田中 塊堂 (たなか かいどう) | |
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| 生誕 | 田中 英市[3][2][1] 1896年2月10日[1] 岡山県小田郡山田村[4](現・矢掛町)[5] |
| 死没 | (1976-02-01)1976年2月1日(79歳没)[1] 大阪府大阪市[1] |
| 国籍 | |
| 教育 | 相沢春洋[1] 田中親美[1] |
| 出身校 | 大阪貿易語学校[2] |
| 著名な実績 | 書道 |
| 代表作 | 「浜木棉」(1963年)[1] |
| 選出 | 日展評議員[1] 日本書芸院理事長[1] 帝塚山学院大学教授[2][1] |
| 活動期間 | 昭和時代[2] |
| 影響を受けた 芸術家 | 川谷尚亭[3] |
田中 塊堂(たなか かいどう、1896年(明治29年)2月10日 -1976年(昭和51年)2月1日)は、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)出身[4]の日本の書家[1]。本名は英市[1]。
それまで細字に限られていた仮名(かな)の表現範囲を広め現代仮名書壇の基礎を築いた[5]。
1896年(明治29年)2月10日、岡山県小田郡山田村[4](現・矢掛町)に生まれる[1][5]。1922年(大正11年)、大阪貿易語学校を卒業[2][1]。1924年(大正13年)、28歳で川谷尚亭に師事して漢字の書を学び、かなは独学で古筆を習得した[3][2][1]。この時期、相沢春洋、田中親美らと親交を持った[1]。
1931年(昭和6年)、第2回泰東書道院書道展にて特選を受賞、この後3回連続の特選となる[1]。1938年(昭和13年)より複数の書道展で審査員を務めるようになり、1938年(昭和13年)に泰東書道院、日本書道院、翌1939年(昭和14年)に平安書道会、1948年(昭和23年)毎日書道展、1951年(昭和26年)より日展で審査員を務めた[3][1]。
1957年(昭和32年)より日展評議員、1959年(昭和34年)より日本書芸院理事長に就任[1]。また、自らが主宰を務める千草会で季刊誌『かな研究』を刊行した[2][1]。
1960年(昭和35年)大阪芸術賞を経て1969年(昭和44年)、第11回日展出品作品「平和」[6]が日本芸術院賞を受賞[3][2][1][7][注釈 1]。また1975年(昭和50年)には勲三等瑞宝章を受章した[1]。
書道の傍ら大阪女子商業高等学校(現あべの翔学高等学校)、帝塚山学院高等女学校(現帝塚山学院中学校・高等学校)にて教職に就いた[1]。1966年(昭和41年)より帝塚山学院大学教授[2][1]。
古写経の調査・研究分野でも知られ、「古写経綜鑒」(1942年)、「日本古写経現存目録」(1973年)を刊行しているほか、1961年(昭和41年)「書道より見たる日本写経史の研究」で龍谷大学文学博士となった[2][1][5]。
1976年(昭和51年)2月1日、胃がんのため大阪市の病院で死去、享年79[1]。
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| 太字は恩賜賞受賞者。雅号、筆名、芸名等は受賞時のものによる。表記揺れによる混乱を避けるため、漢字は便宜上新字体に統一する。 | |||||||||