杵屋 喜三郎(きねや きさぶろう)は、長唄の三味線方、唄方の名跡。
近世初期以来のもので、杵屋六左衛門と並んで長唄宗家の名で、双方をともに代数に数える。喜三郎は六左衛門、杵屋勘五郎の前名であることが多い。元禄15年(1702年)の江戸劇場番付に名は見えるが、6代までは不明の点が多い。
後の2代目杵屋勘五郎。
後の4代目杵屋六左衛門。
後の6代目杵屋六左衛門。
(慶安2年?(1649年) -正徳5年?5月12日(1715年6月13日?))
2代目杵屋勘五郎の次男。兄に4代目杵屋六左衛門。作曲に「酒呑童子」「槍踊」がある。
後年に6代目杵屋六左衛門を襲名したようだが確証する史料は存在しない。「泰平の綱引」を作曲。
6代目の実子。娘・お岸が2代目中村仲蔵の妻。杵屋太十郎が襲名。作曲に「傾城道成寺」「相生獅子」がある。
7代目の実子。初代杵屋三郎助が1768年に8代目喜三郎を襲名。養子の万吉が9代目杵屋六左衛門。作曲に「種蒔三番叟」。
12代目杵屋六左衛門の前名。
12代目杵屋六左衛門の養子。初名を田中佐太郎。1839年から中村座に出ている。1844年に10代目喜三郎を襲名。夭折したという。
5代目杵屋勘五郎の前名。
13代目杵屋六左衛門の前名。
後の杵屋俊二。
14代目杵屋六左衛門の前名。

京都生まれ。14代目六左衛門の長男、本名・杵家安廣(きねや やすひろ)[1]。永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)[2]、東京美術学校 (旧制)を卒業。父および山田抄太郎、3代目杵屋六四郎に師事。1930年杵屋吉之丞、1942年喜三郎を襲名[1]。1997年人間国宝、1999年日本芸術院賞受賞。2006年4月旭日小綬章受章[3]。長唄協会名誉会長。妹が15代六左衛門を襲名しているため、代数に混乱がある。
弟に2代目寒玉(前名:六世杵屋勘五郎)がいる。
2023年5月25日22時3分、肺炎のため東京都内の病院で死去。99歳没[1][4]。
(1956年 - )
15代の次男。14代目六左衛門は祖父、杵屋寒玉は叔父。
1960年「登茂栄会」で初舞台。1969年、杵屋直吉を襲名[5]。
祖父、父、11世都一中に師事。2024年喜三郎を襲名。
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| 太字は恩賜賞受賞者。雅号、筆名、芸名等は受賞時のものによる。表記揺れによる混乱を避けるため、漢字は便宜上新字体に統一する。 | |||||||||