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|---|---|---|---|---|
| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 鎌苅→貴闘力 | |||
| 本名 | 鎌苅 忠茂→納谷 忠茂→鎌苅 忠茂 | |||
| 愛称 | 曙キラー | |||
| 生年月日 | (1967-09-28)1967年9月28日(58歳) | |||
| 出身 | ||||
| 身長 | 180cm | |||
| 体重 | 152kg | |||
| BMI | 46.91 | |||
| 所属部屋 | 藤島部屋→二子山部屋 | |||
| 得意技 | 突き、押し、張り手、いなし、引き、叩き | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 東関脇 | |||
| 生涯戦歴 | 754勝703敗(118場所) | |||
| 幕内戦歴 | 505勝500敗(67場所) | |||
| 優勝 | 幕内最高優勝1回 幕下優勝1回 | |||
| 賞 | 殊勲賞3回 敢闘賞10回 技能賞1回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1983年3月場所[1] | |||
| 入幕 | 1990年9月場所[1] | |||
| 引退 | 2002年9月場所[1] | |||
| 引退後 | 年寄・大嶽 | |||
| 趣味 | パチンコ、競馬、音楽鑑賞、賭博 | |||
| 備考 | ||||
| 金星9個(曙太郎7個、旭富士正也・大乃国康各1個) 史上初の幕尻による幕内最高優勝 | ||||
| 2019年3月27日現在 | ||||
| 貴闘力 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | 貴闘力 |
| 本名 | 鎌苅 忠茂 |
| 身長 | 181cm |
| 体重 | 148kg(大相撲現役時代の公表値) |
| 誕生日 | (1967-09-28)1967年9月28日(58歳) |
| 出身地 | 兵庫県神戸市兵庫区 |
| 所属 | フリーランス |
| スポーツ歴 | 大相撲関脇 |
| トレーナー | 佐山聡 |
| デビュー | 2014年4月16日 |
| テンプレートを表示 | |
| 貴闘力部屋 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| YouTube | ||||||||
| チャンネル | ||||||||
| 活動期間 | 2020年9月25日 - | |||||||
| ジャンル | ブログ | |||||||
| 登録者数 | 30.2万人 | |||||||
| 総再生回数 | 152,199,728回 | |||||||
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| チャンネル登録者数・総再生回数は 000000002023-10-18-00002023年10月18日時点。 | ||||||||
| テンプレートを表示 | ||||||||
貴闘力 忠茂(たかとうりき ただしげ、1967年9月28日 - )は、兵庫県神戸市兵庫区出身(入門時は福岡県福岡市博多区[2])で二子山部屋(入門時は藤島部屋)に所属した元大相撲力士、プロレスラー。本名は鎌苅 忠茂(かまかり ただしげ)。最高位は東関脇。
1993年に第48代横綱・大鵬幸喜の三女と結婚し、妻の姓を選択したため納谷 忠茂(なや ただしげ)となったが、2010年に離婚したため鎌苅姓に戻った。長男はプロレスラーの納谷幸男、次男・三男・四男は大嶽部屋に所属する大相撲力士の納谷幸林[3]、王鵬幸之介、夢道鵬幸成[4]。甥は元大相撲力士の若闘力駿磁。
現在は焼肉店「焼肉ドラゴ」を[5] 経営している実業家、またYouTuberである。タレント活動のマネジメントは株式会社伝元。
1967年(昭和42年)9月28日に福岡県福岡市博多区で生まれる。
父は戦後の物資難の中で小学校1年生の頃から沖仲士の仕事に従事していた。読み書きができないので借用書が書けず、借金は必然とヤクザ相手に行うこととなった。父はかつて力士志望であり港湾作業でも70kgのセメントを1人で3つ担ぐ力自慢であったが、当時現場において彼ですら敵わない怪力の持ち主として「米川さん」(後の3代朝潮太郎)が話題になっていた。結局大相撲入門の機会はなく、自分が果たせなかった角界入りの夢を息子の忠茂に託した。忠茂は後に、相撲の世界で発揮したパワーは父から遺伝したものだと、その点で感謝を述べている[6]。
幼少期は野球好きで、神戸ドラゴンズに入団。金村義明に憧れ、報徳学園高等学校の入学を志すも父親の借金で野球を諦める。相撲好きで力士に憧れ、小学生の時には既に力士を志していた。小学校卒業後に面識のある大関・貴ノ花に入門を願ったが、体験入門はしたものの「3年後(中学卒業後)にまたおいで」と一度は帰された。日本相撲協会の規定で義務教育を終了しないと入門できないためであった。
2020年10月に貴闘力のYouTubeチャンネルに公開された動画以前の報道では、父親のギャンブル依存症から借金取りが連日自宅に押し掛け、逃れるために小学校を6~7回も転校しており[7][8]、賭博は大嫌いだったと報じられていた。しかし、動画中で忠茂が語るところによると、中学時代に福岡で父が麻雀屋経営を成功させ、忠茂も父の店での麻雀牌磨きで父から小遣いを得ていたが、その金を元手に客から賭けマージャンで金を巻き上げ、月に30万円の金を得たという。稼いだ金で競艇に賭けていたが、ある日補導されたことを切っ掛けに更生のために柔道の名門である福岡市立花畑中学校を紹介された。2年生から柔道を始めたという[6]。
この柔道部には、一年先輩に元プロレスラーの佐々木健介が在籍していた。3年生では全国大会に出場し、団体戦の準決勝で古賀稔彦を擁する世田谷区立弦巻中学校に敗れている。中学校卒業後、柔道で天理高校からの勧誘もあった[6]が、賭博好きの父親から逃れるため[7]、柔道の道には進まずにかつて体験入門した藤島部屋に正式に入門した。体験入門は半年間に及んだと忠茂は話している。入門先候補としては他に二所ノ関部屋も挙がったが、「いじめられない」と聞いて貴ノ花の下で相撲を取ろうと決めた[6]。
1983年(昭和58年)3月場所で本名の「鎌苅」を四股名として初土俵を踏み、1989年(平成元年)3月場所後に新十両昇進を決めた。この際に四股名を「貴闘力」と改名した。なお、当初は藤島から「貴闘心(たかとうしん)」と聞かされており、色紙にもそのようにサインしており、新十両力士の発表の際に「貴闘力」と改名することを知ったという。
この頃から嫌いだった賭博に対して、貴闘力は「少しくらいなら良いか」という安易な気持ちで手を染め、次第に午前中の稽古が終わると午後は競馬や競艇、夜は部屋で麻雀をする生活を続け、「当たる」ことしか想像が出来なくなって年収の9割を賭博に費やした。1989年(平成元年)の十両昇進のときは、化粧まわしや着物などをつくるために地元から集めた400万円を預けていた人に持ち逃げされ、ギャンブルに使われてしまった。師匠に借金を申し込んだが貸してもらえず、手元に残ったお金で馬券を買い、当たりを出して再び工面をしたという[8][9]。門限などの面で部屋が厳しくてタニマチをゆっくり精査して作っているような時間など無かったため、十両昇進を機に急造した後援会の不始末に巻き込まれた形となったが、化粧廻し無し、幕下以下用の木綿の廻しで土俵に上がることも考えた中で、賭博で必要経費を工面した形となっている[10][11]。
下位時代はいじめを受けたといい、「いじめ免除券」と呼ばれる1場所3万円の手製のチケットを兄弟子から買わないといじめの標的になった他、土俵の固いところにバックドロップで打ち付けられるなどの悪質な暴力の被害もあった。就寝時間中にいじめを行う力士の寝ている前でちゃんこ番用の出刃包丁を持って立つ新弟子もいたが、自身もその兄弟子を憎んでいたため止めることはしなかった。そんな自分を見て「(この包丁で)殺してくれたら楽だな」と思い詰めていた。新弟子時代はちゃんこを部屋の衆が、技術的にまともに作れなかったといい、安芸乃島と自分がちゃんこ番の時は鶏ちりと豚ちりしかやらなかった。しかしある時貴闘力が「豆乳鍋を作る」と言い出し、「豆乳鍋なんか誰が食うんだよ!?」と奇異の目で部屋の衆が見る中で食べてみると絶品であった。なお、師匠の藤島は牛乳が嫌いだったため、豆乳鍋を見るなり「こんなクソマズいの作りやがって!」と頭から毛嫌いしていた。貴闘力は西日本出身であったため出汁中心の味付けを行っていたが、東日本出身の藤島には「こんな薄いモン食えるか!」と不評であり、醤油とかつおだしで適当に関東風の味付けをしたら「これだよ!」と絶賛されたため後年本人は「絶対味分かってねぇよ」と呆れていた[12]。
1990年(平成2年)9月場所で新入幕を果たし、11勝4敗の好成績で敢闘賞を受賞する活躍を見せた。1991年(平成3年)5月場所では小結に昇進すると、それ以降は三役から幕内上位に定着、この場所では3日目に前々場所で敗れた横綱の千代の富士と再度対戦すると、貴闘力も千代の富士の腕を掴んで土俵外へ放り投げる「とったり」で快勝した。勝利直後のインタビューで貴闘力は「憧れの大横綱に勝てて嬉しいです」と語った。なお、同日夜に千代の富士が現役引退を表明した。千代の富士はこの場所初日、貴闘力の藤島部屋の後輩でもある新鋭・貴花田と対戦して敗れており、貴花田と共に引導を渡す格好となった。千代の富士の引退報道を知った貴闘力は「本当ですか!信じられません」と驚き、「まだ、自分は大先輩に対して偉そうなことを言える立場では無いので……」と語り、その表情は寂しげだったという。それでも千代の富士からは「オレのことは気にせず頑張れ!」と直接励まされたことで調子を上げ、9勝6敗で二度目の敢闘賞を受賞した。この年は7月場所から11月場所まで関脇を維持し、大勝ちこそは無いものの8勝7敗と勝ち越しを続けた。
1993年(平成5年)2月、停年を迎える10代二子山と師匠12代藤島の間で名跡交換が行われ、両部屋は合併した。12代藤島が11代二子山となったため、二子山部屋所属となる。同年5月場所、初日から8連勝し11勝して唯一の技能賞獲得。同年9月場所後に大鵬部屋師匠(第48代横綱・大鵬、引退後は一代年寄)の三女と結婚、娘婿となった[13][14]。年寄名跡も手配して部屋も譲るので養子になってくれと大鵬から頼まれ、後援会からも婿入りを勧められていたが、父親だけは家の稼ぎ手がいなくなると婿入りに反対した。父親には6千万円の借金が残っていたが、それを結婚式の祝儀で清算することを条件に父は貴闘力の大鵬一家への婿入りを飲んだ。貴闘力自身にも借金は残っていたが、後にこの時を本人は「オレも借金だらけになって人生どうでもいいや!と思うと土俵上がっても『死んでもいいや!』。いつもそんな考えでいたのが却って良かったのかもしれない。ケガしてもどうでもいいと思ったらケガしない!」と振り返っている[15]。
1994年(平成6年)3月場所は前場所まで3場所連続で負け越し、前頭12枚目まで番付を落としたものの、12勝3敗と好成績を挙げ、横綱・曙と同部屋で新大関・貴ノ浪との優勝決定戦に出場した。貴闘力は初戦でいきなり貴ノ浪との同部屋対決となるが敗れ、2戦目は貴ノ浪が曙に敗れた。貴闘力も3戦目で曙と対決し、土俵際を回り込むなど必死に善戦したが敗れ、幕内最高優勝は曙にさらわれた。
以後も、5月場所は曙に勝ち5回目の敢闘賞。7月場所は4日目から8連勝し3場所連続6回目の敢闘賞8回目の三賞。1996年1月場所は曙に勝ち12勝し7回目の敢闘賞。7月場所は西小結の地位で1勝5敗から9連勝し8回目の敢闘賞。9月場所は西関脇で4勝4敗から7連勝し、11勝で9回目の敢闘賞。翌11月場所に大関昇進の期待が集まったが、11月場所では尿路結石などの体調不良に悩まされて6勝9敗と負け越して大関昇進は叶わなかった。それ以降も1997年7月場所は曙に勝ち11勝し殊勲賞12回目の三賞。1998年5月場所は2度目の初日から8連勝したが、それ以降は1勝6敗と失速し9勝にとどまる。7月場所は曙に勝ち9個目の金星を獲得するなど活躍した。
しかし1999年5月場所以降、貴闘力は上位では負け越すようになっていき、前頭2枚目として臨んだ1999年(平成11年)11月場所で2勝13敗と大敗、2000年(平成12年)1月場所でも前頭10枚目で6勝9敗と負け越し、同年3月場所にはついに幕尻となる前頭14枚目まで陥落。既に32歳となり、衰えの見えてきた貴闘力に対して周囲は十両陥落も十分有り得ると予想していた。
2000年(平成12年)3月場所で貴闘力は周囲の予想を大きく裏切り、初日からただ一人12連勝を記録し優勝争いで首位を独走した。この結果を踏まえ、貴闘力には13日目に横綱・武蔵丸戦、14日目に横綱・曙戦が急遽組まれた。通常、前頭下位の力士は小結以上の三役力士および横綱とは対戦することがなく、同場所予定されていた曙 - 武蔵丸の両横綱同士の割を崩す異例の事態となった。貴闘力は両横綱に敗れて2敗を喫するが、千秋楽の時点でも優勝争いの単独トップを維持していた。千秋楽で関脇・雅山と対戦し、立ち合いの突きで一気に土俵際に追いつめられたものの、そこから逆転の送り倒しで下して13勝2敗となり、史上初の幕尻による幕内最高優勝を達成した[1][16][17]。貴闘力は32歳5ヶ月での幕内最高優勝で、初土俵から所要102場所での幕内最高優勝は当時、史上1位のスロー記録であり、旭天鵬が2012年5月場所に所要121場所で幕内最高優勝を果たすまで最長だった。なお、この場所では3日目に十両・水戸泉と対戦しており、十両力士と対戦した力士による幕内最高優勝は1961年(昭和36年)5月場所の佐田の山以来39年ぶりである。
初優勝が決まった瞬間、貴闘力は土俵下で人目を憚らず号泣した。義父の一代年寄・大鵬が残した偉大な功績と自身の功績を息子から比較されて困惑したが、インタビューにおいて「ようやく子供に、『どうだ!父ちゃんだって強いんだぞ』と言える記録が作れました。」と喜び、大鵬も「私の32回の優勝より、今場所の貴闘力の優勝が一番嬉しい」と嬉し涙で語った。
幕尻での幕内最高優勝を果たした貴闘力はこの活躍によって、2000年(平成12年)5月場所で幕尻から一気に小結復帰を果たした。しかし、2勝13敗と前場所とは全く逆の結果となり、それ以降は負け越して番付を落としていき、初優勝からちょうど1年後、再び前頭14枚目に陥落して迎えた2001年(平成13年)5月場所で5勝10敗と大敗、十両へ陥落する。
2001年(平成13年)7月場所は十両2枚目で迎え、1場所での幕内返り咲きを期待された。その期待に応えるように9勝6敗の成績を挙げた。この場所の十両力士には二桁勝利を挙げた力士がおらず、9勝6敗で8人が争う優勝決定戦が行われた。貴闘力は決定戦で敗れたものの、幕内最高優勝を果たした力士が十両優勝決定戦に参加する珍しい記録を作った。その後も幕内下位と十両を往復する日々が続いた。
十両11枚目で迎えた2002年(平成14年)9月場所12日目の対寺尾戦で敗れて3勝9敗となり、幕下陥落が確定的になったのを機に現役引退を表明、年寄・16代大嶽を襲名した。2003年(平成15年)2月2日の引退相撲までは二子山部屋に所属していたが、断髪翌日の2月3日付で大鵬部屋に移籍した[18]。
2004年(平成16年)1月に大鵬部屋を継承して部屋師匠となり、部屋の名称は大嶽部屋に変更となった。しかし現役時代に手を染めた賭博をやめられず、賭博の借金を大鵬に何度も肩代わりしてもらっていたと本人は述懐している[7][19][20]。
柄の悪い出自("貴闘力の父親はヤクザ"という形で世間には現役当時から伝わっていた)から新弟子候補を逃したこともあり、実際小学校の後輩で地元・神戸市のスターとして彼を認知していた飛翔富士も、周囲の大人から大嶽の出自について伝えられて止む無く別の部屋に入門することにしたと、後に協会解雇後の大嶽との対談で語っている[21]。
2006年(平成18年)7月場所7日目(15日)、露鵬が名古屋場所取材中の毎日新聞社・中日新聞社のカメラマンに対して暴行し、毎日新聞のカメラマンにけがを負わせた件で、16代大嶽は監督責任を問われ減俸3か月(10分の1)の処分を受けた[22]。2008年(平成20年)9月2日、露鵬は弟の白露山とともに抜き打ちの尿検査で大麻の陽性反応が確認された[23][24]。同月3日の取材で16代大嶽は「まだ一概には(陽性が決まったとは)言えない。弟子を信じる」と弟子を擁護し[25]、露鵬を発掘した大鵬は同月4日に白露山の師匠の北の湖理事長と国技館内で2時間の会談を行っている。会談後、大鵬は「露鵬は以前は私の弟子、子供だったのだから、『大麻はやっていない』という言葉を信用するのは当然だ」とコメントした[26]。同月6日、16代大嶽は露鵬・弁護士と共に部屋で会見後、年寄総会で「協会の検査はおかしい」「裁判で争います」と徹底抗戦の姿勢を見せた。翌7日には北の湖理事長を北の湖部屋に訪問して弟子の潔白を訴えている[27]。しかし精密検査でも陽性の結果が出ており[28][29]、所属する二所ノ関一門の臨時会合で親方衆は「とりあえず頭を一度冷やして、落ち着いて考えろ」「このままでは部屋の存続さえも危うくなる」などと16代大嶽を諫めた[30]。同月8日、露鵬と白露山兄弟は相撲協会を解雇され、16代大嶽は監督責任を問われて委員から年寄に2階級降格となっている[31]。
兄弟は解雇処分を不服として力士としての地位確認を求める訴訟を起こしており、16代大嶽は2009年(平成21年)8月・9月の公判に出廷して兄弟を庇う内容の証言を行った[32][33]。「尿を出せば100%終わりと思い、部屋に帰そうとした。部屋に帰ったら、どうにかうまいことになるという考えもあった」ため、「オレたちクビですか」ときいたところ「クビにしないから尿を出してくれ」と言われたので検査に応じたところ、友綱理事が警視庁に通報して兄弟は連行された状況を「はめられたと思った」と振り返る内容のもので、16代大嶽が隠蔽を図っていたとも受け取れる[34]。なお、兄弟の主張は認められず、訴えは棄却された[35]。
2010年(平成22年)1月8日、二所ノ関一門が臨時会合を開いた。現職の17代放駒と10代二所ノ関、新たに立候補した13代鳴戸と貴乃花の4人のうちから同年2月の理事選の立候補者を3名に調整しようとしたが失敗し、貴乃花が二所一門を離脱しての出馬を表明[36][37]。同月19日に再び行われた二所一門の一門会には27名の親方が出席、冒頭の多数決で「(貴乃花を支持する6親方は)退席すべきだ」とされ、16代大嶽は12代二子山・15代常盤山・19代音羽山・12代阿武松・18代間垣とともに一門を事実上の破門となった[38][39]。この時に「(義父の)納谷幸喜氏(第48代横綱)も支持している」と話しており[40]、当選ラインの10票まで集票の協力をし[41]、貴乃花派以外の他の一門の親方に賛同を呼びかけた[42]。そして同年2月1日には二所ノ関一門から1票、立浪一門から2票の造反票も得て、貴乃花が理事に初当選した[43]。
翌2日の深夜、一門の重鎮である2代大島が落選する結果となった立浪一門から造反票を投じた5代安治川(元幕内・光法)に、会見場所として大嶽部屋を提供した。5代安治川より先に記者たちの前にあらわれ、相撲人生をかけて貴乃花に投票した5代安治川が相撲協会を退職する決意を固めていることについて「こういう形になったが、安治川親方が腹をくくってくれた。ありがたいとしかいいようがない。その気持ちしかない」と感謝の言葉を述べた[44]。
後に貴闘力が2024年9月場所後に語ったところによると、貴闘力と貴乃花の縁は2010年の理事選に始まったことではなく、貴乃花の新弟子時代に世話係を頼まれた時から続く縁だという[45]。
2010年(平成22年)6月、一部の週刊誌で力士など関係者による野球賭博が発覚し、16代大嶽は警視庁による任意の事情聴取で賭博への関与を認めた[46]。
同年6月27日に、一連の賭博問題を受けて設置された特別調査委員会から、除名もしくは解雇処分の勧告案が出された[47]。翌日になって16代大嶽は日本相撲協会へ退職届を提出するも受理されず[48]、6月29日の臨時理事会と評議員会で特別調査委員会からの勧告案が受け入れられた。これを踏まえて日本相撲協会では7月4日に臨時理事会を開催し、16代大嶽と大関の琴光喜が解雇処分となった。相撲協会は当初、野球賭博に関与したことを申告すれば厳重注意処分で済ませるとしていたものの、16代大嶽や琴光喜は発覚時点で関与を否定していたことや、二人の賭け金が他の力士に比べて多かったことなどが解雇理由となったとされている[49]。部屋持ち親方の解雇処分は、2007年(平成19年)の15代時津風(時津風部屋力士暴行死事件)以来2人目、現役親方では16代山響以来3人目である。
角界への入門動機が賭博好きの父親から逃れるためで、当初は賭博嫌いだった貴闘力は、皮肉にも自身の賭博が原因で角界を去ることとなった。
解雇により、大嶽の名跡は12代二子山(15代大嶽)が継承した[注釈 1]。大鵬に離縁を申し渡され、7月5日に大鵬の三女と離婚、養子縁組も解消したために本名が「鎌刈 忠茂」に戻った[50][51]。
2010年(平成22年)10月1日、貴闘力は江東区扇橋に焼肉店「焼肉本店ドラゴ」を開店した。ドラゴとは、イタリア語で龍を意味する。この命名者は弟弟子だった第65代横綱の貴乃花で、看板を揮毫して開店初日に店を訪れた。また、開店時に元幕内・駿傑を雇用するなど、引退力士の再就職支援も行っている。貴闘力は、現役時代より神戸牛を扱う地元・兵庫県の企業と懇意で、牛肉の仕入れ先を確保していたことから焼肉店経営者として成功した。それ以外にも「相撲=がっつり、がっつり=肉、肉=牛肉、牛肉=神戸、神戸=貴闘力、貴闘力=相撲」の連鎖が生み出す物語性、SNS映え、高原価率なども成功要因とされている[52]。
その一方、相撲協会を解雇されて以降も貴闘力は賭博をやめられず、ギャンブル依存症と診断された(後述)。以降、患者として様々なフォーラムやシンポジウムに参加し、カジノ法案に反対する立場からメディアの取材にも応じている[53]。
2013年(平成25年)1月19日、貴闘力は納谷家の家族とともに大鵬の臨終に立ち会った[54]。大鵬は離縁後も貴闘力と三女を心配し「いつでも帰っておいで」と言っていたという[55]。しかし、葬儀への参列は認められなかった。
2014年(平成26年)4月16日、リアルジャパン代々木競技場第二体育館大会でリングネームの「貴闘力」として参戦し、大仁田厚・矢口壹琅とプロレスデビュー戦を行い、勝利した[56]。第三戦となる2015年(平成27年)1月12日のレジェンドプロレス後楽園ホール大会以来、プロレスの試合からは遠ざかっている[57]。同年4月に初代タイガーマスク基金チャリティーパーティーの会見で「曙とやります。間違いなく」と発言していたが[58]、対戦が実現することは無かった。
貴闘力は「本業(焼肉店経営)が忙しい。借金があるのではなくプロレスは『好き』でやっていた」という考えや、2017年には長男の納谷幸男がプロレスデビューしてからはリングから遠ざかっている。2020年1月、元番記者とイベントで会った折に「プロレスは引退というより、商売が忙しいし、条件が合えばまたやることもあるかもしれない」と話した[59]。同年12月23日に東京ソラマチ8階ドームガーデンで行われた「大仁田厚 VSクロちゃん!クリスマス最終決戦!スカイツリー路上電流爆破プロレス!」(無観客試合)の第3試合では、経営する焼肉店内で選手たちの大暴れに乱入、店の外で長男の納谷幸男と合体攻撃を見せている[60]。
2024年8月にはメディアの取材で、2025年春をオープンの目途に栃木県鹿沼市に「相撲ミュージアム」を建設する予定を示した[61]。同年11月時点では、自身の相撲道場を建設中である鹿沼市で、健康管理を兼ねて蕎麦打ちの修業をしている[62]。
大嶽部屋の関係者全員と絶縁状態のようで、自身は元玉飛鳥が大嶽部屋を継承してもそれは変わらないとの見解を示している。また、元玉飛鳥個人とは面識はあったが、部屋継承以降は立場上関わることはないだろうとしている[63]。
2010年の相撲協会からの解雇を「様々な力にはめられたという思いがある。でも相撲が好きだから、更に混乱を招くような抗議はしなかった」と貴闘力は話していた[64]。
しかし2017年10月、当時現役だった第70代横綱の日馬富士公平による貴ノ岩への傷害事件が発覚し、一代年寄・貴乃花と第69代横綱の白鵬の対立が報じられて以来、貴闘力はテレビ出演や雑誌インタビューなどで貴乃花を擁護する発言、相撲協会在籍時に持っていた不満などを発信するようになった。
2018年1月21日にフジテレビ系の『ワイドナショー』に出演し、中央大相撲部所属の次男と埼玉栄高相撲部所属の四男の角界入りを明言した[65]。同年2月にアサ芸プラスのインタビューに応じ「本当のことは分からないが、私が知っている貴乃花親方は細かいことでグズグズ言い続ける男ではない。貴乃花親方が『白鵬の野郎』とか『アイツは嫌いだ』なんて発言したわけじゃないでしょう。二人の対立構図なんてマスコミが作り上げた虚像」と報道を完全否定した[66]。
同年9月26日、貴乃花が相撲協会を退職することを表明すると、貴闘力は同日放送のTBS系の『あさチャン』に出演し、「昔から言ってるんだけど、国会議員でもやれよと。文部科学省に入れてもらって、外から改革するのも可能じゃないかと言ったら笑ってたけど」と貴乃花に政治家転身を勧めていたことを明かした。また日本テレビの『スッキリ』では、自身が野球賭博問題で解雇される際(2010年)に「お前、協会に不利益になることいったら、子どもが相撲取りになるんだから、ちゃんと静かにしとけよ」と圧力をかけられたと発言、「そんなことがあるって事なんだから、協会が貴乃花に言うっていうのは、日常茶飯事だってことです」と貴乃花への圧力があったと推測する発言を行った[67]。貴乃花に9月場所初日ぐらいに「弟子を増やしたいから協力してくれ」と相談されており、貴闘力の次男と四男も「その2人もオレに預けろと、確実に強くするから」とスカウトを受けていたとも話している[68]。同年10月には、貴乃花のイベント出演に同行している[69]。
自身が経営する焼肉店を当初現役力士も利用するなど協会との関係は解雇から日の浅い頃はそれほど険悪ではなかったが、自身がYouTubeで角界の内情を暴露し続けた結果、協会も「貴闘力の店には出入りするな」と力士など協会員に通達するに至った[70]。
2020年9月25日に、YouTubeチャンネル「貴闘力部屋~相撲再生計画~」を開設。相撲界で昔あった不祥事や、力士の生活事情(恋愛や経済問題)などを配信。相撲界の裏側を小出しにして全てをクリアにしたうえで、そのうえで相撲界をどうしていくかを話し、相撲協会に無視されない勢力を持つことを目指すとしている。しかし、実際のチャンネル内での動画では、相撲協会執行部に対して問題を提起しながらも所々に問題発言も見られる。元若翔洋も貴闘力のことは嫌っていないとしつつも「元力士などが相変わらずデマばっかり言ってるね。本当にしょうもないね」と元力士YouTuber自体を批判している[71]。
2019年6月30日放送のカンテレ『マルコポロリ』に出演時、2018年1月場所で初土俵を踏んだ三男のこともあり、元妻が貴闘力を制止するためメールを送ってきていたことを明かした。「余計なことをしゃべるなと。子供が迷惑するんだよって。子供が大事か、一般の人、どちらが大事なのかと。そんなこと言われても、相撲を愛している人はみんな聞きたい。それを伝言するのはおれの役目だと。それを言うている間に電話が切れた」と貴闘力は話している[91]。
自ら野球賭博で相撲協会を解雇されたことは自覚しており、2020年にYouTubeチャンネルを開始するおりに角界入りした3人の息子たちとは縁を切ったという[92][93]。同年11月29日にフジテレビ系『ワイドナショー』に出演、MCに「(息子に)アドバイスはしないのか」と聞かれ、「部屋に来るなと言われている」「今の親方の顔もある」と複雑な心中を語った[94]。
2021年6月18日にアップロードした動画中で長男と対談しており、角界入りした3人の息子が口をきいてくれない状況であることを明かした[95]。貴闘力の長男は同月発売の週刊文春のインタビューに応じ、父親はプロレスのことには口の出しようがないが、相撲だと「あそこああしてれば勝ってたのに」など文句も出てしまうところがあること、またYouTubeチャンネルの内容から「弟たちも仲良くしづらいと思います」と話している[96]。
息子達が角界入りした後も大相撲報道においてはタブー扱いされている節があり、角界入りした息子達は「貴闘力の息子」ではなく「大鵬の孫」と書かれることが殆ど。
現役時代からギャンブルにのめりこみ、引退後も収入を種銭としそのために借金をする生活を続けていた。相撲協会を解雇された後に依存症と診断され、公益社団法人ギャンブル依存症問題を考える会 やNPO法人依存学推進協議会などのフォーラム・シンポジウム[97] にギャンブル依存症患者として参加しているほか、各地で依存症カウンセラーとして講演活動も行っている[98]。
| 一月場所 初場所(東京) | 三月場所 春場所(大阪) | 五月場所 夏場所(東京) | 七月場所 名古屋場所(愛知) | 九月場所 秋場所(東京) | 十一月場所 九州場所(福岡) | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1983年 (昭和58年) | x | (前相撲) | 東序ノ口33枚目 6–1 | 西序二段103枚目 4–3 | 東序二段78枚目 3–4 | 東序二段90枚目 3–4 |
| 1984年 (昭和59年) | 東序二段92枚目 6–1 | 東序二段18枚目 2–5 | 東序二段44枚目 1–6 | 東序二段74枚目 4–3 | 西序二段64枚目 6–1 | 西三段目99枚目 6–1 |
| 1985年 (昭和60年) | 西三段目50枚目 2–5 | 西三段目82枚目 6–1 | 西三段目38枚目 5–2 | 東三段目11枚目 2–5 | 東三段目39枚目 5–2 | 西三段目8枚目 5–2 |
| 1986年 (昭和61年) | 東幕下43枚目 3–4 | 西幕下57枚目 3–4 | 東三段目10枚目 5–2 | 西幕下44枚目 2–5 | 東三段目14枚目 3–4 | 西三段目22枚目 2–5 |
| 1987年 (昭和62年) | 西三段目52枚目 6–1 | 西三段目5枚目 5–2 | 東幕下45枚目 3–4 | 西幕下56枚目 5–2 | 東幕下35枚目 3–4 | 西幕下43枚目 5–2 |
| 1988年 (昭和63年) | 西幕下25枚目 3–4 | 西幕下33枚目 4–3 | 西幕下27枚目 3–4 | 西幕下37枚目 6–1 | 東幕下17枚目 4–3 | 東幕下11枚目 4–3 |
| 1989年 (平成元年) | 東幕下8枚目 5–2 | 東幕下5枚目 6–1 | 西十両13枚目 6–9 | 西幕下2枚目 優勝 7–0 | 東十両10枚目 7–8 | 東十両12枚目 8–7 |
| 1990年 (平成2年) | 西十両8枚目 11–4 | 東十両3枚目 8–7 | 西十両筆頭 9–6 | 東十両筆頭 10–5 | 東前頭13枚目 11–4 敢 | 西前頭2枚目 5–10 ★ |
| 1991年 (平成3年) | 東前頭8枚目 9–6 | 西前頭筆頭 9–6 殊★ | 西小結 9–6 敢 | 西関脇 9–6 敢 | 東関脇 8–7 | 東関脇 8–7 |
| 1992年 (平成4年) | 西関脇 7–8 | 東前頭2枚目 6–9 | 東前頭5枚目 6–9 | 東前頭8枚目 9–6 | 東前頭2枚目 10–5 | 西張出小結 5–10 |
| 1993年 (平成5年) | 西前頭5枚目 5–10 | 東前頭12枚目 9–6 | 西前頭6枚目 11–4 技 | 東小結 8–7 | 東小結 7–8 | 東前頭筆頭 5–10 |
| 1994年 (平成6年) | 東前頭7枚目 6–9 | 東前頭12枚目 12–3[注釈 5] 敢 | 西前頭筆頭 9–6 敢★ | 西小結2 10–5 敢 | 西関脇 8–7 | 西関脇 6–9 |
| 1995年 (平成7年) | 西前頭筆頭 7–8 ★ | 東前頭2枚目 8–7 | 東小結 5–10 | 西前頭3枚目 9–6 ★ | 東前頭筆頭 8–7 | 西小結 7–8 |
| 1996年 (平成8年) | 東前頭筆頭 12–3 敢★ | 西関脇2 8–7 | 西関脇2 7–8 | 西小結 10–5 敢 | 西関脇 11–4 敢 | 東関脇 6–9 |
| 1997年 (平成9年) | 西前頭筆頭 11–4 | 西関脇 7–8 | 西小結 6–9 | 西前頭筆頭 11–4 殊★ | 西関脇2 9–6 | 西関脇2 6–9 |
| 1998年 (平成10年) | 東前頭筆頭 5–10 | 西前頭4枚目 7–8 ★ | 東前頭5枚目 9–6 | 西前頭筆頭 10–5 ★ | 西関脇 8–7 | 西関脇 5–10 |
| 1999年 (平成11年) | 東前頭2枚目 8–7 | 東前頭筆頭 8–7 | 西小結 5–10 | 東前頭3枚目 4–11 | 東前頭7枚目 9–6 | 東前頭2枚目 2–13 |
| 2000年 (平成12年) | 東前頭10枚目 6–9 | 東前頭14枚目 13–2 敢殊 | 西小結2 2–13 | 西前頭8枚目 9–6 | 東前頭4枚目 6–9 | 東前頭5枚目 4–11 |
| 2001年 (平成13年) | 東前頭12枚目 8–7 | 西前頭9枚目 5–10 | 西前頭14枚目 5–10 | 西十両2枚目 9–6 | 東前頭14枚目 6–9 | 東十両筆頭 7–8 |
| 2002年 (平成14年) | 東十両2枚目 9–6 | 西前頭14枚目 6–9 | 東十両筆頭 4–11 | 東十両7枚目 5–10 | 西十両11枚目 引退 3–10–0 | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 -十両 -幕下 -三段目 -序二段 -序ノ口 幕内序列:横綱 -大関 -関脇 -小結 -前頭(「#数字」は各位内の序列) | ||||||
| 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 蒼樹山 | 12 | 4 | 安芸ノ州 | 1 | 0 | 曙 | 15 | 28* | 朝青龍 | 0 | 1 |
| 朝乃翔 | 3 | 4 | 朝乃若 | 10 | 6 | 旭富士 | 2 | 2 | 旭豊 | 8 | 6 |
| 安美錦 | 4 | 1 | 板井 | 2 | 1 | 恵那櫻 | 2 | 1 | 大碇 | 1 | 1 |
| 巨砲 | 1 | 2 | 大乃国 | 2 | 1 | 小城錦 | 15(1) | 5 | 小城ノ花 | 4 | 4 |
| 魁皇 | 11 | 21 | 海鵬 | 4 | 3 | 春日富士 | 8 | 2 | 巌雄 | 6 | 2 |
| 北勝鬨 | 6 | 4 | 北桜 | 0 | 1 | 旭豪山 | 0 | 1 | 旭鷲山 | 13 | 5 |
| 旭天鵬 | 3 | 4 | 旭道山 | 8 | 3 | 鬼雷砲 | 4 | 1 | 霧島 | 10 | 10 |
| 起利錦 | 4 | 1 | 金開山 | 1 | 1 | 久島海 | 5 | 6 | 剣晃 | 9 | 8 |
| 五城楼 | 1 | 0 | 琴稲妻 | 11 | 6 | 琴ヶ梅 | 4 | 2 | 琴椿 | 4 | 2 |
| 琴錦 | 18 | 28 | 琴ノ若 | 20 | 19 | 琴富士 | 7 | 6 | 琴別府 | 5 | 3 |
| 琴龍 | 4 | 5 | 小錦 | 12 | 12 | 逆鉾 | 4 | 1 | 敷島 | 3 | 3 |
| 十文字 | 0 | 2 | 大至 | 5 | 2 | 太寿山 | 2 | 0 | 大翔鳳 | 5 | 8 |
| 大翔山 | 7 | 5 | 大善 | 7 | 7 | 孝乃富士 | 1 | 0 | 隆乃若 | 1 | 1 |
| 高見盛 | 1 | 1 | 隆三杉 | 3 | 1 | 多賀竜 | 2 | 0 | 立洸 | 2 | 0 |
| 玉海力 | 2 | 0 | 玉春日 | 7 | 16 | 玉乃島 | 0 | 2 | 玉力道 | 1 | 0 |
| 千代大海 | 1 | 10 | 千代天山 | 1 | 8 | 千代の富士 | 1 | 1 | 常の山 | 0 | 1 |
| 出島 | 3 | 12 | 寺尾 | 21 | 10 | 闘牙 | 2 | 4 | 時津海 | 3 | 3 |
| 時津洋 | 7 | 1 | 土佐ノ海 | 12 | 10 | 栃東 | 4 | 15 | 栃栄 | 2 | 1 |
| 栃乃洋 | 3 | 11 | 栃乃花 | 0 | 1 | 栃乃和歌 | 16(1) | 9 | 巴富士 | 1 | 1 |
| 智ノ花 | 4 | 4 | 花ノ国 | 1 | 2 | 濵錦 | 0 | 3 | 濱ノ嶋 | 13 | 6 |
| 追風海 | 1 | 3 | 肥後ノ海 | 16(1) | 6 | 日立龍 | 1 | 0 | 舞の海 | 12 | 2 |
| 三杉里 | 1 | 7 | 水戸泉 | 13 | 9 | 湊富士 | 7 | 6 | 雅山 | 2 | 4 |
| 武蔵丸 | 8 | 37 | 武双山 | 9 | 21 | 両国 | 5 | 0 | 若光翔 | 0 | 1 |
| 若翔洋 | 1 | 1 | 若瀬川 | 3 | 1 | 若孜 | 2 | 0 | 若の里 | 1 | 3 |
| 若ノ城 | 1 | 0 | 和歌乃山 | 4 | 1 | 皇司 | 2 | 2 | 北勝海 | 0 | 3 |
大相撲幕内優勝力士 | |
|---|---|
| 1910年代 以前 | |
| 1920年代 | |
| 1930年代 | |
| 1940年代 | |
| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 | |
| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
| |