移り住み、鍍金業を営んでいたといわれている。あるとき、七宝焼のことが書かれた本がきっかけで七宝焼に興味を持って独学で研究するが、その仕組みを知ることはできなかったが、常吉は天保3年(1832年)に名古屋市末広町の骨董商松岡屋嘉兵衛の店先でオランダ船が運んできたという七宝焼を入手し、砕いてその仕組みや原料を分析した。研究を重ねて合子や筆立て、文鎮などの小物類を製作した。これが尾張地方における近代七宝のはじまりといわれている。海東郡遠島村(現在のあま市七宝町遠島)の農家に生まれた林庄五郎は、安政3年(1856年)に梶常吉から七宝焼の製法を学び、同じ村の人々に伝えた結果、この地域で七宝焼の製造が盛んになった[18]。
1953年(昭和28年)の「町村合併促進法」と、続く「新市町村建設促進法」によって全国で町村合併が推進された(昭和の大合併)。これに伴い、1954年(昭和29年)に甚目寺町は名古屋市へ合併を働きかけるが、名古屋市の巨大化を懸念する愛知県がこれに反対し、この合併を認めなかった。愛知県はこの地域の合併試案として甚目寺町と大治村で一つに、美和村、七宝村、神守村での合併を推進していた。1956年(昭和31年)、美和村が甚目寺町に合併を申し入れるが、合併方法を巡る双方の食い違いもあって議論は6ヶ月にわたって行われるも合併には至らなかった。一方で七宝村と大治村の合併話も浮上したが、こちらも合併には至らずに現状維持となった[19]。
2008年(平成20年)5月1日には、七宝町・美和町・甚目寺町・大治町の4町で「海部郡東部四町合併研究会」を設置。大治町の離脱が11月5日に発生し、これにより「海部郡東部四町合併研究会」は解散。それに代わって同月に「七宝・美和・甚目寺町合併研究会」を設置。2009年(平成21年)4月に法定合併協議会へ移行。7月の第8回合併協議会において、6点(西名古屋市、名西市、海部市、海東市、あま市、西尾張市)の名称候補の中から、旧3町の住民の投票をおこない、最多得票が「名西市」となったものの、その後の合併協議会委員の選考で、「あま」という名前を残したいという理由で、最も投票数が少なかった「あま市」に決定され、住民が投票を行った意味がなくなってしまうという結末を迎えた。
2010年(平成22年)3月22日、あま市が誕生した[2]。
| 郡 | 明治22年以前 | 明治22年10月1日 | 明治23年 - 明治45年 | 大正1年 - 大正15年 | 昭和1年 - 昭和64年 | 平成1年 - 現在 | 現在 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 海 部 郡 | 沖之島村 | 宝村 | 宝村 | 明治39年7月1日 合併 七宝村 | 七宝村 | 七宝村 | 昭和41年 町制七宝町 | 七宝町 | 平成22年3月22日 合併あま市 | あま市 | ||
| 遠島村 | ||||||||||||
| 安松村 | ||||||||||||
| 秋竹村 | 井和村 | 井和村 | ||||||||||
| 桂村 | ||||||||||||
| 川部村 | ||||||||||||
| 下田村 | ||||||||||||
| 伊福村 | 伊福村 | 伊福村 | ||||||||||
| 鷹居村 | ||||||||||||
| 下ノ森村 | ||||||||||||
| 徳実村 | ||||||||||||
| 鯰橋村 | ||||||||||||
| 二ツ寺村 | 正則村 | 正則村 | 明治39年7月1日 合併 美和村 | 美和村 | 美和村 | 昭和33年 町制美和町 | 美和町 | |||||
| 花長村 | ||||||||||||
| 木折村 | ||||||||||||
| 東溝口村 | ||||||||||||
| 花正村 | ||||||||||||
| 富塚村 | ||||||||||||
| 古道村 | ||||||||||||
| 金賀木村 | 金賀木村 | 明治23年12月17日 改称蜂須賀村 | ||||||||||
| 金岩村 | ||||||||||||
| 木田村 | ||||||||||||
| 中橋村 | ||||||||||||
| 森山村 | ||||||||||||
| 丹波村 | ||||||||||||
| 蜂須賀村 | ||||||||||||
| 篠田村 | 篠田村 | 篠田村 | ||||||||||
| 乙之子村 | ||||||||||||
| 小橋方村 | ||||||||||||
| 北苅村 | ||||||||||||
| 甚目寺村 | 甚目寺村 | 甚目寺村 | 明治39年7月1日 合併 甚目寺村 | 甚目寺村 | 甚目寺村 | 昭和8年8月1日 町制甚目寺町 | 甚目寺町 | 甚目寺町 | ||||
| 本郷村 | ||||||||||||
| 坂牧村 | ||||||||||||
| 下萱津村 | 萱津村 | 萱津村 | ||||||||||
| 中萱津村 | ||||||||||||
| 上萱津村 | ||||||||||||
| 方領村 | 春富村 | 春富村 | ||||||||||
| 石作村 | ||||||||||||
| 小路村 | ||||||||||||
| 新居屋村 | 新居屋村 | 新居屋村 | ||||||||||
| 森村 | 森村 | 森村 | ||||||||||
| 今宿村 | 東今宿村 | 東今宿村 | 東今宿村 | |||||||||
| 西今宿村 | 白鷹村 | 白鷹村 | ||||||||||
| 上條村 | 昭和18年1月1日 西春日井郡清洲町に編入 | 平成17年7月7日 合併清須市 | 清須市 | 清須市 | ||||||||
| 土田村 | ||||||||||||
| 迫間村 | 明治43年10月1日 西春日井郡清洲町に編入 | 清洲町 | 清洲町 | |||||||||
市が掲げるキャッチコピー:「人・歴史・自然が綾なす セーフティ共創都市 “あま”」
2015年度(平成27年度)当初予算[25]
| 一般会計 | 264億800.0万円 | (前年度対比4.2%増) |
| 特別会計 | 198億304.5万円 | (前年度対比11.6%増) |
| 企業会計 | 75億4,337.8万円 | (前年度対比34%減) |
| 全会計 | 537億5,442.3万円 | (前年度対比1.4%減) |
2024年度(令和7年度)当初予算[26]
| 一般会計 | 354億1,000.0万円 | (前年度対比4.9%増) |
| 特別会計 | 179億1,351.5万円 | (前年度対比4.37%増(一般会計、特別会計)) |
| 企業会計 | 63億6,836.1万円 | (前年度対比5.22%増) |
| 全会計 | 596億9,187.6万円 | (前年度対比4.46%増) |
| 候補者名 | 当落 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 |
|---|---|---|---|---|---|
| 小木曽史人 | 当 | 46 | 無所属 | 現 | 無投票 |
| 石塚吾歩路 | 当 | 53 | 自由民主党 | 現 | 無投票 |
| 当落 | 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 重複 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 当 | 岡本充功 | 53 | 立憲民主党 | 元 | 91,152票 | ○ |
| 比当 | 長坂康正 | 67 | 自由民主党 | 前 | 78,726票 | ○ |
| 伊藤恵子 | 71 | 日本共産党 | 新 | 19,899票 |






郵便番号は以下の通りとなっている。
2005年に開催された愛知万博で、愛知県内の市町村(名古屋市を除く)が120の万博公式参加国をそれぞれ「一市町村一国フレンドシップ事業」としてフレンドシップ相手国として迎え入れた[32]。

市の中心となる駅:木田駅
甚目寺-七宝間にあった駅。1944年(昭和19年)に休止、1969年(昭和44年)に廃止された。
あま市内では甚目寺駅が最も乗降人員の多い駅で市内唯一の有人駅であるが、JTB時刻表ではかつてあま市役所の最寄駅であった木田駅があま市の代表駅として記載されている。2023年5月に開庁したあま市役所新庁舎の最寄駅は七宝地区北端にある七宝駅である。甚目寺駅と木田駅は特急などの全営業列車が停車し、七宝駅は普通列車のみ停車する。名古屋市営地下鉄桜通線が太閤通駅から延伸して七宝地区へ乗り入れる計画があるが、着工には至っていない。南北に長い七宝地区ではどの駅へも比較的距離があるため、名鉄バスを利用する人が多く、南部ではJR東海の関西本線蟹江駅へも比較的近い。美和地区の西端では青塚駅へも比較的近い。愛知県立五条高等学校の周辺など、甚目寺地区の北東端では名鉄名古屋本線の新清洲駅や丸ノ内駅へも比較的近い。

停留所はないものの、名古屋市営バスが旧七宝町域を通過している。稲沢市の国府宮神社で国府宮はだか祭が開催される際には、定期路線ではない稲沢市方面への路線があま市内から名鉄名古屋本線国府宮駅まで臨時運行される。
あま市には、国指定7件、愛知県指定11、あま市指定15件の指定文化財があり、国登録文化財2件がある[41][42]。
| 種別 | 名称 | 所有者 | 指定(登録)年月日 | 所在地 |
|---|---|---|---|---|
| 建造物 | 甚目寺南大門 | 甚目寺 | 1900年(明治33年)4月7日 | あま市甚目寺 |
| 建造物 | 甚目寺三重塔・東門 | 甚目寺 | 1953年(昭和28年)11月4日 | あま市甚目寺 |
| 絵画 | 絹本著色不動尊像 | 甚目寺 | 1901年(明治34年)3月27日 | 東京国立博物館 |
| 絵画 | 絹本著色仏涅槃図 | 甚目寺 | 1901年(明治34年)3月27日 | 東京国立博物館 |
| 彫刻 | 木造愛染明王坐像 | 甚目寺 | 2012年(平成24年)9月6日 | あま市甚目寺 |
| 彫刻 | 鉄造地蔵菩薩立像 | 法蔵寺 | 1971年(昭和46年)6月22日 | あま市中橋 |
| 種別 | 名称 | 所有者 | 指定(登録)年月日 | 所在地 |
|---|---|---|---|---|
| 絵画 | 金剛界及び胎蔵界曼荼羅 | 蓮華寺 | 1958年(昭和33年)3月29日 | あま市蜂須賀 |
| 絵画 | 田中訥言画蹟郭公の図 蝦蟇の図 襖絵夕影山の図 | 釈迦院 | 1958年(昭和33年)6月21日 | あま市甚目寺 |
| 彫刻 | 木造仏頭 | 蓮華寺 | 1958年(昭和33年)3月29日 | あま市蜂須賀 |
| 彫刻 | 木造仁王像 | 甚目寺 | 1958年(昭和33年)6月21日 | あま市甚目寺 |
| 工芸 | 瑞花双鸞八稜鏡 | 甚目寺 | 1965年(昭和40年)5月21日 | あま市甚目寺 |
| 工芸 | 梵鐘 | 甚目寺 | 1965年(昭和40年)5月21日 | あま市甚目寺 |
| 書跡 | 法華経 紫紙鎌倉版 | 蓮華寺 | 1958年(昭和33年)3月29日 | あま市蜂須賀 |
| 名勝 | 蓮華寺庭園 | 蓮華寺 | 1965年(昭和40年)5月21日 | あま市蜂須賀 |
| 天然記念物 | 蓮華寺のカヤノキ | 蓮華寺 | 1958年(昭和33年)6月21日 | あま市蜂須賀 |
| 天然記念物 | 七宝町のラカンマキ | 八幡神社 | 1955年(昭和30年)6月3日 | あま市七宝町遠島 |
| 天然記念物 | 下萱津のフジ | あま市 | 1954年(昭和29年)3月12日 | あま市下萱津 |
| 種別 | 名称 | 所有者 | 指定(登録)年月日 | 所在地 |
|---|---|---|---|---|
| 彫刻 | 金銅阿弥陀如来立像 | 普明院 | 1991年(平成3年)12月11日 | あま市花長 |
| 工芸 | 梵鐘 | 法光寺 | 1996年(平成8年)2月1日 | あま市七宝町桂 |
| 工芸 | 雲版 | 廣濟寺 | 2000年(平成12年)11月1日 | あま市七宝町桂 |
| 工芸 | 間取り花鳥文大花瓶 | あま市 | 2015年(平成27年)1月27日 | あま市七宝町遠島 |
| 工芸 | 二十五菩薩面 | 蓮華寺 | 2016年(平成28年)2月25日 | あま市蜂須賀 |
| 書跡 | 徳川家康筆 徳政免除證文「徳政之事」 | あま市 | 1985(昭和60年)11月8日 | あま市花正 |
| 書跡 | 誹諧相伝名目 | あま市 | 1989年(平成元年)11月10日[43] | あま市花正 |
| 史跡 | 甚目寺境内地 | 甚目寺 | 1984年(昭和59年) | あま市甚目寺 |
| 史跡 | 七宝焼原産地道標 | あま市 | 2000年(平成12年)11月1日 | あま市七宝町桂 |
| 歴史資料 | 尾州海東郡富塚村 御縄打水帳 | あま市 | 1987年(昭和62年)2月2日 | あま市花正 |
| 無形民俗 | 香の物祭 | 萱津神社 | 1985年(昭和60年)4月22日 | あま市上萱津 |
| 無形民俗 | 下之森オコワ祭 | 八幡神社 | 2012年(平成24年)10月22日 | あま市七宝町下之森 |
| 無形民俗 | 木田八剱社湯の花神事 | 八剱社 | 2012年(平成24年)10月22日 | あま市木田 |
| 無形民俗 | 二十五菩薩お練り供養 | 蓮華寺 | 2016年(平成28年)2月25日 | あま市蜂須賀 |
| 有形民俗 | 甚目寺説教源氏節人形および 正本附その関連資料 | あま市 | 2019年(平成31年)1月24日 | あま市甚目寺 |
| 種別 | 名称 | 所有者 | 指定(登録)年月日 | 所在地 |
|---|---|---|---|---|
| 建造物 | 實成寺本堂 | 實成寺 | 2005年(平成17年)2月9日 | あま市中萱津 |
| 建造物 | 實成寺山門 | 實成寺 | 2005年(平成17年)2月9日 | あま市中萱津 |
あま市内には約140近くの寺院・神社がある[46]。
| 愛西市 | 稲沢市 | 清須市 | ||
| 津島市 | 名古屋市中村区 | |||
| 蟹江町 | 大治町 |