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種田訓久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
種田 訓久
基本情報
国籍日本の旗日本
出身地京都府京都市
生年月日 (1931-02-06)1931年2月6日
没年月日 (2014-01-14)2014年1月14日(82歳没)
身長
体重
173 cm
64 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手三塁手
プロ入り1949年
初出場1952年5月25日
最終出場1956年7月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
派遣歴
この表について
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プロジェクト:野球選手  テンプレート

種田 訓久(たねだ くにひさ、1931年2月6日 -2014年1月14日[1])は、京都府京都市出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物

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1949年、京都市立第一工業学校(現洛陽工業高校)卒業後に南海ホークスにテスト生として入団[2]。高校時代のチームメイトに、後に南海でもチームメイトとなる岡本伊三美がいる。1951年は、南海土建に出向し社会人野球でもプレーした。

1952年6月26日近鉄戦(彦根球場)で関根潤三から自身のプロ初安打となる先頭打者ホームランを放った(この記録は、それから60年後の2012年9月29日宮﨑祐樹オリックス〉がロッテ戦京セラドーム〕で藤岡貴裕からプロ初安打となる先頭打者ホームランを放つまで出なかった[3])。しかし、南海時代には蔭山和夫,森下正弘1955年に移籍した東映時代には浜田義雄,西江一郎,石原照夫の控えに甘んじ、代打や守備固めでの出場が主だった。1956年に現役を引退。

2014年1月14日午前6時40分、転移性脳腫瘍のため、京都市の自宅で死去[1]。82歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1952南海1212112200151000--1--020.182.250.455.705
195333454157101115320--4--091.171.244.268.512
19543549455710214520004--092.156.224.311.535
1955東映91173157163442351193233802173.217.259.325.584
19561211101000001000010010.000.091.000.091
通算:5年1832902642950627813184331802386.189.244.307.551

記録

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背番号

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  • 22(1949年。当時の南海は二軍番号制を敷いていた)
  • 45(1950年)
  • 13(1952年 - 1954年)
  • 5(1955年 - 1956年)

脚注

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  1. ^ab元プロ野球選手の種田訓久氏死去スポニチアネックス、2014年1月14日記事。
  2. ^週刊ベースボール2012年7月16日号 P79
  3. ^オリ宮崎、プロ初Hが初球先頭打者弾デイリースポーツ、2012年9月30日記事。

関連項目

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外部リンク

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