| 肖像 | 名称 | 生年 | 在位期間 | 即位背景 | 没年 |
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 | バシレイオス1世 Βασίλειος Α' | ? | 867年 –886年8月29日 | アルメニア系農民の子。城壁防衛長官だったテオフィリッツェスに仕えていたが、ミカエル3世の目に留まって急速な出世を遂げる。この出世により皇帝の叔父で副帝のバルダスとの衝突を引き起こしたため計略をめぐらして暗殺し、皇帝もこれを黙認した。その後、共同皇帝の地位を与えられるが皇帝と衝突し、皇帝を暗殺して単独皇帝となった。 | 886年8月29日 |
 | レオーン6世“フィロソフォス” (賢帝) Λέων ΣΤ' ο Σοφός | 866年9月1日あるいは9月19日 | 886年8月29日 –912年5月11日 | バシレイオス1世の子。870年に共同皇帝となった。母の没後、父との関係は急速に悪化し謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪されて3年あまり幽閉されていた。復権した直後に父が急死したため、その権力を継承した。 | 912年5月11日 |
 | アレクサンドロス Αλέξανδρος Γ' του Βυζαντίου | 870年頃 | 912年5月11日 –913年6月6日 | バシレイオス1世の子で、レオーン6世の弟。879年に共同皇帝となった。兄が亡くなると甥のコンスタンティノス7世がまだ幼かったため、後継者となった。 | 913年6月6日 |
 | コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス” (緋色の産室生まれ) Κωνσταντίνος Ζ' ο Πορφυρογέννητος | 905年? | 913年6月6日 –959年11月9日 (920年 -944年は共同皇帝) | レオーン6世の子。叔父のアレクサンドロスが亡くなると帝位に就いた。母で摂政のゾエ・カルボノプシナがブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、帝国海軍の司令長官ロマノス・レカペノスがクーデターを起こして実権を掌握し共同皇帝に格下げられた。944年、ロマノス1世によって後継者に指名される。これに反対してロマノス1世の次男と三男とクーデターを起こすが民衆の支持を受けていたため二人を逮捕させて追放し正帝の座を回復した。 | 959年11月9日 |
 | ロマノス1世レカペノス Ρωμανός Α' ο Λεκαπηνός | 870年 | 920年12月17日 – 944年12月16日 | アルメニア人農民の子。帝国海軍の司令長官(ドルンガリオス・トーン・プロイモン)。コンスタンティノス7世の母で摂政のゾエ・カルボノプシナがブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、クーデターを起こしてゾエ・カルボノプシナを追放。娘ヘレネをコンスタンティノスに嫁がせてその義父となり、9月には副皇帝、12月には共同皇帝となり、帝国の実権を掌握して正帝として即位。 | 948年6月15日 |
 | ロマノス2世 Ρωμανός Β' ο Πορφυρογέννητος | 939年 | 959年11月9日 –963年3月15日 | コンスタンティノス7世とロマノス1世レカペノスの娘ヘレネの子。父の死により後を継いで即位。 | 963年3月15日 |
 | ニケフォロス2世フォカス Νικηφόρος Β' Φωκάς | 913年 | 963年3月15日 –969年12月10日 | カッパドキアの軍事貴族であるフォカス家の生まれ。ロマノス2世の没後、2人の息子が幼かったため国の実権をめぐって宦官ヨセフ・ブリンガスと争うが首都での市街戦を制して市民の歓呼に迎えられて入城した。その後、ロマノスの皇后テオファノと結婚し正統皇室の子供達の義父という立場で皇帝として即位。 | 969年12月10日 |
 | ヨハネス1世ツィミスケス Ιωάννης Α' Κουρκούας ο Τσιμισκής | 925年 | 969年12月11日 –976年1月10日 | ニケフォロス2世フォカスの甥。ニケフォロスに冷遇されたことで不満を抱くようになり)、愛人関係にあった皇后テオファノと結託してニケフォロスを暗殺。自ら皇帝に即位した。 | 976年1月10日 |
 | バシレイオス2世“ブルガロクトノス” (ブルガリア人殺し) Βασίλειος Β' ο Βουλγαροκτόνος | 958年 | 976年1月10日 –1025年12月25日 | ロマノス2世とテオファノの長男。ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケスの下で、単なる飾り物の共同皇帝としての幼少年期を過ごした。ヨハネス1世の死により、正帝として即位。 | 1025年12月25日 |
 | コンスタンティノス8世 Κωνσταντίνος Η' | 960年? | 1025年12月25日 –1028年11月15日 | ロマノス2世とテオファノの次男。長く共同皇帝の座にあったが、兄が子供を残さずに死去したため正帝に即位。 | 1028年11月15日 |
 | ロマノス3世アルギュロス Ρωμανός Γ' ο Αργυρός | 968年 | 1028年11月15日 –1034年4月11日 | 名門文官貴族の元老院議員・首都長官。コンスタンティノス8世の次女のゾエと強引に結婚させられ後継者となる。コンスタンティノス8世の死後、皇帝に即位した。 | 1034年4月11日 |
 | ゾエ Ζωή | 978年 | 1028年11月15日 –1050年 (女帝・共同統治者) | コンスタンティノス8世の次女。ミカエル5世の追放後、妹のテオドラと共に女帝として即位。 | 1050年6月 |
 | ミカエル4世“パフラゴニオス” (パフラゴニア人) Μιχαήλ Δ' ο Παφλαγών | 1010年 | 1034年4月11日 –1041年12月10日 | パフラゴニア地方出身の農民の子、あるいは両替商の息子。皇后ゾエの愛人となりロマノス3世が入浴中に不慮の死(一説には不仲であったゾエの刺客による暗殺)を遂げた後、ゾエはミカエルと結婚し、彼を皇帝として新たに即位させた。 | 1041年12月10日 |
 | ミカエル5世“カラファテス” (繋ぎ・隙間の詰物) Μιχαήλ Ε' ο Καλαφάτης | 1015年 | 1041年12月10日 –1042年4月 | ミカエル4世の甥(従兄弟とも言われている)。ミカエル4世が病死した後、宦官ヨハネス・オルファノトロフォス(ミカエル4世の弟)によって皇帝として擁立された。 | 1042年8月24日 |
 | テオドラ Θεοδώρα | 995年 | 1042年4月 – 1042年6月 | コンスタンティノス8世の三女。ミカエル5世の追放後、姉のゾエと共に女帝として即位したが、わずか2ヵ月後に退位した。 | 1056年9月初頭 |
 | コンスタンティノス9世モノマコス Κωνσταντίνος Θ' ο Μονομάχος | 1000年 | 1042年6月 - 1055年1月11日 | ロマノス3世アルギュロスの縁戚。ゾエが元老院議員であったコンスタンティノス・モノマコスと結婚し、彼を皇帝として即位させた。 | 1055年1月11日 |
 | テオドラ (復位) Θεοδώρα | 995年 | 1055年1月11日 - 1056年9月初頭 | コンスタンティノス9世モノマコスが病死した後、女帝として再び即位した。 | 1056年9月初頭 |
 | ミカエル6世ストラティオティコス Μιχαήλ ΣΤ' ο Στρατιωτικός | ? | 1056年 -1057年 | テオドラの養子。テオドラに嗣子がなかったため、その遺言によって、元老院議員であったミカエルが皇帝として即位した。 | 1059年 |
 | イサキオス1世コムネノス Ισαάκιος Α' Κομνηνός | 1005年? | 1057年 –1059年 | パフラゴニアに多くの所領を持つ軍事貴族コムネノス家の出身。ミカエル6世ストラティオティコスの文治政治に対し反乱を起こし、軍を率いて首都コンスタンティノポリスに進軍し、ミカエル6世を退位させて、自らが皇帝となった。 | 1061年 |