| あさおか るりこ 浅丘 ルリ子 | |||||||||||||||
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『映画情報』1960年3月号より | |||||||||||||||
| 本名 | 浅井 信子(あさい のぶこ) | ||||||||||||||
| 生年月日 | (1940-07-02)1940年7月2日(85歳) | ||||||||||||||
| 出生地 | |||||||||||||||
| 身長 | 156cm[2] | ||||||||||||||
| 血液型 | A型 | ||||||||||||||
| 職業 | 女優 | ||||||||||||||
| ジャンル | 映画、舞台、テレビドラマ | ||||||||||||||
| 活動期間 | 1954年 - | ||||||||||||||
| 活動内容 | 1954年:『緑はるかに』でデビュー。 | ||||||||||||||
| 配偶者 | 石坂浩二(1971年 - 2000年)[1] | ||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||
| テレビドラマ 『冬物語』 『家族熱』 『土曜日曜月曜』 『すいか』 映画 『ギターを持った渡り鳥』[1] 『愛と死のかたみ』 『愛の化石』 『蒼ざめた日曜日』 『鹿鳴館』 『デンデラ』 | |||||||||||||||
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浅丘 ルリ子(あさおか ルリこ、本名:浅井 信子(あさい のぶこ)、1940年〈昭和15年〉7月2日[1] - )は、日本の女優。血液型はA型。前夫は石坂浩二。カラント(舞プロモーション関連)所属。
満洲国新京市(現・長春)に、4人姉妹の次女として生まれる[3][4]。父・浅井源治郎は東京府出身で、上海の東亜同文書院に学び、中央大学を卒業後大蔵省に入省し、満洲国経済部大臣秘書官を経て1943年にタイのバンコクへ派遣され軍属となった。終戦後に一家はチャオプラヤー川の岸辺にあったバンバートン(バーンブァトーン Bang Bua Thong)抑留所へ強制収容されるが翌1946年には引き揚げが始まる。しかし軍属を最優先として先に出港したその船は沈没してしまい一家は命拾いした。やがて大洗港の近くに住む親戚を頼り、まもなく館山の引き揚げ寮へ入寮。信子が小学校3年生の時に父が代議士秘書の職を得て一家で東京神田鍛冶町の借家に落ち着く[5]。実妹のクラスメートに星由里子がいた。家庭は大変貧しかった。しかしながら、母が毛布を裁断し染めることに依ってコートに仕立ててくれたりと創意工夫に満ちた生活を送っていた。

読売新聞に連載されていた北条誠の小説(挿絵は中原淳一)『緑はるかに』[6] を水の江瀧子プロデュース・井上梅次監督で映画化するに当たって、ヒロインのルリコ役を募集しているのを千代田区立今川中学校在学中の1954年(昭和29年)夏に知り、両親賛成のもと応募。11月23日に面接が行われ約3,000人[1][7] の中から中原淳一が浅丘のメイクを見て「この子だ」と言い、強力な推薦によって選ばれ銀幕デビュー[8]。芸名は、『緑はるかに』のヒロインのルリコと、本人の本名から「浅」の1字をとり、『緑はるかに』のイメージから「丘」という字をつけて、「浅丘ルリ子」となった[9]。「ルリコカット」が当時の女性たちの間で大流行し[10]、瞳の大きな美少女として脚光を浴びる。しかし学校を長期欠席しての撮影だったため、PTAと生徒会が奉祝の花輪を出したことで一時物議を醸した。多忙のため、菊華高等学校(現・杉並学院高等学校)は中退[3]している。映画『緑はるかに』は1955年に公開された。
日本映画全盛期の日活アクション映画における代表的なヒロインであり、小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや、石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など多数の作品でヒロイン役を演じた。
1961年、世界一周早回りと国際親善をかねた「美しい東洋親善使節団」日本代表[11]。また1964年には「夕陽の丘」でレコードデビューした[5]。日活の看板女優として数多くの映画に出演し、人気を博した。現在までの映画出演本数は150本以上。
仲の良い佐久間良子の初主演映画、1963年の東映『五番町夕霧楼』を観て大きなショックを受ける[3][4][12]。「正直いって女性映画の主人公がやれる佐久間さんがうらやましい。何も知らないまま、ただ夢中で10年間を過ごしてきたけど、100本も映画に出て代表作がないのは恥ずかしいワ。私は男性映画のサシミのツマのようなもの。もっと自分の仕事を大切にしたい。作品を選んでそろそろ賞の対象になるような仕事をしたい」などとマスメディアに訴え[3][12]、今まで何一つ文句もいわず、会社のいいなりになってきたが[12]、1964年1月の会社との契約更改で、他社出演を認めて欲しいと直談判した[3][4][12]。浅丘は東映の女優が毛嫌いするような緑魔子主演『ひも』のような"不良性感度映画"に「ああいう役ならぶつかって悔いはない」と発言するなど[13]、会社の準備した『肉体の門』『悲恋十年』『人生劇場』などを蹴り[3][4][14]、初めて女優として自己主張した[3]。自身で企画を持ち込むようになり[13]、1964年から1966年にかけて出演ペースが落ちた[14]。他社出演の希望は『日本一の男の中の男』(東宝)まで3年かかった[3][4][15]。
私生活では、1960年頃に一時小林旭と事実婚の関係にあったが、1961年8月に別離[16]。蔵原惟繕監督の『銀座の恋の物語』(1962年)や、『憎いあンちくしょう』(1962年)、『何か面白いことないか』(1963年)、『夜明けのうた』(1965年)の典子三部作により男性スターの彩り的存在から脱皮[3]、100本出演記念映画となった蔵原惟繕監督の『執炎』では、愛する夫を戦争に奪われた女性の姿を演じ、同じ蔵原監督の映画『愛の渇き』(1967年)でも熱演を魅せた。映画『戦争と人間』にも出演した[17]。蔵原惟繕とは愛人関係にあった[18]。1966年には日活との専属契約を解消し、石原プロへ入社。1972年、石原プロが劇場用映画製作から撤退したことにより石原プロ退社。また、映画の主題歌などを中心に歌手としても多くの曲を発表、1969年のシングル『愛の化石』はヒットした[19]。
その他にも、『太平洋ひとりぼっち』、『水で書かれた物語』、『私が棄てた女』、『栄光への5000キロ』、『戦争と人間・第一部〜第三部』、『告白的女優論』、『鹿鳴館』、『博士の愛した数式』などの映画の話題作に出演した。特に、映画『男はつらいよシリーズ』で演じたクラブ歌手の「リリー」の役は大好評で、マドンナとしてシリーズ最多の4回の出演を数えた[4]。渥美清の最後の作品となった『男はつらいよ 寅次郎紅の花』でもマドンナ役を務めた。この撮影現場で具合の悪そうな主演の渥美清の姿を見て、「もしかしたらこれが最後の作品になるかもしれない」と思ったという。そのため、監督の山田洋次に「最後の作品になるかもしれないから、寅さんとリリーを結婚させてほしい」と何度も懇願する。一方で山田は50作までの製作を想定しており、既に49作の制作が決定していたために浅丘の願いは叶えられなかった。渥美は映画公開の9か月後にこの世を去り、『紅の花』が遺作になってしまった。1996年8月13日に松竹大船撮影所で開かれた【渥美清(寅)さんを送る会】ではリリーとして渥美に向けて弔辞を読んでいる。
1980年代以降は活動の中心を舞台に移し、泉鏡花の作品などに出演している。
2008年11月、山形県東根市で開催されたひがしね湯けむり映画祭にゲストで招かれトークショーを行う。これは、長い女優人生で初のことだったが、それからは解禁している。大女優でありながら、気さくで面倒見が良く、東根が縁で親しくなった山形市在住のラジオパーソナリティ・荒井幸博のラジオ番組にも何度か出演。2013年6月5日には天童市民会館でのきらやか銀行経営者セミナーにおいて二人でトークショーを行い、荒井のリクエストに応え、故渥美清を送る会で読んだ弔辞を17年ぶりに涙ながらに読んだ。更に、「港が見える丘」「愛の化石」と得意の歌も披露している。
2011年5月21日、60年来の旧友だった長門裕之逝去直後には津川雅彦と一緒に長門の自宅へすぐに駆けつけて、津川と2人でマスコミ対応などを行った。
2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優4位となっている[20]。同年には舞台で、小林旭と1969年の映画『地獄の破門状』以来44年振りに共演した[21]。
1971年、日本テレビのドラマ『2丁目3番地』での共演をきっかけに石坂浩二と結婚。石坂は当時の世の男性の羨望を一身に集める事となったが、程なくして別居。30年後の2000年に離婚。その後、大衆演劇俳優で「劇団誠」座長、松井誠との交際を公にしていたが、2013年3月には金児憲史との交際が報じられて話題になった。
性格は姉御肌で、青春映画全盛期だった当時の日活において後輩の男優と女優に対する躾が厳しいことでも有名だった。特に高橋英樹はデビュー当時より教育係であった浅丘に散々世話をかけ、そして弟分のように可愛がられていた経緯から「ヒデキ」と呼ばれている[1]。
また、大原麗子を実妹のように可愛がっていた。日活時代の後輩でもある松原智恵子も新人時代から数多くもの洋服などをプレゼントされたり、浅丘の自宅に招かれて手料理を振舞ってもらうなど現在まで大変可愛がられていると度々語っており、「ルリちゃんが今でも大好き」だと『徹子の部屋』へ出演時にトーク内で語っていて、2022年1月6日の松原が出演時には黒柳にも内緒で浅丘がサプライズゲストで出演した。熊谷真美も2000年代に入ってから20年以上に渡って妹の様に可愛がっている。松原と同様で日活時代の後輩でもあった山本陽子も亡くなるまで仲良しで麻雀仲間でもあり、逝去を聞きショックでかなり落ち込んでしまった事を2024年4月29日出演の『徹子の部屋』トーク内で語っている。
佐久間良子とはデビュー当時から親友の間柄。後輩で妹分の加賀まりこも旧友で普段から飲食や映画、舞台を観劇に行くなど行動を共にしている仲良しの間柄で「まりことは昔から良くケンカはするが仲が良い(笑)」と『徹子の部屋』2017年4月に近藤正臣と一緒にゲスト出演時に語っている。大空眞弓も旧友の一人である。
美空ひばりとは裕次郎のホームパーティーで知り合って意気投合し、プライベートでも親交が深く、ひばりからは『信ちゃん』と呼ばれていて大親友だった。
上沼恵美子は浅丘を敬愛しており、その理由として当時上沼が司会を務める関西ローカルの番組には東京から良いゲストがなかなか来なかったといい、たまに来ても不遜な態度をとられる中、浅丘は上沼の番組に出演した際に当初の番組構成から変更があっても機嫌を損ねることなく盛り上げてくれたといい、その人間性の素晴らしさを一つに挙げている[22]。
趣味はスワロフスキービーズ細工。自身が身につける物はもちろん、舞台の際は販売もしている。愛煙家でもある。
『私の履歴書』によれば、瞬く間にスターとなり、それまで神田の下宿住まいから、多忙のため日活撮影所近くの家を借り、遂にはその家を買って隣の空き地まで増築するほどだった。その家は、前述のように高橋英樹ら若手俳優らが、毎日夕食をご馳走になりに来るほどであり、「私の収入のいくらが、彼らの胃袋に消えていったか」と、自嘲している。
撮影現場に大御所や先輩と呼ばれる立場の俳優が、約束の時間よりも遅く入ってくることが当たり前の風潮を良しとせず、先輩・後輩問わず厳しい態度で接している。実際に、1時間遅刻をした高橋英樹を楽屋に呼び、「ヒデキ、分かっているわね?」と問いただしたところ、高橋は顔面蒼白で「ルリ子さん、すみませんでした!」と、平身低頭で謝罪した。また、『座頭市』で勝新太郎と共演した際も、2時間以上も遅刻してきた勝を演技中でも許さず、勝が謝罪、許した[1]。
松山英太郎と前妻の亜子、石坂浅丘夫妻、勝呂誉などが佐野周二の葬式の帰りに喫茶店に立ち寄った、別れた後も子供の誕生日などで会う機会があった英太郎と前妻の話題になったときに二人が離婚して半年経っていたにも関わらず、この時初めて浅丘は二人が離婚したことを知った[23]。
日本のテレビ番組『スター千一夜』のフランスロケで、フランス映画の俳優ジャン・ギャバンが同番組にゲスト出演した際に、石坂と共にギャバンと共演した。浅丘いわく「ギャバンは顔がピンク色で凄くきれいな肌をしていた」と、ギャバンの大ファンで知られる仲代達矢等と同じくギャバンを尊敬している近藤正臣との対談で語った[24]。
1970年2月18日放送のフジテレビの生放送番組『3時のあなた』に出演した際に、映画評論家の淀川長治と国際派女優で知られる山口淑子と共に、映画『ジュリアス・シーザー』の宣伝のために来日したチャールトン・ヘストンとトークをした[25]。





フィリップス
| 旧所属俳優・歌手 | |||||||
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| 石原プロ制作 映画・ドラマほか |
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| スタッフ | |||||||
| 関連項目 | |||||||
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開催終了。日本雑誌協会キャンペーンキャラクター選出は2013年度まで継続(以後、西暦はキャンペーンキャラクター担当年度)。 | |
| 2009年,2010年代 | |
キネマ旬報ベスト・テン 主演女優賞 | |
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ブルーリボン賞 主演女優賞 | |
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括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) | |
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毎日映画コンクール 田中絹代賞 | |
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日刊スポーツ映画大賞 主演女優賞 | |
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| 10代 | |
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| 20代 | |
| 30代 | |
| 40代 | |
| 50代 | |
| 60代 以上 | |
| 男性 | |
| 特別 賞 | |
| *は複数回の受賞。男性は1992年から、60代以上は97年から、10代は99年から対象 | |
| 現在出演中の番組 | |||
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| 主な出演映画 | |||
| 関連項目 | |||
| 関連人物 | |||