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|---|---|---|---|---|
| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 金谷 雅男 → 栃赤城 雅男 → 栃赤城 敬典 → 栃赤城 雅男 | |||
| 本名 | 金谷 雅男 | |||
| 生年月日 | (1954-10-31)1954年10月31日 | |||
| 没年月日 | (1997-08-18)1997年8月18日(42歳没) | |||
| 出身 | 群馬県沼田市薄根町 | |||
| 身長 | 182cm | |||
| 体重 | 140kg | |||
| BMI | 42.27 | |||
| 所属部屋 | 春日野部屋 | |||
| 得意技 | 右四つ、小手投げ、腕捻り、掛け投げ | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 東関脇 | |||
| 生涯戦歴 | 549勝543敗46休(103場所) | |||
| 幕内戦歴 | 234勝252敗39休(35場所) | |||
| 優勝 | 十両優勝1回 | |||
| 賞 | 殊勲賞4回 敢闘賞4回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1973年1月場所 | |||
| 入幕 | 1977年5月場所 | |||
| 引退 | 1990年3月場所 | |||
| 引退後 | 家業手伝い | |||
| 備考 | ||||
| 金星8個(北の湖3個、若乃花3個、輪島1個、三重ノ海1個) | ||||
| 2014年3月7日現在 | ||||
栃赤城 雅男(とちあかぎ まさお、1954年〈昭和29年〉10月31日 -1997年〈平成9年〉8月18日)は、群馬県沼田市薄根町出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は金谷 雅男(かなや まさお)。最高位は東関脇(1979年5月場所、同年9月場所、1980年3月場所)。身長182cm、体重140kg。得意手は右四つ、小手投げ、腕捻り、掛け投げ。
沼田市で呉服店を営む両親の元で、3人兄弟の次男として出生した。中学では水泳部、群馬県立沼田高等学校では柔道部に所属し、国民体育大会に柔道群馬県代表として出場。高校時代の体重は既に100㎏を超えていたこの柔道での活躍が春日野親方(元横綱・栃錦)の目に留まり再三勧誘され、高等学校を卒業する直前に春日野部屋へ入門することとなった。入門前に相撲経験はほぼ無かったが、角界入りは「どうせ勉強は嫌いなんだから」と即決したという[1]。
1973年1月場所にて、18歳で初土俵。翌3月場所、「金谷」の四股名で序ノ口に付き、それから僅か1年半弱で幕下に昇進した。幕下上位の壁に一度は跳ね返されたものの、1976年11月場所で十両に昇進。
十両は3場所で通過し、1977年5月場所、22歳で新入幕を果たした。そして、幕内昇進を機に「金谷」から、「栃赤城」に改名した[1]。「栃赤城」の四股名は、故郷の名峰・赤城山に因んだものである。
持ち前の華麗な取り口から「サーカス相撲の栃赤城」の異名を取り、長く幕内上位で活躍。本場所に於ける幕内の取組では、決まり手としては珍しい「ちょん掛け」や「逆とったり」、「腕捻り」で勝ったりしたこともあった[2]。
1979年7月場所6日目に於いての貴ノ花戦などは、栃赤城の「サーカス相撲」の面目躍如であった。貴ノ花は立合い左へ動くと栃赤城の後ろに回り、左上手、右で栃赤城の足を抱えて出た。栃赤城は必死にこらえて回り込む。貴ノ花が構わず左を差してそのまま体を浴びせるところ、栃赤城が右から捨て身の小手投げを放つと、体が割れて貴ノ花が一瞬早く落ち、栃赤城の逆転勝ちとなった。
1979年11月場所では、輪島・若乃花・三重ノ海の3横綱から金星を獲得する[2]など、上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所には4横綱が出場しており、残る北の湖を倒せば史上初の「1場所4金星」という大記録を打ち立てるところであった[3]。
一時は関脇に定着し、増位山・千代の富士・蔵間・玉ノ富士・琴風・朝潮らと共に、大関候補として期待された時期もあった。
粘りを活かした逆転技に頼った相撲であったため、一部から「大関に昇進しても怪我をするかもしれない」と危惧され、事実両足首の故障で大関への昇進は成らなかった。稽古嫌いであった上に食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙の習慣(後述)など自己管理の甘さも大成を阻み、この点で春日野親方の心象を悪くしていた[1]。
2場所連続の二桁勝利で大関昇進をかけた1980年3月場所、足首の捻挫で6勝9敗(千秋楽に不戦敗)。その後も金星を5つ獲得するなど活躍したが、怪我にも悩まされ1982年7月場所後に幕内を陥落して以降は糖尿病を患い精彩を欠く相撲が多くなり、幕内と十両を往復する時期が続いた。やがては十両でも勝ち越すことができなくなり、1985年7月場所では幕下にまで陥落した。1場所で十両に復帰したものの、1勝14敗と大負けして、またすぐに幕下に落ちた。
その後も栃赤城は幕下で長く相撲を取り続けたが(27場所《1985年7月場所を含む》。これは幕下まで陥落した三役経験者の記録では歴代最長であった。)、引退も考えていた時に師匠・春日野親方(元栃錦)が病に伏していたため、「師匠に、元気な姿を見てもらいたい」と取り続けた[1]。
しかし、1990年1月場所中に師匠の春日野親方が死去したため、栃赤城も同場所後に廃業を決意した。ただし、廃業届の提出が遅れたため翌3月場所の番付では東三段目4枚目に「栃赤城」の四股名が載った。三役経験者が三段目まで陥落したのは、大豊(時津風部屋、元・小結、1985年11月場所)以来であった。
当時の慣例により、廃業した力士が引退相撲を行うことは叶わなかったため、断髪式は前橋市内のホテル(群馬ロイヤルホテル)にて同年2月22日に執り行われた[1]。廃業後は家業の呉服店(金谷呉服店)を手伝い、後に店主となった[1]。
1997年8月18日午後1時半頃、兄弟子でもあった山分親方(元前頭3・栃富士)とのゴルフ中に「脇腹が痛い」と訴え、一旦立ち上がったもののやがて後ろ向きに倒れた。山分は救急車を手配したが、異変を訴えてからわずか1時間半ほど後の同日午後3時頃、死去した[1]。42歳だった。死因は急性心筋梗塞であったという[1]。
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| 一月場所 初場所(東京) | 三月場所 春場所(大阪) | 五月場所 夏場所(東京) | 七月場所 名古屋場所(愛知) | 九月場所 秋場所(東京) | 十一月場所 九州場所(福岡) | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1973年 (昭和48年) | 番付外 3–0 | 西序ノ口11枚目 6–1 | 西序二段53枚目 6–1 | 西序二段5枚目 5–2 | 西三段目46枚目 4–3 | 西三段目30枚目 3–4 |
| 1974年 (昭和49年) | 東三段目42枚目 5–2 | 東三段目21枚目 4–3 | 西三段目10枚目 5–2 | 東幕下49枚目 4–3 | 西幕下39枚目 4–3 | 西幕下32枚目 4–3 |
| 1975年 (昭和50年) | 西幕下23枚目 4–3 | 西幕下20枚目 2–5 | 西幕下35枚目 5–2 | 東幕下19枚目 4–3 | 西幕下15枚目 3–4 | 西幕下22枚目 3–4 |
| 1976年 (昭和51年) | 西幕下30枚目 6–1 | 西幕下12枚目 4–3 | 東幕下8枚目 4–3 | 西幕下4枚目 5–2 | 西幕下筆頭 5–2 | 西十両10枚目 8–7 |
| 1977年 (昭和52年) | 東十両6枚目 8–7 | 西十両3枚目 9–6 | 西前頭12枚目 10–5 敢 | 東前頭4枚目 5–10 | 西前頭9枚目 8–7 | 西前頭6枚目 9–6 |
| 1978年 (昭和53年) | 西前頭2枚目 4–11 | 西前頭8枚目 7–8 | 東前頭11枚目 8–7 | 東前頭8枚目 8–7 | 東前頭5枚目 7–8 | 西前頭6枚目 8–7 |
| 1979年 (昭和54年) | 西前頭筆頭 6–9 | 東前頭4枚目 10–5 敢 | 東関脇 7–8 | 西関脇 9–6 殊 | 東関脇 6–9 | 西前頭筆頭 10–5 殊★★★ |
| 1980年 (昭和55年) | 西関脇 11–4 殊 | 東関脇 6–9[5] | 西前頭2枚目 休場 0–0–15 | 西前頭2枚目 10–5 敢★ | 西関脇 1–5–9[6] | 東前頭8枚目 休場 0–0–15 |
| 1981年 (昭和56年) | 東前頭8枚目 9–6 | 東前頭2枚目 10–5 殊★ | 東小結 5–10 | 東前頭4枚目 5–10 | 西前頭7枚目 8–7 ★ | 西前頭5枚目 9–6 敢★ |
| 1982年 (昭和57年) | 東前頭筆頭 2–13 ★ | 東前頭7枚目 6–9 | 西前頭10枚目 6–9 | 東前頭15枚目 6–9 | 東十両3枚目 7–8 | 東十両5枚目 7–8 |
| 1983年 (昭和58年) | 西十両6枚目 8–7 | 東十両5枚目 9–6 | 東十両2枚目 9–6 | 東前頭13枚目 6–9 | 東十両4枚目 8–7 | 東十両3枚目 10–5 |
| 1984年 (昭和59年) | 東前頭13枚目 6–9 | 西十両筆頭 8–7 | 東十両筆頭 5–10 | 東十両7枚目 9–6 | 西十両3枚目 優勝 11–4 | 東前頭12枚目 6–9 |
| 1985年 (昭和60年) | 東十両2枚目 5–10 | 西十両5枚目 6–9 | 東十両11枚目 6–9 | 西幕下2枚目 4–3 | 東十両13枚目 1–14 | 西幕下15枚目 2–5 |
| 1986年 (昭和61年) | 東幕下32枚目 3–4 | 西幕下43枚目 3–4 | 東幕下58枚目 4–3 | 西幕下42枚目 5–2 | 西幕下21枚目 3–4 | 東幕下30枚目 4–3 |
| 1987年 (昭和62年) | 東幕下23枚目 5–2 | 西幕下13枚目 5–2 | 西幕下6枚目 3–4 | 西幕下11枚目 4–3 | 東幕下6枚目 4–3 | 東幕下3枚目 3–4 |
| 1988年 (昭和63年) | 東幕下8枚目 3–4 | 東幕下12枚目 4–3 | 西幕下7枚目 4–3 | 東幕下3枚目 3–4 | 東幕下8枚目 3–4 | 東幕下13枚目 3–4 |
| 1989年 (平成元年) | 西幕下18枚目 4–3 | 東幕下14枚目 4–3 | 西幕下10枚目 4–3 | 東幕下8枚目 4–3 | 東幕下3枚目 2–5 | 東幕下16枚目 1–6 |
| 1990年 (平成2年) | 西幕下39枚目 2–5 | 東三段目4枚目 引退 0–0–7 | x | x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 -十両 -幕下 -三段目 -序二段 -序ノ口 幕内序列:横綱 -大関 -関脇 -小結 -前頭(「#数字」は各位内の序列) | ||||||
| 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 青葉城 | 6 | 4 | 青葉山 | 6 | 5 | 朝汐(長岡) | 3 | 6 | 旭國 | 4 | 2 |
| 旭富士 | 1 | 0 | 東洋(三杉磯) | 5 | 3 | 天ノ山(尾形) | 7 | 4 | 荒勢 | 10 | 2 |
| 板井 | 1 | 1 | 王湖 | 1 | 0 | 大潮 | 4 | 4 | 巨砲 | 4 | 3 |
| 大錦 | 5 | 4 | 大豊 | 1 | 1 | 魁輝 | 6 | 10 | 魁傑 | 1 | 3 |
| 北瀬海 | 2 | 1 | 北の湖 | 3 | 13 | 騏ノ嵐 | 0 | 1 | 麒麟児 | 7 | 9 |
| 蔵間 | 4 | 10(1) | 黒瀬川 | 6 | 6 | 黒姫山 | 4 | 4 | 高望山 | 0 | 3 |
| 琴風 | 4(1) | 9 | 琴ヶ嶽 | 1 | 0 | 琴乃富士 | 1(1) | 0 | 琴若 | 0 | 2 |
| 斉須 | 1 | 2 | 蔵玉錦 | 3 | 3 | 佐田の海 | 3 | 4 | 嗣子鵬 | 1 | 1 |
| 陣岳 | 0 | 2 | 神幸 | 0 | 2 | 大旺 | 3 | 1 | 大觥 | 2 | 1 |
| 太寿山(大寿山) | 4 | 3 | 大徹 | 1 | 1 | 大竜川 | 1 | 0 | 隆の里(隆ノ里) | 7 | 12 |
| 貴ノ花 | 3 | 6(1) | 隆三杉 | 0 | 2 | 高見山 | 3 | 1 | 多賀竜 | 0 | 3 |
| 谷嵐 | 3 | 0 | 玉輝山 | 6 | 3 | 玉ノ富士 | 7 | 4 | 玉龍 | 1 | 1 |
| 千代櫻 | 1 | 2 | 千代の富士 | 8 | 7 | 照の山 | 2 | 1 | 出羽の花 | 7 | 9 |
| 闘竜 | 1 | 2 | 羽黒岩 | 1 | 0 | 播竜山 | 4 | 4 | 飛騨乃花 | 2 | 2 |
| 富士櫻 | 9 | 4 | 双津竜 | 4 | 5 | 鳳凰 | 4 | 4 | 北天佑 | 2 | 5 |
| 増位山 | 4 | 5 | 三重ノ海 | 2 | 7 | 水戸泉 | 0 | 1 | 豊山 | 4 | 1 |
| 若獅子 | 3 | 2 | 若島津 | 2 | 2 | 若瀬川 | 0 | 1 | 若ノ海 | 1 | 0 |
| 若乃花(若三杉) | 4 | 8 | 輪島 | 2 | 6 | 鷲羽山 | 8 | 4 |